日本の戦国時代を語る上で、斎藤道三による美濃国盗りは下剋上の象徴として広く知られている。その物語の中で、主家である土岐氏はしばしば無力な存在として描かれ、その居城であった川手城は、道三が拠点とした稲葉山城(後の岐阜城)の影に隠れ、歴史の表舞台から姿を消した。しかし、この川手城こそ、室町時代から戦国時代初期にかけて約200年もの間、美濃国の政治・経済・文化の中心として栄華を極めた守護の都であった。
本報告書は、単なる城郭の解説にとどまらず、川手城の創建から廃城、そして現代におけるその痕跡に至るまでの全史を徹底的に掘り下げるものである。その目的は、川手城の興亡史を、室町幕府の権威に支えられた「守護」の時代から、実力のみが支配する「戦国」の時代へと移行する、日本史の巨大な転換点を映し出す鏡として捉え直すことにある。川手城が当初、統治と文化のために設計され、やがて内乱によって破壊され、最終的にはより軍事的な要塞にその地位を譲って放棄された過程は、15世紀から16世紀にかけて日本の権力と戦争の性質がいかに劇的に変化したかを完璧に物語っている。
川手城の物語を追うことは、斎藤道三や織田信長といった勝者の歴史の裏で失われた、土岐氏という名門守護大名の権勢と文化の記憶をたどる旅でもある。その栄光と悲劇の中にこそ、戦国という時代の本質が凝縮されているのである。
なお、本報告書で扱う「川手城」は、美濃国(現在の岐阜県岐阜市)に存在した土岐氏の居城であり、三河国(愛知県豊田市)に存在する同名の山城とは全く異なるものであることを冒頭で明確にしておく 1 。
年代(西暦/和暦) |
関連人物(土岐氏/斎藤氏他) |
川手城及び美濃国における主要な出来事 |
1353年(文和2年) |
土岐頼康 |
長森城に代わる拠点として川手城を築城。美濃・尾張・伊勢三国の府城とする。 |
1467年-(応仁元年-) |
土岐成頼 |
応仁の乱。都から公家らが移住し、川手は「東の京」として文化的繁栄期を迎える。 |
1494年-(明応3年-) |
土岐成頼、政房、元頼 / 斎藤妙純、石丸利光 |
守護家の後継者争いである船田合戦が勃発。川手城と城下町が焼失する。 |
1517年-(永正14年-) |
土岐政房、頼武、頼芸 / 長井長弘 |
土岐頼武・頼芸兄弟の対立が激化。斎藤氏庶流の長井氏が台頭する。 |
1527年頃(大永7年頃) |
土岐頼武(頼純の父)、頼芸 / 斎藤道三 |
道三の支援を受けた頼芸が、兄・頼武を追放し川手城主となる。 |
1530年-1542年頃 |
土岐頼芸 / 斎藤道三 |
道三が本拠を稲葉山城へ移し、川手城は廃城となる。その後、道三は主君・頼芸をも美濃から追放し、下剋上を完成させる。 |
1570年代頃 |
織田信長 |
信長が岐阜城下町を整備。川手の町は相対的に衰退し、その機能を岐阜へ吸収される。 |
1601年-(慶長6年-) |
徳川家康 |
加納城築城の際、川手城の土塁などが資材として転用され、地上遺構がほぼ消滅する。 |
川手城の歴史は、南北朝時代の1353年(文和2年)、美濃源氏土岐氏の第3代守護・土岐頼康によって築かれたことに始まる 3 。この築城は、単なる居城の移転ではなく、土岐氏がその権勢の絶頂期において、壮大な政治的構想のもとに行った戦略的事業であった。
当時の頼康は、足利尊氏に従って信濃や伊予の平定に功を挙げ、美濃一国にとどまらず、尾張、伊勢の守護職をも兼ねる「三国守護」として、東海地方に絶大な影響力を誇っていた 4 。従来の拠点であった長森城は、この広大な領国を統治するには手狭であり、機能的にも不十分であった 5 。そこで頼康が新たな本拠地として選んだのが、川手の地である。
その立地選定は、極めて戦略的であった。城の西側には京と東国を結ぶ大動脈である東山道が走り、東側には当時、尾張との国境をなしていた古木曽川(現在の境川)が流れていた 5 。これは、陸路と水運の双方を掌握する要衝であり、美濃と尾張を直接的に結びつけ、さらに古木曽川の水運を利用して河口の伊勢国桑名に至ることで、三国支配を円滑に行うための最適な場所であった 5 。この城は「革手城」とも記され、時に「革手府」と呼ばれたことからも、単なる軍事拠点ではなく、三国を統べる広域行政の府(政庁)としての役割が期待されていたことがうかがえる 4 。
川手城の最大の特徴は、その構造と性格が、後の戦国時代に主流となる軍事要塞とは一線を画していた点にある。文献によれば、川手城は「城郭というより御殿風(都風)の建物」であったと推察され、防御一辺倒の砦ではなく、統治と居住、そして文化の中心地としての性格を色濃く持っていた 4 。
城域は広大で、その敷地内には七堂伽藍を誇る霊薬山正法寺や、土岐氏の守護神である八幡神社をはじめとする多くの神社仏閣が建立されていた 4 。これは、武家の権威が神仏の権威と密接に結びついていた中世社会において、領国支配の正当性を示すための重要な装置であった。城の構造は、旧木曽川と荒田川を巧みに利用した自然の要害ではあったものの、その本質は「戦う城でなく、住居としての城」であった 5 。
この設計思想は、14世紀半ばという時代背景を色濃く反映している。当時の守護大名の権力は、足利幕府からの任命という公的な権威に大きく依存しており、その威光を示すためには、軍事力だけでなく、統治能力、経済力、そして文化的な洗練度が不可欠であった。したがって、川手城は、幕府の権威を背景に持つ安定した地方支配者としての威信と正統性を内外に誇示するために築かれたのである。それは、秩序と安定を象徴する建造物であった。
しかし、この統治と文化を優先した「開かれた」城の構造は、皮肉にも、権威が失われ実力主義が横行する戦国時代において、致命的な脆弱性となる。安定した時代を前提として設計されたその構造は、後の裏切りや攻城戦が常態化する時代には全く不向きだったのである。
川手城がその歴史上、最も華やかな輝きを放ったのは、15世紀後半のことである。1467年(応仁元年)に京都で勃発した応仁の乱は、10年以上にわたって都を焦土と化し、日本の政治・社会構造を根底から揺るがした 5 。この大乱を逃れ、地方の安寧を求めて、多くの公家、僧侶、文化人たちが都を離れた。彼らが目指した避難先の一つが、当時、安定した支配を維持していた有力守護大名の領国であり、美濃の土岐氏もその筆頭であった 9 。
時の美濃守護・土岐成頼は、これらの文化人たちを温かく迎え入れた。その結果、川手の城下町には都の最新の文化が直接移植されることになった。和歌や連歌の会が催され、茶の湯が嗜まれ、都風の洗練された生活様式が花開いたのである。川手は、単なる地方の政治都市から、中央の高度な文化が息づく先進的な文化都市へと変貌を遂げた 11 。
この時期の川手の繁栄ぶりは、遠く離れた地にも鳴り響いていた。当時、同じく京からの避難者を受け入れて文化的に隆盛を極めていた周防国の守護大名・大内氏の拠点である山口と並び称され、「西の山口、東の川手」と謳われるほどであった 3 。
この言葉は、土岐氏の権勢がいかに強大であったか、そしてその領国経営がいかに成功していたかを雄弁に物語っている。戦乱に明け暮れる他国を尻目に、美濃では平和と繁栄が保たれ、文化活動が活発に行われていた。この文化的権威は、土岐氏の支配を正当化し、その求心力を高める重要な要素であった。連歌師の宗祇のような一流の文化人が美濃を訪れ、土岐氏の家臣団とも交流した記録は、川手が名実ともに関東・東海地方における文化の一大中心地であったことを示している 12 。この文化的爛熟期こそ、川手城がその存在意義を最も発揮した頂点であったと言えよう。
栄華を極めた川手城と土岐氏であったが、その繁栄の裏では、権力構造を蝕む亀裂が静かに進行していた。応仁の乱が終結して間もない15世紀末、土岐氏の内部で守護職の継承を巡る深刻な対立が勃発する。これが、土岐氏の権威を決定的に失墜させ、下剋上の時代を招き寄せる「船田合戦」である 14 。
発端は、守護・土岐成頼が嫡男の政房ではなく、末子の元頼を溺愛し、家督を譲ろうとしたことにあった 15 。この成頼の意向に、守護代・斎藤妙純(斎藤利国)と対立し、自らの勢力拡大を狙う小守護代・石丸利光が同調した。妙純が政房を支持したのに対し、利光は元頼を擁立し、土岐氏の家臣団は二派に分裂して激しく争った 17 。
この内訌は、単なる一族内の揉め事では済まなかった。美濃一国を巻き込む内乱へと発展し、隣国の尾張の織田氏や近江の六角氏までもが介入する広域的な争乱となった 15 。主君であるはずの守護・土岐成頼は、自らが引き起こした争いを収拾する能力を失い、家臣である斎藤氏や石丸氏が実質的な戦争の主役となる。これは、守護の権威が名目化し、家臣が実権を掌握しつつある時代の変化を象徴する出来事であった。
1494年(明応3年)、両派の対立はついに武力衝突へと至り、その戦火は守護の都・川手を飲み込んだ。戦いの過程で、土岐氏140年の栄光の象徴であった川手城とその壮麗な城下町は火を放たれ、灰燼に帰したのである 3 。伝承によれば、その炎は三日三晩燃え続けたとされ、かつて「東の京」と謳われた文化都市は、一瞬にしてその輝きを失った 3 。
この川手城の焼失は、物理的な損失以上に、土岐氏の権威にとって致命的な打撃であった。自らの内紛によって、先祖代々の本拠地であり、文化的威信の源泉であった都を焼き払ってしまったという事実は、土岐氏の統治能力の欠如を天下に晒すことに他ならなかった。この事件は、守護の権威がいかに脆いものであるか、そして家臣たちの野心がそれをいかに容易に破壊しうるかを白日の下に示した。
戦乱の後、川手城と城下町は再建されたものの 3 、かつての絶対的な権威が回復することは二度となかった。船田合戦によって生じた権力の空白と権威の失墜は、より狡猾で、より野心的な人物が台頭するための肥沃な土壌を準備した。斎藤氏の系譜から現れる「美濃の蝮」、斎藤道三の登場は、もはや時間の問題であった。
船田合戦によって動揺した土岐氏の権威は、次世代においてさらなる内紛によって決定的に崩壊する。土岐政房の子である兄・頼武(史料によっては政頼とも)と弟・頼芸の間で、再び家督を巡る争いが勃発したのである 16 。この兄弟の対立に巧みに介入し、自らの権力基盤を築き上げたのが、当時、土岐氏の家臣・長井長弘に仕えていた斎藤道三(当時は長井規秀)であった。
道三は弟の頼芸を支持し、その知謀と実行力をもって頼芸派の中心人物として頭角を現した 19 。1527年(大永7年)頃、道三の画策により、頼芸は兄・頼武を越前へ追放することに成功し、名目上の美濃守護として川手城主の座に就いた 20 。しかし、これは道三による周到な計画の一部に過ぎなかった。頼芸を傀儡の主に立てることで、道三自身が美濃国における実権を掌握したのである。彼は頼芸を擁立した功臣として振る舞いながら、邪魔な上司であった長井長弘を殺害し、長井氏の名跡を乗っ取った 19 。道三は忠誠を装いながら、着実に主家を内部から侵食していった。
自らの権力基盤を固めた道三は、ついにその牙を主君・土岐頼芸に向ける。天文年間に入ると、頼芸は川手城から枝広館などへ居を移すが 20 、それはすでに道三の圧力から逃れるための動きであった可能性が高い。そして1542年(天文11年)、道三は頼芸の居城であった大桑城を攻撃し、ついに主君を美濃から追放した 19 。頼芸は尾張の織田信秀を頼って亡命し、ここに斎藤道三による美濃国盗り、すなわち下剋上が完成したのである 23 。
追放された頼芸は、甥の頼純(頼武の子)や朝倉氏、織田氏の支援を得て美濃奪還を試みるが、道三の軍事力と政治力の前にことごとく失敗に終わる 19 。最終的に道三は、宿敵であった織田信秀と和睦し、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・信長に嫁がせるという外交戦略によって、頼芸の最後の望みを断ち切った 19 。後ろ盾を完全に失った頼芸は、二度と美濃の地を踏むことはできなかった。川手城を巡る土岐氏の歴史は、家臣の裏切りという最も悲劇的な形で幕を閉じたのである。
美濃国の実質的な支配者となった斎藤道三は、土岐氏の旧都である川手城を本拠地としなかった。彼は拠点を、金華山にそびえる険峻な稲葉山城へと移したのである 21 。これに伴い、約200年の歴史を誇った川手城は、享禄3年(1530年)から天文11年(1542年)頃の間に廃城となった 5 。この拠点移動は、単なる引っ越しではなく、時代の変化を象徴する極めて重要な戦略的決断であった。
第一章で述べたように、川手城は平地に築かれた「平城」(ひらじろ)であり、統治と文化を主眼とした、いわば平時の城であった。それに対し、稲葉山城は天然の要害である山を利用した典型的な「山城」(やまじろ)であり、その機能は防御と軍事支配に特化していた 27 。
道三は、武力によって国を奪った以上、その支配もまた武力によって維持しなければならないことを熟知していた。彼の権力は幕府の権威ではなく、純粋な軍事力に基づいていた。そのため、土岐氏が築いた権威の象徴である川手城よりも、敵の攻撃を寄せ付けない堅固な要塞である稲葉山城を必要としたのである。これは、戦国時代の城郭が、政治の中心地から軍事基地へとその性格を変えていった大きな流れとも合致する 28 。
道三が川手城を放棄し、稲葉山城を選んだ行為は、室町時代的な権威のあり方を否定し、実力本位の戦国時代という新たな現実を全面的に受け入れるという宣言に他ならなかった。川手城の廃城は、美濃における古い秩序の完全な死を意味していたのである。
斎藤道三によって廃城とされた後も、城下町としての川手は、しばらくの間、道三の保護のもとで繁栄を保っていた 5 。当時の来日宣教師がその賑わいを記録していることからも、商業都市としての活気が維持されていたことがわかる 5 。しかし、その命運も長くは続かなかった。
道三の後、美濃を征服した織田信長は、稲葉山城を「岐阜城」と改称し、その麓に大規模な城下町を新たに建設した 22 。楽市楽座などの革新的な政策によって、商業の中心は急速に岐阜へと移り、川手の町は相対的に衰退していった。町の機能が、信長の新しい都市計画に吸収されてしまったのである 22 。
そして、川手城の物理的な痕跡に最後のとどめを刺したのは、天下人となった徳川家康であった。関ヶ原の戦いの後、家康は美濃支配の拠点として、川手城跡のすぐ近くに加納城の築城を命じた 22 。この天下普請の際、廃城となって久しい川手城に残されていた土塁の土や石材は、加納城を築くための格好の資材として、組織的に運び去られてしまった 5 。
この一連の過程は、日本の歴史を動かした三人の天下人によって、川手城が段階的に消去されていったことを示している。斎藤道三がその政治的・軍事的価値を無効にし、織田信長がその経済的・人口的価値を奪い、そして徳川家康がその物理的存在を抹消した。川手城の完全な消滅は、単なる時の流れによる風化ではない。新しい時代の支配者たちが、古い時代の象徴を意図的に上書きしていった、政治的な行為の結果なのである。
今日、岐阜市正法寺町にある私立済美高等学校の敷地内には、「川手城址」と刻まれた石碑と案内板が設置されており、ここが土岐氏の栄華の舞台であったことを静かに伝えている 3 。しかし、近年の学術研究は、この一般的な認識に大きな疑問を投げかけている。
複数の研究報告や文献調査によれば、済美高等学校の敷地は、川手城そのものではなく、城内にあったとされる大寺院「正法寺」の跡地である可能性が極めて高いと指摘されている 26 。そして、川手城の中枢部(本丸など)は、石碑のある場所から南へ数百メートル離れた、西川手や東川手といった小字名が残る現在の住宅地や田畑の中に存在したと推定されているのである 26 。
現在の石碑は、詳細な学術調査が行われる以前の昭和28年(1953年)に、旧厚見村によって史跡として指定されたものであり、その後の研究によって場所の誤りが指摘された経緯がある 33 。しかし、推定地は市街地化が進んでおり、大規模な発掘調査は行われていないため、城の正確な位置や規模はいまだ確定していない 26 。
この所在地の論争は、歴史の記憶そのものを象徴しているかのようである。勝者である道三や信長の岐阜城では、近年も発掘調査が進み、石垣や庭園の遺構が発見されるなど、その姿が次々と明らかにされている 35 。一方で、敗者である土岐氏の川手城は、その正確な場所すら特定されず、静かな住宅地の下に眠り続けている。一般に信じられている場所は、おそらく本来の場所ではなく、真の姿は未だ謎に包まれている。川手城の「失われた」という性質は、歴史がいかに勝者によって語られ、敗者の記憶が風景の中からさえ消え去っていくかを物語っている。
美濃国・川手城の興亡史は、単一の城郭の盛衰を語るにとどまらない。それは、室町幕府の権威が絶対であった時代から、下剋上の嵐が吹き荒れる戦国時代へと、日本社会が構造的な大変動を遂げた様を凝縮して映し出す、歴史の縮図である。
土岐頼康によって創建された当初、川手城は「府城」であり、武力よりも統治と文化を体現する装置であった。それは、幕府の任命という「権威」に基づいた、安定した秩序の象徴であった。応仁の乱を契機として「東の京」とまで呼ばれる文化の頂点を極めたことは、その理想が最も輝かしく結実した瞬間であった。
しかし、船田合戦という内紛の劫火は、その権威がいかに脆いものであるかを露呈させた。主家の内乱は、家臣たちの野心を解き放ち、権威に代わって「実力」が全てを決定する時代の到来を告げた。この混乱の中から生まれた斎藤道三は、まさにその新しい時代の申し子であった。彼が川手城を捨て、より軍事的な稲葉山城を選んだことは、統治の理念そのものが文化や正統性から、純粋な軍事力へと移行したことを明確に示している。
そして最終的に、信長による経済的無力化と、家康による物理的消去を経て、川手城は地上から完全にその姿を消した。それは、新しい時代を築いた者たちによる、古い時代の記憶の徹底的な上書きであった。
今日、その正確な場所さえ学術的な論争の的となっているという事実は、川手城の物語の結末を象徴している。勝者の城が手厚く調査・保存される一方で、敗者の都は静かに埋もれ、忘れられ、時に誤って記憶される。済美高等学校の校庭に立つ石碑と、その下に眠るであろう真の城跡は、歴史とは、何が建てられたかだけでなく、何が捨てられ、壊され、そして忘れ去られたかによっても語られるべきものであるという、深遠な教訓を我々に示しているのである。