最終更新日 2025-08-24

帰雲城

飛騨の帰雲城は、鉱山経営で富を築いた内ヶ島氏の拠点。天正地震で一夜にして城と城下町が埋没し、一族も滅亡した「幻の城」として知られる。その悲劇は、生存者山下氏勝を通じて名古屋の都市計画に影響を与え、埋蔵金伝説と共に語り継がれる。

帰雲城と内ヶ島氏興亡史 ― 戦国史に埋没した富と悲劇の徹底分析

序章:天災に消えた戦国大名 ― 帰雲城と内ヶ島氏の謎

日本の戦国時代は、数多の武将たちが興亡を繰り返した激動の時代である。その終焉は、合戦での敗北、病、あるいは暗殺など、そのほとんどが人為的な要因によるものであった。しかし、その常識を覆す、唯一無二の終焉を迎えた一族が存在する。飛騨国白川郷を拠点とした内ヶ島氏である。天正13年(1586年)11月29日、彼らは戦国の世を巧みに生き抜き、豊臣秀吉による本領安堵という最大の勝利を得た直後、その祝宴を目前にして、突如発生した巨大地震によって居城・帰雲城、城下町、そして一族郎党もろとも、文字通り地上から姿を消した 1

これは、日本史上唯一、地震という自然災害によって滅亡した戦国大名として記録される、特異な歴史的事件である 3 。一夜にして歴史の表舞台から消え去り、その城跡すら未だ正確に特定されていないことから、「幻の城」「日本のポンペイ」とも称される帰雲城 2 。その悲劇的な結末は、多くの謎と伝説を後世に残した。

本報告書は、この帰雲城と城主・内ヶ島氏について、天災による滅亡という周知の事実にとどまらず、彼らの出自にまつわる錯綜した説、峻険な山岳地帯にあって強大な経済力を誇った富の源泉、武田信玄、上杉謙信、織田信長、そして豊臣秀吉といった天下の覇者たちと渡り合った政治的動向、そして「幻の城」の構造から、その悲劇的な最期に至る科学的背景、さらには後世に生まれた伝説と現代における探査活動まで、あらゆる角度から徹底的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。

第一章:内ヶ島氏の起源 ― 飛騨入部以前の足跡

第一節:錯綜する出自の諸説

中世飛騨の白川郷に覇を唱えた内ヶ島氏の出自は、複数の説が乱立し、今日においても明確な定説を見ていない 4 。その出自を解き明かすことは、彼らがどのような背景を持って白川郷に入り、その後の統治の正当性をいかにして確立しようとしたのかを探る上で極めて重要である。主要な説として、楠木氏説、猪俣氏説、西園寺氏説の三つが挙げられるが、それぞれ根拠と信憑性に大きな隔たりがある 5

楠木氏説 は、最も広く知られている説であり、南朝の英雄・楠木正成の一族、具体的には正成の弟・正季あるいは一族の正氏の後裔が、北朝との戦いに敗れた後、信濃国松代に逃れ、後に内ヶ島を名乗ったとするものである 4 。この説は、内ヶ島氏の家紋の一つが楠木氏ゆかりの「菊水」とされることなどから支持されてきた 4 。しかし、この説には看過できない歴史的矛盾が存在する。内ヶ島氏は、室町幕府8代将軍・足利義政に仕える「奉公衆」、すなわち将軍直属の親衛隊的な武士団の一員であった 1 。一方、楠木氏は、足利尊氏が開いた室町幕府と最後まで敵対した南朝方の中心人物である。その末裔が、敵方であったはずの足利将軍家の、しかも中枢に近い役職に就くというのは、極めて不自然である 7 。この矛盾は、戦国期の武家が自らの家系の権威付けのために、著名な武家の系図に繋げる「系図仮冒」を行った可能性を示唆している。あるいは、南朝の没落後、一族が生き残りをかけて敵であった幕府に仕官するという、現実的な政治判断があった可能性も否定できない。後者の場合、内ヶ島氏は単なる地方武士ではなく、中央政権との関係を再構築しようとする高度な政治感覚を持った一族であったと評価することもできよう。

猪俣氏説 は、武蔵七党の一つである猪俣党の末裔とする説である 4 。これは、一部の系図に見られるもので、楠木氏説のような劇的な物語性はないものの、地方の武士団が中央の幕府に出仕し、新たな任地に赴くという流れは、中世武家の動向としてごく自然なものである。

西園寺氏説 は、公家である西園寺家を祖とするものだが、その根拠は薄弱であり、研究上、有力とは見なされていない 5

これらの諸説を比較検討すると、内ヶ島氏の出自が謎に包まれていること自体が、彼らの出自の曖昧さを示している。彼らは、白川郷という新たな土地で支配を確立する過程で、自らの権威を高めるために、最も名高い楠木氏の系譜を積極的に利用したのかもしれない。

説の名称

主張される祖先

根拠とされる史料や伝承

研究上の評価・矛盾点

楠木氏説

楠木正成の一族(正季、正氏など)

家紋(菊水)、一部の系図、伝承 4

南朝の忠臣の末裔が、敵対する北朝(足利幕府)の将軍直属の奉公衆となる点に大きな矛盾がある 7 。権威付けのための仮冒の可能性が高い。

猪俣氏説

武蔵七党・猪俣氏

一部の系図 4

楠木氏説ほどの矛盾はなく、地方武士団の動向として蓋然性は認められるが、決定的な史料に欠ける。

西園寺氏説

公家・西園寺家

一部の系図 5

根拠が薄弱であり、信憑性は低いとされる。

第二節:室町幕府奉公衆としての内ヶ島氏と飛騨入部の背景

内ヶ島氏が歴史の表舞台に明確に登場するのは、初代当主とされる内ヶ島為氏の時代である。為氏は、室町幕府8代将軍・足利義政の命を受け、寛正年間(1460年~1466年頃)に信濃国松代から飛騨国白川郷に入部したとされる 1 。この入部には、極めて明確な経済的、政治的背景が存在した。

当時の室町幕府、特に足利義政の治世は、応仁の乱(1467年~1477年)に象徴されるように戦乱が続き、幕府の権威は失墜し、財政は極度に逼迫していた。その一方で、義政は銀閣寺の建立に代表される東山文化のパトロンとして、莫大な資金を文化事業に投じていた 5 。この財政的窮乏を打開するため、幕府が着目したのが、古くから金・銀・銅などの鉱物資源が豊富であると知られていた飛騨地方であった 4

この文脈において、内ヶ島為氏の白川郷入部は、単なる地方統治官の派遣というよりも、幕府の財源を確保するための「資源開発エージェント」としての性格が強かったと考えられる。為氏が集めた富が、義政の茶道具収集や銀閣寺建立の財政基盤になったとする説 5 は、この見方を強力に裏付けている。つまり、内ヶ島氏の白川郷統治は、その黎明期から「鉱山経営」という経済的使命と不可分であり、その後の約120年間にわたる彼らの歴史は、すべてこの経済的基盤の上に築かれていくことになるのである。

第三節:白川郷の平定と宗教勢力との角逐

幕府の命を受けて白川郷に入部した為氏であったが、その統治は当初から困難を極めた。当時の白川郷には、親鸞の弟子・嘉念坊善俊によって布教されて以来、浄土真宗の信仰が深く根付いており、その門徒たちは強固な結束を誇っていた 10 。外部から来た支配者である内ヶ島氏に対し、門徒たちは年貢の上納を拒否するなど、激しく抵抗した 11

為氏はまず、白川郷の南の玄関口にあたる牧戸に「向牧戸城」を築いて拠点とし、武力による平定を進めた 4 。その後、本拠地となる「帰雲城」を保木脇に築城 8 。そして、現地の浄土真宗勢力の中心であった照蓮寺(当時の名称は常蓮寺)と全面的な武力衝突に至る 11 。長享2年(1488年)の戦いでは、還俗して三島将監を名乗った教信とその弟・明教を打ち破り、明教を敗死させるなど、激しい戦闘の末に地域の支配権を確立した 11

しかし、内ヶ島氏は武力一辺倒の支配に固執しなかった。地域の安定的な統治と経済活動の円滑化のためには、地域社会に絶大な影響力を持つ宗教勢力との融和が不可欠であると判断したのである。本願寺9世宗主・蓮如の仲介もあり、内ヶ島氏は照蓮寺と和解 11 。この転換は、二代当主・雅氏の時代にさらに深化する。熱心な一向宗徒でもあった雅氏は、照蓮寺と融和政策をとり 5 、永正年間には越後の長尾為景(上杉謙信の父)が越中の一向一揆を攻撃した際、本願寺からの要請に応じ、弟の兵衛大夫を大将とする軍勢を派遣している 5

さらに、この協力関係は経済的な利益にも結びついた。当時、越前の朝倉氏が加賀への通路を封鎖したため、北陸の門徒たちは京都の本願寺との往来に窮していた。この状況に対し、本願寺は内ヶ島雅氏に協力を要請し、白川郷を通過する「北国通路」の安全を確保した 4 。この通路は、後の時代まで物資流通の重要な街道として機能し、内ヶ島氏に通行税などの経済的恩恵をもたらしたと考えられる。

このように、内ヶ島氏の白川郷支配は、初期の武力による直接支配から、地域の巨大宗教勢力との共存共栄体制へと巧みに移行していった。これは、単独の武力支配の限界を認識し、地域の安定と経済的利益を優先した、極めて高度な政治判断の結果であり、彼らが単なる山間の小領主ではなかったことを示している。

第二章:富の源泉 ― 白川郷の鉱山経営と経済力

第一節:「戦国の切り札」としての金・銀山

内ヶ島氏が約120年間にわたり、峻険な山々に囲まれた白川郷という地で独立を保ち、時には周辺の大国と渡り合うことができた最大の要因は、その圧倒的な経済力にあった。彼らの領地は、米作などの農業生産には不向きな土地であったが、その地下には莫大な富が眠っていた 10 。『神岡鉱山史』などの記録によれば、白川郷周辺には内ヶ島氏が経営していたとされる6つの金山と1つの銀山が存在したという 9

この豊富な鉱物資源こそが、武田信玄や上杉謙信、そして織田信長といった強大な戦国大名が割拠する中で、内ヶ島氏が生き残るための「切り札」であった 14 。彼らは産出される金銀を元手に、兵を雇い、城を改修し、最新の武器を調達することができた。その富は、石山本願寺への多額の資金援助という形でも示されており、彼らが全国的な影響力を持つ勢力と対等に近い関係を築く基盤となっていた 9

この経済力は、軍事的な意味合いだけでなく、地政学的な意味合いも持っていた。周辺の大名たちにとって、内ヶ島氏の領地は、直接攻め滅ぼして支配下に置くには多大なコストとリスクが伴う山岳地帯であった。それよりも、彼らの独立をある程度認め、友好関係を結ぶことで、金や銀、後述する硝石といった戦略物資を安定的に供給させる方が、はるかに有益であった。事実、内ヶ島氏は上杉謙信や飛騨国司・姉小路頼綱の侵攻を幾度となく撃退しているが 5 、これは地形的利点に加え、豊富な資金力があったからこそ可能であった。

織田信長が内ヶ島氏を敵対視せず、むしろ味方に引き入れようとした動き 9 も、彼らの経済力を高く評価していた証左である。信長は、内ヶ島氏が持つ金銀の供給源としての価値を、その軍事力以上に重視していたと考えられる。このように、内ヶ島氏の領地は、その経済的価値によって一種の「地政学的緩衝地帯」として機能し、大国間のパワーバランスの中に巧みに立ち位置を築くことを可能にしていたのである。

第二節:硝石生産と軍事技術

内ヶ島氏の経済的・軍事的価値をさらに高めていたのが、火薬の原料である焔硝(えんしょう)、すなわち硝石の生産である。白川郷や隣接する越中五箇山は、戦国時代における国内有数の硝石産地であった 12 。この地域特有の合掌造りの家屋では、その広い床下空間を利用して、草や蚕の糞、人尿などを原料とする硝石の生産が大規模に行われていた 18

戦国時代は、鉄砲の登場によって戦術が劇的に変化した時代である。鉄砲を効果的に運用するためには、火薬が不可欠であり、その主成分である硝石は、現代における石油にも匹敵する極めて重要な戦略物資であった。国内での生産量が限られていたため、多くを南蛮貿易による輸入に頼っていた当時、安定した国内供給源を確保することは、各大名にとって死活問題であった。

白川郷がその一大生産地であったという事実は、内ヶ島氏がこの戦略物資の供給をコントロールし得た可能性を示唆している。彼らは単に金銀を産出する豊かな領主であっただけでなく、最新兵器のサプライチェーンの根幹を握る存在でもあった。特に、鉄砲を戦の主力として活用し、天下統一を進めた織田信長のような大名にとって、硝石の安定供給源を確保することは最優先課題の一つであったはずだ。内ヶ島氏が持つこの価値が、彼らとの交渉において強力なカードとなり、その独立性を担保する一因となっていたことは想像に難くない。

第三章:動乱の時代を生きる ― 戦国大名との攻防

第一節:織田信長の天下布武と佐々成政への従属

内ヶ島氏を取り巻く政治情勢は、戦国時代の進展とともに大きく変化する。当初は本願寺勢力との連携を軸に、越後の上杉氏とも一定の関係を保っていたが、天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると、北陸地方のパワーバランスは大きく変動した 4 。これに前後して、天下布武を掲げる織田信長の勢力が飛騨にも及ぶようになると、内ヶ島氏はその去就について大きな決断を迫られた 4

結果として、内ヶ島氏理は織田氏に属することを決断する。これは、同じく信長に従属した飛騨の三木(姉小路)自綱の動向とも一致するものであった 4 。具体的には、信長の重臣で、越中方面の司令官であった佐々成政の配下に入ることとなった 4 。成政の指揮下に入った氏理は、織田軍の一員として越中各地を転戦し、天正10年(1582年)の上杉軍との魚津城の戦いにも参陣し、その陥落に貢献している 4 。この時期、氏理は越中への出陣に明け暮れ、本拠地である白川郷を留守にすることも多かったという 4

第二節:本能寺の変後の激動と豊臣秀吉の飛騨侵攻

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で横死すると、戦国の世は再び激動の時代に突入する。信長の後継者の座を巡って羽柴(豊臣)秀吉が台頭する中、内ヶ島氏理が属していた佐々成政は、秀吉と敵対する道を選ぶ。

天正13年(1585年)、秀吉は成政を討伐するため、自ら大軍を率いて越中に侵攻する(富山の役)。この時、氏理は成政との同盟関係に基づき、兵を率いて越中に出陣していた 1 。しかし、秀吉の圧倒的な軍事力の前に成政は早々に降伏。これと並行して、秀吉の命を受けた配下の金森長近が、大軍を率いて飛騨国に侵攻を開始した 1

氏理が越中に出陣中で本国が手薄になっている隙を突かれ、内ヶ島氏の家臣団の一部が金森軍に内応 1 。帰雲城の有力な支城であった向牧戸城などが金森軍の手に落ち、本拠地である帰雲城も占拠されてしまう 5 。急報を受けて帰国した氏理であったが、時すでに遅く、飛騨の主要部は金森勢によって制圧されていた。

第三節:降伏と異例の所領安堵

万事休した氏理は、抵抗することなく金森長近を通じて秀吉に降伏した 17 。通常、秀吉に敵対した大名は、改易(領地没収)や大幅な減封、あるいは一族の処刑といった厳しい処分を受けるのが通例であった。しかし、内ヶ島氏に対する秀吉の処遇は、驚くほど寛大なものであった。所領をわずかに削られたものの、帰雲城を中心とする白川郷の本領は安堵され、内ヶ島氏の存続が許されたのである 4

この異例とも言える措置の背景には、豊臣秀吉の徹底した経済合理主義があった。秀吉が真に欲していたのは、飛騨の痩せた土地そのものではなく、そこから産出される莫大な金銀であった 14 。内ヶ島一族は、長年にわたって鉱山を経営し、高度な採掘・精錬技術を蓄積した専門家集団であった 4 。この特殊な技術は、一朝一夕に後継者を見つけられるものではない。秀吉は、天下統一後の国家財政の安定や、将来計画していた朝鮮出兵の軍資金確保のためにも、金の安定供給を最優先課題と考えていた。

内ヶ島氏を滅ぼして新たな代官を派遣した場合、鉱山の生産性が著しく低下するリスクがあった。それならば、降伏した彼らを生かし、いわば幕府直轄の鉱山管理者のような形で統治を続けさせた方が、政権にとって最大の利益になると判断したのである。この秀吉の冷徹なまでの経済的判断が、内ヶ島氏の運命を一時的に救うことになった。彼らは武力ではなく、その技術的価値によって自らの命脈を繋いだのであった。

第四章:「幻の城」の実像 ― 帰雲城と城下町の考察

第一節:飛騨の山城の構造的特徴から見る帰雲城

天正地震によって完全に埋没し、その姿を地上から消した帰雲城。その具体的な構造を示す絵図や詳細な記録は現存しない。しかし、同時代の飛騨地方に築かれた他の山城の構造的特徴から、その姿をある程度推測することは可能である。

金森長近が高山城などを築く以前の、戦国期の飛騨の山城は、石垣を多用しない「土づくりの城」が基本であった 24 。これらは、自然の地形を最大限に活用し、山の尾根や斜面を人工的に削り出して造成した平坦地である「曲輪(くるわ)」を連ね、その周囲を急峻な斜面「切岸(きりぎし)」で固め、尾根筋をV字状に断ち切る「堀切(ほりきり)」や、土を盛り上げた「土塁(どるい)」によって敵の侵攻を防ぐ構造を特徴とする 26 。天守閣のような高層建築物はなく、建物があったとしても板壁・板葺きの簡素なものであったと考えられる 24

これらの特徴から、帰雲城本体もまた、飛騨の伝統的な築城術に則った、防御機能を最優先する質実剛健な「土の要塞」であった可能性が高い。しかし、帰雲城が他の山城と一線を画していたのは、その麓に広がっていた城下町の規模である。記録によれば、城下には300軒以上の家々が軒を連ねていたとされ 5 、これは当時の山間の城下町としては相当な規模であった。

この事実は、帰雲城が単なる軍事拠点ではなかったことを示している。内ヶ島氏の権力基盤が鉱山経営にあったことを考えれば、この城下町には、鉱山で働く採掘師、鉱石を精錬する職人、金銀を加工する金細工師、そしてそれらの生産物や生活物資を輸送・販売する商人などが集住し、一大産業都市を形成していたと推定される。つまり、帰雲城は、山上の軍事要塞と、麓の経済都市が一体となった複合的な都市構造を持っていたと考えられる。城と城下町が密接に連携し、内ヶ島氏の富と権力を支える心臓部として機能していたのであろう。

第二節:埋没地の謎 ― 所在地を巡る論争と現代の探査

帰雲城の悲劇性を際立たせているのが、その正確な位置が今日に至るまで特定されていないという事実である 2 。大規模な山体崩壊によって地形が完全に変貌してしまったため、文献に残る地名と現在の地形を照合することが極めて困難となっている。

現在、城があったとされるのは岐阜県大野郡白川村の保木脇(ほきわき)地区であり、現地には「帰雲城趾」の石碑が建てられている 27 。しかし、これはあくまで伝承地の一つであり、学術的に確定されたものではない。城の具体的な所在地を巡っては、地域を流れる庄川の東岸にあったとする説と、西岸にあったとする説が古くから対立している 2

この「幻の城」の謎を解き明かすため、近年、地元の研究者らで組織される「白川郷埋没帰雲城調査会」や、テレビ愛知などのメディアが中心となり、精力的な調査が進められている 30 。これらの調査は、もはや古文書や古地図を読み解くといった伝統的な歴史学・文献学のアプローチだけにとどまらない。地質調査による崩壊前の地形の復元、レーダーなどを用いた物理探査による地下構造の可視化、GPS測量による戦国時代の地表面の推定、そして限定的ながらも掘削調査など、地質学、考古学、地理情報科学といった自然科学的な手法を駆使した、学際的なアプローチが取られている 9

その結果、いくつかの重要な進展が見られている。古地図の再解釈から、従来考えられていた場所とは異なる地点が有力候補として浮上し 15 、2021年には、一連の調査成果に基づき、特定のエリアが「帰雲川原城跡」として白川村の遺跡台帳に登録されるに至った 30 。また、掘削調査では、戦国時代に遡る可能性のある木片が発見されるなど 9 、真相解明に向けた確かな一歩が刻まれている。

帰雲城の探査は、歴史の謎を解くというロマンだけでなく、歴史学と自然科学の融合がいかに重要であるかを示す現代的な課題を象徴している。今後の調査の進展が、400年以上にわたって土砂の下に眠る悲劇の城の姿を、再び我々の前に現してくれることが期待される。

第五章:天正十三年十一月二十九日 ― 破局の刻

第一節:天正地震の全体像

天正13年11月29日(グレゴリオ暦1586年1月18日)の深夜、日本列島の中央部を、後に「天正地震」と呼ばれる巨大地震が襲った 5 。この地震は、単一の震源によるものではなく、複数の活断層が連動して活動した、極めて大規模な内陸地震であったと考えられている。

研究によれば、飛騨地方を走る御母衣断層、美濃から信濃にかけての阿寺断層、そして濃尾平野から伊勢湾に抜ける養老断層などが、同時、あるいはごく短い間隔で活動した可能性が指摘されている 33 。その規模はマグニチュード7.8から8.1と推定され 34 、これは明治24年(1891年)に発生し、甚大な被害をもたらした濃尾地震に匹敵するエネルギーであった 36

被害は広範囲に及び、震源域に近い飛騨、美濃、尾張、伊勢では家屋の倒壊や地割れ、液状化現象が発生。京都でも三十三間堂の仏像が倒れるなどの被害が記録され、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとの伝承も残っている 37 。この未曾有の巨大地震が、帰雲城と内ヶ島一族に破局をもたらす直接的な引き金となった。

第二節:帰雲山、崩壊す ― 山体崩壊のメカニズム

天正地震の強烈な揺れは、帰雲城の背後にそびえる帰雲山の山体に致命的なダメージを与えた。そして、大規模な山体崩壊を引き起こしたのである 2

地質学的な分析によれば、帰雲山の山体を構成する岩石は、庄川火山-深成複合岩体に属する比較的堅硬な火山岩類である 33 。しかし、その内部に白川花崗岩類が貫入しており、その接触部周辺では熱水変質作用によって岩盤が脆弱化(もろくなっていた)していた可能性が指摘されている 33 。普段であれば安定を保っていた山も、マグニチュード8クラスの巨大地震による激しい震動を受け、その限界を超えた。

結果として、帰雲山の西側斜面が大規模に崩壊。その崩壊土砂量は、約2,500万立方メートルと見積もられている 33 。これは、東京ドーム約20杯分に相当する膨大な量である。崩れ落ちた土砂は、時速数十キロメートルから百キロメートルを超える高速の「岩屑なだれ」となって、麓に向かって一気に流れ下った 33 。この不可避かつ圧倒的な破壊力を持つ土石流が、麓にあった帰雲城と300戸の城下町を、瞬く間に飲み込んでしまったのである。土石流はさらに庄川を堰き止め、巨大な天然ダムを形成。上流では大規模な湛水被害も引き起こした 5

第三節:祝宴から惨劇へ ― 一族郎党の最期

この天災がもたらした悲劇を、より一層深刻なものにしたのは、その発生のタイミングであった。まさにその日、帰雲城では、豊臣秀吉による所領安堵を祝うための盛大な祝宴が、翌日に開かれることになっていた 1

この祝宴のため、城主である内ヶ島氏理はもちろんのこと、一族郎党の主要な者たちが、ことごとく帰雲城に集結していた。さらには、祝宴を盛り上げるための能楽師なども城内に招かれていたという 5 。普段であれば領内の各支城や屋敷に分散していたであろう人々が、この時に限って、災害発生地点である城に集中していたのである。

深夜、人々が寝静まった頃、あるいは祝宴の前夜祭に興じていたかもしれないその時、破局は訪れた。巨大な轟音とともに山が崩れ、城と城下町は一瞬にして土砂の下に埋没した。城主・内ヶ島氏理をはじめ、その一族、家臣、そして城下町の住民たち、合わせて500人以上が、逃げる間もなく圧死したと伝えられている [User Query]。この悲劇から生きて逃れることができたのは、仏門に入っていた氏理の弟・経聞坊や、たまたま所用で城を離れていた家臣の山下氏勝など、ごくわずかな人々だけであった 5

ここに、歴史の恐るべき皮肉が存在する。もし内ヶ島氏が秀吉に徹底抗戦して敗れていれば、一族は離散し、各地で血脈を保ったかもしれない。しかし、彼らは卓越した政治感覚と、自らの経済的価値を武器に、「所領安堵」という最善の結果を勝ち取った。その輝かしい成功を祝うために一族が集結したことが、結果として一族のほぼ完全な絶滅という最悪の事態を招いたのである。彼らの成功そのものが、破滅の引き金となった。これは、人為の及ばない自然の力の前に、人間の知恵や戦略がいかに無力であるかを示す、痛烈な歴史的教訓と言えるだろう。

第六章:滅亡のその後 ― 伝説と探求

第一節:生存者たちの運命

内ヶ島氏という大名家は、天正地震によって一夜にして滅亡したが、その血を引く者や家臣の中には、難を逃れた者が数名存在した。彼らのその後の人生は、滅びた一族の記憶を背負いながら、新たな時代を生き抜くものであった。

最も重要な記録を残したのが、氏理の弟で仏門に入っていた経聞坊(きょうもんぼう)である。彼は城外にいたために助かり、この天正地震による白川郷の惨状を伝える貴重な記録『経聞坊文書』を残したとされている 5 。この文書の原本の所在は不明な点も多いが、帰雲城の悲劇を伝える一次史料として、その価値は計り知れない。

そして、もう一人、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた生存者がいる。内ヶ島氏の家臣であり、一族の血も引いていたとされる山下時慶・氏勝親子である 40 。特に息子の山下氏勝は、主家滅亡後、徳川家康に仕えることとなり、その才覚を発揮していく。氏勝は、家康の九男で後の尾張藩の藩祖となる徳川義直の傅役(もりやく、教育係)という重職に抜擢された 41

氏勝が歴史に残した最大の功績は、現在の名古屋市の礎を築いた「清洲越し」を進言したことである 41 。当時、尾張の中心地であった清洲は、庄内川沿いの低湿地帯にあり、度々水害に悩まされていた 43 。氏勝は、居城と城下町が一瞬にして土砂に埋まるという、地形的脆弱性が招いた未曾有の災害を身をもって経験した人物である。その彼が、水害リスクの高い清洲から、より堅固な熱田台地(名古屋台地)へと城と町全体を移転させることを家康に進言した背景には、帰雲城での悲劇的な経験が色濃く反映されていた可能性が極めて高い。

家康はこの進言を受け入れ、名古屋城の築城と、武士、町人、寺社に至るまで町ごと移転させる壮大な都市計画「清洲越し」を断行した。これにより、災害に強い近代都市・名古屋の原型が形成された。帰雲城の滅亡という一つの悲劇が、生存者である山下氏勝という人物を介して、遠く離れた地で新たな大都市を創造する教訓として昇華された。これは、歴史の因果の奥深さと、一つの出来事が後世に与える影響の大きさを物語る、非常に興味深い事例である。

第二節:埋蔵金伝説の誕生と変遷

帰雲城の悲劇は、後世の人々の想像力を掻き立て、壮大な「埋蔵金伝説」を生み出した。この伝説は、二つの歴史的事実を核としている。一つは、内ヶ島氏が鉱山経営によって莫大な富を蓄えていたという事実 46 。もう一つは、その富が蓄えられていたであろう城と城下町が、一瞬にして地中深くに埋没したという事実である 47

この二つの事実が結びつき、「帰雲城の地下には、内ヶ島氏が蓄えた数兆円規模の黄金が今も眠っている」という、ロマンあふれる物語が形成された 2 。伝説はさらに、「地震の夜、新たな金鉱脈の発見を祝う宴が開かれていた」 2 といった具体的なエピソードを伴って語られるようになった。

しかし、この埋蔵金伝説が現在知られるような形で広く流布したのは、必ずしも古くからの伝承によるものではない。研究によれば、この伝説が全国的に有名になったのは、1970年(昭和45年)頃、内ヶ島氏の末裔を称する人物がこの話を喧伝し、それを新聞などのメディアが大きく報じたことがきっかけであったと指摘されている 40

つまり、帰雲城の埋蔵金伝説は、史実を核としながらも、その具体的な物語や金額は、近代のメディアによって増幅され、大衆のロマンを掻き立てる形で「創造された」側面が強い。これは、歴史的事実が、後世の人々の願望や夢を投影するスクリーンとして機能する典型的な例と言える。専門的な歴史分析においては、この伝説を史実として扱うのではなく、「伝説がどのように形成され、社会に受容されていったか」という、文化史的、あるいは社会史的な現象として捉える視点が重要である。

内ヶ島氏関連年表

西暦(和暦)

内ヶ島氏の動向

中央(日本史)の動向

周辺(飛騨・越中・加賀)の動向

1462年頃(寛正3年頃)

内ヶ島為氏、足利義政の命で白川郷に入部。向牧戸城を築く。

寛正の飢饉。足利義政が幕政を主導。

飛騨では三木氏、江馬氏などが割拠。

1464年頃(寛正5年頃)

為氏、帰雲城を築城し移る 8

1467年(応仁元年)

応仁の乱が勃発(~1477年)。

1488年(長享2年)

為氏、照蓮寺(三島将監ら)と戦い勝利 11

加賀で一向一揆が守護・富樫政親を滅ぼす(百姓の持ちたる国)。

1521年(大永元年)

内ヶ島雅氏、本願寺の要請で越後の長尾為景軍と交戦 5

長尾為景が越中・加賀の一向一揆と抗争。

1573年(天正元年)

織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡。

1578年(天正6年)

上杉謙信が急死。

織田信長配下の柴田勝家が北陸方面に進出。

1582年(天正10年)

内ヶ島氏理、佐々成政配下として越中魚津城を攻撃 4

本能寺の変。織田信長が自刃。

1585年(天正13年)

氏理、佐々成政に与し、豊臣秀吉と敵対。金森長近の飛騨侵攻を受け降伏。本領安堵される 1

秀吉が関白に就任。富山の役で佐々成政を降す。

金森長近が飛騨を平定し、国主となる。

1586年1月18日(天正13年11月29日)

天正地震発生。帰雲山が山体崩壊し、帰雲城と城下町が埋没。内ヶ島氏理以下、一族が滅亡 5

終章:歴史における偶然と必然 ― 内ヶ島氏が残した教訓

内ヶ島氏約120年の興亡史は、歴史を動かす二つの力、すなわち人間の意志と戦略によって形作られる「必然」と、人知を超えた偶発的な事象である「偶然」との、劇的な交錯を見せてくれる。

彼らは、白川郷という土地が持つ鉱物資源という経済的「必然」を最大限に活用し、それをテコにして、戦国乱世という政治的「偶然」の荒波を巧みに乗り切ってきた。幕府の奉公衆として飛騨に入り、在地宗教勢力と対立から協調へと関係を転換させ、織田、豊臣という天下人に対しても、自らの経済的価値を武器に交渉し、その存続を勝ち取った。彼らの歴史は、明確な戦略と優れた政治感覚に裏打ちされた、必然の積み重ねであったと言える。

しかし、その全ての努力と成功は、天正13年11月29日の深夜、マグニチュード8クラスの巨大地震という「究極の偶然」によって、一瞬にして無に帰された。人間の予測と制御を完全に超えた自然の猛威は、彼らが築き上げた富も、権力も、そして一族の命さえも、容赦なく飲み込んだ。

内ヶ島氏の物語は、歴史が決して人間の意志や戦略だけで動くのではなく、人知の及ばない偶発的な事象によって、いとも簡単にその前提が覆されるものであるという、厳粛な事実を我々に突きつける。

だが、物語はそこで終わらない。その未曾有の悲劇の中から生き延びた家臣・山下氏勝が、主家を滅ぼした災害の教訓を胸に、遠く離れた尾張の地で、災害に強い新たな都市・名古屋の礎を築く一助となった 43 。これは、一つの悲劇が、時と場所を超えて未来への教訓として継承されるという、歴史の持つ複雑さと、絶えることのない連続性を示している。

土砂の下に眠る「幻の城」は、富の儚さと天災の恐ろしさを物語ると同時に、滅びの中からさえも新たな創造の種が生まれるという、歴史の深遠なダイナミズムを、今なお我々に語りかけているのである。

引用文献

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  16. 日本史人物考察 - 3人目 内ヶ島氏理(安土桃山) - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n1888dm/4/
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