関東管領山内上杉氏の本拠、平井城は永享の乱を機に築かれ、関東の政治・軍事・文化の中心として栄えた。しかし河越夜戦で権威を失い、北条氏康に落城。上杉謙信に奪還されるも、厩橋城へ拠点を移され廃城となる。現在は史跡公園として往時の姿を伝える。
上野国南部に位置する平井城は、日本の戦国時代を語る上で、単なる一地方の城郭として片付けることのできない、極めて重要な歴史的意義を担っています。その本質は、室町幕府が関東統治のために設置した「鎌倉府」の最高職位である関東管領、とりわけその宗家であった山内上杉氏の本拠地、すなわち「関東管領府」として機能した点にあります 1 。
平井城の歴史は、15世紀半ばの築城から16世紀後半の廃城に至るまでの約120年間に凝縮されています。この期間は、奇しくも京都の室町幕府の権威が揺らぎ、鎌倉公方と関東管領という旧来の権力構造が崩壊し、北条氏に代表される新たな戦国大名が実力で台頭してくる、関東地方の激動期と完全に重なります。
したがって、平井城の盛衰を追うことは、旧時代の権威の象徴が、いかにして戦国の荒波の中でその輝きを失い、新たな時代の論理によって淘汰されていったかを解き明かすことに他なりません。本報告書は、築城の背景、城郭の構造、政治的・軍事的役割、そして落城と廃城に至るまでの軌跡を多角的に分析し、平井城が関東戦国史において果たした役割とその歴史的価値を明らかにすることを目的とします。
平井城の誕生は、関東地方における深刻な政治的対立の中から必然的に生み出されたものでした。その背景には、室町幕府の統治システムそのものに内包された、鎌倉公方と関東管領の構造的な矛盾が存在しました。
室町幕府は、かつての幕府所在地であった鎌倉を重視し、関東10カ国を統括する出先機関として「鎌倉府」を設置しました 3 。その長官が鎌倉公方であり、将軍家の血を引く足利氏が世襲しました。一方、関東管領は鎌倉公方の補佐役であり、幕府から公方を監視するお目付け役という二重の役割を担い、上杉氏がこの職を世襲していました 3 。
この体制は、当初から緊張関係をはらんでいました。4代鎌倉公方・足利持氏は、6代将軍・足利義教が籤引きで選ばれたことに不満を抱き、幕府への対抗心を露わにします 3 。これに対し、関東管領・山内上杉憲実は幕府との協調を重視し、持氏を諫めようと試みますが、これが両者の決定的な対立を招きました。持氏は、幕府と通じる憲実を疎んじ、その命を狙うようになります 3 。この鎌倉府内部の権力闘争が、関東管領府が鎌倉を離れ、新たな拠点を求める直接的な引き金となったのです。
永享10年(1438年)、身の危険を察知した上杉憲実は、ついに本拠地であった鎌倉を脱出し、自らの分国である上野国へと退去しました 7 。通説によれば、この時に憲実は家臣であり上野国守護代であった総社長尾忠房に命じ、平井の地に新たな城を築かせたとされています 8 。これが平井城の始まりです。
この憲実の行動に対し、足利持氏は討伐軍を差し向けますが、幕府は憲実を支持し、逆に持氏を「朝敵」と断じます。こうして始まったのが「永享の乱」であり、平井城は、憲実が幕府軍と連携し、持氏を打倒するための拠点として、その歴史の幕開けから重要な役割を果たしました 7 。
平井城への本拠地移転は、単なる緊急避難以上の戦略的な意味合いを持っていました。それは、鎌倉公方との共有空間であり、政治的対立の最前線でもあった鎌倉から、山内上杉氏の絶対的な支配基盤である上野国へと、関東管領府の政治・軍事中枢を移す「戦略的東遷」と評価できます。平井周辺は鎌倉街道が通過する交通の要衝でもあり、武蔵方面への軍事展開にも有利な立地でした 9 。この決断は、鎌倉府システムの事実上の崩壊と、関東における権力構造の地理的な再編が始まったことを象徴する画期的な出来事でした。
永享の乱で足利持氏が自刃した後も、関東の混乱は収まりませんでした。持氏の遺児・成氏が5代鎌倉公方となると、父を死に追いやった上杉氏への復讐心から、享徳3年(1454年)に上杉憲実の子・憲忠を謀殺します。これに端を発する「享徳の乱」は、古河に本拠を移した成氏(古河公方)と上杉氏との間で、約30年にも及ぶ泥沼の戦乱となりました 3 。
この長期にわたる戦乱の中で、上杉方は武蔵国の五十子(いかっこ)に前線基地を築きつつ 14 、後方の恒久的な本城として平井城の重要性を一層高めていきました。特に、文正元年(1466年)に関東管領となった上杉顕定の時代には、城の大規模な拡張・改修が行われ、名実ともに関東管領府としての威容を整えたと考えられています 2 。こうして平井城は、山内上杉氏の関東支配の拠点として、その地位を不動のものとしたのです。
表1:平井城 歴代主要城主一覧
代 |
城主名 |
在城期間(目安) |
主要な出来事 |
初代 |
上杉 憲実(のりざね) |
永享10年(1438年)~ |
永享の乱の際に築城し、入城。 |
2代 |
上杉 憲忠(のりただ) |
- |
享徳の乱の緒戦で足利成氏に謀殺される。 |
3代 |
上杉 房顕(ふさあき) |
享徳3年(1454年)~文正元年(1466年) |
享徳の乱を戦い、平井城周辺の敵対勢力を一掃。 |
4代 |
上杉 顕定(あきさだ) |
文正元年(1466年)~永正7年(1510年) |
平井城を大改修し、関東管領府としての機能を確立。 |
5代 |
上杉 顕実(あきざね) |
永正7年(1510年)~永正12年(1515年) |
家督争いである永正の乱を戦う。 |
6代 |
上杉 憲房(のりふさ) |
永正12年(1515年)~大永5年(1525年) |
永正の乱に勝利し、関東管領となる。 |
7代 |
上杉 憲寛(のりひろ) |
大永5年(1525年)~享禄4年(1531年) |
憲房の養子として家督を継ぐが、後に憲政と対立。 |
8代 |
上杉 憲政(のりまさ) |
享禄4年(1531年)~天文21年(1552年) |
河越夜戦で北条氏康に大敗。平井城を追われ越後へ逃亡。 |
10
最盛期の平井城は、単なる軍事拠点に留まらず、関東の政治・経済・文化の中心地として、その名にふさわしい壮大な構えを誇っていました。その構造は、天然の地形を巧みに利用した防御思想と、都市機能を内包する先進的な設計が見て取れます。
平井城は、鏑川の支流である鮎川が長年の侵食によって形成した、比高約10mの河岸段丘の崖上に築かれています 3 。この断崖を東側の天然の要害とする「崖端城(がけはたじろ)」であり、川側からの攻撃を極めて困難にしていました 18 。
城の中心部は、本丸、二の丸、三の丸といった複数の曲輪で構成されています。平成7年(1995年)から行われた発掘調査により、本丸(主郭)は長径約94m、短径約70mの五角形をなし、周囲を堅固な土塁と幅約12m、深さ約3mにも及ぶ空堀(横堀)で厳重に囲まれていたことが判明しています 4 。
平井城の最大の特徴は、城郭本体だけでなく、西平井の村落までをも取り込んだ広大な「総構え」の存在です 3 。「庚申堀(こうしんぼり)」とも呼ばれるこの外郭ラインは、平井城が単なる領主の居館ではなく、家臣団や商工業者が居住する城下町全体を防衛する、一大軍事都市としての性格を持っていたことを示しています 21 。
また、発掘調査では二の丸の外側の堀に、堀底を格子状に区切る「障子堀」の遺構が確認されています 19 。障子堀は小田原北条氏が得意とした築城技術であることから、天文21年(1552年)の落城後、一時的に城主となった北条氏によって、防御力向上のために改修が加えられた可能性が指摘されています 19 。
平時の政庁・居館である平山城の平井城に対し、有事の際に最後の抵抗拠点となる「詰の城」として、背後の南西約1.2kmに位置する標高331mの山に平井金山城が築かれました 7 。この二つの城は一体となって、関東管領府の防衛体制を盤石なものとしていました。
平井金山城は、本格的な山城であり、その遺構は現在も良好な状態で残されています。発掘調査では、裏込めを持たない石積みや、尾根を分断する複数の深い堀切、複雑な構造を持つ虎口(城門)、そして籠城に不可欠な水を確保するための岩盤をくり抜いた井戸(貯水槽)跡などが確認されています 8 。これらの遺構は、戦国時代の山城の防御思想を具体的に示す貴重なものです。
ただし、金山城が詰城であったとする明確な同時代史料は確認されておらず、平井城とは独立した拠点、あるいは前方に出された出城であった可能性も研究者の間では議論されています 3 。しかし、その位置関係と堅固な構造から、平井城と密接に連携する重要な軍事拠点であったことは間違いありません。
山内上杉氏の防衛構想は、平井城と金山城だけに留まりませんでした。その周辺には、御嶽城、東日野金井城、一郷山城、高山城といった数多くの支城が配置され、互いに連携して広域的な防衛ネットワークを形成していました 4 。これにより、敵の侵攻を多段階で食い止め、本城である平井城の安全を確保する体制が整えられていました。
関東管領府が置かれた平井の城下町は、当時「往時の鎌倉にもひけを取らない」と評されるほどの繁栄を極めたといいます 10 。関東各地から家臣団や商人、職人たちが集住し、上野国における政治・経済・文化の中心地として賑わいました。城主である上杉氏は京都の室町幕府とも深いつながりがあったため、中央の文化がもたらされ、華やかな都市が形成されていたと推測されます 28 。現在も周辺に残る、上杉氏が氏神として伊豆から勧請した三嶋神社や、祈願寺であった円満寺といった寺社は、往時の繁栄を今に伝える貴重な名残です 30 。
16世紀に入ると、伊豆・相模から急速に勢力を拡大した新興勢力・後北条氏が、旧来の権威である関東管領上杉氏にとって最大の脅威となります。8代城主・上杉憲政の時代、平井城は関東の覇権を巡る壮絶な攻防の舞台となり、やがて落日の時を迎えます。
天文15年(1546年)、関東管領・上杉憲政は、宿敵であった古河公方・足利晴氏と和睦し、扇谷上杉氏と連合して、北条氏康が支配する武蔵国の河越城に8万ともいわれる大軍を差し向けました 3 。数ヶ月にわたる包囲戦で上杉連合軍は勝利を確信していましたが、同年4月、氏康はわずか8千の兵を率いて奇襲を敢行します。油断しきっていた連合軍は大混乱に陥り、扇谷上杉当主・朝定をはじめ多くの将兵が討ち死にするという歴史的な大敗北を喫しました 32 。
この「河越夜戦」は、関東の勢力図を一夜にして塗り替える決定的な戦いとなりました。この一戦によって、鎌倉時代から続いてきた関東管領の軍事的な権威は完全に失墜し、関東における覇権は、実力を持つ北条氏へと大きく傾いていったのです 32 。
河越夜戦に敗れた憲政は、命からがら本拠地である平井城へと敗走します 3 。しかし、一度失われた権威を取り戻すことは困難でした。権威回復を焦る憲政は、重臣の諫言を聞き入れずに信濃へ出兵し、武田晴信(信玄)にも大敗を喫します(小田井原の戦い) 16 。
相次ぐ敗戦は、憲政の求心力を決定的に低下させました。これまで山内上杉氏の威光を頼みとしてきた上野国の国人衆(在地領主)たちは、憲政の力量に見切りをつけ、次々と北条氏へと寝返っていきました 2 。かつて平井城を守っていた支城ネットワークは崩壊し、関東管領府は、自らの膝元である上野国においてさえ孤立を深め、裸城同然の状態へと追い込まれていったのです。
天文21年(1552年)、北条氏康は満を持して平井城に総攻撃をかけました 8 。もはや国人衆の支援も期待できず、抗戦は不可能と判断した上杉憲政は、苦渋の決断を下します。嫡男である龍若丸を城に残し、わずか50名ほどの家臣と共に、越後国の守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びていったのです 8 。
平井城に残された当時13歳の龍若丸の運命は悲劇的なものでした。後見を託された家臣・目加田新介らは主君を裏切り、龍若丸を人質として北条氏康に差し出し、城を開け渡しました 34 。龍若丸は小田原へ送られ、一色松原の海岸で処刑されたと伝えられています 34 。この嫡子を置き去りにして逃亡したという逸話は、憲政の評価を後世にわたって決定的に貶める要因となりました。
しかし、上杉憲政を単に「無能」「惰弱」な当主として断じるのは、勝者側から見た一方的な評価である側面も否めません。『甲陽軍鑑』などの後代の軍記物は憲政を酷評しますが 38 、彼が家督を継いだ時点で、山内上杉家は長年の内紛(永正の乱など)によって既に疲弊しており、国人衆を完全に統制する力も失われつつありました 40 。彼の前に立ちはだかった北条氏康は、戦国時代屈指の傑物であり、権威に依存する旧来の統治システムでは対抗が極めて困難でした。憲政の敗北と個人的な悲劇は、個人の資質の問題以上に、関東管領という「システム」そのものが下剋上の時代に適応できず、崩壊していく過程を象徴する出来事であったと捉えるべきでしょう。
上杉憲政の亡命は、平井城の歴史、そして関東の戦国史に新たな役者を登場させます。「越後の龍」長尾景虎です。彼の関東介入によって、平井城は一時的に息を吹き返しますが、それは同時に、その歴史的役割に終止符を打つ序曲でもありました。
越後へ逃れた上杉憲政は、長尾景虎に庇護を求め、関東管領の権威をもって北条氏討伐を要請しました 41 。永禄3年(1560年)、景虎はこの要請に応え、憲政を奉じて大軍を率い、関東への遠征(越山)を開始します 3 。
景虎の軍勢は破竹の勢いで進撃し、北条方に寝返っていた上野国の諸城を次々と攻略しました。北条幻庵らが守っていた平井城も、この長尾軍の猛攻の前に陥落し、奪回されました 8 。これにより、故郷を追われてから約8年ぶりに、上杉憲政は旧本拠地への帰還を果たしたのです 43 。
しかし、平井城を奪回した景虎は、そこを自らの関東経営の拠点とはしませんでした。彼は、利根川東岸に位置する厩橋城(後の前橋城)を新たな拠点として選び、関東における軍事活動の中枢を移したのです 8 。
この拠点変更は、景虎の卓越した戦略眼を示す極めて重要な決断でした。それは単なる場所の移動ではなく、関東の支配構造におけるパラダイムシフトを意味していました。平井城の価値が、関東管領という「権威」と、鎌倉へ通じる「旧来の街道網」に依存していたのに対し、厩橋城はより広大な関東平野全体を見渡し、大動脈である利根川の水運を活用できる、軍事・経済上の要衝でした 44 。戦国時代において、大軍の迅速な展開と兵站線の維持は何よりも重要です。景虎は、過去の象徴である平井城に固執せず、新しい時代の合理的な軍事思想に基づき、実利を取りました。この決断は、関東の中心が名目上の権威から、実質的な支配力へと移ったことを明確に示しています。
厩橋城が新たな関東攻略の拠点となったことで、平井城はその戦略的価値を完全に失いました。その結果、関東管領府として100年以上にわたって栄えた名城は、廃城の道を辿ることになります 8 。
廃城に至る正確な経緯は史料上明らかではありませんが、いくつかの説が伝えられています。一つは、景虎が北条氏による再利用を防ぐために、城の施設を徹底的に破却したという説 18 。もう一つは、景虎による奪回を目前にした北条氏が、再び上杉方の拠点となることを恐れて、撤退する際に自ら城を破壊したという説です 8 。いずれにせよ、この永禄3年(1560年)を境に、平井城は歴史の表舞台からその姿を消すこととなりました。
歴史的役割を終え、静かな農村地帯へと還っていった平井城ですが、その地下には関東管領府の記憶が眠っていました。近代以降、特に平成期に行われた学術的な調査によって、その姿が再び明らかにされ、現在は歴史を学ぶ貴重な史跡として保存・活用されています。
平井城跡の本格的な発掘調査は、史跡公園としての保存整備事業に伴い、平成7年度(1995年)から平成9年度(1997年)にかけて、城の中心部である本丸跡(主郭)で実施されました 4 。
この調査により、数多くの重要な遺構が検出されました。特に、土塁の裾を川原石で補強した石積み構造、幅約12m・深さ約3mの壮大な横堀、崖下に通じる石積みの竪堀、そして本丸東側の内堀からは川原石を堅固に積み上げた橋脚台の跡が発見され、往時の城の具体的な姿が明らかになりました 4 。さらに、柱の穴の跡から建物の存在を示す掘立柱建物跡や、当時の生活を偲ばせる厠(かわや)跡なども見つかっています 4 。
また、出土した陶磁器などの遺物から、城が主に機能していたのは15世紀中頃から16世紀後半であることが考古学的にも裏付けられました 4 。現在、平井城址公園で見られる復元整備は、これらの発掘調査の成果に基づき、城が最後に機能していた16世紀中頃の姿を想定して行われています 11 。これらの詳細な調査結果は、藤岡市教育委員会が発行した『F26平井城跡発掘調査報告書』にまとめられています 47 。
現在、平井城跡の中心部は「平井城址公園」として整備されており、発掘調査の結果を基に復元された土塁や空堀、木橋などを見学することができます 7 。その歴史的重要性が評価され、平成11年(1999年)4月30日には、詰城である平井金山城跡と共に群馬県の指定史跡となりました 11 。
公園内には案内板が設置され、訪れる人々が関東管領府の歴史に触れることができるよう配慮されています。また、近年のデジタル技術の進展に伴い、藤岡市の「藤岡デジタル博物館」では、平井金山城の地形データと地上データを比較できるコンテンツなどが公開されており、新たな歴史学習の形が提供されています 52 。さらに、近隣の藤岡歴史館では、平井城に関連する資料が収蔵・展示されており、古代から中世にかけての地域の歴史を深く学ぶことができます 53 。
平井城の約120年にわたる歴史は、関東の戦国時代の動乱を映す鏡そのものです。永享の乱という鎌倉府体制の内部崩壊を機に関東管領府として誕生し、享徳の乱という長期戦乱を通じてその地位を確立しました。最盛期には「鎌倉をもしのぐ」と称されるほどの繁栄を誇り、関東の政治・軍事・文化の中心として君臨しました。
しかし、その栄光は長くは続きませんでした。河越夜戦での歴史的敗北を境に、関東管領という旧来の権威は急速に色褪せ、実力主義を掲げる新興勢力・北条氏の前に、国人衆の支持を失い衰退の一途を辿ります。そして最後は、旧秩序の守護者として現れたはずの長尾景虎(上杉謙信)自身の手によって、より合理的で戦国的な拠点である厩橋城にその座を譲り、歴史的役割に終止符を打たれました。
平井城の盛衰の物語は、室町幕府が構築した関東の統治システムが完全に崩壊し、下剋上の時代へと移行していく過程そのものを雄弁に物語っています。それは、関東の政治・軍事の中心が、権威の象徴であった「鎌倉」とその延長線上にあった「平井」から、広域支配に適した実利の拠点である「小田原」や「厩橋」へと移っていく、時代の大きな転換点を、一つの城郭の運命を通じて私たちに示してくれるのです。
表2:平井城関連年表
西暦(和暦) |
平井城・山内上杉氏の動向 |
関東・全国の主要な出来事 |
1438年(永享10) |
上杉憲実、鎌倉を逃れ平井城を築城(通説)。 |
永享の乱 が勃発。 |
1439年(永享11) |
- |
鎌倉公方・足利持氏が自刃。 |
1454年(享徳3) |
- |
享徳の乱 が勃発。古河公方・足利成氏が上杉憲忠を謀殺。 |
1467年(応仁元) |
上杉顕定、平井城を大改修。関東管領府として整備。 |
応仁の乱 が勃発(~1477年)。 |
1493年(明応2) |
- |
伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆を討ち取る(伊豆討ち入り)。 |
1510年(永正7) |
- |
上杉顕定が長森原の戦いで戦死。 永正の乱 が激化。 |
1546年(天文15) |
上杉憲政、 河越夜戦 で北条氏康に大敗。平井城へ敗走。 |
- |
1552年(天文21) |
北条氏康の侵攻により 平井城落城 。上杉憲政は越後へ逃亡。 |
- |
1560年(永禄3) |
長尾景虎(上杉謙信)、関東へ出兵し 平井城を奪回 。 |
桶狭間の戦い 。 |
1560年(永禄3) |
景虎、関東経営の拠点を厩橋城へ移す。 平井城は廃城 となる。 |
- |
1561年(永禄4) |
- |
長尾景虎、上杉の名跡と関東管領職を継承し、上杉政虎と名乗る。 |
1995年(平成7) |
平井城跡(本丸跡)の発掘調査開始(~1997年)。 |
- |
1999年(平成11) |
平井城跡が群馬県指定史跡となる。 |
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