最終更新日 2025-08-24

平佐城

平佐城は薩摩国北部の要衝。鎌倉期に築かれ、島津氏の支配下で発展。豊臣秀吉の九州征伐では桂忠昉が寡兵で籠城し、落城せず。江戸期には外城制度下の仮屋となり、その歴史は今も地域に息づく。

薩摩国 平佐城 — 戦国期における戦略的価値と歴史的変遷に関する総合的考察

序論:平佐城研究の意義

鹿児島県薩摩川内市にかつて存在した平佐城は、鎌倉時代の創始から江戸時代の終焉に至るまで、薩摩国北部における政治史・軍事史の変遷を映し出す重要な拠点であった。その歴史は、単に一地方城郭の盛衰に留まらない。戦国期における島津氏の薩摩統一過程、天下統一の奔流に飲み込まれた豊臣秀吉の九州征伐、そして近世における薩摩藩独自の地方支配体制「外城制度」の確立といった、日本史上の大きな画期を体現する存在として位置づけられる。

本報告書は、平佐城に関する断片的な史実を時系列に沿って再構成するだけでなく、その地理的特性、政治的背景、そして関わった人物たちの動向を統合的に分析することを目的とする。これにより、平佐城が有した多層的な歴史的価値を明らかにすることを目指す。具体的には、城郭の立地と構造、黎明期から戦国期への変遷、九州征伐における籠城戦の詳説、近世における役割の変容、そして現代における文化的記憶という五つの章立てで論を展開する。

読者の理解を促進するため、まず平佐城の歴史的変遷の概略を以下の表に示す。この表は、本報告書が詳述する複雑な歴史の道標となるであろう。

時代

主な出来事

主要な城主・関連氏族

鎌倉時代後期

平佐城の築城

薩摩氏(薩摩太郎忠友)

南北朝・室町時代

島津氏総州家・奥州家の抗争、入来院氏の支配確立

島津氏(総州家・奥州家)、入来院氏

戦国時代

島津氏への従属、島津宗家の直轄地となる

入来院氏、島津義久

安土桃山時代

豊臣秀吉の九州征伐、平佐城籠城戦(1587年)

桂忠昉(島津氏家臣)

江戸時代

平佐北郷家の私領となり、外城制度下の仮屋が置かれる

平佐北郷家

現代

遺構は消滅、平佐西小学校敷地に城址碑が現存

-

この表が示すように、平佐城の城主は目まぐるしく変遷した。しかし、その変遷の背後には、それぞれの時代を動かした大きな力が作用していた。本報告書は、その力学を解き明かし、一つの城が語る薩摩の歴史を深く掘り下げていく。

第一章:城郭の立地と構造 — シラス台地が育んだ南九州の要塞

第一節:地理的環境と戦略的重要性

平佐城が築かれた薩摩川内市平佐町は、古代より薩摩国の政治・経済の中心地であった川内平野に位置する 1 。近隣には古代薩摩国の国府が置かれたと推定されており 2 、この地域が古くから水陸交通の要衝として機能していたことを物語っている。このような地理的背景は、平佐城が単なる一地方の防衛拠点ではなく、薩摩国北部における広域支配の鍵を握る戦略的拠点としての潜在的な重要性を有していたことを示唆している。

城は、標高約30メートルのシラス台地の丘の上に築かれた平山城、あるいは平城に分類される 3 。その立地から、別名「諏訪之尾城(すわのおじょう)」とも呼ばれた。これは城の東側に諏訪神社が現存することに由来すると考えられ、地域の信仰と城が密接に関わっていた可能性を示している 3 。また、「是枝城(これえだじょう)」という別名も伝わっている 5

第二節:推定される縄張りと城郭構造

平佐城の遺構は現在、完全に消滅しており、その具体的な構造や縄張りを直接的に確認することは不可能である 4 。しかし、文献史料や周辺の地理的状況から、その規模と構造をある程度推察することはできる。城域は広大で、本丸が現在の平佐西小学校の南東付近、二ノ丸が同小学校、そして三ノ丸がJR川内駅周辺にまで及んでいたとされている 7

平佐城の失われた姿を論理的に再構築するためには、南九州特有の地質、すなわちシラス台地の特性を考慮に入れる必要がある。シラス(火山砕屑物)は、加工が容易である一方、垂直に切り立つと崩れにくいという特徴を持つ 8 。この地質を活かした城郭は、南九州各地に見られ、特に知覧城跡などではその典型的な構造が良好に保存されている 10 。これらの城郭では、石垣を多用する代わりに、台地そのものを深く、そして垂直に掘り込むことで、天然の要害をさらに強化した巨大な空堀や切岸(きりぎし)を造成している 9

この南九州の城郭類型論を平佐城に適用すれば、その防御思想が他地域の城とは根本的に異なっていた可能性が浮かび上がる。平佐城もまた、石垣による防御ではなく、地形そのものを彫刻するかのように造成する「土木的要塞」であったと推定される。台地の地形を巧みに利用し、複数の曲輪(くるわ)を深く切り立った空堀で隔て、それぞれが独立して戦える連郭式の縄張りを持っていたと考えられる。豊臣の大軍を寡兵で食い止めたとされる籠城戦の背景には、こうしたシラス台地特有の堅固な防御構造が存在した可能性は極めて高い。遺構の喪失という事実は、物理的な構造の探求を困難にするが、地域の地理的・技術的文脈からその本質を類推することは、平佐城を理解する上で不可欠なアプローチである。

第二章:黎明期から戦国前夜 — 薩摩氏、島津氏、入来院氏の支配

第一節:鎌倉時代 — 薩摩氏による築城とその背景

平佐城の歴史は、鎌倉時代後期に遡る。築城主は、この地を治めていた薩摩郡司の薩摩氏、具体的には薩摩太郎忠友であったと伝えられている 5 。『古城主来由記』によれば、建久年間(1190年代)には既に忠友の居城であり、その子孫が代々この城に居住したとされる 5 。これは、鎌倉幕府による御家人体制の下で、薩摩氏が在地領主として地域の支配拠点を確立していたことを示している。平佐城は、その創始から軍事・行政の中心として機能していたのである。

第二節:南北朝・室町時代 — 島津一族内の抗争と平佐城

南北朝時代に入ると、薩摩国守護であった島津氏がこの地域での影響力を強め、平佐城もその歴史の渦中に巻き込まれていく 12 。特に、島津宗家が総州家と奥州家に分裂して抗争を繰り広げた時代には、平佐城は両勢力の角逐の舞台となった。

応永14年(1407年)、島津総州家の島津伊久が平佐城に逃れて没し、その子である忠朝が城を拠点とした 3 。しかし、その直後には奥州家の島津元久による攻撃を受け、忠朝は城を放棄して永利城へと退かざるを得なかった 3 。この出来事は、平佐城が島津一族内の熾烈な主導権争いにおいて、いかに重要な戦略拠点と見なされていたかを如実に物語っている。

第三節:入来院氏の台頭と島津宗家との関係深化

島津氏の内訌を経て、平佐城は薩摩の有力な国人領主であった渋谷一族、入来院氏の所領となる。15世紀末には入来院氏12代当主の重朝が一時的に居城とし、城の改修も行ったとされている 3 。入来院氏は、島津氏と長年にわたり対立と和睦を繰り返してきた独立性の高い勢力であった 13

しかし戦国時代、この関係は劇的な転換点を迎える。島津宗家15代当主・島津貴久が、薩摩統一の過程で入来院氏との関係強化を図ったのである。貴久は、入来院氏11代当主・入来院重聡の娘(後の雪窓院)を正室として迎えた 15 。この婚姻は、単なる政略結婚に留まらなかった。二人の間には、後に島津家の黄金時代を築く義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」が誕生したのである 16

この極めて強固な血縁関係を背景として、入来院氏の立場は大きく変化した。永禄12年(1569年)頃、入来院氏は島津氏に完全に臣従し、これに伴い平佐城は島津宗家の直轄地となった 3 。この平佐城の所有権の移転は、単なる軍事征服の結果として捉えるべきではない。むしろ、島津氏による巧みな「婚姻戦略」と国人領主取り込み政策の集大成と見るべきである。入来院氏は、軍事的に屈服したのではなく、島津宗家と外戚関係という強固な絆で結ばれ、一蓮托生の運命共同体となる道を選んだ。平佐城の移管は、血縁を通じた平和的な権力統合の象徴的出来事であり、島津氏の薩摩統一が武力一辺倒ではなく、外交と血縁を駆使した複合的な戦略によって達成されたことを示す好例と言えるだろう。

第三章:天正の攻防 — 九州征伐における平佐城籠城戦の詳説

第一節:豊臣秀吉による九州平定の全体像

天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、九州で破竹の勢いを見せていた島津氏を討伐するため、20万ともいわれる大軍を派遣した。これが九州征伐である。秀吉軍は肥後国(現在の熊本県)から薩摩国へと南下し、その圧倒的な軍事力の前に島津方の諸城は次々と戦わずして開城、あるいは降伏していった 18 。薩摩の地は、未曾有の国難に直面していた。

第二節:城主・桂忠昉の決断と籠城体制の構築

このような状況下で、平佐城の地頭を務めていたのが、島津氏家臣の桂忠昉(かつら ただあき)であった 3 。彼は豊後方面での戦いに従軍していたが、豊臣軍に押されて敗走し、同年4月24日に平佐城へとたどり着いた 19

当時、若干30歳であった忠昉は、豪勇をもって知られた武将であった 19 。周囲の城が次々と豊臣方に靡(なび)く中、彼は断固として城を死守する決意を固める。その兵力は、忠昉の手勢わずか300 6 。近隣の隈之城や入来院の兵を加えても、総勢400に満たなかったと記録されている 19 。絶望的な状況であったが、忠昉の決意は揺るがなかった。

第三節:兵力差二十倍以上 — 攻防戦の経過と戦術分析

平佐城を包囲した豊臣方の軍勢は、小西行長、脇坂安治、九鬼嘉隆といった、秀吉麾下の水軍を主力とする武将たちであった 20 。その総兵力は8,500から9,000とされ、籠城側の20倍以上という圧倒的な大軍であった 6

同年4月28日、豊臣軍による平佐城への総攻撃が開始された 18 。桂忠昉と籠城兵は、この絶望的な兵力差にもかかわらず、勇猛果敢に戦った。城の堅固な防御構造も相まって、豊臣軍の猛攻によく耐え、奮戦したと伝えられている。

この籠城戦は、軍事的な合理性だけで評価することはできない。勝ち目がないことは、指揮官である忠昉自身が誰よりも理解していたはずである。にもかかわらず徹底抗戦を選択した背景には、薩摩武士としての矜持があったと考えられる。これは、単なる軍事行動ではなく、主家のために死を覚悟で戦い、武士としての本分を全うするという、薩摩武士の精神性を体現する一種の儀式であった。勝ち負けを超え、豊臣方に対して「島津の武士はこれほどまでに精強である」という強烈な印象を刻みつけること自体が、この戦いの真の目的だったのかもしれない。

第四節:降伏の経緯と歴史的評価

激しい攻防戦の最中、籠城する桂忠昉のもとに、主君である島津義久からの使者が届いた。義久はすでに豊臣方との和睦を決断しており、忠昉に戦闘を停止し、城を開け渡すよう命じたのである 18

忠昉は主君の命令に忠実に従い、降伏を受け入れ、平佐城を開城した 18 。結果として城は落ちなかったものの、戦いは終結した。この平佐城の戦いは、寡兵よく大軍を防いだ武勇伝として、また、落城しなかった城として後世に語り継がれることとなった 21 。この「名誉のための戦い」は、後の幕末に至るまで続く「薩摩隼人」の気風の源流の一つであり、一地方の小戦闘が持つ、より大きな文化的・精神史的意味を浮き彫りにしている。

第四章:近世への移行 — 薩摩藩外城制度下の平佐

第一節:平佐北郷家の入部と私領としての統治

豊臣政権を経て江戸時代に入ると、平佐城とその周辺地域は新たな時代を迎える。この地は、島津一門の中でも特に重きをなした北郷氏の私領地となったのである 3 。もともと日向国都城を拠点としていた北郷氏であったが、文禄4年(1595年)に宮之城へ移封された際、当主・時久の三男である三久が平佐の地を与えられた 3 。これが「平佐北郷家」の始まりである。

以降、平佐村と隣接する天辰村からなる平佐郷は、薩摩藩の直轄地ではなく、平佐北郷家の私領として統治されることになった 3 。これは、薩摩藩内における一門衆の格式の高さと、その独自の支配体制を示すものである。

第二節:軍事拠点から行政拠点へ — 「仮屋」の機能と役割

江戸幕府が発布した「一国一城令」は、原則として一国に一つの城しか認めないものであった。これに対し、薩摩藩は鹿児島城(鶴丸城)を本城と定めつつ、領内各地に点在していた中世以来の城や拠点を「外城(とじょう)」と称する独自の地方支配システムへと再編した 23

この外城制度の下で、平佐城もその役割を大きく変える。戦国時代の軍事要塞としての「城」は解体され、かつての二ノ丸跡(現在の平佐西小学校の場所)には、領主の館であり、郷の行政を司る役所でもある「仮屋(かりや)」が置かれた 6 。そして、この仮屋を中心に、「麓(ふもと)」と呼ばれる武家屋敷群が形成された 7 。麓に住む武士たちは「郷士(ごうし)」と呼ばれ、平時には農耕に従事して自活し、有事の際には地頭の指揮下に動員される、半士半農の兵士であった 23

この「城」から「仮屋」への変容は、単なる機能の断絶や軍事力の放棄を意味するものではなかった。むしろ、薩摩藩の特殊な軍事思想の「適応的進化」と捉えるべきである。外城制度の本質は、武士を城下町に集住させるのではなく、領内各地に分散配置し、平時においても常に臨戦態勢に近い状態を維持することにあった 23

つまり、平佐に置かれた「仮屋」は、単なる行政施設ではなく、有事の際には即座に地域の軍事指令部として機能する、潜在的な「城」そのものであった。物理的な城郭は解体されても、その場所は「外城」という巨大な防衛システムの一部として、軍事的な意味合いを色濃く保持し続けたのである。これは、幕府の一国一城令という外部からの圧力に対し、その趣旨を形式上は遵守しつつも、実質的な軍事能力を領内全域に温存・維持するという、薩摩藩のしたたかな戦略の現れであった。平佐の地は、平和な時代の統治システムの中に、戦国の記憶と論理を埋め込んだ薩摩藩の特異性を象徴する場所となったのである。

第五章:史跡としての現在と文化的記憶

第一節:遺構の消滅と石碑に刻まれた歴史

かつて薩摩国北部の要衝として、また数々の歴史の舞台として存在した平佐城であるが、現在、その城郭遺構は完全に失われ、往時の姿を直接偲ぶことは極めて困難である 4 。宅地化や市街地化の波の中で、堀や土塁といった防御施設はことごとく姿を消し、文化財としての指定も受けてはいない 4

その歴史を現代に伝える唯一の記念物が、かつての二ノ丸跡であり、近世には仮屋が置かれた薩摩川内市立平佐西小学校の敷地内に建立されている「平佐城址」の石碑である 6 。この石碑は、静かにその場所に立ち、かつてこの地が広大な城域の一部であったことを、訪れる人々に無言で語りかけている。

第二節:地名や施設に継承される「平佐城」の記憶

物理的な遺構は失われたものの、「平佐城」の名とその記憶は、意外な形で現代に継承されている。城跡のすぐ近くには、「温泉平佐城」という名の公衆浴場が存在する 21 。2022年にリニューアルオープンしたこの施設は、地域住民に親しまれる憩いの場となっている 21

特筆すべきは、この施設がその名称の由来として、かつての平佐城の歴史を積極的に活用している点である。施設の紹介文には、「島津征伐にやって来た豊臣秀吉軍と対戦しながら、落城しなかった平佐城跡に湧き出るという温泉」という一節が見られる 21 。これは、歴史的建造物としての城は消滅した一方で、「難攻不落だった平佐城」という「物語」や「ブランド」が、地域社会の中で生き続けていることを明確に示している。

この現象は、史跡の価値が物理的な遺構の有無だけで決定されるものではないことを示唆している。平佐城の歴史は、学術的な研究対象としてだけでなく、地域住民の記憶や商業活動を含む現代的な文化実践の中で語り継がれる「生きた記憶」として機能している。温泉施設の存在は、物理的遺構の「死」と、その物語が商業的名称として「生」を得るという、歴史継承の興味深い一形態を提示していると言えよう。

結論:平佐城が物語る薩摩の歴史

平佐城の歴史は、鎌倉時代から江戸時代に至るまで、薩摩国が経験した激動の時代を凝縮している。その役割は、鎌倉期の在地領主の拠点に始まり、南北朝・室町期には島津一族の覇権争いの舞台となり、戦国期には国人領主の支配と島津氏の巧みな婚姻外交の結節点となった。そして、安土桃山時代には、天下の軍勢を前に薩摩武士の意地と誇りを示す象徴となり、江戸時代には薩摩藩独自の地方支配システム「外城制度」の要として、その役割をダイナミックに変容させ続けた。

一つの城郭の歴史を深く追うことは、その地域全体の特質を浮かび上がらせる。平佐城の変遷は、島津氏の武力と外交を駆使した巧みな統一戦略、桂忠昉の籠城戦に見られる薩摩武士の勇猛さと主家への忠誠心、そして近世における極めてユニークで実戦的な統治システムといった、薩摩の歴史を貫く特質を鮮やかに映し出す貴重なレンズである。

現代において、平佐城は物理的な姿を失った。しかし、その名は地域の施設に受け継がれ、「落城しなかった城」という物語は語り継がれている。これは、歴史的遺産の価値が、目に見える遺構の存在だけに依存するのではないことを示している。たとえ文化財としての指定がなくとも、その歴史的物語が地域のアイデンティティの一部として継承されるならば、その城は現代においても生き続けていると言えるだろう。平佐城の事例は、失われた城跡の価値を再考する上で、重要な示唆を与えてくれる。

引用文献

  1. 薩摩川内市の古道跡 (予察) - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20220517074904-1.pdf
  2. 薩摩国府跡 (川内市国分寺町字杉山・西原・石走 島・迫田・中當田・前迫 https://www.jomon-no-mori.jp/old/sensikodai/214.pdf
  3. 平佐 - 鹿児島日本遺産 https://samurai-district.com/spot/spot-1331/
  4. 薩摩 平佐城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/satsuma/hirasa-jyo/
  5. 【薩摩平氏を訪ねて 2 】薩摩平氏の城跡5選(薩摩川内市 ... - note https://note.com/apt_iguana7297/n/n2822874d8f20
  6. 平佐城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2935
  7. 鹿児島県薩摩川内市 平佐御仮屋跡 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/24814
  8. 鹿児島城跡・山城 https://www.pref.kagoshima.jp/ab10/documents/119666_20250304165030-1.pdf
  9. 【続日本100名城・知覧城編】火山地形を活用した南九州特有の中世城郭 - 城びと https://shirobito.jp/article/589
  10. 清色城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192632
  11. 国史跡 知覧城跡 https://sirohoumon.secret.jp/chiranjo.html
  12. 薩摩平佐城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hirasa.htm
  13. 薩摩の渋谷一族、入来院氏/祁答院氏/東郷氏/高城氏/鶴田氏 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2024/07/17/144636
  14. 武家家伝_入来院氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iriki_in.html
  15. 島津義弘没後四百年 - 鹿児島県観光連盟 https://www.kagoshima-kankou.com/storage/files/shares/feature_pdf/1906_shimadu.pdf
  16. 雪窓院の謎に迫る!島津義久・義弘・歳久の母の物語 - Soogle Magazine https://ok-soogle.com/2018/0220202302
  17. 島津義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
  18. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  19. 秀吉の九州征伐と平佐城の攻防。 - ともちゃんの『徘徊と独り言』 - ココログ http://2465tomo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-c36c93.html
  20. 平佐城 http://shironoki.com/200fukuokaigai-no-shiro/208hirasa/hirasa0.htm
  21. 温泉平佐城 - かごしま銭湯・温泉郷 https://www.kagoshima-onsen1010.net/sento-map/satsumasendai/post-7.php
  22. 長照山梁月寺跡(平佐北郷家墓地) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2024/06/09/173655
  23. 藩政のしくみ - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/kinsei/hansei/index.html
  24. 薩摩藩独自の外城制度 | 薩摩の武士が生きた町 〜武家屋敷群「麓」を歩く〜 https://kagoshima-fumoto.jp/outer-castle/
  25. 外城制 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9F%8E%E5%88%B6
  26. 薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~STORY #082 - 日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story082/
  27. 温泉平佐城 | 薩摩川内市観光物産ガイド こころ https://satsumasendai.gr.jp/spotlist/2590