平林城
越後揚北の雄、色部氏の拠点平林城は、山麓の居館と山上の要害山城からなる根小屋式城郭。上杉謙信に忠節を尽くし「血染めの感状」を得た色部氏の興亡を物語る。会津移封で廃城となるも、中世城郭の良好な遺構が残る国指定史跡。
越後揚北の雄、色部氏の拠点―国指定史跡 平林城の総合的研究
序章:平林城の歴史的価値と研究の視座
新潟県村上市平林に位置する平林城跡は、南北朝時代から戦国時代にかけて越後国北部の阿賀北地方(揚北)に権勢を誇った国人領主・色部氏の拠点として知られる中世の城郭遺跡である 1 。昭和53年(1978年)9月18日、その卓越した歴史的価値が認められ、国の史跡に指定された 2 。本城の最大の特質は、慶長3年(1598年)に城主色部氏が主君上杉景勝の会津移封に従ってこの地を去り、城が廃された後、大規模な近世的改変を受けることなく、中世末期の城郭遺構が極めて良好な状態で今日まで保存されている点にある 3 。
多くの城郭が江戸時代を通じて存続し、石垣や天守を備えた近世城郭へと姿を変えていく中で、平林城は戦国時代の終焉と共にその時を止めた。この「突然の廃城」という歴史的経緯は、結果として平林城を戦国期国人領主の拠点城郭の実像を解明するための、いわば「タイムカプセル」として現代に遺すこととなった。城郭の縄張り、土塁や堀切の配置、そして発掘調査によって明らかになりつつある居館の構造は、文献史料だけでは窺い知ることのできない当時の武士の生活空間、防御思想、そして権威の表象を具体的に物語る第一級の史料である。
本報告書は、考古学的調査によって解明された城郭の物理的構造(ハード)と、文献史料から読み解く城主色部氏の政治的動向(ソフト)を統合する視座に立つ。これにより、平林城という一つの城郭を、戦国時代という激動の時代を生きた国人領主の権力拠点として立体的に復元し、その歴史的意義を深く考察することを目的とする。
第一章:平林城の構造と縄張り―発掘調査が明かす実像
平林城は、平時の政務と生活の場である山麓の居館部と、戦時の最終防衛拠点である背後の要害山城(加護山城)から構成される。この二元的構造は、戦国時代の国人領主の拠点城郭に典型的に見られる「根小屋式城郭」の形態である 1 。しかし、平林城の構造は時代と共に変容を遂げており、その変化は城主色部氏の統治形態と軍事思想の進化を物理的に反映している。
第一節:総論―根小屋式城郭としての特徴と変容
平林城の構造を理解する上で極めて重要な史料が、文禄4年(1595年)の上杉領内検地に基づき、慶長2年(1597年)に作成された「越後国瀬波郡絵図」である。この絵図には、麓の居館が塀や櫓門を備えた姿で描かれている一方で、背後の山城は「加護山古城」と記されている 3 。この「古城」という記述は、戦国時代の末期には、城の機能的中心が、もはや山上の要害ではなく、山麓の居館部へと完全に移行していたことを明確に示唆している。
この機能的中心の移行は、単なる山城の老朽化を意味するものではない。それは、国人領主の統治と防衛に関する思想そのものの転換を物語っている。戦国初期において、城主の安全を確保する最終防衛ラインは、険しい山に築かれた「詰城」であった。永正5年(1508年)の「永正の乱」において、色部昌長が「平林要害」に立て籠もって落城した経験は 6 、こうした詰城中心の防衛体制の限界を露呈した可能性がある。
その後、色部氏が上杉謙信のもとで安定した地位を築き、領国経営が本格化するにつれて、家臣団を集住させ、政務を執り、儀礼を行う拠点である居館の重要性が飛躍的に増大した。その結果、居館部自体が大規模な土塁や空堀、複雑な虎口(城の出入り口)を備えて要塞化し、政治・経済・軍事の機能を統合した「館城」へと発展を遂げたのである 8 。この過程で、かつての詰城であった要害山は、あくまで予備的な「古城」へとその役割を低下させていった。この構造変化は、領主の権力が安定し、領国全体を恒常的に支配する体制が確立されたことの物理的な証左と言えるだろう。
第二節:居館跡―政治・経済・生活の中心
発掘調査の進展により、居館跡は「殿屋敷」「中曲輪」「岩館」という、それぞれ機能の異なる主要三郭で構成されていたことが判明している 9 。これらの曲輪は、土塁と堀によって厳重に区画され、計画的に配置されていた。
殿屋敷 は、居館の最奥部に位置し、城主色部氏の私的空間であると同時に、公的な政務や儀礼が執り行われた中枢部であった。発掘調査では、東西25.3メートル、南北26メートル、推定床面積658平方メートルにも及ぶ巨大な掘立柱建物跡が検出されており、これが色部氏の主殿であったと考えられている 12 。この規模は、多数の家臣を収容して評定や儀式を行うに足るものであり、揚北衆の雄たる色部氏の権威を象徴するものであった。また、主殿から表虎口(正面門)へと続く排水溝が、単なる素掘りではなく、大小の石を整然と積んだ石組で構築されていたことも注目される 12 。これは、溝の強度を高める実用的な目的と共に、庭石のような美観を意識した意匠であった可能性があり、居館が単なる軍事施設ではなく、文化的側面も持ち合わせていたことを示している 12 。
中曲輪 は、殿屋敷と岩館を繋ぐ領域に位置する。北西部に設けられた「弁天虎口」は、通路がS字形に屈曲する「桝形」と呼ばれる構造を持ち、平林城の大手口(正門)であったと推定されている 12 。このような複雑な構造は、侵入してきた敵の勢いを削ぎ、側面から攻撃を加えることを可能にする高度な防御思想の表れである。曲輪内部からは、幅約4.4メートルの敷石状の城内道や、建物の存在を示唆する方形の区画割も確認されており、家臣の屋敷や政務・軍事に関連する諸施設が配置されていたと推測される 12 。
岩館 は、居館部で最大の面積を持つ曲輪であり、家臣団の主要な居住区や兵の駐屯地、工房、物資の集積所といった多様な機能を持っていたと考えられる 12 。北西部に設けられた「北虎口」は、土塁に囲まれた「内枡形」という防御性の高い構造を持つ 12 。また、曲輪の東側で発見された井戸からは、陶磁器や漆紙(漆壺の蓋に再利用された反故紙)、木製品の下駄といった生活感の漂う遺物が出土しており 12 、ここが多くの人々の生活の場であったことを物語っている。
これらの発掘成果をまとめると、居館跡の構造と機能は以下の表のように整理できる。
曲輪名称 |
主要な遺構・特徴 |
発掘調査による主な発見 |
考察される機能 |
殿屋敷 |
主殿跡、表虎口、石組排水溝、東土塁 |
大型掘立柱建物跡(658㎡)、橋脚跡、門礎石 |
城主の主殿、政治・儀礼の中心地、最終防衛ライン |
中曲輪 |
弁天虎口(S字形桝形)、方形の区画割 |
幅4.4mの敷石状城内道、排水側溝 |
城の正面玄関、家臣団の屋敷地、政務・軍事関連施設 |
岩館 |
北虎口(内枡形)、井戸跡、雛壇状の区画 |
幅6mの城内道、陶磁器、漆紙、下駄 |
家臣団の主要居住区、兵の駐屯地、工房、物資集積所 |
第三節:要害山城(加護山城)―詰城の機能と変遷
居館の背後にそびえる比高約280メートルの要害山(別名:加護山)には、戦時の籠城拠点として山城が築かれていた 11 。この山城は、山体を削平して造成した複数の曲輪を、尾根筋を断ち切る堀切や土塁で連結・防御する構造を持っていた 15 。主郭は三段に分かれ、周囲を監視するための物見山なども備えていたとされる 15 。居館部の中曲輪からは登城道が伸びており、その途中には「城戸」「馬洗い場」「首切り清水」といった地名が残り、往時の様子を偲ばせている 9 。
前述の通り、この要害山城は戦国時代後期には「古城」と化していた可能性が高い。しかし、それは当初からその役割が低かったことを意味しない。永正5年(1508年)の永正の乱において、色部昌長が籠城した「平林要害」とは、まさしくこの要害山城を指すと考えられる 7 。この時点では、間違いなく城の中核的な防御施設として機能していた。
要害山城の役割低下、すなわち「古城」化は、色部氏の軍事思想が、自領の拠点に籠もって戦う個別防衛から、より大きな軍事組織の一員として機動的に戦う集団戦へとシフトしたことを示唆している。南北朝時代や戦国初期の国人領主にとって、自らの本拠地で敵を迎え撃つ籠城戦は基本戦略であり、堅固な山城は不可欠の存在であった。しかし、上杉謙信の時代になると、色部氏は謙信の指揮下に入り、川中島など越後国外へ遠征する機会が格段に増える 17 。彼らの軍事力は、上杉軍という巨大な軍団の一部として機能することが求められるようになった。そうなると、自領での籠城戦の重要性は相対的に低下し、むしろ主君の命令に即応して兵員や物資を効率的に動員できる体制こそが重要となる。そのための拠点として、交通の便も良く広大な敷地を持つ麓の居館部が最適であった。したがって、要害山城の役割低下は、色部氏が独立性の高い領主から、大名(上杉氏)の軍事システムに完全に組み込まれた家臣へと変化していく過程と並行して進んだ現象と捉えることができる。
第二章:城主・色部氏の興亡―戦国越後の動乱を生き抜いた国人領主
平林城の歴史は、その城主であった色部氏の歴史と不可分である。彼らが、自立性の高い国人領主から上杉家の重臣へと変貌していく過程は、戦国時代の越後で繰り広げられた数々の動乱の中に刻まれている。
第一節:色部氏の出自と平林城への入部
色部氏は、桓武平氏の流れを汲む秩父氏を祖とする名門武家である 18 。鎌倉時代に越後国小泉庄の地頭として入部し、同族の本庄氏と共に、阿賀野川以北を勢力圏とする国人領主集団「揚北衆」の中核を形成した 8 。当初、彼らの本拠は小泉庄色部条(現在の村上市牧目の一部)にあったが、南北朝時代の動乱期に大きな転機を迎える 18 。北朝方についた色部氏は、南朝方であった平林氏を攻め滅ぼし、その居城であった平林城を奪取。以降、この地を新たな本拠地とした 18 。
第二節:下剋上の嵐―長尾為景との対立と従属(永正の乱)
戦国時代の幕開けを告げる永正4年(1507年)、越後守護代であった長尾為景が、主君である守護・上杉房能に反旗を翻した。世に言う「永正の乱」である 22 。この下剋上の動きに対し、当時の色部氏当主・色部昌長は、旧来の秩序を重んじ、守護・房能方に立って為景に真っ向から抵抗した 6 。房能が為景に討たれた後も、昌長は平林要害に立て籠もって抗戦を続けたが、同じ揚北衆でありながら為景に味方した中条氏らの攻撃を受け、翌永正5年(1508年)に城は陥落。昌長は為景への降伏を余儀なくされた 6 。
この敗北は、色部氏にとって最初の、そして決定的な転換点であった。守護という伝統的な権威への忠誠という旧来の価値観が、力こそが全てを決定するという新たな時代の論理の前に屈した瞬間であった。この痛みを伴う経験は、もはや伝統的権威に寄りかかるだけでは自領と一族を守り抜くことはできないという厳しい現実を彼らに突きつけた。これ以降の色部氏は、その時々の越後国内における最大実力者を見極め、その傘下に入ることで自家の安泰を図るという、より戦略的で現実主義的な行動原理をとるようになる。永正の乱での敗北は、そのための学習の機会となったのである。
第三節:上杉謙信の時代―揚北衆筆頭としての武功
長尾為景の子・晴景、そしてその跡を継いだ長尾景虎(後の上杉謙信)の時代になると、色部氏の立場は大きく向上する。特に当主・色部勝長は、謙信に対して一貫して忠節を尽くした 20 。その忠誠が最も輝かしく示されたのが、永禄4年(1561年)に繰り広げられた第四次川中島の戦いである。この戦いで色部勝長は、一族郎党に多くの死傷者を出しながらも獅子奮迅の働きを見せた 17 。戦後、謙信はその比類なき武功を称え、勝長に感状を授与した。この感状は、多くの犠牲(血)の代償として得られた最高の名誉であることから、後世「血染めの感状」として知られることとなる 17 。
この「血染めの感状」の授与は、単なる個人的な武功への賞賛にとどまるものではなかった。これは、依然として独立志向の強い揚北衆を完全に掌握しようとする謙信の、巧みな政治的パフォーマンスでもあった。多大な犠牲を払って絶対的な忠誠を示した色部氏を、最大限の形で公に賞賛し、揚北衆の筆頭格として遇することで、他の国人衆、特にライバル関係にあった本庄氏などに対して「忠誠を尽くせば、これほどの栄誉が与えられる」という強烈なメッセージを発信したのである。結果として、色部氏の上杉家中における地位は不動のものとなり、謙信は揚北衆に対する統制を一層強化することができた。これは双方にとって利益のある、高度な政治的駆け引きであった。
第四節:上杉家の内訌―御館の乱と新発田重家の乱
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その後継者の座を巡って養子の上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発する。「御館の乱」である 25 。この上杉家を二分する内乱において、色部氏は難しい舵取りを迫られた。当初は態度を明らかにせず、家中が景勝派と景虎派に分裂する危機に瀕したが、最終的には勝長の子・色部長実(顕長の後継)が景勝支持を表明し、揚北衆の取りまとめと景虎方の鎮圧に尽力した 7 。
しかし、色部氏にとって最大の試練は、その後に訪れた。御館の乱の恩賞配分に不満を抱いた同じ揚北衆の新発田重家が、天正9年(1581年)に織田信長と結んで景勝に反旗を翻したのである 7 。これは、揚北衆の自立性を守ろうとする最後の抵抗であった。色部長実にとって、重家は同じ揚北衆の仲間であると同時に、自らの室が重家の妹であるという極めて近い姻戚関係にあった 27 。古くからの地域的、血縁的な論理に従えば、重家に味方するか、少なくとも中立を保つのが自然な選択であったかもしれない。長実は苦悩し、当初は反乱鎮圧に消極的な態度も見せた 7 。
しかし、長実が最終的に下した決断は、主君・景勝への忠誠を貫くことであった。これは、もはや揚北衆という地域連合体の一員というアイデンティティよりも、上杉家という統一された権力構造への帰属を優先するという、価値観の根本的な転換を意味していた。乱の最終局面、追い詰められた新発田重家は、義兄である長実の陣に突入し、「親戚のよしみで我が首を与える」と叫んで自刃したと伝えられる 28 。この壮絶な結末は、過去のしがらみを断ち切り、新たな主従関係に全てを捧げるという長実の決意を内外に示す、最も劇的な形であった。この一件を経て、色部氏は上杉景勝政権下で揺るぎない地位を築き、もはや独立した国人領主ではなく、上杉家を支える譜代の重臣として完全に位置づけられたのである。
第五節:城の終焉―会津移封と廃城
豊臣秀吉による天下統一後、上杉景勝は慶長3年(1598年)、越後から会津120万石へと移封される 18 。色部氏も主君に従い、数百年にわたって本拠地としてきた平林城を去り、出羽国金山城(現在の山形県南陽市)へと移った 3 。これにより、平林城はその歴史的役割を終え、静かに廃城となったのである 2 。
その後、色部氏は上杉家の米沢移封にも従い、米沢藩の家老として家名を保った 18 。幕末の戊辰戦争では、色部長門(久長)が米沢藩の総督として越後で奮戦するも 31 、敗戦の責を負って家は一時断絶。後に再興を許され、その血脈は現代に続いている 18 。
第三章:史跡としての平林城跡―保存と活用
戦国時代の終焉と共に廃城となった平林城跡は、その良好な遺構の残存状態が学術的に高く評価され、昭和53年(1978年)に国の史跡に指定された 3 。指定以降、村上市教育委員会が主体となり、史跡の価値を損なうことなく保存し、後世に伝えていくための整備事業が計画的に進められている。
事業は『整備基本計画』に基づき、5ヵ年ごとに見直される「整備事業実施計画書」に沿って実施されている 3 。これまでの具体的な取り組みとしては、遺構の保存状態を良好に保つための暗渠排水施設の設置、城内の見通しを確保し遺構を保護するための杉の伐採、そして継続的な遺構確認調査(発掘調査)などが挙げられる 3 。これらの地道な努力が、中世城郭の姿を今に伝える基盤となっている。
また、来訪者が史跡の価値を深く理解し、快適に見学できるよう、環境整備にも力が注がれている。史跡の入口には、普通車13台、軽自動車2台、障害者用1台分の駐車場が完備され、そこには史跡資料展示室を併設したトイレ兼休憩所が建設されている 3 。この休憩所内には、平林城と城主色部氏に関する解説パネルが展示されているほか、縄張り図が掲載されたパンフレットも用意されており、見学前の情報収集に大いに役立つ 4 。
一方で、史跡の保存活用には課題も存在する。特に、近年の集中豪雨などの自然災害により、背後の要害山(加護山城)への登山道が崩落し、安全確保のために入山が禁止されることがある 4 。広大な山城跡を自然の猛威から守りつつ、安全な見学路を確保していくことは、今後の重要な課題となっている。
結論:平林城が語る戦国時代の城と武士
国指定史跡・平林城は、単なる一地方の城跡にとどまらず、日本の戦国時代における城郭のあり方と、そこに生きた武士たちの社会構造の変化を雄弁に物語る、極めて重要な歴史遺産である。
第一に、その構造の変遷は、戦国時代の統治拠点が、単なる軍事防衛施設から、領国経営全般を担う多機能な政治・経済の中心地へと発展していく過程を如実に示している。戦時の籠城拠点であった要害山城が「古城」として陳腐化し、麓の居館部が大規模かつ複雑に要塞化されていった事実は、国人領主の権力が安定・集中し、その統治形態がより高度化したことの物理的な証左に他ならない。
第二に、城主・色部氏が辿った歴史は、戦国時代における社会構造の変化の縮図である。守護、守護代、そして上杉謙信・景勝という主君の変遷の中で、彼らは幾度となく存亡を賭けた選択を迫られた。特に、同じ揚北衆であり姻戚関係にもあった新発田重家との戦いにおいて、地域のしがらみを断ち切って主君への忠誠を選んだことは、自立性の高い国人領主が、近世的な大名家臣団へと完全に組み込まれていく画期的な瞬間を象徴している。
結論として、平林城は、城郭という「モノ」の歴史と、城主という「ヒト」の歴史が不可分に結びついた、戦国時代のダイナミズムを体現する第一級の史跡である。その奇跡的とも言える良好な保存状態は、我々が文献史料だけでは知り得ない、当時の武士たちの権力、生活、そして苦悩の息遣いを、時代を超えて今に伝えている。今後も継続されるであろう調査研究により、この貴重な史跡からさらなる歴史の真実が解明されていくことが大いに期待される。
引用文献
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