越前府中城は古代国府に起源を持ち、前田利家が本格築城。府中三人衆の拠点として織田・豊臣政権下で重要視された。一国一城令の特例として存続し、発掘された石垣がその堅固さを物語る。
本報告書は、福井県越前市に存在した越前府中城について、戦国時代を主軸としつつ、その前史である古代から近世、そして現代における考古学的発見に至るまでを網羅的に論じるものである。越前府中城は、単なる一武将の居城という側面だけでなく、古代以来の「越前の中心」という土地の記憶が、城の性格と歴史をいかに規定したかを解き明かす上で、極めて示唆に富む事例である。
府中城は、軍事拠点であると同時に、古代国府に由来する行政・経済の中心地という二重の性格を持つ 1 。この地理的・歴史的特異性が、戦国期の織田信長による支配体制の構築から、江戸時代の特殊な存続形態に至るまで、一貫してその運命を左右した。本報告書では、古代からの連続性、戦国期の政治的役割、近世の安定と変容、そして現代の再発見という時間軸に沿って、府中城の多層的な価値を明らかにしていく。
「府中」という地名は、古代律令制下において、その国の国府が置かれた場所に由来する普遍的な呼称である 3 。現在の越前市(旧武生市)が古代越前国の国府所在地であったことは、この地名そのものが強力な証左となっている 4 。実際に、府中城跡及びその周辺は「国府遺跡」として埋蔵文化財包蔵地に指定されており、古代の須恵器、石帯、墨書土器といった遺物が出土していることから、この地が古代における越前の政治・文化の中心であったことは疑いない 1 。
ただし、平成8年(1996年)に市役所裏手で行われた調査では、国府関連の遺物が発見されたものの、それらは中世に掘られた溝の埋土から見つかったものであり、国府の中枢施設を直接的に示す遺構の発見には至っていない 7 。これは、後世の開発によって遺構が破壊された可能性、あるいは中枢部が別の場所にあった可能性を示唆しており、国府の正確な位置の特定は今後の課題である。
古代の国府機能が形骸化した後も、この地は越前国の政治的中心地としての地位を維持し続けた。鎌倉・室町時代には越前国守護所が設置されたと推定されている 1 。
戦国時代に入り、一乗谷を本拠地として越前を支配した朝倉氏もまた、この府中の重要性を認識していた。朝倉氏は、山間の防衛拠点である一乗谷とは別に、交通の要衝であり伝統的な行政中心地である府中に奉行所を設置した 6 。この奉行所は、文明年間(1469年〜1487年)頃に構築されたとされ、後の府中城の直接的な前身と見なされている 8 。支配者が変わっても同じ場所が政治拠点として利用され続けた背景には、単なる地理的利便性だけではなく、古代国府以来この土地に宿る「公的な支配の中心」という歴史的権威性を継承し、自らの支配の正統性を象徴的に示すという、高度な政治的意図があったと考えられる。府中城の立地選定は、軍事・経済的合理性に加え、この「土地の記憶」とも言うべき歴史的権威性を自らの支配に取り込むという戦略に基づいていたのである。
天正3年(1575年)、織田信長は越前一向一揆を殲滅し、越前を完全に平定した。その後、信長は方面軍司令官として筆頭家老の柴田勝家を北ノ庄城(現在の福井市)に配置し、北陸方面の経営を委ねた 10 。
これと同時に、信長は勝家の与力(配下の武将)として、前田利家、佐々成政、不破光治の三名を府中に配置した。この三名は「府中三人衆」と称される 8 。彼らはそれぞれ、利家が府中城、成政が小丸城(越前市)、光治が龍門寺城(同市)を居城とし、地理的に北ノ庄城を補完する形で布陣した 10 。
府中三人衆の役割は、単なる勝家の与力に留まらなかった。彼らは勝家の軍事指揮下に入る一方で、その動向を監視し、信長に直接報告する「目付」としての役割も帯びていたのである 14 。これは、方面軍司令官に大きな裁量権を与えて効率的な軍事行動を可能にさせつつも、その権力が中央の統制から逸脱することを防ぐという、信長特有の巧みな権力統制術の現れであった。
この体制は、織田政権下における地方支配モデルの典型例と言える。「効率的な統治のための権限委譲」と「中央集権体制維持のための監視」という、相反する二つの要請を両立させようとした高度な政治システムが、府中という地に構築されていた。府中城と府中三人衆の存在は、この織田政権の統治構造を象徴するものであった。しかし、この微妙な均衡の上に成り立つシステムは、信長の死後、勝家と秀吉の対立(賤ケ岳の戦い)の一因ともなり、その脆弱性をも露呈することになる。
府中三人衆の筆頭格であった前田利家は、朝倉氏の奉行所があったとされる地を大規模に改修・拡張し、本格的な城郭を築いた。これが、今日知られる府中城の実質的な始まりである 10 。利家は築城にあたり、城の東を流れる日野川を天然の外堀として巧みに利用し、平城でありながら高い防御力を確保した 13 。また、城域内にあった総社大神宮を移転させていることから、これが大規模な普請であったことが窺える 17 。
この府中城は、利家が織田信長に仕えて以来、初めて一城の主として与えられた記念すべき城であり、後の加賀百万石の礎を築く彼の飛躍の原点となった 10 。城は二重の堀で囲まれ 12 、天守も存在したと伝えられている 6 。
天正9年(1581年)、前田利家は能登一国を与えられて七尾城へ転封となった。これに伴い、府中城は嫡男の前田利長が3万石余りで継承した 1 。しかし、利長の在城も長くは続かなかった。
天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いで柴田勝家が滅亡すると、越前は羽柴秀吉方の丹羽長秀の所領となり、府中城もその支配下に入った 1 。その後、豊臣政権が確立すると、府中城主は中央の政情と密接に連動しながら、目まぐるしく交代していく。
特筆すべきは、堀尾吉晴への府中5万石の付与が、五大老筆頭であった徳川家康によって「隠居料」として行われた点である 23 。これは、家康が豊臣家の遺産ともいえる所領を自らの裁量で有力大名に分配し始めた画期的な出来事であり、「家康から知行を与えられた最初の例」とされる 23 。この一件は、家康が事実上の天下人として振る舞い始めたことを示す象徴的な事件であり、府中城が関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる政治的攻防の舞台となっていたことを物語っている。
城主名 |
在城期間(西暦/和暦) |
石高(推定含む) |
出自/属した勢力 |
主要な出来事(入城・退去の背景) |
前田 利家 |
1575年~1581年 (天正3年~9年) |
約3万3千石 |
織田家臣 |
越前平定後、府中三人衆筆頭として入城。能登一国拝領により七尾城へ転封。 |
前田 利長 |
1581年~1583年 (天正9年~11年) |
約3万石 |
織田家臣 |
父・利家の跡を継ぐ。賤ケ岳の戦いの結果、丹羽長秀の支配下となる。 |
丹羽 長秀 |
1583年~1585年 (天正11年~13年) |
(越前一国) |
豊臣家臣 |
賤ケ岳の戦いの功により越前を拝領。 |
木村 重茲 |
1585年~1592年 (天正13年~文禄元年) |
10万石以上 |
豊臣家臣 |
丹羽氏の減封に伴い入城。朝鮮出兵の功により山城淀城へ転封。 |
青木 一矩 |
1592年~1599年 (文禄元年~慶長4年) |
10万石 |
豊臣一門 |
木村氏の後任として入城。小早川秀秋に代わり北ノ庄城へ転封。 |
堀尾 吉晴 |
1599年~1600年 (慶長4年~5年) |
5万石 |
豊臣三中老 |
徳川家康より隠居料として与えられる。関ヶ原の戦いを経て本多富正が入府。 |
本多 富正 |
1601年~ (慶長6年~) |
3万9千石 |
徳川家臣 |
結城秀康の付家老として入府。以後、明治維新まで本多氏が世襲。 |
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの論功行賞により、越前一国は徳川家康の次男・結城秀康(後の松平秀康)に与えられた。これに伴い、家康から秀康に付けられた付家老・本多富正が3万9千石で府中城に入り、以後、明治維新に至るまで本多氏が代々城主を務めることとなる 1 。本多富正は前田利家時代の城を基礎に拡充整備を行い、近世府中城の姿を形作った 1 。
慶長20年(1615年)、江戸幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる一国一城令を発布した。これにより、多くの支城が失われたが、府中城は特例として存続が許された 1 。
この背景には、本多家の特殊な立場がある。彼らは越前福井藩の家臣でありながら、その身分は幕府によって保証され、将軍家一門である藩主を補佐・監視する「付家老」であった 1 。府中城の存続は、幕府が親藩大名である越前松平家を内部から牽制するための重要な布石であり、幕藩体制の巧妙な権力構造を体現するものであった。江戸時代の府中城は、「越前藩の支城」という表の顔と、「徳川幕府の地方統制の拠点」という裏の顔を持つ、極めて政治的な城郭だったのである。
存続を許された府中城は、時に「御茶屋」とも呼ばれた。これは慶長16年(1611年)、二代将軍秀忠の娘・天崇院が福井藩主松平忠直に嫁ぐ道中、この城で休憩したという故事に由来する 1 。
城の具体的な姿は、正徳元年(1711年)に描かれた「府中惣絵図」から窺い知ることができる 1 。この絵図には城の東側内堀が記録されており、さらにその外側には長さ約506メートル、幅約29メートルにも及ぶ規格外の外堀が存在したことがわかる 1 。これは、かつてこの地を乱流していた日野川の河跡湖(川の流路跡に残された湖沼)を巧みに利用したものであり、平城でありながら高い防御力を有していたことを示している 1 。
明治維新を迎えると、府中城はその役目を終える。明治2年(1869年)、地名が府中から武生へと改称された 1 。城の建造物は破却され、明治5年(1872年)には城跡に小学校が建設された 1 。その後も、明治29年(1896年)の北陸本線開通工事や、武生市庁舎(後の越前市役所)の建設など、近代化の波の中で地上の遺構は完全に姿を消した 1 。
長らく石碑が残るのみと思われていた府中城であったが、平成28年(2016年)から翌年にかけて、越前市役所本庁舎の建設に伴う大規模な発掘調査が実施され、歴史を覆す発見がもたらされた 1 。調査の結果、市役所東側の地下から、壮大な石垣の遺構が発見されたのである。確認された石垣は、長さ約30メートルに及ぶ大規模なものであった 27 。
発見された石垣は、日野山で採れる流紋岩を主に使用したもので、積み方は野面積みを基調としながら、石材の接合部を加工して密着度を高める「打ち込み接ぎ」の技法も用いられていた 26 。石垣の裏側には、排水と土圧軽減を目的とした「栗石」が丁寧に詰められており、極めて本格的な築城技術が用いられていたことが判明した 26 。また、石垣が意図的に折れ曲がる構造は、側面から敵を攻撃するための「横矢掛かり」を意識した設計であった可能性も指摘されている 28 。
石垣の築造年代については、出土した遺物などから江戸時代初期から中期、すなわち本多富正による改修・整備の時期と推定するのが有力である 29 。福井県内ではこの時期の石垣の発掘例が少なく、府中城の実像を解明する上で非常に貴重な発見となった 29 。この発見は、文献史料に見られる「御館」や「陣屋」といった呼称が、一国一城令への政治的配慮から軍事色を意図的に薄めた表現であった可能性を示唆している。物理的な実態としての府中城は、単なる居館ではなく、高度な防御思想に基づいて設計された堅固な要塞であったことが、考古学的に証明されたのである。
歴史的価値が極めて高いこの石垣遺構であったが、市役所建設事業との兼ね合いから、現地での全面保存は叶わず、記録保存の上で埋め戻されることとなった 27 。しかし、その一部は新庁舎のそばにモニュメントとして移築・復元展示されており、往時の姿を偲ぶことができる 27 。この発掘調査の成果は、福井県埋蔵文化財調査センターの専門家らを招いた講演会などを通じて広く公開され、市民の歴史への関心を高める契機となっている 31 。
調査地点・期間 |
検出遺構 |
石垣の詳細 |
年代推定 |
現在の保存状況 |
越前市役所本庁舎建設地 (I地点) / 平成28年~29年 |
内堀跡、石垣、礎石建物跡、池状遺構 26 |
・規模: 長さ約30m ・石材: 流紋岩 ・積み方: 野面積み、打ち込み接ぎ ・技法: 栗石、横矢掛かりの可能性 26 |
江戸時代初期~中期 (本多富正による改修期が有力) 29 |
記録保存の上で埋め戻し。一部を市役所敷地内にモニュメントとして移築・復元展示 27 。 |
地上遺構が失われた府中城であるが、その面影を伝える貴重な建造物が現存する。越前市京町にある正覚寺の山門は、府中城の表門を明治時代に移築したものである 6 。この門は、二本の主柱と二本の控え柱で屋根を支える「高麗門」という城門に典型的な形式を持ち、両脇に潜戸を配した堂々たる構えを見せる 32 。
屋根には、福井城や丸岡城の天守にも用いられている笏谷石(しゃくだにいし)製の石瓦が葺かれており、雪深い越前の城郭建築に共通する特色をよく示している 16 。この門は、本多家時代の府中城の建築様式を伝える唯一の現存建造物として、越前市の有形文化財に指定されており、その価値は極めて高い 6 。
もう一つの移築遺構が、本多家の菩提寺である龍泉寺(越前市深草)に残されている。これは府中城の勘定奉行所の表門であったと伝えられており、城の中枢部だけでなく、政務を司った役所の建物の一部が現代に伝えられている点で貴重である 8 。これらの移築門は、単なる建築遺構ではなく、明治という大変革期において、地域のシンボルであった城の記憶を後世に伝えようとした人々の意志の表れと見ることができる。
現在の越前市役所の敷地内、かつての城の中心部にあたる場所には、「越府城址」と刻まれた石碑が建てられている 9 。碑文にある「越府」とは「越の国の政庁」を意味し、この地が古代以来、連綿と続く政治の中心地であったことを示唆している 1 。また、城は周囲に藤の花の垣を巡らせていたことから「藤垣城」という優美な別名でも呼ばれていた 1 。
越前府中城の歴史は、古代国府に始まる「政治的中心」としての土地の記憶を基盤に、戦国期の激動、近世の安定、そして近代以降の変容と再発見を経て形成された、重層的な物語である。
戦国期において、府中城は単に前田利家の最初の居城であっただけでなく、織田信長の地方支配戦略を体現する拠点であり、豊臣政権の権力闘争を映し出す鏡であった。江戸期には、一国一城令の例外として存続した事実そのものが、幕藩体制の巧妙な統治システムを象徴している。そして、近年の発掘調査で明らかになった堅固な石垣は、「御館」という呼称の裏に隠された、この城の軍事的・政治的重要性を雄弁に物語っている。
府中城は、特定の時代の軍事拠点という枠組みを超え、古代から現代に至るまで、越前の地の政治・社会の変遷を刻み続けた「歴史の地層」そのものである。文献史学と考古学の成果を統合し、その多角的な価値を理解することこそが、府中城という類稀な城郭の本質に迫る鍵であると結論付ける。