最終更新日 2025-08-24

延沢城

延沢城は出羽の要衝、延沢銀山を掌握し、最上氏の興亡と共に生きた山城。天女伝説の怪力武将・満延が最上義光と対立するも婚姻で臣従。最上氏改易で廃城となるも、その歴史は今も銀山温泉に息づく。

出羽の要衝・延沢城 ― 銀山を掌握し、最上氏の興亡と共に生きた戦国の山城 ―

序論:霧山城の歴史的意義

山形県尾花沢市の丘陵に、静かにその痕跡を刻む延沢城。別名を霧山城、あるいは野辺沢城とも称されるこの山城は、戦国時代の出羽国において、単なる一地方の城郭にとどまらない、極めて重要な戦略的価値を秘めた拠点であった 1 。多くの山城が純粋な軍事拠点として築かれたのに対し、延沢城はその性格を大きく異にする。城の東方には、かつて石見、生野と並び日本三大銀山の一つに数えられた延沢銀山が存在し、この城こそが、その莫大な富を産出する銀山の採掘、経営、そして防衛を担う中枢であった 3

延沢城の真価を理解するためには、この「武」の拠点としての側面と、「富」の源泉としての側面を、不可分のものとして捉える必要がある。この二重性こそが、城主・延沢氏を村山地方有数の国人領主へと押し上げ、後に出羽の統一を目指す最上義光との激しい攻防と、奇策に満ちた調略の物語を生み出す原動力となった。

本報告書は、日本の戦国時代という激動の時代を背景に、延沢城の築城から廃城に至るまでの全史を徹底的に調査し、その歴史的意義を多角的に解明するものである。最上氏の台頭、天童氏を盟主とする国人連合「最上八楯」との抗争、関ヶ原の戦いと連動した慶長出羽合戦、そして江戸幕府の成立に伴う最上氏の改易という、出羽国の歴史の奔流の中で、延沢城がいかにしてその役割を変え、やがて歴史の表舞台から姿を消していったのか。その軌跡を追うことは、戦国時代の地方権力の興亡、経済と軍事の密接な関係、そして近世へと移行する社会構造の変化を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるであろう。

第一章:延沢城の黎明 ― 築城と地理的要衝性

延沢城が歴史の舞台に登場する天文年間、出羽国は大きな転換期にあった。長らく続いた伊達氏の影響下から最上氏が脱却し、新たな地域覇権を確立しようと動き出す一方、村山地方の各地では国人領主が割拠し、権力の空白が生まれていた。この混沌とした情勢の中で、延沢城は築かれ、その堅固な構造と戦略的な立地によって、瞬く間に出羽の歴史を動かす重要な存在となったのである。

1節:天文年間の出羽国と延沢氏の台頭

延沢城の築城は、初代城主・延沢薩摩守満重によって天文16年(1547年)になされたと伝えられる 2 。この時期の出羽国、特に村山地方の政治情勢を理解することが、築城の背景を解き明かす鍵となる。当時、出羽の名門・最上氏は、隣国の大大名である伊達氏の内部抗争「天文の乱」(1542年-1548年)に介入し、その影響力を利用して伊達氏からの実質的な独立を回復しつつあった 7 。しかし、最上氏の当主・最上義守の力はまだ村山郡全域を完全に掌握するには至っておらず、後の驍将・最上義光はこの時まだ幼名・白寿丸を名乗る一歳児に過ぎなかった 8

まさにこの権力の過渡期、あるいは空白期を突く形で、延沢氏はその勢力を伸長させた。出自については詳らかではないものの、彼らは近隣に存在する延沢銀山という莫大な富の源泉を背景に、急速に力を蓄えたと考えられる 4 。この時期に、これほど大規模かつ堅固な山城を築き上げたという事実は、最上氏の支配がこの地域に完全には及んでいなかったことの証左である。延沢氏にとって、この築城は単なる防衛施設の建設に留まらず、銀山の利権を確保し、この地を実効支配下に置くための戦略的な「投資」であり、独立勢力としての地位を内外に宣言する行為であったと言えよう。

2節:城の縄張り ― 連郭式山城の構造と防御思想

延沢城は、標高297メートルの古城山山頂から北へ伸びる尾根筋を利用して築かれた、典型的な連郭式の山城である 2 。その縄張り(城の設計)は、戦国時代の山城としての特徴を色濃く残しつつも、後の時代の改修をうかがわせる高度な防御思想が随所に見られる。

城の中枢は、山頂に位置する本丸である。長軸80メートルにも及ぶ広大な平坦地が確保されており、発掘調査では建物の礎石も確認されていることから、城主の館が置かれていた可能性が高い 11 。本丸の周囲には二の丸や複数の曲輪(くるわ)が階段状に配置され、尾根を断ち切る巨大な堀切や、斜面を垂直に下る竪堀によって、敵の侵攻を阻むよう設計されている 6

特筆すべきは、虎口(城の出入り口)の構造である。延沢城跡には、敵兵を直進させず、直角に二度折り曲げさせることで突入速度を削ぎ、周囲から側面攻撃を加えることを可能にする「枡形虎口」や、通路を前後にずらして見通しを妨げる「食い違い虎口」の遺構が良好な状態で残存している 6 。これらは、特に鉄砲が普及した織豊期以降に発展した近世城郭の要素であり、延沢城が単なる中世の山城ではないことを示している。

この事実は、延沢城が天文年間に中世的な山城として築かれた後、最上氏の支配下に入り、特に関ヶ原の戦いを目前にした慶長期の緊迫した情勢の中で、近世的な防御思想を取り入れて大規模な改修が施された可能性を示唆している 5 。つまり、延沢城の縄張りは、中世から近世へと移行する築城技術の過渡期の姿を今に伝える、貴重な歴史遺産なのである。

山麓には、城主の平時の居館があったとされる「南館」や、家臣たちの屋敷が建ち並んだ「三の丸家中屋敷跡」、そして城の正面玄関である「大手門跡」が確認されており、山上の戦闘区域と山麓の居住・政務区域が一体となった、大規模な城郭であったことがわかる 6

表1:延沢城の主要な遺構と特徴

遺構の種類

特徴と機能

本丸・二の丸

城の中枢部。山頂の広大な平坦地に位置し、城主の館や主要な建物があったと推定される。市内を一望できる strategic な位置にある 11

曲輪(くるわ)

本丸から北へ伸びる尾根筋に階段状に配置された平坦地。兵士の駐屯地や防御施設として機能した 6

枡形虎口

城門の一形式。通路を四角く囲い、二度直角に曲げさせる構造。敵の突進力を削ぎ、三方向からの側面攻撃を可能にする高度な防御施設 6

堀切

尾根を人工的に深く掘り下げて分断する堀。敵が尾根伝いに侵攻するのを防ぐ、山城の基本的な防御施設 6

竪堀

城の斜面に沿って垂直方向に掘られた堀。斜面を横移動する敵兵の動きを制限し、堀切と組み合わせて防御効果を高める 6

石垣・土塁

曲輪の縁を補強し、防御壁として機能する構造物。延沢城では石垣と土塁の両方が確認されている 6

天人清水

堀切の底に位置する池。城内の貴重な水源であり、後述する延沢氏の「天女伝説」の舞台ともなった 2

麓の居館・屋敷跡

山麓の緩斜面に位置し、平時の政務や生活の拠点。城と城下町が一体化していたことを示す 6

3節:戦略拠点としての立地 ― 街道と銀山を扼す地

延沢城の戦略的価値は、その堅固な縄張りのみならず、絶妙な立地条件によって決定づけられていた。城は、現在の尾花沢市街と、東方に位置する延沢銀山(現在の銀山温泉)のほぼ中間に位置している 5 。この場所は、当時の出羽国における経済と交通の動脈を扼する、まさに要衝であった。

第一に、交通路の掌握である。城の西側には、出羽国を南北に貫く主要幹線・羽州街道が通っており、城はこの街道を見下ろす位置にあった 20 。また、南西には最上川舟運の重要な川港であった大石田河岸があり、ここを抑えることで物資の流通にも大きな影響力を行使できた 11 。陸路と水路、双方の結節点を押さえることで、延沢城は人・物・情報の流れを支配する拠点となり得たのである。

第二に、そして最も重要なのが、延沢銀山との関係である。延沢城は、銀山を防衛するための最前線基地であった。銀山から産出される銀の輸送路を監視し、外部勢力による略奪や襲撃から守るという直接的な防衛機能は、城の存在意義そのものであったと言っても過言ではない 11 。城と銀山は、いわば一心同体の関係にあり、一方が栄えれば他方も栄え、一方が脅かされれば他方も危機に瀕する運命共同体であった。この立地こそが、延沢城を単なる山城から、出羽国の経済を左右するほどの力を持つ戦略拠点へと昇華させたのである。

第二章:城主・延沢氏三代の興亡

延沢城の歴史は、城主であった延沢氏三代、すなわち創業者・満重、驍将・満延、そして激動の時代を生きた光昌の歴史そのものである。特に二代・満延の時代、延沢氏はその武勇と銀山からもたらされる富を背景に、出羽の統一を目指す最上義光の前に最大の障壁として立ちはだかった。両者の対立と和解の物語は、戦国時代の地方権力のダイナミズムを鮮やかに映し出している。

1節:初代・満重の時代 ― 創業の城主

延沢城を築き、延沢氏の礎を築いた初代・満重 1 。彼の事績に関する詳細な記録は多くないが、天文年間という権力の流動期に、銀山の利権を背景として一大勢力を築き上げた卓越した経営者であったことは間違いない。彼の最大の功績は、単に城を築いただけではなく、延沢氏の権威を高める一つの「物語」を生み出した点にあるかもしれない。

それは、彼の跡継ぎである満延の出生にまつわる「天女伝説」である。世継ぎに恵まれなかった満重が観音菩薩に祈願したところ、「城の麓にある天人清水という泉に天女が舞い降りる」とのお告げを受けた。満重が泉を訪れると、お告げ通り天女が水浴びをしており、満重は天女の羽衣を隠して彼女を妻に迎えた。やがて二人の間には男の子が生まれ、この子が後の満延である。天女は息子を産んだ後、置き手紙を残して天に帰ったが、その手紙には「清水のほとりに城を築けば子孫は繁栄する」と記されていた。これに従い満重が築いたのが延沢城であり、敵が近づくと霧が立ち込めて城の姿を隠したことから「霧山城」とも呼ばれるようになったという 10 。この伝説は、延沢氏の支配に神秘的な権威を与え、次代の満延が持つ超人的な力の源泉を説明するものとして、領民の心に深く刻まれたことであろう。

2節:二代・満延 ― 伝説と武勇に彩られた驍将

父・満重の跡を継いだ延沢能登守満延は、天女を母に持つという伝説に違わぬ、まさに人間離れした武勇と怪力でその名を轟かせた武将であった 23 。彼の武勇伝は数多く残されており、それらは単なる逸話の域を超え、彼の存在そのものが戦略的な意味を持つほどの「武威」を放っていたことを物語っている。

その怪力ぶりを示す最も有名な逸話が二つある。一つは、山形の両所宮にあった大鐘を、多くの力自慢が動かせずにいたにもかかわらず、満延は「提灯より軽い」と言って軽々と一人で担ぎ上げ、約40キロメートル離れた居城の麓、鶴子まで持ち帰ったという伝説である 23 。もう一つは、主君である最上義光が満延の剛力を試そうとした際のエピソードである。義光が逆に満延に追いかけられ、太い桜の古木にしがみついて抵抗したところ、満延は義光を木から引き離そうと力を込めるあまり、桜の木を根こそぎ引き抜いてしまったという 26

戦場においてもその力は遺憾なく発揮された。約1.5メートルの鉄棒を振り回して敵兵を次々となぎ倒し、組み合ってきた大男を軽々と持ち上げて田んぼに投げ飛ばすと、杭のように突き刺さったと伝えられる 23 。これらの伝説は、単なる民話として片付けるべきではない。戦国時代において、武将の武勇や評判は、兵の士気を高め、敵を心理的に威圧する効果を持つ、兵力にも匹敵する重要な戦略資産であった。満延の超人的な「伝説」は、延沢氏の独立性を担保する強力なブランドイメージ、すなわち一種の「ソフトパワー」として機能していた。だからこそ、稀代の謀将である最上義光でさえ、この難敵を正面から屈服させることを避け、後述する婚姻という懐柔策を選ばざるを得なかったのである。

また、満延は剛勇なだけでなく、信仰心も篤く、菩提寺である龍護寺を再興したことでも知られている 30

3節:最上義光との対立 ― 最上八楯の旗頭として

最上義光が父・義守から家督を継ぎ、出羽統一に乗り出した天正年間、その前に立ちはだかったのが「最上八楯(もがみやつだて)」と呼ばれる国人領主連合であった。これは、最上氏の一族でありながら義光と対立した天童氏を盟主とし、村山地方の有力国人が同盟を結んで義光に対抗したものである 31

延沢満延もこの最上八楯の有力な一員であり、その経済力と武勇から、盟主の天童氏と並ぶ旗頭と目されていた 4 。天正2年(1574年)に勃発した、義光と隠居した父・義守との家督争い「天正最上の乱」においては、満延は義守・伊達輝宗方に与し、義光を大いに苦しめた 8 。義光は巧みな戦術でこの危機を乗り切ったものの、最上八楯、とりわけ延沢氏の存在が、自身の出羽統一事業における最大の障害であることを痛感したに違いない。

4節:婚姻による臣従と三代・光昌の時代

武力で最上八楯を屈服させることが困難であると悟った最上義光は、戦略を転換する。それは、連合体の内部から切り崩す調略であった。その標的として白羽の矢が立ったのが、八楯の要である延沢満延であった 29

天正12年(1584年)、義光は驚くべき一手に出る。自らの長女である松尾姫を、満延の嫡男・又五郎(後の光昌)に嫁がせるという婚姻政策を提案したのである 25 。これは、敵将の息子を娘婿として一門に迎え入れるという、最大限の譲歩を伴う懐柔策であった。この縁組により、延沢氏は最上八楯から離反し、義光方に寝返った。最強の構成員を失った最上八楯は急速に弱体化し、まもなく盟主の天童城が落城、連合は崩壊した。これにより、義光による村山郡の平定は決定的なものとなった。

この一件は、最上義光が単に敵を滅ぼす地方領主から、旧敵すらも巧みに自らの勢力に組み込み、より大きな秩序を構築しようとする「戦国大名」へと脱皮する、戦略思想上の転換点であったと言える。最強の敵を娘婿という最も近い関係に取り込むことで、義光は他の国人たちに「抵抗するよりも味方になる方が利がある」という明確なメッセージを発信したのである。

義光の重臣となった満延は、天正18年(1590年)に主君の上洛に従うが、翌天正19年(1591年)、京都にて病没した 29

父の跡を継いだ三代・光昌(当初は康満)は、義光の娘婿として最上一門に連なり、家老格として重用された 26 。後に主君・義光から一字を拝領して「光昌」と改名したことからも、両家の関係が極めて密接であったことがうかがえる 26 。こうして延沢氏は、かつての独立領主から、最上家の領国経営を支える重要な柱へと、その役割を大きく変えていったのである。

第三章:富の源泉、延沢銀山

延沢城と城主・延沢氏の権勢を支えた根源は、疑いなく延沢銀山からもたらされる莫大な富であった。この銀山は、単に地方の経済を潤すに留まらず、戦国時代の日本の、ひいては世界経済の潮流とも無縁ではなかった。城と銀山が形成した経済・軍事複合体は、戦国期における資源地政学の典型例であり、出羽国の勢力図を塗り替えるほどの力を持っていた。

1節:発見から戦国期の開発史

延沢銀山の発見は、室町時代の康正2年(1456年)に、加賀国金沢の儀賀市郎左ェ門という人物によってなされたと伝えられる 36 。その後、一時期は採掘が途絶えていたが、戦国時代の天正2年(1574年)頃、延沢満延が銀山周辺に上の畑関所を設けるなどして管理を強化し、本格的な再開発に着手したことで、銀山は再び活気を取り戻した 37

その後の産銀量は飛躍的に増大し、慶長年間(1596年-1615年)には、最盛期を迎え、佐渡金銀山や石見銀山、生野銀山に匹敵するほどの産出量を誇ったとされ、日本三大銀山の一つに数えられるまでになった 3 。延沢氏が最上氏に臣従した後は、銀山は最上氏の重要な財政基盤となり、慶長3年(1598年)には豊臣秀吉に対し、延沢銀山産出分を含む金銀を上納した記録も残っている 36 。この銀山が、最上氏が後に57万石の大大名へと飛躍する経済的土台の一部を形成したことは間違いない。

2節:戦国大名にとっての銀の価値と鉱山経営

戦国時代において、金銀、特に銀は極めて重要な戦略物資であった。貨幣経済が浸透しつつあった当時、銀は兵士の雇用のための給金、鉄砲や弾薬といった最新兵器の購入、城郭の普請など、軍事力を維持・拡大するための軍資金に直結していた 39 。有力な戦国大名の多くが、領内の鉱山開発に心血を注いだのはこのためである。

さらに、16世紀の日本は、大航海時代を迎えたヨーロッパと、銀を基軸通貨としていた明(中国)とを結ぶ、世界的な交易ネットワークの中に組み込まれていた。当時、世界的に見ても有数の銀産出量を誇った日本産の銀は、生糸や陶磁器、香辛料などを購入するための主要な決済手段であり、国際交易の主役であった 40 。延沢銀山で採掘された銀もまた、最上川舟運や日本海航路を通じて、このグローバルな経済網へと流れ込んでいた可能性は極めて高い。

鉱山の経営形態は、延沢氏による直接支配から、最上氏の支配下では「運上山」へと移行したと考えられる 5 。これは、鉱山の採掘権を山師(鉱山経営者)に与え、その収益から一定額の税(運上銀)を領主が徴収する、一種の請負制度である。また、採掘技術も進化し、地表の鉱脈(露頭)を掘る初期的な段階から、坑道(間歩)を掘り進めるより高度な技術へと発展していった 43 。全国から優れた技術を持つ山師たちが集められ、排水技術や精錬技術(灰吹法など)を駆使して、生産性の向上に努めていたのであろう 37

延沢氏が農業生産(石高)を主たる基盤とする他の多くの国人領主と一線を画し、最上八楯の旗頭と目されるほどの「地域権力」にまで成長できたのは、まさにこの銀山という強力な経済エンジンを擁していたからに他ならない。

3節:延沢城の銀山支配・防衛機能

延沢城と延沢銀山の関係は、現代における国指定史跡のあり方そのものが雄弁に物語っている。延沢城跡、銀山の坑道跡(間歩)、そして銀山の守り神である山神神社は、三つが一体となって「延沢銀山遺跡」として国の史跡に指定されているのである 5 。これは、これらが機能的に不可分な、一つの歴史的・文化的景観を形成していることを示している。

延沢城は、銀山という「富」を守るための「武」の拠点であった。具体的には、産出された銀や、高度な技術を持つ山師たちを外部の攻撃から守る軍事的な防衛機能が第一に挙げられる 5 。同時に、城は銀山の生産管理や運上銀の徴収を行う行政庁としての役割も担っていた 22 。城と銀山は、一方が資源、他方がその管理・防衛拠点という、明確な役割分担のもとに成立した複合体であった。

最上義光が、あれほどの武勇を誇る延沢満延に対し、武力による殲滅ではなく、娘を差し出してまで味方に引き入れようとした理由もここにある。義光が欲したのは、単に敵対勢力を排除することだけではなかった。出羽国最大の経済拠点である延沢銀山を、その管理ノウハウを持つ延沢氏ごと無傷で手中に収めることこそが、彼の覇業にとって不可欠な戦略目標だったのである。延沢城を巡る攻防は、まさに出羽国の資源支配を巡る争奪戦の縮図であった。

第四章:東北の関ヶ原 ― 慶長出羽合戦と延沢城

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いと時を同じくして、東北地方では徳川家康方の最上義光と、石田三成方の会津・上杉景勝との間で激しい戦いが繰り広げられた。世に言う「慶長出羽合戦」である。この戦いは、最上氏の存亡をかけた一大決戦であり、最上家の重臣となっていた延沢氏と、その居城・延沢城もまた、この歴史的な戦いの中で重要な役割を果たすこととなる。

1節:最上体制下の支城としての役割

天下分け目の戦いが迫る中、最上義光は領国全域にわたる防衛体制を構築した。本城である山形城を中心に、各街道の要衝や国境沿いに支城網を張り巡らせ、上杉軍の侵攻に備えたのである。延沢城もまた、山形城の北方、そして村山地方の北の玄関口を固める重要な支城として、この防衛ネットワークの一翼を担っていた 12

上杉軍の総大将・直江兼続が率いる主力部隊は、米沢から山形城南方の長谷堂城へと侵攻したため、延沢城が直接戦火に晒されることはなかった 47 。しかし、北の庄内地方や仙北地方からの別動隊の侵攻に備え、また後方の兵站線と領民を守る拠点として、延沢城が果たした戦略的意義は決して小さくなかった。城主・延沢光昌は、来るべき決戦に備え、城の守りを固めていたと考えられる。

2節:長谷堂城の攻防と延沢光昌の活躍

慶長出羽合戦の雌雄を決したのが、山形城の南西わずか7キロメートルに位置する長谷堂城を巡る攻防戦であった。直江兼続率いる2万を超える上杉軍の猛攻に対し、城主・志村光安とわずか1000余の城兵は、15日間にわたり驚異的な粘りを見せ、山形城への道を閉ざし続けた 47

この絶体絶命の危機に際し、最上義光は山形城から後詰め(救援)部隊を派遣して長谷堂城を支援した。延沢城主・延沢光昌も、この救援部隊の主力武将の一人として出陣し、上杉軍と激戦を繰り広げた 25 。かつては最上氏と敵対した延沢氏が、今や主家の存亡をかけて最前線で戦う。この事実は、延沢氏が旧来の独立性の高い国人領主から、大名家の軍事機構に完全に組み込まれた「近世的武士」へと変質を遂げたことを象徴する出来事であった。彼らの戦いは、もはや延沢家個別の利益のためではなく、最上家全体の戦略目標に従属するものとなっていたのである。

9月29日、関ヶ原における東軍大勝利の報が両軍に届くと、戦況は一変する。上杉軍は全軍撤退を開始し、最上・伊達連合軍は猛烈な追撃戦を展開した 47 。光昌もこの追撃戦で功を挙げた後、返す刀で上杉領となっていた庄内地方への攻略戦に参加。総大将・最上義康(義光の嫡男)のもと、酒田の東禅寺城などを攻略し、最上氏がかつて失った庄内地方の奪還に大きく貢献した 25

3節:戦後の論功行賞と最上57万石体制の確立

慶長出羽合戦における多大な軍功により、最上義光は徳川家康から破格の恩賞を受ける。従来の24万石に加え、庄内三郡、由利郡などが加増され、合計57万石という、東北地方でも伊達氏に次ぐ大大名へと躍進を遂げた 47

この論功行賞において、延沢氏もまたその忠功を高く評価された。延沢光昌は2万7千石の所領を安堵され、最上家における重臣としての地位を不動のものとした 1 。延沢城は、新たに大大名となった最上家の広大な領国を支える、北の要としてその重要性を一層高めることとなった。光昌の活躍は、最上57万石体制の確立に不可欠なものであり、延沢城と延沢氏は、まさにその栄光の頂点を迎えたのである。

第五章:落日の時 ― 最上氏改易から廃城へ

慶長出羽合戦の勝利によって57万石の大大名へと駆け上がった最上氏であったが、その栄華は長くは続かなかった。驍将・義光の死後、家督を巡る深刻な内紛が勃発し、その混乱はついに江戸幕府の介入を招く。主家・最上氏の突然の改易は、重臣であった延沢氏と延沢城の運命をも大きく狂わせ、やがて城は、戦乱の時代の終わりと共にその歴史的役割を終えることとなる。

1節:最上騒動と延沢氏の運命

最上義光の死後、最上家では後継者を巡る家臣団の対立が激化し、いわゆる「最上騒動」と呼ばれる御家騒動が頻発した 51 。延沢光昌は、義光の娘婿であり、二代藩主・最上家親からの信頼も厚い重臣として、この騒動の渦中にあった 35 。慶長19年(1614年)には、豊臣家との繋がりを疑われた家親の弟・清水義親の討伐軍にも参加している 25

しかし、家臣団の分裂と抗争は収まらず、ついに元和8年(1622年)、三代将軍・徳川家光は最上家の統治能力に著しい欠陥ありと断じ、57万石の領地をすべて没収するという厳しい処分を下した(改易) 1

主家の改易に伴い、延沢光昌もまたその地位を失った。彼は幕府の命により、肥後国熊本藩主・加藤忠広のもとへ預けられる身となり、延沢の地を去ることとなった 1 。これにより、天文年間の築城以来、約75年間にわたる延沢氏による延沢城の支配は、ここに終焉を迎えたのである。

2節:鳥居忠政の入部と城番の配置

最上氏が去った後の山形には、磐城平藩から鳥居忠政が24万石(後に20万石)で入部し、新たな山形藩主となった 1 。延沢城および延沢銀山も、鳥居氏の所領となった 37

忠政は、延沢城を即座に破却することはせず、家臣の戸田玄蕃を城番(城代)として配置し、支城として一時的に維持した 6 。これは、最上氏改易後の領内の治安維持や、広大な領地を統治するための過渡期的な措置であったと考えられる。なお、この城が「野辺沢城」から「延沢城」へと表記が改められたのは、この鳥居氏の時代であったとされている 11

3節:寛文7年の廃城 ― 山城の時代の終焉

一時的に維持された延沢城であったが、その歴史に幕が下ろされる時が来た。寛文7年(1667年)、延沢城は幕府の命によって破却されたと伝えられる 2

この廃城の背景には、江戸幕府による全国統治体制の確立という、より大きな時代の潮流があった。第一に、元和元年(1615年)に発布された「一国一城令」の存在である。これは、大名が居城以外の支城を持つことを原則として禁じた法令であり、地方の軍事力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むことを目的としていた 54 。延沢城は、この法令の後も例外的に存続が認められていたが、その破却は、この法令の趣旨を徹底させる幕府の方針の現れであった。

第二に、統治体制の変化である。戦乱の時代が終わり、泰平の世が訪れると、統治の中心は防御に優れた山城から、政務や経済活動に便利な平城や陣屋へと移っていった。武士もまた、在地性の強い戦闘員から、主君の命令によって動く行政官僚へとその性格を変質させていった 56 。もはや軍事拠点としての価値を失い、維持管理に多大な費用がかかる山城は、新しい時代の統治機構にとって不要な存在となっていたのである。

延沢城の廃城は、単に一つの城の歴史が終わったことを意味するのではない。それは、幕府が地方の在地領主が持っていた軍事力を解体し、中央集権的な官僚統治システムを盤石なものにしていく、全国規模で展開された政策の象徴的な出来事であった。城の石垣が崩され、建物が取り壊されたのは、戦国という時代の記憶そのものを、新しい秩序のもとに解体する儀式でもあったと言えよう。

ただ一つ、その記憶を今に伝えるものがある。廃城の際、三の丸にあった大手門が、延沢氏の菩提寺である龍護寺に移築されたのである。現在も同寺の山門として荘厳な姿をとどめるこの門は、かつてこの地にあった堅城の面影を伝える、唯一にして貴重な証人である 2

結論:延沢城が現代に語りかけるもの

延沢城の歴史は、戦国時代から江戸時代初期にかけての出羽国、ひいては日本の歴史の縮図である。それは、銀山という「富」と、山城という「武」が結びつくことで、一介の国人領主を地域覇権を争う有力者へと押し上げ、やがては天下の趨勢と連動しながら、その役割を終えていく壮大な物語であった。

延沢城の歴史的価値は、第一に、戦国時代の経済と軍事の密接な関係を具体的に示す点にある。城は銀山を守り、銀山は城を支えるという不可分の関係は、当時の争乱が単なる領土の奪い合いだけでなく、経済的要衝を巡る「資源戦争」であったことを明確に物語っている。

第二に、中世から近世へと移行する過渡期の城郭の姿を良好に留めている点である。尾根筋を利用した連郭式の縄張りという中世的な特徴と、枡形虎口のような高度な防御施設という近世的な特徴を併せ持つ遺構は、築城技術の変遷を理解する上で学術的価値が極めて高い。

そして今日、延沢城跡は「延沢銀山遺跡」という複合的な史跡の一部として保存・活用されている 5 。これは、城郭という点だけでなく、それを取り巻く鉱山、信仰、生活といった、地域全体の歴史的景観を丸ごと後世に伝えようとする、現代の文化財保護の理念を体現するものである。

城跡に残る遺構群、城の歴史を築城以前から見つめてきた樹齢1000年を超える大杉(県指定天然記念物)、そして龍護寺に現存する三の丸大手門は、訪れる者に戦国の世の息吹を静かに語りかける 2 。さらに、かつての銀山が、今は日本有数の温泉地「銀山温泉」として多くの人々を惹きつけていることは、延沢城がもたらした経済的遺産が形を変えて現代に生き続けている証左と言えよう 13 。延沢城の歴史を紐解くことは、この地の文化観光に比類なき深みと物語性を与え、我々に地域の歴史を再発見する喜びを教えてくれるのである。

附録

表2:延沢城・延沢銀山 関連年表

西暦 (和暦)

延沢城・延沢氏の動向

延沢銀山の動向

関連事項(出羽国・中央情勢)

1456年 (康正2)

儀賀市郎左ェ門により発見される 36

1542年 (天文11)

伊達氏で「天文の乱」勃発。最上氏が独立性を回復する契機となる 7

1546年 (天文15)

最上義光、誕生 8

1547年 (天文16)

延沢満重により築城される 2

1574年 (天正2)

満延、最上八楯の一員として「天正最上の乱」で義光と敵対 32

満延が関所を設け、再開発に着手 37

最上義光と父・義守が争う「天正最上の乱」が勃発 32

1584年 (天正12)

満延の嫡男・光昌と最上義光の長女・松尾姫が婚姻。延沢氏が最上氏に臣従 29

この婚姻を機に最上八楯が崩壊。義光が出羽統一を大きく前進させる。

1591年 (天正19)

二代城主・延沢満延、京都にて病没。光昌が家督を継ぐ 29

1598年 (慶長3)

最上氏が豊臣秀吉に銀などを上納 36

豊臣秀吉、死去。

1600年 (慶長5)

光昌、長谷堂城救援や庄内攻略で活躍 25

慶長年間に最盛期を迎える 3

「慶長出羽合戦」勃発。関ヶ原の戦い。

1614年 (慶長19)

光昌、最上家の内紛(清水義親討伐)に参加 25

大坂冬の陣。

1622年 (元和8)

最上氏改易。光昌は肥後加藤家へ預けられる 1

鳥居忠政の所領となる 37

最上氏が改易。鳥居忠政が山形藩主となる。

1634年 (寛永11)

幕府直営の「御公儀山」となる 36

1667年 (寛文7)

幕府の命により廃城となる 2 。三の丸大手門が龍護寺へ移築 6

1689年 (元禄2)

大崩落が発生し、全山廃山となる。以後、温泉湯治場として発展 37

1985年 (昭和60)

「延沢銀山遺跡」の一部として国の史跡に指定される 2

引用文献

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  2. 延沢城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%B2%A2%E5%9F%8E
  3. 延沢銀山遺跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190182
  4. 延沢銀山遺跡と銀山温泉がある日本三大豪雪地帯【尾花沢市】私のぷらぷら計画(まいぷら) https://z1.plala.jp/~hod/trip_home/06/city-12.html
  5. 延沢銀山遺跡 (のべさわぎんざんいせき) - 山形県 https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1133
  6. 出羽 延沢城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/nobesawa-jyo/
  7. 最上義光の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/50952/
  8. 最上義光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
  9. 最上義光~出羽の謀将、波乱の生涯 | WEB歴史街道 - PHP研究所 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4619
  10. 野辺沢城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/yamagata/nobesawa/nobesawa.html
  11. 延沢城 余湖 http://yogoazusa.my.coocan.jp/yamagata/oabanazawa01.htm
  12. 戦国山形の合戦と城 http://www.mumyosha.co.jp/docs/22new/gassento.html
  13. 【延沢城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_06212af2170017606/
  14. 第472回:延沢城(怪力で知られる延沢満延を輩出した) http://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-503.html
  15. 延沢城の見所と写真・100人城主の評価(山形県尾花沢市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1105/
  16. 延沢城跡発掘調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/7/7768/5738_1_%E5%BB%B6%E6%B2%A2%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  17. 延沢城(のべさわじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BB%B6%E6%B2%A2%E5%9F%8E-180214
  18. 延沢城ウォーキングコース 所要時間 60分 中級コース - 尾花沢市 https://www.city.obanazawa.yamagata.jp/fukushi/kenkoudukuri/walking/351
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  20. 羽州街道の要衝に立ち、最上、徳川、上杉の戦場となった「東根城」【山形県東根市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/23641
  21. 出羽 尾花沢楯-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/obanazawa-tate/
  22. 村山市 土生田楯の歴史と史跡をご紹介! - KABUOのぶらり旅日記 https://www.yamagatakabuo.online/entry/2021/07/26/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E5%B8%82_%E5%9C%9F%E7%94%9F%E7%94%B0%E6%A5%AF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%82%92%E3%81%94%E7%B4%B9%E4%BB%8B%EF%BC%81%F0%9F%8F%AF
  23. 実は天女の子!?驚異の怪力を誇った最上随一の豪傑・延沢満延 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xdqL0-pbA64
  24. 母親は天女!?常人を超えた怪力を持った戦国武将・延沢満延の逸話がどれもスケールがデカ過ぎる! | - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/229673
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  57. 武士(モノノフ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E5%A3%AB-124344
  58. 祥雲山龍護寺|観光スポット(尾花沢市・村山地方) - やまがたへの旅 https://yamagatakanko.com/attractions/detail_1669.html
  59. 延沢城跡のスギ (のべさわじょうあとのすぎ) - 山形県 https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1641
  60. 歴史と温泉 - 銀山温泉 公式サイト https://www.ginzanonsen.jp/ginzan/historyspa.html
  61. 名所 旧跡 延沢銀山遺跡 - 尾花沢市 https://www.city.obanazawa.yamagata.jp/kanko/nature/1398