遠江の要衝引馬城は、今川氏の衰退と徳川氏の台頭を見届けし地。女城主お田鶴の方の悲劇と家康の出世城への変貌を語り継ぐ。
日本の戦国時代、数多の城郭が興亡を繰り返す中で、遠江国(現在の静岡県西部)に存在した引馬城(ひくまじょう)は、単なる一地方の拠点に留まらない、特異な歴史的意義を担っている。この城は、戦国中期の流動的な政治状況を映し出す鏡であり、今川氏の衰亡と徳川氏の台頭という、時代の大きな権力移行が交差した劇的な舞台であった。
地理的に見れば、遠江国は駿河を本拠とする今川氏、三河から勢力を伸ばす徳川氏(松平氏)、そして甲斐から常に南下を窺う武田氏という、当代屈指の三大勢力がせめぎ合う最前線に位置していた 1 。その遠江の中心部に築かれた引馬城は、この地域の支配権を確立するための鍵となる、極めて重要な戦略拠点であった。故に、その支配権を巡っては、血で血を洗う攻防が繰り広げられ、城主の運命は時代の荒波に翻弄され続けた。
本報告書は、この引馬城を多角的な視点から徹底的に調査・分析するものである。まず、謎に包まれた築城の経緯から、今川氏配下で城を預かった飯尾氏の時代、特に城主・飯尾連龍とその妻・お田鶴の方を巡る悲劇的な物語を、複数の史料を比較検討しながら詳述する。次に、徳川家康による遠江侵攻と引馬城の陥落、そして「浜松城」へと改称・拡張され、家康の天下取りの礎となる「出世城」へと変貌を遂げる過程を明らかにする。さらに、古地図や近年の考古学的発掘調査の成果に基づき、城郭構造の変遷を具体的に解き明かす。最後に、後世に形成された「椿姫伝説」が、いかにして歴史的事実と結びつき、地域の文化として根付いていったのかを探求する。
本報告書は、事実としての歴史(築城、攻防、改修)と、記憶としての歴史(伝説、伝承)という二つの側面から引馬城を立体的に描き出すことを目指す。これにより、一つの城の歴史を通じて、戦国という時代のダイナミズム、そこに生きた人々の葛藤、そして歴史が後世に語り継がれていく様相を、深く理解するための一助としたい。
引馬城の歴史は、その起源からして謎に満ちており、遠江国における権力の流動性を象徴している。飯尾氏が城主として歴史の表舞台に登場する以前、この地は守護大名や在地領主たちの思惑が交錯する場であった。
引馬城がいつ、誰によって築かれたのかを明確に示す一次史料は現存しない 3 。後世の地誌や記録には複数の説が記されており、その錯綜自体が、この城の成立背景の複雑さを物語っている。
江戸時代の記録である『浜松御在城記』や『曳駒拾遺』は、いくつかの説を併記している。一つは、永正年間(1504年~1521年)に三善為連(みよし ためつら)という人物が、元は久野氏の一族の屋敷であったものを城として取り立てたという説である 5 。また、別の説として、三河国臥蝶城主であった大河内備中守貞綱、あるいは大河内兵庫という人物が築城したという説も挙げられている 5 。さらに、今川貞相(いまがわ さだすけ)が初めて築いたとする説も存在する 6 。
これらの諸説の背景には、15世紀から16世紀初頭にかけての遠江国における複雑な勢力争いが存在する。当時、遠江国の守護は斯波氏であったが、その支配力は盤石ではなく、駿河から西進を図る今川氏や、三河に勢力を持つ吉良氏などが影響力を及ぼそうとしていた。特に大河内氏は、三河の吉良氏の代官として浜松荘に入り、守護・斯波義達と結んで今川氏親に抵抗し、敗死したと記録されている 3 。
これらの築城者に関する説の乱立は、単なる記録の欠如と見るべきではない。むしろ、それは特定の個人が何もない場所に一から城を築いたというより、既存の館や砦が、この地域の覇権を争う複数の勢力によって、それぞれの戦略的拠点として段階的に拡張・整備されていった過程を反映していると考えられる。斯波氏、今川氏、吉良氏といった大勢力がしのぎを削り、在地領主が離合集散を繰り返す中で、この要衝の地が利用され続けた結果、特定の「創設者」の記憶が曖昧になったのであろう。引馬の地が、古くから東海道の宿駅として栄え 8 、天竜川水系の交通の要でもあったこと 9 が、この地を各勢力にとって魅力的なものとした根本的な要因であった。
最終的に遠江国の支配権を確立したのは、駿河の今川氏であった。今川氏親は、斯波義達や大河内貞綱らの抵抗を排し、遠江をその勢力下に組み込むことに成功する。この過程で、引馬城は今川氏の遠江支配における重要な支城としての役割を担うことになった 3 。
今川氏の支配下で引馬城主となったのが飯尾氏である。飯尾氏は、今川氏に招かれる形で大河内氏の跡を継ぎ、賢連(かたつら)、そしてその子・乗連(のりつら)、孫の連龍(つらたつ)と、三代にわたって城主を務めた 3 。彼らは単なる城代ではなく、今川氏の重臣として、遠江国の国人衆を束ね、領国経営を実質的に担う重要な存在であった。飯尾氏の統治下で、引馬城は今川氏の西の拠点として整備され、その支配体制を支える中心的な役割を果たしたのである 4 。
今川家の栄華が絶頂に達した直後、その運命は桶狭間の戦いを境に暗転する。この激動の時代、引馬城主であった飯尾連龍とその妻・お田鶴の方は、今川氏の衰亡と徳川家康の台頭という巨大な権力移行の渦に巻き込まれ、悲劇的な結末を迎えることとなる。
永禄3年(1560年)、今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、今川領国に深刻な動揺をもたらした 11 。義元という強力な求心力を失った今川氏は急速に衰退し、これを好機と見た松平元康(後の徳川家康)は三河で独立を果たす 12 。今川氏の権威は失墜し、領内の国人衆の間にも離反の動きが広がり始めた 13 。
このような不安定な状況下で、父・乗連の跡を継いで引馬城主となったのが飯尾連龍であった。彼は、没落しつつある主君・今川氏真への忠誠を維持すべきか、あるいは三河で勢力を拡大する徳川家康と結び、新たな活路を見出すべきかという、極めて困難な選択を迫られることになった 6 。この葛藤が、後の連龍の悲劇的な運命へと繋がっていくのである。
多くの史料は、飯尾連龍が最終的に今川氏真を見限り、徳川家康への内通を図ったと記している。永禄7年(1564年)、連龍は病と称して引馬城に立てこもり、今川氏に対して公然と反旗を翻した 6 。これに対し氏真は、重臣の新野親矩(にいの ちかのり)を大将とする討伐軍を派遣するが、引馬城の守りは固く、逆に新野親矩が討ち死にするという結果に終わった 6 。この勝利は、飯尾氏の軍事力が侮れないものであったことを示している。
しかし、この反乱は長くは続かなかった。連龍の最期については、複数の史料がそれぞれ異なる記述を残しており、その真相は定かではない。これらの相違は、歴史が勝者によっていかに語られるか、そして事件の複雑さを如実に示している。
表1:飯尾連龍の最期に関する諸説比較 |
史料名 |
『遠江』 |
『武家事紀』 |
『井伊家伝記』 |
『浜松御在城記』 |
『武徳編年集成』 |
これらの記述の混乱は、連龍の行動が単なる「裏切り」ではなく、今川氏の統制力が弱体化する中で、在地領主が自らの勢力を保つために生き残りをかけて自立を模索する、当時の典型的な動きであったことを示唆している。彼の死をめぐる多様な記述は、この自立の試みが最終的に失敗に終わり、勝者である徳川方の視点や、混乱する今川家臣団の内部事情など、様々な立場から彼の行動が解釈・記録された結果生じたものと考えられる。特に、徳川方の史観からすれば、家康に味方しようとした連龍を氏真が不当に殺害したという筋書きは、徳川の遠江介入を正当化する上で好都合であっただろう。
夫・連龍の非業の死の後、引馬城の運命は、その妻・お田鶴の方の双肩にかかることとなった 6 。彼女は、戦国の世に咲いた悲劇の花として、後世に「椿姫」の名で語り継がれることになる。
お田鶴の方の出自は、彼女の行動を理解する上で重要である。彼女は今川氏の重臣・鵜殿長持(うどの ながもち)の娘であり、母は今川義元の妹(または義妹)とされる 6 。つまり、彼女は今川氏真の従姉妹にあたる高貴な血筋であった。さらに、彼女の兄・鵜殿長照は、永禄5年(1562年)に徳川家康によって居城の上ノ郷城を攻め滅ぼされている 16 。お田鶴の方にとって家康は、主家を脅かし、実兄を死に追いやった憎き仇敵であった。
永禄11年(1568年)12月、徳川家康が遠江に侵攻し、引馬城に迫ると、城主亡き後の城はお田鶴の方が事実上の「女城主」として守っていた。家康は使者を送り、城を明け渡せば一族の面倒を見るという破格の条件で降伏を勧告した 6 。しかし、お田鶴の方はこれを毅然と拒絶。「婦女子といえども武門の家に生まれた者、おめおめと城を開いて降参するのは私の志ではない」と述べたと伝えられている 6 。
そして、壮絶な籠城戦が始まった。諸記録によれば、お田鶴の方は自ら防戦の指揮を執り、緋縅(ひおどし)の鎧を身にまとい、薙刀を振るって侍女18人と共に城から討って出て、徳川軍の中に切り込み、奮戦の末に全員が討ち死にしたとされている 6 。その姿は、敵である家康さえも「惜しい女性を亡くした」と嘆かせたとされる。
しかし、この勇壮な物語の史実性については、慎重な検討が必要である。『浜松御在城記』などの一部の史料は、この籠城戦の逸話が、飯尾氏以前の城主である大河内氏の時代の合戦と混同されている可能性や、お田鶴の方が実際には人質として駿河へ送られたのではないかという異説も示唆している 6 。英雄的な物語は人々の記憶に残りやすいが、その背後には複雑な歴史的経緯が隠されている場合も少なくない。お田鶴の方の悲劇は、史実と伝説が交錯する中で、戦国という時代の非情さと、そこに生きた女性の気高さを象徴する物語として、現代にまで語り継がれているのである。
永禄11年(1568年)12月、徳川家康は今川領国への大規模な軍事侵攻を開始する。この遠江平定戦略において、引馬城の攻略は最重要目標の一つであった。その陥落の経緯は、お田鶴の方の悲劇的な籠城戦として語られる一方で、城内の深刻な内紛という、より現実的な側面も持ち合わせていた。
家康の遠江侵攻は、甲斐の武田信玄による駿河侵攻と連動して行われた 18 。両者は事前に、大井川を境界として今川領を東西に分割するという密約を結んでいた 21 。信玄が駿河へ、家康が遠江へ、同時に侵攻することで、弱体化した今川氏を一挙に滅亡させるという壮大な計画であった。しかし、この同盟は互いの利害が一致した一時的なものであり、当初から脆さを内包していた 23 。
家康は7千余の軍勢を率いて三河国境を越えた 2 。その侵攻ルートは周到に計画されていた。家康自らが率いる本隊は、危険な浜名湖の北岸を避け、事前に調略によって味方につけていた井伊谷三人衆(菅沼氏、近藤氏、鈴木氏)の先導で、陣座峠を越えて井伊谷へと進んだ 20 。一方、酒井忠次が率いる別動隊は本坂峠を越え、沿岸部の諸城を攻略した 24 。家康軍は、井伊谷城、白須賀城、宇津山城といった今川方の拠点を次々と陥落させ、浜名湖周辺を制圧 2 。遠江における今川氏の支配体制を、根元から切り崩していったのである。
家康が引馬城に迫った時、城内は城主・飯尾連龍を失った後の混乱の渦中にあった。城の主導権を握っていたのは、連龍の老臣であった江間安芸守泰顕(えま あきのかみ やすあき)と、その従弟である江間加賀守時成(えま かがのかみ ときなり)であった 24 。しかし、この二人は、城の進むべき道を巡って致命的な対立を抱えていた。
江間時成は、早くから主君・連龍に徳川家康と結ぶよう進言し、自ら岡崎城へ赴いて家康と通じていた、親徳川派の人物であった 26 。一方、江間泰顕は、駿河に侵攻してきた武田信玄に味方しようと画策していた 24 。徳川につくか、武田につくか。この路線対立は、やがて血を流す事態へと発展する。
家康の遠江侵攻が現実のものとなると、泰顕は徳川への抵抗を決意し、親徳川派の時成を殺害してしまう 26 。しかし、その直後、泰顕もまた、殺された時成の家臣・小野田彦右衛門によって討ち取られた 24 。指導者二人が相次いで殺害されるという内紛の連鎖により、引馬城は指揮系統を完全に失い、内部から崩壊した。この内紛劇は、家康の巧みな調略が城の内部にまで浸透し、敵の自壊を誘った結果とも言える。小野田彦右衛門は城を脱出して家康の陣に駆け込み、事の次第を報告した 26 。引馬城は、もはや組織的な抵抗が不可能な状態に陥っていたのである。
引馬城の陥落については、二つの異なる物語が伝わっている。一つは、前章で述べた「お田鶴の方の英雄的な籠城戦」であり、もう一つが今しがた詳述した「江間氏の内紛による自壊」である 18 。これらは一見、矛盾する説のようにも思えるが、必ずしも排他的なものではない。むしろ、連続した出来事として捉えることで、落城の全体像がより鮮明になる。
おそらく、江間氏の内紛によって城の指導部が壊滅し、指揮系統が麻痺する中で、城主の未亡人であるお田鶴の方が、残された城兵や侍女たちを率いて最後の抵抗を試みた、と考えるのが最も自然な解釈であろう。悲劇的な英雄譚の裏には、権力移行期にありがちな、生々しい内部分裂と権力闘争が存在した。家康の引馬城攻略の成功は、単なる軍事力の勝利に留まらず、今川氏の統制が失われた領内における国人たちの分裂を巧みに利用した、高度な政治・軍事戦略の成果であった。お田鶴の方の物語は、この複雑なプロセスの最終局面を劇的に切り取ったものとして、人々の記憶に強く刻み込まれたのである。
引馬城を手に入れた徳川家康は、この地を単なる占領地としてではなく、自らの未来を賭けた新たな本拠地として位置づけた。元亀元年(1570年)、家康は大きな決断を下す。それは、引馬城を「浜松城」と改め、対武田の最前線基地、そして後の天下取りの拠点へと変貌させていく壮大な計画の始まりであった。
元亀元年(1570年)、家康は本拠地を先祖代々の地である三河岡崎城から、遠江の引馬へと移した 13 。これは、当時最大の脅威であった武田信玄との全面対決に備え、戦略的な重心を東へ移すという、極めて大胆な決断であった 23 。
この移転に際し、家康は城の名前を「引馬城(曳馬城)」から「浜松城」へと改めた。その理由として、「曳馬(馬を引く)」という言葉が敗走を連想させ、縁起が悪いとされたためと伝えられている 7 。しかし、この改名は単なる迷信や縁起担ぎに留まるものではない。それは、この地に骨を埋める覚悟を内外に示し、家臣団の士気を鼓舞するための、計算された政治的パフォーマンスであった。旧来の「引馬」という、今川氏の拠点であったイメージを払拭し、「浜松」という徳川家康の城としての新たなアイデンティティを確立する。この改名には、遠江国の新たな支配者としての家康の強い意志が込められていたのである。
家康は、旧来の引馬城を核としつつ、その西側の台地へと城域を大幅に拡張し、新たな城郭の構築に着手した 18 。これが浜松城の始まりである。南北約500m、東西約450mに及ぶ広大な城郭が計画された 7 。
特筆すべきは、家康時代に築かれた浜松城が、壮麗な天守や石垣を持つ城ではなかったという点である。当時の浜松城は、土を盛り上げて築いた土塁と、地面を掘り下げた堀を主とした、いわゆる「土作りの城」であった 7 。これは、武田の脅威が目前に迫る緊迫した状況下で、華美な装飾よりも、迅速に構築できる実戦的な防御機能が最優先された結果である。来るべき決戦に備え、実践本位で築かれた要塞、それが家康時代の浜松城の姿であった。
家康が浜松城に在城した元亀元年(1570年)から天正14年(1586年)までの17年間は、彼の生涯において最も重要な期間の一つである 23 。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄に生涯唯一の大敗を喫するなど、数々の苦難を経験した。しかし、彼はこの地で耐え忍び、信玄亡き後の武田氏を滅ぼし、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領する大大名へと飛躍を遂げた。浜松城が後に「出世城」と呼ばれる所以である。
城の拡張と並行して、その周りには城下町の整備も進められた。武家の屋敷地や商人の居住区が計画的に配置され、後の東海道の宿場町・浜松宿の原型が形成されていった 27 。浜松への本拠地移転は、家康が三河の一領主から「天下」を視野に入れる戦国大名へと脱皮する、画期的な出来事であった。そして浜松城は、その野望を実現するための、まさに揺籃の地となったのである。
引馬城から浜松城へと至る変遷は、文献史料だけでなく、古地図や近年の発掘調査によっても裏付けられている。これらの考古学的知見は、城郭の物理的な構造の変化を具体的に示し、戦国時代の城の機能と思想の移り変わりを雄弁に物語っている。
家康によって拡張される以前の引馬城の範囲は、江戸時代に描かれた浜松城の絵図の中に「古城」と記された区画に相当する 33 。この場所は、現在の浜松城公園の北東部に位置する元城町東照宮の一帯にあたる 18 。
これらの絵図によれば、引馬城は正方形に近い4つの曲輪(くるわ、城内の区画)を複合させた構造を持ち、その周囲を土塁と堀が巡っていたことがわかる 10 。これは、防御を主目的とした典型的な中世城郭の姿である。2014年以降、浜松市文化財課によってこの「古城」地区で初めての発掘調査が行われ、絵図に描かれていた通り、良好な状態で保存された土塁の跡が確認された 39 。これにより、文献や伝承でしか知られていなかった引馬城の実態が、考古学的に証明されたのである。
家康が関東へ移封された後、豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴が浜松城主となった。彼の時代に、浜松城は大きな変貌を遂げる。実戦本位の「土の城」から、権威の象徴としての天守や石垣を備えた「近世城郭」へと大改修されたのである 27 。
現在、浜松城跡で見ることができる天守台の石垣は、自然石を巧みに積み上げた「野面積み(のづらづみ)」という技法で築かれており、この堀尾氏時代のものであると考えられている 23 。天守曲輪周辺の発掘調査では、この時期のものとみられる瓦が大量に出土しており、天守や櫓などの瓦葺き建物が存在したことを裏付けている 41 。
引馬城の土塁中心の構造が、在地領主の防御拠点としての中世的性格を示すのに対し、堀尾吉晴による石垣と天守の導入は、支配者の権威を誇示する「見せる城」という、織豊期から近世初頭にかけての城郭思想への移行を明確に示している。家康時代の浜松城は、まさにその過渡期に位置する、実用性を第一とした城だったのである。
引馬城跡の発掘調査では、城の構造だけでなく、当時の人々の生活を窺い知ることができる遺物も多数出土している。15世紀末から16世紀前半にかけて製作された常滑焼の大きな甕(かめ)の破片などは、引馬城が今川氏の支配下で活発に機能していた時代を物語る貴重な考古学的証拠である 37 。
また、土塁の内側の平坦な区画からは、「かわらけ」と呼ばれる素焼きの小皿が数多く発見されている 42 。かわらけは、饗宴や儀式の際に使い捨ての食器として用いられることが多く、これらの大量出土は、引馬城内で武家社会特有の儀礼が頻繁に行われていたことを示唆している。これらの遺物は、引馬城が単なる軍事施設ではなく、政治や儀礼の場としても機能していた、生きた城の姿を我々に伝えてくれる。
引馬城の歴史は、物理的には浜松城の礎となり、その姿を消した。しかし、その記憶は、特に城主・飯尾連龍の妻、お田鶴の方の悲劇を通して、「椿姫伝説」として後世に語り継がれていく。この伝説は、歴史的事実を核としながらも、人々の価値観や時代の文化を反映して変容し、地域に根ざした新たな文化を創造していった。
お田鶴の方の壮絶な討死を哀れんだ人々によって、彼女を祀るための「椿姫観音」が建立された 17 。この伝説の中核をなすのが、徳川家康の正室・築山御前(瀬名姫)の存在である。伝承によれば、築山御前は、お田鶴の方の死を深く悼み、その塚の周りに百本あまりの椿の木を植えて供養したとされる 17 。築山御前自身も今川家の出身であり、お田鶴の方とは母同士が義理の姉妹という縁戚関係にあった 15 。同じく悲劇的な最期を遂げた築山御前が関わることで、物語はより一層の深みと哀愁を帯びることになった。
こうした物語は、『浜松御在城記』などの江戸時代の地誌を通じて記録され、形成されていった 17 。そして、近代以降も地域の史跡案内などを通じて語り継がれ、お田鶴の方は引馬城の悲劇を象徴するヒロイン「椿姫」として、そのイメージを確固たるものにしていったのである。
この伝説には、興味深い文化的逆説が存在する。椿の花は、花弁が個々に散るのではなく、花全体が首から落ちるように落下する。この様が、斬首を連想させることから、武士の間では不吉な花として忌避されたという説が広く知られている 45 。武勇に優れた女城主の物語に、武士が嫌ったはずの椿が結びつけられている点は、一見すると矛盾している。
しかし、この逆説こそが、伝説の形成過程の奥深さを示している。江戸時代に入り、武士の価値観が絶対的でなくなると、「落椿」の潔い散り際が、むしろお田鶴の方の壮絶な最期を象徴するものとして、意味を反転させて受容された可能性がある。また、椿が本来持つ「控えめな美しさ」や「誇り」といった花言葉 48 、あるいは古来、神聖な木とされてきた歴史 45 が、彼女の気高いイメージと結びついたとも考えられる。
さらに、この伝説の形成には、明治期以降の西洋文化の影響も無視できない。フランスの作家アレクサンドル・デュマ・フィスが著した小説『椿姫』(原題: La Dame aux Camélias )は、日本でも翻訳され、オペラとしても上演されて大流行した 50 。この著名な悲恋物語のタイトル「椿姫」が、椿にまつわるお田鶴の方のローカルな伝説に重ね合わされ、あるいはその呼び名の由来そのものとなり、物語がよりロマンティックな悲劇として再構築された可能性は非常に高い。
引馬城の記憶は、「椿姫伝説」以外にも地域の文化にその痕跡を残している。例えば、浜松を代表する祭りである「浜松まつり」の起源として、飯尾連龍とお田鶴の方の子・義廣の誕生を祝い、城下の人々が大凧を揚げたことにある、という伝承が存在する 53 。近年の研究では、この説は後世の創作である可能性が高いとされているが、引馬城の物語が地域の人々のアイデンティティと深く結びついてきた証左と言えるだろう。
「椿姫伝説」は、歴史上の人物であるお田鶴の方を核としながら、江戸期以降の庶民の価値観、築山御前の悲劇との共鳴、さらには西洋文化の影響までも取り込んで形成された、重層的な文化的創造物である。それは、歴史が単なる過去の事実の記録ではなく、後世の人々によって絶えず「編集」され、新たな意味を与えられ続ける、生きた記憶であることを示している。
引馬城の歴史は、戦国時代の権力移行の縮図である。その役割は、時代の変遷とともに劇的な転換を遂げた。当初は、遠江における今川氏の支配を支える重要な支城であった。しかし、桶狭間の戦いを境に、今川氏の衰退と徳川氏の台頭という大きな歴史のうねりの中で、その運命は翻弄される。城主・飯尾氏の悲劇は、主家の没落に殉じるか、新たな覇者につくかという、戦国期の国人領主が直面した過酷な選択の結末であった。
この城の歴史における最大の転換点は、徳川家康による攻略と、その後の本拠地移転である。家康は、今川氏の拠点であった「引馬」の記憶を払拭し、新たに「浜松城」と名付けることで、この地を自らの天下取りへの飛躍を支える戦略拠点へと生まれ変わらせた。浜松城で過ごした17年間、家康は数多の苦難を乗り越え、五カ国を領する大大名へと成長を遂げた。引馬城は、文字通り徳川家康の「出世城」の礎となったのである。
物理的には浜松城の北東隅の一角となり、その主役の座を譲った引馬城であるが、その記憶は消えることがなかった。お田鶴の方の悲劇的な物語は、「椿姫伝説」として人々の心に深く刻まれ、地域の文化遺産として生き続けている。史実としての価値と、物語としての価値。引馬城は、この二つの側面を併せ持つ稀有な存在として、日本の歴史の中に確固たる位置を占めている。それは、戦国という時代の激しさと、そこに生きた人々の記憶が織りなす、重層的な歴史の価値を我々に示し続けているのである。