最終更新日 2025-08-24

御船城

御船城は肥後国の要衝。南北朝期に築かれ、智将・甲斐宗運の拠点として阿蘇氏の勢力拡大を支えた。響ヶ原の戦いでは盟友・相良義陽を討つ悲劇を経験。宗運の死後、肥後国人一揆で落城し、加藤清正により石垣が治水事業に転用された。

肥後国 御船城 ―智将・甲斐宗運と戦国争乱の拠点―

序論:肥後国における御船城の戦略的価値

本報告書は、肥後国(現・熊本県)に存在した御船城の歴史的変遷を、特に戦国時代を中心に詳細に解明するものである。本序論では、御船城が歴史の舞台として重要な役割を担うことになった地理的・戦略的背景を明らかにする。

御船城は、矢部地域を源流とする緑川の中流域、現在の熊本県上益城郡御船町に位置していた 1 。この立地は、肥後中央部の穀倉地帯である松橋・小川・八代といった平野部と、山間部の要衝である矢部を結ぶ結節点にあたり、古くから水陸交通の要所として機能していたことが示唆される 1 。城郭は、御船町役場の西方にそびえる比高約20から30メートルの独立丘陵「城山」に築かれた平山城であり、町の中心部にありながら市街地を見渡せるという、軍事・統治の両面において優れた地点を占めていた 4

本報告書では、南北朝時代の黎明期から、戦国時代にその名を九州に轟かせた智将・甲斐宗運による最盛期、そしてその後の没落と廃城に至るまでを時系列で追い、城と城主、そして時代の大きなうねりとの関係性を解き明かす。特に、城の歴史を体現する武将・甲斐宗運の人物像と戦略に焦点を当て、一地方の城郭がいかにして地域の歴史を動かす中心となり得たのか、その要因を立体的に考察する。なお、愛知県豊田市にも同名の「御船城」が存在するが、本報告書が対象とするのは肥後国の御船城である 8

表1:御船城関連年表

西暦(和暦)

出来事

主要人物(城主など)

関連事項・背景

1343年(興国4年)

阿蘇惟澄、足利軍を御船城で撃退。

阿蘇惟澄

南北朝の動乱。南朝方の拠点として機能。

1345年(興国6年)

阿蘇惟澄、筑後三郎の軍勢を撃退。

阿蘇惟澄

南朝方勢力による肥後国支配の維持。

1348年(正平3年)

阿蘇惟時ら、懐良親王を当城に迎える。

阿蘇惟時

征西府における重要拠点としての役割。

不明

御船氏が城主となる。御船盛安は北朝方に降伏。

御船盛安

南朝方の衰退と地域の勢力図の変化。

1541年(天文10年)

軍見坂の合戦。御船房行が阿蘇氏に反乱、甲斐親直(宗運)が討伐。

御船房行、甲斐親直

宗運が御船城主となる契機。

1581年(天正9年)

響ヶ原の戦い。甲斐宗運が盟友・相良義陽を討つ。

甲斐宗運、相良義陽

島津氏の勢力拡大が背景。九州の勢力図が激変。

1585年(天正13年)

甲斐宗運死去。島津氏の侵攻により御船城開城。

甲斐親英、島津義弘

宗運の死による阿蘇氏の弱体化。

1587年(天正15年)

肥後国人一揆。甲斐親英が一揆に参加し敗死。

甲斐親英、佐々成政

豊臣政権による国人勢力の解体。甲斐氏の滅亡。

1588年以降

加藤清正の領有。石垣が治水事業に転用される。

加藤清正

城郭としての機能の終焉と近世への移行。

1651年(慶安4年)

幕府の古城調査で「曲輪二百五十間」と記録される。

-

城郭としての実態がほぼ失われていたことを示す。

1938年(昭和13年)

城跡が整備され「城山公園」と命名される。

-

近代における史跡としての再評価。

第一章:南北朝の動乱と阿蘇氏の拠点

御船城の築城年代は明確ではないが、その名が歴史の表舞台に初めて登場するのは、日本全土が二つの朝廷に分かれて争った南北朝時代である 10 。本章では、南朝方の有力豪族であった阿蘇氏の拠点としての御船城の役割と、当時の熾烈な戦いの様子を明らかにする。

御船城に関する最も古い記録は、興国4年(1343年)に、阿蘇大宮司家の阿蘇惟澄がこの城に立てこもり、足利尊氏方の北朝軍の進攻を防いだというものである 7 。さらにその2年後の興国6年(1345年)10月16日には、「味木庄御船城」において、恵良(阿蘇)惟澄が筑後方面から侵攻してきた筑後三郎なる人物(所属勢力は不明)の大軍を迎え撃ち、激しい白兵戦の末にこれを撃退したという軍忠状の写しが残されている 4 。これらの記録は、御船城が歴史への登場初期から、単なる地方の砦ではなく、足利幕府軍や隣国からの侵攻軍といった大規模な外敵に対する防衛拠点として機能していたことを示している。

さらに、正平3年(1348年)には、阿蘇惟時らが後醍醐天皇の皇子であり、九州における南朝方の象徴的存在であった征西将軍・懐良親王を当城に迎えている 7 。これは、御船城が肥後国内における南朝方の軍事拠点であっただけでなく、征西府における中核的な役割を担う政治的にも重要な城であったことを物語っている。

このように、御船城は築城当初から、肥後国における南北の勢力争いの最前線に位置づけられていた。その地理的優位性から、阿蘇氏にとっては北からの侵攻ルートを扼する上で不可欠な戦略拠点として確立されていたのである。この事実は、後の戦国時代に甲斐宗運がこの城を活動の拠点として選んだことの、歴史的な伏線となっていると言えよう。

しかし、全国的な趨勢として南朝方の勢力が衰退すると、城主であった御船河内守盛安は北朝方に降伏したと伝えられる 7 。その後、戦国時代に至るまで、御船氏が城主を務めていたと考えられるが、その詳細な動向を示す史料は乏しく、歴史の空白期間となっている 7

第二章:智将・甲斐宗運の登場

戦国時代に入り、阿蘇家中では内紛や周辺勢力との緊張が高まっていた。この混乱の中から頭角を現し、御船城の歴史を決定づける人物、甲斐宗運(かいそううん、当時の名は親直)が登場する。本章では、宗運がいかにして御船城主の座を掴んだのか、その契機となった合戦を詳細に分析する。

当時の阿蘇家では、阿蘇惟長と惟豊の兄弟による家督争いが続いており、家中は不安定な情勢にあった。甲斐親直(宗運)の父・親宣は惟豊を支持し、その復帰に大きく貢献した人物である 11 。このような状況下、天文10年(1541年)、御船城主であった御船阿波守房行(行房)が、南の強国・島津氏に内通し、主家である阿蘇惟豊に反旗を翻すという事件が発生した 7

これに対し、阿蘇惟豊は嫡男・千寿丸(後の阿蘇惟将、当時13歳)を総大将に任じ、その初陣として御船房行の討伐を命じた 15 。この時、当時20代の若武者であった甲斐親直は、父・親宣の強い推挙により、侍大将(介添役)として千寿丸を補佐する大役を担うことになった 17 。親直は、出陣に際して柳本大明神(現在の小一領神社)で戦勝を祈願した後、軍を御船へと進めた 18

当時の御船城周辺は蓮が広がる湿地帯であり、力攻めが難しい難攻不落の城と認識されていた 18 。この地理的条件を理解していた親直は、単純な城攻めという安易な手段を選ばなかった。彼は、城から約5キロメートル離れた軍見坂(ぐみざか、木倉原とも呼ばれる)に布陣し、挑発によって御船房行を城外の決戦場へと誘い出すことに成功したのである 15 。房行の軍勢が千寿丸の本隊に正面から攻撃を仕掛け、戦いが酣となった隙を突き、親直が率いる別動隊が後方に回り込んで挟撃した。この巧みな戦術により房行軍は総崩れとなり、房行自身も自害に追い込まれた 13

この軍見坂の合戦は、単に宗運が御船城を得た戦いというだけでなく、彼の軍略家としての非凡な才能が初めて歴史の表舞台で証明された瞬間であった。敵の心理を読み、地の利を活かし、有利な戦場へ敵を動かして撃破するという高度な戦術思想は、後の彼の生涯を通じて見られる戦略の原型であり、この成功体験が彼の知略と謀略を駆使する戦い方の基礎を形成したと考えられる。

この目覚ましい戦功により、甲斐親直は阿蘇惟豊から御船の地(千町あるいは五百六十町と伝わる)と御船城を与えられ、新たな城主となった 7 。この城主交代は、阿蘇家が家中の統制を強化し、甲斐宗運という実力者を筆頭家老として重用する体制へと移行したことを象徴する出来事であった。城は、宗運個人の武功の証であると同時に、阿蘇家の新たな支配体制の礎となり、彼は生涯この城を本拠地として肥後の戦国史にその名を刻んでいくことになる 18

第三章:甲斐宗運治世下の御船城と主要合戦

御船城主となった甲斐宗運は、この城を拠点として阿蘇家の勢力拡大と維持に生涯を捧げた。「生涯六十戦無敗」と謳われた彼の軍事・政治活動の中核には、常に御船城があった 16 。甲斐宗運の治世下で、御船城は単なる受け身の防衛拠点から、阿蘇家の支配権を確立・拡大するための積極的な「攻勢拠点」へとその性格を大きく変容させた。本章では、宗運時代の主要な合戦を分析し、彼の人物像と戦略に迫る。

第一節:阿蘇家中の統制と隈庄城攻め

宗運は阿蘇家の安定のため、外部の敵だけでなく、内部の反抗勢力に対しても厳しい姿勢で臨んだ。特に、同族でありながら阿蘇家に反意を示すこともあった隈庄城(現・熊本市南区城南)の甲斐氏との対立は、彼の非情な一面を浮き彫りにするものであった。

隈庄城主であった甲斐守昌は、宗運の娘婿という極めて近い関係にあった 13 。しかし、両者の間には深い確執が生じることになる。その原因として、宗運が所有する名刀「茶臼剣」を巡る逸話が伝えられている。ある時、守昌が宗運を訪れた際、猫が壁に掛けてあった短刀を落とし、それが傍らの茶臼に深く突き刺さった。その切れ味に感銘を受けた守昌は、しきりにこの短刀を譲ってほしいと懇願したが、宗運は「父が大宮司様から拝領したものであり、渡すことはできない」と断った。その後、宗運の娘である守昌の妻が、父から密かに短刀を持ち出して夫に渡したことが発覚。守昌は宗運の怒りを恐れて城の守りを固め、これが両者の合戦の引き金になったという 15

この逸話の真偽はともかく、守昌が島津氏に内通するなど阿蘇家からの離反を画策したため、宗運は主君・阿蘇惟将の命を受けて隈庄城を攻撃することになる 15 。合戦は数年にわたり、守昌は舅である宗運の戦術を真似て抵抗したと伝えられるが、永禄7年(1564年)や天正8年(1580年)などの度重なる攻撃の末、隈庄城は落城し、守昌は追放された 13 。この一連の戦いでは、別の娘婿である甲斐織部佐が宗運に協力するなど、甲斐一族内の複雑な人間関係も垣間見える 13

宗運は守昌だけでなく、阿蘇家に叛意を示した黒仁田氏など、他の親族も謀略を用いて粛清している 20 。これらの行動は、主家である阿蘇家の存続を最優先事項とし、そのためには血縁や個人的な情を断ち切ることも厭わない、宗運の徹底したリアリストとしての一面を物語っている。

第二節:盟友との悲劇 ― 響ヶ原の戦い

宗運の生涯における最も劇的な戦いが、天正9年(1581年)に起きた響ヶ原の戦いである。この戦いは、彼の卓越した軍略と、戦国武将の非情な宿命を象徴する出来事であった。

天正6年(1578年)、豊後の大友氏が日向の耳川の戦いで薩摩の島津氏に歴史的な大敗を喫すると、九州の勢力図は激変する 7 。肥後の国人衆が次々と強大な島津になびく中、宗運は大友氏との同盟を維持し、阿蘇家の独立を保つために孤軍奮闘していた。

肥後南部の人吉を治める相良義陽は、宗運と不可侵の盟約を結ぶ盟友であった 20 。しかし、領地が接する島津氏の強大な圧力に屈し、息子を人質として差し出して従属を余儀なくされる。そして、島津氏から阿蘇領侵攻の先鋒を務めるよう命じられるという、苦渋の決断を迫られた 20

天正9年12月、義陽率いる相良軍は阿蘇領に侵攻し、甲斐氏の支城である堅志田城などを攻め落とした後、響ヶ原(現・宇城市豊野町)に布陣した 24 。相良軍の先鋒部隊が緒戦に勝利したことで陣中には油断が広がり、義陽は響ヶ原で首実検と戦勝の祝宴を開いた 17 。この情報を掴んだ宗運は、好機と見た。自ら選りすぐった精鋭200騎を率い、夜陰に乗じて谷道を通り、密かに相良軍の本陣に接近した 17 。祝宴の最中で完全に不意を突かれた相良軍は大混乱に陥り、宗運軍の奇襲によって壊滅。大将の相良義陽もまた、床几に座したまま討ち取られたと伝えられる 17

一説には、義陽は合戦に不利な地形にあえて布陣するなど、盟友である宗運に討たれることで、島津への義理と宗運への信義の板挟みとなった自らの命運に決着をつけようとしたとも言われる 21 。戦後、宗運は討ち取った盟友・義陽の首を前にして涙を流し、「義陽を討ったのは味方を討ったも同然である。これで島津を阻むものはなくなり、阿蘇家の未来も長くはないだろう」と深く嘆いたと伝えられている 17 。彼は義陽の死を悼み、その首を丁重に相良側に返還し、御船の地に塚(相良塚)を建ててその霊を弔った 17 。この逸話は、宗運が単なる冷血な策略家ではなく、合理的な判断と人間的な感情の間で葛藤していたことを示唆している。

第三節:宗運の人物像と戦略 ― 非情なる忠臣

甲斐宗運は、その生涯を通じて阿蘇家への絶対的な忠誠を貫いた。彼の行動原理は、常に「阿蘇家の存続」という一点に集約される。そのために彼が取った手段は、時に非情とも言えるものであった。

彼は、主家を裏切る者、あるいはその可能性がある者に対しては、たとえ身内であっても容赦しなかった。日向国の伊東氏への接近を試みた次男・親正と三男・宣成を誅殺し、四男・直武を追放したという記録は、彼の冷徹な統治者としての一面を物語っている 15 。この「非情さ」は、彼の「忠誠心」と「合理主義」の裏返しであった。戦国の乱世において小勢力である阿蘇家が生き残るためには、個人的な情や血縁のしがらみを断ち切る冷徹な決断が必要不可欠であった。御船城は、その非情かつ合理的な戦略が立案・実行された司令塔だったのである。

天正13年(1585年)、この稀代の智将は世を去った 13 。その死因については、病死説のほかに毒殺説も根強く伝えられている。長男・親英(宗立)の妻が、かつて宗運に父(黒仁田氏)を殺された恨みを晴らすため、また、非情な宗運によっていつか夫も殺されるのではないかと恐れ、自身の娘(宗運の孫娘)を使って毒を盛ったというものである 15 。この説は、彼の非情な行いが身内にさえ深い怨恨を生んでいたことを示唆しており、彼の人物像の複雑さを物語っている。

宗運は死に際し、「島津が攻めてきたら、御船や甲佐といった支城は捨てて、阿蘇氏の本拠である矢部に籠り、徹底して守りを固めよ。いずれ天下は統一され、時節は変わるであろう」という趣旨の遺言を残したとされる 16 。これは、島津との正面対決を避け、織田・豊臣といった中央政権の九州介入まで時間を稼ぐという、極めて的確な情勢分析に基づいた深遠な戦略であった。

第四章:宗運の死と甲斐氏の没落

偉大な指導者を失った組織が急速に衰退することは、歴史上枚挙に暇がない。甲斐宗運の死後、御船城と甲斐一族もまた、その例外ではなかった。本章では、宗運の死から甲斐氏の滅亡に至るまでの過程を追い、城と一族の運命が暗転していく様を描き出す。

天正13年(1585年)に宗運が死去すると、嫡男の甲斐親英(ちかひで、親乗・宗立・親秀とも)が家督と御船城を継いだ 7 。しかし、親英は父の偉大な遺産を継承することができなかった。彼は、守勢に徹して時を待つべしという父・宗運の遺言を無視し、宗運の死後間もなく、島津方の花の山城を攻撃するなど、無謀な攻勢に転じた 16 。この行動は、九州制覇を目指す島津氏の本格的な反撃を招く致命的な失策となった。宗運が長年かけて築き上げた対島津の防衛線は、指導者の死と後継者の判断ミスによって、わずか数ヶ月で崩壊することになる。

宗運の死を好機と見た島津軍は、肥後へ大挙して侵攻を開始。堅志田城や甲佐城など、益城郡に点在する阿蘇方の諸城を次々と攻略していった 7 。圧倒的な兵力差を前に、親英は父のような知略を発揮することもできず、ついには一戦も交えずに居城である御船城を放棄。隈庄城を開城して島津軍に降伏した 7 。天正13年閏8月15日のことであった 29 。御船城のあっけない開城は、城の防御能力の欠陥ではなく、指導者・甲斐親英の戦略的判断の誤りに起因するものであった。宗運の死は、単に一人の武将の死ではなく、阿蘇家の軍事戦略そのものの死を意味したのである。御船城に入った島津義弘は、同年9月22日までここを肥後攻略の本陣として利用した 29

その後、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州を平定すると、肥後の新たな領主として佐々成政が配された。親英は一度は秀吉によって所領を安堵され、御船城主の座に戻ったとされる 30 。しかし、成政が性急な検地を強行したことに反発した肥後の国人衆が一斉に蜂起する(肥後国人一揆)と、親英もこれに参加した 6 。これは、失墜した甲斐氏の権威を回復しようとした最後の賭けであったかもしれないが、時代の変化を読み切れなかった地方領主の悲劇であった。父・宗運が予見した「天下の統一」という新しい秩序に適応できず、旧来の国人としての意地とプライドに固執したことが、一族の命運を尽きさせた。

一揆は、豊臣政権が派遣した大軍によって容赦なく鎮圧され、甲斐親英も敗走中に討死、あるいは処刑されたと伝えられる 6 。これにより、長きにわたり阿蘇家を支え、肥後にその名を轟かせた甲斐氏は滅亡した。一揆鎮圧の過程で、御船城には一時的に黒田孝高(官兵衛)が城番として入城し 6 、その後、肥後南半分を領した小西行長の支配下に入った 6

第五章:城の終焉と近世・現代への変遷

戦国時代の終焉とともに、多くの城がその軍事的役割を終えた。御船城もまた、新たな時代の要請の中で姿を変え、やがて歴史の表舞台から消えていく運命にあった。本章では、加藤清正の時代から現代に至るまでの御船城の変遷を辿る。

関ヶ原の戦いの後、肥後一国の領主となった加藤清正の時代、御船城はその運命の最終章を迎える。泰平の世を築こうとする清正にとって、もはや不要となった地方の城は、維持コストのかかる無用の長物であった。彼は、戦国の遺物となった御船城を積極的にインフラ整備に転用するという、極めて合理的な判断を下した 10 。具体的には、城の石垣を解体し、その石材を御船川の改修(流路付け替え)や若宮堰の建設などに利用したとされる 2 。これは、清正が優れた軍略家であると同時に、治水・利水事業に長けた稀代の領国経営者であったことを示す逸話である。御船城の解体は単なる破壊ではなく、時代の価値観の変化に伴う「資源の再利用」であった。城の石垣は、人を守るための壁から、人々の生活を豊かにするための堤防や堰へとその役割を変え、戦国時代の終焉と近世の幕開けを象徴する出来事となった。

この清正による解体・転用により、元和元年(1615年)に「一国一城令」が発令された時点では、御船城はすでに城としての原型を失っていたと考えられる 10 。事実、慶安4年(1651年)に江戸幕府が肥後国内の古城を調査した際の記録には、「曲輪二百五十間」と記されているのみで、天守や櫓といった建造物はもとより、石垣さえも失われた状態であったことがうかがえる 10

その後、城跡は長らく荒廃していたが、昭和13年(1938年)、県立御船中学校の生徒たちの手によって整地され、「城山公園」と名付けられた 37 。さらに昭和40年(1965年)には、この地を走っていた熊延鉄道が廃線を記念して町から城跡を借り受け、公園としての整備を進めた 37 。現在では、春には桜が咲き誇る名所として知られ、市街地を見渡せる立地から、多くの町民に親しまれる憩いの場となっている 5

物理的な城郭は失われたが、城の記憶は様々な形で現代に継承されている。城跡には、この城の最も著名な城主である甲斐宗運を合祀した城山天満宮が建立されている 10 。また、公園の入口には「宗運門」と名付けられた模擬城門が建てられ、訪れる人々を往時へと誘う 13 。さらに、江戸後期の文化12年(1815年)に肥後藩の藩校時習館が建立した「御舟古城記」の石碑や、宗運の追善碑なども残されており、城の歴史を今に伝えている 10 。御船城は、物理的な構造物を失った後も、「甲斐宗運の城」という歴史的記憶を通じて生き続けているのである。

第六章:御船城の構造と縄張り

遺構の多くが失われた現在、御船城の往時の姿を完全に復元することは困難である。しかし、残された地形や地名、わずかな遺構から、その構造と防御思想を推察することは可能である。本章では、城郭史の観点から御船城の縄張り(城の防御設計)を考察する。

御船城は、御船川の西岸に位置する、南北に細長い独立丘陵に築かれていた 7 。比高は20から30メートルほどで、丘陵上は北側がやや高く、南に向かって緩やかに傾斜しながら広がっていく地形をしている 7

現存する遺構や記録から縄張りを推定すると、明確な区画は確認しづらく、台地上は単郭(一つの主要な曲輪で構成される)構造に近い、比較的単純なものであった可能性が高い 7 。これは、大規模な軍勢が長期間籠城するための複雑な城郭ではなく、機動的な部隊が出撃・帰還するための司令塔としての機能に特化していた可能性を示唆する。甲斐宗運の戦術が、籠城戦ではなく城から打って出て敵を野戦で撃破するスタイルが中心であったことを考えると、この城の構造は、宗運の「攻勢防御」ともいえる戦略思想を反映した、コンパクトで効率的なものであったと推測できる。

城の主郭部は、北東部の最高所にあったと考えられる。現在、城山天満宮が鎮座するこの場所が、物見櫓などを備えた城の中心であったと見られる 7 。かつては、この主郭部から南にかけて、数段に削平された曲輪が連なっていたと推測される 30

現存する遺構は少ないが、重要な手がかりを残している。城跡の南西端には土塁の一部が現存しており 6 、南端部にも土塁とそれに付随する一段低い郭が確認できることから、このあたりが虎口(出入り口)に関連する防御施設であった可能性が指摘されている 7 。また、かつては城の東麓に半円状の堀跡が存在したと伝えられるが、市街地化により現在は完全に消滅している 11

物理的な遺構以上に雄弁に往時の姿を物語るのが地名である。城跡の南側と西側にそれぞれ「上囲(うわがこい)」「下囲(しもがこい)」という地名が残っている 4 。これは、かつて城の内郭と外郭、あるいは丘の上の城本体と麓の居館群などを区別した名残である可能性が極めて高い。地名は、失われた歴史景観を現代に伝える貴重な「無形の遺構」であり、これらの言葉を手がかりにすることで、我々は物理的には見えなくなった御船城の全体像、すなわち丘の上の戦闘施設と麓の政治・居住空間が一体となった、中世武士団の拠点としての姿をより豊かにイメージすることが可能となる。このほか、御船川を挟んで城と町家が分かれ、木倉の門前橋付近に城門があったこと、辺田見原に武家屋敷があったことなども伝えられており 10 、城と城下町が一体となった景観が形成されていたことがわかる。

総じて、御船城は石垣を多用した織豊系城郭とは異なり、土塁や切岸(人工的な急斜面)、そして周囲の湿地帯といった自然地形を最大限に活用した、中世的な山城の性格を色濃く残していたと考えられる 6 。小規模ながらも切り立った丘の上にあり、攻めにくい堅城であったと評価されている 6

結論:戦国史に刻まれた御船城の意義

本報告書では、肥後国御船城の歴史を、南北朝時代の黎明期から戦国の動乱、そして近世における終焉まで、多角的に検証してきた。最後に、御船城が日本の戦国史、特に九州の歴史において持つ意義を総括する。

第一に、御船城の歴史的価値は、その城郭構造以上に、城主・甲斐宗運という一人の傑出した人物の存在と分かちがたく結びついている点にある。彼の知略と武勇、そして阿蘇家への絶対的な忠誠心によって、一地方の城であった御船城は、肥後国、ひいては九州の勢力図を左右するほどの戦略拠点へと昇華した。城の栄枯盛衰は、宗運個人の生涯と、その後継者の成否に完全に連動しており、「城は人なり、石垣なり、堀なり」という言葉をまさに体現した稀有な事例である。

第二に、御船城を巡る攻防は、戦国時代九州の力学を如実に反映した「縮図」としての役割を果たしている。大友、島津、龍造寺という三大勢力の狭間で、阿蘇氏のような中小勢力が如何に存続を図ったか。そして、豊臣秀吉による中央集権化の波が、如何にして旧来の国人領主体制を終焉させたか。御船城の歴史は、この激動の時代を生きた地方勢力の興亡の物語そのものであり、九州戦国史を理解する上での貴重なケーススタディと言える。

第三に、物理的な終焉とその後の記憶の継承という点において、御船城は示唆に富む。加藤清正による石垣の転用は、城郭としての物理的な死を意味したが、それは同時に、新たな時代の社会基盤へと生まれ変わる「再生」でもあった。そして、城郭が消えた後も、「城山」という地名や甲斐宗運の伝説は地域に語り継がれ、現代の公園整備へと繋がった。御船城は、物理的な存在から、地域の歴史とアイデンティティを象徴する「記憶の遺産」へと姿を変え、今なおその存在意義を保ち続けているのである。

以上のように、御船城は単なる過去の遺跡ではない。一人の傑出した武将の生涯を映し出し、時代の大きな転換点を物語り、そして現代にまでその記憶を伝える、生きた歴史の証人なのである。

引用文献

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