武蔵忍城は、沼沢地を活かした「浮き城」として知られ、豊臣秀吉の水攻めに耐え抜いた不落の城。成田氏が巧みな戦略で生き残り、江戸時代には忍藩の政庁として栄えた。今は郷土博物館が建ち、その歴史を伝える。
日本の城郭史において、武蔵国忍城(おしじょう)は特異な光彩を放つ存在である。それは単なる地方の一城郭にとどまらず、豊臣秀吉による天下統一事業の最終局面において、その圧倒的な軍事力に最後まで屈することのなかった稀有な例として、歴史にその名を刻んでいる 1 。特に、秀吉の腹心である石田三成が指揮した大規模な水攻めに耐え抜いたことから、「浮き城」という異名を得た 2 。この名は、単に城が沼沢地に立地していたという地理的特徴を示すだけでなく、戦国時代の終焉を象徴する一大攻防戦を乗り越えた、不屈の城としての伝説を今日に伝えている。
本報告書は、この忍城について、ユーザーが既に把握している概要情報を出発点とし、それを大幅に超える深度での分析を試みるものである。具体的には、城の地理的特性と構造、城主であった成田氏の巧みな生存戦略、戦国史上有数の攻城戦である「忍城の戦い」の多角的な検証、そして攻防を繰り広げた主要人物たちの実像と後世に形成された伝説との比較検討を行う。さらに、江戸時代以降の変遷から現代における史跡としての価値までを射程に入れ、この「浮き城」の実像と伝説の境界を明らかにすることを目的とする。
忍城の最大の特徴は、その立地と構造にある。城は、北を利根川、南を荒川という二つの大河川に挟まれた広大な低湿地帯、すなわち扇状地の中に築かれた 4 。この一帯は、河川の乱流や伏流水が寄り集まって広大な沼地、通称「忍沼」を形成しており、まさに天然の要害であった 4 。
忍城の築城思想は、この地形を克服するのではなく、最大限に活用する点にその独創性がある。一般的な城のように沼を埋め立てて平地を確保するのではなく、沼の中に点在する自然堤防や微高地を独立した「島」と見なし、それらを曲輪(くるわ)として利用し、相互を橋で連結するという手法が採られた 5 。この構造により、攻城軍は狭隘な道や足を取られる深田に進軍を阻まれ、大軍を展開する利点を活かすことが極めて困難であった 8 。忍城の防御思想は、敵を積極的に撃退する「抵抗」よりも、攻城そのものを困難にし、敵の戦意と時間を削ぐ「遅滞」と「拒絶」に主眼があったと考えられる。これは、大勢力の間で生き残りを図る国衆(在地領主)であった成田氏の戦略思想を色濃く反映していると言えよう。
築城年代については、室町時代中期の文明年間(1469年~1486年)、すなわち15世紀後半とされている 2 。築城主は長らく成田親泰(ちかやす)とされてきたが、近年の研究では、成田氏の系譜の見直しが進み、親泰の祖父にあたる成田正等(しょうとう)・顕泰(あきやす)父子によるものとの見方が有力となっている 5 。
当時の景観は、永正6年(1509年)にこの地を訪れた連歌師・宗長の紀行文『東路のつと』に活写されている。宗長は「館のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆(あし)の霜がれ」と記し、城の四方が幾重にも沼に囲まれ、霜枯れの葦が生い茂る水郷であった様を伝えている 4 。
戦国期の忍城は、実戦を第一義とした質実な構造であった。天守のような象徴的な高層建築は存在せず、本丸はむしろ儀式や最終防衛のための空間として空き地とされ、城主の居館は二の丸に置かれていたと推定される 5 。防御の要は、人工的な櫓や石垣よりも、沼そのものを活用した広大な水堀と土塁であった。
この城の姿が大きく変貌するのは、戦乱が終わり、徳川の世となってからである。徳川家康が関東に入府すると、忍城は忍藩の政庁となり、特に寛永16年(1639年)に幕府老中であった阿部忠秋が入城して以降、大規模な拡張整備が開始された 4 。この改修によって、城は近世城郭としての体裁を整えていった。
その集大成が、元禄15年(1702年)、阿部正武(まさたけ)の時代に完成した御三階櫓である 4 。この櫓の建設は、忍城の役割が純粋な軍事拠点から、忍藩十万石の権威を象徴する行政の中心地へと完全に移行したことを示すものであった。城の役割の変遷は、時代の要請を映す鏡であり、戦乱の終焉と徳川幕藩体制の確立という社会の大きな転換が、忍城の物理的な姿に直接的に反映されたのである。
現存する江戸時代の城絵図からは、本丸、二の丸、三の丸に加え、諏訪曲輪や、特異な名称を持つ「井戸曲輪」などの配置が確認できる 12 。特に、城内の生命線である水利に関しては、各曲輪に井戸が計画的に配置され、本丸には余分な水を堀へ排出するための排水設備も設けられていたことが、発掘調査などから判明している 13 。
忍城の歴史は、その城主であった成田氏の歴史と不可分である。成田氏の系譜については、藤原氏の末裔とする説や、武蔵国で勢力を持った武士団である武蔵七党の横山党に連なるという説など諸説あり、その出自は明確ではない 14 。彼らは当初、現在の埼玉県熊谷市成田周辺を本拠とする在地領主であったが、15世紀後半、成田正等・顕泰父子の代に、当時忍周辺を支配していた忍一族を滅ぼし、新たに築いた忍城へと本拠を移した 5 。
築城後間もなく、関東管領であった扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家に攻められるが、その家宰であった太田道灌の仲介によって和解し、この地における支配権を確立した 5 。これは、室町後期の関東における新興勢力が、既存の権威と衝突と交渉を繰り返しながら自らの地歩を固めていく過程の典型例と言える。
16世紀半ば、天文15年(1546年)の河越夜戦で後北条氏が勝利し、関東における勢力を急拡大させると、成田氏もその影響下に組み込まれていった 4 。しかし、永禄3年(1560年)に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に出兵すると、他の多くの関東国衆と同様に、成田氏もこれに恭順し、北条氏の小田原城攻めに参加した 5 。
成田氏の動向を語る上で有名なのが、永禄4年(1561年)の鶴岡八幡宮における逸話である。謙信の関東管領就任式において、当時の城主・成田長泰が馬上から礼を欠いたとして謙信に辱められ、これに憤慨して上杉方から離反したと伝えられている 5 。この事件の真偽はともかく、中央から来た新たな権威者である謙信と、独立志向の強い関東国衆との間に存在した軋轢を象徴する出来事として知られる。
以後、成田氏は、関東の二大勢力である上杉と北条の間で、時に一方に従い、時に他方と結ぶという巧みな外交戦略を展開し、自家の存続を図った 4 。天正2年(1574年)には再び上杉謙信に城を包囲されるが、これを撃退している 5 。この独立性を担保したのが、忍城の堅固な守りであった。成田氏のこうした動向は、近代的な忠誠観からは「裏切り」と見なされがちであるが、自家の領地と家臣団を保全することが第一義であった戦国時代の国衆にとって、それは極めて合理的な生存戦略であった。彼らの行動は、当時の関東における中小領主が置かれた政治的リアリズムを体現している。
天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は20万を超える大軍を率いて関東へ侵攻した(小田原征伐) 7 。北条氏の支配体制は崩壊の危機に瀕し、忍城主であった成田氏長(うじなが)は、北条氏の傘下大名として主君の北条氏直と共に、本城である小田原城での籠城を余儀なくされていた 5 。
主君に従い、城主が不在となった忍城の防衛は、困難を極めた。
攻城軍 : 総大将は、秀吉の側近である石田三成が務めた。その麾下には、大谷吉継、長束正家といった豊臣政権の中枢を担う奉行衆に加え、真田昌幸・信繁(幸村)親子といった歴戦の勇将も名を連ね、総兵力は2万数千に達した 5 。
籠城軍 : 城主・氏長が城代に任じたのは、叔父の成田泰季(やすすえ)であったが、豊臣軍が迫る中、開戦直前に病死するという不運に見舞われる 5 。これにより、急遽、泰季の嫡男である成田長親(ながちか)が総大将代理として指揮を執ることになった 11 。正規の兵力は侍・足軽を合わせてわずか500余であったが、これに城下の農民や町人、僧侶までもが自発的に加わり、総勢3,000人規模で籠城戦に臨んだ 5 。
当初、正攻法で攻めた三成であったが、忍城の堅固な守りの前に攻めあぐね、攻略は頓挫した 17 。そこで三成は、本陣を忍城を一望できる丸墓山古墳(さきたま古墳群)に移し、水攻めという奇策に打って出ることを決断した 4 。これは、秀吉自身が天正10年(1582年)の備中高松城攻めで用いて成功を収めた戦法であり、秀吉の強い意向が働いていたと推測される 23 。
この水攻めのために、利根川と荒川の水を引き込むべく、城の周囲に長大な堤防が建設された。後に「石田堤」と呼ばれるこの堤の総延長は、14キロメートルから28キロメートルに及んだと諸説ある 4 。わずか1週間足らずで完成したとされるこの突貫工事は、周辺の古墳の土を転用するなど、利用可能な資源を全て動員した結果であったと考えられる 23 。
この忍城水攻めは、先の備中高松城攻め、そして天正13年(1585年)の紀伊太田城攻めと並び、「日本三大水攻め」の一つに数えられる 17 。しかし、先行する二例が城主の降伏や自害という形で成功裏に終わったのに対し、忍城が持ちこたえたという点で、際立った対照を見せている。
石田堤が完成し、注水が開始されたものの、戦況は三成の思惑通りには進まなかった。その最大の理由は、忍城が持つ地形的特性にあった。本丸を含む城の中心部が、周囲の土地よりもわずかに標高が高かったため、城は完全に水没することを免れたのである 3 。水に四方を囲まれながらも沈まぬその姿は、あたかも城が水面に浮いているかのように見え、これが「浮き城」という伝説的な異名の直接的な由来となった 2 。
さらに、折からの梅雨による豪雨が、攻城軍に追い打ちをかける。堤内に溜まった水量が限界を超え、堤の一部が決壊したのである 19 。溢れ出した濁流は、籠城側ではなく、攻城軍である石田勢の陣地を飲み込み、約270名もの溺死者を出すという皮肉な結果をもたらした 7 。後世の軍記物には、籠城側が決死隊を組織し、夜陰に乗じて堤を破壊したという、 heroicな伝承も残されている 17 。
この一連の出来事は、豊臣政権が志向した「見せる」ための壮大な戦術と、現場の地形や天候といった現実との間に存在する埋めがたい乖離を示している。秀吉は備中高松城の成功体験を再現し、その絶大な力を北条方に見せつけようとした。しかし、最高権力者の意向が、現場の指揮官が認識していたであろう地勢的な不利を上回り、結果として作戦は失敗に終わったのである。
水攻めは失敗に終わったものの、豊臣軍の包囲は続いた。戦いの決着は、戦場ではなく、政治によってもたらされた。7月5日、豊臣軍の本隊に包囲されていた北条氏の本城・小田原城が、ついに降伏したのである 4 。
この報を受け、小田原にいた城主・氏長から忍城へ開城を促す使者が派遣された 26 。籠城軍は最後まで抵抗の意思を示したと伝えられるが、最終的には主君の命令に従い、7月14日(16日説あり)に城を明け渡した 4 。本城である小田原城が落城した後も、約10日間にわたって持ちこたえた計算になる。
この驚異的な抵抗を可能にした原動力は、領主と領民との間にあった一体感に求めることができる。籠城軍の兵力の大部分は、専門の戦闘員ではない農民や町人であった 5 。彼らが最後まで高い士気を維持できたのは、「自分たちの城と生活を守る」という意識が、身分を超えて共有されていたからに他ならない 20 。領主と領民が運命を共にするという共同体意識こそが、2万を超える大軍を相手に1ヶ月以上も持ちこたえた力の源泉であった。
忍城の戦いは、史実と伝説が交錯する中で、魅力的な人物像を生み出した。しかし、その実像は、後世に形成されたイメージとは必ずしも一致しない。
史実における成田長親は、成田泰季の嫡男であり、父の急死によって図らずも防衛の指揮を執ることになった人物である 17 。当時の家臣団の名簿である『成田分限帳』には、「永三百貫 成田大蔵」としてその名が見え、成田一門の一員として相応の地位にあったことが確認できる 26 。しかし、その具体的な人物像や、籠城戦における武功を直接的に記した同時代の一次史料は極めて乏しい 25 。
彼が、愚鈍に見えながらも類まれな人望で人々を惹きつける「でくのぼう(のぼう様)」として広く知られるようになったのは、ひとえに作家・和田竜の歴史小説『のぼうの城』およびその映画化によるものである 26 。この魅力的なキャラクター造形は創作であるが、忍城の戦いの物語を現代に蘇らせ、長親の知名度を飛躍的に高めた。
戦後、長親は城主・氏長に従って会津の蒲生氏郷に預けられ、その後、下野国烏山(栃木県)に移った。しかし、氏長と不和になり出奔したと伝えられる 17 。晩年は尾張国(愛知県)に移り住み、慶長17年(1612年)に67歳で没した 26 。その子孫は尾張藩士として家名を保ち、墓所は名古屋市の大光院に現存している 26 。
城主・成田氏長の長女である甲斐姫もまた、伝説に彩られた人物である 19 。彼女の母方の祖母にあたる妙印尼(みょういんに)も、金山城(群馬県)の籠城戦を指揮した女傑として知られ、武勇に優れた家系であったことがうかがえる 19 。その美貌は「東国無双」と評されたと伝わる 19 。
後世に編纂された『成田記』などの軍記物によれば、籠城戦の最中、甲斐姫は自ら甲冑を身にまとい、200余騎を率いて出陣し、浅野長政らの軍勢を撃退した、あるいは敵将を討ち取ったなど、数々の武勇伝が残されている 8 。しかし、これらの華々しい活躍も、長親の場合と同様に、同時代の一次史料によって裏付けることは困難であり、その実在性を含めて伝説的な側面が強いと指摘されている 19 。
戦後、その武勇伝が秀吉の耳に達し、側室として召し出されたとされる 19 。父・氏長が2万石の大名として復帰できたのは、甲斐姫の口添えがあったためとも言われている 29 。秀吉の死後の消息は定かではないが、豊臣秀頼の娘(後の天秀尼)の養育係となり、大坂の陣の落城後、共に鎌倉の東慶寺に入ったという説も伝わっている 19 。
忍城の戦いの物語は、史実の「空白」を埋める形で英雄を創出したと言える。忍城が持ちこたえたという「結果」は歴史的事実であるが、その「過程」において誰がどのように活躍したかという具体的な記録は乏しい。この物語的な空白を埋めるため、記録の少ない成田長親は「人望の将」、甲斐姫は「武勇の姫」という、分かりやすく魅力的なキャラクター像が後世の軍記物や現代の創作によって付与された。これは、歴史的事実の周りに、人々の願望や物語的要請が肉付けされていく「歴史の伝説化」の典型的なプロセスである。
忍城水攻めの失敗は、石田三成の経歴における大きな汚点となり、特に関ヶ原の戦いで敗将となった後、「三成は戦下手の官僚」という評価を決定づける一因となった 32 。
しかし、この評価は再検討されるべきであろう。前述の通り、水攻めという作戦自体が秀吉の強い意向によるものであり、三成自身は現地の地勢からその非効率性を認識していた可能性が、近年の研究で指摘されている 25 。むしろ、短期間で巨大な堤防を築き上げた計画性や実行力は、彼の行政官としての卓越した能力を示していると評価することも可能である。三成に対する否定的な評価の多くは、江戸時代に入ってから、彼を「悪役」として描くことで徳川支配の正当性を強調するために、意図的に形成された側面が強い 25 。忍城の戦いにおける彼の「失敗」もまた、その政治的プロパガンダの一部として利用された可能性は否定できない。
天正18年(1590年)の開城後、関東に入府した徳川家康は、四男の松平忠吉を10万石で忍城に入城させ、ここに忍藩が成立した 5 。以後、忍城は江戸幕府の北関東における重要拠点と位置づけられ、松平(大河内)家、阿部家、松平(奥平)家といった、幕府の要職を担う譜代大名が代々城主を務めた 4 。
平和な時代が訪れると、城下町も大きく発展した。中山道の裏街道にあたる宿場町として、また利根川の水運を利用した物流の拠点として繁栄した 11 。特に江戸時代後期からは、足袋の生産が盛んになり、その名は全国に知られるようになった。この足袋産業は、今日の行田市の主要な地場産業の礎となっている 11 。
また、藩士の子弟を教育するための藩校「進修館」も設立された 36 。この学校は、文政6年(1823年)に桑名藩(三重県)から松平(奥平)氏が転封された際に、共に移転・再建されたものであり、多くの人材を輩出した 38 。その表門とされる建造物が、現在も城跡に移築され現存している 5 。
明治維新を迎え、武士の世が終わると、忍城もその役割を終える。明治4年(1871年)の廃藩置県により忍県が置かれた後、明治6年(1873年)に発布された廃城令に基づき、城内の建造物のほとんどが取り壊された 7 。城門の一部は市内の寺院などに移築され、往時の姿を今に伝えている 5 。
城跡は公園として整備されたが、本丸跡地には野球場が建設されるなど、必ずしも遺構の保存が優先されたわけではなかった 11 。地域の歴史的シンボルを再興しようという機運が高まったのは、昭和後期のことである。昭和63年(1988年)、本丸跡に行田市郷土博物館が開館。それと同時に、かつての御三階櫓が鉄筋コンクリート構造によって外観復興された 2 。この再建櫓は、史実の櫓とは位置も規模も異なるものであるが、行田市の歴史と文化を象徴するランドマークとして、市民に親しまれている。
忍城の歴史は、日本の城郭が経験した役割の変遷を典型的に示している。戦国期の純粋な「軍事要塞」から、江戸期の「行政中心」、明治期の解体を経て、現代における「文化遺産」としての再生へ。この一連の流れは、時代ごとの社会における「城」という存在の価値観の変化を、如実に物語っている。
現在、忍城址は「続日本100名城」の一つに選定され 10 、重要な観光資源として活用されている。武将に扮した「忍城おもてなし甲冑隊」によるパフォーマンスなど、歴史を活かした地域振興の取り組みも活発に行われている 23 。
武蔵国忍城の歴史を多角的に検証した結果、その歴史的意義は以下の四点に集約される。
第一に、低湿地という特異な地形を最大限に活用した、難攻不落の「浮き城」としての軍事的価値である。その構造は、戦国期の城郭設計における、自然地形との融合という思想を体現している。
第二に、上杉・北条という二大勢力の狭間で、巧みな外交と堅固な城を盾に存続を図った国衆・成田氏の拠点として、戦国時代の地方領主が置かれた厳しい現実と、そのリアルな生存戦略を今日に伝えている点である。
第三に、豊臣政権による天下統一の最終局面において、その強大な軍事力と「水攻め」という必勝の策に対し、最後まで屈しなかった象徴的な戦いの舞台となった点である。この戦いは、中央の論理と現場の現実との相克を示す、歴史的な事例として記憶されるべきである。
そして最後に、成田長親や甲斐姫といった、史実と伝説が織り交ざった魅力的な人物像を生み出し、小説や映画といった現代の文化コンテンツに多大なインスピレーションを与え続けている点である。これは、歴史を語り継ぐことの力と重要性を示している。
忍城は、単なる過去の遺構ではない。それは、地理、戦略、人間ドラマ、そして現代文化が交錯する、生きた歴史の証人なのである。
西暦(和暦) |
出来事 |
1469-86年(文明年間) |
成田正等・顕泰父子により忍城が築城されると推定される。 |
1509年(永正6年) |
連歌師・宗長が来訪し、『東路のつと』に水郷としての忍の様子を記す。 |
1561年(永禄4年) |
城主・成田長泰が鶴岡八幡宮での一件を機に上杉謙信から離反する。 |
1574年(天正2年) |
上杉謙信に再度包囲されるが、撃退する。 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、石田三成率いる軍勢に包囲され水攻めを受けるが、小田原城開城まで持ちこたえる(忍城の戦い)。 |
1590年(天正18年) |
徳川家康の関東入府後、四男・松平忠吉が10万石で入城。忍藩が成立。 |
1639年(寛永16年) |
老中・阿部忠秋が入城し、城と城下町の大規模な整備を開始する。 |
1702年(元禄15年) |
阿部正武の代に御三階櫓が完成し、近世城郭としての姿が整う。 |
1823年(文政6年) |
伊勢桑名より松平(奥平)忠堯が入城。以後、松平氏が城主となる。 |
1873年(明治6年) |
廃城令により、土塁の一部などを残して建造物が取り壊される。 |
1988年(昭和63年) |
本丸跡に行田市郷土博物館が開館し、御三階櫓が外観復興される。 |
2017年(平成29年) |
「続日本100名城」(118番)に選定される。 |
家名 |
藩主名 |
石高 |
家格 |
松平(深溝)家 |
松平家忠 |
1万石 |
譜代 |
松平(東条)家 |
松平忠吉 |
10万石 |
親藩 |
松平(大河内)家 |
松平信綱 |
3万石 |
譜代 |
阿部家 (9代) |
阿部忠秋 ~ 阿部正権 |
5万石 → 10万石 |
譜代 |
松平(奥平)家 (5代) |
松平忠堯 ~ 松平忠敬 |
10万石 |
譜代 |