最終更新日 2025-08-24

志布志城

志布志城は南九州の要衝。内城、松尾城など四つの城からなる複合城郭で、シラス台地を活かした巨大な空堀が特徴。島津、肝付、伊東氏の争奪の舞台となり、海上交通の要衝でもあった。一国一城令で廃城となるも、その歴史は今に伝えられる。

戦国期南九州の要衝・志布志城 ― その歴史、構造、戦略的価値に関する総合的研究

序論:南九州の要衝、志布志城

鹿児島県志布志市に位置する志布志城跡は、中世南九州の激動の歴史を今に伝える、国の史跡であり、続日本100名城にも選定されている重要な城郭遺跡である 1 。戦国時代の南九州は、薩摩・大隅を本拠とする島津氏、大隅半島から日向南部に勢力を張る肝付氏、そして日向国を支配する伊東氏という三大勢力が、地域の覇権を巡って熾烈な争いを繰り広げた群雄割拠の地であった 3

このような時代背景の中、志布志城は単なる一介の山城として存在したわけではない。大隅国と日向国の国境地帯という地政学的に極めて重要な位置を占め、さらに天然の良港である志布志湾を眼下に擁するこの城は、軍事・経済の両面において計り知れない戦略的価値を有していた 3 。その支配権を巡っては、地域の諸勢力による絶え間ない争奪戦が繰り広げられ、城主は目まぐるしく入れ替わった。

本報告書は、この志布志城を、戦国期南九州の政治・軍事・経済の動向を映し出す「鏡」として位置づける。そして、築城から廃城に至るまでの歴史的変遷、シラス台地という特異な地形を最大限に活用した城郭構造、地域のパワーバランスを左右した戦略的価値、そして発掘調査によって明らかになった考古学的知見という四つの柱から、その多角的な実像を徹底的に解明することを目的とする。

第一章:争乱の歴史 ― 築城から島津氏の支配、そして廃城へ

志布志城の歴史は、南九州における権力闘争の力学を色濃く反映している。その城主の変遷は、単なる所有者の交代劇に留まらず、南北朝の動乱から戦国時代の終焉に至るまでの、この地域の勢力図の変遷そのものを物語る。この城は、歴史の受動的な舞台ではなく、地域のパワーバランスを決定づける重要な要素であった。

第一節:黎明期 ― 南北朝の動乱と城の形成

志布志城の正確な築城年は不明であるが、文献史料や考古学的知見から、その起源は南北朝時代の動乱期に遡ると考えられている。この時代には、全国的な争乱が南九州にも波及し、各地で防御拠点の構築が急務となっていた。記録によれば、この時期には既に松尾城と内城が存在していたことが確認されている 5

文献上で確認できる最初期の記録は、建武3年(1336年)に「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められたというものである 5 。この時の「志布志城」とは、最も早期に築かれたとされる松尾城を指す可能性が高い 5 。その後、この地は楡井氏、畠山氏、新納氏といった諸勢力の支配下を転々とする 1

この混沌とした状況に大きな画期をもたらしたのが、後の島津宗家(奥州家)第6代当主となる島津氏久の介入であった。当時、松尾城を新納氏が、内城をそれと対立する畠山氏が有するという状況下で、氏久は新納氏を支援して畠山氏を攻撃。これを追放し、貞治4年(1365年)頃、志布志城を自らの所領とした 6 。これにより、志布志城は島津氏による南九州経営の重要拠点として、本格的に歴史の表舞台に登場することになる。

第二節:戦国時代 ― 三つ巴の争奪戦

室町時代から戦国時代にかけて、南九州の情勢はさらに緊迫の度を増す。特に長禄2年(1458年)以降、日向南部の伊東氏との抗争が激化すると、志布志城は島津氏にとっての最前線基地としての性格を一層強めていった 6

しかし、島津氏の支配も盤石ではなかった。天文5年(1536年)、島津氏内部の勢力争いを背景に、分家である豊州島津氏、北郷氏、そして宿敵であった肝付氏が連合軍を結成し志布志城を攻撃。約180年にわたりこの地を治めてきた新納氏は城を明け渡し、志布志を去ることとなった 7

その後、志布志城は豊州島津氏の支配下に入るが、今度は肝付氏がその領有を狙い、執拗な攻撃を繰り返す。そして永禄5年(1562年)、ついに肝付兼続が城を攻め落とし、その支配下に置いた。兼続は後にこの城を自らの隠居所とし、この地で没している 9 。これは、肝付氏の勢力が頂点に達したことを象徴する出来事であった。

第三節:島津氏の直轄統治と初代地頭・鎌田政近

志布志城の歴史において、天正5年(1577年)は決定的な転換点となる。前年の天正4年(1576年)、あれほどの勢威を誇った肝付氏が伊東氏との戦いに敗れて衰退し、島津氏に降伏 6 。これを受けて翌年、志布志は島津宗家の直轄地となり、長きにわたる争奪戦に終止符が打たれた 1

この新たな統治体制の下で、初代地頭として志布志城に任じられたのが、島津家の重臣・鎌田政近であった 1 。政近は、後の耳川の戦いでの高城籠城戦や、関ヶ原の戦い後には徳川家康との巧みな外交交渉によって島津家の存続を勝ち取るなど、知勇を兼ね備えた優れた武将であった 13 。島津氏がこのような重要人物を初代地頭に据えたことは、この戦略的要地をいかに重視していたかを如実に物語っている。

この出来事は、志布志城の役割が根本的に変化したことを示している。それまで、この城は常に敵勢力との境界に位置する「奪い合う対象」としての最前線基地であった。しかし、島津氏による大隅統一が進み、国境線が北へ移動したことで、その軍事的役割は大きく後退した。鎌田政近の地頭就任は、城の性格が純粋な軍事拠点から、安定した領地を統治するための「地方行政拠点(外城)」へと移行したことを象徴するものであった。

第四節:役目の終焉と近世への移行

島津氏による薩摩・大隅の支配体制が確立し、さらに天正15年(1587年)に豊臣秀吉による九州平定が完了すると、国境紛争の最前線という志布志城の存在意義は急速に失われていった 3 。かつては地域の覇権を左右するほどの重要性を誇った城も、平和な時代の到来とともにその役目を終える時を迎える。

そして慶長20年(1615年)、江戸幕府によって発布された一国一城令に伴い、志布志城は正式に廃城となった 1 。ただし、城郭の石垣などが積極的に破壊されることはなかったとみられ、その構造の多くは後世に残されることとなる 1 。一方で、山麓の居館跡には地頭仮屋が置かれ、志布志の行政機能は麓の武家屋敷群(麓集落)へと引き継がれていった 10


表1:志布志城 関連年表

西暦

和暦

主要な出来事

関連する城主・勢力

1336年

建武3年

「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められる記録が残る。これが文献上の初出とされる 5

肝付氏

1348年

正平3年

楡井頼仲が松尾城に入城する 6

楡井氏

1357年

延文2年

楡井氏が攻略され滅亡。その後、松尾城を新納氏が、内城を畠山氏が領有する 6

新納氏、畠山氏

1365年頃

貞治4年頃

島津氏久が新納氏を支援し畠山氏を追放。志布志城を所領とする 6

島津氏(奥州家)

1458年以降

長禄2年以降

日向の伊東氏との抗争が激化し、志布志城が島津方の前線拠点となる 6

島津氏

1536年

天文5年

新納氏が豊州島津氏・北郷氏・肝付氏の連合軍に攻められ退去。豊州島津氏が支配する 6

新納氏、豊州島津氏

1562年

永禄5年

肝付兼続が志布志城を攻略し、領有する 9

肝付氏

1576年

天正4年

肝付氏が伊東氏に敗れて衰退し、島津氏に降伏する 6

肝付氏、島津氏

1577年

天正5年

志布志が島津宗家の直轄地となり、鎌田政近が初代地頭に任ぜられる 1

島津氏(宗家)

1587年

天正15年

豊臣秀吉の九州平定により、島津氏が降伏。城の軍事的価値が低下する 3

島津氏、豊臣氏

1615年

慶長20年

一国一城令により廃城となる 1


第二章:城郭の構造 ― シラス台地が生んだ巨大要塞群

志布志城の特異性は、その歴史だけでなく、他に類を見ない城郭構造にもある。この城は単一の城ではなく、四つの城郭が連携して一つの防衛システムを形成する複合城郭群である。そしてその構造は、南九州特有のシラス台地という脆弱な地質を、逆に強固な防御力へと転換させる、驚くべき築城技術の産物であった。

第一節:四城一体の総構え ― 複合城郭群としての実像

一般に「志布志城」と呼ばれる城郭は、東から内城(うちじょう)、松尾城(まつおじょう)、高城(たかじょう)、新城(しんじょう)という、近接する四つの独立した山城の総称である 4 。これらはそれぞれが独立した丘陵上に築かれながらも、一体として機能するよう設計された、極めて大規模な城郭群を形成していた 4

築城の正確な順序は不明であるが、史料から南北朝時代には既に松尾城と内城が存在していたことがわかっている 5 。当初は松尾城が中心的な役割を担っていたが、戦乱の激化に伴い、より大規模で防御機能に優れた内城が主城となり、さらに防御範囲を西側へ拡大するために高城、新城が築かれていったと推測される 6 。これは、志布志城が長期間にわたって、戦況の変化に対応しながら段階的に拡張・強化されていったことを示唆している。

この四城一体の構造は、単に手狭になったから隣の丘にも城を築いたという単純な発想によるものではない。これは、一つの「点」で敵を防ぐのではなく、広範な「領域(ゾーン)」で迎え撃つという、高度な領域防御思想の表れである。例えば、敵が主城である内城に攻めかかれば、谷を挟んで対峙する松尾城から側面攻撃(横矢)を加えることが可能である。西からの侵攻に対しては、新城と高城が第一の防衛ラインとして機能する。この相互支援体制により、敵は城郭群全体を同時に無力化しない限り、常に側面や背後からの攻撃に晒される危険を冒すことになる。これは、家臣団の居住区を含めた城下全体を防衛システムに組み込んだ、一種の「総力戦」を想定した縄張であったと解釈できる。

第二節:中核「内城」の縄張 ― 迷宮の如き防御機構

四城の中でも中核をなす内城は、南北約500~600m、東西約250~300mに及ぶ広大な城域を誇る 4 。その内部は、シラス台地の尾根を巧みに削り出すことで複数の曲輪(くるわ、郭)に分割されており、それぞれが独立した防御機能を持つよう設計されている 19

  • 主要な曲輪 :
  • 本丸(曲輪3) : 内城の中心であり、城主が籠る最後の拠点。上下二段の平坦面で構成される 19
  • 矢倉場(曲輪1) : 城の南端に位置し、見張りや防御のための櫓(やぐら)が置かれたと推定される最前線区画 19
  • 中野久尾(曲輪4, 5)、大野久尾(曲輪6, 15) : 本丸の背後(北側)を守る、複数の曲輪からなる防御区画。「久尾(くび)」とは細くなった土地を意味し、尾根筋を堀で分断して防御力を高めている。土塁や虎口(こぐち、城の出入り口)の遺構が良好に残存している 19
  • 防御施設 :
  • 空堀(からぼり) : 志布志城の最大の特徴であり、その防御力の中核をなす。シラス台地を深く、ほぼ垂直に掘り込んで造られた巨大な堀は、物理的に敵の侵入を阻む。その複雑に入り組んだ構造は「迷宮」とも評される 2 。堀底は通路としても利用されるが、意図的に屈曲させ、幅を変化させることで、侵入した敵兵を少数に分断し、各個撃破を容易にする工夫が凝らされている 19
  • 土塁(どるい) : 曲輪の周囲に土を盛ったり、台地を削り残したりして造られた防御壁。敵の直接的な侵入を防ぐだけでなく、城内の様子を隠す「めかくし」としての機能も果たした 19
  • 虎口(こぐち) : 城への主要な出入り口。正面口である大手口と、裏口にあたる搦手口が設けられ、特に大手口は複数の堀と曲輪によって厳重に守られていた 19

また、中世山城の典型的な形態として、有事の際に立てこもる山城(詰めの城)とは別に、平時の政務や生活の場として、山麓(現在の志布志小学校敷地)に居館(やかた)が設けられていた 7

第三節:南九州型山城としての特質

志布志城の構造は、九州南部に広く分布する火山噴出物による「シラス台地」の地質的特徴と分かちがたく結びついている 3 。一般的な城郭が石垣を「積み上げ」、天守を「建て加える」という構築的な思想で造られるのに対し、志布志城の本質は、自然の台地を人間の知恵で「削り、掘り、切り離す」という、いわば彫刻的な思想にある。

シラスは比較的柔らかく掘削しやすい一方で、水はけが良く、一度固まると垂直に近い角度でも崩れにくいという特性を持つ。志布志城の築城者たちはこの地質を巧みに利用し、石垣をほとんど用いることなく、大規模な空堀や切岸(きりぎし、人工的な崖)を造成することで、極めて堅固な防御網を構築したのである 3 。この巨大な空堀や独立した曲輪は、大地を削り取り、丘を切り離すことによって生み出された。これは、自然地形を最大限に活用し、最小限の労力で最大の防御効果を得ようとする、極めて合理的かつ高度な土木技術の産物である。

このような「シラス台地を削り出して城を造る」という築城思想は、都城(宮崎県都城市)などに見られる「群郭式城郭」とも共通する、南九州型山城の顕著な特徴である 21 。後の時代、島津氏の拠点となった佐土原城(宮崎市)では、織豊系城郭の影響を受けた桝形虎口や天守台の存在が確認されているが 23 、志布志城はそれ以前の、より土着的で地形を活かした中世山城の様相を色濃く残している点で、城郭史上、非常に貴重な存在と言える。


表2:志布志城四城の構造比較

城郭名

規模(南北×東西)

標高

主要な遺構・特徴

推定される機能・役割

内城

約500m × 250m 4

約50m 4

本丸、矢倉場、中野久尾、大野久尾などの大規模な曲輪群。複雑で深い空堀、土塁、虎口が良好に残存 4

志布志城全体の中核をなす主城。司令部機能と最終防衛ラインを担う。

松尾城

約300m × 200m 4

約50m 4

内城と谷を挟んで対峙。北端を除き郭は小規模。北端を空堀で遮断 4

初期の主城であった可能性が高い。内城完成後は、連携して防御を担う出城として機能。

高城

(北)約150m×150m、(南)約250m×150m 4

約50m 4

松尾城の西側に位置。自然の谷で南北に分断。空堀や土塁の遺構が残る 4

西方からの攻撃に対する第一防衛ライン。家臣団の集住区画の可能性も。

新城

約250m × 250m 4

約50m 4

最西端に位置。東側と北側を空堀で遮断。中学校建設により北西部は改変 4

高城と連携し、西方の防御を固める。城域の拡大と家臣団集住の役割。


第三章:戦略的価値 ― 志布志湾と大隅・日向国境の支配

志布志城が戦国大名たちにとって「垂涎の的」となり、絶え間ない争奪戦の舞台となった背景には、その比類なき地政学的な重要性があった。その価値は、海上交通の掌握と陸上防衛という二つの側面から理解することができる。そして、この城の真の価値は、陸と海の力を結びつける「連結器(リンチピン)」としての機能にあった。

第一節:海上交通の要衝・志布志港の掌握

戦国時代において、兵糧や武具といった軍需物資を一度に大量に、かつ迅速に輸送する手段として、陸上交通よりも海上交通が圧倒的に優位であった 5 。志布志湾は、太平洋に面した天然の良港であり、古くから南九州における海上交通の拠点として栄えていた 3

この港を支配することは、単に物資の輸送路を確保するに留まらない。琉球や明との交易による莫大な経済的利益を独占し、それを軍事力に転換することを可能にした。志布志城は、この志布志港を眼下に収め、直接的に支配・防衛するために築かれた城であった 3 。城と港は一体不可分の関係にあり、城を制する者が南九州の太平洋側の制海権と経済的優位性を握ると言っても過言ではなかった。これこそが、志布志城を巡る争奪戦の最も根本的な原因であった 3

第二節:大隅・日向国境の最前線基地

陸上においても、志布志城の位置は極めて重要であった。この地は、薩摩・大隅を本拠とする島津氏、日向南部を支配する伊東氏、そして大隅半島に勢力を持つ肝付氏という、三大勢力の勢力圏が複雑に交錯する境界線上に位置していた 3

このため、志布志城は各勢力にとって、攻守両面における要であった。島津氏から見れば、日向国へ侵攻するための絶好の「橋頭堡」であり、同時に伊東氏や肝付氏の侵攻を防ぐための「防波堤」でもあった 6 。逆に、肝付氏や伊東氏にとっては、島津氏の勢力圏に楔を打ち込み、その東方への拡大を阻止するための最重要攻略目標であった。

陸の覇権(大隅・日向の支配)を目指す者は、海の力(志布志港からの補給と交易)を必要とし、海の力を欲する者は、それを守る陸の拠点(志布志城)を必要とした。志布志城は、この陸海両面にまたがる広域戦略を可能にする、唯一無二の結節点であった。この城を失うことは、単に一つの拠点を失うだけでなく、自らの大戦略そのものが破綻することを意味した。だからこそ、各勢力は多大な犠牲を払ってでもこの城を求め続けたのである。

島津氏が最終的に肝付氏を従え、伊東氏を日向から駆逐して大隅・日向南部を統一する過程で、志布志城は常にその最前線として機能した。しかし皮肉なことに、その統一が達成された天正5年(1577年)以降、国境線がはるか北へ移動したため、最前線基地としての戦略的価値は失われ、その軍事的な役割を終えることとなった 6

第四章:発掘調査が語る城の実像

文献史料は城の歴史や城主の変遷を教えてくれるが、城内でどのような人々が、どのような生活を送っていたのかを具体的に知ることは難しい。その空白を埋めるのが、発掘調査によって得られる考古学的知見である。志布志城跡から出土した遺物は、この城が単なる辺境の砦ではなく、国際性豊かな軍事商業都市であったことを雄弁に物語っている。

第一節:出土遺物が示す国際交易と武装

内城跡および松尾城跡で実施された発掘調査では、14世紀後半から16世紀代にかけての遺物が多数出土している 4 。これらの出土品は、当時の志布志城の性格を解き明かす上で極めて重要な手がかりとなる。

  • 多様な交易品 : 城内からは、中国産の青磁・白磁・染付といった高級陶磁器や、タイ産の陶器などが確認されている 4 。これらの海外からの輸入品は、志布志港を介した琉球貿易などを通じて、この地が活発な国際交易の拠点であったことを示す動かぬ証拠である。「山城」と聞くと武骨で質素な軍事施設を想像しがちだが、これらの遺物は、城主やその家臣団が、単なる武人としてだけでなく、国際交易の利益を享受する豊かな文化的生活を送っていた可能性を示唆している。
  • 流通した通貨 : 明代の「洪武通寶」をはじめ、中国の歴代王朝の古銭や、琉球の「大世通寶」なども出土している 25 。これは、当時の東アジアで流通していた通貨が志布志にも及んでおり、この地が広域経済圏に組み込まれていたことを示している。
  • 最新兵器の存在 : 松尾城跡からは鉄砲の玉が出土している 26 。これは、16世紀中頃以降、志布志城が鉄砲という当時の最新兵器で武装されていたことを示唆しており、戦国時代の緊迫した軍事情勢を物語る貴重な資料である。

これらの出土品は、志布志城が最前線の「軍事拠点」であると同時に、志布志港を通じて富が集積する「商業拠点」でもあったことを示している。この軍事と商業の二つの顔を併せ持つ「軍事商業都市」としての性格こそが、志布志城の特異性と重要性の源泉であった。

第二節:遺構から探る城内の施設と暮らし

出土遺物だけでなく、発掘調査によって確認された遺構もまた、城の実像に迫る上で重要な情報を提供してくれる。

  • 大型建物跡の発見 : 内城の本丸跡からは、発見された部分だけでも南北約3.6m、東西約5.4mに及ぶ、大型の建物が存在した痕跡が見つかっている 25 。これは、本丸に城主の居館や政務を執り行うための大規模な施設が存在した可能性を示すものであり、城の中枢機能の一端を垣間見せる。
  • 城と麓の役割分担 : 山上の城郭群からは、日常生活をうかがわせる遺物の出土が比較的限定的であるのに対し、山麓の居館跡(現在の志布志小学校)には「御座之間」や「大広間」があったと古文書『志布志記』に記録されている 19 。これは、山上が純粋な軍事・防御空間であったのに対し、麓が政治・生活の中心であったという役割分担を考古学的にも裏付けている。
  • 空堀の本来の姿 : 発掘調査によって、空堀の一部は、築城当時は現在の地表面よりもさらに約7m深く、曲輪の頂部からの高低差が最大で約24mにも及ぶ、壮大なものであったことが判明した 25 。これは、文献や地表観察だけではうかがい知ることのできない、志布志城の防御力の凄まじさを具体的に示す発見であった。

結論:戦国期南九州史における志布志城の歴史的意義

本報告書では、志布志城を歴史、構造、戦略、考古学という多角的な視点から分析してきた。その結果、この城が単なる一地方の城郭に留まらない、極めて重要な歴史的意義を持つことが明らかになった。

第一に、志布志城の歴史は、南北朝の動乱から戦国時代の終焉に至るまでの南九州の地政学的な力学を体現する存在であった。城主のめまぐるしい変遷は、島津、肝付、伊東といった諸勢力の興亡の歴史そのものであり、この城の支配権の帰趨が地域のパワーバランスを決定づけてきた。

第二に、その構造は、シラス台地という南九州特有の地形を最大限に活用した、他に類を見ない築城技術の傑出した事例である。石垣に頼らず、大地を「削り出す」ことによって生み出された巨大な空堀と独立した曲輪群は、自然と一体化した堅牢な要塞を形成しており、中世山城の一つの到達点を示している。

第三に、志布志城は、陸海交通の結節点として、地域の経済と軍事を支配する要であった。天然の良港・志布志港を掌握することで得られる経済力と、大隅・日向国境の最前線という軍事的役割が分かちがたく結びついていたことこそ、この城が絶え間ない争奪戦の的となった根本的な理由である。

そして、天正5年(1577年)の鎌田政近の地頭就任を画期として、戦国時代の「争奪の最前線」から、近世薩摩藩の「地方統治の拠点(外城)」へとその役割を変え、やがて一国一城令によって歴史の表舞台から姿を消したその生涯は、戦国の世の終焉と新たな時代の到来を象徴している。

今日、国の史跡として、その広大な城域が麓の武家屋敷群の景観と共に良好に保存されていることは、極めて価値が高い 2 。志布志城跡は、戦国期南九州の複雑でダイナミックな歴史を理解するための、かけがえのない鍵であり、今後もさらなる研究を通じて、その価値が解き明かされていくことが期待される。

引用文献

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  2. 志布志城跡 | 薩摩の武士が生きた町 〜武家屋敷群「麓」を歩く〜 https://kagoshima-fumoto.jp/shibushi/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E5%9F%8E%E8%B7%A1/
  3. 志布志城 | 九州隠れ山城10選 | 九州の感動と物語をみつけようプロジェクト https://www.welcomekyushu.jp/project/yamashiro-tumulus/yamashiro/21
  4. 志布志城跡 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/212100
  5. 志布志城の概要 https://www.city.shibushi.lg.jp/soshiki/22/1567.html
  6. 志布志城の歴史 https://www.city.shibushi.lg.jp/soshiki/22/1520.html
  7. 志布志城 内城 松尾城 高城 新城 安楽城 松山城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/kagosima/sibusisi.htm
  8. 志布志のお殿 様 https://www.city.shibushi.lg.jp/uploaded/attachment/4479.pdf
  9. 60.志布志城跡 - 鹿児島日本遺産 https://samurai-district.com/spot/spot-1122/
  10. 志布志城跡【国指定文化財】 https://www.sibusi-k-t.jp/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E5%9F%8E%E8%B7%A1%EF%BC%88%E5%9B%BD%E6%8C%87%E5%AE%9A%E5%8F%B2%E8%B7%A1%EF%BC%89/
  11. 人のために、ふるさとのために 新納忠元ものがたり | 伊佐市 | 鹿児島県伊佐市 https://www.city.isa.kagoshima.jp/blog/info-culture/30855/
  12. 志布志城跡にのぼってみた、いくたびも争奪戦が繰り返された要衝 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2021/03/27/105842
  13. 鎌田政近 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%94%BF%E8%BF%91
  14. 九州の役、豊臣秀吉に降伏 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kyushu-no-eki/
  15. 秀吉の九州遠征 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/kyusyu.html
  16. 復元CGの作り方紹介!秘境度No.1(?)の「志布志城」360度映像制作レポート https://shirobito.jp/article/1748
  17. 【国指定文化財】 志布志城跡 https://www.city.shibushi.lg.jp/soshiki/22/1564.html
  18. 志布志城の見所と写真・600人城主の評価(鹿児島県志布志市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/400/
  19. 志布志城跡(内城跡) 縄張図 用語集 https://www.city.shibushi.lg.jp/uploaded/attachment/4482.pdf
  20. 志布志城> ダイナミックな連郭式縄張りで”大空堀”と”大堀切”を堪能! https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12767190242.html
  21. 【宮崎県のお城/飫肥城・延岡城・佐土原城・都於郡城 ... - 城びと https://shirobito.jp/article/1802
  22. 都城の城跡 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/jidaibunkazai/3771.html
  23. 佐土原城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kyusyu/sadowara/sadowara.html
  24. 【日本遺産ポータルサイト】志布志城跡 - 文化庁 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/4687/
  25. 内城跡発掘調査の概要 - 志布志市公式ホームページ https://www.city.shibushi.lg.jp/soshiki/22/1530.html
  26. 松尾城跡発掘調査の概要 - 志布志市公式ホームページ https://www.city.shibushi.lg.jp/soshiki/22/1529.html