信濃の要衝、戸石城は武田信玄に「戸石崩れ」を喫させた難攻不落の複合山城。真田幸隆の智略で無血開城し、真田氏の拠点に。関ヶ原では真田一族存続の舞台となり、今も戦国の記憶を伝える。
信濃国小県郡、現在の長野県上田市上野にその痕跡を留める戸石城(といしじょう)は、戦国時代の信濃を巡る攻防史において、極めて重要な役割を果たした山城です 1 。別名を砥石城とも記されるこの城は、単なる一介の砦ではなく、戦国最強と謳われた武田信玄に生涯二度目となる大敗を喫させた、難攻不落の要塞としてその名を歴史に刻んでいます 2 。
戸石城の戦略的価値を理解する上で、まずその傑出した地勢を把握することが不可欠です。城は、上田盆地の北東に連なる東太郎山の尾根筋を利用して築かれています 1 。西側には神川が深い谷を刻みながら南流し、天然の防御線となっています 1 。眼下には南西に上田平が広がり、千曲川流域の動向を一望できます。そして、北東には真田氏の本拠地である真田郷が控え、さらに鳥居峠を越えれば上州(群馬県)吾妻郡へと至る上州街道を押さえることができる、まさに交通と軍事の結節点に位置していました 1 。
この地理的条件は、戸石城に単なる防御拠点以上の価値を与えました。すなわち、この城を支配することは、上田平と真田郷という二つの重要地域を同時に掌握し、信濃と上州を結ぶ幹線を統制下に置くことを意味しました。それゆえに、北信濃に覇を唱えた村上氏、そして甲斐から信濃統一を目指し北上する武田氏、さらにはこの地の在地領主であった真田氏といった諸勢力の思惑が交錯する最前線となり、その領有権を巡って熾烈な争奪戦が繰り広げられる運命にあったのです。戸石城の歴史は、そのまま戦国期信濃の勢力図の変遷を体現していると言っても過言ではありません。
戸石城が「難攻不落」と称された最大の理由は、その特異かつ堅牢な城郭構造にあります。戸石城とは単一の城を指す名称ではなく、「本城」「砥石城(狭義)」「枡形城」「米山城」という独立した機能を持つ四つの城郭が、一つの尾根上および隣接する峰に有機的に配置された、一大城塞群の総称なのです 3 。
このような構造は、主郭を中心に複数の郭を直線的に連ねる「連郭式山城」の発展形と見なすことができます 7 。各城が独立した防御能力を持ちながら、相互に連携・支援し合うことで、城塞群全体として極めて高い防御力を発揮するよう設計されていました。敵は一つの城を攻めている間も、常に他の城からの側面攻撃や後方からの牽制に晒されることになります。この巧妙な縄張りこそが、武田信玄率いる大軍の力攻めを頓挫させた核心的要因でした。
戸石城塞群を構成する四つの城は、それぞれが異なる役割を担い、多角的な防御ネットワークを形成していました。
この四城の配置は、単一方向からの攻撃のみを想定したものではありません。南の上田平、北の真田郷、そして西の神川対岸という、あらゆる方面からの脅威に同時に対処することを可能にする、高度な「多正面防御思想」を体現しています。各城が特定の防御セクターを担当し、相互に支援し合うことで、敵に対して常に複数の攻撃軸を突きつけ、弱点を見せにくい立体的な防御ネットワークを形成していたのです。
戸石城塞群には、山城としての防御力を最大限に高めるための工夫が随所に見られます。
以下の表は、戸石城塞群を構成する各城の役割をまとめたものです。
城名 |
位置関係 |
主たる監視・防御方面 |
推定される役割 |
主な遺構 |
本城 |
城塞群の中枢 |
全方位 |
司令部、主戦力駐屯、最終防衛線 |
広大な段状の曲輪、石積み、虎口跡 |
砥石城(狭義) |
本城の南、最前線 |
南(上田平方面) |
最前線防御、敵主力の監視・迎撃 |
曲輪、大規模な堀切、切岸 |
枡形城 |
本城の北、最高所 |
北(真田郷方面) |
後方防御、物見、狼煙台 |
曲輪、大堀切、ミニ堀切 |
米山城 |
本城の南西、独立峰 |
南西(大手口方面) |
側面防御、大手口の牽制 |
三段の曲輪、腰曲輪、石垣の一部 |
戸石城の築城年代や築城主を明確に示す一次史料は現存していませんが、通説では、戦国時代中期に北信濃で一大勢力を築いた村上義清によって整備されたと考えられています 4 。
天文10年(1541)、甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重が連合して小県郡の海野平に侵攻し、在地領主であった海野棟綱ら滋野一族を上州へと追いやりました 15 。この「海野平の戦い」に乗じて、埴科郡の葛尾城を本拠とする村上義清も小県郡へと勢力を拡大します。この過程で、武田氏の南からの脅威に備えるため、また小県・佐久地方への支配を確固たるものにするための戦略拠点として、戸石城が奪取・再築されたと見られています 15 。
村上義清にとって、戸石城は甲斐の武田氏に対する最前線基地であり、その北上を食い止めるための極めて重要な防波堤でした。天文17年(1548)には、村上義清が武田信玄(当時は晴信)の軍勢を打ち破るという大金星を挙げた「上田原の戦い」が勃発します 2 。この勝利により、村上氏の武名は轟き、戸石城の戦略的重要性はさらに高まりました。城の西麓にある金剛寺集落は村上時代の城下町であったとされ、「城代屋敷」といった地名が今も残ることから、当時この地が村上氏の小県郡支配の中核を担っていたことが窺えます 19 。
天文19年(1550)9月、武田信玄は雪辱を期して再び村上領へと大軍を差し向けます。上田原の戦い以降、信玄は諏訪郡や筑摩郡の小笠原長時を攻略し、信濃中南部を制圧。満を持して、宿敵・村上義清との決戦に臨んだのです 14 。信玄が攻略目標に定めたのが、村上方の最前線拠点、戸石城でした。
当時の記録である『高白斎記』などに基づくと、合戦の経過は以下のように再構築できます 14 。
この惨敗は、武田家中において「戸石崩れ」と称され、『妙法寺記』にも「随分衆千人計打死成され候(かなりの人数、千人ほどが討死なされた)」と記されるなど、信玄の生涯における最大の汚点の一つとして後世に語り継がれることとなりました 2 。
武田信玄がこれほどの大敗を喫した要因は、複合的なものです。
信玄が屈辱的な敗北を喫してからわずか8ヶ月後の天文20年(1551)5月、戦国史に残る劇的な逆転劇が起こります。あれほど堅固を誇った戸石城が、武田信玄に仕えていた真田幸隆(幸綱)の手によって、いとも容易く陥落したのです 1 。
『高白斎記』には、この出来事を「砥石城真田乗取」と、わずか七文字で記されています 1 。この「乗取」という表現は、大規模な合戦による攻略ではなく、計略や内応といった、いわゆる「調略」によって城を手に入れたことを示唆しています。
幸隆が用いた調略の具体的な内容は史料に残されておらず、詳細は不明な点が多いものの 25 、いくつかの説が伝えられています。有力なのは、城内にいた武将を内応させたというものです。一説には、幸隆の実弟である矢沢頼綱(綱頼)が城内に潜入、あるいは元々村上方に属しており、兄の調略に応じて内側から城門を開けたとも言われています 14 。幸隆は「戸石崩れ」の際にも、周辺の国衆である清野氏や寺尾氏への調略工作を行っており 22 、時間をかけて周到に外堀を埋め、機が熟すのを待っていたことが窺えます。
この一連の出来事は、戦国時代の戦いのあり方を象徴的に示しています。信玄が7,000という大軍と1ヶ月以上の時間を費やし、多くの将兵の血を流しても落とせなかった城が、幸隆の知略によって、わずか1日で、おそらくは最小限の犠牲で手に入ったのです 22 。この鮮やかな対比は、戦国時代の戦闘様式が、単なる兵力のぶつかり合いから、情報戦や心理戦を駆使した高度な戦略へと移行していく過渡期の現実を浮き彫りにしています。幸隆の成功は、彼個人の智謀の冴えを示すと同時に、時代の変化を体現するものでした。
戸石城の陥落は、北信濃の勢力図に決定的な影響を与えました。重要拠点を失った村上方の士気は著しく低下し、これを契機に村上義清は本拠である葛尾城をも支えきれなくなり、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びていきます 14 。そして、信濃の覇権を巡る武田信玄と上杉謙信の十数年にわたる死闘、「川中島の戦い」の幕が、ここに切って落とされることになったのです。
真田幸隆による戸石城の奪還は、真田一族にとって大きな転機となりました。かつて海野平の戦いで追われた旧領・真田郷を回復し、小県郡における真田氏再興の確固たる足がかりを築いたのです 1 。
天正11年(1583)に真田昌幸が上田城を築城するまでの約30年間、戸石城は真田氏の日常的な居館である「真田氏館」と共に、一族の軍事的中核拠点として機能しました 4 。
真田氏の城となった戸石城は、その後も重要な役割を果たし続けます。天正13年(1585)、徳川家康の大軍を迎え撃った「第一次上田合戦」では、昌幸の嫡男・真田信幸(後の信之)が戸石城に兵300余りで布陣し、本城である上田城の支城として徳川軍の側面を脅かすなど、重要な役割を果たしました 28 。
そして、戸石城が再び歴史の表舞台に登場するのが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いです。天下分け目の戦いに際し、真田家は当主・昌幸と次男・信繁(幸村)が西軍に、嫡男・信幸が東軍に与するという、一族存続をかけた苦渋の決断を下します。世に言う「犬伏の別れ」です 29 。
徳川秀忠率いる東軍本隊が中山道を進軍し、上田城に籠る昌幸・信繁を攻めた際(第二次上田合戦)、秀忠は配下の真田信幸に、信繁が守る戸石城の攻略を命じました 1 。兄が弟の守る城を攻めるという、まさに骨肉相食む状況です。しかし、両者の間で戦闘が行われることはありませんでした。信繁は兄・信幸の意を汲み、戦わずして城を明け渡し、上田城へと撤退したのです 1 。
この無血開城は、単なる戦術的な判断ではありませんでした。それは、真田家の存続という大戦略の舞台として、戸石城が機能した瞬間でした。弟が兄に戦功を立てさせる形で城を明け渡すことは、東軍における信幸の立場を強化し、仮に西軍が敗れた場合でも真田家の家名を存続させるための、極めて高度な政治的駆け引きでした。「犬伏の別れ」で交わされた一族存続の密約が、この戸石城の受け渡しという形で実践されたのです。かつての純粋な軍事拠点は、この時、一族の未来を繋ぐための重要な駒へとその役割を変えたのでした。
関ヶ原の戦いを経て、真田信幸が上田領の初代藩主となると、政治・経済の中心は平城である上田城へと完全に移行しました。これにより、山城である戸石城の軍事的価値は相対的に低下し、江戸時代を通じて徐々に廃城になったと推測されます 10 。一部の資料では廃城年を元亀元年(1570年)とする記述もありますが 1 、慶長5年(1600)の第二次上田合戦で現役の城として機能していた史実とは矛盾しており、これは誤りである可能性が高いと考えられます。
戦いの時代が終わり、静寂を取り戻した戸石城跡は、昭和44年(1969)5月15日に長野県の史跡に指定され、その歴史的価値が公に認められました 3 。戦国時代中期の山城の構造、特に複数の城郭が連携する複合城郭の実態を今日に伝える、極めて貴重な文化財です。
現在、城跡は登山道が整備され、歴史ファンやハイカーが気軽に訪れることができる史跡公園となっています 5 。現地には、曲輪、土塁、堀切、石積みといった遺構が良好な状態で残されており、往時の姿を偲ぶことができます 11 。特に、本城の広大な曲輪群や、砥石城と本城を隔てる巨大な堀切は必見です。
麓の櫓門駐車場から登り始め、米山城、砥石城、本城、枡形城と尾根を縦走する見学ルートが一般的で、所要時間は1時間半から2時間程度が目安となります 17 。城跡の各所からは上田市街や真田の郷が一望でき、武将たちが眺めたであろう景色を追体験することができます 5 。
また、地元では毎年11月3日の文化の日に「戸石・米山城まつり」が開催されるなど、戸石城は単なる過去の遺産ではなく、今なお地域の人々に親しまれ、その歴史を語り継がれる存在となっています 5 。武田信玄を退け、真田一族の興亡を見つめてきたこの古城は、これからも信濃の地に戦国の記憶を静かに伝え続けていくことでしょう。