掛川城
掛川城は東海道の要衝に築かれ、今川氏の遠江支配の拠点。今川氏真が籠城し、徳川家康との攻防戦を経て開城。山内一豊が近世城郭へと大改修し、関ヶ原では一豊の決断で土佐への栄転に繋がった。現在は木造天守が復元され、歴史を伝える。
戦国史における掛川城の戦略的価値と変遷 ― 東海道の要衝、その興亡と遺産 ―
序章:東海道の要衝、掛川城の地政学的意義
日本の戦国時代史において、特定の城郭の価値は、その構造的堅牢さのみならず、それが位置する地政学的な文脈によって大きく左右される。静岡県掛川市に現存する掛川城は、まさにその典型例である。この城は、戦国期を通じて日本の大動脈であった東海道のほぼ中間に位置し、西の京都と東の江戸(後の江戸)を結ぶ交通上、軍事上の結節点として、極めて重要な戦略的価値を有していた 1 。
掛川城が位置する遠江国(現在の静岡県西部)は、肥沃な土地と温暖な気候に恵まれ、経済的にも魅力的な地域であった 2 。そのため、この地を巡っては、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河の徳川氏といった、戦国時代を代表する大名たちが、その覇権を賭けて熾烈な争奪戦を繰り広げた。掛川城の歴史は、この三大勢力、そして後に天下人となる豊臣氏の思惑が交錯する、まさに戦国期東海地方の縮図であった。
しかし、掛川城の価値を単なる「静的な要塞」として捉えることは、その本質を見誤ることに繋がる。この城の真の重要性は、周辺勢力のパワーバランスの変化に応じて、その戦略的意味合いを絶えず変容させてきた「動的な勢力均衡の支点」としての役割にあった。今川氏にとっては遠江支配を確立するための「西進の拠点」であり、徳川氏にとっては強大な武田氏の侵攻を食い止める「対武田の防衛線」であった。そして、豊臣政権下では、関東の徳川家康を牽制するための「対家康の楔」として機能した。このように、掛川城の歴史を紐解くことは、戦国時代における東海地方の勢力図の変遷そのものを理解することに他ならない。本報告書は、戦国時代という激動の時代を主軸に、掛川城の創築から近世城郭への変貌、そして現代における復元に至るまでの通史を詳細に分析し、その戦略的価値と歴史的遺産としての意義を明らかにすることを目的とする。
第一章:創築と今川氏の時代 ― 遠江支配の橋頭堡
掛川城の歴史は、室町時代中期、駿河国(現在の静岡県中部・東部)を拠点とする守護大名・今川氏が、隣国である遠江への勢力拡大を本格化させる過程で幕を開ける。当初、純粋な軍事拠点として築かれたこの城は、やがて今川氏による遠江支配の安定化と共に、その性格を変容させていく。
1.1 掛川古城の築城と朝比奈氏
掛川城の原点は、現在の城郭から北東へ約500メートルの位置にある子角山(ねずみやま)、別名・天王山に築かれた「掛川古城」に遡る 2 。築城を命じたのは駿河守護・今川義忠であり、その命を受け実行したのが、今川家の重臣であった朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)である 4 。築城年代については諸説あるが、文明年間から明応・文亀年間、すなわち15世紀末から16世紀初頭にかけてと推定されている 4 。
この掛川古城が築かれた目的は、今川氏が遠江へ進出するための軍事的な足掛かり、すなわち橋頭堡を確保することにあった 1 。当時の遠江は、斯波氏をはじめとする諸勢力が割拠しており、今川氏にとって敵地への侵攻拠点となる前線基地が不可欠であった。子角山は、周囲を見渡せる戦略的な高台であり、初期の軍事拠点として最適な場所であったと考えられる。
1.2 龍頭山への移転と新城の確立
今川氏による遠江支配が着実に進展し、その勢力が安定・拡大するにつれて、子角山の掛川古城では手狭となっていった 2 。そこで、永正10年(1513年)頃、朝比奈泰煕の子である泰能(やすよし)の代に、現在の城の所在地である龍頭山(りゅうとうざん)に新たな城が築かれ、拠点が移された 2 。
この移転は、単なる城の規模拡大を意味するものではなかった。それは、今川氏の遠江支配が、一時的な軍事占領を目的とする「征服」の段階から、恒久的な領国経営を目指す「統治」の段階へと移行したことを象徴する物理的な証左であった。山城である古城が純軍事拠点としての性格が強いのに対し、平山城である新城は、城下町の形成や領民の管理、経済活動の拠点化といった政庁機能の遂行に適している 4 。この移転によって、掛川城は遠江における今川氏の政治・経済・軍事の中心拠点としての地位を確立し、その後の発展の礎が築かれたのである。
1.3 朝比奈泰朝の忠節と今川氏の斜陽
掛川城は、築城以来、朝比奈泰煕、泰能、そして泰朝(やすとも)と三代にわたって朝比奈氏が城主を務めた 6 。特に三代目の泰朝は、今川家の歴史において特筆すべき忠臣として知られている。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで当主・今川義元が織田信長に討たれると、強大を誇った今川家の権威は失墜し、領国では家臣の離反が相次いだ 2 。このような混乱の中にあって、朝比奈泰朝は義元の子・氏真を支え続け、最後まで忠節を貫いた 10 。永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄による駿河侵攻によって本拠地である駿府を追われた氏真を、泰朝は自らの居城である掛川城に迎え入れた 1 。これにより、掛川城は図らずも、名門・今川家がその存亡を賭ける最後の舞台となったのである。泰朝のこの決断がなければ、氏真は逃避行の途上で命を落とし、今川家はより早く歴史から姿を消していた可能性が高い 14 。
第二章:今川氏の落日と掛川城攻防戦 ― 徳川家康による遠江平定
今川氏真が掛川城に籠城したことは、戦国大名・今川氏の歴史に終止符を打つとともに、徳川家康による遠江平定を決定づける重要な転換点となった。約半年に及んだこの攻防戦は、単なる城の争奪戦に留まらず、東海地方の勢力図を塗り替えるための高度な軍事・外交戦略が繰り広げられた舞台であった。
2.1 駿府陥落と今川氏真の籠城
永禄11年(1568年)12月、かつて今川氏と同盟関係にあった武田信玄と、今川氏から独立した徳川家康は、今川領の分割を約し、駿河・遠江への挟撃作戦を開始した 1 。信玄の軍勢が駿府の今川館を急襲すると、氏真はなすすべもなく本拠地を放棄し、朝比奈泰朝が守る掛川城へと逃げ込んだ 14 。この逃避行はあまりに突然であり、氏真の正室で北条氏康の娘であった早川殿は、輿に乗る間もなく徒歩で逃れたと伝えられている 16 。この一件は、娘を溺愛していた氏康を激怒させ、武田氏との甲相同盟が破綻する遠因となった。
2.2 半年に及ぶ攻防の実態
氏真が掛川城に立てこもる一方、家康は遠江の今川方諸城を次々と攻略し、掛川城を完全に包囲した 11 。家康は当初、力攻めを避け、城の周囲に青田山砦や金丸山砦といった複数の付城(つけじろ)を築き、兵糧攻めによる長期戦の構えを見せた 11 。家康自身は、かつての掛川古城跡である天王山に本陣を構え、攻城戦の指揮を執った 11 。
しかし、籠城する今川方もただ守りを固めるだけではなかった。朝比奈泰朝の指揮のもと、城兵はしばしば城から打って出て徳川軍に攻撃を仕掛けるなど、激しい抵抗を続けた 11 。特に攻防の初期段階では、家康の本陣近くで連日のように戦闘が繰り広げられ、徳川軍が劣勢に立たされる場面もあったという 11 。両軍ともに多大な犠牲者を出す激戦となり、掛川城はその堅固さを天下に示した。
この攻防戦の最中、城の天守台脇に現存する「霧吹井戸」から濃い霧が立ち上り、城全体を覆い隠したため、徳川軍は攻撃を断念せざるを得なかったという伝説が生まれた。この逸話から、掛川城は「雲霧城(くもきりじょう)」という雅な異名で呼ばれるようになった 4 。
2.3 和睦による開城と今川氏の滅亡
掛川城の堅固さと今川方の頑強な抵抗により、攻城戦は約半年に及ぶ長期戦となった。遠江国内の情勢が未だ不安定な中、これ以上の長期戦は得策ではないと判断した家康は、武力による制圧から和睦による開城へと方針を転換する 11 。その背景には、かつての主君の嫡男であり、幼馴染でもあった氏真を死に追いやることを避けたいという家康個人の情も働いたとされる 11 。
家康が氏真に提示した和睦の条件は、「武田軍を駿河から追い払った暁には、駿河国を氏真公に返還する」という、破格ともいえる内容であった 11 。この提案は、単なる氏真への懐柔策に留まらない、対武田戦略における高度な外交的布石であった。当時、武田信玄は今川領分割の密約を破って遠江へも侵攻の気配を見せており、家康にとって最大の脅威は今川から武田へと移っていた 20 。氏真の正室が北条氏の娘であることから、今川と北条は同盟関係にあった。家康の提案は、対武田という共通の目的を持つ北条氏との連携を円滑にし、武田を外交的に孤立させる効果を狙ったものであった。家康は掛川城という一つの戦場で、遠江平定、対武田包囲網の形成、そして北条との関係維持という三つの戦略目標を同時に達成しようとしたのである。
城内の兵糧が尽きかけていた氏真は、永禄12年(1569年)5月17日、家臣の助命を条件にこの和睦案を受け入れ、掛川城を開城した 11 。氏真は義父・北条氏康を頼って伊豆へと退去し、ここに東海地方に覇を唱えた戦国大名・今川氏は事実上滅亡した 20 。5ヶ月以上にわたる籠城戦を戦い抜いた掛川城は、難攻不落の名声を手にし、家康には「城攻めが不得手」という評価が付きまとうことになった 11 。
第三章:徳川の城、武田との対峙 ― 「境目の城」としての役割
今川氏の支配が終わり、徳川家康の領有となった掛川城は、その戦略的役割を大きく転換させる。今川氏にとって遠江支配の拠点であったこの城は、徳川氏にとっては東から迫る武田氏の脅威に対する最前線の防衛拠点、すなわち「境目の城」として、新たな緊張の中に置かれることとなった。
3.1 遠江防衛の最前線
掛川城が開城すると、家康は重臣の石川家成、そしてその子である康通を城主として配置した 2 。これは、東遠江の支配を固めると同時に、武田氏の侵攻に備えるための重要な布石であった。掛川城は、徳川領の東端を守る防衛ラインの要として、常に臨戦態勢に置かれることになった 25 。
3.2 高天神城の戦いと掛川城
徳川と武田の遠江を巡る攻防は、やがて「高天神を制する者は遠江を制す」とまで謳われた要衝・高天神城の争奪戦において頂点に達する 28 。天正2年(1574年)、武田勝頼の猛攻により高天神城が徳川方の手から失われると、掛川城の戦略的重要性はかつてないほど高まった 27 。
高天神城の奪還を悲願とする家康は、単一の城で対抗する「点の防御」から、複数の拠点を連携させる新たな戦略へと移行した。彼は高天神城の南方に横須賀城を新たに築城し、さらにその周囲に六つの砦を配置して、鉄壁の包囲網を構築した 31 。この壮大な包囲戦略において、掛川城は後方支援を担う中核拠点として不可欠な存在であった。この戦略は、個々の拠点を結ぶ「線の防御」を形成し、最終的には高天神城周辺一帯を完全に支配下に置く「面の制圧」を目指すものであった。
この長期間にわたる兵糧攻めを成功させるためには、前線の横須賀城や各砦へ兵員、兵糧、武具を安定的に供給し続ける兵站基地が必須であった。掛川城は、まさにその役割を担う後方司令部として機能したのである 18 。掛川城の安定した支援なくして、この近代的な領域支配戦略は成立し得なかった。
天正9年(1581年)、7年にも及ぶ攻防の末、高天神城はついに落城し、徳川の手に戻った 30 。この勝利は、遠江における徳川の支配を確固たるものにし、翌年の武田氏滅亡への道を開く決定的な一歩となった。高天神城攻防戦を通じて確立された、掛川城を基軸とする拠点連携と兵站維持の戦術は、後の小牧・長久手の戦いや大坂の陣における家康の陣城構築にも大きな影響を与えたと考えられている 32 。
第四章:山内一豊の時代 ― 「東海の名城」への大改修と近世城郭への変貌
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業が完成すると、掛川城は再びその主を変え、歴史上最も輝かしい時代を迎える。新城主として入封した山内一豊によって、掛川城は中世的な山城の面影を脱し、最新技術が投入された壮麗な近世城郭へと生まれ変わった。この大改修は、単なる城の機能強化に留まらず、豊臣政権の権威と先進性を東海地方に示すという、高度な政治的意図を内包するものであった。
4.1 豊臣政権下の戦略的配置
小田原の北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた秀吉は、徳川家康をその旧領である東海地方から関東へと移封した 25 。そして、家康が去った後の駿河・遠江・三河には、秀吉が信頼を置く配下の大名たちが戦略的に配置された。この時、掛川城主に5万石で任じられたのが山内一豊であった 1 。
この配置の背後には、関東で巨大な勢力を持つ家康を牽制し、監視するという秀吉の明確な政治的・軍事的意図があった 33 。掛川城は、浜松城の堀尾吉晴、駿府城の中村一氏らと共に、対家康防衛ラインの重要な一角を担うことを期待されたのである。
4.2 天守の創建と織豊系城郭技術の導入
一豊は掛川城主として在城した約10年間で、城の大規模な改修に着手した。その最大の功績が、掛川城史上初となる天守閣の創建である 8 。天正19年(1591年)に着工し、約5年の歳月をかけて完成した天守は、外観三層、内部四階の「望楼型」と呼ばれる様式であった 4 。これは、大きな入母屋造の建物の屋根の上に、物見のための望楼を載せた構造で、初期天守の古風な趣を伝えている 36 。
一豊は、織田信長や豊臣秀吉のもとで、安土城、大坂城、聚楽第、伏見城といった当代随一の城郭普請に夫役として参加し、そこで最新の築城技術、すなわち「織豊系城郭」の技術を習得していた 34 。織豊系城郭は、礎石の上に柱を立てる「礎石建物」、屋根を瓦で葺く「瓦葺き」、そして高く堅固な「石垣」の三要素を特徴とする 27 。一豊はこれらの先進技術を掛川城に全面的に導入し、瓦葺きの櫓や門、石垣で固められた曲輪を整備し、城の姿を一変させた 27 。
特に注目されるのは、壁の仕上げに用いられた「土佐漆喰」である 34 。これは、藁を発酵させて作る特殊な漆喰で、極めて硬質かつ耐火性・防水性に優れており、当時脅威であった火矢や鉄砲による攻撃から建物を守るための最新技術であった。白漆喰で塗り込められた壁と、黒く塗られた廻縁(まわりえん)・高欄(こうらん)の鮮やかな対比が美しい天守の姿は、京の聚楽第や大坂城天守の意匠の影響を受けたものとされ、「東海の名城」と讃えられた 1 。この改修は、掛川城を単なる軍事拠点から、豊臣大名の権威を象徴する政治的なモニュメントへと昇華させるものであった 39 。
4.3 「惣構え」の導入と城下町の整備
一豊の改革は城郭内部に留まらなかった。彼は、城だけでなく、城下の武家屋敷や町人地までをも含めて、外周を堀と土塁で囲い込む「惣構え(そうがまえ)」という都市防御システムを導入した 27 。これは、秀吉が攻略に手間取った小田原城が、この惣構えによって長期の籠城戦に耐えたという戦訓を応用したものであった 33 。
惣構えの導入は、掛川の都市構造を根本から変革した。これにより、城と城下町は一体化した巨大な要塞となり、防御力が飛躍的に向上した。同時に、計画的な町割り(都市計画)が行われ、掛川は統治機能に優れた近世都市へと変貌を遂げたのである 18 。
4.4 大井川治水事業と領国経営
優れた武将であった一豊は、同時に有能な領国経営者でもあった。城郭と城下町の整備と並行して、領内の民政、特にインフラ整備に力を注いだ 8 。
中でも特筆すべきは、東海道の難所として知られ、頻繁に洪水を引き起こしていた大井川の治水工事である 2 。一豊は「天正の瀬替え」と呼ばれる大規模な河川改修事業に携わり、築かれた堤防は後世、彼の功績を讃えて「一豊堤」と呼ばれるようになった 42 。この治水事業は、洪水の被害から領民の生命と財産を守るだけでなく、新たな水田開発を可能にし、藩の経済的基盤を豊かにするための重要な政策であった 43 。
第五章:関ヶ原の戦いと掛川城の役割 ― 一豊の決断と土佐への道
山内一豊の人生と掛川城の歴史が最も劇的に交差したのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いであった。この天下分け目の大戦を前に、一豊が下した一つの決断が、彼の運命を大きく変え、掛川城の戦略的価値を新たな次元へと引き上げた。それは、城の「軍事的価値」を、巧みに「政治的資本」へと転換させる、近世大名への移行期を象徴する行動であった。
5.1 小山評定での「掛川城提供」
豊臣秀吉の死後、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため、諸大名を率いて東国へ向かった。その途上、下野国小山(現在の栃木県小山市)において、石田三成らが家康に対して挙兵したとの報が届く。ここで急遽開かれた軍議が、世に言う「小山評定」である 44 。
西軍につくか、東軍(家康方)につくか。多くの豊臣恩顧の大名たちがその去就に迷い、評定が重苦しい空気に包まれる中、山内一豊がいち早く立ち上がり、こう発言したと伝えられる。「私の居城である掛川城を、城内に蓄えた兵糧ともども、すべて内府殿(家康)に進呈いたします。城の守りは内府殿の兵にお任せいただき、手勢を率いて先陣を承りたく存じます」 45 。
この発言は、その場にいた諸将の心を動かす決定的な一言となった。自らの本拠地という最大の軍事資産をためらいなく差し出すことで、家康への絶対的な忠誠を表明した一豊の姿に、他の大名たちも次々と同調し、軍議は一気に家康支持で固まった 47 。家康はこの一豊の功績を「古来より最大の功名なり」と激賞した。一豊は、物理的な城の価値を、家康の信頼と東軍内での名声という、計り知れない政治的価値へと昇華させたのである。
5.2 論功行賞と土佐二十四万石への栄転
関ヶ原の戦いは、周知の通り徳川家康率いる東軍の大勝利に終わった。戦後に行われた論功行賞において、小山評定での一豊の功績は最大限に評価された 48 。
その結果、一豊は掛川5万石余りの大名から、土佐一国二十四万石(後の検地で確定)の国持大名へと、破格の大出世を遂げた 27 。この栄転には、小山評定での発言に加え、妻・千代の機転により大坂の情勢を知らせる密書をいち早く家康に届けたことなども複合的に評価されたと考えられる 44 。掛川城という一つの城を政治的に活用したことが、結果として土佐一国という広大な領地をもたらした。これは、もはや個人の武勇だけでなく、時流を読み解く政治的判断力が武将の運命を左右する新時代の到来を明確に示していた。
終章:戦国時代の終焉と掛川城の遺産
関ヶ原の戦いを経て戦国時代が終焉を迎え、徳川幕府による泰平の世が訪れると、掛川城の役割もまた大きく変化した。かつて覇権争いの最前線であったこの城は、江戸時代の安定した社会の中で、そして近代化の波の中で、新たな歴史を刻んでいく。
6.1 江戸時代の掛川城と頻繁な城主交代
山内一豊が土佐へ転封された後、掛川城は掛川藩の藩庁として、徳川家に忠実な譜代大名の居城となった 35 。しかし、江戸時代の約270年間で、その城主は松平(久松)家、安藤家、井伊家、小笠原家、そして最後に定着した太田家など、実に11家26人もの大名がめまぐるしく入れ替わった 17 。
この頻繁な城主交代の背景には、幕府の巧みな大名統制策があった。掛川は江戸時代においても東海道の要衝であり続けたため、幕府は特定の大名に長期間この地を治めさせて強大な力を蓄えさせることを警戒したのである 17 。そのため、加増や改易、あるいは懲罰的な転封などを通じて、定期的に城主を入れ替える政策がとられたと考えられる 53 。戦国時代の軍事的重要性とは異なる、幕藩体制下における政治的・交通的な重要性が、掛川城の新たな性格を規定していた。
6.2 幕末の崩壊から現代の復元へ
「東海の名城」と謳われた掛川城天守は、江戸時代にも災禍に見舞われた。一豊が創建した天守は慶長9年(1604年)の地震で倒壊し、元和7年(1621年)に再建された 52 。しかし、その再建天守も、嘉永7年(安政元年、1854年)に発生した安政東海地震によって再び倒壊。幕末の混乱期ということもあり、天守は再建されることなく、天守台のみが残された 2 。
明治維新を迎えると、掛川城は明治2年(1869年)に廃城処分となり、城内の多くの建物が取り壊された 4 。しかし、藩の政庁として使われていた二の丸御殿など一部の建物は奇跡的に現存し、国の重要文化財に指定されている 35 。
時代は下り、昭和の終わりから平成にかけて、市民の間でかつての美しい天守を蘇らせようという熱意が高まった。この市民運動が実を結び、平成6年(1994年)4月、掛川城天守は「日本初の本格木造天守閣」として、140年ぶりにその姿を現したのである 8 。
6.3 復元の歴史的意義
掛川城天守の木造復元は、日本の城郭保存史において画期的な出来事であった。戦後、各地で再建された城の多くが鉄筋コンクリートによる外観復元であったのに対し、掛川城は残された古絵図や発掘調査の成果に基づき、伝統工法を用いて木造で忠実に復元することを目指した 37 。
復元にあたり、決定的に重要な参考資料となったのが、高知県に残る高知城天守であった 1 。山内一豊は土佐へ移った後、新たな居城である高知城を築く際に「掛川の城のとおり」と指示したと伝えられている 34 。すなわち、高知城は掛川城の姿を色濃く反映した「写し」ともいえる存在であった。数百年後、オリジナルの掛川城天守を復元する際に、その「写し」である高知城が手本とされたのである。
この事実は、掛川城の復元が単なる建築物の再建事業ではないことを示している。それは、山内一豊という一人の武将の生涯を媒介として、掛川から高知へ、そして数世紀の時を経て高知から掛川へと繋がる「歴史の往還」を体現する文化的な事業であった。復元された天守は、戦国時代の築城技術を現代に伝える貴重な文化遺産であると同時に、一豊の歩んだ軌跡そのものを象徴する、時空を超えたモニュメントとしての深い価値を有しているのである。
表1:江戸時代 掛川藩 歴代藩主一覧
家名 |
藩主名 |
在封期間 |
石高 |
大名の分類 |
松平(久松)家 |
松平定勝 |
1601年 - 1607年 |
3万石 |
譜代 |
|
松平定行 |
1607年 - 1617年 |
3万石 |
譜代 |
安藤家 |
安藤直次 |
1617年 - 1619年 |
2万8千石 |
譜代 |
松平(久松)家 |
松平定綱 |
1619年 - 1624年 |
3万石 |
親藩 |
朝倉家 |
朝倉宣正 |
1624年 - 1632年 |
2万6千石 |
譜代 |
青山家 |
青山幸成 |
1633年 - 1635年 |
3万3千石 |
譜代 |
松平(桜井)家 |
松平忠重 |
1635年 - 1639年 |
4万石 |
譜代 |
|
松平忠倶 |
1639年 |
4万石 |
譜代 |
本多家 |
本多忠義 |
1639年 - 1644年 |
7万石 |
譜代 |
松平(藤井)家 |
松平忠晴 |
1644年 - 1648年 |
2万5千石 |
譜代 |
北条家 |
北条氏重 |
1648年 - 1658年 |
3万石 |
外様 |
井伊家 |
井伊直好 |
1659年 - 1706年 |
3万5千石 |
譜代 |
|
井伊直武 |
1706年 |
3万5千石 |
譜代 |
|
井伊直朝 |
1706年 - 1711年 |
3万5千石 |
譜代 |
|
井伊直矩 |
1711年 |
3万5千石 |
譜代 |
松平(桜井)家 |
松平忠喬 |
1711年 - 1746年 |
4万石 |
譜代 |
小笠原家 |
小笠原長煕 |
1746年 |
6万石 |
譜代 |
|
小笠原長庸 |
1746年 - 1752年 |
6万石 |
譜代 |
|
小笠原長恭 |
1752年 - 1746年 |
6万石 |
譜代 |
太田家 |
太田資俊 |
1746年 - 1763年 |
5万石 |
譜代 |
|
太田資愛 |
1763年 - 1805年 |
5万石 |
譜代 |
|
太田資順 |
1805年 - 1808年 |
5万石 |
譜代 |
|
太田資言 |
1808年 - 1810年 |
5万石 |
譜代 |
|
太田資始 |
1810年 - 1841年 |
5万石 |
譜代 |
|
太田資功 |
1841年 - 1862年 |
5万石 |
譜代 |
|
太田資美 |
1862年 - 1868年 |
5万石 |
譜代 |
(注:本表は、資料 53 に基づき作成。在封期間や石高には諸説ある場合がある。)
引用文献
- 掛川城の歴史 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/7890.html
- 掛川城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/kakegawajo/
- 戦国武将がしのぎを削った掛川の城 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/history-of-three-kakegawa-castles/
- 掛川城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/shizuoka/kakegawa-jo/
- 掛川城の歴史|静岡県掛川市 https://kakegawajo.com/history/
- 遠江 掛川古城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/kakegawako-jyo/
- 掛川古城 掛川城 家康 読本 公式WEB https://www.bt-r.jp/kakegawajo/appendix2/
- 掛川城 - 観光サイト https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/spot-list/kakegawajyo.html
- 掛川市 - 出世の街 浜松|ゆかりの地めぐり https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/yukari/detail.html?p=1468
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- 掛川城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/toukai/kakegawa/kakegawa.html
- 掛川城天守閣開門30周年記念シンポジウム~掛川城天守閣木造復元の歴史的意義について~を開催します! - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/702183.html
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