新山城(陸奥国)
陸奥国新山城は、標葉氏が築き、南北朝から戦国期にかけて奥州浜通りの要衝として機能した。一族内の確執と相馬氏の内応により標葉氏が滅亡後、相馬氏の支城となり、畝状竪堀群など防御を強化。廃城後も地域の歴史を伝えるが、震災で文化財保護に課題を抱える。
陸奥国新山城に関する総合研究報告書 ―標葉一族の興亡と戦国期浜通りの力学―
序章:忘れられた浜通りの要衝、新山城
福島県双葉郡、かつての陸奥国標葉郡にその痕跡を留める新山城。この城は、単なる中世の城郭遺構ではない。それは、南北朝の動乱期に産声を上げ、やがて奥州浜通りに覇を唱えた標葉(しねは)氏の栄華と、一族内の確執が招いた悲劇的な滅亡、そしてその後の相馬氏による南奥州支配の確立という、戦国時代の大きな歴史の転換点を静かに見つめてきた証人である 1 。
1331年(元弘元年)の築城から17世紀初頭の廃城に至るまで、約300年にわたるその歴史は、地方の小領主がいかにして激動の時代を生き抜き、あるいは淘汰されていったかの縮図と言える。本報告書は、新山城を単なる物理的な構造物として分析するに留まらず、城主であった標葉氏庶流の人間ドラマ、そして相馬氏や岩城氏、さらには伊達氏といった周辺勢力との地政学的な力学の中に位置づけることで、その多層的な歴史的意味を解き明かすことを目的とする。築城から廃城、そして現代における文化財としての課題に至るまで、約700年の時空を超え、忘れられた浜通りの要衝、新山城の全貌に迫るものである。
第一部:城郭の構造と地理的環境
第一章:立地と縄張り ― 戦略的拠点としての地理的優位性
新山城の歴史的価値を理解する上で、まずその物理的構造と地理的環境を把握することは不可欠である。城郭の配置や防御施設の様相は、築城主が置かれた戦略的状況を雄弁に物語る。
所在と概要
新山城は、陸奥国標葉郡、現在の福島県双葉郡双葉町大字新山字東舘に位置した平山城であり、標葉氏の城であったことから「標葉城」という別名でも知られる 1 。その規模は大規模な城郭というよりは砦に近いものであったとされ、城跡周辺には、城主や家臣団の居住区であったことを示す「根小屋(ねごや)」や、城の郭(くるわ)の一部であった「東舘(ひがしだて)」といった地名が今なお残り、往時の姿を偲ばせている 1 。
表1:新山城の基本情報
項目 |
詳細 |
典拠 |
所在地 |
福島県双葉郡双葉町大字新山字東舘 |
1 |
別名 |
標葉城(しねはじょう) |
1 |
城郭構造 |
平山城 |
1 |
築城年 |
1331年(元弘元年) |
1 |
築城主 |
標葉隆連(たかつら) |
3 |
主な城主 |
標葉氏(隆連、隆重、隆豊)、相馬氏 |
1 |
廃城年 |
1611年(慶長16年)または1615年(慶長20年) |
1 |
主な遺構 |
曲輪、土塁、空堀、畝状竪堀 |
1 |
文化財指定 |
双葉町指定史跡 |
1 |
地理的環境
新山城は、防御と交通の双方を意識した絶妙な立地選定がなされている。城が築かれた丘陵は、南側を根古屋川が流れ、北側は広大な湿地帯であったとされ、これらが天然の堀として機能し、容易な接近を阻んでいた 1 。
さらに重要なのは、その地政学的な位置である。城の南側と東側には、江戸時代に浜街道として整備される古道が通っていた 1 。この街道は、南に進めば同族ながら競合関係にあった岩城氏の領地(楢葉郡)へ、北に進めば後に標葉氏を滅ぼすことになる相馬氏の本拠(権現堂城、小高城、相馬中村城)へと通じている。そして、西へ向かう都路街道は、内陸の雄である田村氏の領地へと続いていた 1 。すなわち新山城は、浜通りの南北交通を監視し、内陸への連絡路を確保する上で極めて重要な、戦略的結節点に位置していたのである。
縄張り(曲輪配置)
新山城の縄張りは、西から東へ延びる半島状の丘陵を巧みに利用した連郭式の配置を基本とする 4 。城の中心となる本丸(主郭)は、丘陵の最高所に置かれ、その東西に一段低い曲輪が配されていたと推定される 4 。
現在、城域はJR常磐線の線路によって東西に分断されている 4 。線路の西側、現在の双葉中学校の東に隣接する丘陵は「東館」と呼ばれ、城の一部を構成していた 5 。こちらには、西側に屈折するL字形の土塁と、その下に巡らされた空堀が比較的良好な形で残存している 5 。
一方、線路の東側、新山神社の裏手一帯が本城部分にあたる 4 。本丸跡とされる場所の周囲には土塁が残り、東側にはさらに数段にわたって造成された平坦地(削平地)が確認できる 4 。これらの遺構から、新山城が複数の郭から構成される、一定の規模を持った城郭であったことが窺える。しかし、常磐線の敷設をはじめとする後世の開発によって地形が改変された部分も多く、城郭の全体像を正確に復元することは困難な状況にある 6 。
第二章:防御施設に見る築城思想の変遷
城郭の防御施設は、その城がいつ、誰からの、どのような攻撃を想定していたかを物語る。新山城に残された土塁、空堀、そして特に注目すべき畝状竪堀群は、この城が経験したであろう戦略環境の変化を示唆している。
土塁と空堀
基本的な防御施設である土塁と空堀は、城内の各所に見られる。本丸の周囲は土塁によって囲まれ、北側には城の主要な出入り口であった虎口(こぐち)の跡が確認されている 4 。また、前述の東館の西側にも明瞭な空堀が残る 5 。特に本丸西側の防御線は堅固であり、堀の城塁側(内側)の斜面は高さ10メートルに達し、その下部は自然の岩盤を削り出して垂直に近い壁面を作り出した「切岸(きりぎし)」となっている 6 。これは、敵兵の侵入を物理的に困難にするための、中世城郭の典型的な防御手法である。
畝状竪堀群
新山城の防御思想を考察する上で最も重要な遺構が、「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」の存在である 1 。これは、城が築かれた丘陵の斜面に対し、複数の竪堀(斜面を垂直に掘り下げた堀)を並行して構築する防御施設である 8 。堀と堀の間の部分は土塁状に残り、これが畝のように見えることからその名がある 9 。
この施設の目的は、斜面を横方向に移動しようとする敵兵の動きを著しく制限することにある 8 。攻撃側は自由な展開を妨げられ、竪堀の底を縦一列で登ることを強いられるため、城内からの迎撃に対して極めて脆弱な状態となる。このような高度な防御施設は、特に大規模な歩兵集団による力攻めを想定したものであり、戦国時代も後期になってから各地で発達した築城技術である 9 。
新山城にこの畝状竪堀が存在するという事実は、極めて重要な意味を持つ。築城年である1331年(元弘元年)は南北朝時代の動乱期であり、当時の戦闘はまだ武士同士の小規模な衝突が中心であった。この時期に、戦国後期に見られるような高度な防御施設が構築されたとは考えにくい。
この年代的な乖離は、新山城がその歴史の中で少なくとも一度、大規模な改修を受け、防御能力を飛躍的に向上させた可能性を強く示唆している。築城当初は、標葉氏が周辺の在地領主との争いを想定した、比較的簡素な土塁と堀を中心とした城であっただろう。しかし、畝状竪堀の存在は、より大規模で組織化された軍勢による攻城戦という、全く異なる質の脅威に備える必要が生じたことを物語っている。
その脅威とは、15世紀末にこの地を支配下においた相馬氏が、北から南下政策を推し進める強大な伊達氏と直接対峙するようになった16世紀後半の緊迫した軍事情勢に他ならない 10 。相馬氏にとって、新山城は対伊達防衛網の最前線拠点と化した。この地政学的状況の激変こそが、新山城に畝状竪堀という最新鋭の防御施設を付加させた原動力であったと推論するのが最も合理的である。城郭は静的な遺構ではなく、時代の要請に応じてその機能と構造を変容させていく動的な存在であり、新山城の遺構はそのことを如実に示している。
第三章:現代における城跡 ― 震災と文化財保護の狭間で
歴史の舞台から姿を消した城は、文化財として新たな役割を担う。しかし、新山城跡は現代において、予期せぬ形でその価値の継承という大きな課題に直面している。
文化財指定と東日本大震災の影響
新山城跡は、その歴史的重要性が認められ、双葉町の指定史跡となっている 1 。地域の歴史を物語る貴重な遺産として、本来であれば多くの人々が訪れ、学ぶべき場所であった。
しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災と、それに伴う福島第一原子力発電所事故が、その状況を一変させた。双葉町は発電所の所在地であり、全町民が長期にわたる避難を余儀なくされた 13 。城跡もまた、人々が近づくことのできない場所となったのである。
2022年8月30日、町内の一部地域で避難指示が解除され、城跡の一部である新山神社周辺への立ち入りが可能となった 1 。これは復興に向けた大きな一歩であったが、文化財としての城跡の公開には依然として高いハードルが存在する。本丸や東館といった主要な遺構が残る山林部分は、住宅地ではないという理由から、放射性物質を取り除く除染作業の対象外とされている 1 。そのため、樹木や下草が生い茂り、史跡としての適切な整備も行われていないのが現状である。結果として、城跡の大部分は、安全上の観点からも見学することが極めて困難な状態が続いている。
この状況は、新山城という歴史遺産が直面する特異な課題を浮き彫りにする。まず、17世紀初頭の廃城によって、城は軍事拠点としての機能を失った。これを「第一の喪失(機能的喪失)」と呼ぶことができるだろう。その後、約400年にわたり、城跡は地域の歴史を物語る文化財として、静かにその存在を保ってきた。
しかし、2011年の原発事故は、人々が城跡に物理的にアクセスし、その歴史的価値を直接体験し、学び、次世代へ語り継いでいくという文化的な営みを根本から断絶させた。これは、文化財としての価値を社会的に享受する機会が失われた「第二の喪失(文化的・社会的喪失)」に他ならない。自然災害や人災が、歴史遺産の継承プロセスそのものに与える深刻な影響を示す、現代的な事例と言える。
このような状況下では、事故以前に行われた学術的な調査記録の価値は相対的に増大する。双葉町教育委員会によって刊行された『新山城跡調査報告書』のような文献は、現地の踏査が困難となった今、失われた城の姿を後世に伝えるための極めて重要な一次資料となっている 14 。新山城は、単なる過去の遺物ではなく、災害時代の文化財保護という現代社会が直面する困難な課題を象徴する存在なのである 15 。
第二部:標葉一族の盛衰と新山城
新山城の歴史は、その築城主である標葉一族の運命と分かちがたく結びついている。ここでは、標葉氏の興隆から滅亡に至るまでのドラマを、新山城を舞台として描き出す。
表2:新山城関連年表
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
典拠 |
1331 |
元弘元 |
標葉隆連、父・持隆の命で 新山城を築城 。初代城主となる。 |
標葉隆連、標葉持隆 |
1 |
c. 1335-1343 |
建武-興国 |
標葉氏、北畠顕家に従い南朝方として各地を転戦後、北朝方に服属。 |
北畠顕家、後醍醐天皇 |
1 |
1442 |
嘉吉2 |
二代城主・標葉隆重、宗家家臣を殺害。宗主・清隆に 新山城を攻められ落城 。隆重は岩城氏へ逃亡。 |
標葉隆重、標葉清隆、岩城氏 |
1 |
1492 |
明応元 |
相馬盛胤、標葉氏の本拠・権現堂城を攻撃。三代城主・ 標葉隆豊が相馬方に内応 。標葉氏宗家滅亡。 |
相馬盛胤、標葉隆豊、標葉清隆 |
3 |
c. 1493- |
明応- |
隆豊、相馬氏から功を賞され「藤橋胤衡」と改名。相馬家臣となる。 |
藤橋胤衡(標葉隆豊)、相馬顕胤 |
20 |
c. 1558-1570 |
永禄 |
新山城代・樋渡氏、相馬家を出奔し伊達氏に属す。 |
樋渡氏、相馬氏、伊達氏 |
22 |
1611 or 1615 |
慶長16/20 |
一国一城令などの影響で 新山城は廃城 となる。 |
相馬氏、徳川幕府 |
1 |
2011 |
平成23 |
東日本大震災および福島第一原発事故発生。双葉町全域が避難指示区域となる。 |
- |
1 |
2022 |
令和4 |
城跡の一部(新山神社付近)で避難指示が解除される。 |
- |
1 |
第四章:築城主・標葉氏の出自と隆盛
出自と勢力拡大
新山城を築いた標葉氏は、桓武平氏の流れを汲む海道平氏の一族であり、南奥州の有力豪族であった岩城氏とは同族の関係にあるとされる 17 。その歴史は平安時代末期の保元年間(1156-1159年)に、標葉隆義が現在の福島県浪江町請戸にあった請戸城を本拠として標葉郡一帯を領有したことに始まると伝えられる 3 。鎌倉時代には岩城氏の支配下にあったと見られるが、時代が下るにつれて独立性を高めていった 3 。
南北朝時代の動向
14世紀の南北朝の動乱期、標葉氏は歴史の表舞台で活発な動きを見せる。当初、奥州の南朝方を率いた鎮守府大将軍・北畠顕家に従い、北条氏残党との戦いや西上作戦に参加するなど、各地を転戦した 3 。この時期、南朝方の拠点であった霊山城(現在の伊達市)が北朝方の攻撃によって落城した際、標葉氏の一族が追っ手の目を欺くために旅芸人の装束をまとい、踊りながら落ち延びたという伝説が残されている 3 。この故事が、現在も双葉町や相馬市に伝わる郷土芸能「宝財踊り」の由来になったと言われ、地域の文化に深くその記憶を刻んでいる 2 。
しかし、南朝方の勢力が衰退すると、標葉氏は北朝方へと帰属を変え、室町幕府の支配体制下で生き残りを図った 3 。15世紀初頭には、周辺の相馬氏、岩城氏、楢葉氏といった海道筋の国人領主たちと「五郡一揆」と呼ばれる地域的な同盟を結び、相互に協力することで、巧みに独立を維持していた 3 。
新山城の築城
このような時代背景の中、1331年(元弘元年)に新山城は築かれた。標葉氏の八代目当主とされる標葉持隆が、三男の隆連に命じて築城させ、初代城主として配置したのである 1 。当時、標葉氏の本拠は請戸城にあり、後に権現堂城へと移るが、新山城の築城は、一族の有力者を領内の要衝に配置することで支配体制を強化し、南方の岩城氏や西方の田村氏に対する備えを固めるという、明確な戦略的意図に基づいていたと考えられる 2 。新山城は、標葉氏の勢力が最も安定し、拡大していた時期の象徴とも言える城であった。
第五章:一族内の亀裂 ― 宗家との確執と新山城落城
盤石に見えた標葉氏の支配体制であったが、15世紀中頃になると、その内部から崩壊の兆しが現れる。その亀裂が生じた舞台こそが、新山城であった。
事件の勃発と宗家の報復
1442年(嘉吉2年)、事件は起こった。新山城の二代目城主であった標葉隆重(初代隆連の子)が、何らかの私的な恨みから、宗家当主・標葉清隆に仕える家臣の新谷(にいや)某と半谷(はんがい)某を殺害したのである 1 。
分家の当主が宗家の直臣を殺害するというこの行為は、一族の秩序を根底から揺るがす重大な反逆と見なされた。報告を受けた宗主・清隆は激怒し、ただちに軍勢を率いて新山城を攻撃した 18 。隆重は防戦したものの、宗家の圧倒的な力の前に城はあえなく落城。隆重は城を捨て、南方の同族である岩城氏の領地へと逃亡した 1 。
遺恨の継承
この事件の後、新山城主の座は隆重の子である標葉隆豊に継がれた 1 。しかし、父が宗家によって城を追われ、一族内で「反逆者」の烙印を押されたという事実は、幼い隆豊とその家臣団の心に、宗家に対する深刻な不信感と消えることのない遺恨を植え付けた。この一連の出来事は、標葉一族内に修復不可能な亀裂を生み出し、50年後、一族が滅亡へと向かう際に決定的な役割を果たすことになるのである。新山城は、もはや宗家を守る支城ではなく、宗家への復讐の機会を窺う、潜在的な火種を抱えた城へと変貌した。
第六章:標葉氏の滅亡と新山城主の決断
15世紀末、標葉氏はその存亡をかけた最大の危機を迎える。北からは相馬氏、南からは岩城氏という二大勢力に挟撃される絶望的な状況下で、一族は滅亡の淵に立たされた 3 。この時、新山城主・標葉隆豊は、一族の運命を左右する重大な決断を下す。
権現堂城の戦い
1492年(明応元年)12月、かねてより標葉氏を「不倶戴天の敵」と見なしていた相馬高胤の子・盛胤は、標葉氏討伐の総仕上げとして、その本拠地である権現堂城(現在の浪江町)に大軍を差し向けた 3 。標葉氏宗家の当主・清隆と嫡男・隆成は籠城して最後の抵抗を試みるが、家中の統制はすでに乱れ、先行きは絶望的であった 18 。
新山城主の内応
この標葉氏にとって最後の決戦において、新山城主・標葉隆豊は宗家と運命を共にすることを選ばなかった。彼は、同じく宗家に不満を抱いていた一族の標葉隆直らと共謀し、敵であるはずの相馬軍に内応したのである 3 。隆豊らの手引きによって城門は開かれ、相馬軍は一気になだれ込んだ。不意を突かれた城内は混乱に陥り、もはや組織的な抵抗は不可能であった。権現堂城は落城し、城主・標葉清隆と嫡子・隆成は城中で自刃。これにより、鎌倉時代から約300年にわたり奥州浜通りに君臨した標葉氏宗家は、完全に滅亡した 5 。
隆豊のこの行動は、一見すると主家を裏切った卑劣な行為と映るかもしれない。しかし、その背景には、単なる裏切りでは片付けられない、複雑で多層的な動機が存在した。
第一に、個人的な復讐心である。彼の父・隆重は、50年前に宗主・清隆によって居城である新山城を攻め落とされ、追放の憂き目に遭っている 1 。この父の無念と一族の屈辱に対する恨みは、隆豊の行動を決定づける強い動機となったであろう。
第二に、戦国武将としての冷静な政治判断である。当時の標葉氏は、相馬・岩城という二大勢力に挟まれ、もはや滅亡は時間の問題という客観的な状況にあった 3 。このまま宗家と運命を共にすれば、自らの家も確実に滅びる。それならば、いずれこの地の覇者となるであろう相馬氏に与し、戦功を立てることで、自らの家名を存続させる方が得策である。これは、善悪の価値判断を超えた、戦国時代特有のシビアな生存戦略であった。
この「個人的復讐」と「戦国期的生存戦略」という二つの動機が交錯した結果、隆豊は「内応」という、自らの家を生き残らせるための最も効果的な手段を選択したのである。彼の決断がなければ、新山城主家もまた、宗家と共に歴史の闇に消えていた可能性は極めて高い。隆豊の行動は、道徳的な評価は別に、戦国の世を生きる武将のリアルな姿を我々に突きつけている。
第三部:相馬氏支配下の変容とその後
標葉氏の滅亡後、新山城とそれを巡る人々は、新たな支配者である相馬氏の下で大きくその運命を変えていく。城は対伊達氏防衛の拠点として強化され、城主一族は旧敵の家臣として新たな道を歩み始めた。
第七章:相馬氏の支城として
相馬氏の支配体制と新山城の役割
標葉氏宗家の滅亡により、標葉郡全域は完全に相馬氏の領土となった。新山城もまた、相馬氏の数ある支城の一つとして、その支配体制に組み込まれた 1 。相馬氏の本拠である小高城や中村城から見れば、新山城は南の岩城領、そして西の田村領との国境に位置する最前線拠点であり、その戦略的重要性は標葉氏の時代よりもむしろ高まったと言える。相馬氏は城代を派遣し、国境の監視と防衛、そして旧標葉領の支配拠点としての役割を担わせたと考えられる 5 。第一部で考察した畝状竪堀群のような高度な防御施設は、まさにこの時期、北の伊達氏の脅威が現実のものとなる中で、相馬氏によって施された大規模改修の痕跡である可能性が高い。
城代・樋渡氏の出奔
相馬氏の支配が安定していたわけではないことを示す事件も記録されている。永禄年間(1558-1570年)、新山城の城代を務めていた樋渡(ひわたし)氏という武将が、突如として相馬家を出奔し、敵対関係にあった伊達氏の家臣となるという事件が起きている 22 。この事件の詳細は不明な点が多いが、当時、相馬氏と伊達氏の間で領土を巡る抗争が激化していたことを考えれば 28 、国境の最前線にいた樋渡氏が、伊達氏からの調略に応じた、あるいは相馬氏の将来に不安を感じて見切りをつけた可能性が考えられる。この一件は、戦国大名家の支配が、常に家臣団の離反というリスクと隣り合わせであったことを示す好例である。
第八章:標葉氏庶流の行方 ― 藤橋氏の成立
一方、標葉氏滅亡の立役者となった新山城主・標葉隆豊とその一族は、相馬氏の下で新たな道を歩むことになる。それは、旧敵への同化による、一族存続の道であった。
新たな家系の誕生
相馬氏は、標葉氏滅亡に決定的な功績をあげた隆豊を高く評価した。当時の相馬氏当主・相馬顕胤は、隆豊に対し、単なる恩賞に留まらない破格の待遇を与えた。まず、隆豊が所領としていた藤橋村(現在の浪江町から双葉町にかけての地域)にちなんで「藤橋(ふじはし)」という新たな姓を授けた 20 。さらに、自らの名から「胤」の一字を与えて「藤橋胤衡(たねひら)」と名乗らせ、相馬家の正式な家紋である「繋ぎ駒」の使用を許可した 20 。極めつけは、顕胤が自らの妻の妹を胤衡に嫁がせたことである 20 。これにより、胤衡は相馬氏の一門に準ずる家老として、家臣団の中でも極めて高い地位を与えられた。
これは、相馬氏による高度な政治戦略であった。標葉氏滅亡後、その旧領を安定的に統治するためには、現地の事情に精通し、旧臣や領民に影響力を持つ有力者の協力が不可欠であった。隆豊を改姓、偏諱、婚姻を通じて自らの一門に完全に取り込むことで、彼を単なる家臣ではなく、相馬氏による支配の代行者、そして正当性の象徴として活用したのである。旧敵の一族を懐柔・登用し、新たな支配体制の礎とするこの手法は、戦国大名が領土を拡大していく上でしばしば用いた巧みな統治術であった。これにより、相馬氏は武力による征服だけでなく、旧勢力を取り込む形での「統合」を成し遂げ、新領地の迅速な安定化に成功したのである。
藤橋氏の活躍
藤橋氏と名を変えた標葉氏庶流は、その後も代々相馬家に重臣として仕えた。特に胤衡の孫にあたる藤橋胤泰(たねやす)は、智勇兼備の武将として知られ、伊達氏との熾烈な国境紛争において、金山城(現在の宮城県丸森町)の城代などを歴任し、数々の武功を挙げた 31 。標葉氏の血を引きながら、相馬藩の中で重きをなした藤橋氏は、その後も家系を保ち、明治維新に至るまで存続した 20 。標葉隆豊の決断は、結果として一族の血脈を近世まで繋ぐことに成功したのである。
第九章:廃城と近世・近代
廃城の経緯
戦国時代を通じて南奥州浜通りの要衝として機能した新山城であったが、時代の大きな変化と共にその役割を終える時が来た。関ヶ原の戦いの後、相馬氏は西軍に与しなかったものの、徳川家康への釈明が遅れたことで一時改易の危機に瀕したが、最終的には本領を安堵され、近世大名・中村藩として存続することになった 35 。
江戸幕府による支配体制が確立し、世に平穏が訪れると、国内の軍事的な緊張は緩和された。1615年(元和元年)に発布された一国一城令は、大名の軍事力を削減し、支配の拠点を藩庁所在地に集中させることを目的としており、全国の多くの支城が廃城となった。新山城もまた、この流れの中でその軍事的役割を終え、慶長16年(1611年)または慶長20年(1615年)頃に廃城になったと伝えられている 1 。相馬氏の支配拠点が、より大規模な近世城郭として整備された相馬中村城に集約されたことも、廃城の一因であっただろう。
城下の変遷と地域のアイデンティティ
城としての役目を終えた後も、その麓の町は地域の拠点として存続した。江戸時代には、江戸と仙台を結ぶ重要な幹線道路であった浜街道の宿場町「新山宿」として賑わいを見せた 1 。近代に入ると、国鉄(現JR)常磐線が開通し、新山駅(後の双葉駅)が設置されると、町の中心地としてさらなる発展を遂げた 1 。
特筆すべきは、1951年(昭和26年)に周辺の村と合併して誕生した町の名前である。当初「標葉町」と名付けられたが、1956年(昭和31年)に「双葉町」へと改称される前の旧町名の一つは「新山町」であった 2 。この町名は、言うまでもなく新山城に由来するものであり 1 、城が廃された後も、地域の歴史的象徴、そしてアイデンティティの核として、人々の心の中に生き続けてきたことを明確に示している。
終章:歴史の記憶と伝承
陸奥国新山城の歴史は、一つの城郭が経験しうる、あらゆる時代の様相を内包している。南北朝の動乱期に地域の拠点として生まれ、室町時代には一族内の愛憎が渦巻く悲劇の舞台となり、戦国時代末期には、地域覇権をめぐる大勢力間の戦略の駒として翻弄された。そして、徳川の世という新たな時代の到来と共に、静かにその歴史的役割を終えた。その約300年の軌跡は、中世から近世へと移行する時代の荒波の中で、地方の小領主がいかにして生き抜き、あるいは滅んでいったかを克明に物語る、貴重な歴史の断片である。
城は物理的には失われたが、その記憶は地域の文化の中に深く刻み込まれている。標葉氏が霊山城から落ち延びる悲劇を起源とするとされる「宝財踊り」の伝説 3 や、城の名を冠した「新山町」という町の存在 38 は、城が単なる土塁や堀といった遺構としてだけでなく、人々の集合的な記憶の中で生き続けていることを示している。
しかし、その記憶の継承は今、大きな岐路に立たされている。東日本大震災と福島第一原子力発電所事故は、城跡への物理的なアクセスを断絶し、地域コミュニティそのものの存続を脅かした。復興が緒に就いた現在、除染や整備が進まず、多くの人々が訪れることのできない新山城跡の歴史的価値を、我々はいかにして調査・保存し、次世代に継承していくべきか。双葉町教育委員会の調査報告書 14 のような既存の学術的成果を広く公開・活用することや、デジタル技術を用いたアーカイブ化など、新たな形での文化財保護のあり方が模索されなければならない。
新山城の研究は、単に過去を解明するだけの作業ではない。それは、歴史の記憶を未来へと繋ぐという、現代に生きる我々に課せられた重い責任を再認識させる営みでもある。この忘れられた浜通りの要衝が、再び多くの人々によって語られ、学ばれる日が来ることを願って、本報告書の筆を置くこととしたい。
引用文献
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- 伝える 双葉町の歴史を救う、守る https://www.town.fukushima-futaba.lg.jp/secure/16833/2025.pdf
- 標葉氏統治時代とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%A8%99%E8%91%89%E6%B0%8F%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3
- 磐城新山城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/sinyama.htm
- 陸奥 新山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/futaba-shinzan-jyo/
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