武田勝頼が築きし新府城、甲州流築城術の粋。僅か六十八日にして自ら火を放ち、武田氏滅亡の象徴となる。されど、その堅牢さは徳川家康により証明され、今も史跡として往時を語る。
日本の戦国史において、新府城の名はしばしば悲劇的な響きを伴って語られる。武田氏最後の当主、武田勝頼が築き、入城からわずか68日という短さで自らの手によって灰燼に帰した「悲劇の城」として、その運命は広く知られている 1 。しかし、その短い歴史とは裏腹に、この城郭が持つ意味は計り知れないほどに深い。新府城は、滅亡の淵に立たされた武田氏が、その存亡をかけて描いた最後の壮大な戦略構想の結晶であり、信玄の代から三代にわたって培われた甲州流築城術の粋が凝縮された、戦国時代末期を代表する類稀なる城郭なのである 2 。
その生涯は、天正9年(1581年)の築城開始から、翌天正10年(1582年)3月の落城まで、わずか一年余り。完成を見ることなく歴史の舞台から姿を消したことから、「未完の城」とも呼ばれる。だが、その土塁や堀が織りなす縄張には、武田氏が到達した防衛思想の極致が見て取れる。さらに、武田氏滅亡後、奇しくも敵将であった徳川家康によってその真価が証明されるという、歴史の皮肉な巡り合わせの舞台ともなった。
本報告書は、新府城を単に「悲劇の城」「未完の城」という一面的な評価から解き放ち、その歴史的価値を多角的に検証することを目的とする。築城に至った政治的・軍事的背景、甲州流築城術の集大成としての構造的特徴、武田氏滅亡後の歴史的役割、そして近年の発掘調査によって明らかになった考古学的知見を統合し、一つの城郭を通して戦国時代末期の武田氏の戦略と運命、そして武田勝頼という武将の実像に迫るものである。
新府城の築城は、単なる防衛拠点の構築という軍事行動に留まらない。それは、長篠での大敗以降、崩壊の危機に瀕した武田氏の国家体制そのものを再編し、新たな時代に対応しようとした武田勝頼による、最後の政治的・軍事的賭けであった。
天正3年(1575年)の長篠の戦いは、武田氏にとって決定的な転換点となった。この一戦で山県昌景、馬場信春といった宿老を含む多くの将兵を失い、武田軍の軍事力は深刻な打撃を受けた 4 。これを機に、織田信長・徳川家康の連合軍は攻勢を強め、武田領への侵食を開始する。特に、遠江における高天神城の失陥は、勝頼の威信を大きく揺るがす出来事であった 8 。
さらに、長年同盟関係にあった相模の北条氏との甲相同盟が破綻し 3 、武田氏は西の織田・徳川、東の北条という三方からの軍事的圧力に同時に晒されることとなった。この絶望的な国際環境は、従来の防衛体制の抜本的な見直しを勝頼に迫るものであった。
武田信虎、信玄、勝頼の三代にわたり約60年間、武田氏の本拠地として機能してきた躑躅ヶ崎館は、甲府盆地の中心に位置する政庁であり、華麗な居館であった 9 。しかし、その構造は本質的に平時の統治を目的としたものであり、数万の軍勢による本格的な包囲戦を想定した堅固な要塞ではなかった 5 。
背後には詰城として要害山城が控えていたものの 3 、城下町を含めた領域全体を防衛するには限界があった。また、拡大した領国を統治し、新たな脅威に対抗するための拠点としては、その立地も防御機能も不十分であった 4 。勝頼は天正4年(1576年)に要害山城の大改修を命じるなど 9 、既存拠点の強化に努めたが、それはあくまで対症療法に過ぎず、国家の存亡をかけた決戦に備えるには、全く新しい発想に基づく新拠点の構築が不可欠であった。
「新しい府中」を意味する新府城の建設は、単なる本拠地移転以上の、武田氏の国家改造計画とも言うべき壮大な意図を内包していた。
軍事的意図 : 織田・徳川連合軍の主たる侵攻経路と考えられた信濃方面からの玄関口にあたる甲府盆地の西端、韮崎の地が選定された 6 。これは、敵の進軍を国境に近い場所で食い止め、甲府盆地中枢への侵入を許さないという明確な防衛戦略に基づいている。
政治的意図 : 新府城築城の真の狙いは、軍事的な側面以上に、政治的な側面にこそあった。それは、家臣団を新城下に集住させることによる、勝頼への権力の一元化である 8 。当時の武田家臣団は、依然として各自の所領に本拠を置く国衆連合体としての性格を色濃く残しており、勝頼の権力基盤は必ずしも盤石ではなかった。新府への強制移住は、家臣団をその土地から切り離し、兵農分離を促進させ、勝頼が直接指揮できる常備軍団を形成しようとする、父・信玄ですら成し得なかった国家構造の近代化を目指すものであった 8 。
経済的意図 : 城の傍を流れる釜無川を利用した舟運の確保も、重要な目的の一つであった 8 。これは、信濃の千曲川沿いに海津城を、天竜川沿いに大島城を築いたように、武田氏が伝統的に行ってきた水運を重視した拠点配置の思想を踏襲するものであり、兵站や物資輸送の効率化を図る狙いがあった 8 。
このように、新府城の築城は、外圧に対する受動的な防衛策であると同時に、内政における集権化を目指す能動的な改革でもあった。この二つの目的は表裏一体の関係にあった。軍事的危機感を最大限に利用し、平時であれば家臣団の猛反発を招きかねない中央集権化という大改革を、一気に断行しようとする勝頼の高度な政治的判断がそこには介在していたのである。新府城は単なる要塞ではなく、武田氏を旧来の国衆連合体から、大名を中心とする近世的な集権国家へと脱皮させるための「装置」としての役割を期待された、勝頼の最後の、そして最大の賭けであった。
築城地に選ばれた七里岩台地は、八ヶ岳の山体崩壊によって生じた岩屑流が、釜無川と塩川の侵食作用によって形成された特異な地形である 10 。特に西側は、韮崎から長野県の蔦木に至るまで約30キロメートルにわたって断崖絶壁が続いており、天然の要害をなしていた 5 。
この地形は、敵の攻撃正面を南側と東側に限定させることを可能にする。これは、少ない兵力で効率的に大軍を防ぐという、武田氏の築城術における基本理念に完全に合致するものであった 11 。勝頼は、この地の利を最大限に活用し、武田氏の命運を託すにふさわしい難攻不落の城を築こうとしたのである。
新府城の縄張(城の設計)には、武田氏三代にわたって培われ、洗練されてきた「甲州流築城術」の到達点が見て取れる。同時に、それは鉄砲戦といった新たな戦術への対応を試みた、極めて先進的な城郭でもあった。
新府城は、七里岩台地の南端に位置する「西ノ森」と呼ばれた小高い丘を利用して築かれた平山城である 10 。特筆すべきは、石垣を一切用いず、土を削り、盛り、固める「土づくり」の技術のみで、この巨大な城郭が造成されている点である 10 。
城の中心には本丸が置かれ、そこから西に二の丸、南に西三の丸と東三の丸という主要な曲輪が階段状に配置されている 10 。そして、北から東にかけての山裾を、堀と土塁で防御された帯曲輪が取り囲むという基本構造を持つ。城全体の規模は、南北約600メートル、東西約550メートルにも及び、一つの山を丸ごと要塞化した壮大なものであった 14 。本丸と二の丸の規模は、躑躅ヶ崎館の本曲輪と西曲輪に相当し、政庁機能の移転を意図していたことが窺える 11 。
新府城の防御思想を最も象徴しているのが、城の正面玄関にあたる大手口(南側)に構築された、鉄壁の防御施設群である。そこには、甲州流築城術の代名詞ともいえる「丸馬出」「三日月堀」「枡形虎口」が、教科書のように組み合わされて配置されている 2 。
これら三つの施設が有機的に連携することで、大手口に殺到した敵は、幾重にも張り巡らされた防御網の中で消耗し、多大な損害を強いられることになる。この巧妙な仕掛けは、まさに武田氏が実践で培ってきた戦闘思想の集大成であった 19 。
新府城の構造において、最も特異で謎に満ちているのが、城の弱点とされた北側の防御を固めるために設けられた「出構(でがまえ)」と呼ばれる遺構である 17 。これは、北側の堀の中に、東西二箇所、土手状に細長く突き出した施設で、他の城郭には類例を見ない、新府城独自のものとされている 20 。その機能については、現在も専門家の間で見解が分かれている。
築城工事は、天正9年(1581年)1月に開始された 8 。武田領国の危機が迫る中、「昼夜兼行」という言葉が記録に残るほどの急ピッチで進められた 9 。
この大事業の普請奉行(設計・現場監督の総責任者)は、知謀で知られる真田昌幸であったとする説が広く流布している 3 。実際に、昌幸が「勝頼公の新居」を普請するため、家10軒あたり人夫1人を徴発するよう命じた書状が現存しており、彼が築城に深く関与していたことは間違いない 8 。
しかし、近年の研究では、昌幸の役割は北上野の郡代として、担当地域の人夫を動員することに限定されており、城全体の設計者(縄張担当者)ではなかったとする異論も有力視されている 28 。新府城という巨大プロジェクトの真の設計者が誰であったのかは、依然として明確な結論が出ていない。
表1:躑躅ヶ崎館と新府城の比較分析
新府城への本拠地移転が、単なる拠点の「改良」ではなく、武田氏の国家戦略における質的な「大転換」であったことを理解するために、両者の比較は不可欠である。
比較項目 |
躑躅ヶ崎館 |
新府城 |
立地 |
甲府盆地中央部の平坦地 |
七里岩台地上の断崖絶壁を活用した平山城 |
防御思想 |
居館(政庁)が主体。背後の要害山城が詰城となる中世的発想 |
城自体が巨大な要塞。城下町を含めた総力戦を想定した近世的発想 |
主要防御施設 |
単純な堀と土塁 |
丸馬出、三日月堀、枡形虎口、出構など、複合的かつ縦深的な防御網 |
拡張性 |
城下町の無秩序な拡大に限界 |
新たな府中として計画的な都市開発が可能 |
交通・経済 |
陸路が中心 |
釜無川の水運活用を戦略的に視野に入れる |
政治的機能 |
信虎以来の伝統的権威の象徴 |
勝頼主導の新たな中央集権体制の拠点 |
この比較から明らかなように、新府城への移転は、防御思想において「居館と詰城」という分離型の防衛から「要塞都市」という一体型の防衛へと移行し、政治的には伝統的権威に依存する体制から、大名の強力なリーダーシップに基づく中央集権体制へと移行しようとする、武田氏の国家像そのものの変革を意図したものであった。この壮大な構想は、城が単なる建築物ではなく、時代の転換点における統治者の政治思想の物理的な現れであることを雄弁に物語っている。
武田氏の未来を託された新府城であったが、その完成を待つことなく、歴史の激流に飲み込まれていく。勝頼が入城してから自ら火を放つまでの日々は、武田氏滅亡への序曲であった。
昼夜兼行で進められた普請により、天正9年(1581年)9月頃には城の主要部分が一通り完成し、友好国にもその完成が報じられた 8 。そして同年12月24日、武田勝頼は嫡男・信勝と共に、三代にわたる本拠地であった躑躅ヶ崎館を離れ、新府城へ正式に移転した 8 。城は未だ普請の途中であり未完成であったが 10 、この移転は武田氏の新たな時代の幕開けを内外に高らかに宣言するものであった。
しかし、新時代の夢は瞬く間に悪夢へと変わる。翌天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿であり、信濃木曽谷の領主であった木曾義昌が、突如として織田信長に寝返り、武田氏に反旗を翻したのである 3 。これが引き金となり、織田信長は嫡男・信忠を総大将とする大軍を派遣、徳川家康も呼応し、本格的な武田領侵攻、すなわち「甲州征伐」が開始された。
勝頼は1万5千の兵を率いて新府城から出陣し、諏訪上原城へ向かうが 6 、戦況は好転しない。それどころか、御親類衆の筆頭であり、駿河方面の重鎮であった穴山梅雪(信君)が徳川家康に降るという衝撃的な事態が発生 6 。これを皮切りに、武田家中から離反者が続出し、最強を謳われた武田軍団は、戦う前に内部から崩壊していった。
信濃の要衝・高遠城が織田軍の猛攻の前に落城し 6 、織田軍の甲斐侵攻はもはや時間の問題となった。将兵の離散は続き、勝頼が諏訪から新府城へ戻った際には、兵力はわずか千ほどにまで激減していたという 6 。この兵力では、いかに堅固な新府城といえども防戦は不可能と判断された。
城からの退去を前に、最後の軍議が開かれた。ここで真田昌幸は、自らが守る上州の堅城・岩櫃城へ退避し、再起を図ることを強く進言した。しかし、譜代の重臣である小山田信茂が、自身の居城であり難攻不落で知られる郡内の岩殿城への退避を主張した 6 。勝頼は、外様である真田よりも、譜代家臣である小山田の言を信じ、岩殿城へ向かうという、彼の運命を決定づける選択を下した。
3月3日の早朝、武田勝頼は、完成したばかりの御殿や、まだ整わぬ櫓や門に、自らの手で火を放った 1 。燃え盛る炎は、武田氏の栄光の終焉と、勝頼の夢の終わりを告げていた。
最後の望みを託した岩殿城への道もまた、裏切りによって閉ざされる。頼みの綱であった小山田信茂は、笹子峠で突如として反旗を翻し、勝頼一行に鉄砲を撃ちかけたのである 6 。信茂のこの行動は、滅亡寸前の武田氏と運命を共にするよりも、自らの領地と領民を守るという、独立領主「国衆」としての冷徹な判断に基づくものであったとされる 35 。
全ての活路を断たれた勝頼一行は、天目山を目指すも、その麓の田野において織田軍に追いつかれる。そして3月11日、継室の北条夫人、嫡男の信勝と共に自害し、ここに甲斐源氏の名門・武田氏は滅亡した 3 。
新府城が放棄された直接の原因は、織田軍の軍事力というよりも、武田家臣団の求心力が完全に失われたことにあった。城という物理的な防御拠点は存在しても、それを守るべき「人の心」、すなわち政治的結束が崩壊していたため、城はもはや機能し得なかったのである。勝頼が城に火を放った行為は、単なる逃亡の際の証拠隠滅ではない。それは、自らが築こうとした新たな政治体制の夢が、家臣団の離反によって完全に潰えたことを認める、絶望の儀式であった。新府城の炎は、武田氏という「国家」の政治的死を象徴していたのである。
武田氏滅亡という悲劇の後、歴史は皮肉な展開を見せる。勝頼が対織田・徳川のために築いた新府城の真価は、他ならぬその敵将の一人、徳川家康によって証明されることになったのである。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が横死すると、旧武田領国は統治者を失った「空白地帯」と化した。この広大な領地を巡り、三河の徳川家康と相模の北条氏直が覇権を争う、世に言う「天正壬午の乱」が勃発した 6 。
甲斐国に進出した家康は、その戦略眼をもって、武田勝頼が焼き払った新府城跡の軍事的価値を即座に見抜いた。彼は、この地をいち早く接収し、対北条氏の最前線拠点、すなわち本陣として再利用することを決断したのである 7 。
これに対し、北条氏直は5万ともいわれる大軍を率いて甲斐に侵攻。新府城から北へわずか9キロメートルほどの距離にある若神子城に本陣を構え、両軍は七里岩台地を挟んで睨み合う形となった 6 。
この時、家康が率いる兵力はわずか8千。北条軍に比べて圧倒的に劣勢であった 6 。しかし、戦況は意外な展開を見せる。西側を断崖に守られた七里岩台地上の新府城は、天然の要害であった。大軍を擁する北条氏も、この堅固な陣地を容易に攻め崩すことができず、戦線は約80日間にもわたって膠着状態に陥った 6 。
この間、家康は巧みな外交戦略で武田の旧臣たちを味方に引き入れ、黒駒合戦などで北条方の別動隊を破るなど 8 、戦局を有利に進めていった。最終的に、力攻めを諦めた北条氏と和睦を結び、甲斐国を完全にその手中に収めることに成功したのである 6 。
家康が本陣として利用するにあたり、焼失した城に何らかの修復や、防御機能を強化するための改修を加えた可能性が指摘されている 26 。現在我々が見る遺構の一部には、この時に徳川方の手が加わっている可能性も考慮に入れる必要があるだろう。
天正壬午の乱が終結すると、甲斐統治の拠点は再び甲府の躑躅ヶ崎館(後には新たに築かれる甲府城)へと移された。戦略的価値を失った新府城は、その後顧みられることなく、歴史の舞台から静かに姿を消し、廃城となった 4 。
この一連の出来事は、歴史の皮肉を象徴している。勝頼が織田・徳川の大軍を想定して築いた城の卓越した防御力が、皮肉にもその敵将である家康によって、対北条という全く別の文脈で完璧に証明されたのである。これは、勝頼の戦略眼そのものは正しかったことの何よりの証左と言えよう。家康ほどの戦巧者がこの地を選んだという事実こそが、新府城の立地と基本設計の優秀さを物語っている。家康の勝利は、勝頼の敗北が「城の欠陥」によるものではなく、政治力と家臣団の結束という、城以外の要因によるものであったことを証明している。もし勝頼に家康ほどの政治的基盤があれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
廃城から約400年の時を経て、新府城は考古学の光によって再びその姿を現し始めた。静かな丘陵として眠っていた城跡は、今や戦国時代末期の歴史を物語る貴重な文化遺産として、新たな価値を放っている。
新府城跡の歴史的価値は早くから認識されており、昭和48年(1973年)7月21日には国の史跡に指定された 8 。これを機に、遺跡の保存を目的とした土地の公有地化が進められた 11 。
そして平成10年(1998年)、韮崎市教育委員会によって大規模な発掘調査が開始され、これまで謎に包まれていた城の具体的な姿が次々と明らかになった 8 。これらの調査成果に基づき、遺構の保存と活用を目的とした史跡の整備事業が進められている 1 。さらに、平成29年(2017年)には、その歴史的・文化的価値が改めて評価され、「続日本100名城」にも選定された 2 。
長年にわたる発掘調査は、文献資料だけでは知り得なかった新府城の実像を我々に示してくれた。
新府城跡は、地域の人々にとって信仰と追慕の対象でもあり続けてきた。
現在、新府城跡は史跡公園として整備され、訪れる人々が往時の姿を偲ぶことができる空間となっている。下草が刈られ、土塁や堀の形状が明瞭に確認できるようになり、その壮大な規模と複雑な構造を体感することができる 15 。また、城跡一帯は「新府桃源郷」として知られ、春には桃の花が咲き誇る絶景スポットとしても人気を博している 2 。
新府城跡は、戦国時代末期の城郭の様子を極めて良好な状態で現代に伝える、第一級の文化遺産である 10 。それはまた、地域の歴史を学び、後世に伝えていくための生涯学習の拠点としても重要な役割を担っている 10 。
新府城は、その悲劇的な結末ゆえに、長らく武田氏滅亡の象徴として、あるいは勝頼の失政の証として語られてきた。しかし、本報告書で詳述してきたように、その評価はあまりにも一面的であると言わざるを得ない。
この城の築城背景には、単なる防衛策を超えた、武田氏の国家体制を根本から変革しようとする壮大な政治構想が存在した。その構造には、時代の最先端を行く甲州流築城術の粋が凝縮されており、新たな戦乱の時代に対応しようとする明確な意志が読み取れる。
従来、「偉大な父・信玄の遺産を食い潰した凡将」という評価も根強かった武田勝頼 50 。しかし、新府城の存在は、彼が父の時代とは異なる状況を冷静に分析し、広域経営を意識した近世的な国家像を描いていた、革新的な君主であった側面を強く示唆している 31 。そして、その城の戦略的価値が、皮肉にも宿敵であった徳川家康によって証明されたという歴史的事実は、勝頼の構想そのものが決して誤りではなかったことを物語っているのである 51 。
新府城の悲劇は、城の構造的欠陥や、勝頼個人の無能さに起因するものではない。それは、時代の大きなうねりの中で、一人の武将が描いた壮大な理想が、残された時間と、崩壊しつつあった政治的結束力に追いつけなかった結果であった。七里岩台地に静かに佇む土塁や堀は、武田氏が最後に見た夢の大きさと、その夢が潰えた瞬間の痛切な歴史を、400年以上の時を超えて、今なお我々に語りかけているのである。