越後の新発田城は、戦国の驍将・新発田重家が主君に抗い、壮絶な抵抗を繰り広げた要塞。溝口氏により近世城郭へと変貌し、三匹の鯱と海鼠壁が特徴の美城として、泰平の世を映し出す。
越後の大地に静かに佇む新発田城。その歴史は、二つの対照的な貌を持つ。一つは、戦国末期の激動の中、主君に反旗を翻した驍将・新発田重家が、その意地と誇りを懸けて壮絶な抵抗を繰り広げた「戦国の要塞」としての貌である。湿地帯に囲まれ、土塁と堀を巡らせたその城は、時代の大きなうねりに抗う孤高の魂の象徴であった。
そしてもう一つは、戦乱が終わりを告げた後、新たな領主・溝口氏によって築き上げられた「近世の美城」としての貌である。藩政の中心として、また二百五十年にわたる泰平の世の権威の象徴として、優美な三階櫓と雪国特有の海鼠壁を纏い、整然とした城下町を従えるその姿は、新たな時代の秩序と文化を体現していた 1 。
本報告書は、この新発田城が内包する「戦」と「治」、「抵抗」と「秩序」という二重の歴史を解き明かすものである。新発田氏の時代の城の濫觴から、越後を揺るがした新発田重家の乱の全貌、そして溝口氏による近世城郭への大転換と、その建築美と思想に至るまでを詳細に分析し、近代を経て現代に継承されるその価値を明らかにする。新発田城の石垣と堀に刻まれた歴史の積層を読み解くことは、戦国から近世へと移行する日本の歴史の縮図そのものを理解することに繋がるであろう。
新発田城の歴史を語る上で、その原点となった豪族・新発田氏の存在は不可欠である。彼らは、いかにしてこの地に根を張り、戦国の世を駆け抜けたのか。その出自と活躍の中に、後の悲劇へと繋がる伏線が既に見て取れる。
新発田氏は、鎌倉時代の武将・佐々木盛綱に連なる近江源氏佐々木一族の名門であり、同じく越後の有力国人であった加地氏から分家した一族である 2 。彼らは越後北部の蒲原郡を本拠とし、同じく佐々木一族の流れを汲む加地氏、竹俣氏、五十公野氏などと共に「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれる国人領主連合を形成し、地域の支配を固めていった。この揚北衆は、守護・上杉氏に対して半ば独立した強い勢力を保持しており、その中でも新発田氏は中核的な存在であった。
戦国時代に入り、新発田氏は越後の国主となった上杉謙信の旗下で、その武勇を遺憾なく発揮する。当主・新発田長敦と、その弟で当初は分家である五十公野(いじみの)氏へ養子に入っていた重家(五十公野源太治長)は、上杉軍の主力として数々の合戦で武功を挙げた 1 。
特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の合戦では、新発田隊は武田軍の猛将・諸角豊後守の部隊と激戦を繰り広げ、これを討ち取るという大功を立てている 2 。また、謙信が精力的に進めた越中平定戦においても、長敦は松倉城攻めで功績を挙げ、謙信から感状を授与されるなど、その活躍は目覚ましいものであった 2 。これらの戦功は、新発田氏が単なる地方豪族ではなく、上杉軍の中核を担う屈指の武門であったことを明確に示している。
この新発田氏の存在価値は、主君である上杉謙信への軍事奉公と、それによって得られる武功と名誉に深く根差していた。彼らにとって戦場での働きは、単なる義務ではなく一族の誇りそのものであり、その武功が正当に評価されることこそが、自らの存在意義を確認する唯一の術であった。この強烈な自負心と名誉を重んじる気風は、後に訪れる時代の転換期において、彼らの運命を大きく左右する要因となる。単なる領地の多寡に留まらない、一族の尊厳を懸けた対立へと発展する危険性を、この時点から内包していたのである。
新発田氏が本拠とした戦国時代の新発田城の具体的な姿については、残念ながら詳細な資料が乏しく、その縄張(設計)は不明である 1 。しかし、周囲の地理的条件や当時の一般的な城郭の形態から、その姿をある程度推測することは可能である。
城は、現在の新発田市街中心部の平坦な土地に位置し、周囲を湿地帯に囲まれた天然の要害であった 1 。この湿地を利用して堀を巡らせ、その内側に土を盛り上げた土塁を築くことで防御線を形成した、典型的な平城であったと考えられる。発掘調査によれば、城の築城以前、この地には平安時代前期の集落が存在したことも判明しており、古くからの要衝であったことが窺える 4 。この時代の城は、後の溝口氏が築いたような壮麗な石垣や櫓を持つものではなく、あくまで軍事的な実用性を第一とした、質実剛健な「要塞」であっただろう。
軍神・上杉謙信の死は、越後に大きな動揺をもたらした。その混乱の中から、新発田城は歴史の表舞台へと躍り出る。当主・新発田重家が主君・上杉景勝に翻した反旗は、7年もの長きにわたり越後を揺るがし、戦国時代の終焉を象徴する壮絶な物語を紡ぎ出すこととなる。
天正6年(1578年)、上杉謙信が急逝すると、その後継を巡って謙信の甥である上杉景勝と、北条家から養子に入った上杉景虎との間で家督争いが勃発する。世に言う「御館の乱」である 5 。この越後を二分する大乱において、新発田氏は当主・長敦の病没(天正7年)を経て、家督を継いだ弟・重家が中心となり、最終的に景勝方としてその勝利に多大な貢献を果たした 3 。特に、景虎方の勢力が優勢となる中で、新発田氏を含む揚北衆が景勝方につき、粘り強く戦い抜いたことは、乱の帰趨を決する上で極めて重要な意味を持った 3 。
しかし、皮肉にもこの華々しい活躍こそが、新発田氏の運命を暗転させる引き金となる。乱が終結し、景勝が越後の新たな国主となった後の論功行賞において、新発田氏の功績は正当に評価されず、期待した恩賞が与えられなかったのである 6 。この背景には、景勝が側近として重用した譜代の家臣団と、新発田氏のような外様の国人領主との間に存在した深刻な対立があった 8 。景勝政権が進める中央集権化政策の中で、国人領主の自立性は次第に制限され、新発田氏の不満は募っていった。武門の誇りを何よりも重んじる重家にとって、この処遇は単なる経済的な不利益に留まらず、一族の功績と名誉を蔑ろにする許しがたい侮辱であった。
天正9年(1581年)、ついに新発田重家は景勝に対して公然と反旗を翻す。そして彼は、この反乱を単なる越後国内の紛争に終わらせなかった。当時、破竹の勢いで天下統一を目前にしていた織田信長と連携したのである 6 。信長は、会津の芦名盛隆を通じて重家に接触し、謀反を誘ったと伝えられている 2 。
この連携により、重家の乱は「織田信長による上杉包囲網」という、より大きな全国戦略の一環に組み込まれることになった。信長の後ろ盾を得た重家の勢いは凄まじく、景勝は窮地に立たされた。その脅威は、景勝をして「たとえ滅亡しても天下の人々から羨ましがられるだろう」と、一族の滅びさえ覚悟させるほど深刻なものであった 3 。重家の反乱は、もはや上杉家中の内紛ではなく、天下の覇権を巡る代理戦争の様相を呈し始めたのである。
景勝打倒が目前に迫ったかに見えた天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を揺るがす大事件が発生する。京都・本能寺において、明智光秀が主君・織田信長を討ったのである。世に言う「本能寺の変」である 6 。
この中央での激震は、遠く越後の戦局を一変させた。最大の支援者であった信長を失い、越後へ進軍中であった柴田勝家らの織田軍も撤退を余儀なくされた 6 。重家は一瞬にして強力な後ろ盾を失い、完全に孤立無援の状態に陥った。それは、目前に迫っていた勝利が永遠に消え去っただけでなく、自らが滅亡の淵に追い込まれることを意味していた。戦局は、この日を境に景勝有利へと劇的に傾いていく。
信長の死という致命的な打撃を受けながらも、重家の抵抗は終わらなかった。彼は新発田城が持つ湿地帯という地の利を最大限に活かし、その後も粘り強い籠城戦を続けた 1 。一方の景勝は、信長の死によって生じた信濃や越中の混乱を収拾することを優先し、すぐには重家への本格的な攻撃を開始しなかった 6 。
しかし、時代は新たな天下人、豊臣秀吉の登場によって大きく動き出す。景勝は秀吉に臣従し、その麾下に入ることで、自らの立場を盤石なものとした。そして秀吉から、正式に「越後平定」を命じられるのである 5 。これにより、景勝による重家討伐は、単なる私戦から、秀吉の天下統一事業の一環という「公戦」へとその性質を変えた。当初、秀吉は両者の和睦を斡旋したが、重家はこれを頑なに拒絶した 5 。天下の秩序に従わぬ反逆者と見なされた重家に対し、秀吉はついに「首をはねるべし」との非情な断を下した 5 。
この一連の過程は、戦国時代が終焉を迎え、地方の独立した勢力が中央の巨大な権力に飲み込まれていく時代の転換点を象徴している。当初は上杉家中の内部対立であった重家の乱は、信長、そして秀吉という「天下人」が介入することで、その運命はもはや越後一国の論理だけでは決まらなくなった。秀吉の権威の下で「征伐」という大義名分を得た景勝に対し、重家は「天下に弓引く者」として、その抵抗の正当性を完全に失ったのである。
天正15年(1587年)、景勝軍による総攻撃が開始された。まず、重家の妹婿・五十公野信宗が守る支城・五十公野城が、家老の寝返りなどもあり陥落 6 。そして同年10月25日、ついに本拠である新発田城も、城内に内応者が出たことにより落城した 6 。
最後まで武勇の誉れ高かった重家は、おびえた気配も見せず、その軍令は乱れなかったと伝えられる 6 。最後の時を悟った重家は、城中の屋敷で最後の酒宴を開き、敵の乱入を聞くと愛馬・染月毛に跨り、七百余騎を率いて最後の突撃を敢行した。さんざんに斬りまくった後、数十騎に討ち減らされた重家は、親戚であった色部長真の陣に駆け入り、「親戚のよしみを以って、我が首を与えるぞ」と大音声で叫び、壮絶な最期を遂げたとされる 2 。こうして、7年に及んだ新発田重家の乱は終結し、戦国の雄・新発田氏は滅亡した。落城後、新発田城は一時廃城となった 1 。
新発田氏の滅亡と城の廃墟化から約10年。越後の地は新たな支配者を迎える。豊臣政権下で加賀大聖寺の領主であった溝口秀勝が、新たな領主としてこの地に入封したのである。彼とその子孫たちの手によって、戦国の記憶が生々しく残るこの場所は、泰平の世を象徴する壮麗な近世城郭へと、全く新しい姿に生まれ変わることになる。
慶長3年(1598年)、溝口秀勝は豊臣秀吉の命により、6万石で新発田に入封した 14 。彼は当初、五十公野に居を構えて領内を調査したが 1 、やがて廃城となっていた新発田城跡の戦略的な価値に着目し、ここを新たな居城とすることを決断した 1 。
領主交代に伴う領民の不安を和らげ、人心を掌握するため、秀勝はまず前領主である新発田重家を丁重に弔ったと伝えられている 1 。これは、過去の怨恨を清算し、新たな時代の始まりを領民に示す巧みな統治術であった。そして、旧城の遺構を活かしつつ、全く新しい近世城郭の建設という壮大な事業に着手したのである。
溝口氏による新発田城の建設は、単に城郭を築くだけの事業ではなかった。それは、城と城下町、そして周辺の治水までを一体とした、壮大な都市計画であった。
築城に際してまず行われたのは、加治川から分かれていた新発田川の流路を大きく変更するという大規模な土木工事であった 1 。新たな流路は城下町を貫き、城の外堀の役割を果たすように設計された。川の流れそのものを城下町の巨大な防御線として組み込み、さらにそこから水を引き込んで城の各曲輪を水堀で幾重にも囲むという、極めて高度な設計思想に基づいていた 1 。これにより、新発田城は湿地帯の平城という弱点を克服し、水運と防御を兼ね備えた堅牢な水城へと変貌を遂げた。
この大事業は、城郭本体の建設のみならず、城下町の区画整理、河川工事など多岐にわたったため、極めて長期化した 1 。初代藩主・秀勝が慶長15年(1610年)に没した後も工事は継続され、三代藩主・宣直の時代に至るまで、実に50年以上の歳月をかけて完成したとされている 1 。これは秀勝一代の事業ではなく、数代にわたる溝口家の威信を懸けた国家的プロジェクトであった。
築城が進行する中、天下の情勢は再び大きく動く。関ヶ原の戦いである。豊臣恩顧の大名であった溝口氏は、この天下分け目の戦いにおいて東軍(徳川方)に与し、戦後、所領を安堵された 18 。これにより、溝口氏は徳川幕藩体制下の大名として、新発田藩の初代藩主となり、その地位を確固たるものとした。徳川の世の泰平が訪れると、新発田城は戦いのための「要塞」から、藩政を司る「藩庁」、そして藩主の権威を象徴する「美城」へと、その性格をさらに明確に変えながら拡充されていった。
この新発田氏から溝口氏への移行は、新発田城の歴史における決定的な断絶と再生を意味する。以下の表は、その劇的な変化をまとめたものである。
比較項目 |
戦国期・新発田氏の城(推定) |
近世期・溝口氏の城 |
性格 |
軍事拠点・要塞 |
藩庁・権威の象徴 |
主たる防御 |
湿地帯、土塁、空堀 |
大規模な水堀、石垣、櫓門 |
縄張 |
不明瞭(単郭または連郭式か) |
梯郭式に近い構造(本丸・二ノ丸・三ノ丸) |
象徴的建造物 |
簡素な館、物見櫓 |
三階櫓、多聞櫓、壮麗な門 |
城下町 |
限定的、または自然発生的 |
計画的な侍町・町人町・寺町の配置 |
この表が示すように、新発田城は溝口氏の手によって、その構造、機能、そして性格の全てにおいて、全く新しい城へと生まれ変わった。それは、戦乱の時代が終わり、新たな秩序と統治の時代が始まったことを、城郭そのものが雄弁に物語っているのである。
溝口氏によって完成された近世城郭・新発田城は、単なる藩政の拠点に留まらず、その構造と意匠の随所に、時代の最先端を行く築城技術と、雪国ならではの美意識、そして実利を重んじる合理的な思想が凝縮されている。
新発田城は平城であり、その縄張(城全体の設計)は、軍学者であった溝口家家臣の長井清左衛門と葛西外記によってなされたと伝わる 19 。城郭の基本構造は、五角形の本丸を不整形の二ノ丸が取り囲み、さらに防御上の弱点となる南側に三ノ丸を付随させた、梯郭式に近い配置となっている 1 。
この城の構造における最大の特徴は、石垣と土塁を巧みに使い分けている点にある。城の顔であり、藩主の権威を象徴する本丸の正面部分には、「切込接(きりこみはぎ)」と呼ばれる、石材を精密に加工して隙間なく積み上げる高度な技法を用いた美しい石垣が築かれた 16 。この壮麗な石垣は、訪れる者に新発田藩の威光を強く印象づけた。
一方で、それ以外の大部分、すなわち本丸の一部と二ノ丸・三ノ丸の全ては、石垣ではなく土塁で囲まれていました 16 。これは、城の周辺が軟弱地盤であったため大規模な石垣の構築が困難であったという技術的な制約に加え、工期を短縮し建設コストを抑えるという経済的な利点を考慮した、極めて合理的な選択であった 16 。
この石垣と土塁の併用は、単なる妥協の産物ではない。それは、近世城郭が持つ「見せる(権威の象徴)」機能と「守る(実用性)」機能を明確に意識し、限られた資源を最も効果的に配分する「選択と集中」という、成熟した設計思想の表れである。藩の権威を示すべき場所には最高の技術と資材を惜しみなく投入し、それ以外の場所は実用的かつ経済的な土塁で堅実に固める。この見栄と実利を両立させた設計こそ、泰平の世における城郭建築の一つの完成形と言えるだろう。また、城の主要な入口には、櫓門と高麗門を四角形に組み合わせて敵を閉じ込める堅固な「枡形虎口」が採用され、防御力を高めていた 16 。
新発田城には、幕府に対する遠慮から、藩の格式を示す「天守」は建てられなかった 22 。これは親藩や一部の譜代大名を除き、多くの外様大名に共通する措置であった。その代わりとして、本丸の北西隅に建てられた三階櫓が、実質的な天守の役割を果たしていた 20 。
この三階櫓を全国的に見ても唯一無二の存在たらしめているのが、その屋根の意匠である。通常、大棟の両端に一対の鯱が配されるのに対し、新発田城の三階櫓は、大棟が丁字型を成し、その三方の先端すべてに鯱が載せられているのである 1 。合計三匹の鯱が天を睨むこの特異な形状の理由は、残念ながら明確な記録が残っておらず、今なお謎に包まれている。しかし、その他に類を見ない姿は、新発田城の最も印象的なシンボルとして、見る者に強い印象を与えている。
三階櫓をはじめ、現存する旧二ノ丸隅櫓や本丸表門など、城の主要な建造物の外壁には、「海鼠壁(なまこかべ)」と呼ばれる特徴的な意匠が多用されている 1 。これは、平瓦を壁に貼り付け、その継ぎ目を漆喰でかまぼこ状に盛り上げて塗り固める工法である。
この海鼠壁は、単なる装飾ではない。漆喰と瓦で覆われた壁は、防水性と防火性に極めて優れており、特に雪深く湿度の高い越後の気候から建物を保護するために最適な工法であった 1 。機能性を追求した結果生まれたこの意匠は、黒い瓦と白い漆喰のコントラストが織りなす幾何学的な文様の美しさも兼ね備えている。実用性と美意識が融合した海鼠壁は、厳しい自然環境の中で育まれた雪国ならではの建築文化の結晶であり、新発田城の優美で引き締まった外観を決定づける重要な要素となっている。
江戸時代の泰平を支えた新発田城も、幕末から明治にかけての激動期に、新たな時代の荒波に晒される。戦火を免れ、解体の危機を乗り越え、そして現代によみがえったその歩みは、城が単なる歴史的建造物ではなく、地域の人々の想いと共に生き続ける文化遺産であることを示している。
幕末の戊辰戦争において、新発田藩は周辺諸藩の圧力により、一度は旧幕府側の奥羽越列藩同盟に加盟した。しかし、新政府軍が越後に進軍してくると、藩論を転換して速やかに降伏したため、城下での戦闘は回避され、新発田城は戦火を免れて無傷で残された 1 。
しかし、明治維新後の新時代は、城郭にとって厳しいものであった。明治6年(1873年)に発布された「廃城令」により、新発田城もその対象となり、本丸表門と旧二ノ丸隅櫓、そして一部の石垣や堀などを残して、11棟あったとされる櫓や5棟の門など、城内の建造物の大半が取り壊されてしまった 1 。その後、城跡の大部分は陸軍の拠点として利用され、第二次世界大戦後は陸上自衛隊の駐屯地が置かれることとなった。城跡に現在も自衛隊の施設が存在するという状況は、全国的にも極めて珍しい事例である 19 。
失われた城の姿を取り戻したいという地元住民の熱意は、やがて大きな運動へと発展した。多くの署名活動などが行われ、ついに城の復元計画が実現する 19 。明治初期に撮影された古写真や絵図などの貴重な資料を基に、史実に忠実な復元工事が進められ、平成16年(2004年)、新発田城の象徴であった三階櫓と、本丸南東隅にあった辰巳櫓が見事に復元された 21 。
廃城令を乗り越えて江戸時代から現存する本丸表門と旧二ノ丸隅櫓は、国の重要文化財に指定されており、新潟県内に残る唯一の城郭の現存建造物として極めて高い価値を持つ 23 。そして城跡全体は、その歴史的価値と保存状態の良さが評価され、公益財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」の一つに選定されている 24 。
新発田城は、歴史上の有名な人物との関わりも伝えている。復元された辰巳櫓は、元禄赤穂事件で活躍した赤穂浪士四十七士の一人、堀部安兵衛(旧名・中山安兵衛)にゆかりの深い場所である。安兵衛の父である中山弥次右衛門は新発田藩の重役であり、この辰巳櫓の管理責任者であった。しかし、櫓が失火によって焼失した際、その責任を問われて藩を追われ、浪人となったと伝えられている 19 。父の死後、家名再興を志して江戸に出た安兵衛が、後に赤穂藩士となり、歴史に名を刻むことになる。この逸話は、新発田城が単なる石と木でできた建造物ではなく、そこに生きた人々の喜びや悲しみ、そしてドラマの舞台であったことを、今に伝えている。
新発田城の歴史を深く掘り下げることは、異なる時代の記憶が幾重にも折り重なった地層を読み解く作業に似ている。そこには、一つの城が経験した劇的な変貌と、その背景にある日本の歴史の大きな転換が見事に映し出されている。
まず、その地層の最も深い場所には、戦国末期の越後を己の誇りのために駆け抜けた武将、新発田重家の意地と悲劇の記憶が刻まれている。湿地帯の要塞に立てこもり、天下の趨勢に抗い続けた彼の姿は、地方の独立勢力が中央の巨大な権力に飲み込まれていく戦国時代の終焉を象徴するものであった。この「戦国の記憶」は、新発田城の原点であり、その後の歴史の土台となっている。
その上に積み重なるのは、溝口氏による二百五十余年の泰平の世を治めた藩の政治的中心としての歴史である。大規模な治水事業と共に築かれた壮麗な城郭と計画的な城下町は、戦乱の時代が終わり、安定した統治と秩序に基づく「近世の秩序」が確立されたことを示すものであった。三匹の鯱をいただく優美な三階櫓や、機能と美を兼ね備えた海鼠壁は、武力ではなく権威によって人々を治める時代の到来を告げていた。
新発田城は、決して単一の物語を持つ城ではない。それは、新発田重家の「抵抗」の物語と、溝口氏の「統治」の物語という、二つの異なる、しかし連続した歴史を内包している。この戦国の記憶と近世の秩序という、異なる時代の歴史が幾重にも積み重なっていることこそが、新発田城の持つ比類なき価値である。その姿は、日本が戦乱の時代を乗り越え、新たな秩序を築き上げていった歴史の縮図そのものであり、訪れる者に過去と現在、そして未来を繋ぐ深い思索の機会を与え続けている。