日之江城
肥前日之江城は、キリシタン大名有馬晴信の居城。南蛮貿易で栄え、セミナリヨが置かれるなど国際文化の拠点となった。金箔瓦や転用仏塔など発掘調査で壮麗な実像が判明。晴信の失脚後、島原城築城の資材となり廃城となるも、現在は国史跡。
日之江城 ― 戦国期日本における国際交流とキリシタン文化の拠点城郭
序論:肥前国に輝いたキリシタン大名の拠点
日本の戦国時代史において、数多の城郭が興亡の物語を刻んでいる。しかしその中で、長崎県南島原市に位置する日之江城(日野江城)は、単なる軍事拠点という枠を超え、16世紀後半から17世紀初頭にかけての日本における政治、宗教、そして国際経済が交錯する、特異な輝きを放つ存在であった 1 。
肥前の小大名であった有馬氏の居城として歴史の幕を開けたこの城は、キリシタン大名・有馬晴信の時代に、その最盛期を迎える。城は南蛮貿易によってもたらされた富で壮麗に飾り立てられ、その城下には日本初のキリスト教中等教育機関「セミナリヨ」が置かれた。そして、遠くローマを目指した天正遣欧少年使節が育まれたのも、この地であった 1 。日之江城は、まさに戦国期日本における西洋文化の玄関口であり、グローバルな知と信仰の集積地だったのである。
本報告書は、この日之江城を、戦国時代という激動の時代を主軸に据え、その多面的な歴史的価値を解明することを目的とする。城郭の物理的な構造(縄張り)、近年の発掘調査によって明らかになった物質文化、城主有馬氏の政治的・宗教的動向、そして城下を支えた南蛮貿易という複数の視座から、ありとあらゆる情報を統合し、分析する。それにより、日之江城がいかにして時代の先端を走る国際拠点となり、また、いかにして時代の奔流の中に消えていったのか、その栄光と悲劇の全体像を、考古学的成果と文献史料の両面から重層的に描き出すものである。
第一章:日之江城の黎明と有馬氏の台頭
日之江城の歴史は、島原半島に根を張った肥前有馬氏の歴史そのものである。鎌倉時代にその礎が築かれたとされるこの城は、戦国時代の荒波の中で、有馬氏の巧みな生存戦略の舞台となった。
第一節:築城と肥前有馬氏の起源
日之江城の築城年代については、二つの見解が存在する。一つは、鎌倉時代前期の建保年間(1213-1219年)に、高来郡の地頭職を得た藤原経澄(後の有馬経澄)が築城したとする伝承である 4 。一方で、現存する城の形態から、実際の構築は南北朝時代頃であろうとする学術的見解も有力視されている 5 。この年代の差異は、初期に築かれた小規模な砦が、時代の要請に応じて段階的に拡張され、戦国大名の居城へと発展していった過程を示唆しているのかもしれない。
城主であった肥前有馬氏は、家伝によれば伊予の藤原純友の子孫とされるが、近年の研究では肥前国藤津荘の荘官であった平清澄・直澄の子孫と見なされている 9 。経澄が高来郡有馬庄の地頭となったことから「有馬」を称し、島原半島南部に確固たる勢力基盤を築き上げた 9 。
第二節:戦国大名への飛躍と周辺勢力との角逐
室町時代を通じて在地領主として力を蓄えた有馬氏は、戦国時代に入ると大きな飛躍を遂げる。有馬晴純の代には、肥前国の6郡を支配下に置き、室町幕府12代将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜るまでに勢力を拡大した。この時期、有馬氏の所領は最大で21万石に達したとされ、その最盛期を迎えた 4 。
しかし、有馬氏の栄華は盤石ではなかった。西国に強大な影響力を持っていた大内氏が滅亡すると、その力の空白を埋めるように、北方から肥前統一を目指す龍造寺隆信の圧力が日増しに強まっていく 4 。晴純の孫にあたる有馬晴信が家督を継いだ頃には、龍造寺氏の猛攻の前に一時的に従属を余儀なくされるなど、一族は存亡の危機に立たされた 10 。
この絶体絶命の状況を打開するため、晴信は大胆な戦略的転換を図る。南方の雄である薩摩の島津氏と密かに連携し、龍造寺氏からの離反を決意したのである 10 。天正12年(1584年)、両者の命運を分ける決戦の火蓋が切られた。世に言う「沖田畷の戦い」である。晴信の要請に応じ、島津義久は弟の家久を援軍として派遣。有馬・島津連合軍は、数で圧倒的に優る龍造寺隆信の本隊を島原半島の湿地帯に誘い込み、奇襲によって総大将・隆信を討ち取るという劇的な勝利を収めた 10 。
この勝利は、有馬氏の危機を救っただけでなく、九州の勢力図を大きく塗り替えるものであった。しかし、安息の時は長くは続かなかった。天正14年(1586年)から豊臣秀吉による九州平定が始まると、晴信は再び重大な決断を迫られる。彼は時勢を的確に読み、昨日までの同盟相手であった島津氏を見限り、いち早く秀吉に恭順の意を示した 11 。この巧みな立ち回りによって、晴信は本領である高来郡4万石を安堵され、豊臣政権下の一大名として生き残ることに成功したのである 9 。
有馬氏、特に晴信の動向は、特定のイデオロギーや旧来の信義に固執するのではなく、自家の存続を最優先とする、極めて現実的な状況判断に基づいていたことを示している。龍造寺の脅威に対しては島津と結び、豊臣というさらに大きな権力が現れると、ためらわずに乗り換える。後述するキリスト教の受容も、当初は南蛮貿易がもたらす軍事的・経済的利益という実利的な動機が強かった 16 。日之江城は、その時々の地政学的な状況に応じて、主家や同盟相手、さらには信仰の対象までもが変化する、戦国時代の在地領主が繰り広げた過酷な生存戦略の舞台そのものであったと言える。
年代 |
西暦 |
主な出来事(国内情勢、有馬氏・日之江城の動向) |
関連人物 |
建保年間 |
1213-1219 |
(伝承)有馬経澄が日之江城を築城 5 。 |
有馬経澄 |
南北朝頃 |
14世紀中頃 |
(学説)日之江城がこの頃に構築される 5 。 |
- |
天文年間 |
1532-1555 |
有馬晴純の代に有馬氏が最盛期を迎え、21万石を領する 4 。 |
有馬晴純 |
元亀2年 |
1571 |
有馬晴信が家督を相続し、日之江城主となる 10 。 |
有馬晴信 |
天正8年 |
1580 |
晴信、ヴァリニャーノより洗礼を受ける。日之江城下にセミナリヨ設立 18 。 |
A. ヴァリニャーノ |
天正10年 |
1582 |
天正遣欧少年使節が長崎を出港 9 。 |
千々石ミゲル他 |
天正12年 |
1584 |
沖田畷の戦い。有馬・島津連合軍が龍造寺隆信を破る 10 。 |
龍造寺隆信、島津家久 |
天正15年 |
1587 |
豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。晴信は秀吉に恭順し、所領を安堵される 9 。 |
豊臣秀吉 |
天正18年 |
1590 |
天正遣欧少年使節が帰国。フロイスが日之江城の壮麗さを記録 1 。 |
ルイス・フロイス |
慶長17年 |
1612 |
岡本大八事件により晴信が処刑される 9 。 |
徳川家康、岡本大八 |
慶長19年 |
1614 |
晴信の子・直純が日向国延岡へ転封 4 。 |
有馬直純 |
元和2年 |
1616 |
松倉重政が入封。島原城の築城を開始し、日之江城は廃城となる 4 。 |
松倉重政 |
昭和57年 |
1982 |
国の史跡に指定される 1 。 |
- |
平成7年 |
1995 |
本格的な発掘調査が開始される 23 。 |
- |
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第二章:城郭の構造と縄張り
日之江城は、その戦略的な立地と巧みな縄張りによって、戦国時代の要塞としての機能と、国際交流の舞台としての威容を両立させていた。
第一節:立地と地勢
日之江城は、有馬川の河口近くにそびえる標高約80メートルの独立した丘陵に築かれた、典型的な平山城である 22 。城の南には有馬川、東には大手川が流れ、これらが自然の堀として防御線を形成している 8 。築城当時は、城の南側は深く入り込んだ入江に面していたと考えられており、水運を巧みに利用できる地勢であったことがうかがえる 13 。この立地は、敵の侵攻を防ぐ軍事的な優位性だけでなく、南蛮貿易の拠点であった口之津港との連携を容易にし、経済活動の拠点としても極めて高いポテンシャルを秘めていた。
第二節:曲輪配置と防御施設
城の縄張りは、丘陵の最高所に本丸を置き、そこから尾根や斜面に沿って複数の曲輪を配置する連郭式を基本としている 4 。主要な曲輪の配置は以下の通りである。
- 本丸: 標高78-81メートルの山頂部に位置し、城の中枢をなす 8 。複数の小さな平坦面(曲輪1、2、3、4)が階段状に組み合わされて構成されており、城主の居館や最も重要な施設が置かれたと考えられる 26 。現在も敷地内には役小角を祀る石祠が残されている 26 。
- 二の丸: 本丸の東側、大手口が置かれたとされる場所に位置する 8 。後の発掘調査で壮麗な階段遺構が発見されたことから、来訪者を迎え入れ、城主の権威を視覚的に示す「表」の空間、すなわち城の顔としての役割を担っていたと推測される 24 。
- 三の丸: 本丸から見て北西のやや離れた場所に配置されている 5 。
- 北の丸: 本丸の背後、北に続く尾根筋に設けられた曲輪群である 13 。本丸とは土橋で結ばれ、その周囲には堀切や竪堀といった防御施設が集中しており、城の弱点となりがちな背後からの攻撃に備える、極めて重要な防御拠点であった 13 。
これらの主要な曲輪のほかにも、大小合わせて15の曲輪の存在が確認されており 13 、それらが丘陵の地形を巧みに利用して階段状に配置されている 22 。また、本丸の北側と三の丸の南側には、現在も空堀の跡を明瞭に確認することができる 5 。
日之江城の縄張りは、単一の機能に特化しているわけではない。大手口から二の丸を経て本丸へと至る城の中心線は、来訪者に対して権威と富を見せつけるための、いわば「見せる」空間として設計されている。後述する直線的な石段や壮麗な建物群は、このルートに沿って配置された、計算された演出装置であった。一方で、本丸の背後を守る北の丸は、堀切や竪堀を多用した、純粋な軍事目的の「守る」空間である。この「表」と「裏」の二重構造は、日之江城が単なる軍事要塞ではなく、外交や儀礼の舞台としての性格を強く意識して設計されていたことを物語っている。特に有馬晴信の時代には、宣教師や貿易商人といった海外からの賓客を迎える機会が多く、彼らに感銘を与え、自らの権威を高めるための「劇場型」の城郭構造が求められたのであろう。
なお、日之江城に織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城のような、高層の天守が存在したかについては、それを直接示す文献史料や遺構は確認されていない 4 。しかし、ルイス・フロイスらが「壮麗な建造物」「見事な出来栄えとなった城郭」と絶賛している点から 1 、本丸には天守に代わる象徴的な御殿建築や、複数の櫓が林立していた可能性は極めて高い。後継の城である島原城が、五層の天守の周囲に三重櫓や二重櫓、平櫓を要所に配置していたという記録は 28 、日之江城の構成をある程度踏襲した可能性を示唆する。高層天守はなくとも、本丸には権威を象徴する御殿と、防御と景観を兼ね備えた複数の櫓が巧みに配置され、城全体の壮麗さを演出していたと考えるのが妥当であろう。
第三章:発掘調査が語る城の実像
長らく文献史料の中にしか存在しなかった日之江城の具体的な姿は、1995年(平成7年)から2000年(平成12年)にかけて行われた4次にわたる発掘調査によって、劇的に明らかになった 23 。その成果は、文献記録を裏付けるだけでなく、それを超える新たな歴史像を我々に提示している。
第一節:画期的な階段遺構 ― 安土城の影響
発掘調査における最大の発見は、二の丸で確認された長大な石段遺構である 24 。この石段は、城の大手口から二の丸上段へ向かって、ほぼ一直線に伸びる構造を持っていた 3 。推定される全長は70メートルから100メートル以上にも及び、その規模と直線的な構造は、当時の日本の城郭の中でも異例のものであった 3 。
このような直線的な大手道は、天下統一の象徴として織田信長が築いた安土城の大手道との強い類似性が指摘されている 3 。これは、肥前の一地方大名であった有馬晴信が、中央の豊臣政権が推し進める最新の城郭設計思想をいち早く取り入れ、自らの先進性を誇示しようとしていたことの動かぬ証拠である。
さらに、この階段の袖(側面)には、凝灰岩を薄く加工した切石を用いた石垣が確認された 24 。このような精緻な石垣技術は、当時の日本の城郭では他に類例が少なく、南蛮貿易などを通じた南方地域との技術的交流、すなわち海外から伝わった技術の影響を示唆する、極めて貴重な発見であった 26 。
第二節:宗教的対立の物証 ― 転用された仏塔
この壮麗な階段遺構には、当時の宗教状況を生々しく物語る、もう一つの顔があった。階段の踏み石を詳しく調査したところ、その多くが宝篋印塔や五輪塔といった仏教式の墓石や仏塔を破壊して転用したものであったことが判明したのである 3 。
これらの石塔は、破壊されてからさほど時間を経ずに階段の材料として持ち込まれたと考えられている。これは、熱心なキリシタンであった有馬晴信が、領内において寺社を破壊し、仏教を排斥するという強硬な宗教政策を断行したことを、物理的に裏付けるものである 3 。神聖な信仰の対象であった仏塔を踏みつけにして城へ登るという行為は、キリスト教の優位性を城内外に示す、極めて強烈なメッセージであったに違いない。
第三節:権力と富の象徴 ― 金箔瓦と輸入陶磁器
発掘調査は、日之江城の壮麗さが単なる伝聞ではなかったことも証明した。階段を登りきった二の丸の踊り場付近からは、軒先に葺かれていた瓦の先端に金箔を施した「金箔瓦」(鳥衾瓦)が出土したのである 1 。
金箔瓦の使用は、豊臣秀吉に近しい、あるいはその許可を得た限られた大名にしか許されていなかった 26 。4万石という、決して大きくはない所領の大名であった有馬氏がこれを使用できたという事実は、彼が南蛮貿易を通じて得た莫大な経済力と、豊臣政権内で特別な地位を占めていたことを強く示唆している 26 。
城の豊かさを物語る遺物はこれだけではない。城跡からは、当時の日本では極めて入手困難であった中国製の高級陶磁器「法花(ほうか)」をはじめ、多種多様な輸入陶磁器が数多く出土している 1 。特に法花は、その鮮やかな色彩と複雑な技法から、日本国内での出土例が極めて少なく、有馬氏が南蛮貿易を通じていかに希少で価値の高い品々を独占的に入手していたかを如実に示している 3 。
また、儀式や饗宴の際に一度きりで使い捨てられたと考えられる素焼きの土器「土師器(かわらけ)」も大量に出土しており、城内で主君と家臣団の結束を固めるための儀礼が頻繁に執り行われていた、活気ある日常の姿を浮かび上がらせている 24 。
これらの発掘成果を総合すると、日之江城の改修は、単なる城の機能強化に留まるものではなかったことがわかる。それは、有馬晴信自身の政治的・宗教的アイデンティティを表明するための、極めて意図的に構築された「メディア」であった。安土城を彷彿とさせる直線階段と豊臣系の金箔瓦は、来訪者に対し、自らが中央の先進文化と権威に直結した存在であることを視覚的に訴えかける装置であった。仏塔を踏み石に転用するという行為は、キリスト教の優位性と旧来の仏教の打破を、城を訪れるすべての人々に強制的に体験させる過激なパフォーマンスである。そして、希少な輸入陶磁器を用いたもてなしは、海外との独自の交易ルートを持つ経済力を誇示するものであった。日之江城の物理的空間そのものが、晴信の権力、信仰、富を一体のものとして表現するプロパガンダ装置として機能していたのである。
出土品名 |
出土場所(主に) |
年代(推定) |
歴史的意義・示唆する事柄 |
金箔瓦 |
二の丸階段踊り場付近 |
16世紀末 |
豊臣政権との密接な関係を示す。中央の先進文化を受容し、その権威を背景にしていたことを物語る 26 。 |
直線的大手階段 |
二の丸 |
16世紀末 |
織田信長の安土城の影響を受けた先進的な設計思想。城主の権威を来訪者に誇示する演出装置としての役割 3 。 |
転用された仏塔・墓石 |
二の丸階段の踏み石 |
16世紀末 |
城主有馬晴信による仏教排斥・寺社破壊という宗教政策の物証。キリスト教の優位性を視覚的に示す意図 3 。 |
中国製陶磁器「法花」 |
本丸地区など |
16世紀末~17世紀初頭 |
南蛮貿易による富の蓄積と、高度な海外交易ネットワークの存在を示す。日本国内では極めて希少な遺物 3 。 |
切石積みの袖石垣 |
二の丸階段 |
16世紀末 |
当時の国内城郭では類例の少ない石工技術。南蛮貿易などを通じた海外技術の導入を示唆 24 。 |
土師器(かわらけ) |
二の丸など |
16世紀末~17世紀初頭 |
城内で儀式や饗宴が頻繁に行われていたことを示す。主従関係の結束を固める儀礼の存在 24 。 |
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第四章:有馬晴信とキリシタンの世紀
日之江城がその最も華やかな時代を迎えたのは、城主・有馬晴信がキリスト教と深く結びついた16世紀末のことである。彼の信仰は、城と城下を、日本の他のどの地域にも見られない、国際的なキリシタン文化の中心地へと変貌させた。
第一節:キリシタン大名・有馬晴信の誕生
有馬晴信は、生まれながらのキリシタンではなかった。家督を継いだ当初は、むしろキリスト教に対して非好意的な態度をとっていたとされる 1 。しかし、宿敵である龍造寺氏からの軍事的圧力が極限にまで高まる中、彼は活路をイエズス会との連携に求めた。南蛮貿易がもたらす鉄砲や火薬といった軍需物資と、宣教師組織が持つ国際的なネットワークは、小大名の有馬氏が強大な敵に対抗するための最後の切り札であった 16 。
天正8年(1580年)、晴信は大きな決断を下す。日本布教の責任者として来日していたイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから自ら洗礼を受け、「ドン・プロタジオ」という洗礼名を授かったのである 17 。この入信は、当初は極めて政治的・戦略的な動機に基づくものであったが、沖田畷の戦いでの奇跡的な勝利などを経験するうちに、彼の内面で次第に深く、純粋な信仰へと昇華していったと考えられている 13 。
第二節:国際文化都市・日之江の現出
晴信という強力な庇護者を得て、日之江城下は日本におけるキリシタン文化の一大拠点として、かつてない繁栄を謳歌した 17 。その象徴が、ヴァリニャーノの指導のもと、晴信の入信と同じ1580年に設立された、日本初のキリスト教系中等教育機関「有馬セミナリヨ」であった 1 。
このセミナリヨは、単なる神学校ではなかった。外国人教師が教鞭をとり、ラテン語や宗教学はもちろんのこと、地理学、天文学、数学、そしてグレゴリオ聖歌などの西洋音楽といった、当時のヨーロッパにおけるルネサンス期の最先端の学問が、体系的に教えられていたのである 31 。セミナリヨの設立は、有馬氏の領内が、西洋の知性が直接移植される、日本で最も先進的な教育拠点となったことを意味していた。
そして、このセミナリヨから、日本の歴史上特筆すべき快挙が生まれる。天正10年(1582年)、晴信は叔父の大村純忠、豊後の大友宗麟とともに、4人の少年を使節としてローマ教皇のもとへ派遣することを決定した。この「天正遣欧少年使節」に選ばれた伊東マンショ、そして晴信の従兄弟にあたる千々石ミゲルらは、まさしく有馬セミナリヨで学んだ俊英たちであった 1 。日之江城は、日本人が初めて公式にヨーロッパ世界と交流した、この歴史的事業の起点となった場所なのである。さらに、領内の加津佐には聖職者を養成するための高等教育機関「コレジヨ」も設置され、島原半島南部は名実ともに日本のキリスト教教育の中心地となった 32 。
第三節:宣教師が記録した城の壮麗さ
当時の日之江城がいかに壮麗であったかは、来日していた宣教師たちの記録によって生き生きと伝えられている。特に、織田信長の安土城も見聞していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、1590年に帰国した天正遣欧少年使節を日之江城に迎えた際の様子を、驚嘆をもって次のように記している。
「この建物の美しくみやびやかなたたずまいを一同は気に入った。大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。(中略)その城郭を見たポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建造物があるなど考えてもみなかった」 2 。
この記述は、発掘調査で出土した金箔瓦によって裏付けられており、城内が文字通り黄金で彩られていたことを示唆する。また、1595年に城を訪れたイスパニア商人アビラ・ヒロンも、いくつもの美しい広間が続き、そこから海が見渡せる開放的な構造や、庭園、茶室の存在を記録している 3 。これらの記録は、日之江城が単に堅固なだけでなく、国際的な賓客をもてなすにふさわしい、最高水準の居住性と芸術性を備えていたことを物語っている。その壮麗さは、日本の伝統的な美意識に、南蛮貿易がもたらした異国の文化と富が融合して生まれた、他に類を見ないものであったのだろう。
第五章:南蛮貿易と城下町の繁栄
日之江城の絢爛豪華な姿と、城下で花開いたキリシタン文化を支えた経済的基盤は、まさしく南蛮貿易であった。有馬氏は巧みにこの国際交易を自領に引き込み、その利益を権力強化の源泉とした。
第一節:南蛮貿易の拠点・口之津港
有馬氏の領内に位置する口之津港は、16世紀半ばにおける日本の国際貿易港として、極めて重要な役割を果たした。1562年、有馬晴信の父・義貞の時代にポルトガル船の寄港地として公式に開港し、南蛮貿易の一大拠点となったのである 17 。当時の記録は、口之津港が「四方の風を避ける便利な港は他にない」と記しており、その地形的な優位性を高く評価していた 38 。
南蛮貿易は、キリスト教の布教活動と表裏一体の関係にあった。ポルトガル商人は宣教師と行動を共にし、貿易の許可を得るための条件として、領内での布教活動の自由を領主に求めるのが常であった 17 。有馬氏が南蛮貿易の莫大な利益を享受するためには、キリスト教を受け入れることが不可欠だったのである。
第二節:貿易がもたらした富と文化
南蛮貿易によって、日之江城下には当時の日本では極めて貴重な品々がもたらされた。
- 輸入品: 最大の輸入品は、中国産の生糸や絹織物であった。これらは日本の市場で高値で取引され、莫大な利益を生み出した。その他、軍事力を飛躍的に向上させる鉄砲や火薬、そして支配階級の奢侈品として珍重された時計、ガラス製品、羅紗(ラシャ)などが輸入された 39 。
- 輸出品: 日本からの最大の輸出品は銀であった 39 。当時、石見銀山をはじめとする日本の銀山は世界の銀生産量の多くを占めており、日本の銀はポルトガル商人を通じて、銀を渇望していた中国市場へと流れていった。
この貿易によって有馬氏が蓄積した富は、日之江城の壮麗な改修や、支城である原城の築城を可能にした直接的な経済基盤であったことは疑いようがない 3 。貿易は富だけでなく、人や情報、そして新しい文化をもたらし、日之江を活性化させたのである。
第三節:国際色豊かな城下町の様相
日之江の城下町の具体的な構造を示す絵図などは現存しないものの、文献史料や周辺状況から、その国際色豊かな様相を推測することができる。宣教師や貿易商人が日常的に往来し 17 、城下には荘厳な教会や修道院、そして前述のセミナリヨや病院といった施設が建ち並んでいた 17 。
一般的な戦国期の城下町が、城郭を中心に武家屋敷地と町人地で構成されるのに対し 45 、日之江の城下は、これらの要素に加えて、教会やセミナリヨといった宗教・教育施設群が都市景観の重要な核をなす、極めて特異な構造を持っていたと考えられる。港から城へと至る道筋には、異国の言葉を話す人々が行き交い、珍しい舶来品を扱う店が軒を連ねていたであろう。それは、当時の日本において最もグローバルな空気に満ちた空間の一つであったに違いない。
日之江城と口之津港は、それぞれが独立して機能していたのではなく、政治・軍事・文化の中心である「城」と、経済活動の中心である「港」が一体となって機能する、一種の「城港複合体」を形成していた。有馬氏の権力は、伝統的な石高(米の生産量)以上に、この国際交易ルートの支配に大きく依存していた。これは、中世的な荘園領主から、近世的な海洋交易国家の萌芽へと向かう、新しい形の権力構造の現れであった。しかし、その繁栄は、有馬氏自身では制御不可能な国際情勢の波の上に成り立つ、きらびやかで、しかし同時に極めて脆弱なものであった。豊臣・徳川という中央集権権力の対外政策の変化は、この交易の根幹を揺るがし、やがて日之江の落日へと繋がっていくのである。
第六章:落日の刻 ― 廃城から史跡へ
栄華を極めた日之江城であったが、その輝きは長くは続かなかった。城主・有馬晴信の失脚を機に、城は急速にその歴史的役割を終え、やがて廃城の運命を辿る。
第一節:有馬氏の失脚と転封
慶長17年(1612年)、有馬晴信の運命を暗転させる事件が起こる。徳川家康の側近であった本多正純の家臣・岡本大八が、晴信に対し旧領回復の斡旋を持ちかけ、多額の賄賂を騙し取った「岡本大八事件」である。この事件が露見した結果、晴信も連座の罪を問われ、4万石の所領を没収された上、甲斐国へ流罪となり、同地で死罪に処された 4 。敬虔なキリシタンであった晴信は、武士の作法である切腹を教義に反するとして拒み、家臣に介錯させたと伝えられている 21 。
父・晴信の悲劇的な死の後、家督を継いだ息子の直純は、徳川幕府の歓心を得るためにキリスト教を棄教し、領内のキリシタンに対し厳しい弾圧を加える側に回った 47 。そして慶長19年(1614年)、直純は日向国延岡(現在の宮崎県延岡市)へ5万3000石で加増転封を命じられた 4 。これにより、有馬一族は約400年にわたって統治した島原半島の地を、永久に去ることとなったのである。
第二節:島原城築城と日之江城の廃城
有馬氏が去った後、元和2年(1616年)、大和国(奈良県)から松倉重政が新たな領主として4万石で入封した 4 。松倉氏は、山間にある日之江城を統治に不便であるとし、半島の中央部に新たな城を築くことを決定した 4 。これが、後に島原・天草一揆の舞台ともなる島原城である。
この島原城の築城にあたり、日之江城とその支城であった原城は、格好の資材供給源とされた。城の壮麗さを支えていた石垣や建物の部材は、その多くが解体・収奪され、島原城の建設のために運び去られたと言われている 22 。これにより、日之江城は人為的に徹底して破壊され、歴史の表舞台から完全に姿を消し、廃城となったのである。
松倉氏による日之江城の解体は、単なる城主交代に伴う実利的な行為に留まらなかった可能性がある。日之江城は、有馬氏の栄光、キリスト教文化の中心、そして海外との自由な交易の象徴であった。これらはすべて、中央集権化と鎖国体制の構築を目指す徳川幕府にとって、否定し、克服すべき「前時代の遺物」であった。したがって、松倉氏による日之江城の徹底的な破壊と部材の収奪は、物理的に城を解体するだけでなく、島原半島から有馬キリシタン時代の記憶そのものを消し去り、徳川の支配体制を象徴する新たな拠点(島原城)を建設するという、極めて政治的な意図を含んだ行為であったと解釈することもできるだろう。
第三節:歴史的遺産としての再評価と現在
江戸時代を通じて山林や田畑と化していた日之江城跡は、近代以降、その類い稀な歴史的重要性が見直されるようになった。そして昭和57年(1982年)7月3日、戦国末期から江戸初期にかけての日本キリスト教史における初期の中心地として、その価値が認められ、国の史跡に指定された 1 。
平成7年(1995年)からは本格的な発掘調査が開始され、本報告書で詳述した金箔瓦や壮大な階段遺構など、文献史料の記述を裏付ける数々の重要な発見がなされた 23 。ただし、調査で発見された最大の見どころである階段遺構は、風化を防ぎ、後世に伝えるための保存措置として、調査後に埋め戻されているため、現在、その姿を直接目にすることはできない 2 。
現在、日之江城跡は南島原市教育委員会を中心に史跡の保存活用計画が進められており、歴史公園としての整備が検討されている 51 。また、近隣にはガイダンス施設として「有馬キリシタン遺産記念館」が設置されており、日之江城や原城跡からの出土品を展示し、この地で繰り広げられたキリシタンの歴史を分かりやすく紹介している 50 。
建物が失われ、最大の見どころであった遺構も地下に眠る現在の城跡を訪れる者は、残された曲輪の地形やわずかな石垣、そしてガイダンス施設で得た知識を頼りに、かつてフロイスが絶賛した壮麗な城の姿を自らの頭の中で再構築することが求められる。これは、復元された天守閣を見て楽しむ従来の城跡観光とは異なり、より知的で能動的な歴史との対話を促す、新しい形の文化財活用と言える。日之江城跡の真の価値は、目に見える遺構の壮大さにあるのではなく、その遺構が物語る歴史の豊かさにある。その歴史を学び、想像力を働かせることで初めて、この場所が持つ深い意味が理解できるのである。
結論:戦国史における日之江城の歴史的意義
日之江城は、その栄光の時代の短さにもかかわらず、日本の戦国時代史において他に類を見ない、多層的で重要な歴史的意義を持つ城郭である。
第一に、 グローバル化の先進拠点 としての意義が挙げられる。日之江城は、単なる肥前の一城郭に留まらず、16世紀の日本が経験した最初のグローバル化の波を象徴する、極めて先進的な拠点であった。口之津港を玄関口とする南蛮貿易を通じて世界経済と直結し、キリスト教を通じて西洋の思想、文化、そして技術を積極的に受容した。その城郭構造や出土品は、当時の日本がいかにダイナミックな国際交流の時代にあったかを物語る第一級の史料である。
第二に、 中央と地方、伝統と革新の交差点 としての意義である。安土城の影響が色濃い大手階段や、豊臣政権との繋がりを示す金箔瓦は、日之江城が地方にありながらも、常に中央の政治・文化動向と強く結びついていたことを示している。その一方で、仏教寺院の徹底的な破壊と、その部材を利用したキリスト教文化の象徴たる城郭の建設は、日本の伝統的な価値観と、新しく到来した外来思想との間の、激しい葛藤と融合を体現している。日之江城は、様々な価値観が交錯し、新たな時代が生まれようとしていた戦国末期の日本の縮図であったと言える。
そして最後に、 時代の転換点に咲いた徒花 としての意義である。日之江城の繁栄は、有馬晴信という非凡な大名のリーダーシップと、大航海時代という世界史的な潮流が奇跡的に交わったことで生まれた、束の間の輝きであった。しかし、その後の徳川幕府による中央集権化と鎖国体制への移行という、より大きな歴史のうねりの中で、その先進性ゆえに否定され、歴史の表舞台から姿を消した。日之江城の盛衰の物語は、戦国時代の多様で開かれた社会の可能性が、近世の均質で閉じた社会へと収斂していく、日本の大きな歴史的転換点を雄弁に物語っている。その価値は、失われたからこそ、より一層、現代に生きる我々に多くのことを問いかけてくるのである。
引用文献
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