肥前日野江城は、キリシタン大名有馬晴信の居城として南蛮貿易で栄え、セミナリヨを擁し国際色豊かであった。しかし岡本大八事件で晴信は失脚、松倉氏の入城と島原城築城により廃城。
日本の戦国時代史において、肥前国島原半島にその威容を誇った日野江城は、単なる地方大名の居城という枠組みを遥かに超える、特異な輝きを放つ存在である。今日、その名は安土城や大坂城のような天下人の城郭の影に隠れがちであるが、16世紀後半、この城は紛れもなく日本の国際政治、経済、そして文化の最前線に位置する結節点であった。城主・有馬晴信の下、日野江城はキリスト教信仰の拠点として、また南蛮貿易がもたらす富と文化が集積する国際港湾都市として、未曾有の繁栄を謳歌したのである。
その壮麗さは、織田信長の安-土城をその目で見た経験を持つ宣教師ルイス・フロイスをして、「日本にこれほど壮麗な建築物があるとは考えてみなかった」と言わしめるほどであった 1 。城内は「黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られ」、その城下には日本初となる西洋式の中等教育機関「セミナリヨ」が設立され、後の天正遣欧少年使節を育んだ 1 。発掘調査によって出土した数々の遺物は、中国大陸や東南アジアからもたらされた高級陶磁器や、中央政権との密接な関係を示す金箔瓦など、この城が有した富と権勢を雄弁に物語っている 4 。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。城主・有馬晴信の失脚と共に城は主を失い、新たな領主の下で廃城の運命を辿る。そして、この地で花開いたキリシタン文化は、やがて日本史上最大級の内乱である島原の乱へと繋がる悲劇の土壌ともなった。
本報告書は、この忘れられた国際都市の記憶を、最新の考古学的知見と歴史的文献を駆使して再構築する試みである。日野江城の黎明から栄華の頂点、そしてその終焉に至るまでの軌跡を辿ることで、戦国時代が内包していたグローバル化の可能性と、その挫折の物語を明らかにしていく。
日野江城の歴史は、城主であった肥前有馬氏の歴史そのものである。有馬晴信の時代に突如として歴史の表舞台に登場したかのように見えるこの城も、実際には数世紀にわたる強固な支配の基盤の上に成り立っていた。
日野江城の築城時期については、複数の伝承が存在する。1216年(健保4年)頃とする説がある一方で 6 、より広く南北朝時代に築かれたと伝える記録もある 8 。いずれにせよ、鎌倉時代から室町時代にかけての動乱期に、島原半島における軍事拠点としてその歴史を開始したと考えられる。
城主であった肥前有馬氏は、その家伝において平安時代に瀬戸内で威を振るった藤原純友の子孫を称しているが、学術的には肥前国藤津荘の荘官であった平直澄の子孫と見なされている 9 。鎌倉時代に高来郡有馬荘の地頭職を得たことから有馬氏を名乗り、南北朝の動乱期には南朝方の菊池氏や少弐氏に属して戦った 10 。戦国時代に入り、有馬晴信の祖父にあたる有馬賢純(晴純)の代には肥前6郡を支配下に置くなど、島原半島に深く根を張った有力な国人領主としてその地位を確立していた 10 。
日野江城が歴史上特筆すべき点の一つは、その驚異的な支配の継続性にある。築城から1614年(慶長19年)に有馬氏が日向国延岡へ転封となるまで、約400年間にわたり一貫して有馬氏の居城であり続けた 6 。下剋上が常であった戦国時代において、これほど長期にわたり一つの家系が本拠地を維持し続けた例は稀有である。
この400年という歴史の蓄積は、単なる事実以上の重要な意味を持つ。それは、有馬晴信が後に断行する急進的な政策を可能にした「正統性」の源泉となったからである。晴信は、キリスト教への改宗、領内の寺社の徹底的な破壊といった、当時の日本の伝統的な価値観を根底から覆す政策を次々と打ち出した 13 。もしこれが新興大名によるものであれば、在地勢力や領民の激しい反発を招き、たちまち支配体制そのものが崩壊していたであろう。しかし、有馬氏は地域において「古くからの正統な領主」として広く認識されていた。この揺るぎない正統性が、領内の動揺をある程度抑制する安全弁として機能し、晴信の大胆な改革を支える土台となったのである。日野江城の栄華は、この長い歴史の礎の上に築かれたものであった。
日野江城がその歴史上、最も輝かしい時代を迎えたのは、第13代当主・有馬晴信(1567-1612)の治世下においてであった。周辺を強大な戦国大名に囲まれるという厳しい国際環境の中、晴信はキリスト教と南蛮貿易を軸に、巧みな外交戦略と経済政策を展開し、日野江城を一大国際拠点へと変貌させた。
年代(西暦) |
主な出来事 |
1567年 |
有馬晴信、誕生。 |
1571年 |
兄・義純の急死により、わずか4歳で家督を相続 14 。 |
1580年 |
龍造寺氏への対抗のため、洗礼を受けキリシタンとなる。日野江城下に日本初のセミナリヨが開校 15 。 |
1582年 |
大友宗麟、大村純忠と共に天正遣欧少年使節をローマへ派遣 17 。 |
1584年 |
島津氏と連合し、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち破る 14 。 |
1587年 |
豊臣秀吉の九州平定に服属し、所領を安堵される 10 。 |
1590年 |
イエズス会年報に、改築された日野江城の壮麗さが記録される 1 。 |
1592年 |
文禄の役に従軍 9 。 |
1597年頃 |
発掘調査により、金箔瓦が使用されていたことが判明。豊臣政権との密接な関係を示す 19 。 |
1609年 |
長崎港にてポルトガル船マードレ・デ・デウス号を撃沈 20 。 |
1612年 |
岡本大八事件に連座し、甲斐にて死罪となる 17 。 |
1614年 |
晴信の子・直純が日向延岡へ転封。有馬氏の日野江城支配が終わる 6 。 |
1618年 |
新城主・松倉重政が島原城の築城を開始。日野江城は廃城となる 12 。 |
晴信が家督を継いだ頃、肥前国では「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が急速に勢力を拡大しており、有馬氏はその強大な軍事力の前に臣従を余儀なくされる苦境にあった 9 。当初、晴信は父・義貞の信仰したキリスト教に対し、むしろ距離を置いていた 1 。しかし、日に日に強まる龍造寺氏の圧迫に対し、領国の存亡をかけた晴信は、活路を外部勢力との連携に求めた。
この決断は、単なる信仰の選択ではなく、極めて高度な地政学的判断に基づく戦略的賭けであった。彼は南九州の雄・島津氏に軍事同盟を求めると同時に、もう一つの強力なパートナーとしてイエズス会に接近した。イエズス会は、単なる宗教団体ではなく、南蛮貿易を通じて莫大な富と、鉄砲や大砲といった最新兵器、そして海外の情報を有する国際的な勢力であった。このイエズス会からの全面的な支援を引き出すための最も効果的な「契約」こそが、領主自らのキリスト教への改宗だったのである。
1580年、晴信は洗礼を受け、ドン・プロタジオという洗礼名を授かった 9 。この決断は即座に実を結ぶ。1584年、龍造寺隆信が数万の大軍を率いて島原半島に侵攻すると、有馬・島津連合軍は沖田畷(おきたなわて)でこれを迎え撃った。兵力では圧倒的に劣勢だった連合軍だが、イエズス会から提供されたとみられる大砲などの新兵器も活用し、湿地帯という地形を巧みに利用した戦術で龍造寺軍を大混乱に陥れ、遂には総大将・隆信を討ち取るという劇的な勝利を収めた 14 。この一戦により、有馬氏は龍造寺氏の軛から逃れ、その名を九州に轟かせたのである。
沖田畷の戦いでの勝利以降、晴信はイエズス会との関係をさらに深め、南蛮貿易を積極的に推進した。彼の治世下、日野江藩は徳川幕府から朱印状(海外渡航許可証)を得ており、その朱印船の派遣回数は、九州の有力大名である島津氏や松浦氏と並び、大名の中では最多クラスであったと記録されている 9 。
有馬氏の領地は、決して肥沃な穀倉地帯ではなかったが、南蛮貿易がもたらす莫大な利益は、藩の財政を潤し、その勢力基盤を強固なものにした 5 。その富の豊かさは、日野江城跡からの出土品が何よりも雄弁に物語っている。特に注目されるのが、中国の官窯で製作された極めて希少な高級陶磁器「法花(ほうか)」の発見である 4 。濃紺と水色の釉薬が特徴的なこの陶磁器は、日本国内での出土例がほとんどなく、これを入手できたという事実は、有馬氏がアジアの交易ネットワークにおいていかに重要な地位を占めていたかを示す動かぬ証拠と言える 5 。
南蛮貿易によって蓄積された富は、日野江城そのものの改築にも注ぎ込まれた。1590年(天正18年)に城を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その日本年報に驚嘆の念を込めて城内の様子を記している。
「この建物の美しくみやびやかなたたずまいを一同は気に入った。大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は最近、有馬晴信の手で建てられ、見事な出来栄えとなった城郭の中にある。その城郭を見たポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建造物があるなど考えてみなかった。」 1
フロイスはこれ以前に織田信長の安土城に招かれ、その壮大さを目の当たりにしている人物である 5 。その彼が「日本にこれほど」と最大級の賛辞を贈っていることから、日野江城が安土城にも比肩しうるほどの絢爛豪華な城郭であったことが窺える。さらに1595年(文禄4年)に城を訪れたイスパニア商人アビラ・ヒロンも、いくつもの美しい広間が連なり、庭園や茶室まで備えられていたと記録しており、城が単なる軍事施設ではなく、高度な文化空間でもあったことを伝えている 8 。
1587年、豊臣秀吉による九州平定が行われると、晴信はこれにいち早く服属し、4万石の所領を安堵された 10 。一見、小大名に過ぎない晴信であったが、彼が豊臣政権内で占めていた地位は、その石高からは想像もできないほど重要なものであった。そのことを示すのが、城跡の二ノ丸から出土した一枚の「金箔瓦」である 1 。
金箔瓦の使用は、当時、豊臣秀吉の一族や、ごく限られた腹心の大名にしか許されていなかった、特別なステータスの象徴であった 6 。石高がわずか4万石の有馬氏が、なぜこの栄誉を許されたのか。それは、豊臣政権が有馬晴信を、石高(軍事力)という従来の物差しではなく、全く別の尺度で評価していたことを示唆している。
天下統一を成し遂げ、次なる目標として明国の征服まで見据えていた秀吉にとって、晴信が持つ独自の価値、すなわちイエズス会との強力なパイプを通じて得られる南蛮貿易の独占的利益、硝石や鉄砲といった戦略物資の調達能力、そして何より貴重な海外情報は、数十万石の大名の軍事力にも匹敵する戦略的重要性を持っていた。金箔瓦の使用許可は、有馬晴信を豊臣政権のグローバル戦略における不可欠なパートナーとして公に認める、極めて政治的なメッセージだったのである 19 。
有馬晴信の治世下、日野江城とその城下は、政治・経済の中心であるに留まらず、西欧の学問、文化、そして信仰を日本に組織的に移植するための先進的な実験場となった。その中核を担ったのが、イエズス会によって設立された教育機関であった。
1580年、イエズス会の東インド巡察使として来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案により、日本初となる西洋式の中等教育機関「セミナリヨ」が日野江城下に開校した 1 。これは、日本人聖職者を育成することを目的とした全寮制の学校であり、現在の中学校に相当する教育機関であった 26 。
セミナリヨの教育内容は、当時の日本の水準を遥かに凌駕するものであった。学生たちは、キリスト教の教義はもちろんのこと、ラテン語、地理学、天文学といった人文科学、さらにはグレゴリオ聖歌などの西洋音楽や西洋絵画に至るまで、ルネサンス期のヨーロッパにおける最先端の学問を組織的に学んだ 3 。さらに領内には、セミナリヨの上級課程にあたる高等教育機関「コレジヨ」(現在の大学に相当)も加津佐や有家に設置され、島原半島は名実ともに日本におけるキリスト教教育の一大中心地となったのである 3 。
日野江城下のセミナリヨが果たした最も歴史的な役割は、天正遣欧少年使節を育成したことである。1582年、有馬晴信は、豊後の大友宗麟、そして叔父にあたる大村純忠と共に、4人の少年を使節としてローマ教皇の下へ派遣した 17 。この使節に選ばれた伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノは、いずれも有馬セミナリヨで学んだ優秀な生徒たちであった 1 。
8年以上に及ぶ大旅行の末に帰国した彼らは、ヨーロッパの進んだ文化や知識を日本にもたらした。その中でも特筆すべきは、彼らが持ち帰ったグーテンベルク式の活版印刷機である 29 。この印刷機は加津佐のコレジヨに設置され、『平家物語』や『イソップ物語』の口語訳(天草本)など、多くの「キリシタン版」と呼ばれる書物の印刷に活用され、日本の出版文化に大きな影響を与えた 34 。
晴信のキリスト教信仰は、西欧文化の導入という輝かしい光の側面を持つ一方で、日本の伝統宗教に対する苛烈な弾圧という濃い影の側面も併せ持っていた。熱心なキリシタンとなった晴信は、領内にあった40以上の神社や仏閣を徹底的に破壊したと記録されている 5 。
この宗教政策の過激さを象徴するのが、近年の発掘調査で明らかになった特異な遺構である。日野江城の二ノ丸で発見された階段の踏み石には、破壊された寺院の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔といった、仏教式の墓石や石塔が意図的に転用されていた 5 。これは単なる資材の再利用ではない。城を訪れる家臣や領民が日常的に通る主要な動線に、かつて神聖なものとして崇められていた仏塔を敷き詰めるという行為は、旧来の宗教的権威を物理的に「踏みつけ」させ、キリスト教の絶対的優位性を視覚的に刷り込むための、極めて計算された政治的プロパガンダであった。後の江戸幕府がキリシタンを発見するために用いた「踏み絵」にも通じるこの構造は、晴信の権力が、領民の精神世界にまで及んでいたことを示す、強烈な象徴的操作だったのである 7 。
宣教師たちの記録によって伝えられる日野江城の壮麗な姿は、1995年(平成7年)から断続的に行われている発掘調査によって、その具体的な構造が次第に明らかになりつつある。考古学的成果は、文献史料だけでは知り得なかった城郭の姿を我々に示し、その先進性と独自性を浮き彫りにしている。
日野江城は、島原半島南部の標高約78メートルの丘陵上に築かれた平山城である 8 。城の縄張り(区画配置)は、丘陵の最高所に本丸を置き、その東側に二ノ丸、西側に三ノ丸、北側に北の丸を配置する、梯郭式あるいは連郭式と呼ばれる構造を持つ 6 。本丸の背後(北側)には、今なお良好な状態で残る広大な空堀が穿たれ、城の東西はそれぞれ大手川と浦口川が流れる自然の谷によって守られており、堅固な防御機能を有していたことがわかる 6 。
発掘調査における最大の発見の一つが、二ノ丸地区で確認された大規模な石段と石垣の遺構である。特に注目すべきは、城の大手口から二ノ丸、さらには本丸下へと一直線に伸びる、全長100メートル以上にも及ぶと推定される長大な直線石段の存在である 7 。このような直線的な大手道は、防御を最優先する中世の山城には見られない構造であり、城主の権威を訪れる者に見せつける「見せる城」という思想の表れである。この構造は、織田信長が築いた安土城の大手道との強い類似性が指摘されており、晴信が中央の最新の築城技術と城郭思想を積極的に取り入れていたことを示している 6 。
さらに驚くべきは、この石段の側面に用いられていた石垣の技術である。そこには、薄い板状の石材の凹凸をパズルのように精緻に組み合わせる、当時の日本の城郭には類例を見ない独特な技法が用いられていた 6 。この技術は、琉球王国(現在の沖縄県)の城である「グスク」の石垣に見られるものと共通しており、有馬氏の交易ネットワークが、単に中国や東南アジアの商品をもたらすだけでなく、遠く琉球から高度な土木技術者集団を招聘するほどの人的交流をも伴っていた可能性を示唆している 4 。
日野江城の城郭構造は、まさに当時の日本の城郭技術における「中央(織田信長)」の権威主義的な思想と、「南方(琉球)」の先進的な土木技術という、二つの異なる潮流を融合させた、他に類を見ないハイブリッドな実験場であったと言えるだろう。
発掘調査では、城内での人々の営みを伝える遺物も数多く出土している。二ノ丸の一角からは、素焼きの土器である土師器(はじき)、いわゆる「かわらけ」が大量に、しかも廃棄された状態で発見された 6 。かわらけは、中世の武家社会において儀式や酒宴の際に用いられ、一度きりで使い捨てられるのが通例であった。この大量出土は、日野江城内で有馬氏と家臣たちが頻繁に儀礼的な宴会を催し、そこで主従の絆を確認し、結束を固めていたことを物語っている 7 。
主要出土遺物 |
出土場所(主に) |
遺物が示す歴史的・文化的意義 |
金箔瓦 |
二ノ丸 |
豊臣政権との密接な関係。石高を超えた政治的地位の象徴 6 。 |
中国製陶磁器「法花」 |
本丸地区など |
南蛮貿易による莫大な富。希少品を入手可能な卓越した交易力の証明 4 。 |
転用された仏塔・墓石 |
二ノ丸の階段 |
徹底したキリスト教保護と仏教排斥政策。旧権威の打破を象徴するプロパガンダ 5 。 |
土師器(かわらけ) |
二ノ丸 |
城内での頻繁な儀礼・酒宴の開催。主従関係の確認と強化という政治的機能 6 。 |
琉球様式の切石積み石垣 |
二ノ丸の階段袖 |
南方地域との技術的・人的交流。交易ネットワークの広範さを示す 4 。 |
栄華を極めた日野江城と有馬氏であったが、その輝きは一つの事件をきっかけに、急速に失われていく。中央政権の動向に翻弄され、ついには400年続いた本拠地を明け渡し、歴史の表舞台から退場を余儀なくされたのである。
転落の直接的な原因となったのは、慶長17年(1612年)に発覚した「岡本大八事件」である 17 。事件の発端は、その数年前の1609年、晴信が徳川家康の命を受けて長崎港内のポルトガル船マードレ・デ・デウス号を撃沈したことに遡る 20 。晴信はこの功績の恩賞として、かつて龍造寺氏に奪われた旧領の回復を強く望んでいた 39 。
そこへ、家康の側近であった本多正純の家臣・岡本大八という人物が接近し、旧領回復の斡旋をすると持ちかけて、晴信から運動資金として6000両にも及ぶ巨額の金品を騙し取った 39 。大八は家康の朱印状まで偽造するなど、周到に詐欺を働いていた 40 。しかし、いつまでも恩賞が実現しないことを不審に思った晴信が本多正純に直接問い合わせたことで、大八の詐欺が発覚する。
当初、詮議は被害者である晴信に有利に進んだ。しかし、追い詰められた大八が窮余の一策として、「晴信には長崎奉行を暗殺する計画があった」と虚偽の逆告発を行ったことで、事態は暗転する 20 。この告発が、キリシタン大名への警戒を強めていた家康の疑念を招き、晴信もまた罪に問われることとなった。結果、晴信は全領地を没収され、甲斐国へ流罪となった末に死罪を命じられた。キリシタンの教義が自害を禁じていたため、彼は妻たちの見守る中、家臣に首を打たせてその生涯を閉じたと伝えられている 17 。
晴信の死後、家督は子の直純が継いだ。直純は家康の養女を正室に迎えていたこともあり、有馬家の存続は許されたが、慶長19年(1614年)、長年の本拠地であった日野江から遠く日向国延岡(現在の宮崎県延岡市)への転封を命じられた 9 。これにより、有馬氏による約400年にわたる島原半島の支配は、その幕を閉じた。
有馬氏が去った後、1616年(元和2年)、大和国五条から松倉重政が新たな領主として日野江城に入城した 12 。
新領主となった松倉重政は、日野江城を新たな統治の拠点とはしなかった。彼は、日野江城が領地の南に偏りすぎており、領内全体の統治に不便であること、また、キリシタンの中心地から統治の拠点を移す必要があったことなどを理由に、新たな城の築城を決意する 44 。そして1618年(元和4年)、有明海交通の要衝である島原の地に、壮大な島原城(森岳城)の建設を開始した 12 。
この新城建設は、日野江城の運命を決定づけた。徳川幕府が発布した「一国一城令」により、一つの大名領に城は一つしか認められなくなったため、島原城の完成と共に、日野江城はその歴史的役割を終え、支城であった原城と共に廃城とされたのである 12 。
この日野江城から島原城への移行は、単なる居城の移転以上の、時代の大きな転換を象徴する出来事であった。日野江城が、南蛮貿易を生命線とし、海外に開かれた「海洋交易国家」的な性格を持つ領国経営の拠点であったのに対し、松倉氏が築いた島原城は、領内の農民から効率的に年貢を収奪し、幕藩体制の末端として統治を行うための「内向きな農業国家」的な領国経営の拠点であった。日野江城の廃城は、戦国時代の自由闊達な国際交流の時代が終わり、徳川幕府による厳格な中央集権と鎖国体制へと向かう、日本の大きな歴史の流れをこの地において決定づけた画期的な事件だったのである。
廃城となり、歴史の表舞台から姿を消した日野江城。しかし、その存在が残した影響は、決して小さなものではなかった。この城が育んだ文化と信仰は、皮肉にも日本史上最大の悲劇の一つである島原の乱の遠因となり、また現代においては、国の史跡として、そして世界遺産の物語を理解する上で不可欠な存在として、新たな価値を放っている。
日野江城の繁栄は、その後の悲劇の土壌を育むという、歴史の皮肉な結果をもたらした。有馬晴信の時代、手厚い保護政策によって、島原半島は日本でも有数のキリスト教信仰が根付いた地域となった 9 。この地で形成された強固な信仰共同体は、庇護者であった有馬氏を失い、後任の松倉氏による過酷なキリシタン弾圧と重税に直面した時、単なる農民一揆の担い手ではなく、宗教的な連帯感と殉教をも恐れない精神力を持つ、強大な抵抗勢力へと変貌する素地を持っていた。
1637年(寛永14年)に勃発した島原の乱で、3万7千人もの一揆勢が立てこもった原城は、もともと日野江城の支城として有馬氏が近代的に改修した城であった 12 。日野江城下で花開いたキリシタン文化の「光」が強ければ強いほど、その後の弾圧の時代における「影」もまた濃くなったと言える。島原の乱の壮絶さとその悲劇性は、日野江城時代の栄華と決して無関係ではあり得ないのである。
江戸時代を通じて忘れ去られていた日野江城跡は、近代以降、その歴史的重要性が見直されるようになった。そして1982年(昭和57年)、日本におけるキリスト教史の初期の中心地として、国の史跡に指定された 1 。
さらに、2018年にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」において、日野江城跡は構成資産には直接含まれていないものの、その物語を理解する上で極めて重要な役割を担っている。世界遺産のストーリーの出発点とされる島原の乱の舞台・原城跡の本城として、またキリシタン文化が日本で最も華やかに栄えた場所として、その歴史的文脈を補完する不可欠な存在と位置づけられている 48 。現在、城跡に隣接して建てられた「有馬キリシタン遺産記念館」では、発掘された金箔瓦や陶磁器などが展示され、訪れる人々にその栄光と悲劇の歴史を静かに語りかけている 1 。
日野江城の歴史は、織田信長や豊臣秀吉といった中央の天下人の物語だけでは捉えきれない、戦国時代が持っていた驚くべき多様性とダイナミズムを我々に教えてくれる。それは、地方の一大名が、宗教と貿易を媒介として世界と直接結びつき、独自の文化圏と経済圏を築き上げた、一つの壮大な実験の記録である。
もし岡本大八事件がなければ、もし有馬氏が失脚しなければ、そしてもし徳川幕府が鎖国という道を選択しなければ、この日野江城を中心とした国際交流拠点は、どのように発展を遂げていたであろうか。歴史に「もし」は許されないが、日野江城の遺跡は、戦国時代が内包していたもう一つの日本の可能性、よりグローバルで開かれた社会への道を指し示す、貴重な歴史遺産として、現代に生きる我々に静かに問いかけ続けている。