最終更新日 2025-08-23

曾根城(伊予国)

伊予国 曾根城 ―戦国乱世に翻弄された一族と城郭の全貌―

序章:内子の地に眠る、忘れられた城

愛媛県喜多郡内子町。江戸から明治期にかけて木蝋の生産で栄えた、風情ある白壁の町並みで知られるこの地の傍らに、一つの城跡がひっそりと眠っている。その名を「曾根城(そねじょう)」という。今日、その名は訪れる者も少なく、歴史の表舞台で語られることも稀であるが、かつて戦国という激動の時代、この城を拠点とした一族が、南伊予の地で確かな足跡を刻んでいた。

本報告書は、この伊予国曾根城と、その城主であった曾根一族の興亡の軌跡を、現存する史料と遺構から徹底的に解き明かすことを目的とする。日本各地には同名の「曽根城」が複数存在するが(例:美濃国曽根城) 1 、本稿が対象とするのは、戦国期に曽根高昌によって築かれた伊予国の城である。

報告は、城郭そのものを物理的、地理的側面から分析する「第一部:城郭編」、城主一族の歴史を追う「第二部:城主編」、彼らを取り巻く時代背景を考察する「第三部:時代編」、そして歴史の舞台から去った後の運命を探る「第四部:後世編」の四部構成で、曾根城の全体像に迫る。この多角的な分析を通じて、一地方領主とその城が、戦国乱世という大きな渦の中でいかにして勃興し、そして消えていったのか、その実像を明らかにしていく。

第一部:城郭編 ― 伊予国曽根城の立地と構造

城郭を理解することは、その城主の戦略や思想を読み解く鍵となる。本章では、曾根城がどのような「モノ」であったかを、その立地、縄張り、そして現存する遺構から徹底的に分析する。

西暦(和暦)

主要な出来事

関連人物

1533年(天文2年)

後の高昌寺となる常久寺が現在地に移築される。

益応玄巨大和尚

1544年(天文13年)

曽根高昌が伊予に入り、曾根城を築城したと伝わる。

曽根高昌

1556年(弘治2年)

曽根高昌が死去。菩提寺の常久寺が高昌寺と改称される。

曽根高昌

1579年(天正7年)

曽根宣高が長宗我部氏の後援を得て、龍王城主・城戸直宗を滅ぼす。

曽根宣高、城戸直宗、長宗我部元親

1585年(天正13年)

豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景軍の侵攻に対し、曽根宣高は降伏・開城。

曽根宣高、小早川隆景、豊臣秀吉

1586年(天正14年)

小早川隆景の書状により、曾根城が破却されたことが確認される。城は廃城となる。

小早川隆景

1985年(昭和60年)

「曽根城跡」として内子町の史跡に指定される。

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第一章:地勢と戦略的価値

曾根城は、その立地そのものが戦略的な意図を雄弁に物語っている。城は、中山川とその支流である麓川が合流する地点の北側、南へ向かって舌状に伸びた丘陵の先端部に築かれている 3 。標高は約110メートルから170メートル、麓からの比高(高さ)は約50メートルから70メートルを測る山城である 4

この地は、古くから交通の要衝であった。城の西側には近世の大洲街道が、東側には小田方面へと通じる遍路道が通っており、陸上交通の結節点を押さえる絶好の位置にあった 5 。内山盆地における物流と人の往来を掌握することは、曽根氏の経済的・軍事的基盤を支える上で不可欠であったと考えられる。

さらに興味深いのは、城の所在地が「城廻(じょうめぐり)」という地名であること、そして麓川が山麓の集落を巡るように流れている点である 7 。これは、城郭と麓の居住区が一体となった、さながら「城塞都市」のような防御的な集落が形成されていた可能性を示唆している。城は単独で存在するのではなく、麓の町や村と一体となって機能する地域支配の核であった。

その規模と重要性は、同時代の史料からも窺い知ることができる。江戸時代に編纂された大洲藩の地誌『大洲旧記』には、「城跡よほど大にしてしかるべき地なり」(城跡は相当に大きく、城を構えるにふさわしい土地である)と記されている 5 。これは、後世から見ても、曾根城が単なる小規模な砦ではなく、南伊予において一定の規模と格式を備えた重要な城郭であったことを証明する貴重な記録である。

第二章:縄張と防御施設

曾根城の縄張り(城の設計)は、その地勢を最大限に活かした、堅固かつ合理的な構造となっている。城域は東西約90メートル、南北約140メートルに及び 4 、典型的な山城の様相を呈している。

城の最大の防御的特徴は、北側の尾根続きに設けられた巨大な堀切(大堀切)である 3 。山城の弱点となりやすい陸続きの尾根を、幅約11メートル、塁上からの深さ約9メートルにも達する大規模な堀で遮断し、敵の侵入を物理的に困難にしている 5 。この堀切の南側が、城の主要な領域となる。

城内は、複数の曲輪(平坦地)が段差を設けて配置されている。

中心となる主郭(本丸に相当)は、南北に約80メートルと広大な三角形の平坦地で構成される 5。山城としては比高がそれほど高くなく、この広い主郭の存在から、戦闘時のみ使用する「詰の城」としてだけでなく、平時には城主が館を構え、政務や生活を営む「居館」としての機能も兼ね備えていた可能性が高い 5。これは、曽根氏がこの地を一時的な軍事拠点ではなく、恒久的な本拠地として定着し、領域を統治する強い意志を持っていたことの物理的な証左と言える。

主郭の周囲には、一段低い二の郭や腰郭、そして「犬走り」と呼ばれる狭い通路が立体的に配置され、複雑な防御線を形成している 7 。大堀切に面した城の北端には、現在は松尾神社の境内となっている高まりがあり、ここは物見や射撃の拠点となる櫓台であったと推定される 3 。また、城内への入口である虎口(こぐち)付近には石積みの痕跡が見られ、防御が固められていたことがわかる 7 。城内各所で見られる石積みは、後世の畑作に伴うものか、戦国期の遺構か判断が難しい部分もあるが 3 、虎口周辺のものは城の防御施設の一部であった可能性が考えられる。

籠城戦において生命線となる井戸の存在も確認されており 4 、長期にわたる防衛戦にも耐えうる設計であったことが窺える。このように、曾根城の縄張りは、北方の脅威に対しては極めて堅固な防御を誇りつつ、南に広がる自らの支配領域(麓の集落や街道)を強く意識した、領域支配の拠点としての性格を色濃く反映している。

第三章:現状と遺構

戦国時代の終焉とともにその役目を終えた曾根城は、現在、歴史を物語る史跡としてその姿を留めている。城跡は、1985年(昭和60年)9月10日付で「曽根城跡」として内子町の史跡に指定され、法的に保護されている 8

しかし、往時の姿を完全に保っているわけではない。城跡の主要部分は山林や畑跡となっており、長年の風雪により遺構の風化も進んでいる 3 。特に近年では、2018年の西日本豪雨などの影響で登城道の一部が崩落し、一般の見学者が安全に城跡の中心部まで到達することが困難な状況となっている 3

現地には、城の歴史を伝える城址碑や説明板が設置されているものの 7 、城が持つ本来の規模や歴史的重要性に対して、その整備は限定的と言わざるを得ない。現在、城跡は静寂に包まれ、竹林や雑木が往時の曲輪を覆っているが 5 、その地形の起伏や土塁、堀切の痕跡は、今なお戦国の気風を色濃く伝えている。

第二部:城主編 ― 伊予曽根氏の興亡

城は、そこに生きた人々の物語の舞台である。本章では、曾根城の主であった曽根一族に焦点を当て、彼らが何者で、いかにして伊予の地に現れ、そしてどのような活動を行ったのかを、人物を中心に描き出す。

第一章:一族の出自と伊予入国

伊予曽根氏の出自は、近江国(現在の滋賀県)に遡ると伝わる。その祖は、宇多源氏佐々木氏の傍流で、源平合戦において宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木高綱であるとされる 3 。一族は近江国愛知郡曾根を名字の地としていたが、戦国時代に入り、その拠点を離れることとなる。

彼らが次に向かったのは、西国随一の勢力を誇った周防国(現在の山口県)の大名・大内義隆のもとであった 3 。大内氏は当時、勘合貿易を掌握し、西日本一帯に強大な影響力を行使していた。伊予国にもその力は及んでおり、曽根氏の伊予入国は、この大内氏の権威を背景に行われたと考えられる。地盤を持たない「よそ者」であった曽根氏にとって、大内氏という強力な後ろ盾は、在地勢力に対する大きな優位性をもたらしたはずである。

そして天文年間(1532年~1555年)、曽根氏は大内氏のもとを離れ、伊予国喜多郡の地に移り住んだ 7 。これが、戦国期の南伊予にその名を刻むことになる伊予曽根氏の始まりであった。

第二章:高昌・宣高の時代

伊予曽根氏の歴史は、主に二人の当主、高昌と宣高の時代に集約される。

初代城主とされるのが曽根高昌(そね たかしげ)である。伝承によれば、彼は天文13年(1544年)頃に曾根城を築城し、この地における曽根氏支配の礎を築いた 3 。高昌は武将であると同時に、在地支配を巧みに行った領主でもあった。その象徴的な事例が、高昌寺との関係である。彼は城の麓にあった常久寺(または浄久寺)に深く帰依し、曽根家の菩提寺として手厚く保護した 9 。高昌の死後、弘治2年(1556年)、寺は彼の諱(いみな)にちなんで「高昌寺」と改名された 9 。これは、宗教的権威との結びつきを通じて在地支配の正当性を高めるという、当時の武将の典型的な手法であり、高昌がこの地に深く根を張ろうとしていたことを示している。

父・高昌の跡を継いだのが、二代目の曽根丹後守宣高(そね たんごのかみ のぶたか)である。彼は父が築いた基盤の上で、曽根氏の勢力をさらに拡大させた、極めて活動的な武将であった 3 。彼の時代、曽根氏は内子盆地における一国人領主から、周辺地域に影響を及ぼす有力な勢力へと飛躍を遂げることとなる。

第三章:周辺勢力との角逐

曽根宣高の武功として最も特筆すべきは、近隣の五十崎(いかざき)に勢力を張っていた龍王城主・城戸直宗(きど なおむね)との抗争である。城戸氏は伊予の守護大名であった河野氏の一族であり、この地域における旧来からの有力者であった 15 。新興勢力である曽根氏にとって、城戸氏の存在は自らの支配権を確立する上での大きな障害であった。

両者の対立は、天正7年(1579年、異説あり)に頂点に達する。この年、宣高は龍王城に夜襲をかけ、城戸直宗を滅ぼしたと記録されている 8 。この勝利は、単なる領土争いの決着以上の意味を持っていた。それは、この地域における河野氏の影響力を排除し、曽根氏が内子盆地の主導権を完全に掌握したことを意味する、決定的な出来事であった。

しかし、この軍事行動は曽根氏単独の力によるものではなかった。次章で詳述する通り、この背後には、当時四国全土を席巻しつつあった土佐の長宗我部元親の影があった。曽根氏は、大内氏という後ろ盾を失った後、新たな外部勢力と巧みに連携することで、在地での生き残りと勢力拡大を図ったのである。彼らの歴史は、強力な外部勢力との関係をいかに利用し、あるいはそれに翻弄されるかという、戦国時代の地方領主の典型的な姿を映し出している。

第三部:時代編 ― 戦国乱世における曽根城

曾根城と曽根氏の動向は、彼ら個人の物語であると同時に、より大きな歴史の文脈の中で動いていた。本章では、視点をマクロに転じ、戦国時代の伊予国、さらには四国全体の勢力図の中に曾根城を位置づけることで、その興亡が持つ歴史的意味を明らかにする。

第一章:群雄割拠の伊予国

曽根氏が拠点を構えた16世紀中頃の伊予国は、単一の強力な支配者が存在しない、複雑な群雄割拠の状態にあった。名目上の守護は道後(現在の松山市)の湯築城を本拠とする河野氏であったが、その支配力は限定的であった 18 。南部の宇和郡には西園寺氏が、そして曽根氏が位置する喜多郡には宇都宮氏といった有力な国人領主が割拠し、互いに牽制しあっていた 20

特に喜多郡は、これらの諸勢力の力がぶつかり合う緩衝地帯であり、常に紛争の絶えない地域であった 10 。曽根氏は、このような不安定な情勢の中で、自立を維持するために絶えず巧みな外交的・軍事的判断を迫られる立場に置かれていたのである。

第二章:長宗我部元親の影

天正期(1573年~1592年)に入ると、この伊予国の勢力図を根底から揺るがす巨大な力が東から迫ってきた。土佐国(現在の高知県)を統一した長宗我部元親である。元親は「四国統一」を掲げ、伊予への侵攻を本格化させた 23

この新たな地政学的変動に対し、曽根宣高は大胆な戦略的決断を下す。旧来の伊予国内の勢力とではなく、侵攻者である長宗我部元親と連携関係を結んだのである 15 。前章で述べた龍王城主・城戸氏の攻略は、まさにこの連携の成果であった。『大洲旧記』には、「土佐長宗我部氏の後援をえた曽根城主曽根宣高によって落城し」と明確に記されており、長宗我部氏の軍事支援が曽根氏の勝利に不可欠であったことがわかる 17

この提携は、双方にとって大きな利益をもたらした。曽根氏にとっては、河野氏をはじめとする伊予国内の敵対勢力に対抗するための強力な後ろ盾を得ることができた。一方、長宗我部氏にとっては、伊予侵攻の足掛かりとなる内陸の拠点を確保できるという利点があった。曾根城が位置する内子盆地は、東の土佐から西の宇和・大洲、北の道後へと通じる交通の結節点である。この地政学的な重要性ゆえに、曾根城は長宗我部氏の伊予侵攻戦略において、極めて価値の高い前線基地となったのである。

第三章:天下統一の奔流

長宗我部氏との連携によって南伊予に確固たる地位を築いた曽根氏であったが、その栄華は長くは続かなかった。彼らの運命を決定づけたのは、四国の論理ではなく、中央から押し寄せる天下統一という、抗いようのない巨大な奔流であった。

天正13年(1585年)、関白豊臣秀吉は、長宗我部氏を討伐し四国を平定するため、10万を超える大軍を派遣した。世に言う「四国征伐」である。伊予方面軍の総大将を任されたのは、毛利氏の重鎮であり、当代随一の知将と謳われた小早川隆景であった 7

瀬戸内海を渡り、伊予に上陸した小早川軍の圧倒的な兵力の前に、長宗我部方についた伊予の国人領主たちは次々と降伏していった。曽根宣高もまた、抵抗することなく隆景軍に降伏し、城を開け渡した 5 。これは、破滅的な籠城戦を避けるための、現実的な選択であった。

しかし、降伏は曽根氏の存続を保証するものではなかった。豊臣政権は、新たな支配体制を構築する上で、旧勢力の拠点を徹底的に無力化する方針を採った。曾根城もその対象となり、破却(はきゃく)、すなわち軍事施設として再利用できぬよう破壊されたのである。この事実は、小早川隆景が残した書状の中に、「曾根・恵良・しらされ三ヶ所の儀、破却に相澄まし」(曽根城、恵良城、白滝城の三城を破却した)という一文が残っていることから確実である 7

曾根城の廃城は、単に一つの城が歴史から姿を消したという以上の意味を持つ。それは、長宗我部氏が伊予に築いた勢力ネットワークを解体する、豊臣政権による周到な作業の一環であった。四国の政治秩序が、長宗我部を中心とするものから、豊臣政権を頂点とする中央集権的な体制へと再編される過程を象徴する出来事だったのである。曾根城は、その地政学的重要性ゆえに長宗我部氏と結びついて勃興し、また、それゆえに天下統一の過程で真っ先に解体される宿命にあったと言えるだろう。

第四部:後世編 ― 廃城後の曽根城と曽根一族

城は破却され、領地は没収された。歴史の表舞台から姿を消した曽根一族は、その後どのような運命を辿ったのか。本章では、残された伝承を基に、彼らのその後と、城跡が持つ現代的な意義について考察する。

第一章:曽根一族のその後

廃城後の曽根一族の動向については、大きく分けて二つの異なる伝承が残されている。

一つは「帰農説」である。これは、曽根氏が武士の身分を捨てて伊予の地に留まり、帰農したというものである。近世(江戸時代)には、喜多郡内の庄屋(村役人)として、地域の有力者であり続けたと伝わっている 7 。戦国時代の敗者が、その土地に根を下ろし、新たな身分で家名を存続させることは、決して珍しいことではなかった。

もう一つは「仕官説」である。これは、降伏した小早川隆景を介して、その主家である毛利氏を頼り、長州萩藩(現在の山口県)の家臣になったという伝承である 10 。実際に萩藩の家臣団の中には曽根姓の人物が見られることから 24 、少なくとも一族の一部が毛利氏に仕え、武士として家名を繋いだ可能性は高いと考えられる。

これら二つの伝承は、一見すると矛盾しているように思える。しかし、戦国から近世への移行期という激動の時代を生き抜く一族の知恵として捉え直すと、新たな解釈が生まれる。これは、一族の血脈を確実に後世に残すための、意図的な「リスク分散戦略」であった可能性が考えられるのである。すなわち、一族を二つに分け、一方(本家筋か)は新たな主君に仕えることで武士としての家名を存続させ、もう一方は先祖代々の土地に残り、庄屋として在地での基盤を守る。どちらか一方の道が閉ざされたとしても、もう一方が血脈を繋ぐことができる。この二つの伝承は、単なる異なる言い伝えではなく、一族が生き残りをかけて打った、極めて現実的かつ戦略的な「二正面作戦」の結果であったと解釈することも可能であろう。それは、戦国敗者がいかにして激動の時代を乗り越え、近世へと家名を繋いでいったかを示す、人間味あふれる歴史の証言と言えるかもしれない。

第二章:城跡の変遷と歴史的意義

軍事施設としての役割を終えた曾根城跡は、江戸時代以降、次第に山林や畑地へと姿を変えていった 3 。そして現代、内子町の史跡として、その歴史を静かに伝えている。

結論として、伊予国曾根城が持つ歴史的価値は、以下の点に集約される。

第一に、戦国時代に外部から伊予に入部した新興領主が、いかにして在地に拠点を築き、周辺勢力との合従連衡の中で勢力を拡大しようとしたかを示す、貴重な歴史的実例であること。城郭の構造そのものが、彼らの定着と領域支配への強い意志を物語っている。

第二に、その終焉が、地方勢力同士の争いの結果ではなく、豊臣秀吉による天下統一という、抗いようのない中央の論理によって決定づけられたこと。これは、戦国時代末期の日本の政治構造が大きく変動する様を象徴する出来事である。

曾根城の歴史は、華々しい英雄譚ではないかもしれない。しかし、その軌跡は、戦国という乱世を必死に生き抜いた一地方領主の典型的な興亡の姿を、我々に克明に教えてくれる。南伊予の地に眠るこの城跡は、地域の歴史を理解する上で欠かすことのできない、重要な文化遺産なのである。

引用文献

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  2. 曽根城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1647
  3. 伊予 曾根城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/sone-jyo/
  4. 曽根城跡/曾根城 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/cultural-property/207208
  5. 曽根城(愛媛県喜多郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/8415
  6. 156387-曽根城跡_曾根城 - 文化財総覧WebGIS https://heritagemap.nabunken.go.jp/statistic/156387-%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%9F%8E%E8%B7%A1_%E6%9B%BE%E6%A0%B9%E5%9F%8E/index.html
  7. 曽根城 曾根城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/ehime/utikomati02.htm
  8. 曽根城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2565
  9. 伊予の隅々:内子町(旧・内子町) http://www.kotaro-iseki.net/sumizumi/12-uchiko.html
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  23. あと一歩” のところで果たされなかった! 土佐の武将・長宗我部元親の四国統一 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/768
  24. 曾禰荒助 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9