曾根城(紀伊国)
紀伊国曾根城は、住民の嘆願で築かれた異色の山城。賀田湾と熊野古道を扼する要衝で、海賊や盗賊から地域を守った。堀内氏善に属し、関ヶ原で主家が改易され曾根氏も没落。現在はツツジの名所「浄の城」として親しまれる。
紀伊国東岸の要衝・曾根城の総合的研究 ―戦国期在地領主・曾根氏の興亡と城郭の地政学的価値―
第一章:序論:紀伊国東岸における戦国期の城郭、曾根城
1-1. 戦国期東紀州の地理的・政治的特異性
日本の戦国時代、紀伊国東岸、現在の三重県尾鷲市周辺に位置する地域は、伊勢国と紀伊国(特に熊野地方)という二つの文化圏・政治圏の狭間にありました 1 。この地域は、険しい山々が海岸線に迫るリアス式海岸が続き、陸路の交通が困難である一方、数多くの良港が点在する地理的特徴を有しています。このため、中央の権力が直接的に及びにくく、在地勢力が自立的な動きを見せる土壌がありました。
同時に、この地は伊勢神宮と熊野三山を結ぶ信仰の道、熊野古道伊勢路が通過する陸上交通の要衝でもありました 2 。また、賀田湾をはじめとする天然の良港は、熊野灘における海上交通の結節点として重要な役割を担っていました 4 。このように、東紀州は陸海双方の交通路が交差する戦略的に極めて重要な地域であり、その支配権を巡っては、在地領主のみならず周辺の大名からも常に注視される場所でした。このような地理的・政治的背景が、この地に築かれた城郭、すなわち曾根城の性格を理解する上で不可欠な前提となります。
1-2. 在地領主の山城としての曾根城の位置づけ
曾根城は、戦国時代中期の弘治年間(1555年〜1558年)に築城されたと伝わる、この地域を代表する山城の一つです 5 。その規模や構造は、戦国大名が拠点とした巨大な城郭とは異なり、特定の地域を支配する在地領主の拠点、特に有事の際に立て籠もる「詰の城」としての性格を色濃く持っています。
しかし、曾根城を単なる地方の小城郭として片付けることはできません。その築城に至る経緯は、戦国時代の一般的な城郭のそれとは一線を画す、極めて特異な背景を持っています。それは、武力による征服や領土拡大の結果としてではなく、地域住民の切実な願いに応える形で、外部から専門的な武人が招聘されて築かれたという点にあります。この特異な成立過程こそが、曾根城と城主・曾根氏の歴史を読み解く鍵となります。
1-3. 本報告書が解明を目指す課題
本報告書は、紀伊国曾根城を戦国時代という文脈の中に位置づけ、その歴史的価値を多角的に解明することを目的とします。具体的には、以下の課題について詳細な分析と考察を行います。
第一に、城郭の物理的な構造、すなわち縄張りを詳細に分析し、その防御思想と機能性を解き明かします。
第二に、城主である曾根氏の出自を考証し、彼らがこの地を支配するに至った特異な経緯を、当時の社会構造と関連付けながら深く掘り下げます。
第三に、織田、豊臣、徳川と中央権力がめまぐるしく変転する戦国乱世の中で、在地領主であった曾根氏が、いかにして存続を図り、そして最終的に歴史の舞台から姿を消すことになったのか、その興亡の軌跡を追跡します。
第四に、東紀州という地政学的文脈において、曾根城が有した軍事的、経済的、そして交通上の戦略的価値を総合的に評価します。
第五に、「つつじ城」「宇杉城」そして謎多き「浄の城」という複数の別名に着目し、その由来を文化史的な観点から考証します。
これらの課題を解明することにより、一地方の城郭の歴史を通じて、戦国時代の多様な社会の実像と、そこに生きた人々の動態を浮き彫りにすることを目指します。
第二章:曾根氏の出自と入郷の背景:近江六角氏と住民の嘆願
2-1. 築城主・佐々木宇右衛門(曽根弾正)の出自考証
曾根城の築城主は、佐々木宇右衛門正吉という人物であったと伝えられています 6 。通説によれば、彼は近江国(現在の滋賀県)の守護大名であった六角氏の一族であり、特に甲賀の出身であったとされています 6 。この「甲賀出身」という出自は、彼の人物像を理解する上で極めて重要です。戦国時代の甲賀は、忍術で知られるだけでなく、卓越した戦闘技術を持つ傭兵集団「甲賀衆」の拠点でもありました。彼らは特定の主人に固定的に仕えるのではなく、契約に基づいて各地の大名に雇われ、その武力を提供していました 10 。
このことから、佐々木宇右衛門は単に名門大名の一族というだけでなく、実践的な軍事技術や集団を統率する能力を備えた、専門性の高い武将であった可能性が考えられます。彼が紀伊国に入った後、現地の地名である「曽根」を姓とし、「弾正」という官途名を名乗ったことは 5 、外来の領主がその土地に根を下ろし、統治者としての正統性を確立しようとする意志の表れと解釈できます。
2-2. 異例の築城経緯:「傭兵領主」の誕生
曾根城の築城経緯は、戦国時代の数ある城の中でも特筆すべき異例なものです。それは、領主による侵略や征服の結果ではなく、地域住民からの能動的な働きかけによって成立したという点にあります。伝承によれば、当時、曽根、賀田、古江、梶賀の四つの郷村は、熊野灘を活動拠点とする海賊や山を越えて襲来する盗賊の被害に絶えず苦しめられていました 6 。
在地住民による自衛にも限界があったため、彼らは自らの安全を確保する手段として、武勇で知られた近江の六角氏に保護を「嘆願」したとされています 6 。この要請に応えて派遣されたのが、佐々木宇右衛門でした。この出来事は、戦国時代の多様な支配関係を考察する上で、示唆に富む事例です。
中央の権力が及ばない辺境地域において、在地社会(郷村)は一定の自律性を保ち、自らの共同体を守るために主体的な判断を下していました 15 。東紀州の住民たちが直面していたのは、生命と財産を常に脅かす海賊という外部からの暴力でした。彼らは、この問題に対処するため、外部の軍事専門家集団に、土地の支配権の一部を委譲する代わりに安全保障という「役務」を求めるという、極めて現実的な選択を行いました。これは、金銭や所領と引き換えに武力を提供する傭兵の論理と軌を一にするものです 11 。
佐々木宇右衛門を輩出した六角氏が、甲賀という軍事専門家集団を勢力下に置いていたことは、この要請に応じる能力と動機があったことを示唆します 10 。したがって、曾根氏の入郷は、単なる領主の善意による「救済」ではなく、在地社会が自らの必要性に基づき、専門家を招聘して安全保障を「アウトソーシング」した、一種の社会契約であったと解釈することができます。この文脈において、曽根弾正は征服者としてではなく、契約に基づいて着任した「保安官」、あるいは地域に定住した「傭兵領主」としての性格を強く帯びていたと考えられます。この事例は、戦国時代の主従関係や支配関係が画一的なものではなく、地域の事情に応じて多様な形態を取り得たことを示す貴重な証拠と言えるでしょう。
2-3. 支配領域「八か村」の比定と地理的考察
佐々木宇右衛門改め曽根弾正が統治した領域は、「南輪内八か村」と称されています。具体的には、曽根、賀田、古江、梶賀、須野、甫母、二木島浦、二木島里の八つの村々です 6 。これらの村を現在の地図上に比定すると、その配置が極めて戦略的であったことが明らかになります。
八か村は、賀田湾をぐるりと取り囲むように、あるいは熊野古道伊勢路の沿線に沿って分布しています 17 。これは、曽根氏の支配が、海上交通の拠点である賀田湾と、陸上交通の大動脈である熊野古道の双方を完全に掌握するものであったことを意味します。この地理的配置により、曽根氏は海と陸の両方から得られる経済的利益と軍事的優位性を確保することができました。
なお、「曽根」という地名自体は、河川の氾濫によって形成された自然堤防や、石が多く痩せた土地を指す古語の「ソネ」に由来するという説があります 18 。この地域の地形的特徴が、地名として古くから定着していたことを示唆しています。
第三章:城郭の構造(縄張り)と機能:天然の要害と詰の城
曾根城は、戦国時代中期の山城の特徴をよく示す城郭であり、自然の地形を最大限に活用した巧みな設計思想が見られます。平時の居館とは別に、有事の際に立て籠もるための「詰の城」として、その機能に特化した構造となっています。
3-1. 立地と地勢:賀田湾を望む戦略的拠点
曾根城は、尾鷲市曽根町の南西にそびえる城山の山頂、標高180メートル、麓からの比高約178メートルの地点に築かれています 2 。この場所からは、眼下に広がる賀田湾の全域と、湾に出入りする船舶の動きを一望することができます。この圧倒的な眺望は、海上からの敵の接近をいち早く察知し、港湾の活動を常時監視する上で、計り知れない軍事的価値を持っていました。まさに、海を支配するための司令塔として、これ以上ないほどの絶好の立地と言えます。
3-2. 縄張りの詳細分析:防御思想の解読
曾根城の縄張り(城郭の設計)は、東西約130メートル、南北約30メートルにわたる範囲に、大小10の郭(曲輪)を直線的に配置した「連郭式」を基本としています 6 。城の防御は、主に西側の尾根続きからの攻撃を想定して構築されています。
城の西側には、尾根を断ち切る形で三条の深い堀切が設けられており、これが城への主要な進入路を遮断する第一の防御線となっています 6 。これらの堀切は非常に明瞭に残っており、一部には防御力を高めるための石積みが施され、主郭に近い堀切には橋が架けられていた痕跡も見られます 5 。
山頂に位置する主郭(本丸)は、約1,200平方メートルの比較的広い平坦地が確保されており、城の中枢部として機能していました 13 。その周囲には、二の郭、三の郭といった副次的な郭が階段状に配置されています。特に三の郭は城内で最も広い空間を持ち、兵士の駐屯地や、籠城時の居住空間として利用された可能性が考えられます 5 。
また、籠城戦を想定していた明確な証拠として、井戸跡の存在が挙げられます 7 。この井戸は雨水を貯めるための施設であったと推測され、風雨による汚染や破壊を防ぐために、その入口を塞いで巨石を置くという念の入った工夫が凝らされていました 7 。これは、城の生命線である水の確保を極めて重視していた当時の築城思想を物語っています。
3-3. 自然地形の巧みな活用:岩石の要塞
曾根城の最大の特徴の一つは、人工的な土塁や大規模な石垣に頼るのではなく、城内に無数に存在する巨岩や岩盤といった自然地形を、防御施設として巧みに取り込んでいる点です 5 。これは、資材や労働力が限られる在地領主の城において、最小限の労力で最大限の防御効果を得るための合理的な築城術でした。
城内には、特定の名称で呼ばれる巨岩がいくつか存在します。
- 物見岩: 城内で最も眺望の良い場所に位置するこの巨岩は、その名の通り、賀田湾や周辺地域を監視するための絶好の見張り台でした 5 。ここからの景色は、曾根城が持つ戦略的な重要性を何よりも雄弁に物語っています 14 。
- 楯岩・鯨岩: これらの名称が付けられた巨岩も、単なる自然の造形物としてではなく、敵の侵攻を阻む天然の障壁として、城の防御計画の中に意図的に組み込まれていたと考えられます 5 。露出した巨岩は、石垣の代用として、あるいは兵士が身を隠すための遮蔽物として機能したことでしょう。
3-4. 二元構造:詰の城と居館
戦国時代の多くの城郭と同様に、曾根城も二元的な構造を持っていました。山頂の城郭は、あくまで戦闘や籠城を目的とした軍事施設「詰の城」であり、城主の平時の生活や政務は、山麓に構えられた「曽根館」、通称「曽根弾正屋敷」で行われていました 5 。
この居館跡は、現在の飛鳥神社の向かい側一帯に比定されており、往時のものとされる石垣の一部が現存しています 7 。このことから、曽根館も単なる邸宅ではなく、堀や土塁を備えたある程度の防御機能を持つ「屋敷城」であったと推測されます 14 。有事の際には、まず居館で敵を迎え撃ち、戦況が不利になれば、背後の山城である曾根城に立て籠もって徹底抗戦するというのが、基本的な防衛戦略であったと考えられます。
3-5. 特異な遺構「猪垣」の多角的解釈
曾根城の遺構の中で、特に注目すべきものとして、城の中腹を長く取り巻く「猪垣(ししがき)」が挙げられます。この石垣は、全長が約2キロメートルにも及ぶ長大なもので、その堅牢な造りは「城郭顔負け」と評されるほどです 14 。
この猪垣が持つ意味は、一元的ではありません。まず、その第一義的な目的は、猪や鹿といった野生動物による食害から、麓の村々の田畑を守るための農業施設であったと考えられます。山間地での農業生産にとって、獣害対策は死活問題であり、このような大規模な防護柵の建設は、共同体の存続に不可欠でした。
しかし、その規模と構造、そして城と集落の中間に位置するという配置を考慮すると、この猪垣が単なる農業施設に留まらない、もう一つの重要な役割を担っていた可能性が浮かび上がってきます。それは、有事における軍事的な防御線としての機能です。敵が山麓の集落から山頂の城へと攻め上がる際、この堅固で長大な石垣は、侵攻を遅滞させ、防御側を有利にする第一の障害物として機能したはずです。つまり、猪垣は平時には「生産基盤を守るインフラ」として、そして有事には「城の外郭に準ずる防御線」、すなわち一種の「総構え」として機能する、二重の役割を意図して築かれたと解釈することができます。
このような大規模な共同作業を可能にした背景には、住民の要請によって着任した「傭兵領主」である曽根氏と、地域住民との間に築かれた強固な協力関係があったことが推察されます。猪垣は、生活(生産)と戦争(防衛)が分かちがたく結びついていた戦国時代の山村社会の実像と、領主と領民の共存関係を象徴する、極めて貴重な遺構と言えるでしょう。
表1:曾根城の主要な遺構と特徴
遺構・施設名 |
規模・特徴 |
推定される機能 |
関連資料 |
主郭(本丸) |
山頂部、約1,200㎡の平坦地。城址碑あり。 |
司令部、最終拠点 |
5 |
二の郭、三の郭 |
主郭の周囲に配置。三の郭は城内で最も広い。 |
兵員の駐屯、居住空間、倉庫 |
5 |
堀切 |
西側尾根に三条。深く、一部に石積みを伴う。 |
尾根からの敵の侵攻を遮断 |
5 |
井戸跡 |
二の郭下。雨水を貯めたと推定。巨石で保護。 |
籠城時の水源確保 |
5 |
物見岩 |
城内西側。賀田湾を一望できる巨岩。 |
監視、見張り |
5 |
楯岩・鯨岩 |
城内に点在する名称付きの巨岩。 |
自然地形を利用した防御施設 |
5 |
曽根館(居館) |
山麓の飛鳥神社付近。石垣が残る。 |
平時の政庁、城主の居住地 |
5 |
猪垣 |
城の中腹を約2kmにわたり巡る石垣。 |
獣害対策、および城の外郭的防御線 |
14 |
第四章:戦国大名間の動乱と曾根氏の興亡
曾根氏の歴史は、中央の政治情勢の激変に翻弄され続けた、戦国期在地領主の典型的な姿を映し出しています。彼らの存亡は、自らの武力や統治能力以上に、いかに時勢を読み、強大な上位権力と関係を築くかにかかっていました。
4-1. 北畠氏への従属と勢力基盤の確立
曾根弾正が入郷した弘治年間(1555年〜1558年)、この地域に最も大きな影響力を持っていたのは、伊勢国司を世襲する名門、北畠氏でした。地理的に最も近い大勢力である北畠氏に従属することは、新興の在地領主である曾根氏が地域の安定を図り、自らの支配の正統性を確保するための、極めて現実的かつ合理的な選択でした 6 。この時期、曾根氏は北畠氏の権威を背景に、南輪内八か村における支配基盤を確立していったものと考えられます。
4-2. 織田信長の台頭と戦略転換:堀内氏善への帰属
しかし、永禄年間(1558年〜1570年)に入ると、尾張から急速に勢力を拡大した織田信長が伊勢国への侵攻を開始し、北畠氏の権勢は大きく揺らぎます。最終的に北畠氏は信長に屈服し、事実上その支配下に組み込まれることになります。この外部環境の激変は、曾根氏に重大な戦略転換を迫りました。
庇護者であった北畠氏が衰退する中で、曾根氏が新たな従属先として選んだのが、紀伊半島南東部の新宮を拠点に勢力を急拡大していた堀内氏善でした 5 。堀内氏は熊野水軍の系譜を引く有力な国人で、この地域の新たな覇者となりつつありました。没落した北畠氏に代わり、地域の新興実力者である堀内氏の麾下に入ることは、激動の時代を生き抜くための必然的な選択であったと言えるでしょう。
4-3. 堀内氏麾下としての活動
堀内氏への帰属は、名目上のものではありませんでした。天正3年(1575年)と天正6年(1578年)の二度にわたり、堀内氏善が近隣の三木城を攻撃した際には、曽根弾正とその子・孫太郎が堀内軍の一翼を担って参陣したことが記録されています 6 。これは、曾根氏が堀内氏と実効的な主従関係を結び、その軍事行動に動員される立場にあったことを明確に示しています。この間、曾根城自体は堀内氏の勢力圏の内部に位置していたため、直接戦火に晒されることはありませんでした 13 。
4-4. 豊臣政権下と朝鮮出兵の悲劇
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による紀州征伐が行われ、紀伊国の諸勢力はことごとくその軍門に下りました。主家の堀内氏善は秀吉に恭順の意を示して所領を安堵され、大名として豊臣政権に組み込まれます。これにより、曾根氏も間接的に豊臣政権の支配下に置かれることになりました。
平穏な時代も束の間、豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、曾根氏に悲劇をもたらします。主君・堀内氏善の軍に従い、弾正の孫にあたる曽根新吉が「曽根弾正」の名を継いで朝鮮半島へ渡海しましたが、異国の地で奮戦の末、討死を遂げたのです 6 。家督は急遽、弟の久三郎が継承することとなり、一族にとって大きな痛手となりました。
4-5. 関ヶ原の戦いと曾根氏の終焉
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いが勃発すると、曾根氏の運命は決定的な転換点を迎えます。この全国規模の大乱において、主君である堀内氏善は、石田三成が率いる西軍に与するという決断を下しました。
在地領主である曾根氏に、独自に東軍か西軍かを選択する余地はほとんどなく、主君の決定に従う以外の道はありませんでした。しかし、堀内氏のこの選択は、結果的に致命的な誤りとなります。関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わり、戦後処理において、西軍に味方した大名は厳しく断罪されました。堀内氏善も例外ではなく、所領を全て没収される「改易」の処分を受けました 6 。
主家の改易は、その家臣であった曾根氏の没落を意味しました。領主としての地位と所領を全て失った曽根久三郎は、先祖代々の地である曽根を去り、二木島へと移住したと伝えられています 21 。こうして、弘治年間に住民の期待を背負ってこの地に根を下ろした戦国領主・曾根氏は、約半世紀の歴史に幕を下ろし、歴史の表舞台から姿を消したのです。
曾根氏の興亡史は、戦国末期から近世へと移行する時代の非情さを示しています。在地領主の武力や統治能力がいかに優れていようとも、中央の巨大な政治的対立の趨勢を見誤った(あるいは主君が見誤った)場合、その存在基盤がいとも簡単に覆されてしまうという現実を物語っています。これは、天下統一という大きな歴史の潮流の中における、在地領主の脆弱性と限界を象徴する事例と言えるでしょう。
表2:曾根氏の歴史と周辺勢力の動向年表
年代(西暦) |
曾根氏の動向 |
周辺勢力・中央の動向 |
関連資料 |
弘治年間(1555-58) |
佐々木宇右衛門、住民の嘆願で入郷、曾根城を築城。 |
北畠氏が伊勢国司として勢力を保持。 |
5 |
永禄年間(1558-70) |
北畠氏に属し、南輪内八か村を支配。 |
織田信長が台頭、伊勢侵攻を開始。 |
6 |
天正年間(1573-92) |
北畠氏滅亡後、新宮の堀内氏善に帰属。 |
織田信長、天下統一を進める。豊臣秀吉の紀州征伐(1585)。 |
6 |
天正3年(1575) |
堀内氏に従い、三木城攻めに参陣。 |
- |
13 |
文禄・慶長の役(1592-98) |
当主・新吉(弾正)が堀内軍として従軍、朝鮮で討死。 |
豊臣秀吉による朝鮮出兵。 |
6 |
慶長5年(1600) |
主君・堀内氏善が西軍に属す。 |
関ヶ原の戦い。東軍が勝利。 |
6 |
慶長6年(1601)以降 |
堀内氏の改易に伴い、曾根氏も没落。曽根を退去。 |
徳川家康による戦後処理。 |
6 |
第五章:地政学的考察:東紀州の海上勢力と曾根城の戦略的価値
曾根城の歴史的価値は、単一の城郭としてだけでなく、戦国時代の東紀州という広域的な地政学的文脈の中に位置づけることで、より鮮明になります。特に、この地域で覇を競った海上勢力との関係性、そして城が持つ経済的価値の分析は不可欠です。
5-1. 熊野水軍の系譜と在地勢力
紀伊半島沿岸は、古来より卓越した操船技術と武力を有する「熊野水軍」の活動拠点でした 22 。彼らは時に交易商人、時に海上警護人、そして時に海賊として、熊野灘の制海権を握っていました。戦国時代に入ると、これらの海賊衆の中から有力な戦国大名へと成長する者たちが現れます。東紀州においては、新宮を拠点とする堀内氏と、志摩から鳥羽にかけての地域を拠点とする九鬼氏が、熊野水軍の系譜を引く二大勢力として台頭しました 22 。
曾根氏が仕えた堀内氏善と、織田信長に仕えて大大名へと飛躍した九鬼嘉隆は、熊野灘の覇権を巡って激しく争うライバル関係にありました 27 。一方で、堀内氏善が九鬼嘉隆の養女を正室に迎えるなど、婚姻を通じた複雑な同盟・敵対関係を築いてもいました 28 。曾根城と曾根氏の領地は、まさにこの二大海上勢力の勢力圏がぶつかり合う緩衝地帯、あるいは最前線に位置していたのです。この緊張感のある地理的条件が、曾根城の軍事的重要性を一層高めていたことは間違いありません。
5-2. 賀田湾の地政学的・経済的価値
曾根城がその眼下に収める賀田湾は、入り江が深く、外洋の荒波から船舶を守ることができる天然の良港です 14 。戦国時代において、このような港は風待ちや悪天候からの避難場所として、また物資の補給・集積地として、海上交通を支える上で極めて高い価値を持っていました 26 。
戦国時代の港町は、人や物資が集まることで大きな経済的利益を生み出す拠点でした 30 。賀田湾を支配下に置く曾根氏は、この港を管理することで多様な収入を得ていたと考えられます。例えば、入港する商船から「帆別銭」や「櫓別銭」といった通行税や停泊料を徴収したり、港で行われる交易を管理して手数料を得たりすることが可能でした 33 。
さらに、尾鷲周辺は古くから良質な木材(後の尾鷲檜につながる)の産地として知られていました。山から切り出されたこれらの木材は、賀田湾のような港から船積みされ、各地へ商品として搬出されていたと推測されます 26 。曾根氏は、この林業と海運業が結びついた流通プロセスを管理することで、大きな利益を上げていた可能性があります。
これらの港湾支配に基づく商業的利益は、支配下の村々から徴収する年貢収入に加え、曾根氏の重要な経済基盤となっていたはずです。その経済力こそが、武具を揃え、兵士を養い、地域の安全を保障するという「傭兵領主」としての役割を果たすための原動力でした。この観点から見れば、曾根城の価値は単なる軍事拠点に留まるものではありません。それは、賀田湾という「富を生み出す装置」を支配・管理するための司令塔でもあったのです。曾根城の立地は、軍事的な防衛と経済的な支配という二つの目的を同時に達成するための最適解であったと言えます。
5-3. 熊野古道伊勢路との関係性
曾根城の戦略的価値は、海上交通の支配だけに限定されません。城のすぐ麓を、伊勢と熊野を結ぶ大動脈である熊野古道伊勢路、具体的には「曽根次郎坂・太郎坂」と呼ばれる区間が通過しています 2 。
この陸上交通路は、熊野三山を目指す数多くの巡礼者をはじめ、商人や様々な旅人が往来する重要な街道でした。街道を扼する地点に拠点を構える曾根氏は、通行する人々から関銭(通行税)を徴収したり、宿場や市場を管理して利益を得たりすることも可能でした。このように、曾根城は海を見下ろす監視拠点であると同時に、陸路を見下ろす「関所」としての機能も併せ持っていたのです。陸と海の交通路が交差する結節点を押さえることで、曾根氏は地域の物流と人流を完全に掌握していたと考えられます。
5-4. 周辺城郭ネットワーク
曾根城の周辺には、三木城、賀田城、大日山城といった同時代の城郭が複数存在しています 6 。これらの城郭群との関係性を考察することも、曾根城の役割を理解する上で重要です。曾根氏が堀内氏の麾下にあった時期には、これらの城が互いに連携し、烽火(のろし)などで連絡を取り合いながら、一つの広域的な防衛ネットワークを形成していた可能性があります。一方で、それ以前の時期には、それぞれの城を拠点とする在地領主同士が互いに牽制しあい、勢力を競う関係にあったのかもしれません。これらの城郭間の関係性を考古学的調査や古文書の分析を通じて解明することは、今後の研究課題と言えるでしょう。
第六章:文化史的考察:「つつじ城」「宇杉城」「浄の城」の由来を探る
曾根城には、公式な名称のほかに、いくつかの別名が伝えられています。これらの別名は、単なる異称に留まらず、城が持つ景観、地理的特徴、そして城主や地域の人々が抱いていた精神性を反映しており、文化史的な観点から考察する価値があります。
6-1. 「つつじ城」:景観と記憶
最も広く知られている別名が「つつじ城」です 2 。これは、城跡一帯がムラサキオンツツジ(地元では名吉花(カオヨバナ)とも呼ばれる)の群生地であり、春になると山全体が美しい紫紅色に染まることに由来します 2 。
この名称は、城が軍事施設としての役割を終えた後世に、その美しい景観から付けられた雅称である可能性が高いと考えられます。しかし、戦いの記憶が薄れた後も、人々がこの場所を「つつじの美しい城」として記憶し、語り継いできたことを示しています。毎年春には「浄の城つつじ祭り」が開催されるなど 35 、この名は現在も地域の人々に親しまれ、城跡の文化的価値を高める重要な要素となっています。
6-2. 「宇杉城」:地名からのアプローチ
「宇杉城(うすぎじょう)」という別名も記録されています 2 。この名の由来として最も有力な説は、城が所在する土地の字名(あざめい)に基づいているというものです。曾根城跡の所在地は、三重県尾鷲市曽根町「字杉城(あざすぎしろ)」であり 6 、この「杉城」が転じて「宇杉城」となったと考えられます。
「杉城」という字名自体が、かつてこの城山に杉の木が多く生い茂っていたことを示唆しているのかもしれません。あるいは、「城(き)」が古代の言葉で要害の地を意味することから、「杉のある要害」といった意味合いであった可能性も考えられます。いずれにせよ、この別名は城の地理的・植生的な特徴に根差したものと言えるでしょう。
6-3. 「浄の城」の謎:宗教的・文化的背景からの多角的考証
三つの別名の中で、最も解釈が難しく、深い背景を持つのが「浄の城(じょうのしろ)」です 2 。この「浄」という一文字には、複数の意味合いが込められている可能性があり、多角的な考証が必要です。
仮説A:仏教(特に浄土信仰)由来説
最も説得力のある仮説は、この名称が仏教、特に阿弥陀如来の極楽浄土への往生を願う「浄土信仰」に由来するというものです。「浄」の字は、「清浄な仏の国」である「浄土」を強く連想させます 13。戦国時代の武将の中には、浄土宗や浄土真宗を篤く信仰する者が数多く存在し、その信仰心が城の命名や寺院の建立に影響を与えた例は少なくありません 36。
この説を裏付ける有力な傍証が、城の麓にあった寺院の存在です。江戸時代の地誌『紀伊続風土記』には、「曽根弾正の墓は安定寺にあり」という記述があります 21 。この安定寺は、元々は現在の場所ではなく、城の麓の向井地墓地の上にありました 21 。そして、この旧安定寺跡と伝えられる場所には、現在も「南無阿弥陀仏名号碑」が残されています 40 。現在の安定寺は曹洞宗ですが、本尊は阿弥陀如来であり、この名号碑の存在と合わせると、創建当初の安定寺、あるいはその前身寺院が浄土宗か浄土真宗と深い関わりを持っていた可能性が極めて高いと推測されます 40 。
これらの事実を繋ぎ合わせると、城主であった曽根氏自身が浄土信仰の篤い信者であり、戦乱の世に生きる武将として、死後の「浄土」への往生を強く願っていた可能性が浮かび上がります。その信仰心から、自らの居城に「浄」の名を冠した、あるいは城内に阿弥陀如来を祀る仏堂のような施設を設けていたのかもしれません。戦いのための城が、同時に信仰の場としての意味合いも持っていたとすれば、「浄の城」という名称は、その二重性を象徴するものと言えます。この名称は、城主の精神世界や地域の信仰文化を反映した、深い意味を持つものと考えられます。
仮説B:熊野修験道由来説
熊野地方は、古来より山岳信仰と仏教が結びついた修験道の聖地です。修験道においては、山そのものが神仏の宿る聖域であり、修行の場と見なされます 43。この文脈において、「浄」は俗世の穢れを払い、心身を清める修行や、聖域としての「清浄さ」を意味した可能性があります。曾根城が築かれた城山自体が、地域の人々にとって一種の霊山として認識されており、その神聖さから「浄の城」と呼ばれたという解釈も成り立ち得ます。
仮説C:地勢・伝承由来説
より素朴な由来として、城山から湧き出る水が非常に清らかであったため、その清浄さを讃えて「浄の城」と呼んだという可能性も考えられます。また、城にまつわる何らかの「清め」に関する伝承や、城主の清廉な人柄を讃える逸話が、この名に結びついたということもあり得るでしょう。
これらの仮説は互いに排他的なものではなく、複数の要因が複合的に絡み合って「浄の城」という名が定着したのかもしれません。しかし、現存する物証との整合性を鑑みれば、城主・曾根氏の浄土信仰に由来するという説が、最も有力な解釈であると言えるでしょう。
第七章:結論:戦国期在地領主の城郭として曾根城が示す歴史的意義
紀伊国曾根城の総合的な研究を通じて、一地方の山城が戦国時代の社会と歴史を理解する上で、いかに多くの示唆を与えてくれるかが明らかになりました。曾根城とその城主・曾根氏の歴史は、単なる過去の出来事の記録に留まらず、戦国という時代の多層的な実像を映し出す貴重な事例です。
7-1. 在地領主の実像の再評価
曾根氏の興亡史は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の華々しい活躍の陰に隠れがちな、無数の在地領主たちが直面した現実を浮き彫りにします。彼らは、中央の巨大な権力機構に従属する歯車であると同時に、自らの領地においては地域社会に深く根差し、住民との共存関係の中で統治を行う主体的な存在でした。曾根氏が住民の要請に応じて入郷し、地域の安全保障を担ったという事実は、領主と領民の関係が、必ずしも一方的な支配・被支配ではなかったことを示しています。
7-2. 戦国期社会構造の多様性
「住民の要請による築城」という曾根城の成立過程は、戦国時代の支配関係が、武力による征服という単一のモデルだけでは説明できないことを示す、極めて重要な証左です。在地社会が自らの意思で領主を招聘し、安全保障という役務と引き換えに統治を委ねるという、いわば契約的な関係性が存在し得たことは、当時の社会構造の柔軟性と多様性を物語っています。これは、中央集権的な歴史観では見過ごされがちな、在地社会の自律性と主体性を再評価する上で貴重な事例です。
7-3. 山城の好例としての価値
城郭としての曾根城は、戦国時代中期における山城築城術の優れた実例です。大規模な土木工事に頼るのではなく、険しい山の地形や無数の巨岩といった自然の要害を最大限に活用し、最小限の人工的改変で最大の防御効果を発揮させるという設計思想は、当時の合理的な築城技術を如実に示しています。特に、生産基盤の保護と軍事防衛という二重の機能を持たせた「猪垣」は、生活と戦争が一体であった時代の姿を象徴する、特筆すべき遺構と言えるでしょう。
7-4. 歴史的遺産としての現代的意義と今後の課題
現在、曾根城跡は尾鷲市の史跡に指定され、「城山公園」として整備されており、美しいツツジの名所として地域住民や歴史愛好家に親しまれています 2 。この城が持つユニークな歴史的背景や、巧みな城郭構造は、地域の歴史を学ぶための貴重な教材であり、文化観光資源としての大きな可能性を秘めています。
一方で、曾根城に関する研究には、まだ多くの課題が残されています。特に、城跡における本格的な発掘調査は行われておらず、城内の具体的な建物配置や、山麓の居館跡の正確な規模と構造については、未解明な点が多く残されています 46 。今後の考古学的な調査によって新たな発見がもたらされ、曾根城と曾根氏に関する理解がさらに深まることが期待されます。この小さな山城が語る物語は、戦国という時代の豊かさと複雑さを、これからも我々に伝え続けてくれることでしょう。
引用文献
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