月山富田城は、尼子氏の拠点として「難攻不落」を誇る。毛利元就は力攻めを避け兵糧攻めと調略で無血開城させ、尼子氏を滅ぼした。
日本の戦国時代史において、月山富田城(がっさんとだじょう)は特異な光彩を放つ存在である。後世、「難攻不落」「一度も力攻めで落城しなかった天下の名城」と称賛される一方で、その歴史は戦国大名・尼子氏が城門を開き、降伏するという形で一つの終焉を迎えた 1 。この一見すると矛盾した評価こそ、月山富田城の本質、ひいては戦国という時代の力学を解き明かす鍵となる。
本報告書は、この城が単に物理的に堅固な要塞であったという側面に留まらず、戦国時代の戦略思想の変遷、経済構造の変化、そして権力の盛衰そのものを体現する歴史的モニュメントであったことを多角的に論証するものである。月山富田城の歴史を深く掘り下げることは、城壁の背後にある人間の知略、野心、そして時代の大きなうねりを理解することに他ならない。
この城の物語は、単なる攻防の記録ではない。第一次攻城戦における力攻めの失敗と、第二次攻城戦における兵糧攻めと調略による「無血開城」という対照的な結末は、戦国期の合戦が、兵力の衝突という単純な次元から、兵站、情報、心理戦を駆使した総合的な国家総力戦へと劇的に変貌を遂げたことを象徴している 2 。月山富田城は、この「戦の質の変化」を克明に映し出す、歴史の鏡なのである。最強の盾が最強の矛に敗れたのではなく、最強の盾が「戦争のルールそのものを変える」という新しい戦略の前に、その存在意義を問い直された物語として、我々はこの城の歴史を紐解いていく。
月山富田城の歴史は、戦国大名尼子氏六代の栄枯盛衰と分かち難く結びついているが、その起源はさらに古く、南北朝時代の動乱期にまで遡る。この城は尼子氏によって創造されたのではなく、彼らが台頭する以前から、出雲国の支配権を象徴する戦略的要衝として、歴史の表舞台に存在していたのである。
月山富田城が、出雲国の政治的中心として明確に位置づけられるのは、南北朝時代の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)のことである 4 。この年、出雲源氏の惣領であった塩冶高貞が幕府の追討を受けて滅亡すると、その功により山名時氏が出雲守護に任じられた。時氏は富田秀貞を守護代とし、守護代の拠点を従来の塩冶大廻城から月山富田城へと移した。これは、出雲国の政治の中枢が、塩冶から富田の地へ移ったことを示す画期的な出来事であった 4 。
しかし、その後も出雲の支配は安定しなかった。1343年には京極道誉(佐々木高氏)が守護となるも、山名氏との抗争に敗れ、城は再び山名氏の支配下に入る。以降、明徳の乱(1391年)で山名氏が没落するまで、月山富田城は山名氏による出雲支配の拠点として機能した 4 。
明徳の乱後、出雲守護職は再び京極氏の手に戻る。1392年(明徳3年)、京極高詮は甥にあたる尼子持久を守護代に任命し、月山富田城に入城させた 4 。ここから、尼子氏と月山富田城の約170年にも及ぶ長い関係が始まることになる。尼子氏は代々守護代職を世襲し、主家である京極氏の権威を背景に出雲国内での影響力を徐々に強めていった。
戦国時代の幕開けを告げる「下剋上」の体現者として知られる尼子経久の登場により、月山富田城の歴史は大きな転換点を迎える。応仁・文明の乱を経て室町幕府の権威が失墜する中、経久は出雲国内での自立化を画策するが、その動きを警戒した主家・京極氏との関係が悪化。1484年(文明16年)、経久は所領横領などを理由に守護代を解任され、月山富田城から追放されるという屈辱を味わう 4 。城には新たに塩冶掃部介が守護代として入った。
しかし、経久はこのまま歴史の闇に埋もれる男ではなかった。雌伏の時を経て、1486年(文明18年)の正月、経久は賀正の祝いに訪れた芸人一座に紛れて月山富田城内に潜入し、油断していた塩冶掃部介を討ち取り、電光石火の奇襲によって城を奪回したのである 4 。
この「城盗り」は、単なる失地回復に留まるものではなかった。それは、守護代という既存の権威に依存するのではなく、自らの実力によって支配権を確立するという、戦国大名としての尼子氏の誕生を告げる高らかな宣言であった。月山富田城は、尼子氏にとって主家から与えられた職務の場から、自らの野望を実現するための揺りかごへと、その性格を劇的に変えた。経久による城の奪回は、彼の権力の源泉が「任命」から「実力」へと転換したことを示す、物理的な証となったのである。この城を拠点に、経久は「十一州の太守」と称されるほどの巨大勢力を築き上げていくことになる 5 。
西暦 |
和暦 |
城主/関連人物 |
主要な出来事 |
1341年 |
興国2年/暦応4年 |
山名時氏、富田秀貞 |
塩冶高貞滅亡。山名氏が出雲守護となり、守護代の拠点が月山富田城となる。 |
1343年 |
興国4年/康永2年 |
京極道誉 |
京極氏が守護となるが、山名氏との争いに敗れる。 |
1391年 |
元中8年/明徳2年 |
山名満幸 |
明徳の乱で山名氏が敗れ、京極氏が再び出雲守護となる。 |
1392年 |
明徳3年 |
尼子持久 |
京極高詮により守護代に任じられ入城。尼子氏による城の支配が始まる。 |
1484年 |
文明16年 |
尼子経久、塩冶掃部介 |
経久、守護代を解任され城を追われる。塩冶掃部介が新守護代となる。 |
1486年 |
文明18年 |
尼子経久 |
経久、奇襲により月山富田城を奪回。戦国大名としての道を歩み始める。 |
1537年 |
天文6年 |
尼子晴久(詮久) |
経久、孫の晴久に家督を譲る。 |
1541年 |
天文10年 |
尼子経久 |
経久、死去。 |
1543年 |
天文12年 |
尼子晴久 |
第一次月山富田城の戦い 。大内義隆軍を撃退。 |
1552年 |
天文21年 |
尼子晴久 |
幕府より山陰山陽八ヶ国の守護に任じられ、尼子氏の最盛期を迎える。 |
1554年 |
天文23年 |
尼子晴久 |
精鋭部隊「新宮党」(尼子国久ら)を粛清する。 |
1560年 |
永禄3年 |
尼子義久 |
晴久、急死。嫡男の義久が家督を継ぐ。 |
1565年 |
永禄8年 |
尼子義久 |
第二次月山富田城の戦い 。毛利元就による包囲が始まる。 |
1566年 |
永禄9年 |
尼子義久 |
兵糧が尽き、毛利氏に降伏。月山富田城を開城。戦国大名尼子氏が滅亡。 |
1570年 |
元亀元年 |
毛利元秋 |
毛利元秋が城主となる。尼子再興軍の攻撃を撃退。 |
1585年 |
天正13年 |
毛利元康 |
元秋の急死により、弟の元康が城主となる。 |
1591年 |
天正19年 |
吉川広家 |
豊臣秀吉の命により吉川広家が入城。石垣などで城を近世城郭へと改修。 |
1600年 |
慶長5年 |
堀尾吉晴、忠氏 |
関ヶ原合戦後、堀尾氏が入城。 |
1611年 |
慶長16年 |
堀尾忠晴 |
松江城が完成し、堀尾氏が本拠を移転。月山富田城は廃城となる。 |
月山富田城が「難攻不落」と謳われた最大の理由は、標高約190メートルの月山とその周辺の地形を最大限に活用した、巧緻かつ広大な城郭構造にある。それは単に堅固なだけでなく、戦時の防御機能と平時の統治機能を両立させ、長期籠城戦を前提とした高度な戦略思想に基づいて設計されていた。
月山富田城は、飯梨川(旧名:富田川)に面した月山を中心に、川に向かって馬蹄形に伸びる丘陵全体を要塞化した、典型的な複郭式山城である 7 。その総面積は70万平方メートルにも及び、戦国期の山城としては日本最大級の規模を誇る 9 。
城の設計思想は、明確な機能分化に基づいている。
この三層構造は、敵の攻撃に対して段階的に抵抗し、消耗を強いる「縦深防御」の思想を体現している。たとえ城下町や中腹部が突破されても、山頂の詰めの城で最後の抵抗を続けることが想定されていた 13 。この思想は、短期決戦の力攻めを無力化し、長期戦に持ち込むことで敵の兵站を疲弊させるという、尼子氏の得意とした戦術と完全に一致している。城の物理的構造そのものが、尼子氏の軍事ドクトリンを雄弁に物語っているのである。
城の最終防衛ラインである山頂部は、東から本丸、二ノ丸、三ノ丸が一列に配される「連郭式」の縄張りで構成されている 14 。これは山の尾根という細長い地形を有効活用する山城の典型的な配置である。
尼子氏の時代、これらの曲輪の防御は主に土を盛り上げた土塁と、斜面を削って急にした切岸によって構成されていた 14 。後述する吉川氏の時代に、三ノ丸などに石垣が導入され、城は中世城郭から近世城郭へと改修されていく。月山富田城は、日本の城郭史における過渡期の姿を今に伝える貴重な遺構なのである 7 。
月山富田城の実質的な心臓部が、中腹に位置する「山中御殿」と呼ばれる一帯である 15 。ここは、菅谷口、塩谷口、大手口といった主要な登城路が合流する交通の要衝であり、城主の居館が置かれ、日常的な政務が執り行われた政治の中心地であった 15 。
約3000平方メートルにも及ぶ広大な平坦地には、上下二段に分かれて御殿が建てられていたと伝わる 15 。発掘調査では、多数の建物跡や、雨水による崩落を防ぐために真砂土と粘土を14層にも突き固めた「版築」という高度な土木技術を用いた通路跡などが確認されており、当時の建築技術の高さを物語っている 15 。
山中御殿の周辺には、花の壇、侍どころ、太鼓壇といった大小の曲輪が巧みに配置されていた。これらの曲輪は、それぞれが登城路を監視し、独立して敵を迎撃できる防衛拠点としての機能も果たしていた 14 。特に花の壇は、敵の侵入を監視しつつ山中御殿との連携も容易なため、有力な武将が居住していたと考えられている 15 。
山中御殿から山頂の本丸へと至る唯一の道が、「七曲り」と呼ばれる急峻な坂道である 14 。その名の通り、七回も急角度で方向転換を繰り返すこの道は、敵兵の進軍速度を著しく低下させ、上方の曲輪からの側面攻撃(横矢)を容易にするための、巧妙に設計された防御装置であった 11 。この道を突破しない限り、城の中枢に到達することは不可能であり、月山富田城の難攻不落ぶりを象徴する遺構の一つである。
また、山麓から城内へ入る各登城口には、菅谷虎門や搦手門など、石垣で固められた堅固な虎口(城門)が設けられていた 4 。特に、西国からの侵攻を想定し、西側の防御に力が入れられていたと考えられている 17 。これらの多層的かつ巧妙な防御網が、月山富田城を天下の名城たらしめていたのである。
月山富田城は、尼子氏六代にわたる栄華と悲劇の舞台そのものであった。尼子経久が築いた巨大な権勢、孫の晴久が迎えた最盛期、そして曾孫・義久の代に訪れた滅亡。その全ての歴史的瞬間に、この城は中心として存在していた。
1486年に月山富田城を奪回した尼子経久は、この城を拠点として破竹の勢いで勢力を拡大した 4 。彼は謀略と武力を巧みに使い分け、出雲国を完全に掌握すると、伯耆、石見、安芸など周辺諸国へ次々と侵攻。最盛期には山陰・山陽十一ヶ国に影響を及ぼす「十一州の太守」と称されるほどの巨大勢力を築き上げた 5 。
この権勢の拡大に伴い、月山富田城も単なる一国の本拠地から、広大な尼子領国を統べる「首都」として拡張・整備されていった 4 。山麓には多くの家臣団や商工業者が集住する城下町が形成され、その人口は約1万人に達したと推定されている 11 。経久にとって、月山富田城は自らの覇業の象徴であり、権力の源泉そのものであった。
1537年に祖父・経久から家督を譲られた尼子晴久(当初は詮久)の時代、尼子氏の権勢は頂点に達する 4 。彼は宿敵である大内氏の侵攻を撃退し(第一次月山富田城の戦い)、天文21年(1552年)には室町幕府13代将軍・足利義輝より山陰山陽八ヶ国の守護に任じられた 4 。これは、尼子氏が名実ともに中国地方の覇者となった瞬間であった。
しかし、この栄華の裏で、尼子氏の内部には深刻な亀裂が生じつつあった。晴久にとって最大の懸念は、叔父である尼子国久が率いる一族「新宮党」の存在であった。新宮党は、月山富田城の麓にある新宮谷に本拠を置く尼子氏の分家であり、その武勇は尼子軍最強と謳われ、数々の合戦で武功を挙げてきた精鋭部隊であった 5 。しかし、その強大な軍事力と独立性の高さは、当主である晴久の権力を脅かす存在ともなり得た。両者の間には指揮系統の混乱など、確執が生まれていた 19 。
天文23年(1554年)、晴久はついに決断を下す。新宮党に謀反の疑いありとして、国久とその子・誠久ら一族の主だった者を粛清したのである 4 。この事件の背景には、毛利元就による離間の計があったとも言われる 5 。この粛清により、晴久は当主への権力集中と支配体制の強化には成功した 22 。しかし、その代償として、尼子氏は自らの牙とも言うべき最強の軍事集団を失うという、致命的な結果を招いた 23 。
新宮党粛清は、戦国大名が抱える「権力集中」と「軍事力維持」という普遍的なジレンマの表れであった。晴久は前者を優先したが、その決断が尼子氏の運命に暗い影を落とすことになる。もし晴久が長命を保ち、新たな中央集権体制の下で軍を再編する時間があれば、歴史は変わっていたかもしれない。
しかし、運命は尼子氏に味方しなかった。永禄3年(1560年)、晴久は石見銀山を巡る毛利氏との争いの最中に、月山富田城内で急死してしまう 4 。家督は嫡男の義久が継いだが、彼はあまりにも若く、経験も浅かった。新宮党という軍事的中核を失い、さらに晴久という強力な指導者を突如失った尼子家臣団は、宿敵・毛利元就の本格的な侵攻を前に、結束を欠き始めていた 24 。義久が籠る月山富田城には、落日の影が静かに忍び寄っていたのである。
月山富田城の歴史において、二度の籠城戦は特筆すべき重要性を持つ。天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いと、永禄8年(1565年)から翌年にかけての第二次月山富田城の戦いである。わずか20年余りの間に行われたこの二つの戦いは、同じ城を舞台としながら、その様相と結末は全く異なっていた。この対比は、16世紀中盤における日本の戦争術の劇的な進化を理解する上で、極めて重要な事例と言える。
天文10年(1541年)に尼子氏が毛利元就の居城・吉田郡山城を攻めて大敗したことを受け、中国地方の覇権を完全に掌握すべく、大内義隆は尼子氏の本拠地・月山富田城への大遠征を決行した 25 。
第一次合戦の敗北を間近で体験した毛利元就は、月山富田城の物理的な堅固さを誰よりも理解していた。彼が尼子氏を滅ぼすために選択したのは、力攻めという愚策の再現ではなく、全く次元の異なる戦略であった。
毛利元就は、月山富田城という物理的な「城」を攻めたのではない。彼は、尼子氏という「組織」そのものを攻めたのである。第一次合戦が「城壁」対「兵力」の戦いであったのに対し、第二次合戦は「兵站・情報・心理」対「組織の結束力」の戦いであった。元就は、第一次合戦で大内軍が敗れた「理由」そのものを、自らの「戦略」へと昇華させた。月山富田城は、この歴史的な戦争パラダイムの転換を、静かに見届けたのである。
項目 |
第一次月山富田城の戦い (1543年) |
第二次月山富田城の戦い (1565-1566年) |
攻撃軍 |
総大将: 大内義隆 兵力: 約3万~4万 |
総大将: 毛利元就 兵力: 約3万 |
守備軍 |
総大将: 尼子晴久 兵力: 約1万 |
総大将: 尼子義久 兵力: 約1万 |
攻撃側の戦略 |
圧倒的兵力による 正攻法・力攻め |
支城の事前制圧、完全包囲による 兵糧攻め と 調略 |
守備側の戦術 |
籠城と ゲリラ戦 による兵站攻撃 |
籠城による防戦 |
戦いの経過(要点) |
・支城攻略に手間取り兵站が伸びる ・尼子軍のゲリラ戦に苦しむ ・味方の国人衆が次々と離反し包囲網が崩壊 |
・力攻めを早々に中止し、長期包囲戦へ移行 ・心理戦により投降者を続出させる ・調略により重臣・宇山久兼を誅殺させ、内部結束を崩壊させる |
勝敗の決定的要因 |
攻撃側の 兵站の脆弱性 と、味方国人衆の結束力の欠如 |
攻撃側の 完璧な兵站遮断 と、守備側の 内部からの崩壊 |
戦後の影響 |
・大内氏の権威失墜と衰退の遠因となる ・月山富田城の難攻不落の名声が高まる |
・戦国大名尼子氏の滅亡 ・毛利氏による中国地方の覇権確立 |
尼子氏が「十一州の太守」と称されるほどの強大な勢力を誇り、月山富田城のような巨大城郭を維持できた背景には、他の戦国大名を圧倒する盤石な経済基盤が存在した。その二本柱が、奥出雲の「たたら製鉄」と、世界遺産としても知られる「石見銀山」である。
尼子氏の本拠地である出雲国、特に奥出雲地域は、古来より日本における鉄の一大生産地であった 1 。戦国時代に入り、砂鉄を効率的に採取する「鉄穴流し(かんなながし)」という技術が確立されると、鉄の生産量は飛躍的に増大した 31 。尼子氏はこの「たたら製鉄」を支配下に置き、その生産を強力に推進した。一説には、当時の日本の鉄生産量の約8割を尼子氏が産出していたとも言われる 32 。
この良質な鉄は、刀剣や甲冑、鉄砲といった武器の材料として尼子軍の軍事力を支えただけでなく、農具の生産を通じて国全体の生産力を向上させた。さらに、鉄は他国への重要な輸出品として、尼子氏に莫大な富をもたらした。月山富田城の堅固な守りと、それを支える大軍団は、この鉄によって生み出された経済力なくしては成り立たなかったのである 10 。
尼子氏の最盛期、月山富田城の麓には約1万人が暮らす広大な城下町が広がっていた 11 。この城下町は、尼子氏の政治・経済の中心として大いに繁栄した。しかし、悲運なことに、この町並みのほとんどは尼子氏滅亡後の寛文6年(1666年)に発生した大洪水によって土砂に埋もれ、その姿を消してしまった 11 。
長らく幻とされてきたこの城下町の姿を現代に伝えるのが、「富田川河床遺跡」である 33 。河床から発掘された遺物からは、当時の人々の暮らしぶりを垣間見ることができる。出土品には、日常的に使われた多種多様な陶磁器が含まれており、戦国時代から江戸時代初期にかけて、この地で継続的に人々の生活が営まれていたことを示している 33 。
富田川河床遺跡の出土品の中で、特に歴史的に重要な価値を持つのが「切銀」の発見である 33 。切銀とは、銀の塊を必要な重量に応じて切り取って使用した秤量貨幣であり、当時の活発な商業活動を物語る遺物である。
近年の科学的な成分分析により、この遺跡から出土した切銀の中に、当時世界有数の産出量を誇った石見銀山産と推定されるものが含まれていることが判明した 34 。これは、月山富田城の城下町が、単なる地方都市ではなく、石見銀山を起点とする広域的な交易ネットワークの重要な結節点であったことを示す、極めて重要な物証である。
大内氏、尼子氏、そして毛利氏による中国地方の覇権争いは、単なる領土拡張競争ではなかった。それは、鉄と銀という二大戦略資源の支配権を巡る「経済戦争」の側面が極めて強かったのである。尼子氏は一時期、石見銀山をその支配下に置き、そこから産出される銀を自国の経済圏に還流させていた。毛利元就が執拗に月山富田城を狙ったのは、単に出雲国を征服するためだけではない。鉄と銀の生産・流通網の支配権を尼子氏から完全に奪取し、自らの経済基盤とすることこそが、最大の戦略目標の一つであったと考えられる。富田川の底から見つかった小さな銀片は、戦国時代のダイナミックな経済活動の実態を、雄弁に物語っているのである。
永禄9年(1566年)の開城により、月山富田城は尼子氏の手を離れ、新たな支配者を迎えることになった。しかし、それは城の価値が失われたことを意味するのではなく、時代の変化と共にその役割を変えながら、なおも山陰地方における中心的な城郭として存続していく過程であった。
尼子氏を滅ぼした毛利元就は、月山富田城を自らの山陰地方支配の拠点と位置づけた 7 。城代として、毛利家臣の福原貞俊や口羽通良が置かれた後、元就の三男・毛利元秋が城主として入城した 4 。
永禄12年(1569年)、尼子氏の再興を掲げた山中幸盛(鹿介)らが尼子勝久を擁して出雲に侵攻し、月山富田城に迫った。しかし、城の守りは固く、尼子再興軍は城を落とすことができなかった。翌年、毛利本隊の来援により再興軍は敗退し、月山富田城は毛利氏の支配拠点としてその堅固さを改めて証明した 4 。元秋の死後は、その弟である毛利元康が城主を引き継いだ 4 。
時代が下り、豊臣秀吉が天下を統一すると、月山富田城の城主もまた変遷する。天正19年(1591年)、毛利元就の孫にあたる吉川広家が、秀吉から出雲・隠岐など12万石を与えられ、月山富田城に入城した 4 。
広家は、城に大規模な改修を施した。尼子時代には土塁が主体であった防御施設に、高石垣を導入。瓦葺きの櫓や土塀を建設するなど、城の姿を大きく変貌させた 7 。これは、従来の防御一辺倒の中世的な山城から、権威の象徴としての役割も担う近世的な城郭へと、月山富田城が移行していく画期的な出来事であった。現在、城跡に残る石垣の多くは、この吉川氏の時代に築かれたものと考えられている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、月山富田城の運命を決定づける最後の転機となった。西軍についた毛利氏が防長二国に減封されると、戦功により徳川家康から出雲・隠岐二国を与えられた堀尾吉晴・忠氏親子が、新たな領主として月山富田城に入城した 4 。
しかし、堀尾氏は、この難攻不落の名城を永続的な本拠地とはしなかった。戦乱の世が終わり、泰平の世が訪れようとする中で、大名に求められる役割は、軍事指揮官から領国経営者へとシフトしていた。防御力に特化した山城である月山富田城は、大規模な城下町の発展や、水運を利用した物流には不向きであった。
堀尾氏は、新たな時代の統治拠点として、宍道湖と中海を結ぶ水運の要衝であり、経済的発展性に優れた松江の地に、新城(松江城)の築城を開始した 7 。そして慶長16年(1611年)、松江城の完成に伴い、堀尾氏は本拠を移転。これにより、南北朝時代から約270年にわたり山陰の政治・軍事の中心であり続けた月山富田城は、その歴史的使命を終え、廃城となった 4 。
月山富田城の廃城は、城そのものの軍事的欠陥によるものではない。それは、時代の要請の変化による必然的な帰結であった。「防御」を至上の価値とした戦国時代が終わりを告げ、「統治と経済」を重視する近世(江戸時代)が到来したことを、この名城の静かな終焉は象徴しているのである。
月山富田城は、日本の城郭史上、中世山城の一つの到達点を示す傑作である。天然の地形を巧みに利用したその縄張りは、戦国時代の熾烈な攻防を勝ち抜くための知恵と技術の結晶であった。しかし、この城の歴史的価値は、単なる要塞としての機能性に留まるものではない。
月山富田城の歴史は、戦国時代そのもののダイナミズムを凝縮している。尼子経久の下剋上から始まる尼子氏六代の興亡、二度の籠城戦に見る戦争術の劇的な進化、たたら製鉄と石見銀山を巡る経済戦争の実態、そして時代の転換点における廃城という結末。これら全てが、この城を舞台として繰り広げられた。月山富田城は、戦国時代の政治、軍事、経済、そして社会の変遷を映し出す、類まれな歴史遺産なのである。
その価値は現代においても高く評価されている。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、その後も「日本100名城」、そして「日本遺産『出雲國たたら風土記』」の構成文化財として、その歴史的重要性は広く認知されている 4 。2014年から2019年にかけて大規模な修復・整備計画が実施され、城跡は訪れる人々が歴史を体感できる空間として維持されている 11 。
現在、城跡の麓には尼子経久の像が、そして城内には尼子氏再興に生涯を捧げた山中鹿介の像が建てられている 9 。彼らが見つめる先には、戦国時代からほとんど変わらない城下の地形が広がっている 1 。月山富田城を訪れることは、単に城郭の遺構を辿るだけでなく、この地で繰り広げられた栄光と悲劇の歴史、そして戦国という時代を生きた人々の知恵、野望、そして運命に触れる、貴重な体験となるであろう。