最終更新日 2025-08-23

朝倉城(但馬国)

但馬国朝倉城総合調査報告書:戦国大名朝倉氏の源流と、その故城の実像

序章:忘れられた源流 ― 但馬朝倉城の歴史的意義

戦国時代、越前国(現在の福井県)を支配し、織田信長と激しく覇を競った名門、朝倉氏。その本拠地であった一乗谷の壮麗な城下町遺跡は、戦国大名の栄華を今に伝えるものとして広く知られている。しかし、この強大な一族の源流が、遠く離れた但馬国(現在の兵庫県北部)の、八木川のほとりに静かに佇む小規模な山城にあるという事実は、一般にはあまり知られていない 1 。その城こそ、本報告書の主題である「但馬国朝倉城」である。

この城は、単に「朝倉氏発祥の地」という記念碑的な存在に留まるものではない。鎌倉時代に築かれ、南北朝、室町、そして戦国の動乱を経て、織田信長の天下統一事業の奔流に飲み込まれるまで、数百年にわたり但馬の地に存続した。その歴史は、但馬国における在地領主(国人)の興亡と、中央政権の動向に翻弄されながらも存続を図った地方武士団の姿を、まさに体現するものである。

本報告書は、但馬国朝倉城について、戦国時代という時代区分を主軸に据えつつも、その枠にとらわれることなく、城郭としての構造、城主であった但馬朝倉一族の通史、そして日本史の大きな文脈の中で果たした役割を多角的に分析・解明する。これにより、これまで越前朝倉氏の輝かしい歴史の陰に隠れがちであった「源流の城」の真の歴史的価値を再評価し、日本の戦国史におけるそのユニークな位置づけを明らかにすることを目的とする。

第一章:朝倉の地理と戦略的価値

第一節:地勢と立地

但馬国朝倉城は、現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉に位置する 6 。この地は、但馬国を貫流する円山川とその支流である八木川が合流して形成された八鹿盆地の一角にあたる 2 。城郭は、朝倉集落の南西にそびえる大平山と呼ばれる、標高152メートル、麓からの比高約100メートルの独立した丘陵上に築かれている 1

この立地は、軍事拠点として極めて優れた条件を備えていた。山頂からは、眼下の朝倉集落はもちろん、八木川流域の平野部、さらには八鹿の町並みまでを一望することが可能であり、敵の動向を早期に察知する監視拠点として理想的であった 1 。周囲を川と山に囲まれた天然の要害であり、小規模な兵力でもって効果的な防御を行うことができたと推察される。

さらにマクロな視点で見れば、この地域は古代から交通の要衝であった。律令時代に整備された官道「山陰道」は、丹波国から但馬国へと入り、養父、香美、新温泉を経て因幡国(鳥取県)へと抜けるルートを辿っており、朝倉城が位置する地域はこの重要な幹線道路に近接していた 10 。また、円山川水系は舟運にも利用され、日本海と内陸部を結ぶ物流の動脈でもあった 12 。この城は、陸路と水路という二つの交通路を扼する戦略的結節点に位置していたのである。

第二節:但馬国の政治情勢

鎌倉時代から戦国時代にかけての但馬国は、有力な守護大名によって統治されていた。特に室町時代以降、但馬守護職は足利一門の名家である山名氏が世襲し、この地を本拠地として強固な支配体制を築き上げた 13 。山名氏は最盛期には全国66か国のうち11か国もの守護を兼ね、「六分一殿(ろくぶのいちどの)」と称されるほどの絶大な権勢を誇った 14

このような山名氏の支配下で、但馬国内の各地域を実質的に治めていたのが、朝倉氏をはじめとする在地国人領主たちであった。彼らは山名氏の被官(家臣)としてその支配体制に組み込まれ、軍事行動や領国経営の一翼を担った 13 。中でも、同じく日下部一族の系譜を引く太田垣氏や八木氏は、垣屋氏、田結庄氏と共に「山名四天王」と称されるほどの重臣であり、但馬国内で大きな影響力を持っていた 13 。朝倉氏は、これら有力国人たちと連携、あるいは競合しながら、山名氏の被官としてその存続を図っていたのである。

この地域の戦略的重要性は、単に交通の要衝である点に留まらない。近隣には、日本有数の鉱物資源である生野銀山が存在した。生野銀山から産出される銀は、戦国大名にとって重要な財源であり、これを確保するための道、すなわち「生野街道(銀の馬車道)」は経済的な大動脈であった 20 。朝倉城は、この経済路にも影響を及ぼしうる位置にあり、その地理的価値を一層高めていた。山名氏がこの地を重視し、後年、織田信長が但馬平定を急いだ背景には、こうした交通・経済ネットワークの結節点としての価値があったことは想像に難くない。城の存在意義は、その防御力のみならず、広域的な地理的文脈の中で理解されるべきである。

第二章:但馬朝倉一族の興亡

第一節:日下部氏からの勃興

但馬朝倉氏の歴史は、古代にまでその源流を遡ることができる。各種系図によれば、朝倉氏は但馬国に古くから勢力を有した日下部(くさかべ)氏の一族であったとされる 3 。一族の伝承では、孝徳天皇の皇子である表米(ひょうまい)親王を始祖とするとも伝えられているが 2 、これは後世に権威付けのために作られた系譜である可能性が高い。史実としては、平安時代末期に、但馬国養父郡朝倉庄を本貫地(名字の地)とした日下部氏の一派が、その地名を苗字として「朝倉」を称したのが始まりと見るのが妥当であろう 6

その初代とされるのが朝倉高清である。伝承によれば、高清は源頼朝に仕え、武功を立てたとされる 5 。この時期の朝倉氏は、但馬における有力な武士団として、歴史の表舞台に登場したのである。

第二節:鎌倉御家人としての栄光と挫折

鎌倉時代に入ると、朝倉氏はその勢力を確固たるものにする。高清の子とされる朝倉信高は、本拠地である朝倉の地に朝倉城を築いたと伝えられる 6 。この頃、朝倉氏は、高清の長男・安高を祖とする隣接地の八木氏と共に、鎌倉幕府の御家人に列せられ、但馬国において大きな勢力を誇っていた 3 。幕府の直接の家臣となることで、彼らは但馬における支配の正統性を得たのである。

しかし、一族の運命を大きく揺るがす事件が起こる。承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた「承久の乱」である。この国家を二分する大乱において、当時の当主であった朝倉八郎信高は、上皇方(京方)として参陣した 31 。これは、西国に基盤を持つ多くの武士と同様の選択であったが、結果的に致命的な判断ミスとなった。

乱は幕府軍の圧勝に終わり、京方に与した信高をはじめとする朝倉一族は、その所領を没収され、急激に衰退することとなる 23 。これにより、朝倉庄の地頭職は幕府中枢の有力御家人である長井氏の手に渡り、朝倉氏は在地領主としての地位を失い、長井氏に従属する立場へと転落したと見られる 3 。鎌倉御家人としての栄光は、わずか一代で大きな挫折へと変わったのである。

第三節:山名氏被官としての存続

承久の乱による没落後、但馬朝倉氏は同族の八木氏から高実を養子に迎えることで家名を辛うじて存続させた 23 。歴史の表舞台から一時姿を消した朝倉氏が再びその名を見せるのは、室町時代に入ってからである。

南北朝の動乱を経て但馬国の守護職を確立した山名氏の支配下で、朝倉氏はその被官として仕えることになった 13 。彼らは引き続き朝倉城を居城とし、山名氏の指揮下で一国人領主として活動した。しかし、かつての勢威を取り戻すには至らなかった。同じ日下部一族から分かれ、山名四天王の一角を占めるまでに成長した八木氏が但馬で重きをなしたのとは対照的に、本家筋にあたる朝倉氏は、相対的に小規模な勢力に留まらざるを得なかったのである 13

この但馬本家の衰退は、結果として一族の歴史に皮肉な影響をもたらす。もし本家が承久の乱で勝利し、但馬に強固な地盤を維持していれば、分家が新天地を求めて他国へ移住する必要はなかったかもしれない。しかし、本家の没落という「負の遺産」があったからこそ、南北朝時代に分家の朝倉広景が但馬を離れ、越前国へと渡る道が開かれた。そして、強力な本家の制約を受けることなく、新天地で自由に活動できたことが、後の越前朝倉氏の飛躍的な発展の遠因となったと考えることができる。但馬での挫折が、越前での栄光の前提条件となったという逆説的な関係性が、二つの朝倉家の歴史には横たわっているのである。

第三章:戦国期の朝倉城 ― 構造と機能

第一節:縄張りの徹底解剖

戦国時代の朝倉城は、中世山城としての特徴を色濃く残す、実戦的な要塞であった。城の全体規模は、資料により多少の差異はあるものの、南北約180メートル、東西約95メートルから130メートル程度と推定されている 1

城郭の中心、すなわち主郭は、丘陵の最高所に設けられている。南北36メートル、東西42メートルの広さを持ち、その中央には一段高くなった櫓台(やぐらだい)が存在する 1 。これは物見櫓や指揮所としての機能を持っていたと考えられ、現在も残る2本の木がその象徴となっている 6 。主郭の周囲には、防御のための低い土塁(どるい)が巡らされているのが確認できる 1

主郭から北へ伸びる尾根筋には、8段にも及ぶとされる曲輪(くるわ)が階段状に配置されている 1 。これらの曲輪は、兵士の駐屯地や防御陣地として機能し、敵が主郭へ到達するのを段階的に阻む設計であった。

城の防御力を決定づけるのが、巧みに配置された堀である。特に防御の要となる南側の尾根筋は、三重の堀切(ほりきり)によって厳重に分断されている 1 。堀切は、尾根を人工的に断ち切ることで敵の進軍を妨げる防御施設であり、二重、三重に設けることでその効果を倍増させている。さらに、斜面には竪堀(たてぼり)が掘られ、斜面を横移動する敵兵の動きを封じ込める工夫もなされている 6 。これらの遺構は今日でも良好な状態で残存しており、当時の緊迫した戦いの様相を伝えている 2

城の構造は、時代と共に変化したと考えられる。基本的な縄張りは室町時代に形成され、戦国時代のより激しい戦闘に対応するため、堀切や竪堀といった防御施設が追加・強化されたと分析されている 2 。これは、鉄砲の普及など戦術が大きく変化した戦国末期に、城主であった朝倉大炊が守りを固めたという伝承とも一致する 36

第二節:防御拠点としての「朝倉三城」

朝倉城の防御思想を理解する上で重要なのが、単独の城としてではなく、周辺の城砦と一体となった防御ネットワークとして機能していた点である。朝倉城は、近隣に位置する「朝倉比丘尼城(あさくらびくにじょう)」と「朝倉向山城(あさくらむかいやまじょう)」と共に、「朝倉三城」と総称される防衛システムを形成していた 9

比丘尼城は朝倉城の南東の山に位置し、出城、あるいは一族の女性の居城であったと伝えられる 6 。向山城は集落の北東にあり、これら三つの城が互いに連携することで、麓の朝倉集落を多方面から防衛し、敵の侵攻に対して縦深性のある防御態勢を構築していたと推察される。これは、一つの拠点だけでなく、地域全体を面で守ろうとする国人領主の巧みな防衛戦略の表れである。

第三節:戦国期城郭としての比較考察

但馬朝倉城の構造的特徴は、同時代・同地域の他の城郭と比較することで、より鮮明になる。

  • 八木城との比較 : 同じく日下部氏族を祖とし、山名四天王に数えられた八木氏の居城・八木城は、山全体に曲輪を放射状に配置した大規模な山城である 38 。特に、豊臣政権下で改修された本丸周辺には高さ9メートルを超える高石垣が築かれ、中世から近世へと移行する過渡期の城郭の特徴を示している 35 。これに対し朝倉城は、最後まで土塁と堀切を主体とした「土の城」であり、規模も小さく、典型的な中世国人領主の城の範疇に留まっている。
  • 竹田城との比較 : 但馬を代表する山城である竹田城も、元は太田垣氏が守る土塁の城であったが、羽柴秀長の但馬平定後、赤松広秀によって総石垣の壮麗な近世城郭へと大改修された 39 。朝倉城がこうした大規模な石垣化を経験しなかったのは、但馬朝倉氏が織豊大名として存続することなく、その歴史的役割を終えたためである。
  • 他国の国人城郭との比較 : 安芸国の毛利氏が拠点とした吉田郡山城は、当初は小規模な砦であったが、毛利元就の代に勢力が拡大するにつれて山全体を要塞化する巨大城郭へと発展した 41 。また、土佐国の長宗我部氏が本拠とした岡豊城は、主郭を中心に複数の曲輪を連ね、土塁や堀切、竪堀を多用した連郭式の山城であり、その構造には朝倉城との共通点が多く見られる 43

これらの比較から、朝倉城は、国人領主が戦国大名へと飛躍する過程で見られるような大規模な拡張・改修を経ることなく、中世山城としての姿を最後まで保持した城であったことがわかる。そして、まさにその点にこそ、この城の価値がある。石垣を用いた近世城郭へと移行する直前の、「土の城」の防御思想が到達した最終形態の一つが、ここに純粋な形で保存されているのである。朝倉城の縄張りは、鎌倉・室町期から戦国末期に至る中世山城の進化の歴史を凝縮した、貴重な「標本」と言えよう。

第四章:織田信長の但馬侵攻と朝倉城の終焉

第一節:天正五年の激動

天正5年(1577年)、天下統一を目前にした織田信長は、西国の雄・毛利氏を討つべく、腹心の将である羽柴秀吉を総大将とする中国方面軍を派遣した 45 。秀吉軍はまず播磨国(兵庫県南西部)を平定し、次いで但馬国へとその矛先を向けた。但馬への侵攻作戦は、秀吉の弟・羽柴秀長が実質的な指揮を執ったとされている 8

当時、但馬国は守護・山名祐豊の支配下にあったが、織田軍の圧倒的な軍事力の前に抵抗は困難であった。山名氏の本拠である此隅山城(このすみやまじょう)は落城し、祐豊は堺へと逃亡 14 。但馬国内の国人領主たちの多くは、戦わずして次々と織田方に降伏していった 47 。但馬国は、織田信長の天下統一事業という巨大な渦の中に、否応なく飲み込まれていったのである。

第二節:城主・朝倉大炊の決断

この歴史の転換点において、朝倉城の城主を務めていたのは「朝倉大炊(あさくら おおい)」という人物であった 8 。彼の詳細な系譜やそれ以前の事績については史料が乏しく不明な点が多いが、戦国時代末期における但馬朝倉氏の当主であったことは間違いない。

天正5年(1577年)10月、羽柴秀長率いる織田軍が但馬に侵攻すると、朝倉大炊は重大な決断を迫られた。彼は、同族であり山名四天王の一人であった八木城主・八木豊信と歩調を合わせ、織田軍に対して徹底抗戦の道を選ばず、降伏し城を明け渡した 8

この「無血開城」という決断は、単に臆病さや戦力不足から来たものと見るべきではない。そこには、小規模な国人領主としての冷静な状況分析があったと考えられる。わずか4年前の天正元年(1573年)、強大な戦国大名であった越前朝倉氏は、信長によって無残にも滅亡させられていた 1 。その事実を、同じ「朝倉」の名を持つ大炊が知らなかったはずはない。但馬守護の山名氏が敗れ、周辺の有力国人である八木氏すら降伏する中、孤立して籠城しても援軍の当てもなく、一族と領民を無益な死に追いやるだけであった。朝倉大炊の降伏は、武士としての名誉よりも、共同体の存続を最優先した、国人領主としての現実的かつ合理的な政治判断であったと言えるだろう。

第三節:落城後の城

降伏後、朝倉城は羽柴秀長によって接収され、その家臣である青木勘兵衛が新たな城主として入城した 8 。これにより、鎌倉時代から数百年にわたって続いた朝倉氏による朝倉城の支配は、完全に終焉を迎えた。

青木勘兵衛が入城した後の朝倉城がどのような役割を果たしたか、そしていつ頃廃城となったかについての明確な記録は残されていない。しかし、但馬国が豊臣政権の支配体制に組み込まれ、より近世的な支配拠点が整備される中で、中世的な山城であった朝倉城はその軍事的・政治的な役割を終え、やがて歴史の舞台から静かに姿を消していったものと考えられる。城主の座を追われた朝倉大炊のその後の消息もまた、歴史の闇の中である 8

第五章:二つの朝倉 ― 但馬と越前

第一節:越前朝倉氏の発展

但馬朝倉氏の歴史と対照的な軌跡を辿ったのが、分家である越前朝倉氏である。その歴史は、南北朝時代の延元2年(1337年)、朝倉広景が但馬国を離れ、越前国に入国したことに始まる 1 。当初は越前守護であった斯波氏の被官という立場であったが、代々戦功を重ねて着実に勢力を拡大していった。

決定的な転機となったのは、室町時代中期に起こった応仁の乱である。7代当主・朝倉孝景(英林孝景)は、主家である斯波氏の内紛と全国的な争乱の機会を巧みに利用し、越前一国を実力で平定。守護の地位を確立し、名実ともに戦国大名へと飛躍を遂げた 3

以後、越前朝倉氏は孝景から5代、100年以上にわたって越前国を支配した。本拠地として選ばれた一乗谷には、壮大な城下町が築かれ、多くの公家や文化人を招き、戦乱の京を避けた文化が花開いた。その繁栄は「北ノ京」とも称されるほどであった 1 。しかし、その栄華も長くは続かず、天正元年(1573年)、11代当主・朝倉義景の代に織田信長との「刀根坂の戦い」に大敗し、滅亡の時を迎えた 1

第二節:本家と分家の城郭比較

但馬と越前、二つの朝倉氏の歴史的性格の違いは、それぞれの本拠地とした城郭の構造に最も顕著に表れている。

項目

但馬国 朝倉城

越前国 一乗谷城

分類

山城

山城・大規模城下町複合遺跡

立地

独立丘陵

谷間全体を防衛線とした要害

規模

南北約180m × 東西約95m

谷の長さ約1.7km、城下町面積約278ha

中心施設

櫓台を持つ主郭

朝倉館(当主居館)、詰の山城

防御施設

土塁、堀切、竪堀

畝状竪堀群、城戸(枡形虎口)、土塁、堀

城下町

麓の小規模集落

計画的に配置された武家屋敷、町屋、寺社(人口1万人超)

城主の性格

在地国人領主

守護大名・戦国大名

この比較表が示すように、但馬朝倉城が在地領主の防御拠点という性格に終始したのに対し、越前一乗谷城は一国を支配する戦国大名の政治・経済・文化の中心地として、比較にならないほどの規模と複合的な機能を有していた。この差は、そのまま但馬の本家と越前の分家が辿った歴史的軌跡の差を物語っている。

第三節:故郷への認識

越前の地で大名となった朝倉氏が、自らのルーツである但馬の地をどのように認識していたか。残念ながら、これを示す直接的な史料は乏しい。戦国大名として、自らの家系の由緒、すなわち但馬の名族・日下部氏に連なるという事実は、その権威を支える上で重要視されたであろうことは想像に難くない 23

しかし、戦国大名としての地位を確立した7代当主・孝景が子孫のために遺したとされる分国法「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」には、家臣団の統制、実力主義の採用、合理的な軍事思想などが説かれているものの、但馬との関係に直接言及した条文は見当たらない 3 。これは、彼らの関心が、もはや過去の出自よりも、目の前にある越前国をいかに統治するかという、極めて現実的な課題に集中していたことを示唆している。彼らにとって但馬は、遠い記憶の中の故郷となっていたのかもしれない。

第六章:朝倉の地に残る文化的遺産

第一節:朝倉山椒の歴史

但馬朝倉氏の武家としての歴史は戦国時代の終焉と共に幕を閉じたが、その名は意外な形で現代にまで受け継がれている。日本を代表する最高級の香辛料として知られる「朝倉山椒」は、この但馬国朝倉の地が発祥である 2

朝倉山椒は、一般的な山椒と異なり枝に棘がなく、大粒で爽やかな柑橘系の香りが強いのが特徴である 56 。その歴史は古く、戦国時代末期から江戸時代初期の記録にその名が登場する。天正14年(1586年)には豊臣秀吉が茶会で白湯に焦がした山椒を浮かべてその風味を賞賛し、慶長16年(1611年)には但馬生野奉行であった間宮直元が徳川家康に献上したという記録が残っている 7

江戸時代を通じて、朝倉山椒は出石藩や篠山藩から幕府へ献上される高級贈答品として珍重された 59 。これは、朝倉の地名が、武士団の名としてではなく、最高品質の山椒のブランドとして確立していたことを示している。城は廃墟と化し、武士団は歴史の彼方へ消えたが、その土地の風土に根差した特産品は、支配者が変わっても存続し、その名を後世に伝え続けた。但馬朝倉氏が遺した最も永続的な遺産は、城郭や武功ではなく、この一粒の山椒であったのかもしれない。

第二節:宝篋印塔と地域の信仰

朝倉城跡の登城口には、今もなお一体の石塔が静かに時を刻んでいる。これは室町時代、15世紀頃の造立と推定される「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」である 2 。高さ2.3メートルに及ぶこの石塔は、養父市の指定文化財にもなっており、塔身には金剛界四仏を示す梵字が刻まれるなど、優れた意匠を持つ 4

この宝篋印塔の存在は、山名氏の被官として活動していた室町時代の但馬朝倉氏が、単なる武辺一辺倒の集団ではなく、仏教を篤く信仰し、こうした立派な石塔を建立できるだけの財力と文化的基盤を有していたことを示している。城が純粋な軍事拠点であるだけでなく、地域の信仰や文化の中心としての役割も担っていた可能性を示唆する貴重な遺物である。

終章:総括 ― 但馬朝倉城が語るもの

本報告書を通じて明らかになったように、但馬国朝倉城は、戦国史に燦然と輝く越前朝倉氏の「源流」であると同時に、それ自体が中世日本の地方武士団の歴史を凝縮した貴重な史跡である。

その歴史は、鎌倉御家人としての勃興に始まり、承久の乱での挫折、守護大名・山名氏の被官としての存続、そして織田信長の天下統一事業への編入と、一国人領主が辿った典型的な軌跡を如実に示している。その意味で、この城は中世武士社会の変遷を学ぶ上での一つの「標本」としての価値を持つ。

城郭遺構に目を向ければ、大規模な石垣化という近世城郭への変貌を遂げることなく廃城となったため、土塁や堀切を駆使した「土の城」の防御思想が、その最終的な進化形態に近い形で保存されている。これは、日本の城郭史研究において極めて重要な意味を持つ。

今後の研究課題としては、依然として謎の多い但馬朝倉氏の具体的な系譜、特に戦国末期の城主・朝倉大炊に至るまでの詳細な動向の解明が挙げられる。また、本格的な発掘調査が実施されれば、城郭のより詳細な構造や、当時の武士たちの生活様式について、新たな知見が得られる可能性もあろう。

但馬朝倉城は、決して華やかな歴史を持つ城ではない。しかし、その静かな丘の上には、時代の荒波に耐え、数百年を生き抜いた武士たちの確かな足跡が刻まれている。この忘れられた源流の城の歴史的価値を正しく認識し、地域の貴重な遺産として後世に伝えていくことの意義は、極めて大きいと言えよう。

付録:但馬朝倉城関連年表

西暦(和暦)

出来事(但馬朝倉氏・朝倉城関連)

出来事(越前朝倉氏・中央政権・その他関連)

平安時代末期

朝倉高清、但馬国朝倉庄にて朝倉氏を称す。

鎌倉時代

朝倉信高、朝倉城を築城したと伝わる。

1221年(承久3年)

朝倉信高、承久の乱で後鳥羽上皇方に与し敗北。所領を失い、一族は衰退する。

承久の乱。鎌倉幕府が朝廷に勝利し、西国への影響力を強める。

1337年(延元2年)

朝倉広景が但馬国から越前国へ入国。越前朝倉氏の祖となる。

室町時代

但馬朝倉氏、但馬守護・山名氏の被官となる。

山名氏が但馬守護職を世襲し、勢力を拡大する。

1471年(文明3年)

応仁の乱の中、朝倉孝景(英林孝景)が越前国を平定。戦国大名化の基礎を築く。

1573年(天正元年)

織田信長が越前国に侵攻。一乗谷城は陥落し、戦国大名・越前朝倉氏は滅亡する。

1577年(天正5年)

羽柴秀長の但馬侵攻。城主・朝倉大炊は八木豊信と共に降伏し、朝倉城は開城。青木勘兵衛が入城し、朝倉氏による支配が終わる。

織田信長、羽柴秀吉に中国攻めを命じる。

1586年(天正14年)

豊臣秀吉が茶会で朝倉山椒を賞賛したと伝わる。

1611年(慶長16年)

但馬生野奉行・間宮直元が、徳川家康に朝倉山椒を献上する。

引用文献

  1. まちの文化財(4) 朝倉氏と朝倉城 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/1914.html
  2. 但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2012/03/blog-post_6.html
  3. 朝倉氏の歴史 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
  4. 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! - 朝倉城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/829
  5. 守護大名 越前朝倉氏 - 但馬検定公式サイト https://the-tajima.com/spot/276/
  6. 朝倉城(兵庫県養父市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6025
  7. 但馬 朝倉城 越前朝倉氏発祥の地を訪ねて - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-579.html
  8. 朝倉城の見所と写真・100人城主の評価(兵庫県養父市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1539/
  9. 越前朝倉市発祥の里を歩く。<養父市八鹿町朝倉>(Vol.126/2025年2月発行) https://the-tajima.com/urarojitanken/126asakura/
  10. 古代の但馬 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 https://the-tajima.com/spot/01kodai/
  11. 古代「山陰道」の駅家(うまや)を辿る - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館 https://kdskenkyu.saloon.jp/tale57san.htm
  12. 但馬国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E5%9B%BD
  13. 武家家伝_朝倉氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asakra_k.html
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  22. 名所めぐり:生野銀山跡 | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/trip/road_tajima/ikunoginzan/
  23. 朝倉氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F
  24. 『日下部系図』の諸本について - 成城大学 https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/publications/academic-journals/jtmo420000000d0j-att/minkenkiyo_043_045.pdf
  25. 日下部氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E6%B0%8F
  26. 朝倉城跡 - やぶ市観光協会 https://www.yabu-kankou.jp/sightseeing/asakurajouseki
  27. 朝倉城 (但馬国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%9F%8E_(%E4%BD%86%E9%A6%AC%E5%9B%BD)
  28. 朝倉氏 http://kunioyagi.sakura.ne.jp/kazoku/yagi-ke/asakurasi.pdf
  29. 越前朝倉氏の祖:但馬朝倉城・比丘尼城 https://tanbakiri.web.fc2.com/TAJIMAasakura-siro.htm
  30. 朝倉城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2003
  31. 朝倉氏略年表 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/files/uploads/history_timeline_1.pdf
  32. 承久記|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=883
  33. 「仏事」の名目で院御所に西面の武士1700騎が集まる - 歴史人 https://www.rekishijin.com/24037
  34. 但馬国人八木豊信の教養と島津家久/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/299693.htm
  35. まちの文化財(22) 八木城跡 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/1930.html
  36. 但馬朝倉城 : 越前朝倉氏 発祥の地は360°の眺望が楽しめる”村の城”。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2015/08/28/tajima-asakura/
  37. 但馬 朝倉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tajima/asakura-jyo/
  38. 但馬・八木城跡 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/4/yagi/2534.html
  39. 竹田城の歴史 - 竹田城跡公式ホームページ - 朝来市 https://www.city.asago.hyogo.jp/site/takeda/3092.html
  40. 竹田城 - KemaAkeの全国城めぐり https://kemaake.com/c_kinki/c_takeda.html
  41. 吉田郡山城(広島県安芸高田市)の歴史、観光情報 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/yoshidakoriyama-castle/
  42. 郡山城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/koriyama-castle/
  43. 名所案内 岡豊城 http://mrmax.sakura.ne.jp/meisyo/kochi_09.html
  44. 岡豊城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E8%B1%8A%E5%9F%8E
  45. 英賀合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%B3%80%E5%90%88%E6%88%A6
  46. 【合戦解説】備中高松城の戦い 織田 vs 毛利 〜中国地方の統治を進める羽柴秀吉は因幡の鳥取城を落とし日本海側を抑えると 次は備中征圧へと駒を進める〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=fsEK0-V4QAw
  47. 秀吉の但馬・因幡進攻と垣屋氏/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/847110.htm
  48. まちの文化財(234)越前国を治めた一乗谷朝倉氏 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/12287.html
  49. 朝倉(千葉県)の観光施設・名所巡りランキングTOP1 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/tow_124090001/g1_13/
  50. 朝倉孝景 (7代当主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_(7%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
  51. 朝倉孝景(敏景)・朝倉義景 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=30
  52. 一乗谷城の歴史 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/hokuriku/ichijyoudani/history.html
  53. 目 次 第Ⅰ部 但馬から越前へ 第一章 但馬時代の朝倉氏と八木氏 第二章 朝倉氏の越前入国 第三 https://www.ebisukosyo.co.jp/docs/pdf/%E8%A9%A6%E3%81%97%E8%AA%AD%E3%81%BF/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF.pdf
  54. 朝倉孝景条々 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF%E6%9D%A1%E3%80%85
  55. 朝倉城跡を10分程で登城できたのには訳がある(養父市八鹿町朝倉) - 但馬情報特急 https://www.tajima.or.jp/furusato/letter/178514/
  56. 朝倉山椒 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 https://the-tajima.com/spot/2024-09/
  57. 朝倉山椒 - やぶ市観光協会 https://www.yabu-kankou.jp/sansyo
  58. 朝倉さんしょ http://asakura-sansyo.com/
  59. まちの文化財(86) 徳川家康と朝倉山椒 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/1993.html
  60. ヴェルデピアットおすすめ 朝倉山椒とは https://www.verdepiatto.com/asakura_sansyo/
  61. 「朝倉山椒」に込められた地域の想い - SHUN GATE https://shun-gate.com/roots/roots_32/
  62. 朝倉山椒 - おのやま庭園 https://www.onoyama-fuka.com/asakura_sansyo/