最終更新日 2025-08-23

朝倉城(土佐国)

土佐国における本山氏の拠点「朝倉城」に関する総合的研究

序論

本報告書は、土佐国(現・高知県)に存在した朝倉城を、単なる一地方の城郭としてではなく、戦国期土佐の勢力図を塗り替える上で決定的な役割を果たした戦略拠点として位置づけ、その実像を多角的に解明することを目的とする。特に、築城主である本山氏の興隆と衰退、そして長宗我部氏の台頭という歴史の力学が、この城の構造、攻防、そして運命にいかに刻印されているかを、文献史学と考古学の両面から徹底的に分析する。

朝倉城は、土佐国の覇権を巡る本山氏と長宗我部氏の最終決戦の舞台であり、その落城は土佐中央部の支配権の移行を決定づけた歴史的に極めて重要な城である。また、その規模と構造は高知県下の中世城郭の中でも最大級と評され、戦国期土佐の築城技術と軍事思想を理解する上で一級の史料価値を有している 1

本報告書は、第一章で築城の歴史的背景、第二章で城郭の物理的構造、第三章で具体的な攻防の歴史、第四章で廃城後の変遷と考古学的再評価という四部構成をとり、朝倉城の全体像を立体的に描き出すことを試みる。

第一章:朝倉城の築城と歴史的背景

第一節:群雄割拠の土佐国 ― 土佐七雄の勢力図と本山氏

戦国期の土佐国は、四方を険しい四国山脈に囲まれ、他国からのアクセスが困難な地理的条件にあった 2 。この「陸の孤島」ともいえる環境は、中央の政治権力の影響力を削ぎ、在地豪族が独自の勢力を扶植し割拠する状況を生み出す土壌となった。

この時代、土佐国には「土佐七雄」と呼ばれる七つの有力な国人領主が存在した。すなわち、本山氏、長宗我部氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、吉良氏、そして大平氏である 4 。彼らはそれぞれが領地を巡って相争っていたが、その上位には別格の存在として公家大名の一条氏が君臨していた。応仁の乱の戦火を逃れて自らの荘園があった土佐国幡多郡に下向した一条氏は、中村を拠点として広大な所領を有し、国司として七雄の盟主的な地位を確立していた 4 。一条氏は単なる一勢力ではなく、婚姻政策などを通じて七雄間のバランスを保つ、土佐全体の秩序の調整役でもあった 5

この七雄の中で、当初の長宗我部氏は長岡郡の岡豊城を拠点としていたものの、その勢力は最も弱小な部類に属していた 4 。それとは対照的に、同じ長岡郡の北部山間地帯を本拠としていた本山氏は、一条氏を除けば七雄の中で最大の勢力を誇る存在であった 4 。経済的に豊かな高知平野への進出を虎視眈々と狙う本山氏の動向は、土佐国の勢力図を大きく揺るがす可能性を秘めていた。

第二節:本山茂宗の平野部進出戦略と朝倉城の建設

本山氏の最盛期を築いた当主、本山茂宗(別名:梅渓、清茂)は、一族の将来を見据え、極めて大胆な戦略的決断を下す。それは、伝統的な本拠地であった山間部の本山城から、高知平野を一望できる朝倉の地へ拠点を移すことであった 8 。この決断は、単なる勢力拡大に留まらず、在地領主としての枠組みを超えて領国全体を経営する「戦国大名」へと脱皮しようとする強い意志の表れであった。この戦略的拠点の構築こそが、同じく平野部での勢力拡大を目指す長宗我部氏との全面衝突を不可避なものとし、事実上の「土佐統一戦争」の火蓋を切る直接的な原因となった。朝倉城は、その誕生の瞬間から、土佐の覇権を巡る最終戦争の舞台となる運命を背負っていたのである。

朝倉城の正確な築城年代については、大永年間(1521~1527年)とする説と、天文元年(1532年)頃とする説があり、未だ確定には至っていない 8 。しかし、その目的は極めて明確であった。すなわち、高知平野中央部への進出と支配を確立するための恒久的な軍事・政治拠点とすることである 1 。記録によれば、茂宗は天文9年(1540年)に正式に居城をこの朝倉城へ移している 2

茂宗は朝倉城を新たな拠点として、その勢力を飛躍的に拡大させた。まず、南方に勢力を持っていた土佐七雄の一角、吉良氏を攻め滅ぼし、その領地を併合した 2 。さらに、高知市の沿岸部である長浜、浦戸にまで進出し、浦戸湾を扼する城を築いて重要な交易拠点を掌握するに至った 2 。これにより、本山氏は土佐中央部一帯を支配下に置く名実ともに最大の勢力としての地位を確立したのである。

第三節:城主たちの肖像 ― 本山茂宗と本山茂辰

朝倉城の歴史を語る上で、城主であった本山茂宗と本山茂辰の二人の人物像を理解することは不可欠である。

**本山茂宗(梅渓)**は、武勇に優れた英主として知られ、敵対する諸豪族を次々と撃破し、本山氏の最大版図を築き上げた 10 。彼は、後に土佐を統一する長宗我部元親の祖父である長宗我部兼序を滅ぼした戦いにも加わっており、長宗我部氏とは深い因縁を持つ人物であった 4 。彼の強力な指導力と戦略眼が、朝倉城という巨大な拠点の建設を可能にした。

その子である 本山茂辰 は、弘治元年(1555年)頃に父の死を受けて家督を相続し、朝倉城主となった 16 。彼の正室は、長宗我部国親(元親の父)の娘であり、元親にとっては義兄にあたる 4 。この婚姻は、土佐の平和を望む一条房家の仲介によるものとも 5 、あるいは両家の政治的思惑が一致した結果とも言われるが 18 、当初は両家の間に同盟関係が存在したことを示している。しかし、長宗我部氏が急速に勢力を拡大するにつれて、この姻戚関係は逆に両家の対立をより深刻なものとし、茂辰は義父、そして義弟と国の覇権を賭けて干戈を交えるという宿命を背負うことになった。

以下の表は、朝倉城を巡る攻防が本格化する永禄年間初期における、土佐国の主要な勢力図をまとめたものである。本山氏が朝倉城を拠点として最大勢力であったこと、そして長宗我部氏がそれに挑戦するという構図が明確に見て取れる。

氏族名

主要人物

本拠地

推定貫高

備考

一条氏

一条兼定

中村城

15,000貫

公家大名、土佐の盟主的存在

本山氏

本山茂辰

朝倉城

5,000貫

土佐七雄中の最大勢力

安芸氏

安芸国虎

安芸城

5,000貫

土佐東部の雄

津野氏

津野親忠

-

5,000貫

-

吉良氏

(本山氏により滅亡)

吉良峰城

(5,000貫)

吾川郡の旧支配者

香宗我部氏

香宗我部親泰

-

4,000貫

長宗我部国親の子が養子入り

大平氏

大平元国

-

4,000貫

-

長宗我部氏

長宗我部元親

岡豊城

3,000貫

当初は最弱小勢力の一つ

(出典: 5 を基に再構成)

第二章:城郭の構造分析 ― 高知県下最大級の要害

第一節:地理的立地と城域の全体像

朝倉城は、現在の高知市西部、高知大学朝倉キャンパスに西隣する標高約103メートルの丘陵、通称「城山」に築かれた 2 。この地は、高知平野を流れる鏡川と、西方の仁淀川流域を結ぶ交通の結節点に位置し、平野全体を戦略的に扼することが可能な軍事・地理上の要衝であった 13

標高こそ100メートル程度であり、城郭の分類としては平山城にあたるが、その規模は特筆に値する 2 。城域面積は約13ヘクタールに及び、これは高知県下の中世城郭としては最大級の規模を誇るものである 1 。この壮大なスケールは、築城主である本山氏の当時の勢力の大きさと、この城を高知平野支配の恒久的な拠点としようとした強い意志を物理的に示している。その歴史的・文化的価値が認められ、昭和28年(1953年)1月29日には高知県の指定史跡となっている 3

第二節:縄張りの詳細 ― 詰ノ段を中心に展開する曲輪群の構成

朝倉城の縄張り(城郭の設計・配置)は、極めて計画的かつ堅固な構造を持っている。城の中核を成すのは、山頂部に設けられた「詰ノ段(つめのだん)」と呼ばれる主郭である 3 。この詰ノ段は、広さ約20アール(2000平方メートル)の広大な平坦面を持ち、高さ約3メートルの切り立った急斜面によって周囲から区画されている 19 。その西側には、大規模な堀切を挟んで「詰西ノ段」と呼ばれるもう一つの中核的な曲輪が配置されており、この二つの曲輪が城の中枢部を形成している 3

この中核部の周囲には、二ノ段、三ノ段、帯曲輪といった複数の副次的な曲輪が、標高差を利用して階層的に配置されている 3 。これは、敵の侵攻に対して多段階の防御線を構築する、典型的な中世山城の構造を示している。

さらに、城の防御範囲はこれに留まらない。詰西ノ段から西へ伸びる尾根上には、「茶臼ヶ森」と呼ばれる独立した出城形式の郭群が存在する 3 。この区域は、複数の空堀、竪堀、そして堀切によって厳重に防御されており、西側からの攻撃に対する長大な多重防御ラインを形成していたと考えられる。

籠城戦において最も重要な生命線である水の確保についても、周到な準備がなされていた。詰ノ段と詰西ノ段を隔てる大堀切の北側には、石積で補強された井戸の遺構が現存する 3 。地元の伝承によれば、この井戸は渇水期であっても水が枯れることはなかったといい、長期間の籠城を可能にするための重要な施設であった 2 。ただし、現存する井戸周辺の石積みは、過去の地震による崩壊の後、後世(昭和期)に修復されたものであるとの指摘もなされている 11

第三節:徹底した防御思想 ― 竪堀・横堀・堀切の重層的配置

朝倉城の構造を分析する上で最も注目すべきは、城の斜面、特に主郭部を取り巻く北、南、東の山腹に、網の目のように穿たれた巨大な竪堀と横堀の防御ネットワークである 2

横堀(斜面に対して水平に掘られた堀)は、場所によっては二重、三重に巡らされており、詰ノ段をほぼ円周状に取り囲むように配置されている 2 。この設計は、斜面を登ってくる敵兵の自由な移動を徹底的に阻害し、城内の防御側が常に有利な位置から攻撃を加えられるようにするための、計算され尽くした防御思想の現れである。

竪堀(斜面に対して垂直に掘られた堀)は、この横堀と有機的に連携する形で配置されている。多くの場合、横堀の起点や終点に竪堀が接続されており、横堀を突破しようとする敵兵の側面を突いたり、その移動ルートをさらに限定したりする効果があったと考えられる 11 。現在、一部の巨大な竪堀は、その深さと規模から登山道として利用されているほどである 11

さらに、詰ノ段と茶臼ヶ森の間のような主要な尾根筋は、巨大な堀切によって完全に遮断されている 8 。これにより、各曲輪群の独立性が高められ、仮に一つの郭が敵の手に落ちたとしても、それが直ちに城の中枢部への脅威とならないよう工夫されている。これらの分断された郭群の連絡は、意図的に細く作られた土橋のみに限定されており、防御側が容易に封鎖できる構造となっていた 8

こうした縄張りは、単に敵の侵入を防ぐだけでなく、敵の攻撃を遅滞させ、兵力を分散させ、防御側が選択的に反撃できる空間を創出する、極めて高度な戦術思想に基づいている。西方の尾根筋に拡張可能な構造は、将来的な機能強化も見据えたものであり、本山氏がこの地を単なる一時的な拠点ではなく、恒久的な本拠地として整備しようとした強い意志の表れと解釈できる。その規模と技巧は、後の長宗我部氏の本拠である岡豊城をも凌ぐとされ 13 、当時の土佐における最先端の築城技術の結晶であった。

第四節:『長宗我部地検帳』の記述と曲輪配置の比定

朝倉城が本山氏によって放棄されてから約30年後の天正15年(1587年)以降、土佐を統一した長宗我部氏によって大規模な検地が実施された。その記録である『長宗我部地検帳』には、朝倉城跡一帯が「城ノ内」として検地された際の詳細な地名(小字)が記録されている 19 。近年の高知大学などによる研究では、この文献史料に記された地名を、現存する城郭の遺構(縄張り)と照合し、当時の曲輪の呼称や利用実態を復元する重要な試みがなされている 25

この比定作業は、単に地名を確認するだけでなく、検地がどのような順路で行われたかを推定し、当時の人々が城内をどのように認識し、利用していたかを明らかにする上で極めて重要である。特に「マリノ庭」のような非軍事的な名称の存在は、城が単なる戦闘施設ではなく、領主の生活や儀礼の場でもあったことを示唆し、城郭に対する多面的な理解を促す。以下の表は、その主な比定結果をまとめたものである。

『地検帳』記載地名

推定される現在の遺構

面積(代)

解釈・考察

1 大門ノ下二ノ塀

詰ノ段と詰西ノ段の間の堀切(井戸ノ段)

-

城の主要な入口(大門)の下に位置する区画か。

4 西ノモリ

詰西ノ段

四十七代

詰ノ段と対をなす西の中核曲輪。

8 詰

詰ノ段(主郭)

四十二代

城の中枢部。八幡宮が祀られている。

9 二ノタン

二ノ段

-

詰ノ段の南東下に位置する主要曲輪。

10 マリノ庭

三ノ段西端の高まり

十八代四分

儀礼や遊戯のための空間であった可能性。

11 三ノ旦

三ノ段

-

二ノ段の下に広がる曲輪。

(出典: 25 を基に再構成)

第三章:土佐の覇権を巡る攻防 ― 朝倉城の戦い

第一節:前哨戦 ― 長浜の戦いと力関係の逆転

本山氏と長宗我部氏の対立は、永禄3年(1560年)に決定的な局面を迎える。本山勢が浦戸湾で長宗我部氏の兵糧輸送船を拿捕した事件を契機に、両者は全面的な抗争状態に突入した 26

同年5月、長浜城を巡る戦い(戸ノ本の戦い)が勃発する。この戦いは、当時、色白で物静かな風貌から「姫若子」と揶揄されていた長宗我部元親の初陣として、土佐の戦国史に深く刻まれている 27 。周囲の予想を裏切り、元親は自ら槍を振るって敵陣に突撃するという驚くべき勇猛さを見せ、兵力で優位にあった本山軍を打ち破った。この鮮烈なデビューにより、元親の評価は一変し、「鬼若子」と畏怖されるようになった 27

この長浜での敗戦は、本山氏にとって致命的な打撃となった。城主の本山茂辰は、長浜城のみならず浦戸城といった沿岸部の重要な拠点を一挙に失い、内陸の朝倉城への撤退を余儀なくされた 17 。この戦いを境に、土佐中央部における両者の力関係は劇的に逆転した。戦いの直後、父である長宗我部国親は病に倒れ急死するが、死の床で元親に「本山氏を駆逐することが一番の供養になると心得よ」との遺言を残したと伝えられている 30

第二節:永禄五年の攻防 ― 長宗我部元親の猛攻と本山茂辰の防戦

父の遺志を継いだ元親は、本山氏への圧力を一層強めていく。朝倉城周辺の支城を次々と攻略し、本山氏の勢力圏を着実に蚕食していった 13 。そして永禄5年(1562年)9月、元親はついに約3000の兵を率いて、孤立しつつあった本山氏の本拠・朝倉城への総攻撃を開始した 12

『土佐物語』などによれば、戦いは9月16日から3日間にわたって繰り広げられたという 13 。この戦いでは、城主・本山茂辰と、その子であり元親の甥にあたる本山貞茂(後の親茂)が中心となって奮戦し、朝倉城の堅固な防御力を存分に発揮した。その結果、長宗我部軍の猛攻を凌ぎきり、一度は元親を撃退することに成功したのである 28 。この戦いは、朝倉城が単なる規模の大きな城ではなく、実戦において極めて高い防御能力を持つ難攻不落の要塞であったことを証明した。

第三節:落城の真相 ― 軍事的敗北か、戦略的撤退か

永禄5年の力攻めが失敗に終わったことで、朝倉城の軍事的価値の高さは証明された。しかし、そのわずか数ヶ月後、本山茂辰は自ら城を放棄するという決断を下す。この事実は、城の運命が純粋な軍事力だけで決したわけではないことを示唆している。元親は、正面からの攻撃と並行して、より効果的な別の戦略を展開していた。

元親は、朝倉城を力で攻め落とすことの困難さを悟ると、軍事行動と並行して、本山氏傘下の国人領主や家臣団に対する調略、すなわち切り崩し工作を徹底して行った 13 。この情報戦・心理戦が、戦いの趨勢を決定づけた。元親の巧みな調略により、本山氏の将来に見切りをつけ、長宗我部方へと寝返る者が相次いだのである 10

味方の離反が続出した結果、朝倉城は完全に孤立無援となり、兵站の維持も困難な状況に追い込まれた。この状況に至り、本山茂辰は城の維持は不可能と判断。永禄6年(1563年)1月、城に自ら火を放ち、一族の故地である嶺北の本拠・本山城へと撤退した 13 。これにより、本山氏の土佐平野部における拠点としての朝倉城の歴史は、わずか30年余りで幕を閉じた。

この一連の経緯は、長宗我部元親の戦上手ぶりが、単なる戦場での采配に留まらないことを示している。彼は、半農半兵の兵士制度である「一領具足」によって動員された強力な軍事力 33 、周辺豪族を切り崩す巧みな調略 30 、そして土佐の盟主である一条氏との連携 28 といった、軍事、外交、諜報を組み合わせた「総合戦」を展開した。本山茂辰の撤退は、物理的な城壁が破られる前に、政治的・戦略的な「包囲網」が完成したことによる、いわば戦略的敗北であった。これは、戦国時代の合戦が、単なる戦闘行為ではなく、情報戦、外交戦、心理戦を含む複合的な事象であったことを示す典型例と言える。

本山氏は本山城に撤退した後も抗戦を続けたが、長宗我部氏の攻勢の前に勢威を回復することはできなかった。茂辰は永禄7年(1564年)頃に病死したとも伝えられ、その子・親茂も抗戦の末、永禄11年(1568年)に降伏。これにより、独立勢力としての本山氏は完全に滅亡した 16

第四章:廃城後の歴史と考古学的再評価

第一節:『長宗我部地検帳』に見る廃城後の土地利用

一般的に、朝倉城は永禄6年(1563年)に本山茂辰が自焼して退去したことにより「廃城」となったと理解されている 22 。しかし、その約30年後に作成された『長宗我部地検帳』の記述は、この「廃城」という言葉の解釈に再考を迫る重要な情報を提供している 13

検地帳には、朝倉城の城域であった「城ノ内」の各曲輪に、長宗我部氏の家臣たちの屋敷が営まれていたことが明確に記録されている 19 。これは、本山氏の撤退後、朝倉城が完全に放棄され荒廃したのではなく、長宗我部氏によってその機能を変えて利用され続けていた可能性を強く示唆するものである。すなわち、本山氏の軍事拠点としての役割を終えた後、長宗我部氏の支配下で、家臣団の居住地という政治的・行政的な施設へと転用されたと考えられる 13 。その後、山内氏が土佐に入国した慶長年間頃には、これらの屋敷も廃れ、城域の多くが荒地または耕地となっていったと推測される 13

第二節:発掘調査が明らかにした事実 ― 遺構と遺物からの考察

朝倉城の歴史をさらに深く解明するため、2015年以降、高知大学人文社会科学部と高知市史編さん委員会考古部会が共同で、継続的な学術発掘調査を実施している 19 。これまでの調査は、城の中枢部である詰ノ段を中心に、試掘坑を設定して遺構の残存状況を確認する段階にあり、その全貌解明には至っていない 36

しかし、これらの調査と並行して進められている研究の中で、注目すべき仮説が提示されている。高知大学の宮里修氏による論文「朝倉城跡の曲輪配置について」では、城郭研究者である村田修三氏の見解を引用し、現存する長大な横堀群は本山氏時代のものではなく、その後の長宗我部氏時代に構築、すなわち大規模な改修が加えられた可能性を指摘している 25

この仮説が今後の発掘調査によって考古学的に裏付けられれば、朝倉城の歴史的評価は大きく変わることになる。それは、長宗我部氏が土佐統一後、単に城を再利用しただけでなく、西方の防御拠点としてその機能を大幅に強化し、自らの城郭ネットワークに組み込んでいたことを意味するからである。このように、朝倉城の歴史は「1563年に廃城」という通説によって完結したものではなく、本山氏の「要塞」としての時代、そして長宗我部氏の「行政・軍事拠点」としての時代という、少なくとも二つの異なる段階を持っていた可能性が浮上している。現在進行形の発掘調査は、この第二の段階を考古学的に裏付ける可能性を秘めており、朝倉城は過去の遺物ではなく、新たな発見によってその歴史的評価が更新され続ける「生きている遺跡」と捉えるべきである。

第三節:史跡としての保存と現代的価値

朝倉城跡は、高知県下最大級の規模と、戦国時代の遺構が極めて良好な状態で残存していることから、文化財として高い価値を有し、県指定史跡として保護されている 1 。特に、城山全体に張り巡らされた重層的な竪堀・横堀群は圧巻であり、訪れる者に戦国期山城の高度な防御思想を体感させる貴重な文化遺産である 11

現在、詰ノ段などの主郭部は公園として整備され、市民の憩いの場となっている 12 。しかし、広大な城域は私有地と自治体の土地が混在しており、一部立ち入りが制限されている場所もある 8 。また、竹藪の繁茂が進んでいる箇所もあり、史跡全体の景観維持と保存管理が今後の課題となっている 23

朝倉城跡は、土佐の戦国史を学ぶ上で欠かすことのできない最重要史跡の一つである。高知大学に隣接するという恵まれた立地条件からも、歴史教育のフィールドとしての活用が期待される。周辺には、古代の豪族の存在を示す朝倉古墳などの史跡も点在しており 1 、朝倉城跡はこれらの歴史遺産と連携させることで、地域全体の歴史的価値を高める中核的な存在となりうるポテンシャルを秘めている。

結論

土佐国朝倉城の約30年という比較的短い歴史は、嶺北の一豪族であった本山氏が土佐中央の覇者へと駆け上がり、そして新興勢力である長宗我部氏との熾烈な生存競争の末に没落していく、土佐戦国史のダイナミズムそのものを凝縮した縮図である。

城郭史上の意義として、その構造は高知県下最大級の規模と、竪堀・横堀を駆使した徹底的な防御思想において特筆される。それは本山氏の権勢が頂点に達したことを示す物理的なモニュメントであると同時に、長宗我部氏による改修の可能性も指摘されており、土佐における戦国期の築城技術の変遷を解明する上で極めて重要な研究対象である。

『長宗我部地検帳』という一級の文献史料と、現在進行中の考古学的調査という二つのアプローチを組み合わせることで、朝倉城の研究は新たな段階に入りつつある。本報告書で提示した多角的な分析が、この重要な城郭のさらなる研究深化への一助となり、その歴史的価値がより広く認識されることを期待する。

引用文献

  1. 【朝倉城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_39201af2170020135/
  2. 土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/11/blog-post_26.html
  3. 総じて規模雄大で県下の中世城跡のなかでは最大を誇る。 - 県指定 史跡 -高知県教育委員会文化財課- https://www.kochinet.ed.jp/bunkazai/details/410-2/410-2-03.htm
  4. 長宗我部元親と土佐の戦国時代・土佐の七雄 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shichiyu/
  5. 四国の覇者 長宗我部元親 - OKB総研 https://www.okb-kri.jp/wp-content/uploads/2019/03/165-rekishi.pdf
  6. 土佐一条氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%B0%8F
  7. 長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shiseki/
  8. 土佐 朝倉城(本山氏の居城) | 筑後守の航海日誌 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/blog/kochi/tosa_asakurajo/
  9. 本山城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-527.html
  10. 嶺北の小豪族から土佐国の覇者へ! ~本山氏三代の野望と挫折 - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/okawa_kanai/archives/19809873.html
  11. 土佐 朝倉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tosa/asakura-jyo/
  12. 朝倉城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2577
  13. 朝倉城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.asakura.htm
  14. 朝倉城跡 - 土佐の歴史散歩 http://tosareki.gozaru.jp/tosareki/asakura/asakurajo.html
  15. 土佐朝倉城 http://oshiro-tabi-nikki.com/tosaasakura.htm
  16. 本山城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.motoyama.htm
  17. 「長浜の戦い(1560年)」槍の突き方さえ知らなかった元親が初陣で大活躍! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/47
  18. 本山茂辰 -長宗我部元親軍記- https://tikugo.com/chosokabe/jinbutu/motoyama/motoyama-tatu.html
  19. 文化財情報 史跡 朝倉城跡 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-pref-2400400.html
  20. 朝倉城跡 | 観光スポット検索 | 高知県観光情報Webサイト「こうち旅ネット」 https://kochi-tabi.jp/search_spot_sightseeing.html?id=179
  21. 朝倉城 吉良城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/sikoku/koutisi2.htm
  22. 朝倉城 (土佐国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%9F%8E_(%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%9B%BD)
  23. 朝倉城の見所と写真・100人城主の評価(高知県高知市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1100/
  24. 長宗我部元親|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1614
  25. Untitled - 高知大学学術情報リポジトリ https://kochi.repo.nii.ac.jp/record/6562/files/02miyazato.pdf
  26. 長宗我部期の春野 - 以上は主として、「土佐国編年紀事略」によって整理したものであるが - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/20/2019/muse/choshi/choshi011.pdf
  27. 長浜の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B5%9C%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  28. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  29. 長宗我部元親の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62991/
  30. 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 https://shirobito.jp/article/1562
  31. 武家家伝_本山氏 - 長岡郡 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/moto_k.html
  32. 「本山氏攻め(1560-68年)」本山氏を降した長宗我部氏が土佐中部四郡にまで勢力を拡げる! https://sengoku-his.com/53
  33. 一領具足之謎| 長宗我部元親橫掃四國的關鍵?為什麼成為德川幕府的眼中釘?內容也有很多矛盾?坂本龍馬又跟這個制度有什麼關係? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=CX5TNYrT8jY
  34. 一領具足 - WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/12855816/
  35. 土佐平定へ、剽悍無類の一領具足と謀略の冴え~長宗我部元親の野望 | PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/23
  36. 朝倉城跡の第3次発掘調査現地説明会 - 高知大学 https://www.kochi-u.ac.jp/events/2017091200019/
  37. 朝倉城跡Ⅰ https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/62/62127/139703_1_%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E2%85%A0.pdf
  38. Untitled https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/62/62128/139704_1_%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E2%85%A1.pdf