最終更新日 2025-08-18

来島城

瀬戸内の要衝、来島城は村上水軍の一翼を担い、激流を味方につけた海の要塞。来島通総は秀吉に仕え大名となるも、朝鮮で戦死。久留島と改姓し、内陸の藩主として存続した。

瀬戸内の要衝・来島城 ― 海の領主・来島村上氏の興亡史

序章:来島城とは何か ― 海峡に浮かぶ水軍要塞

瀬戸内海のほぼ中央、伊予国(現在の愛媛県)今治の沖合に、来島(くるしま)という小島が浮かぶ。この島は、戦国時代にその名を天下に轟かせた海上勢力「村上海賊」の一角、来島村上氏の本拠地「来島城」が置かれた場所である。来島城は、単なる城郭ではない。それは、激しい潮流が天然の堀となり、島全体が一個の巨大な軍事要塞として機能した「海城」であり、瀬戸内海の海上交通を支配した「海の領主」の首都であった 1

地理的・戦略的重要性

来島城が位置する来島海峡は、瀬戸内海を東西に結ぶ主要航路と、四国と本州を結ぶ南北の接点という、地政学的に極めて重要な位置を占める 3 。さらに、この海峡は最大で時速10ノット(約18km)にも達する激しい潮流が渦巻く海の難所として知られていた 2 。この複雑な潮流は、不慣れな者にとっては航行を阻む障壁となるが、潮の流れを読み解き、巧みな操船技術を持つ村上海賊にとっては、敵の侵入を阻む天然の要害そのものであった 2 。彼らはこの地の利を最大限に活用し、瀬戸内海の覇者として君臨したのである 4

村上海賊三家の勢力圏

村上海賊は、単一の組織ではなく、本拠地とする島の名を冠した三つの家、すなわち能島(のしま)村上氏、因島(いんのしま)村上氏、そして来島村上氏から構成されていた 6 。これら三家は、強い同族意識を持ちながらも、それぞれが独立した勢力として芸予諸島の海域を分担して支配していた。来島村上氏は四国側の航路(伊予地乗り)を、能島村上氏は芸予諸島の中央を貫く最短航路を、そして因島村上氏は本州側の航路をそれぞれ掌握し、連携して広大な「海の関所」ネットワークを形成していた 4

「海賊」の実像

戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスは、彼らを「日本最大の海賊」と記録したが、その実態は、理不尽に船を襲い金品を略奪する無法者(パイレーツ)とは大きく異なる 2 。村上海賊は、自らが支配する海域の航行安全を保障する見返りとして、通行する船から「帆別銭(ほべちせん)」などの通行料を徴収する、いわば瀬戸内海の秩序を維持する海上領主であった 2 。彼らの発行した通行許可証である「過所船旗(かしょせんき)」を掲げた船は、他の海賊や海の難所から守られ、安全な航海が約束されたのである 4 。来島城は、まさにこの海上秩序の拠点として、瀬戸内海に睨みを利かせていた。

第一部:要塞としての来島城 ― 構造と機能

来島城の構造は、村上海賊の活動を支えるために、極めて合理的かつ機能的に設計されていた。島全体を要塞化し、防御施設と大規模な港湾機能を融合させたその姿は、海の民が生み出した独特の城郭形態を今に伝えている。

第一章:縄張りと防御施設

来島城の縄張り(城の設計)は、周囲約1kmの来島全土を軍事拠点として活用することを前提としていた 1 。島の自然地形を巧みに利用し、防御と居住、そして港湾の機能を一体化させていたのである。

島全体の要塞化と曲輪の配置

城の中枢部は、島の中心に南北に伸びる標高47mの丘陵に置かれていた 11 。北端の最も高い場所が主郭(本丸)とされ、そこから南に向かって二の郭(二の丸)、三の郭(三の丸)と、尾根上に複数の平坦地(曲輪)が階段状に配置される、連郭式の構造であった 10 。この配置は、海城らしいシンプルながらも極めて実戦的な設計であり、主郭に物見櫓を建てれば、来島海峡の全域を一望することができたと推測される 12 。これにより、海峡を通過する船を常に監視し、有事の際には迅速に対応することが可能であった。

居住区と戦時の拠点

来島村上氏は、平時には対岸の波方浦に居館を構え、来島城はあくまで戦時の防衛拠点として使用していた 1 。このような本拠地の二元的な運用は、水軍ならではの特徴と言える。ただし、島内にも居住施設は存在した。島の中腹にある心月庵(しんげつあん)周辺が居館跡とされ、その脇には大きな窪地が残る 10 。古い絵図ではこの窪地が「堀」として記されているが、籠城に不可欠な水を確保するための貯水池としての機能も兼ね備えていた可能性が高い 10

石垣の謎と「過渡期の城」としての可能性

島内には現在も石垣の遺構が点在しているが、その構築年代については不明な点が多い 12 。特に城址碑の裏に残る石垣は、慶長5年(1600年)頃に廃城となった城のものとしては保存状態が良すぎるうえ、部分的に石材の加工技術や積み方が異なるなど、不自然な点が指摘されている 12 。これは、来島城の石垣が単一の時代のものではなく、後世に大規模な改修が加えられた可能性を示唆している。

この改修の主体として考えられるのが、関ヶ原合戦後に伊予国を領有した築城の名手、藤堂高虎である。高虎は、今治城を新たに築城したことで知られるが 14 、村上氏の別の海城である甘崎城を近世城郭として改修した実績もある 15 。高虎は石垣構築の革新者であり、特に隅角部を強固にする「算木積み(さんぎづみ)」の技術を発展させたことで名高い 16 。来島城が来島海峡という戦略的要衝に位置することを考えれば、高虎がその軍事的価値を認識し、自身の支配下で石垣を補強・改修したという仮説は十分に成り立つ。もしこの仮説が正しければ、来島城は村上氏時代の中世海城の遺構と、藤堂高虎による近世的な改修が重層的に存在する、城郭史における「過渡期の標本」と位置づけることができ、その歴史的価値は一層高まる。

第二章:海の城の心臓部 ― 港湾機能と岩礁ピット

来島城の最大の特徴は、島の周囲、特に北部から西部の岩礁地帯に見られる無数の柱穴、すなわち「岩礁ピット」の存在である 1 。これこそが、来島城が村上海賊の一大拠点であったことを物語る、何より雄弁な物証と言える。

岩礁ピット群と大船団の拠点

岩礁ピットは、船を係留するための木製の柱を立てた穴であり、そのおびただしい数と広範囲な分布は、来島村上氏が多数の船団を常時配備していたことを示している 14 。当時の船は、安宅船(あたけぶね)、関船(せきぶね)、小早船(こばやぶね)など大小様々であったが 7 、これらの船団を迅速に、かつ整然と出撃・帰港させるための大規模な港湾施設が、この岩礁地帯に構築されていたのである。

高度な港湾システム

現地の案内板などに掲示されている予想復元図を見ると、これらのピット跡には海に向かって桟橋が架けられていた様子が描かれている 12 。瀬戸内海は潮の干満差が大きく、時間によって海面の高さが大きく変動する。岩礁に林立する柱に桟橋を渡すことで、潮位の変化に影響されることなく、いつでも船を安全に接岸・係留できる、極めて高度な港湾システムが機能していたと推測される 8 。これは、海の特性を知り尽くした村上海賊ならではの知恵と技術の結晶であった。

補給・生活基盤

海上での活動や長期の籠城を支えるためには、水の確保が生命線となる。来島城内には現在も古井戸が残っており、当時から飲み水が確保されていたことがわかる 1 。これにより、来島城は単なる戦闘拠点ではなく、兵士たちが生活し、補給を受けることができる自己完結した海上基地として機能していた。

第二部:城主・来島村上氏の軌跡

来島城の歴史は、その城主であった来島村上氏一族の栄光と苦難の歴史そのものである。伊予の有力国人から、瀬戸内海を支配する海の領主へ、そして激動の時代を生き抜いて近世大名へと至る彼らの軌跡は、戦国という時代の変革を象徴している。

表1:来島城および来島村上氏 関連年表

西暦(和暦)

出来事

関連人物

来島氏の動向と意義

1419年(応永26年)頃

来島城築城か

村上吉房

村上水軍三家の一つ、来島村上氏が成立。

1555年(弘治元年)

厳島の戦い

村上通康、毛利元就

毛利方として参戦したとされるが諸説あり。瀬戸内海の勢力図を決定づけた戦いへの関与が問われる。

1567年(永禄10年)

村上通康死去

来島通総

通総が7歳で家督相続。一族は新たな時代を迎える。

1582年(天正10年)

織田方への帰属

来島通総、羽柴秀吉

毛利・河野氏から離反。来島城は一時落城するも、中央政権との結びつきを確保し、後の飛躍の布石となる。

1585年(天正13年)

豊臣秀吉の四国攻め

来島通総、小早川隆景

旧主家・河野氏を攻める先鋒を務め、戦功により伊予風早郡1万4千石の大名となる。

1588年(天正16年)

海賊停止令発布

豊臣秀吉

従来の海上活動が禁止され、水軍(海賊)から近世大名への変質が決定的に。

1597年(慶長2年)

鳴梁海戦

来島通総、李舜臣

朝鮮出兵に従軍し、朝鮮水軍との海戦で戦死。

1600年(慶長5年)

関ヶ原合戦

来島長親

西軍に属し、戦後改易される。一族最大の危機。

1601年(慶長6年)

豊後森藩へ移封

来島長親、徳川家康

豊後国森に1万4千石を与えられ大名として復帰。来島城は廃城となる。

江戸時代初期

「久留島」へ改姓

久留島通春

長親の子・通春の代に改姓。海の民から内陸の藩主として、新たな歴史を歩み始める。

第一章:村上水軍三家の一翼 ― 来島村上氏の成立

来島村上氏の起源は、南北朝時代から室町時代にかけて瀬戸内海で活躍した村上氏が、能島・因島・来島の三家に分立したことに始まる 18 。伝承によれば、村上義顕の三男・吉房が来島に拠点を構えたのがその始まりとされ、築城は応永26年(1419年)あるいは15世紀中頃と伝わる 10 。史料上でその名が確認できるのは応永11年(1404年)であり、伊予国弓削島荘の経営を請け負っていた記録が残る 6 。地理的に伊予本土に最も近いため、来島氏は早くから伊予の守護大名・河野氏と深い関係を築き、その重臣的な立場となっていった 3 。彼らは河野氏の軍事力を支える一方で、主家の内紛に乗じて伊予本土へも勢力を拡大するなど、したたかな自立性も併せ持っていた 10

第二章:勢力拡大の時代 ― 当主・村上通康の活躍

来島村上氏の全盛期を築いたのが、当主・村上通康である 20 。彼は河野氏の重臣として権力の中枢を担い、主君・河野通直の娘を娶って一門衆に列せられるなど、一族の地位を飛躍的に高めた 21 。通康は水戦のみならず陸戦にも長けた勇将として知られ、河野氏の内紛の際には、窮地に陥った主君・通直を背負って来島城に籠城し、追手を撃退したという逸話も残る 21

天文24年(1555年)に毛利元就と陶晴賢が激突した「厳島の戦い」における来島村上氏の役割については、歴史的評価が分かれている。毛利方の勝利に貢献したという説がある一方で 17 、近年の研究では不参戦だったとする見方も有力である 25 。この評価の相違は、後の歴史的経緯が影響している可能性がある。来島村上氏は後に毛利氏と敵対関係となるため、毛利氏側の史料(例えば江戸時代に編纂された『萩藩閥閲録』など)が、その功績を意図的に過小評価、あるいは無視し、最後まで毛利氏に忠実であった能島村上氏の活躍を強調した結果、記録に齟齬が生じたとも考えられる 25

第三章:激動と決断の時代 ― 当主・来島通総の生涯

永禄10年(1567年)、父・通康の死により、わずか7歳で家督を継いだのが来島通総であった 26 。彼の生涯は、一族の運命を大きく左右する決断の連続であった。

自立と離反、そして一族存続をかけた戦略的決断

当初は父の代からの慣例に従い、河野氏、そしてその同盟者である毛利氏の配下として活動していた。しかし、通総は次第に主家からの自立を志向し始める 26 。そして天正10年(1582年)、織田信長の勢力が中国地方に及ぶと、通総は羽柴秀吉の勧誘に応じ、毛利・河野陣営から離反して織田方へ寝返るという重大な決断を下す 3

この行動は、表面上は主家に対する「裏切り」と映る。しかし、その背景には、一族の存亡をかけた極めて高度な政治的判断があった。近年の説によれば、当時の河野氏当主・通宣には実子がおらず、その後継者として毛利氏が送り込んだのが、毛利元就の外孫にあたる女性(宍戸隆家の娘)と村上通康(通総の父)との間に生まれた子、牛福(後の河野通直)であったとされる 26 。この説が正しければ、新当主は毛利の血を引く傀儡であり、通総にとっては異母弟にあたる。一方で、通総の母は正統な河野氏本家の娘であり、血統的な正統性では通総が優位に立つ。このため、通総の存在は、毛利氏が主導する新体制にとって極めて危険な存在と見なされたはずである。この状況下で毛利・河野連合に留まることは、いずれ粛清される未来を意味しかねない。したがって、通総の離反は、敵対勢力であった織田方へ活路を見出す、唯一の選択肢であった。

この決断は、結果的に来島氏の運命を大きく切り拓くことになる。激怒した毛利・河野連合軍の猛攻を受けて来島城は落城し、通総は一時秀吉のもとへ逃れるが 3 、この早期の帰順が豊臣政権下での彼の地位を確固たるものにした。

豊臣政権下での飛躍と悲劇的な最期

秀吉は、いち早く味方についた通総を「来島、来島」と呼んで重用し、これを機に通総は姓を「村上」から「来島」へと改めた 18 。天正13年(1585年)の四国攻めでは、豊臣軍の先鋒として旧主家・河野氏を攻め、その戦功により伊予風早郡に1万4千石を与えられ、独立した大名となった 26 。天正16年(1588年)に秀吉が発布した「海賊停止令」は、村上三家をはじめとする全国の海賊衆にとって、従来の生業を奪われる死活問題であったが 17 、来島氏は大名となることでこの変革を乗り越えた。

しかし、その栄光は長くは続かなかった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に従軍した通総は、慶長2年(1597年)9月16日、鳴梁海戦において朝鮮水軍の名将・李舜臣と激突。先鋒として海峡に突入するも、潮流を利用した朝鮮水軍の巧みな戦術の前に敗れ、壮絶な戦死を遂げた。享年37であった 10

第四章:存続への道 ― 当主・来島長親と近世大名化

父・通総の死後、家督を継いだのは次男の長親であった 10 。彼は慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に与したため、戦後、徳川家康によって所領を没収されるという最大の危機に直面する 10 。しかし、妻の伯父である福島正則らの必死の嘆願により改易は免れ、慶長6年(1601年)、旧領の伊予国に代わって豊後国森(現在の大分県玖珠町)に1万4千石を与えられ、移封という形で大名家として存続することを許された 10

この移封は、一族の性質を根底から変えるものであった。海の民であった彼らは、海に全く面さない内陸の領地を与えられたのである。多くの家臣は故郷の伊予に残り、新天地についていった者は少なかったと伝わる 17 。長親の子・通春の代には、姓を「来島」から、より縁起の良い「久留島」へと改めた 10 。こうして久留島氏は、豊後森藩主として江戸時代を通じて存続し、村上三家の中で唯一、明治維新まで大名家としての地位を保ったのである 3

第三部:城の終焉と歴史的意義

戦国の世が終わり、新たな時代が訪れる中で、来島城もまたその歴史的役割を終えることとなる。城の廃城は、単に一つの城が失われたことを意味するだけでなく、海上勢力が自由に闊歩した時代の終焉を象徴する出来事であった。

第一章:来島城の廃城

来島城が廃城となった直接的な契機は、慶長6年(1601年)に城主であった来島長親が豊後森へ移封されたことである 27 。新たな領地へ移った来島(久留島)氏が再びこの地に戻ることはなく、主を失った来島城は事実上、その機能を停止した。

この背景には、より大きな時代の変化があった。豊臣秀吉による「海賊停止令」は、海の関所としての城の存在意義を揺るがし 30 、続く江戸幕府が元和元年(1615年)に発布した「一国一城令」は、大名の本城以外の城郭の破却を命じるものであった 37 。これにより、全国の多くの城が姿を消した。統一政権の下で全国の交通網が整備され、海上交通の自由と安全が国家によって保障されるようになると、来島城のような私的な海上関所は、もはやその存在を許されなくなったのである 27

第二章:歴史遺産としての来島城

廃城から400年以上が経過した現在も、来島には住民が暮らし、定期船が対岸の波止浜港との間を結んでいる 1 。島内には、往時を偲ばせる櫓跡の石垣、古井戸、そして無数の岩礁ピットが残り、訪れる者に村上海賊の時代の息吹を伝えている 1

来島城跡は、国の史跡には指定されていないものの、2016年(平成28年)に「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として日本遺産に認定された構成文化財の一つであり、その歴史的価値は高く評価されている 25 。しかし、同じ村上水軍の拠点である能島城跡が詳細な発掘調査を経て多くの発見があったのに対し、来島城跡はまだ十分な学術調査が行われていないのが現状である 7 。今後の調査によって、石垣の構築年代の特定や、未発見の遺構の確認など、新たな事実が解明されることが大いに期待される。

結論:来島城と来島村上氏が残した遺産

来島城は、中世の海上勢力である村上海賊の拠点としての機能と、近世統一政権下での役割の終焉を体現する、極めて象徴的な歴史遺産である。その縄張り、特に島の周囲に広がる岩礁ピット群は、瀬戸内海の海上交通を支配した水軍の卓越した技術力と高度な組織力を示す一級の史料と言える。

その城主であった来島村上氏は、村上三家の中で唯一、激動の戦国時代を乗り越え、近世大名として存続した特異な存在である。彼らの歴史は、地方の海上領主が、中央集権化という時代の大きな潮流の中で、いかにして自己を変革し、生き残りを図ったかを示す貴重な事例となっている。特に来島通総が下した織田方への帰属という決断は、単なる裏切りではなく、複雑な血縁関係と政治情勢の中で一族の存続をかけた戦略的選択であった。この機敏な政治判断こそが、他の二家とは異なる道を歩み、大名として存続する礎を築いたのである。

海の領主から内陸の藩主へ。その劇的な変転は、戦国という時代の終焉そのものを物語っている。来島城と来島村上氏の歴史は、日本の歴史が中世から近世へと移行するダイナミズムを、瀬戸内海という舞台を通じて鮮やかに描き出しているのである。

引用文献

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