杵築城
豊後の要衝、杵築城は木付氏が築き、豊薩合戦で島津軍の猛攻を二ヶ月凌ぎ「勝山城」と称された。しかし、主家大友氏の改易により木付一族は悲劇的な最期を遂げる。関ヶ原後も攻防の舞台となり、現在は国史跡としてその歴史を伝える。
豊後の要害・杵築城 ― 戦国を生きた木付一族の栄光と悲劇
序章:国東半島の付け根に佇む城
豊後国(現在の大分県)の国東半島の南の付け根、八坂川が守江湾へと注ぐ河口に、一つの城が歴史の荒波を見つめてきた。その名は杵築城。室町時代初期、断崖絶壁の台山に築かれたこの城は、単なる石と土の構造物ではない。それは、戦国という激動の時代を駆け抜けた一族の栄光と悲劇、そして時代の転換点を映し出す鏡である。
杵築城の地理的条件は、その戦略的重要性を何よりも雄弁に物語る。北を高山川、東を守江湾、南を八坂川に囲まれた台地は、三方を水域と断崖に守られた天然の要害であった 1 。さらに、城が扼する豊後水道は、瀬戸内海と太平洋を結ぶ海上交通の大動脈であり、経済と軍事の両面において計り知れない価値を持っていた 4 。この地を制することは、豊後の、ひいては九州北部の覇権を左右する重要な要素であった。
本報告書は、この杵築城を主役とし、特に戦国時代という視点からその歴史を徹底的に掘り下げるものである。城主として344年の長きにわたりこの地を治めた木付(きつき)氏の興亡を物語の中核に据える。九州の覇権をめぐる大友氏と島津氏の激突「豊薩合戦」において、城が果たした輝かしい役割と、その栄光の裏で進行していた主家・大友氏の没落、そしてそれに殉じた木付一族の悲劇的な終焉までを詳細に追跡する。さらに、城郭構造の分析、関ヶ原の戦いという天下分け目の争乱における役割、そして城と城下町の関係性にも光を当て、多角的な視点から杵築城の歴史的実像を浮き彫りにすることを目的とする。
第一章:杵築城の黎明 ― 木付氏の勃興と築城
第一節:大友氏の庶流、木付氏の出自
杵築城の歴史は、木付氏の歴史そのものである。木付氏は、鎌倉時代に源頼朝から豊後守護に任じられ、九州に一大勢力を築いた大友氏の血を引く一族であった 6 。その祖は、大友氏二代当主・大友親秀の六男、親重に遡る 7 。建長2年(1250年)、親重は鎌倉幕府より豊後国速見郡八坂郷木付荘の武者所として封じられ、その地名をもって「木付」を名乗ったのが始まりである 7 。
木付氏と大友宗家との関係は、単なる主従のそれを超えていた。彼らは大友氏の「庶流(しょりゅう)」、すなわち分家であり、血縁で結ばれた極めて近しい存在であった。その証左に、木付氏は大友宗家から杏葉(ぎょうよう)紋の使用を許された「同紋衆」の一家として、特別な地位を認められていた 8 。これは、木付氏が他の国人領主とは一線を画す、宗家の信頼厚い支柱であったことを示している。この強固な血縁と主従関係は、木付氏のアイデンティティそのものであり、彼らの行動原理を深く規定していた。歴代当主の多くが大友氏のために各地を転戦し、戦場の露と消えたという記録は、一門衆に課せられた重い軍事的責務と、それに応えようとする彼らの忠誠心の篤さを物語っている 8 。
木付氏が当初拠点を構えたのは、後の杵築城が築かれる台山ではなく、その近傍にある竹ノ尾と呼ばれる高台であった 7 。この「竹ノ尾城」こそが、木付氏の勢力基盤を確立した最初の城であり、杵築城の起源と言える場所である 7 。
第二節:台山への築城 ― 天然の要害
時代が下り、南北朝の動乱を経て世情が不安定になると、より堅固な拠点が求められるようになった。木付氏四代当主・木付頼直は、応永元年(1394年)、新たな城の築城を決断する 1 。移転先として選ばれたのが、八坂川河口に突き出す台山であった。この移転の理由について、史料は「時勢の変遷や港湾の埋没などの理由」と記している 7 。これは、単に防御力を高めるだけでなく、水運の利便性を確保するという、軍事・経済両面からの戦略的判断があったことを示唆している。
こうして台山の上に築かれた新城は「木付城」と名付けられた。この城は、その立地と形状から、いくつかの異名を持つこととなる。城が築かれた台地の名にちなむ「台山城」、そして台地の形状が牛の臥せた姿に似ていることから名付けられた「臥牛城(がぎゅうじょう)」である 1 。これらの名は、城がその土地の地形と一体化した、まさに天然の要塞であったことを今に伝えている。木付氏の歴史は、この台山の城と共に、新たな段階へと進んでいくことになる。
第二章:戦国乱世の渦中へ ― 大友宗麟の時代と木付氏
第一節:大友氏の最大版図と木付氏の役割
16世紀中頃、戦国時代の日本は群雄割拠の様相を呈していた。九州においては、大友氏がその最盛期を迎える。二十一代当主・大友義鎮(後の宗麟)の時代、大友氏は豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の六ヶ国の守護職を兼ね、その勢力は九州北部に広大な版図を築き上げた 6 。
この大友氏の栄光の時代において、木付氏は宗家の忠実な一門として、その覇業を支え続けた。木付氏十五代・鎮秀、そしてその子である十六代・鎮直は、主君である大友義鎮(宗麟)から「鎮」の一字を賜り、名を名乗った 13 。主君の名の一字を家臣に与える「偏諱(へんき)」は、武家社会において最高の栄誉の一つであり、宗麟が木付氏に寄せる深い信頼の証であった。鎮直は、父・鎮秀と共に、大友氏に反旗を翻した田原親貫の乱(1580年)の鎮圧にも出陣するなど、軍事行動の中核を担う存在として活躍した 13 。
第二節:大友氏の衰退と島津氏の脅威
しかし、栄華は長くは続かなかった。天正6年(1578年)、大友宗麟はキリシタン王国の建設を目指し、日向国へ大軍を派遣する。だが、島津氏との間で行われた「耳川の戦い」で、大友軍は歴史的な大敗を喫した 8 。この一戦で多くの宿将を失った大友氏の威信は失墜し、領内の国人衆の離反が相次ぐなど、その勢力は急速に衰退へと向かう。
一方、この勝利で勢いを得た薩摩の島津氏は、肥後の龍造寺氏をも破り、九州統一の野望を現実のものとすべく、その矛先を北へと向けた 8 。大友氏にとって、島津氏の北上は領国の存亡を揺るがす最大の脅威となった。天正14年(1586年)、もはや独力で島津氏に対抗できないと判断した大友宗麟は、大坂に上り、天下人となりつつあった豊臣秀吉に臣従し、救援を要請した 8 。秀吉はこれを受諾し、九州平定軍の派遣を決定する。しかし、秀吉率いる本隊が九州に到着するより先に、島津軍は豊後への全面的な侵攻を開始した。世に言う「豊薩合戦」の火蓋が切られたのである 15 。豊後各地の城は、次々と島津の軍門に降るか、あるいは炎上し、大友氏の命運は風前の灯火となった。
第三章:豊薩合戦と杵築城籠城戦 ― 「勝山城」の誕生
第一節:島津軍の豊後侵攻
天正14年(1586年)10月、島津軍は二手に分かれて豊後へ雪崩れ込んだ。島津義弘が率いる3万の軍勢が肥後方面から、弟の島津家久が率いる1万の軍勢が日向方面から侵攻を開始した 15 。この国家的危機にあって、大友氏の重臣であった入田義実や志賀親度といった者たちが島津方に寝返り、侵攻軍の先導役を務めるという事態が発生し、大友方の混乱に拍車をかけた 15 。
大友軍は各地で敗北を重ねた。同年12月、戸次川(へつぎがわ)の戦いでは、大友氏の援軍として派遣されていた豊臣方の先遣隊が島津家久の巧みな戦術の前に壊滅。長宗我部元親の嫡男・信親や、仙石秀久配下の十河存保といった名将たちが討死した 14 。この敗報に接した大友氏当主・義統は、本拠地である府内城を放棄し、父・宗麟が守る臼杵城へと逃れた 3 。豊後の府中は島津軍の手に落ち、大友氏の支配体制は事実上崩壊した。
第二節:二ヶ月の攻防 ― 木付鎮直の死闘
府内を制圧した島津軍は、豊後平定を完了すべく、各地に残る大友方の拠点へと軍を進めた。そのうちの一隊、島津義弘配下の猛将・新納忠元(にいろただもと)が率いる軍勢が、木付城へと迫った 3 。
この時、木付城を守っていたのは、十六代当主・木付鎮直であった。彼は嫡男の統直と共に城に籠もり、徹底抗戦の道を選ぶ 11 。三方を海と断崖に囲まれた「天然の要害」という、父祖が選んだ地の利を最大限に活用し、島津軍の猛攻を凌ぎ続けた 3 。その籠城戦は、約二ヶ月にも及んだとされる 11 。周囲の城が次々と陥落していく絶望的な状況の中、木付城の奮戦は、大友氏にとって最後の希望の光の一つであった。この粘り強い抵抗は、単に一つの城を守り抜いただけではない。豊臣の本隊が九州に到着するまでの貴重な時間を稼ぎ、島津軍の進撃を遅滞させるという、戦略的に極めて大きな意味を持つものであった。
この攻防戦における主要な人物は、以下の通りである。
役割 |
守城側(木付・大友方) |
攻城側(島津方) |
総大将 |
木付鎮直(16代当主) |
新納忠元(島津義弘配下) |
主要武将 |
木付統直(鎮直の嫡男) |
(詳細な配下武将は史料に乏しいが、島津義弘軍の一部隊として記載) |
背景 |
主家大友氏の存亡をかけた防衛戦 |
九州統一を目指す豊後侵攻の一環 |
第三節:勝利と栄光
天正15年(1587年)2月、戦局に大きな転機が訪れる。豊臣秀吉自身が出陣し、その弟・豊臣秀長が率いる10万とも言われる大軍が九州に上陸したとの報が、豊後各地で戦う島津軍の元にもたらされた 3 。この報を受け、島津軍は豊後各地の城の包囲を解き、豊臣の大軍を迎え撃つべく、全軍を撤退させることを決定した。
木付城を包囲していた新納忠元の軍勢もまた、撤退を開始した。この機を、鎮直は見逃さなかった。彼は城門を開くと、撤退する新納軍の背後を突き、猛烈な追撃戦を敢行した。不意を突かれた島津勢は大きな損害を出し、鎮直は見事な勝利を収めたのである 3 。
この輝かしい勝利は、木付氏の武勇と城の堅固さを天下に示すものであった。この戦いの後、人々はその武功を称え、木付城を「勝山城」という栄誉ある異名で呼ぶようになった 7 。しかし、この栄光は、皮肉な運命への序章でもあった。木付城の勝利は、大友氏がもはや自力で領国を維持できず、中央政権である豊臣氏の介入によってのみ存続し得る存在であることを証明するものでもあった。この戦いを境に、大友氏は戦国大名としての独立性を失い、豊臣政権下の一大名へとその地位を落としていく。木付氏の運命もまた、その主家の浮沈と、否応なく連動していくことになるのである。
第四章:木付氏の終焉 ― 主家の没落と一族の悲劇
第一節:文禄の役と大友氏の改易
豊薩合戦から6年後の文禄2年(1593年)、豊臣秀吉は朝鮮への出兵(文禄の役)を開始する。九州の大名はこぞって派兵を命じられ、大友氏当主・義統もまた、軍を率いて朝鮮半島へと渡った。木付鎮直の嫡男・統直は、自らの嫡男である直清を伴い、主君・義統に従ってこの戦役に加わった 7 。
しかし、この異国の地で、大友氏の運命を決定づける事件が起こる。大友義統は、明の大軍が来襲するという誤報を鵜呑みにし、持ち場であった鳳山城を放棄して逃亡するという、武将としてあるまじき失態を犯した 10 。この敵前逃亡により、友軍であった小西行長の部隊が窮地に陥った。
この報は、すぐさま秀吉の耳に届いた。秀吉の怒りは凄まじく、義統に対して豊後一国の所領を没収し、改易するという最も厳しい処分を下した 7 。ここに、鎌倉時代から400年以上にわたって豊後を支配してきた名門、戦国大名・大友氏は滅亡した。
第二節:関門海峡に消えた命
木付統直にとって、この出来事は耐え難い悲劇の連続であった。彼は朝鮮の戦場で、未来を託した嫡男・直清を失っていた 8 。そして今、父祖代々仕えてきた主家が、主君自身の不名誉な行いによって取り潰されるという事態に直面したのである。
子を失い、主君を失い、仕えるべき家をも失った統直の絶望は、察するに余りある。朝鮮から帰国する船が門司の浦(現在の関門海峡)に差し掛かった時、彼は一つの決断を下す。主家滅亡の悲運を嘆き、その責任を一身に負うかのように、自ら刃を腹に突き立て、海へとその身を投じた 7 。
その際、彼は一首の辞世の句を残している。
「古へを慕うも門司の夢の月 いざ入りてまし阿弥陀寺の海」 20
(過ぎ去った昔の栄光を懐かしんでも、それは門司の海に映る夢の月のような儚いものだ。さあ、阿弥陀仏がいらっしゃるという極楽浄土の海へと入ってしまおう)
この歌には、失われた過去への追憶と、未来への希望を完全に断たれた深い絶望、そして来世の救済に最後の望みを託す心情が痛切に詠み込まれている。
第三節:城と運命を共にした鎮直
悲劇は、まだ終わらなかった。木付城で留守を守っていた父・鎮直のもとに、息子の自害、孫の戦死、そして主家大友氏の改易という、三つの悲報が同時に届けられた 7 。豊薩合戦の英雄であった老将は、一瞬にして、守るべき未来のすべてを奪われたのである。
鎮直は静かに自らの最期を準備した。彼は長年過ごした木付城を隅々まで掃き清めると、妻と共に自害して果てた 3 。文禄2年(1593年)6月25日のことであった 7 。
ここに、大友氏の庶流として生まれ、344年間にわたって豊後の地を治めた木付氏の歴史は、あまりにも悲劇的な形でその幕を閉じた。彼らの終焉は、戦国武士が重んじた「忠義」という価値観の持つ、一つの峻厳な側面を浮き彫りにしている。統直の自害は、主君の失態に対する殉死であり、抗議の表明でもあった。父・鎮直の自害は、子と孫を失った絶望に加え、主家を守りきれなかった一門衆としての責任を、自らの命で果たそうとするものであった。彼らは、主家と共に滅びる道を選んだのである。しかし、この究極の忠義は、結果として名家の血を絶やすことになった。皮肉なことに、彼らが殉じた主君・大友義統は、後に秀吉の死によって赦免され、その身分を回復している 20 。もし木付一族が生き永らえていれば、再興の道があったかもしれない。個人の武勇や忠誠心だけでは抗うことのできない、時代の大きなうねりの非情さを、木付一族の物語は静かに語りかけている。
第五章:戦国時代の杵築城 ― その構造と戦略的価値
第一節:縄張りに見る要塞機能
木付鎮直が島津軍の猛攻を二ヶ月間も凌ぎきれた背景には、彼の武勇や兵の士気だけでなく、杵築城そのものが持つ優れた防御構造があった。
杵築城は、城郭の分類上、「連郭式(れんかくしき)平山城(ひらやまじろ)」に属する 2 。連郭式とは、本丸、二の丸、三の丸といった主要な区画(曲輪)を、尾根に沿って一列に配置する縄張り(城の設計)のことである 22 。杵築城の場合、台山という細長い台地を複数の空堀によって4つの区画に分断し、それぞれを独立した防御拠点として機能させる設計となっていた 2 。これにより、仮に一つの曲輪が敵に突破されたとしても、次の曲輪で敵の進撃を食い止め、城全体の陥落を防ぐことが可能であった。
しかし、杵築城の最大の強みは、こうした人工的な防御施設以上に、その地形そのものにあった。北の高山川、東の守江湾、そして南の八坂川が天然の堀となり、台地の縁は切り立った断崖絶壁をなしていた 2 。この三方を水に囲まれた地形こそが、難攻不落の要塞たる所以であった。
現在、城があった台山は城山公園として整備され、往時の建物の多くは失われているが、部分的に石垣が残存している 23 。近年に実施された発掘調査では、江戸時代初期の「一国一城令」によって破却される以前の建物跡などが確認され、戦国時代から江戸時代初期にかけての城郭の実態を知る上で学術的価値が非常に高いと評価された。その結果、令和2年(2020年)3月、杵築城跡は正式に国の史跡に指定されている 24 。
第二節:城下町の萌芽と「サンドイッチ型」への素地
戦国時代の城は、軍事拠点であると同時に、その地域の政治・経済の中心でもあった。杵築城の麓にも、家臣団の屋敷や、彼らの生活を支える商人・職人たちの集落が形成され、城下町の原型が生まれつつあったと考えられる。
杵築の地形は、城のある台山(後の北台)と、その南に位置するもう一つの台地(南台)、そして二つの台地に挟まれた谷間の土地という、極めて特徴的な構造を持っている 26 。この特異な地形が、後の江戸時代において、全国的にも類を見ないユニークな都市構造を生み出すことになる。すなわち、北台と南台の二つの高台に武家屋敷が並び、その間の谷間に商人の町が形成されるという「サンドイッチ型城下町」である 28 。戦国時代に防衛拠点として選ばれた地形的制約が、結果として近世における美しい景観と独特の都市構造の原型となった点は、非常に興味深い。
第六章:時代の転換期 ― 関ヶ原の戦いと杵築城
第一節:細川領下の攻防
木付氏の悲劇的な滅亡の後、杵築城は主を失った。豊臣政権下では、五奉行の一人である前田玄以、次いで杉原長房らが城主(または代官)として入った 7 。そして、天下分け目の関ヶ原の戦いが迫る慶長年間、杵築城は丹後宮津城主・細川忠興の所領(飛び地)となり、城代として重臣の松井康之が置かれた 30 。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、遠く離れた豊後の地もまた、その争乱の渦に巻き込まれる。西軍の総大将・毛利輝元の支援を得た旧豊後国主・大友義統が、旧領回復の千載一遇の好機と捉え、豊後で挙兵したのである 31 。義統の元には、主家再興を願う旧臣たちが集結した。その中には、かつて大友氏に仕え、その武勇を謳われた名将・吉弘統幸(よしひろむねゆき)の姿もあった。彼らが旧領回復の最初の目標として定めたのが、東軍に属する細川氏の拠点、杵築城であった 23 。
第二節:石垣原合戦への連動
大友義統率いる軍勢は、城主・細川忠興が関ヶ原へ出陣して不在の杵築城を包囲攻撃した。城代の松井康之は、寡兵ながらも籠城して奮戦する。吉弘統幸らの猛攻の前に、大友軍は二の丸までを攻め落とす勢いを見せた 31 。しかし、その時、豊前中津城にあって九州の東軍勢力を束ねていた黒田官兵衛(如水)の援軍が杵築城に迫っているとの報が届く。これにより、大友軍は本丸の攻略を断念し、黒田軍を迎え撃つべく、別府の石垣原へと転進した 23 。
その後、石垣原において、大友義統軍と黒田官兵衛軍は激突した(石垣原合戦)。吉弘統幸は獅子奮迅の働きを見せるも、衆寡敵せず、壮絶な討死を遂げる。大将を失った大友軍は敗北し、義統は降伏。大友家再興の夢は、ここに完全に潰えた 32 。
この一連の出来事は、木付氏という城主一族が滅んだ後も、杵築城がその戦略的重要性を失っていなかったことを明確に示している。豊後を支配するためには、この海陸の要衝を押さえることが不可欠であった。城の価値は、特定の城主の運命を超えて存続し、時代の転換点において、再び歴史の表舞台へと引き戻されたのである。杵築城の歴史は、木付氏という「人」の物語であると同時に、その場所が持つ「地政学的重要性」の物語でもあるのだ。
終章:戦国時代から近世へ ― 杵築城が残した遺産
戦国の世が終わり、徳川の治世が始まると、杵築城もまた新たな時代を迎える。慶長20年(1615年)に発布された一国一城令により、台山上にあった天守や櫓といった軍事施設は破却されたと見られている 29 。城の中心機能は、麓に新たに設けられた藩主御殿へと移り、杵築城は軍事要塞としての役割を終え、杵築藩の政庁としての象徴的な存在へと姿を変えていった 26 。
正徳2年(1712年)、江戸幕府が発行した朱印状において、長年使われてきた「木付」の地名が、誤って「杵築」と記される出来事があった。これを機に、藩は幕府に伺いを立てた上で、正式に地名と城名を「杵築」へと改めた 2 。
戦国時代、木付一族がその命を懸けて守り抜いた城は、こうして歴史の表舞台から静かに姿を変えていった。しかし、彼らの記憶がこの土地から消え去ることはなかった。現在も城山公園に残る城址碑には、旧名である「木付城址」の文字が刻まれており 29 、この城を築き、守り、そして運命を共にした一族への敬意が示されている。
昭和45年(1970年)、市民の熱意によって、かつての天守台の上に三層の模擬天守が再建された 1 。この白亜の天守は、歴史的建造物ではないものの、豊薩合戦における武勇と、主家への忠義に殉じた悲劇という、戦国を生きた木付一族の記憶を現代に伝えるランドマークとして、守江湾を見下ろしている。戦国の要塞として築かれた城は、江戸時代には風光明媚な城下町を育む土台となり、そして現代では、その激動の歴史を物語る国の史跡として、未来へと受け継がれているのである 25 。
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