松ヶ島城
松ヶ島城は、北畠氏の細首城跡に織田信雄が築いた海城。五層天守を誇り、伊勢湾の制海権を掌握したが、本能寺の変後の混乱で落城。蒲生氏郷が松坂城へ移転させ、わずか8年で廃城。現在は天守台跡と移築門が残る。
戦国期伊勢国における松ヶ島城の興亡 ― 時代の結節点に咲いた徒花の記録
序章:戦国期伊勢国における地政学的状況と北畠氏の権勢
松ヶ島城の歴史を詳述するにあたり、まずその揺籃の地となった戦国末期の伊勢国、とりわけ南伊勢の政治的・地理的背景を理解することが不可欠である。伊勢国は、皇室の祖神を祀る伊勢神宮を擁する宗教的中心地であると同時に、伊勢湾を介した海上交通の要衝として、古来より極めて重要な戦略的価値を有していた。この地を掌握することは、畿内と東海地方、そして東国を結ぶ政治・経済の大動脈を制することに他ならなかった。
この南伊勢に長らく君臨したのが、名門・北畠氏である。村上源氏の流れを汲む公家でありながら、南北朝時代に伊勢国司として下向して以来、在地に根を張り武家化した特異な存在であった 1 。彼らの権力は、単なる軍事力に依存するものではなかった。一つは、伊勢国司として朝廷から与えられた伝統的な権威。もう一つは、在地武士団を束ねる戦国大名としての実力である。この「聖」と「俗」の二重の権威構造こそが、北畠氏の支配を盤石なものとしていた。特に八代当主・北畠具教の時代には、北伊勢へも勢力を拡大し、その権勢は頂点に達した 1 。具教自身、剣豪・塚原卜伝より奥義「一の太刀」を伝授されたほどの武人であり 2 、その武威は広く知れ渡っていた。
しかし、永禄年間に入り、尾張から急速に台頭した織田信長が「天下布武」を掲げて西方へ勢力を拡大し始めると、伊勢国の平穏は破られる。信長にとって、上洛路の確保と背後の安定、そして伊勢湾の制海権掌握は、天下統一事業を推進する上で避けては通れない課題であった。信長の伊勢侵攻は、単なる領土的野心からだけではなく、北畠氏が有する旧来の権威構造そのものに対する挑戦でもあった。信長は、室町幕府や朝廷、寺社勢力といった伝統的権威を自らの管理下に置くことで、新たな支配体制を構築しようとしていた。伊勢国司たる北畠氏の打倒は、その戦略の必然的な一環だったのである。松ヶ島城の前身となる細首城の築城は、この歴史的転換点において、北畠氏が自らの存亡と、その背景にある聖俗両面の権威を守るために繰り広げた、最後の抵抗の狼煙であった。
第一章:松ヶ島城の前身「細首城」― 北畠氏の対織田防衛拠点
築城主・北畠具教の意図
織田信長の脅威が現実のものとして伊勢国に迫る中、永禄10年(1567年)頃、北畠氏当主・具教は、来るべき織田軍の侵攻に備え、伊勢湾岸の「細首」と呼ばれる地に新たな城を築いた 3 。これが、後に松ヶ島城となる細首城である。その名の通り、伊勢神宮への参宮古道が通り、海陸交通の結節点となる要衝であった 4 。具教は、この城の守将として家臣の日置大膳亮を配し、織田軍に対する最前線の防衛拠点とした 3 。この築城は、具教の武人としての鋭い戦略眼を示すものであり、信長の侵攻ルートを予測し、その進軍を阻害しようとする明確な意図に基づいていた。
大河内城の戦いと細首城の結末
永禄12年(1569年)、信長は数万の大軍を率いて伊勢への本格侵攻を開始した。織田軍の圧倒的な兵力の前に、最前線に位置する細首城はたちまち危機に瀕する。しかし、守将・日置大膳亮は籠城戦を選択しなかった。彼は、織田軍の猛攻を前に細首城に自ら火を放ち、城を放棄して北畠氏の本城である大河内城へと撤退したのである 3 。
この行動は、単なる敗走と見るべきではない。むしろ、北畠氏の周到な防衛戦略の一環と解釈すべきである。細首城は、そもそも長期籠城を目的とした恒久的な要塞ではなく、敵の進軍を遅延させ、兵站を消耗させ、そして主戦場である大河内城へ全戦力を集約するための時間を稼ぐという、限定的な役割を担っていたと考えられる。日置大膳亮は、その役割を十分に果たした上で、敵に城を利用されることを防ぐ焦土戦術を敢行し、計画通りに主戦力へと合流した。事実、大河内城に籠城した北畠軍は、織田の大軍を相手に一ヶ月以上も持ちこたえ、信長を攻めあぐねさせた 2 。細首城は、北畠氏の主力決戦を有利に進めるための「捨石」として、その戦略的使命を全うしたのである。この戦いの結果、和議が結ばれ、信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)が具教の嫡男・具房の養子に入ることで、北畠氏は事実上、織田家の軍門に降ることとなった 2 。
第二章:織田信雄による「松ヶ島城」の誕生 ― 南伊勢支配の新たな拠点
織田信雄の北畠家継承と居城・田丸城の焼失
大河内城での和議成立後、織田信長の次男・信雄(当初は北畠信意を名乗る)が北畠家の家督を継承し、南伊勢は名実ともに織田家の支配下に入った 2 。信雄は当初、南伊勢統治の拠点として田丸城を居城とした 3 。田丸城は、南北朝時代からの歴史を持つ要衝であり、信雄はここに三層の天守を築くなど改修を加えていた。
しかし、天正8年(1580年)、この田丸城を予期せぬ悲劇が襲う。城内の金奉行が公金を盗んだ罪を隠蔽するため、証拠隠滅を図って煙硝蔵(火薬庫)に放火するという前代未聞の事件が発生したのである 6 。火は瞬く間に燃え広がり、信雄が築いた天守をはじめ、城の主要な建造物がことごとく焼失してしまった 7 。
松ヶ島城築城という政治的決断
この田丸城焼失という偶発的な事件は、信雄にとって、南伊勢における自らの支配体制を再構築するための絶好の機会となった。信雄は、北畠一族を粛清した「三瀬の変」などを通じて旧勢力を排除してきたが 2 、田丸城はそうした血塗られた記憶と、旧北畠家臣団の怨念が渦巻く場所でもあった。焼失した城を再建するよりも、全く新しい場所に自らの権威を象徴する城を築く方が、人心を一新し、織田家による新時代の到来を内外に示す上で遥かに効果的であった。
そこで信雄が新たな築城の地として選んだのが、かつて北畠氏が織田氏に抵抗した拠点、細首城の跡地であった 3 。信雄は田丸城の再建を断念し、この細首城跡に大規模な改修を施し、新たな城を築くことを決断した 9 。そして、この城を「松ヶ島城」と命名したのである 3 。北畠氏抵抗の象徴であった場所に、織田家の威光を示す壮麗な城を築くこと。それは、北畠氏の時代が完全に終わり、織田家による新たな支配が盤石となったことを可視化する、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。松ヶ島城の誕生は、単なる代替拠点の建設ではなく、支配者の交代を決定的に印象付けるための、計算された象徴的操作だったのである。
第三章:松ヶ島城の構造と戦略的価値 ― 五層の天守を戴く海城
壮麗な城郭構造と海城としての機能
天正8年(1580年)に完成した松ヶ島城は、わずか8年という短い期間しか存在しなかったにもかかわらず、当時の城郭建築の粋を集めた壮麗な城であったと伝えられている。特筆すべきは、城内に五層の天守がそびえていたという記録である 5 。これは、父・信長が築いた安土城天主を意識したものであり、地方の拠点城郭としては破格の規模であった。金箔瓦で覆われていた可能性も指摘されており 9 、その威容は、織田家の絶対的な権威を伊勢国中に誇示する象徴として機能した。
この「見せる」ための権威の象徴という側面に加え、松ヶ島城は極めて実用的な機能も備えていた。当時の城は伊勢湾に直接面しており、港湾施設を擁する「海城」であった 5 。これにより、伊勢湾の水運を掌握し、水軍の拠点として、また海上交易路を管理する経済拠点として、南伊勢支配における絶大な戦略的価値を持っていた。五層天守に象徴される「見せる(権威の誇示)」機能と、伊勢湾を制する海城としての「使う(軍事・経済)」機能。この二つの側面を高度に両立させていた点に、松ヶ島城の最大の特徴がある。それは、戦国時代の純粋な軍事拠点から、近世の政治・経済の中心地へと城の役割が移行していく、織豊政権初期の城郭思想を体現した存在であったと言える。
縄張りと現代に残る痕跡
築城から400年以上が経過し、干拓や開墾によって往時の姿は大きく変貌したが、今なおその痕跡を辿ることは可能である。城跡の中心部には、本丸の天守台跡と伝えられる高さ2メートルほどの土盛り(通称「天守山」)が残り、往時の威容を偲ばせている 9 。周辺地域には、「丸ノ内」「城ノ腰」「殿町」「本町」といった城郭に関連する地名が残り 11 、住宅地の間に堀跡の一部も現存している 9 。現地に設置された案内板には縄張り図が描かれており 13 、それによれば、海に面して複数の曲輪が堀で区切られ、計画的に配置されていたことがうかがえる。また、城跡からは天目茶碗が出土しており 11 、城内で茶の湯などの文化的な営みがあったことを示唆している。一方で、当時流行していた美濃の志野焼の出土は報告されておらず 14 、当時の陶磁器の流通ルートや文化的嗜好を考察する上での興味深い手がかりとなっている。
第四章:激動の時代と城主の変遷 ― 本能寺の変から小牧・長久手の戦いへ
壮麗な城として誕生した松ヶ島城であったが、その後の運命は、城主・織田信雄とともに歴史の激流に翻弄されることとなる。
本能寺の変後の動揺と津川義冬の悲劇
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で父・信長が横死すると、信雄は織田家の後継者争いの渦中へと身を投じる。彼は尾張の清洲城へと拠点を移し、松ヶ島城には三家老の一人に数えられた重臣・津川義冬を城代として配置した 3 。
そして天正12年(1584年)、羽柴秀吉との対立が決定的なものとなり、小牧・長久手の戦いが勃発する。松ヶ島城は、徳川家康と結んだ信雄方にとって、南伊勢における最重要拠点となった。しかし、この戦いの最中に悲劇が起こる。信雄は、秀吉方が流した「津川義冬が秀吉に内通している」という流言(偽情報)を鵜呑みにしてしまったのである。彼は事実を確認することなく、長年自らに仕えた忠臣である義冬に誅殺を命じた 3 。堅固な城を築き上げるだけの財力と権力は持っていた信雄であったが、国家規模の危機に際して冷静に情報を分析し、的確な判断を下すだけの器量を持ち合わせていなかった。この一件は、信雄の政治的限界を象徴する出来事であった。
滝川勝利の籠城と落城
義冬の死後、信雄は後任として滝川勝利を松ヶ島城に入れた。勝利は城に籠もり、押し寄せる秀吉軍を相手に奮戦したが、内部から崩壊したも同然の信雄軍の劣勢は覆しがたく、やがて松ヶ島城は秀吉軍の猛攻の前に落城した 3 。これにより南伊勢は秀吉の勢力圏に入り、松ヶ島城の運命もまた、新たな支配者の手に委ねられることとなった。松ヶ島城を巡る一連の出来事は、城という物理的な要塞がいかに強固であっても、それを運用する城主の器量一つでその価値が失われることを示す好例である。城の悲劇は、そのまま信雄の悲劇であり、彼の天下への道が絶たれたことを象徴していた。
第五章:蒲生氏郷の入城と松坂城への移行 ― わずか8年の栄華の終焉
新たな支配者・蒲生氏郷の登場
小牧・長久手の戦いが和睦という形で終結した後、羽柴秀吉は戦後処理の一環として、自らの配下にあった猛将・蒲生氏郷を南伊勢12万石の領主として封じた。氏郷は天正12年(1584年)、信雄に代わる新たな支配者として松ヶ島城に入城した 3 。文武両道に優れ、信長にもその才能を高く評価された氏郷は、この地で新たな統治を開始する。
松坂城築城という都市革命
氏郷は当初、松ヶ島城を統治の拠点としたが、ほどなくして新たな城の建設を決意する。その理由は、松ヶ島城そのものに欠陥があったというよりも、氏郷が抱いていた都市経営のビジョンと、松ヶ島城が立地する海沿いの土地が合致しなかったためである。氏郷が目指したのは、単なる軍事拠点ではなく、商業と経済が発展する近世的な「城下町都市」の建設であった。そのためには、松ヶ島城の周辺は城下町を大規模に展開するには手狭であり、発展の余地が限られていた 8 。
そこで氏郷は、松ヶ島城の南西約4キロメートルに位置する内陸の独立丘陵「四五百森(よいほのもり)」に新たな城の建設を開始する 18 。これが後の松坂城である。天正16年(1588年)に始まった築城は急ピッチで進められ、近江から石垣造りの専門家集団「穴太衆」を呼び寄せて壮麗な石垣を築かせ 18 、資材の一部には松ヶ島城の瓦なども再利用された 19 。
松ヶ島からの完全移転と廃城
松坂城の完成に伴い、氏郷は大胆な都市移転を断行した。松ヶ島城下の商人や職人、さらには寺社に至るまで、住民をそっくりそのまま新しい松坂の城下町へ強制的に移住させたのである 9 。彼は旧領の近江から商人を呼び寄せて楽市楽座を開き、伊勢街道を城下に引き込み、敵の侵入を阻むためのノコギリ歯状の町割りや、衛生的な背割排水を整備するなど、極めて計画的な都市デザインを行った 19 。
この蒲生氏郷による松坂城への移行は、単なる城の引っ越しではない。それは、軍事防衛を主目的とする戦国時代の「城郭都市」から、商業の発展を主軸に据えた近世的な「城下町都市」へと、地域の運営思想そのものを根本から入れ替える画期的な事業であった。この新しい都市OSの導入に伴い、旧システムである松ヶ島城はその歴史的役割を終えた。天正16年(1588年)、築城からわずか8年にして松ヶ島城は廃城となり、栄華を誇った城下町は、元の静かな漁村へと戻っていったと伝えられる 3 。
終章:廃城後の松ヶ島城 ― 史跡としての現在と後世への伝承
景観の変貌と現在の遺構
歴史の表舞台から姿を消した松ヶ島城は、江戸時代以降、周辺の干拓や農地開墾のために土が削り取られ、徐々にその姿を失っていった 22 。かつて伊勢湾に臨んだ海城の面影はなく、現在、城跡一帯は田畑やビニールハウスが広がるのどかな田園風景となっている 9 。
その中にあって、本丸の天守台があったとされる「天守山」と呼ばれる小高い土盛りが、往時を伝える唯一の明確な遺構として残されている 9 。この場所には「松ヶ島城跡」と刻まれた石碑と、城の由緒を記した案内板が設置されており 13 、城跡は三重県の史跡に指定され、保護されている 9 。
移築建造物の伝承
失われた城の記憶を今に伝えるものとして、移築建造物の伝承がある。松阪市愛宕町に位置する竜泉寺の山門は、松ヶ島城の裏門を移築したものと伝えられている 9 。切妻造、本瓦葺きの一間一戸薬医門で、桃山時代の剛壮な風格をよく示しており、三重県の指定文化財となっている 24 。この門は、蒲生氏郷が松坂城へ移る際に寄進したとされているが 24 、一方で松坂城の城門を移したものであるという説も存在し、確証はない 12 。この確証のなさが、かえって失われた城の歴史に想像の翼を広げさせる余地を与えている。
歴史的意義の再評価
松ヶ島城跡そのものに関する本格的な発掘調査はまだ限定的であり、今後の調査による新たな発見が待たれる 15 。しかし、文献やわずかな遺構から浮かび上がるその歴史は、極めて示唆に富んでいる。
その存在期間はわずか8年。しかしこの短い期間に、伊勢国の支配者は北畠氏から織田氏へ、そして豊臣氏へと目まぐるしく移り変わった。松ヶ島城は、北畠氏の終焉、織田信雄による支配の象徴、小牧・長久手の戦いの舞台、そして蒲生氏郷による近世都市・松阪誕生の序章という、まさに歴史の結節点に位置していた。戦国末期の激しい時代の変化を一身に体現し、新たな時代の到来とともにその役目を終えた松ヶ島城は、時代の転換点に咲いた徒花として、日本の城郭史に特異な光を放ち続けている。
添付資料:松ヶ島城 城主変遷表
松ヶ島城が経験した激動の歴史を理解するため、その前身である細首城の時代から廃城に至るまでの城主(または城代)の変遷を以下にまとめる。特に天正12年(1584年)には、1年のうちに城主が3度も交代しており、当時の緊迫した情勢を如実に物語っている。
時期(西暦) |
名称 |
主な出来事 |
城主(または城代) |
所属勢力 |
備考 |
永禄10年頃 (1567) |
細首城 |
織田信長の伊勢侵攻に備え築城 |
日置大膳亮 |
北畠氏 |
前線拠点として機能 3 |
永禄12年 (1569) |
(焼失) |
大河内城の戦いの前哨戦で自焼・放棄 |
(不在) |
北畠氏 |
戦力を大河内城へ集中のため 3 |
天正8年 (1580) |
松ヶ島城 |
田丸城焼失を受け、大改修し築城 |
織田信雄(北畠信意) |
織田氏 |
南伊勢支配の新たな拠点となる 3 |
天正10年 (1582) |
松ヶ島城 |
本能寺の変。信雄は清洲城へ移る |
津川義冬 |
織田信雄家臣 |
城代として入城 3 |
天正12年 (1584) |
松ヶ島城 |
小牧・長久手の戦い。津川義冬が信雄に誅殺される |
(津川義冬) |
織田信雄家臣 |
流言による悲劇 3 |
天正12年 (1584) |
松ヶ島城 |
滝川勝利が入城し籠城するも、秀吉軍に落城 |
滝川勝利 |
織田信雄家臣 |
秀吉方の伊勢平定が進む 3 |
天正12年 (1584) |
松ヶ島城 |
戦後処理により入城 |
蒲生氏郷 |
羽柴(豊臣)氏 |
南伊勢12万石を拝領 3 |
天正16年 (1588) |
(廃城) |
松坂城が完成し、城下ごと移転。廃城となる |
(不在) |
羽柴(豊臣)氏 |
わずか8年の歴史に幕 3 |
引用文献
- 大河内城の戦いと城跡 | いいなん.net http://iinan.net/id/id/id-5/
- 北畠具教最期の地三瀬館などに行ってきました。 - note https://note.com/good5_/n/nb36006705595
- 松ヶ島城 - MATSUKINのページ! - Jimdo https://matsukin.jimdofree.com/%E6%9D%BE%E3%83%B6%E5%B3%B6%E5%9F%8E/
- 松ヶ島城(まつがしまじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E3%83%B6%E5%B3%B6%E5%9F%8E-180320
- 松ヶ島城の見所と写真・300人城主の評価(三重県松阪市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/630/
- 田丸城 岩出城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/mie/tamakimati.htm
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- 松ヶ島城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.matsugashima.htm
- 松ヶ島城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1755
- 松ヶ島城|日本全国の城をめぐる - つちやうみまる https://yamauchi-man.com/chihou/shiro_matsugashimajou.html
- 松ヶ島城跡 - 文化情報 - お肉のまち 松阪市公式ホームページ https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/matsugashimajyoato.html
- 三重の城 松ヶ島城 https://shiro200303.sakura.ne.jp/matugashima.html
- 2020年11月9日 松ヶ島城(三重県松坂市) - Castle.TATOの城郭訪問外史 https://castletato-visit.blog.jp/archives/10474820.html
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- 5、蒲生氏郷 - わたしたちの松阪市 http://fukudokuhon.jp/2019/6hatten/6hatten_g06.html
- 松阪牛はなぜ高いのか、松坂城で考えた https://yamasan-aruku.com/aruku-240/
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- 【 織田信雄が築き、蒲生氏郷も入った「松ヶ島城」(お城編)】 - 松阪市 https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/31536.pdf
- 松ヶ島城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E3%83%B6%E5%B3%B6%E5%9F%8E
- 三重松阪 愛宕山 龍泉寺 - 龍泉寺縁起 - グーペ https://r.goope.jp/atagosanryusenji/free/engi
- 三重県 (松阪市) 龍泉寺(愛宕山) | みぞかつのぶらり散歩 https://ameblo.jp/mizokatsu/entry-12628746159.html
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