最終更新日 2025-08-21

柳川城

蒲池氏築城の柳川城は堀割を活かした「水の城」として難攻不落。立花宗茂、田中吉政が治めるも焼失。堀割は今も残り、水郷柳川の象徴。

筑後の要害、水の城「柳川城」の興亡史

序章:水郷に浮かぶ難攻不落の城

柳川の地理的特性と城の性格

福岡県南部に広がる筑後平野、その最西南端に位置する柳川は、日本最大級の河川である筑後川と矢部川が有明海へと注ぐ過程で形成された、広大かつ低平な湿地帯である 1 。この地域特有の、水分を豊富に含んだ軟弱な地盤は、古くから人々の生活を規定し、同時にこの地に築かれた城の性格をも決定づけた。柳川城は、この地理的特性を弱点ではなく、むしろ防御上の最大の利点として活用した城郭であった。城郭から城下町全体に至るまで、無数の掘割、すなわちクリークが縦横無尽に巡らされており、城全体が水に浮かぶ要塞としての様相を呈していた。この構造こそが、柳川城を単なる平城とは一線を画す「水の城」たらしめた根源である 1

「舞鶴城」の雅称と戦略的重要性

柳川城は、その優美な姿から「舞鶴城(まいづるじょう)」という雅称でも呼ばれた 2 。これは、城のシルエットが翼を広げた鶴が舞う姿に似ていたことに由来するとされる説が有力であり、福岡城や唐津城など、九州の他の名城にも見られる雅称であることから、当時の武将たちの美意識を反映していると言えよう 3

しかし、その優美な呼び名とは裏腹に、柳川城が置かれた地政学的な環境は極めて過酷であった。戦国時代、九州は北部に豊後の大友氏、西部に肥前の龍造寺氏、そして南部に薩摩の島津氏という三大勢力が覇を競う、まさに群雄割拠の時代であった 4 。筑後国、とりわけ柳川城が位置する南筑後は、これら三大勢力の力がぶつかり合う緩衝地帯であり、常に緊張の最前線に晒されていた 5 。このような状況下で、柳川城は筑後支配の鍵を握る戦略的拠点として、極めて重要な意味を持っていたのである。

難攻不落の城の評価

柳川城の堅固さは、当時の武将たちの間で広く知れ渡っており、それを端的に示すのが「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」という戯れ歌である 2 。これは、主家である大友氏の陣中で歌われたものと伝わっており、その意味するところは「柳川城を攻略するには三年もの歳月を要するが、それに比べれば肥後の城は三月、肥前や筑前の城に至っては朝飯前に過ぎない」というものであった。この歌は、柳川城が単に堅固であるという物理的な評価を超え、敵対勢力にとって、その攻略がいかに時間的、経済的に大きな負担を強いるものであったかを物語っている。

戦国時代の合戦において、兵站の維持は勝敗を左右する最重要課題の一つであった。長期にわたる包囲戦は、攻撃側に膨大な兵糧と物資の消費を強いるだけでなく、その間に本国が手薄になるという戦略的危険をもたらす。したがって、柳川城の防御思想の核心は、敵に「落とせない」と思わせるだけでなく、「攻略に要する時間的コストが見合わない」と判断させることにあった。この「時間的防御」という概念こそが、柳川城を九州屈指の難攻不落の城として名を馳せしめた本質であり、敵将の戦略的意思決定そのものに影響を与える強力な抑止力として機能していたのである。

時代

主要城主

在城期間(西暦)

石高(推定含む)

柳川城に関わる特記事項

戦国時代

蒲池治久

1501年頃

不明

蒲池城の支城として柳川城を築城 8

戦国時代

蒲池鑑盛

永禄年間(1558年~)

約12万石

水路を整備し、水の城としての基礎を固める 8

戦国時代

蒲池鎮漣

~1581年

約12万石

龍造寺軍による長期籠城戦に耐えるも、謀殺される 8

安土桃山時代

(龍造寺氏支配)

1581年~1587年

-

鍋島直茂、龍造寺家晴らが城代として入る 8

安土桃山時代

立花宗茂

1587年~1600年

13万2千石

豊臣秀吉より拝領。城の修築に着手するも関ヶ原の戦いで改易 10

江戸時代初期

田中吉政

1600年~1609年

32万5千石

五層天守を含む大規模改修を行い、近世城郭として完成させる 12

江戸時代初期

田中忠政

1609年~1620年

32万5千石

嗣子なく死去し、田中家は改易となる 14

江戸時代~幕末

立花宗茂(再封)

1620年~1638年

10万9千石

旧領に奇跡の復帰。以降、立花家が代々藩主を務める 15

第一部:蒲池氏の栄華と悲劇

第一章:築城と筑後最大勢力への道

柳川城の起源

柳川城の起源については複数の説が存在する。一つは、承平・天慶の乱(10世紀)において、藤原純友の弟である純乗の軍勢に対抗するため、大宰権帥の橘公頼が築いた砦をそのルーツとする説である 8 。また、逆に藤原純友一族が築いたとする説も伝えられている 16 。しかし、これらの説は、後に蒲池氏の本城であった「蒲池城」の来歴と混同されている可能性が高いと指摘されており、戦国時代の城郭としての柳川城とは直接的な繋がりが薄いと考えられている 6

より確実な説として、今日の柳川城の直接的な前身は、文亀年間(1501年~1504年)に、当時蒲池城を本拠としていた蒲池治久が、自らの支城として築いたものとされている 8 。当初は広大な湿地帯に浮かぶ小規模な砦に過ぎなかったと推測される。

蒲池氏の台頭と柳川城の本城化

蒲池氏は、鎌倉時代に筑後国三潴郡蒲池庄の地頭職を得て以来、この地に根を張ってきた名族である 18 。室町時代には国人領主として勢力を拡大し、戦国時代に至って、蒲池治久の代に本拠地を従来の蒲池城から、より水利に恵まれた柳川へと移した 19 。この戦略的決断が、蒲池氏を筑後最大の勢力へと飛躍させる礎となった。

その後、治久の孫にあたる蒲池鑑盛(法名:宗雪)の時代に、柳川城は本格的な改修と拡張を受け、名実ともに蒲池氏の本城となった 8 。鑑盛は優れた知将であると同時に、築城家としても非凡な才能を持っていた。彼は柳川の地形を徹底的に分析し、城の周囲に複雑な水路を縦横に張り巡らせることで、天然の要害をさらに堅固なものへと造り変えた 8 。これにより、柳川城は九州屈指の難攻不落を誇る「水の城」としての性格を確立したのである。

蒲池鑑盛の人物像と最盛期

蒲池鑑盛は、その武勇や知略だけでなく、人間性においても高く評価された人物であった。「義心は鉄のごとし」と称された彼は、主家である豊後の大友氏に対して終始忠誠を尽くした 18 。また、主君である少弐氏に背いたとして追討を受けていた肥前の龍造寺家兼が筑後へ落ち延びてきた際には、その一行を手厚く保護し、再起の機会を与えたという逸話も残っている 18 。この行為は、鑑盛の情の厚さと、敵対する可能性のある相手にさえ仁政を施す度量の大きさを示している。

鑑盛と、その跡を継いだ子・鎮漣(しげなみ、史料によっては鎮並とも記される)の時代に、蒲池氏は最盛期を迎える。筑後十五城の筆頭大名として、その勢力は石高にして約12万石に相当したと記録されており、筑後国において他の追随を許さない大名分となっていた 8

第二章:龍造寺氏の謀略と蒲池氏の滅亡

龍造寺隆信との関係悪化

天正6年(1578年)、大友氏は日向の耳川において島津氏に歴史的な大敗を喫する。この「耳川の戦い」で、蒲池鑑盛は大友方として奮戦し、壮絶な戦死を遂げた 12 。父の死後、家督を継いだ蒲池鎮漣は、大友氏の衰退と、肥前で急速に勢力を拡大する龍造寺隆信の台頭という、九州の勢力図の激変に直面する。鎮漣は、当初は龍造寺氏に従属することで家の存続を図った。しかし、隆信の傲慢な態度や、辺春氏攻めにおける待遇などを巡って両者の間に亀裂が生じ、鎮漣は次第に隆信からの自立を模索するようになる 19

天正8年の柳川城籠城戦

鎮漣の離反の動きを察知した龍造寺隆信は、天正8年(1580年)3月、これを叛意とみなし、重臣の鍋島直茂らを総大将とする2万とも言われる大軍を派遣し、柳川城を包囲させた 8 。これに対し、蒲池鎮漣は城兵を固く結束させ、城にかかる橋を全て破壊し、堀をさらに深く掘り下げ、川筋には逆茂木や乱杭をびっしりと打ち込むなど、徹底した籠城策で迎え撃った 9

龍造寺軍は数ヶ月にわたり、あらゆる手段を用いて猛攻を仕掛けたが、水の城の堅牢な守りを打ち破ることはできなかった 7 。この籠城戦は、蒲池鑑盛が築き上げた柳川城の防御システムがいかに優れていたかを実戦で証明する結果となった。三百日以上にも及ぶ長期の包囲戦の末、龍造寺軍は疲弊し、最終的には蒲池氏の姻戚でもあった田尻鑑種の仲介によって和睦が成立し、龍造寺軍は撤退した 9

鎮漣謀殺と蒲池氏の終焉

武力で柳川城を落とせなかった龍造寺隆信は、より非情な謀略に打って出る。和睦の翌年である天正9年(1581年)5月、隆信は猿楽の宴を催すという名目で、鎮漣を肥前の佐嘉城へと誘い出した 16 。隆信の真意を疑いながらも、和睦の手前断りきれなかった鎮漣は、少数の家臣を伴って佐嘉へと向かった。

佐嘉城に入り、表向きは歓待を受けた鎮漣一行が、隆信の居城である須古城へ向かう途中、与賀馬場(現在の佐賀市与賀町)に差し掛かったところで、事態は急変する。そこには隆信の命を受けた伏兵が待ち構えており、鎮漣一行は四方から取り囲まれた。不意を突かれながらも、鎮漣と家臣たちは奮戦したが、多勢に無勢の状況下でことごとく討ち取られてしまった 9

鎮漣の謀殺という凶報が柳川に届くと、隆信は間髪入れずに田尻鑑種に柳川城の残党掃討を命じた。鑑種にとって蒲池氏は妻の実家であったが、主君の命令には逆らえなかった 19 。城内に残っていた鎮漣の弟・蒲池統春らは一度は城を明け渡して恭順の意を示したが、結局は許されず攻め滅ぼされた。また、支城の塩塚城に籠もっていた鎮漣の夫人・玉鶴姫をはじめとする一族郎党も、龍造寺軍の攻撃の前に自決、あるいは討死し、ここに鎌倉時代から続いた筑後の名門・蒲池宗家は悲劇的な最期を遂げたのである 6

この一連の出来事は、戦国時代の非情さを象徴する事件として語り継がれている。かつて蒲池鑑盛が窮地の龍造寺家兼を救った大恩は、その子である隆信の領土拡大という野心の前では、反故にされるべき過去の出来事でしかなかった。この恩を仇で返すような仕打ちは、龍造寺家臣団の内部ですら、龍造寺四天王の一人である百武賢兼が「大恩ある家を滅ぼすこと」に疑問を呈したと伝えられるほど、当時の道徳観念から見ても衝撃的なものであった 18 。柳川城が武力ではなく謀略によって主を失ったという事実は、城の物理的な防御力がいかに高くとも、政治的な駆け引きや人間的な脆弱性が大名の運命を左右した戦国の現実を冷徹に示している。それは、中世的な「信義」や「恩義」といった価値観が、冷徹な実力主義という新しい時代の論理によって駆逐されていく、時代の転換点を象徴する悲劇でもあった。

第二部:乱世の英雄、立花宗茂の時代

第一章:新たな城主の誕生

豊臣秀吉の九州平定と宗茂の入城

蒲池氏滅亡後、柳川城は龍造寺氏の間接統治下に置かれ、鍋島直茂や龍造寺家晴らが城代として入った 8 。しかし、その支配も長くは続かなかった。天正12年(1584年)、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍との沖田畷の戦いで戦死すると、九州の覇権は島津氏の手に移る。この島津氏の九州統一を阻止すべく、天下人・豊臣秀吉が自ら大軍を率いて九州征伐に乗り出した。

この九州平定において、一人の若き武将がその名を天下に轟かせた。大友氏の重臣・高橋紹運の子にして、同じく大友氏の宿老・戸次道雪の婿養子となった立花宗茂である。宗茂は、島津の大軍に包囲されながらも巧みな戦術でこれを撃退し、秀吉から「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と絶賛された 22 。天正15年(1587年)、九州平定が完了すると、秀吉は宗茂の功績を高く評価し、彼を主家であった大友家から独立した大名として取り立て、筑後国南部の柳川に13万2千石の領地を与えた 8 。こうして立花宗茂は、かつて養父・戸次道雪ですら攻めあぐねたという難攻不落の柳川城に、新たな城主として入城することになったのである 7

第一期統治時代の城郭整備

柳川の新たな領主となった宗茂であったが、入城後すぐに腰を据えて領国経営に専念できる状況ではなかった。肥後国で発生した国人一揆の鎮圧に駆り出され、その後は豊臣政権の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に主力として従軍するなど、息つく暇もなく戦陣に明け暮れる日々が続いた 10

このような多忙な状況下でも、宗茂は領国統治をおろそかにせず、領内の総検地を実施して支配体制の基礎を固めるとともに、柳川城の修築にも着手した 10 。現存する記録によれば、文禄5年(1596年)頃から天守閣の建造を含む本格的な改修が計画され、慶長4年(1599年)の日付が刻まれた橋の擬宝珠が発見されていることから、三ノ丸から二ノ丸へと至る橋がこの時期に架けられたことがわかる 11 。しかし、宗茂が思い描いた壮大な城郭整備計画は、彼の運命を大きく揺るがす歴史的な出来事によって、志半ばで中断されることとなる。

第二章:関ヶ原の戦いと流転の運命

西軍への加担と改易

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突する「関ヶ原の戦い」が勃発する。立花宗茂は、秀吉から受けた大恩に報いるため、迷うことなく西軍への加担を決意した。しかし、彼の主戦場は美濃関ヶ原ではなかった。西軍本隊に合流すべく進軍する途中、東軍に与した京極高次が籠城する近江大津城の攻略戦に参加することになり、この戦いに時間を費やした結果、9月15日の関ヶ原本戦には間に合わなかったのである 11

西軍がわずか一日で壊滅的な敗北を喫したとの報を受け、宗茂はいったん大坂城に入るが、その後、本拠地である柳川へと帰還した。しかし、その頃にはすでに九州の情勢も一変していた。豊前の黒田如水(官兵衛)が東軍方として蜂起し、九州各地の西軍方の大名を次々と降伏させていたのである 25 。柳川城も、黒田軍に加えて肥後の加藤清正、肥前の鍋島直茂らの大軍に包囲されるに至った。宗茂は城兵を率いて激しく抵抗したが、最終的には旧知の間柄であった加藤清正の説得を受け入れ、家臣たちの将来を思い、開城を決断した 8

この決断の結果、立花宗茂は徳川家康から領地を全て没収され、大名としての地位を失う「改易」という最も重い処分を受けた 10 。ここに、柳川における宗茂の第一期統治は終わりを告げ、彼は一介の浪人として流浪の生活を送ることになる。

第三章:田中吉政による大改修

「土木の神様」田中吉政の入城

立花宗茂が去った後の柳川城に、新たな城主として入城したのは、田中吉政であった。近江出身の吉政は、豊臣秀次の家臣から身を起こし、その卓越した実務能力で頭角を現した人物である 10 。関ヶ原の戦いではいち早く東軍に与し、本戦で敗走した西軍の総大将・石田三成を捕縛するという大功を挙げた。この功績により、家康から筑後一国32万5千石を与えられ、柳川城をその本拠地としたのである 10

近世城郭としての柳川城の完成

柳川に入った吉政は、その領国の中心にふさわしい城郭を築くべく、直ちに大規模な改修事業に着手した。この事業は、立花宗茂が計画しながらも中断せざるを得なかったものを遥かに凌ぐ規模であった。現存する「慶長七年台所入之掟」といった同時代の史料には、吉政が国元の家臣に対し、天守台の石垣普請や資材の調達方法に至るまで、極めて詳細かつ具体的な指示を与えている様子が記録されている 13

この吉政主導の大改修によって、柳川城はその姿を大きく変貌させた。本丸の南西隅には、威容を誇る五層の天守閣が新たに建造され、本丸、二ノ丸、三ノ丸といった主要な曲輪が広大かつ幾重にも巡らされた堀によって明確に区画された 13 。現在、我々が「御城御絵図」などの絵図で目にすることができる柳川城の基本構造、すなわち「縄張り」は、この田中吉政の時代に完成したものである 13

城下町の整備と治水事業

田中吉政の功績は、城郭の改修だけに留まらない。彼は、城下町の新たな町割りを実施し、商業地区や武家屋敷を整然と配置した。また、領国の経済を活性化させるため、柳川と北の拠点である久留米とを結ぶ街道を整備した。さらに、柳川の地理的特性を深く理解していた吉政は、有明海の干拓事業にも積極的に取り組み、後に「慶長本土居」と呼ばれることになる長大な堤防を築造した 29 。この堤防は、高潮から領地を守るだけでなく、新たな耕地を生み出すための基礎となり、その後の柳川の発展に大きく寄与した。現在の柳川の都市構造や水路網の骨格は、この田中吉政によって築かれたと言っても過言ではなく、彼は後世「土木の神様」とも称されるようになった 29

ここに、柳川城の歴史における一つの興味深い事実が浮かび上がる。柳川城と聞いて多くの人が思い浮かべる英雄は立花宗茂であるが、我々が知る近世城郭としての柳川城の物理的な「形」を完成させたのは、わずか二代でその地を去った田中吉政であった。宗茂が柳川の地に不屈の精神と武勇の「物語」を与えたとすれば、吉政は卓越した行政手腕と土木技術によって、その舞台となる堅固な「形」を与えたのである。戦国の英雄と近世の行政官、この異なるタイプの二人の領主の功績が重層的に存在することこそが、柳川城の歴史に他にはない深みと奥行きをもたらしている。

第四章:奇跡の帰還

田中氏の改易と宗茂の再封

田中吉政は慶長14年(1609年)に死去し、その跡を子の忠政が継いだ。しかし、元和6年(1620年)、忠政が跡継ぎのないまま急逝したため、田中家は無嗣断絶となり、幕府から改易を命じられた 12

筑後32万石の領地が空席となったことを受け、二代将軍・徳川秀忠は異例の決断を下す。かつてこの地の領主であり、浪人生活を経て奥州棚倉(たなぐら)で1万石の小大名として復帰していた立花宗茂を、再び旧領である柳川10万9千石の領主として封じ直したのである 10 。関ヶ原の戦いで西軍に与し、一度は改易された大名が、再びかつての領地への復帰を果たした例は、日本の大名史上、立花宗茂ただ一人であり、これは彼の武勇と誠実な人柄が、敵であったはずの徳川家からも高く評価されていたことの証左であった 22

柳川藩の確立と立花家の治世

20年ぶりに故郷の土を踏んだ宗茂は、かつて加藤清正らに預けられていた旧家臣たちを呼び戻し、柳川藩の初代藩主として藩政の確立に尽力した 10 。寛永14年(1637年)に大規模なキリシタン一揆である「島原の乱」が勃発した際には、70歳を超える高齢でありながら自ら甲冑を身につけて出陣し、その豊富な実戦経験から幕府軍の総大将に的確な助言を与えるなど、戦国の生き証人として重きをなした 11

宗茂の復帰以降、柳川城は明治維新に至るまでの約250年間にわたり、立花家歴代藩主の居城として、また柳川藩の藩庁として、筑後南部の政治・経済・文化の中心であり続けたのである 15

第三部:「水の城」の構造と遺産

時代区分

城郭の規模・構造

天守

堀の構造

城下町

主な出来事・特徴

蒲池氏時代

湿地帯に築かれた支城から本城へ発展。土塁と堀が中心。

不明(存在しなかった可能性が高い)

自然の河川や湿地を利用した原始的な堀。鑑盛により拡張整備 8

城の周囲に小規模な町が形成。

水の利を活かした防御思想の確立。龍造寺軍の長期包囲に耐える 9

立花宗茂(第一期)

13万石の居城として修築に着手。曲輪の整備が進む。

建造計画があったとされるが、改易により中断 11

既存の堀を維持しつつ、一部で橋の架け替えなどが行われる 24

検地が行われ、支配体制が強化される 10

戦役が続き、大規模な普請には至らず。

田中吉政時代

32万石の居城として大規模改修。近世城郭として完成。

五層の天守を新たに建造 13

内堀、中堀、外堀が明確に区画され、石垣も多用される。

城下町全体が計画的に再整備され、街道も敷設される 10

柳川城の物理的な構造がこの時代に決定づけられる。

立花宗茂(復帰後)~立花藩時代

田中氏時代の城郭構造を基本的に踏襲。

田中氏建造の天守を維持。明治5年に焼失 20

掘割網は維持管理され、生活・防災機能も重視される。

藩政の中心として城下町は成熟。

藩主別邸「御花」が造営される 8

第一章:城郭の縄張りと防御システム

絵図から読み解く縄張り

柳川城の具体的な構造は、幸いにも江戸時代に作成された複数の絵図によって今日に伝えられている。特に、寛政3年(1791年)の「御城御絵図」や、江戸後期の地誌である「柳河明証図会」は、城の最盛期の姿を知る上で極めて貴重な史料である 13

これらの絵図によれば、柳川城の城郭は、城主の居住空間と政務の中枢である本丸、そしてそれを補助する二ノ丸が内堀によって厳重に囲まれ、その外側には重臣たちの屋敷が建ち並ぶ三ノ丸が配置されていた 15 。さらにその外周を広大な外堀が巡るという、渦が中心を取り巻くような「渦郭式(かかくしき)」と呼ばれる縄張りを採用していたことがわかる 36 。そして、本丸の南西隅には、田中吉政によって築かれた五層の天守が聳え立ち、城の権威を象徴していた 15

掘割網と防御思想

しかし、柳川城の真の価値は、本丸や天守といった中心部の構造だけにあるのではない。その最大の特徴は、城郭から城下町全体、さらには周辺の田園地帯にまで毛細血管のように張り巡らされた、総延長が実に930キロメートルにも及ぶと推定される緻密な掘割(堀川)のネットワークにあった 8

これらの掘割は、単に土地を区画する境界線や生活用水路であるだけでなく、有事の際には城下町全体を一つの巨大な防御施設へと変貌させるための軍事インフラであった。城下に至る道は、意図的に鍵型に何度も折れ曲がるように設計されており、敵の進軍速度を著しく低下させ、側面からの攻撃を容易にするための工夫が凝らされていた 12 。町全体が、敵を迷わせ、消耗させるための巨大な迷路として機能したのである。

逆水攻めの仕組み

そして、この水の城の防御システムを究極の段階へと高めるのが、「逆水攻め」とも言うべき、他に類を見ない独創的な仕掛けであった 38 。柳川城下には、外部の河川から城内へと水を引き込むための重要な水門、「城堀水門」が存在した 38

敵の大軍が城下に迫った際、城方はこの水門の操作によって城内への水の流入を制御し、さらに上流に位置する矢部川の堤防を計画的に切り崩すことで、膨大な量の水を意図的に城下へ氾濫させることができたと伝えられている 38 。この作戦が実行されれば、城の中心部だけが島のように水上に残り、周囲の城下町一帯は水没して、大軍による物理的な包囲を不可能にする。これは、自らの城下を犠牲にしてでも城を守り抜くという、非情かつ合理的な選択を前提とした防御策であった。このシステムは、柳川の地形を最大限に利用した究極の焦土作戦であり、この城が単なる建築物ではなく、自然環境と一体化した生きた防御システムであったことを示している。この掘割網は、平時においては生活を支えるインフラとして機能し、有事においては領国全体を守るための最終兵器へとその姿を変える、極めて高度な多目的システムだったのである。

第二章:城の終焉と現代に息づく面影

明治維新と謎の火災

徳川幕府の終焉と明治維新という時代の大きなうねりの中、柳川城もまたその運命の転換点を迎えた。廃藩置県によって柳川藩が廃止された後も、城の天守閣をはじめとする主要な建造物はしばらくの間その姿を留めていた。しかし、明治5年(1872年)1月18日の夕刻、城内から突如として火の手が上がり、慶長年間以来、水郷の地に威容を誇ってきた五層の天守閣は、わずか一夜にして灰燼に帰した 12

公式な出火原因は不明とされているが、この時期、全国各地で旧武士階級による新政府への不満が渦巻いていたことから、不平士族が反乱の拠点として城を使用することを未然に防ぐため、意図的に放火されたのではないかという説も根強く囁かれている 42 。真相は歴史の闇の中であるが、いずれにせよ、この火災によって柳川城はその物理的な象徴を永遠に失うこととなった。

城跡の変遷と現状

天守焼失後も、城の各所に残されていた壮大な石垣は、その後の柳川の歴史の中で姿を消していった。特に、明治7年(1874年)に発生した大風によって有明海の海岸堤防が決壊した際、その修復工事の資材として城の石垣が大量に転用されたことが、遺構の喪失に拍車をかけたと記録されている 43

現在、かつて本丸と二ノ丸があった場所は、柳川市立柳城中学校と柳川高等学校の敷地となっており、往時の面影を直接偲ぶことは難しい 13 。しかし、本丸跡の一部は柳川市の史跡として指定・保存されており、天守台の跡地は地元の人々から「へそくり山」という愛称で呼ばれる小高い丘として親しまれている 13

城郭遺構としての掘割網

建物や石垣といった目に見える遺構の多くは失われたが、柳川城の本質とも言える掘割網は、奇跡的にもほぼ往時の姿のまま現代に受け継がれている 15 。これらの掘割は、もはや軍事的な意味合いを持つことはないが、柳川の街の骨格を形成し、「水郷柳川」として知られる美しい景観の源泉となっている。

今日、柳川観光の最大の魅力となっている「川下り」で、どんこ舟がゆっくりと進む水路は、かつての城の中堀や外堀そのものである 43 。観光客は舟に揺られながら、柳の木々が水面に影を落とす風景を楽しむと同時に、知らず知らずのうちに、かつての広大な城の縄張りを体感しているのである。柳川城は、天守という「点」の遺構ではなく、掘割網という「面」の遺構として、今もなお街の中に生き続けている。

第三章:歴史を物語る至宝

立花家史料館

柳川城の歴史を今に伝えるもう一つの重要な存在が、城の西側に位置する「立花家史料館」である。この史料館は、江戸時代に藩主の別邸として造営された「御花(おはな)」(現在の柳川藩主立花邸 御花)の広大な敷地内にあり、立花家に代々伝来してきた数多くの貴重な美術工芸品や古文書を収蔵・展示している 23

収蔵品は、国宝1点、重要文化財数点を含む約5000点にも及び、初代藩主・立花宗茂の時代から明治維新、そして近代の伯爵家に至るまで、400年以上にわたる立花家の歴史と、柳川藩の豊かな文化を雄弁に物語っている 22

立花宗茂の甲冑

史料館が所蔵する至宝の中でも、ひときわ強い輝きを放つのが、初代藩主・立花宗茂が実際に戦場で身にまとったとされる甲冑の数々である。これらは、宗茂という稀代の武将の人物像を理解する上で欠かせない一級の史料と言える。

  • 伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足(いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく):
    立花家を代表する甲冑として知られる一領。全体的には無駄な装飾を排した質実剛健な作りでありながら、胴を包む落ち着いた栗色の革、鮮やかな朱漆で塗られた草摺(くさずり)、そして腿を守る佩楯(はいだて)にあしらわれた銀箔という、大胆かつ洗練された色彩の組み合わせに、宗茂の武将としての美意識が感じられる 51。
  • 鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく):
    胴と兜に、立花家の家紋である「月輪(がちりん)」(輪貫文)を大きく配した、迫力ある甲冑。同時代の他の具足と比較して大ぶりで、総重量も約12キログラムと非常に重い作りになっている。これは、宗茂自身が優れた体格の持ち主であったことを物語ると同時に、戦国末期に普及した鉄砲の威力に対抗するための実戦的な配慮がなされていたことを示唆している 51。
  • 金箔押桃形兜(きんぱくおしももなりかぶと):
    その名の通り、桃の果実をかたどった形状が特徴的な兜。これは、宗茂の側に控える親衛隊が、部隊の結束と威容を示すために揃いで着用したものと伝えられている。西洋甲冑の影響も見て取れるこの兜のデザインには、南蛮文化をいち早く取り入れた大友氏の気風が反映されているとも言われる。200頭以上というまとまった数が現存している例は全国的にも極めて稀であり、戦国時代の部隊編成を具体的に知る上で大変貴重な資料である 53。

これらの武具は、単なる防具ではなく、立花宗茂という武将の合理性、美意識、そして戦場における哲学までもが凝縮された、歴史の証人なのである。

結論:柳川城が歴史に刻んだもの

柳川城の歴史を深く掘り下げると、それが単一の物語ではなく、幾重にも折り重なった複雑で豊かな歴史の層から成り立っていることが明らかになる。それは、一人の英雄の活躍譚に集約されるものではなく、この筑後の地に深く根を張り、栄華を築きながらも悲劇的な最期を遂げた国人領主・蒲池氏の物語、戦国の乱世を不屈の精神で駆け抜け、奇跡の帰還を果たした英雄・立花宗茂の波乱万丈の生涯、そして、近世という新しい時代の礎を卓越した行政手腕で築き上げた田中吉政の功績という、三者三様の物語が刻まれた、重層的な歴史の舞台であった。

また、柳川城は日本の城郭史において、その構造と思想の双方で特異な位置を占めている。有明海に面した低湿地帯という自然の地形を弱点ではなく最大の利点と捉え、城郭から城下町全体に至るまでを緻密な掘割網で覆い尽くした「水の城」の思想は、他に類を見ない独創性に満ちている。このシステムは、有事における軍事防衛機能だけでなく、平時における治水、利水、区画整理、水運といった多様な機能を高度に統合した、先進的な都市計画の産物でもあった。

そして最も特筆すべきは、柳川城の遺産のあり方である。明治の火災によって天守閣という物理的な象徴は失われた。しかし、城の本質であった掘割網は、都市の骨格として、また人々の生活空間として、21世紀の現代に至るまで生き続けている。それは今や「水郷柳川」という文化的な景観を形成し、多くの人々を魅了する観光資源となっている。物理的な建造物を失いながらも、その設計思想と構造的本質が都市の中に溶け込み、新たな価値を生み出し続けている柳川の事例は、歴史的遺産がどのように現代社会と共生し、未来へと継承されうるかを示す、一つの優れたモデルと言えるだろう。柳川城は、過去の遺物としてではなく、今もなお柳川という街のアイデンティティを形成し続ける、生きた城郭遺産なのである。

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