根知城
越後と信濃の国境に位置する根知城は、根小屋城・上城山城・栗山城からなる複合山城。塩の道を扼する戦略的要衝で、上杉謙信や武田氏の抗争の舞台となった。堀氏の時代に廃城となるも、その堅固な遺構は戦国の築城術を今に伝える。
越信国境の要衝・根知城 ―塩の道を扼す戦略拠点の実像―
序章:忘れられた要塞 ― 根知城の全体像
新潟県糸魚川市の南部に広がる根知谷。この地に、戦国時代の緊張を今に伝える巨大な山城、根知城が静かに眠っている。その名は単一の城を指すものではなく、それぞれが独立した機能を持つ「根小屋城(ねごやじょう)」、「上城山城(かみじょうやまじょう)」、そして「栗山城(くりやまじょう)」という三つの城郭が一体となって機能した、一大防衛システムの総称である 1 。一般的には、この複合城郭の中核をなす根小屋城(標高約320メートル)が「根知城」として知られている 4 。本報告書は、この複合型山城が戦国時代、特に越後の上杉氏と甲斐・信濃の武田氏が繰り広げた熾烈な抗争の中で果たした戦略的役割を、その特異な構造、歴史の変遷、そして地政学的な環境から徹底的に解明することを目的とする。
根知城の最大の特徴は、単一の拠点ではなく、それぞれが明確な役割を担う城郭群として設計されている点にある。山麓に位置し、平時の政務と居住を担ったであろう「館城」、山腹に築かれ、主たる戦闘拠点として機能した「中核城郭」、そして山頂に構えられた最終防衛線としての「詰城」。これらが有機的に連携する構造は、戦国期における築城思想の高度化と、国境防衛にかける執念を如実に示す稀有な事例と言える 3 。
本報告書では、第一章で根知城が築かれた戦略的環境、すなわち地政学的な重要性と経済的価値を分析する。続く第二章では、三つの城が一体となった防衛システムの構造と縄張りを詳細に検討し、その軍事的思想を読み解く。第三章では、在地領主の時代から上杉、武田、そして堀氏へと続く城主の変遷を追い、城が辿った激動の歴史を詳述する。そして終章において、これらの分析を統合し、根知城が戦国史において持つ真の意義を総括する。
第一章:戦略的環境 ― なぜこの地が重要だったのか
根知城の存在意義を理解するためには、まずその立地が持つ軍事的・経済的な重要性を把握する必要がある。この城は単に山深い場所に築かれた砦ではなく、越後と信濃、二つの大国の運命を左右する戦略的要衝に、明確な意図をもって配置されていた。
第一節:越後と信濃を分かつ地政学的要衝
根知城が位置する根知谷は、越後国(現在の新潟県)と信濃国(現在の長野県)を結ぶ重要な回廊地帯である。上杉氏の本拠地である春日山城から見れば、信濃方面、特に武田氏の勢力圏からの侵攻に対する最前線であり、同時に信濃への進出を図る際の橋頭堡ともなる、極めて重要な場所であった 1 。
その地形は、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい。城郭群の西側を姫川が、北から東にかけてを根知川が流れ、三方を川によって囲まれた防御的な地形を形成している 1 。これらの河川は、平時には交通路として機能する一方、有事には天然の堀となり、大軍の展開を阻害し、渡河点を限定させることで防御側に多大な利益をもたらした。頂上からは根知谷一帯はもちろん、北は日本海まで望むことができ、敵の動向をいち早く察知する監視拠点としても理想的な立地であった 2 。
第二節:戦国の生命線「塩の道」の掌握
根知城が持つ戦略的重要性をさらに高めているのが、城の眼下を通過する千国街道、通称「塩の道」の存在である 8 。この街道は、日本海沿岸の糸魚川で生産される塩を、山国である信濃の松本まで運ぶための経済の大動脈であった 9 。
戦国時代において、塩は単なる調味料ではない。食料の長期保存に不可欠であり、武具の製造や、軍馬の飼育にも必須の、極めて重要な戦略物資であった。したがって、この塩の道を掌握することは、敵対勢力、特に内陸国である武田氏への兵糧攻めを可能にすると同時に、自軍の経済的・軍事的な安定を保証するものであった。上杉謙信が宿敵である武田信玄に塩を送ったとされる有名な逸話も、まさにこの塩の道が舞台であり、その支配がいかに重要であったかを物語っている 10 。
根知城の真の価値は、単なる国境の砦という軍事的な側面に留まらない。それは、塩の道という経済路を物理的に支配するための「関所」としての機能と不可分に結びついていた。城は街道を見下ろす位置にあり、その通行を完全に管理下に置くことができた。これは、信濃への塩の供給をコントロールし、武田氏に対して強力な経済的圧力をかけることができることを意味する。つまり、根知城の存在は、受動的な防衛のためだけでなく、経済支配という能動的な戦略目的を達成するための重要な手段であった。軍事力によって経済的優位性を確保し、その経済力をさらなる軍事力に転換するという、戦国大名の典型的な拡大戦略を体現した城郭だったのである。
第二章:城郭の構造と機能 ― 戦国の築城術を読む
根知城の縄張り(城の設計)は、戦国時代の山城が持つ実践的な特徴を色濃く残している。特に、根小屋城、上城山城、栗山城という三つの城が、それぞれ明確な役割を担いながら、尾根と谷という自然地形を最大限に活用して一体的な防衛ラインを構築している点は、特筆に値する。
第一節:中核拠点「根小屋城」の縄張り
根知城システムの中核をなすのが、標高約370メートル、比高(麓との高低差)約270メートルの尾根上に築かれた根小屋城である 11 。この城は、大規模な戦闘を想定して設計されており、複雑かつ堅固な防御施設が幾重にも張り巡らされている。
その構造は、尾根筋に沿って主要な郭(くるわ)を直線的に配置する連郭式を基本としている。尾根の最高所には、全体の司令塔として機能したと考えられる「主郭(本丸)」が置かれている。特筆すべきは、主郭の南側、すなわち詰城である上城山城へと続く尾根筋が、二重に設けられた巨大な「堀切(ほりきり)」によって厳重に遮断されている点である 12 。これにより、背後からの攻撃や、より高所からの侵入を徹底的に防ぐ意図が見て取れる。
主郭の北側には、比較的広く削平された「殿屋敷(とのやしき)」と呼ばれる郭が存在する。ここは城主の居館や政務の中心があった場所と推定され、その重要性を示すように、北面には根知城の遺構の中で唯一現存する石積みが確認されている 12 。さらにその北側には、「練兵場」と呼ばれる城内で最も広い平坦地が広がり、その名の通り兵の訓練や駐屯に使用されたと考えられている 12 。
根小屋城の特質は、その圧倒的な防御施設の数に集約される。現在確認されているだけでも、郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀(たてぼり)15という膨大な数の遺構が残されており、その規模の大きさと防御の執拗さを物語っている 1 。尾根を寸断するように掘られた堀切と、山の斜面を垂直に下るように掘られた竪堀を巧みに組み合わせることで、敵兵の横移動を妨げ、その動きを限定的なものにするという、戦国山城の典型的な設計思想が明確に見て取れる。
第二節:最終防衛線「上城山城」と居館「栗山城」
根知城の防衛システムは、中核である根小屋城だけで完結するものではない。より高所の最終防衛線と、山麓の居住・政務拠点が、その機能を補完している。
上城山城(詰城): 標高約527メートル、比高約420メートルという、根知城郭群の最高所に位置するのが上城山城である 14 。ここは、根小屋城が万が一陥落した場合の最後の砦、すなわち「詰城」としての役割を担っていた。また、その眺望の良さから、狼煙などを用いた春日山城への情報伝達拠点としても機能した可能性が高い。主郭は東西二段に分かれており、根小屋城へ続く尾根筋は、複数の堀切と竪堀によって厳重に固められている 16 。
栗山城(館城): 通称「ウツグラ館」とも呼ばれるこの城は、標高約170メートル、比高約70メートルの山麓に位置する、城主の平時の居館であったと考えられている 5 。単なる館ではなく、高さ3メートル、長さ50メートルにも及ぶ大規模な土塁と、「泥田堀(どろたぼり)」と呼ばれる幅5メートルの堀で囲まれており、平時の拠点でありながらも高い防御意識が見られるのが特徴である 5 。
第三節:三城一体の防衛思想
根知城の三つの城郭は、単に並存していたわけではない。山麓の「居館(栗山城)」、中腹の「主城(根小屋城)」、そして山頂の「詰城(上城山城)」という垂直的な配置は、多層的な縦深防御システムを構築することを意図した、極めて高度で実践的な戦国期の防衛思想の表れである。
このシステムが意図するところは、敵の攻撃に対し、段階的に後退しながらその戦力を消耗させることにある。まず攻撃側は、山麓の栗山城を攻略しなければならない。守備側はここで一定の抵抗を示しつつも、戦況が不利になればこれを放棄し、より堅固な中腹の根小屋城へと兵力を集中させることができる。根小屋城は前述の通り、無数の堀切や竪堀を持つ複雑な縄張りを誇り、その攻略には多大な時間と兵力の損耗を敵に強いることになる。そして、万が一根小屋城すらも危機に瀕した場合には、最終拠点である上城山城へと退避し、最後の抵抗を続けることが可能となる。このシステム全体が、敵の戦意と兵力を削ぎ、味方の援軍が到着するまでの貴重な時間を稼ぐための、巨大な遅滞戦闘装置として機能するよう設計されていたのである。これは、単なる「点」の防御ではなく、地形全体を活かした「線」と「面」で構成される、領域防御の先進的な考え方であった。
城郭名 |
役割 |
標高 / 比高 |
主要な遺構 |
備考 |
根小屋城 |
中核城郭・主戦場 |
約370m / 約270m |
本丸、殿屋敷、練兵場、多数の堀切・竪堀、石積 |
根知城全体の中心機能。大規模な戦闘を想定した設計。 |
上城山城 |
詰城・最終拠点 |
約527m / 約420m |
主郭(二段構成)、堀切、竪堀 |
最も険しい位置にあり、最終的な籠城や情報伝達を担う。 |
栗山城 |
館城・政務居館 |
約170m / 約70m |
館跡、大規模な土塁、泥田堀(沼田堀) |
平時の拠点。ウツグラ館とも呼ばれ、居住性を考慮。 |
第三章:歴史の奔流と根知城 ― 城主たちの興亡
根知城の堅固な遺構は、その背後にある激動の歴史を物語っている。在地領主の拠点から、上杉氏の対武田最前線へ、そして外交の駒として武田氏の手に渡り、最後は新たな時代の到来とともにその役目を終える。城主たちの興亡とともに、根知城の運命もまた大きく揺れ動いた。
第一節:創始と在地領主 ― 禰智氏の時代
根知城の正確な築城年代は詳らかではない。しかし、上杉謙信による大規模な改修が行われる以前から、この地を治めていた在地領主である禰智(ねち)氏が拠点を構えていた可能性が指摘されている 1 。謙信による築城、あるいは現在見られるような大規模な改修は、全くの無から始まったのではなく、既存の禰智氏の城砦を、対武田氏という国家規模の戦略目標に合わせて拡張・近代化したものと捉えるのが妥当であろう。これは、中央の強力な戦国大名が、在地領主(国人)の持つ軍事拠点や支配体制を自らの勢力圏に吸収・再編していくという、戦国時代における典型的なプロセスを反映している。
第二節:上杉謙信と村上義清 ― 対武田最前線の構築
根知城の歴史が大きく動くのは、上杉謙信と武田信玄の抗争が激化した時代である。天文22年(1553年)、信濃の猛将として知られた村上義清が、武田信玄の猛攻の前に本拠地・葛尾城を追われ、宿敵であった謙信を頼って越後へ落ち延びてきた 1 。
謙信はこの歴戦の将を厚遇し、永禄8年(1565年)、義清を根知城主に任命した 1 。これは、信濃の地理と武田の戦法を熟知した義清を国境防衛の要に据えることで、武田方に対する強力な牽制とする狙いがあった。義清の豊富な軍事経験は、根知城の大規模な改修に活かされたと考えられており、現在見られる要害堅固な遺構の多くが、この時代に整備されたものと伝えられている 1 。しかし、義清はついに故郷である信濃の地に戻ることはなく、この根知城でその生涯を終えた。麓の安福寺には、今も義清の墓と伝えられるものが残されており、根知城が彼にとっての終焉の地となったことを物語っている 1 。
第三節:激動の時代 ― 御館の乱と武田氏の影
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その後継者の座を巡って養子の上杉景勝と上杉景虎が争う「御館の乱」が勃発する。この内乱は、根知城の運命を再び大きく変えることになった。
当初、劣勢に立たされた景勝は、甲斐の武田勝頼に巨額の金と領地の割譲を条件に軍事支援を要請した。この時、割譲を約束された領地の中に、根知城と不動山城が含まれていたのである 17 。この出来事は、城が単なる軍事施設ではなく、外交交渉における極めて価値の高い「資産」であったことを示している。景勝は、自らの権力基盤を固めるという目的のために、国の重要な防衛線を切り売りするという苦渋の決断を迫られた。この甲越同盟の成立により、武田氏は長年の悲願であった日本海への出口を確保し、その勢力は一時的に頂点に達した 17 。
乱の終結後、約束通り根知城は武田方の支配下に入り、勝頼の弟である仁科盛信が城主(あるいは城代)として入城したとされる 1 。ただし、別の史料では、勝頼が景勝には内密に盛信を越後西浜へ進軍させ、根知城を降伏に追い込んだとも記されており 17 、武田の介入が、景勝の意図を超えた強い軍事圧力であった可能性も示唆される。この記述の相違は、御館の乱における上杉・武田間の、協力関係と緊張関係が同居した複雑な力学を反映していると言えよう。
第四節:終焉の刻 ― 堀氏の統治と廃城
武田氏による根知城支配は長くは続かなかった。天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、城は再び上杉氏の手に戻り、西方房家といった家臣が城主を務めた 12 。
しかし、根知城の歴史に終止符が打たれる時が迫っていた。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉景勝が会津120万石へ移封されると、越後は堀秀治の所領となった。これに伴い、根知城には秀治の一族である堀清重が入城する 12 。
翌慶長4年(1599年)、旧領回復を目指す上杉氏の旧家臣たちが一斉に蜂起する、いわゆる「上杉遺民一揆」が勃発した。この内乱に際し、堀清重は山城である根知城の防衛と維持の困難さを痛感した。山城は補給路を断たれやすく、孤立する危険性が高かったのである。この経験から、清重は根知城を破却・放棄することを決断した 6 。
根知城の廃城は、単に一つの城が役目を終えたというだけではない。それは、戦国時代の終焉と、近世的な統治体制への移行を象徴する出来事であった。堀氏は豊臣政権下の大名であり、その統治目的は領国全体の安定と経済的な掌握にあった。対武田という特定の軍事的脅威に対応するために最適化された根知城のような山城は、交通の便が悪く、城下町の発展も見込めないため、平時の統治拠点としては不向きであった。一揆という内乱を経てその脆弱性が露呈した結果、堀氏はより交通の要衝に位置し、軍事拠点と行政拠点を兼ね備えた近世的な城郭である清崎城を新たに築城することを選択した 6 。これは、城の役割が「戦うための砦」から「治めるための拠点」へと大きく変化したことを明確に示しており、根知城の廃城はその歴史的必然であったと言える。
終章:現代に遺るもの
慶長4年(1599年)にその歴史的役割を終えた根知城は、その後400年以上の時を経て、今なおその姿を根知谷の山中に留めている。昭和63年(1988年)には新潟県の指定史跡となり、その歴史的価値が公に認められた 6 。
現在、城跡に残された無数の郭、深く刻まれた堀切、そして斜面を駆け下る竪堀の痕跡は、訪れる者に戦国時代の過酷な現実を雄弁に物語る。これらの遺構は、当時の兵士たちがどのような緊張感の中で国境防衛という重責を担っていたのかを、ありありと想像させる。特に、根小屋城、上城山城、栗山城という三つの城が一体となって機能した壮大な防衛システムは、上杉謙信や村上義清といった戦国武将たちの、地形を読み解き、それを最大限に活用する高度な戦略思想を現代に伝えている。
結論として、根知城は単なる一つの城跡ではない。それは、越後と信濃の覇権を巡る上杉・武田の抗争史そのものであり、塩の道という経済の大動脈を巡る攻防の最前線であり、そして戦国の山城がその軍事的役割を終え、近世の城郭へと移行していく時代の大きな転換点を証言する、かけがえのない歴史の記念碑なのである。その複雑な縄張りと激動の歴史は、戦国という時代を理解する上で、極めて貴重な示唆を与え続けている。
引用文献
- 根知城 - 文化財・伝統芸能 - 糸魚川観光ガイド https://www.itoigawa-kanko.net/trad/nechijo/
- 根知(ねち)城山(じょうやま) - 越後屋ええもん本舗インターネットショップ https://e-ee.jp/hpgen/HPB/entries/199.html
- 根知城(糸魚川市) | おすすめスポット - みんカラ https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/842380/
- 根知城とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%A0%B9%E7%9F%A5%E5%9F%8E
- 根知城跡万葉風 - WAKWAK http://park2.wakwak.com/~fivesprings/toti/meisyo/neti.html
- 根知城(新潟県糸魚川市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/2977
- 根 知 https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F8221574&contentNo=8
- 余魚川・塩の道 - 糸魚川ユネスコ世界ジオパーク https://geo-itoigawa.com/eng/admin_mgr_eng/files/197.pdf
- 民俗博物館としての「塩の道資料館」の活動 https://museology.jp/journal/23-01/23-01_pp23-35.pdf
- 塩の道・千国街道(松本街道) | e-moshicom(イー・モシコム) https://moshicom.com/course/4733/
- 根知城の見所と写真・全国の城好き達による評価(新潟県糸魚川市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2676/
- 越後 根知城(根小屋城) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/nechi-negoya-jyo/
- 越後根知根小屋城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/netinegoya.htm
- [根知城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/1130
- 根知城跡:北陸エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14629
- 越後 根知城(上城山城) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/nechi-kamijyoyama-jyo/
- 「御館の乱」で勝頼が犯した戦略ミスと領土再拡大 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20328
- 根知城 - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-1019.html
- 根知城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%9F%A5%E5%9F%8E
- 根小屋(新潟県糸魚川市) - 長野県:歴史・観光・見所 https://www.nagareki.com/kaidou1/sengoku/nekoya.html