桧山城は安東氏の拠点として北羽を支配した巨大山城。湊合戦で鉄砲を駆使し勝利。佐竹氏の支城となり廃城。戦国末期山城の姿を良好に伝える貴重な史跡。
出羽国北部、現在の秋田県能代市にその広大な遺構を残す桧山城は、戦国時代において北羽(秋田県北部)の政治、軍事、そして経済の中心として君臨した巨大山城である 1 。東西1,500メートル、南北900メートルにも及ぶその城域は、東北地方でも最大級の規模を誇り、中世山城の威容を今に伝えている 3 。現在は、その中核的価値が認められ、周辺の支城群と共に国指定史跡「檜山安東氏城館跡」として保護されており、学術的にも極めて重要な存在である 1 。
この城を拠点としたのは、津軽の十三湊を基盤に日本海交易を掌握し、「日ノ本将軍」とも称された海洋領主・安東氏であった 5 。彼らは陸奥の豪族・南部氏との抗争の末に本拠地を失い、新天地である出羽国北部に活路を見出した 9 。その過程で築かれた桧山城は、単なる防御拠点に留まらない、安東氏の国家戦略を体現する城であった。内陸の丘陵に位置しながらも、眼下には日本海へと注ぐ米代川水系と、内陸を結ぶ大動脈・羽州街道を掌握できるこの地は、海と陸の双方を支配下に置くための絶妙な戦略的要衝であった 9 。
桧山城の築城は、安東氏の歴史における一大転換点を象徴する出来事であったと分析できる。彼らの権力基盤は、元来、十三湊を拠点とした海上交通の支配にあった 5 。しかし、南部氏との抗争による津軽からの撤退は、その存亡を揺るがす危機であった 9 。新たな拠点を築くにあたり、彼らは単に港湾の近くを選ぶのではなく、内陸の要害である桧山を選択した 11 。この決断は、従来の「海」からの視点に加え、羽州街道という「陸」の幹線交通路、そして米代川流域の広大な平野からもたらされる農業生産力を直接支配下に置くという、新たな領国経営への強い意志の表れに他ならない。したがって、桧山城の存在は、安東氏が海洋交易に依存する勢力から、領域全体を統治する戦国大名へと自己変革を遂げるための、極めて重要な戦略的拠点であったと結論付けられる。本報告書では、この桧山城について、その構造、歴史、そして最新の考古学的知見を統合し、戦国時代における実像を多角的に解き明かすことを目的とする。
桧山城は、戦国時代の城郭が持つ機能性、防御思想、そして地域の地理的特性を色濃く反映した、卓越した山城である。その縄張りは、自然地形を最大限に活用しつつ、当時の最新技術を取り入れた複合的な構造を示している。
桧山城は、能代市南東部に位置する霧山(標高147m、比高約100m)の丘陵地帯に築かれている 6 。この地は、米代川の支流である檜山川を見下ろし、西に広がる能代平野を一望できる絶好の場所に位置する。特筆すべきは、その卓抜した眺望であり、西方の羽州街道、そして日本海へと至る米代川の水運を完全に監視下に置くことが可能であった 9 。これにより、安東氏は陸路と水路の双方を掌握し、軍事的な優位性を確保すると同時に、物流の結節点として経済的支配を確立することができた。まさに、北羽の覇権を維持するための心臓部たる立地であった。
城の縄張りは、馬蹄形の尾根全体を巧みに利用した典型的な自然地形要塞である 1 。近世城郭に見られるような高石垣や天守閣は持たず、土塁や堀切を主体とした中世山城の特徴を色濃く残している 9 。城域は、南側の最頂部に位置する本丸、二の丸、三の丸といった中核区画と、北側の緩斜面に階段状に広がる多数の曲輪群から構成される 3 。北側には、政務や居住の場であったと考えられる「屋敷跡」や、鬼門鎮護のための「館神堂跡」などが配置され、単なる軍事要塞ではなく、大名の居城としての複合的な機能を有していたことが窺える 3 。
桧山城の防御施設は、中世山城の伝統的な手法と、戦国時代後期の先進的な技術が融合している点に特徴がある。
城の中枢をなす本丸、二の丸、三の丸は、城の最高所に連なるように配置されている。本丸は周囲を急峻な切岸(人工的に削り出した崖)で固め、容易な侵入を許さない構造となっている 3 。その手前に二の丸、三の丸が段階的に設けられ、敵は幾重にも連なる防御線を突破しなければ中枢に到達できない、堅固な防御体制が構築されていた 3 。
本丸の東側には、土塁によって構築された技巧的な枡形虎口が確認できる 3 。これは、城門を突破した敵兵を直進させず、枡(ます)のような四角い空間に誘い込み、三方向から一斉に攻撃を加えるための先進的な防御施設である 16 。戦国時代の山城において、これほど明確な枡形虎口が残存する例は稀であり 18 、桧山城が当時最新の築城技術を取り入れていたことを示す重要な遺構である。
城の防御を語る上で欠かせないのが、尾根筋を分断する巨大な堀切群である。特に城の西側に伸びる三つの尾根筋には、連続して堀切が穿たれており、その壮大さは圧巻である 7 。これらの堀切は、尾根伝いに侵攻してくる敵の足を止め、各個撃破を可能にするための重要な遮断線であった。また、各曲輪の周囲には土塁が巡らされ、防御壁として、また兵士が身を隠して応戦するための掩体(えんたい)として機能した 3 。
城の東端、最高地点に位置するのが「将軍山」と呼ばれる高まりである 3 。これは古墳を再利用した可能性も指摘されている 3 。その手前には、地面が不規則に凹凸した不思議な地形が広がっており、畝状竪堀(うねじょうたてぼり)の一種とも考えられている 14 。この地形は、敵兵の進軍速度を著しく低下させ、陣形を乱すための巧妙な障害物として機能したと推察される。
将軍山の北麓には「屋敷跡」と呼ばれる広大な平坦地があり、城主の館や政務施設が置かれた場所と考えられている 3 。その北東(鬼門)には、巨大な土塁で厳重に囲まれた「館神堂跡」が存在する 3 。これは、城の安寧を祈願する祭祀空間であると同時に、その堅固な造りから、重要な物資を保管する施設であった可能性も考えられる。
桧山城は単独で機能していたわけではなく、周囲に配置された支城群と連携することで、一大防衛ネットワークを形成していた。本城の北西には大館、西には茶臼館といった支城が控え、防衛網をより強固なものにしていた 1 。大館、茶臼館はいずれも羽州街道に面した丘陵の末端部に位置しており、街道の監視と防衛という明確な役割を担っていたことがわかる 6 。これにより、安東氏は平野部における敵の動きを早期に察知し、本城と連携して迎撃することが可能であった。
桧山城の縄張り、特に枡形虎口の存在は、単なる構造上の特徴に留まらない。後の歴史で詳述する「湊合戦」において、城主・安東実季はわずか300挺の鉄砲で10倍の敵を撃退したと伝えられる 20 。この記録と枡形虎口の構造を結びつけると、この空間がまさに鉄砲隊の火力を最大限に発揮させるための「キルゾーン(殺戮空間)」として設計・運用された可能性が浮かび上がる。これは、桧山城の築城(あるいは改修)者が、当時最新兵器であった鉄砲の集団運用を深く理解し、それを前提とした城郭構造を意図的に導入したことを示唆しており、安東氏が中央の軍事技術動向に極めて敏感であったことの物証と言える。
さらに、城の東西で縄張りの特性が異なっている点も興味深い 7 。西側は連続堀切群など、尾根筋を主体とした伝統的な山城の防御手法が目立つのに対し、東側には枡形虎口や広大な屋敷跡など、より計画的で居住性も考慮された発展的な区画が配置されている。この構造の非対称性は、城が一度に築かれたのではなく、複数の時期にわたって段階的に拡張・改修された「城の年輪」である可能性を示唆する。初期の安東氏がまず西側の要害を築き、安東愛季・実季の時代に勢力が最大化する中で、政治・居住の中心として東側を大規模に整備した、という歴史的変遷が縄張りに刻まれているのかもしれない。
桧山城の歴史は、そのまま檜山安東氏の栄枯盛衰の物語と重なる。築城の謎に始まり、一族内の激しい抗争、そして戦国大名としての飛躍と、この城は常にその中心にあった。
桧山城がいつ、誰によって築かれたのかという問いには、未だ確定的な答えが出ていない。最も広く知られているのは、檜山安東氏の初代とされる安東忠季が明応4年(1495年)に完成させたという説である 1 。この説の根拠は、江戸時代に編纂された史料『新羅之記録』の記述にある 22 。しかし、近年の研究、特に能代市教育委員会による発掘調査報告書では、この年代を直接裏付ける同時代の史料は確認されていないという学術的な課題が指摘されている 22 。
一方で、これ以外にも複数の築城者・年代説が存在し、安東氏の出自と勢力形成の複雑さを物語っている。以下の表は、主要な諸説を整理したものである。
説 |
築城年代 |
築城者 |
主な根拠・史料 |
備考 |
通説 |
明応4年 (1495年) |
安東忠季 |
『新羅之記録』 22 |
近世史料であり、同時代史料による裏付けはない。忠季を檜山安東氏初代とする見方が多い 5 。 |
異説A |
14世紀中頃 |
安東兼季 |
(伝承・一部資料) 8 |
考古学的知見との整合性が課題。 |
異説B |
嘉吉元年(1441年)頃 |
安倍康季 |
『檜山郷土史稿』 24 |
康季を檜山一世とする説。 |
異説C |
康正2年 (1456年) |
安東政季 |
(一部系図など) 3 |
忠季の父。南部氏に敗れた後、出羽で再起を図った人物 11 。 |
このように、築城に関する記録は錯綜しており、決定的な証拠に欠けるのが現状である。これは、安東氏が津軽から出羽へ移る激動の時代にあって、その初期の歴史が文字史料として残りにくかったことを示唆している。
戦国時代、出羽北部の安東氏は二つの勢力に分裂していた。米代川河口域の桧山城を本拠とする檜山安東氏と、雄物川河口域の湊城を本拠とする湊安東氏である 5 。両者は、八郎潟を境界として、地域の覇権を巡り長らく対立を続けていた。
この状況を打破したのが、檜山安東氏から出た英主・安東愛季(ちかすえ)である。愛季は、湊安東氏の当主の娘を娶るなどの婚姻政策や巧みな外交戦略を駆使し、ついに両家を統合することに成功した 9 。これにより安東氏は出羽北部沿岸部をほぼ統一し、戦国大名として最盛期を迎える 3 。しかし、この統合は実質的には檜山方による湊方の吸収合併であり、旧湊方の勢力や、統合に不満を持つ一族の間には、深い遺恨が残されることとなった 9 。この潜在的な対立が、後に桧山城を揺るがす最大の危機へと発展するのである。
天正15年(1587年)、安東愛季が急逝すると、後を継いだのはまだ若年の実季(さねすえ)であった 9 。この権力の空白を好機と見た一族の安東(豊島)道季は、旧湊安東氏系の国人衆や、内陸の強豪・戸沢盛安らと結託し、実季に対して大規模な反乱を起こした 9 。これが「湊合戦」または「湊騒動」と呼ばれる、安東氏の領国を二分した内戦である。
緒戦において道季軍の急襲を受けた実季は、湊城を追われ、本拠地である桧山城へと撤退し、籠城を余儀なくされた 27 。道季軍の兵力は実季方の10倍に達したとも言われ、桧山城は絶望的な状況下で包囲された 21 。しかし、実季と城兵はここから驚異的な粘りを見せる。150日以上にも及ぶ籠城戦において、桧山城の堅固な防御施設と、城兵の巧みな戦術がその真価を発揮した 9 。
特に決定的だったのが、鉄砲の効果的な活用である。記録によれば、実季軍はわずか300挺の鉄砲で防戦したとされている 20 。これは、第一章で分析した枡形虎口や、曲輪を囲む土塁といった防御施設を利用し、狭い通路に殺到する敵兵に対して、城内から一方的かつ集中的な射撃を加える戦術が取られたことを強く示唆する。圧倒的な兵力差を、城の構造と新兵器の運用によって覆したのである。
長期にわたる籠城戦の末、実季は由利地方の国人衆(由利十二頭)の援軍を取り付けることに成功し、ついに反撃に転じた 12 。内外からの挟撃を受けた道季軍は総崩れとなり、敗走した 27 。この劇的な勝利によって、実季は反乱勢力を一掃し、湊城を始めとする秋田郡一帯を完全に掌握した 12 。この湊合戦の勝利は、単なる内乱の鎮圧に留まらず、安東氏の領国における大名権力を確立させ、実季が名実ともに出羽北部の支配者となる決定的な出来事となったのである。合戦後、実季は拠点を桧山城から湊城へと移し、姓も「秋田」と改めた 5 。
湊合戦の勝利により、安東(秋田)氏はその勢力を確固たるものにしたが、時代の大きなうねりは、やがて桧山城の運命をも変えていく。関ヶ原の戦いを経て、城は新たな主を迎えることとなる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦において、秋田実季は東軍に属したものの、その動きが曖昧であったと徳川家康に見なされ、戦後、常陸国宍戸5万5千石へと転封(領地替え)を命じられた 5 。これにより、安東氏による桧山城の時代は終わりを告げる。
代わって出羽国に入部したのは、常陸国から移封された佐竹義宣である。佐竹氏は久保田(現在の秋田市)に新たな居城を築き、久保田藩(秋田藩)を立藩した 9 。この新たな支配体制の下で、桧山城は久保田藩の支城として位置づけられた。城には佐竹氏の重臣が城代(所預)として配置され、当初は小場氏、後には多賀谷氏がこの地域の統治にあたった 1 。佐竹氏の時代にも、城には何らかの改修が加えられた可能性があり 6 、その痕跡は縄張りの特徴や後述する出土遺物の変化から窺い知ることができる。
久保田藩の支城として新たな役割を担った桧山城であったが、その歴史は長くは続かなかった。徳川幕府による全国支配体制が確立される中で、各地の大名の軍事力を削減し、謀反の芽を摘むことを目的とした政策が打ち出される。その一つが、慶長20年(1615年)に発布された元和一国一城令であった 9 。これは、一国(一藩)につき、藩主の居城以外の城をすべて破却することを命じたものである。
この法令に基づき、久保田藩の支城であった桧山城も廃城の対象となり、元和6年(1620年)にその歴史に幕を下ろしたとされる 6 。これにより、城の櫓や門といった建造物は破却、あるいは移築されたと考えられる。麓にある浄明寺の山門は、長らく桧山城から移されたものと伝えられてきたが、後の保存修理工事の際に、廃城後の寛永11年(1634年)に建立されたことが判明している 1 。これは、城が失われた後も、その記憶が地域の人々によって語り継がれてきたことを示す興味深いエピソードである。
文字史料だけでは窺い知ることのできない城の実像を明らかにする上で、考古学的調査は不可欠な役割を果たす。近年の桧山城跡における継続的な発掘調査は、城の構造や、そこで営まれた人々の生活について、数多くの新たな知見をもたらしている。
能代市教育委員会は、国指定史跡である桧山城跡の保存と活用を目的とした環境整備計画に基づき、平成28年(2016年)度から継続的に発掘調査を実施している 13 。これらの調査は、城の築城時期や構造、そしてその機能といった未解明な点を明らかにすることを目指しており、毎年着実な成果を上げている 31 。
調査は特に、城の中枢であったと考えられる通称「本丸」地区で重点的に行われている 13 。これまでの調査により、本丸の平坦面を造成するために、大規模な盛り土などの土木工事が行われた痕跡が確認されている 13 。これは、自然の山を人の手によって「城」へと造り変えていった過程を示す重要な証拠である。
また、本丸内からは、等間隔に並ぶ柱の穴が発見され、これにより少なくとも2軒分の掘立柱建物跡が存在したことが明らかになった 13 。これらの建物は、城主の居館や政務を執り行う施設であったと考えられる。ただし、最新の調査では、これらの建物の規模は当初想定されていたよりも小さく、壮麗な「御殿」と呼ぶには至らない可能性も指摘されており 34 、城内における施設の具体的な姿や役割については、さらなる調査による解明が待たれている。
発掘調査で出土する遺物は、当時の人々の生活や文化、そして他地域との交流を物語る貴重なタイムカプセルである。
桧山城跡からは、様々な年代と産地の陶磁器が出土している。最も古いものとしては15世紀の中国産青磁があり、続いて16世紀中葉から17世紀初頭にかけての中国産染付磁器が見つかっている 23 。また、同時期の国産陶器も豊富で、九州の唐津焼、美濃の志野焼や瀬戸美濃焼、北陸の越前焼など、全国各地の製品が出土している 13 。これらの出土品の年代構成を分析すると、特に16世紀末から17世紀初頭(1595年~1610年代)のものが大半を占めることがわかっている 23 。この時期は、安東実季が湊合戦に勝利して権力を確立した時代から、関ヶ原合戦を経て佐竹氏が入部した初期にあたり、桧山城が最も活発に使用されていた時期と見事に一致する。
出土品の中で注目されるのが、茶の湯に関連する遺物の存在である。信楽焼の葉茶壺や、抹茶碗、懐石料理で使われる向付(むこうづけ)といった器種が多く見つかっている 23 。これは、桧山城の城主たちが、単なる武人であるだけでなく、当時、武家社会の重要な教養であった茶の湯の文化を嗜んでいたことを示している。城内で茶会が催され、政治的な交渉や文化交流の場として機能していた様子が目に浮かぶようである。
陶磁器以外にも、文字を書き記すための硯(すずり)や、商取引に用いられた銭貨なども出土している 34 。これらの遺物は、城内で領国経営に関わる文書作成や、物資の調達といった経済活動が行われていたことを具体的に示している。
桧山城跡から出土した陶磁器の構成比は、単に年代を示すだけでなく、この城が経験した歴史的な権力交代の瞬間を物質的に裏付けている。第9次調査報告書によれば、出土陶器の中で九州産の唐津焼が約7割を占め、突出して多いことが指摘されている 23 。唐津焼の生産が本格化するのは1590年代以降であり、その流通は西日本が中心であった。安東氏は日本海交易を通じて上方(関西地方)の文物と接点があったものの、その本拠地はあくまで東北である。一方、慶長7年(1602年)に新たに入部した佐竹氏は常陸国(現在の茨城県)の出身であり、安東氏よりも西国との政治的・経済的な繋がりが強かったと考えられる。このため、報告書では、唐津焼の急激な増加は「佐竹氏入部後に搬入された可能性が高い」と推測されている 23 。つまり、陶磁器の種類の変化が、城主の交代という歴史上の大事件を考古学的に証明しているのである。
さらに、出土遺物が1620年以降の年代のものを含まないという事実は、元和一国一城令による廃城という文字史料の記録と完璧に符合する 23 。このように、桧山城の遺物構成は、安東氏時代の文化、佐竹氏入部による新たな物流と文化の流入、そして徳川幕府の政策による城の終焉という、三つの異なる歴史的段階を、大地の中から層となって示している。これは、文字史料を補完し、時にそれを超える雄弁さで歴史を語る考古学の醍醐味と言えるだろう。
本報告書で詳述してきたように、桧山城は単なる一地方の山城ではなく、戦国時代における出羽国北部の歴史を語る上で不可欠な、極めて重要な城郭である。その歴史的遺産は、多岐にわたる価値を有している。
第一に、桧山城は戦国期北羽の中心地として再評価されるべき存在である。海洋領主であった安東氏が、陸の戦国大名へと変貌を遂げるための戦略的拠点として築かれ、その後の領国経営と勢力拡大を支える心臓部として機能した。湊合戦における劇的な籠城戦の舞台となったことは、その軍事的重要性を象徴している。政治、軍事、経済、そして茶の湯に代表される文化の中心として、桧山城はまさしく北羽の都であった。
第二に、考古資料としての価値が極めて高い点が挙げられる。自然地形を巧みに利用した広大な縄張り、鉄砲戦を想定した技巧的な枡形虎口、壮大な連続堀切群など、戦国時代末期の山城の構造を極めて良好な状態で今日に伝えている。特に、江戸時代初頭の元和6年(1620年)という早い段階で廃城となったため、後世の改変が少なく、戦国時代の遺構がそのままの形で保存されている点は、学術的に非常に貴重である 9 。
最後に、桧山城の研究はまだ道半ばである。能代市教育委員会による継続的な発掘調査は、本丸の正確な構造や、城内での具体的な生活様相など、未だ謎に包まれた部分を解明する大きな可能性を秘めている 36 。今後、さらなる調査と研究が進むことで、この北の要害が持つ歴史的価値は一層輝きを増し、安東氏の栄光と戦国時代の記憶を未来へと語り継いでいくであろう。