現在の千葉県香取市にその痕跡を留める森山城跡は、一見すると北総台地に広がる数多の中世城郭の一つに過ぎないように見えるかもしれない。しかし、その歴史的意義を正しく理解するためには、まず我々の目前に広がる現代の地理的景観から一度、精神的に離脱する必要がある。本報告書は、森山城を単体の城郭としてではなく、戦国期関東の政治、経済、そして軍事ネットワークにおける極めて重要な戦略的結節点として再評価することを目的とする。
この城の真価を解き明かす鍵は、今は失われた広大な内海、「香取海」の存在にある 1 。江戸時代初期に行われた利根川東遷事業という大規模な土木工事以前、現在の霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼は一続きの内海を形成し、太平洋の海水が深く内陸まで入り込んでいた 3 。この香取海は、古代から中世にかけて常陸国と下総国を結ぶ水運の大動脈であり、その沿岸には数多くの「津」(港)が点在し、活発な経済圏が形成されていた 4 。古くは香取神宮がこれらの津や、そこで活動する「海夫」と呼ばれる漁民・水運業者を支配下に置き、広域な河関網を保持してその権威と経済基盤を確立していたことからも、この水域の重要性が窺える 3 。
森山城は、まさにこの香取海に面した舌状台地の先端に築かれた城であった 1 。その立地は決して偶然ではない。眼下に広がる水面と、そこを行き交う無数の船を物理的に監視し、支配下に置くという明確な戦略的意図に基づいて選定されたのである。したがって、森山城を理解する上で、現在の陸地化した風景から想起される「山城」というイメージは、その本質の一側面しか捉えていない。その真の姿は、水運という経済的生命線を掌握するために築かれた「水辺の要塞」であり、その価値は土地そのものが生み出す石高以上に、この水域を通過する物流がもたらす富にあった。この視座の確立こそが、森山城の複雑な歴史を解き明かすための第一歩となる。
森山城の歴史は、鎌倉時代初期にその幕を開ける。築城主として伝わるのは、鎌倉幕府の創設に多大な貢献をした有力御家人、千葉常胤の六男である東六郎胤頼である 7 。築城年代は建保6年(1218年)とされ、これは承久の乱(1221年)を目前に控えた時期にあたる 1 。この時期、鎌倉幕府は全国支配を盤石なものとするため、各地の要衝に信頼の置ける御家人を配置し、支配体制の強化を図っていた。千葉一族という幕府内でも屈指の名門出身である胤頼による森山城の築城は、まさにこの東国における幕府の支配網をより緻密にするという、広域的な政治・軍事文脈の中に位置づけることができる。
築城後、森山城は胤頼、重胤、胤行の三代にわたって東氏の本拠として機能した 7 。東氏は、千葉氏から分かれた「千葉六党」と称される有力庶流の一つであり、下総国東部一帯に広大な所領を有した在地領主であった 9 。彼らによる在地支配が長期間にわたり安定していたことを示す物的な証拠が、城の南麓に現存する真性院芳泰寺である。この寺院は東氏代々の菩提寺とされ、境内には今なお東胤頼夫妻の墓が残されている 7 。これは、東氏がこの地を単なる軍事拠点としてだけでなく、一族の根拠地として深く根を下ろし、統治していたことを物語っている。
森山城の歴史における最初の大きな転換点は、東氏三代目の当主・胤行の時代に訪れる。胤行は、その文武両道に秀でた能力を幕府に認められ、美濃国山田庄(現在の岐阜県郡上市周辺)を新たに加領された 9 。これを機に、東氏の本宗家は本拠を美濃国へと移し、後に戦国大名となる「美濃東氏」の祖となった。
この本宗家の移住は、下総国に残された森山城の地位に決定的な変化をもたらした。城は引き続き東氏一族(分家筋)によって管理されたとみられるが、その政治的・軍事的な中枢機能は相対的に低下した。名門・東氏の象徴的な拠点という権威は保持しつつも、実権を握る当主が遠隔地へ移ったことで、一種の「権力の空洞化」が生じたのである。この権威と実力の乖離は、後の時代、特に戦国期の動乱の中で、千葉宗家や後北条氏といった外部の強力な勢力がこの城に介入する素地を形成した。戦国時代における森山城の複雑な運命は、すでにこの鎌倉時代の出来事の中に、その伏線が引かれていたと言えるだろう。
鎌倉・室町時代を通じて東氏の拠点であった森山城は、戦国時代に入ると下総国における権力闘争の渦中に巻き込まれ、その城主をめまぐるしく変えていくことになる。
戦国時代中期、森山城の歴史は千葉宗家の内紛と深く結びつく。千葉宗家当主・千葉昌胤の三男として生まれた胤冨は、当初、千葉氏の有力な庶流であり、香取海沿岸に勢力を持つ海上(うなかみ)氏の養子(一説には婿養子)となり、森山城を居城としていた 7 。この時点で、城の実権はすでに東氏の手を離れ、千葉一族の勢力圏に完全に組み込まれていたことがわかる。
弘治3年(1557年)、下総国に激震が走る。千葉宗家の当主であった千葉親胤(胤冨の弟)が、居城の本佐倉城内で家臣によって暗殺されるという事件が発生したのである 7 。この事件の背景には、当時関東一円に勢力を拡大していた後北条氏との関係をめぐる、千葉家中の親北条派と反北条派の深刻な対立があったと推測されている 12 。
この宗家の混乱を好機と見た胤冨は、直ちに行動を起こす。彼は森山城を軍事的な拠点とし、海上氏をはじめとする東総地域の国人領主たちの支持を背景に、千葉宗家の家督継承を宣言。最終的にこれを認めさせ、本拠を本佐倉城へと移した 1 。この一連の動きにおいて、森山城は単なる防御施設ではなく、下総一国の大名の運命を左右するほどの政治的エネルギーを生み出す「政変の拠点」として機能した。香取海の水運がもたらす経済力と、在地勢力の軍事力を背景に持つこの城の戦略的価値が、胤冨の野心を現実のものとしたのである。
千葉宗家を継承した胤冨が本佐倉城へ移った後も、森山城がその重要性を失うことはなかった。むしろ、香取・海上郡の境目に位置し、水運の要衝を押さえるこの城は、胤冨にとって自らの権力基盤を支える上で不可欠な拠点であり続けた 1 。
胤冨は、この重要拠点に信頼の置ける重臣を城主(城代)として配置した。まず任じられたのが、粟飯原(あいはら)氏であった 1 。粟飯原氏は古くから千葉氏に仕える重臣一族であり、下総国各地に所領を持つ有力な国人であった 15 。
その後、城主(城代)として森山城に入ったのが、千葉氏の筆頭家老格であった原氏の原親幹である 1 。原氏は千葉家中で絶大な影響力を持ち、親幹は千葉介邦胤(胤冨の子)の執政として活躍した人物であった 14 。彼ら森山を本拠とした原氏は、他の原氏一族と区別して「森山原氏」とも称された 14 。このように、森山城は千葉宗家当主の直接の居城ではなくなった後も、家中の最有力級の重臣が城代として統治する、極めて格式の高い支城として機能し続けたのである。
この時期の森山城の実態を、極めて具体的に伝えてくれるのが、現在に伝わる一級史料「原文書(はらもんじょ)」である 18 。これは、江戸時代に越前福井藩士となった森山原氏の子孫の家に伝来した古文書群であり、その多くは戦国期の城主であった原氏宛てに、千葉宗家当主の胤冨や邦胤から発給されたものである 17 。
「原文書」を分析すると、当時の森山城が担っていた多様な機能が浮かび上がってくる。そこには、周辺地域の武士たちに対する軍事動員の命令、城郭そのものの拡張や普請(修築)に関する指示、さらには年貢の徴収や儀礼の執行といった領域支配の実態が生々しく記録されている 18 。
そして、これらの文書の中で特に注目されるのが、「水運の掌握」に関する記述である 20 。胤冨は森山城を拠点として、香取海沿岸の津(港)やそこで活動する商人たちを千葉氏の統制下に置こうと試みていた。これらの史料は、森山城が単なる軍事拠点に留まらず、東総地域の経済と物流を支配するための行政センターとしても機能していたことを明確に示している。
16世紀中頃以降、小田原を本拠とする後北条氏が関東に覇を唱えると、房総半島の政治情勢も大きく変化する。千葉氏は、安房国の里見氏などとの抗争の中で、次第に後北条氏との同盟関係を深め、その広域支配体制の中に組み込まれていった 21 。この過程で、森山城の戦略的価値は再び見直され、新たな役割を担うこととなる。
後北条氏にとって、房総半島における最大の脅威は、安房国を拠点に勢力を北上させる里見氏であった。森山城は、地理的に里見氏の勢力圏と対峙する東総地域の最前線に位置しており、後北条氏の視点から見れば、対里見氏戦略における極めて重要な前方拠点であった 1 。このため、後北条氏の主導のもと、城には大規模な改修が加えられ、その防御能力は飛躍的に向上したと考えられている。
天正年間も後半に入ると、森山城に対する後北条氏の関与は、単なる同盟者への支援というレベルを遥かに超えたものとなる。特に天正15年(1587年)以降、後北条氏当主の北条氏政は、森山城の防備に関して、城将である海上山城守や原親幹に対し、直接指示を下すようになる。その内容を記した書状が「原文書」の中に複数残されている 24 。
例えば、氏政は眼病を患っていた原親幹に対し、「来正月十日には必ず森山城へうつり」、海上山城守と協力して城の守りを固めるよう厳命している 24 。これは、本来の主君である千葉氏当主を介さない、異例の直接命令である。さらに、城内の樹木を一本伐採することや、徴収した年貢米を使用することに至るまで、小田原の許可(印判状)がなければ実行できないとするなど、城の管理運営の細部にまで極めて強い統制を加えていた 24 。
これらの事実は、この時期の森山城がもはや千葉氏の支城という名目上の地位を超え、実質的には後北条氏の広域支配体制に直接組み込まれた「直轄拠点」に近い性格を帯びていたことを示している。形式上は千葉氏の家臣が守る城でありながら、その軍事指揮権は完全に後北条氏が掌握するという「支配の二重構造」が成立していたのである。これは、後北条氏が単なる軍事力だけでなく、同盟者を巧みに従属させ、その領国の要衝を自らの戦略下に置くという、高度な政治システムを構築していたことの証左に他ならない。森山城は、その巨大なシステムの末端にありながら、最も重要な機能を担う戦略的装置の一つであった。
森山城の歴史は、古文書だけでなく、大地に刻まれた城郭の構造、すなわち「縄張り」そのものによっても雄弁に物語られる。その規模と構造は、この城が北総地域においていかに傑出した存在であったか、そして戦国末期の最新築城技術がどのように投入されたかを物理的に示している。
森山城跡は、単体の城郭として東西約620メートル、南北約430メートルという広大な範囲に及ぶ 1 。これは香取郡市の古城趾の中でも最大級の規模であり、この城が地域の支配拠点として、また大規模な兵力を駐屯させる拠点として計画されていたことを示している 1 。さらに、東に隣接する須賀山城を出城、あるいは一体の城郭群と見なした場合、その総規模は東西1500メートル、南北500メートルにも達する 1 。これは、森山城が単なる一つの「点」ではなく、周辺の丘陵一帯を要塞化した広域な防衛ラインを形成していたことを意味する。
城の基本構造は、尾根上に複数の郭(曲輪)を一直線に配置した「直線連郭式」の山城である 1 。西から奥仲城(主郭)、馬出、仲々城、仲城、三城といった郭が連なり、それぞれが大規模な空堀と土橋によって明確に区画されている 7 。この構造は、仮に一つの郭が敵に突破されたとしても、次々と現れる空堀と郭が敵の進軍を阻み、段階的な縦深防御を可能にするための設計である。
特に注目すべきは、戦国末期に導入された先進的な防御施設の存在である。
これらの構造分析から、森山城の縄張りが持つ重層的な歴史が浮かび上がってくる。広大な基本構造は、東氏や千葉氏といった在地領主による長期間にわたる経営の成果を示す一方、主郭部周辺に見られる馬出や横矢掛かりといった高度な防御施設は、まさに関東の覇権を握った後北条氏が、その戦略的重要性を認識し、天正年間に最新技術を投入して「近代化改修」を施した痕跡である。城跡に残る土塁や堀の一つ一つが、支配権の変遷を刻んだ「地上の歴史書」として、我々にその来歴を語りかけているのである。
構造要素 |
規模・特徴 |
防御上の役割・考察 |
全体規模 |
東西620m、南北430m(須賀山城と一体で東西1500m) 1 |
北総地域における最大級の城郭。大規模な兵力の駐屯と、長期の籠城戦を想定した拠点であったことを示す。 |
曲輪配置 |
奥仲城(主郭)、仲々城、仲城、三城などが並ぶ直線連郭式 1 |
複数の郭を連ね、空堀で分断することで、仮に一つの郭が突破されても、次々と敵の進軍を阻む段階的防御を可能にしている。 |
馬出 |
主郭と二郭の間に存在するL字形(方形に近い)の馬出 23 |
虎口の直前に独立した区画を設け、敵兵を内部に誘い込み三方から攻撃を加えるための先進的施設。後北条氏の築城術の影響が濃厚。 |
空堀・土塁 |
各郭を分断する大規模な空堀と、高く堅固な土塁 7 |
敵の侵攻を物理的に阻害する基本的ながら最も重要な防御施設。遺存状態が良好であることから、廃城まで機能していたことがわかる。 |
虎口 |
横矢掛かり(側面攻撃)を意識した張り出しを持つ構造 23 |
正面からの攻撃に備えるだけでなく、死角をなくし側面から効率的に敵兵を排除する設計。高い防御意識と実戦経験の反映が見られる。 |
水堀 |
城の周囲を巡っていたとされる水堀(現在は水田等) 26 |
台地上の防御に加え、麓においても水による防御線を構築し、敵の接近そのものを困難にしていた可能性を示す。 |
森山城が戦国期の関東において果たした役割を考えるとき、その物理的な防御力以上に重要だったのが、眼下に広がる「香取海」の水運、すなわち地域の経済的生命線を掌握する機能であった。城は、この地域の経済活動を保証し、同時にそこから生じる利益を吸い上げるための巨大な「関所」であり、物資の「集積所」でもあった。
森山城が位置する香取郡と海上郡の境は、まさに香取海の広大な水運ネットワークにおける結節点であった 1 。この内海を通じて、太平洋岸である九十九里浜北部で生産された塩や海産物と、鬼怒川や常陸川といった河川を通じて内陸部から運ばれてくる米、麻、漆、木材などの産品が集積・交換されていた 20 。森山城は、この物流の大動脈を直接見下ろす位置にあり、その支配は地域の経済覇権を握ることを意味した。
この水運支配の実態は、「原文書」の記述によって具体的に裏付けられる。文書群の中には、千葉宗家を継いだ胤冨が、森山城を拠点として「水運の掌握」を強力に推し進めていたことを示すものが複数含まれている 20 。
例えば、胤冨は香取海で活動していた野尻の津の流通商人・宮内氏などを自らの統制下に置こうと試みている。さらに、胤冨の権力基盤であった海上氏の内部で、下総国に留まった勢力と、利害の対立から常陸国鹿島に移った勢力との間に対立が生じた際には、自らその調停に乗り出している 20 。胤冨は、常陸に移った者であっても、下総側と敵対しない限り、その商業活動を基本的に認める姿勢を示した。これは、領国の繁栄のためには、香取海を舞台とする水運と流通活動の維持・安定が不可欠であると、彼が深く認識していたことの証左である。森山城をめぐる千葉氏や後北条氏の動きは、単なる領土争いではなく、この地域の経済的覇権をめぐる争いであったと解釈できる。
水運の掌握は、津料(通行料)の徴収など直接的な経済的利益をもたらすだけでなく、軍事的な側面においても極めて重要であった。安定した水上輸送路は、戦時における兵糧や武具を前線へ送るための兵站線を確保することを意味する。後北条氏が、自らの直轄領でもない森山城の管理にこれほどまでに深く介入し、最新の技術を投じて城を強化した背景には、対里見氏という軍事的な理由に加え、この東総地域の経済と物流の大動脈を完全に自らの支配下に置くという、より大きな国家戦略があったと考えられる。森山城の価値は、土地の生産力(石高)だけでは測れない、「見えざる富の流れ」を支配する力にこそ存在したのである。
戦国時代を通じてその重要性を増し続けた森山城であったが、その終焉は、関東の政治秩序が根底から覆される歴史的な大事件と共に訪れた。
天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、関東の雄・後北条氏を討つべく、世に言う「小田原征伐」を開始した。後北条氏の支配下にあった千葉氏は、当然ながら後北条方としてこの戦いに臨んだ。森山城からも城主の原氏や海上氏に率いられた「森山衆」が動員され、本拠である小田原城での籠城戦に参加したと推測される 24 。しかし、秀吉の大軍の前に後北条氏はなすすべなく降伏し、ここに戦国大名としての後北条氏は滅亡した。
主家である後北条氏と運命を共にする形で、千葉氏もまたその所領を没収され、没落した。これにより、後北条氏の東総支配の拠点として、また千葉氏の重要支城として機能してきた森山城もその歴史的役割を完全に終え、廃城となった 1 。
後北条氏に代わって関東に入部した徳川家康は、新たな支配体制を構築していく。森山城のあった下飯田の地には、家康の家臣である青山成重が入った。慶長13年(1608年)、成重は加増を受けて1万石の大名となり、この地に「下総飯田藩」が成立する 1 。しかし、この飯田藩の藩庁は、戦国時代の巨大な山城である森山城を再利用したものではなく、麓に新たに陣屋を構えたとみられている。
さらに、この飯田藩も長くは続かなかった。慶長18年(1613年)、藩主・成重が大久保長安事件に連座したことで改易され、飯田藩はわずか5年で消滅した 31 。その後、この地は江戸幕府の直轄領や旗本領として分割統治され、巨大な戦国城郭であった森山城が再び歴史の表舞台に登場することはなかった。
森山城のこの静かな終焉は、単に一つの城が使われなくなったという以上の、象徴的な意味を持つ。それは、後北条氏が築き上げた関東の軍事・政治秩序が崩壊し、それに代わって徳川幕府による新たな「平時」の支配体制へと時代が移行したことを物語っている。大名同士の大規模な戦争を前提とした巨大な軍事要塞はもはや不要となり、求められるのは行政拠点としての陣屋であった。森山城の廃城は、戦国という時代の終わりそのものを告げる出来事だったのである。
本報告書で詳述した通り、森山城は鎌倉時代の東氏による築城から、戦国時代の千葉氏・後北条氏による支配に至るまで、長きにわたり下総国東部の要衝として、その時代ごとに重要な役割を果たし続けた。
その価値の根源は、現代の我々が想像する以上に広大であった内海「香取海」がもたらす水運ネットワークの掌握にあった。城は単なる軍事拠点であると同時に、地域の経済と物流を支配するための戦略的資産であり、その支配権をめぐって数多の権力闘争が繰り広げられた。
特に戦国末期には、千葉宗家の家督争いを左右するほどの政治的拠点となり、ついには関東の覇者・後北条氏の広域支配体制に直接組み込まれるほどの重要性を獲得した。その大地に刻まれた縄張り、とりわけ後北条氏の技術的影響が色濃い馬出や横矢掛かりといった先進的な防御思想は、当時の関東における最新の築城技術の到達点を示す貴重な遺構である。
森山城の歴史は、一つの城郭の盛衰に留まるものではない。それは、水運という地理的要因が中世武士団の興亡にいかに深く関わっていたか、そして戦国大名の広域支配がどのように展開され、やがて豊臣・徳川という中央集権的な権力によって終焉を迎えたかという、日本の戦国史の縮図を具体的に示す、極めて貴重な歴史の証言であると結論付けることができる。