巨椋池に浮かぶ槙島城は、真木島氏の拠点。細川政元により城郭化し、足利義昭が信長に抗した最後の舞台となる。信長の電撃的攻撃で一日で落城、幕府は事実上滅亡。秀吉の治水事業で廃城。
現在、京都府宇治市の市街地にその痕跡を埋没させ、往時の姿を偲ぶことすら困難となった城郭がある。槙島城(槇島城、真木嶋城とも表記される)である 1 。しかし、この失われた城の名は、足利尊氏以来約240年にわたって続いた室町幕府の終焉という、日本史における画期的な出来事と分かちがたく結びついている。城跡にはわずかな石碑が残るのみで、その具体的な構造や歴史的変遷の多くは、断片的な文献史料や限定的な考古学的調査から推測するほかない 1 。本報告書は、現存する文献史学、考古学、そして地理学の知見を統合し、この歴史の転換点に特異な役割を果たした水上の城郭、槙島城の真の姿と、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。
本報告書では、槙島城を単に「15代将軍足利義昭が織田信長に抵抗して籠城した城」という一点のみで評価するのではなく、より広範な視座から分析する。すなわち、鎌倉時代の軍事的要衝としての萌芽から、在地領主の拠点、畿内を支配する中央権力の戦略拠点、そして室町幕府最後の舞台となり、最終的に近世の新たな都市計画の中でその役割を終え忘却されていくまで、その盛衰の全貌に迫る。槙島城の歴史は、中世から近世へと移行する時代の政治・軍事・社会構造のダイナミックな変動を映し出す鏡であり、その解明は、当該期の歴史理解を深化させる上で不可欠な作業である。
槙島城の歴史的価値を理解する上で、その地理的環境を把握することは極めて重要である。かつて京都盆地の南部には、周囲約16キロメートルにも及ぶ広大な遊水池「巨椋池(おぐらいけ)」が存在した 3 。この巨椋池と、琵琶湖から流れ出る宇治川が合流する地点に、槙島城は位置していた 6 。この地は、京都から南下して奈良へと至る陸路(奈良街道)と、宇治川を利用した水運が交差する結節点であった 7 。さらに、巨椋池を経由して淀川水系に接続することで、大坂や西国へのアクセスも可能であり、経済的にも軍事的にも比類なき重要性を有していた。
「槇島」は、文字通り宇治川の中州、あるいは巨椋池に半島状に突き出した微高地に形成された地域であった 1 。周囲を河川と湖沼に囲まれたその地形は、天然の要害そのものであった。今日、我々が目にする宇治の景観は、豊臣秀吉による伏見城築城とそれに伴う大規模な治水工事(太閤堤の建設や宇治川流路の変更)、さらには昭和期に行われた巨椋池の干拓事業によって、劇的に変化した後の姿である 7 。したがって、槙島城が歴史の表舞台で活躍した時代の景観を理解するためには、これらの大規模な土木工事以前の、本来の地形を念頭に置く必要がある。
槙島城が城郭として明確に歴史に登場する以前から、この地は軍事的な要衝として認識されていた。その最も早い記録の一つが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇方の朝廷軍と北条義時率いる鎌倉幕府軍が激突した「承久の乱」に見られる 10 。この戦いにおいて、宇治川での攻防は全体の勝敗を左右する決定的な局面であった。『吾妻鏡』によれば、幕府軍が宇治川を渡河する際、ある武士が敵情を視察するために中州の「真木島」まで泳ぎ渡り、浅瀬の場所を味方に知らせたという伝承が残っている 11 。これは、この地が城郭として整備される以前から、渡河作戦における重要な中継点、すなわち軍事拠点として認識されていたことを明確に示している。この地理的優位性こそが、後に槙島城が築かれ、歴史上重要な役割を担うことになる根本的な要因であった。
槙島城の築城に関しては、承久の乱と同年である承久3年(1221年)に、長瀬左衛門なる人物によって築かれたという伝承が広く知られている 1 。この伝承の真偽を直接証明する史料は乏しいものの、承久の乱という大規模な軍事衝突を背景として、宇治川の渡河点を管理・防衛するための何らかの防御施設がこの時期に設けられた可能性は十分に考えられる。この地の持つ地理的特性が、必然的に歴史の舞台へと押し上げたのである。槙島城の歴史は、その特異な地理的環境によって規定され、そして後述するように、その環境が人為的に改変されることによって終焉を迎えるという、地理と歴史が密接に連関した典型的な事例と言える。
槙島城の歴史を語る上で欠かせないのが、この地を本拠とした在地領主、真木島(槙島)氏である。彼らは単なる一武士団ではなく、多面的な性格を持つ存在であった。史料によれば、真木島氏は山城国宇治の土豪であり、公家である近衛家の荘園「五箇庄」の有力な名主であった 13 。さらに、宇治離宮社(現在の宇治神社・宇治上神社)の神官も務め、「槇島長者」とも呼ばれていたという 7 。在地における経済的・宗教的権威を掌握した有力者であったことが窺える。
一方で、その系譜には複数の説が存在し、錯綜している。室町幕府の四職に数えられる名門・一色氏の一族である一色輝元が槙島城に入り、真木島氏を称したという説 15 や、桃井氏の末裔であるとする説 16 がある。こうした系譜の多様性は、一見矛盾しているように見えるが、むしろ戦国期特有の社会状況を反映していると解釈できる。すなわち、在地領主が自らの出自を中央の権威ある氏族と結びつけることで、その社会的・政治的地位を高めようとした戦略の現れと考えられる。
真木島氏の地位を決定的に高めたのは、室町幕府との直接的な関係構築であった。当初、彼らは山城国守護であった畠山氏の被官、つまり家臣であったが、応仁の乱(1467年-1477年)前後の時期に、将軍直属の親衛隊ともいえる「奉公衆」に抜擢された 7 。これは、真木島氏が単なる宇治の一在地領主から、幕政に直接関与し、将軍の軍事力を構成する一員へと、その立場を大きく変貌させたことを意味する。この奉公衆としての地位が、後に将軍足利義昭がこの地を最終拠点として選ぶ伏線となる。
真木島氏の拠点としての初期の姿は、堅固な「城」というよりも、防御機能を持った居館である「館(やかた)」であった。応仁・文明の乱や、その後の畠山氏の内訌(明応の政変など)において、宇治周辺は度々戦場となり、「真木嶋館」もその舞台となった 7 。しかし、この時期の記録を詳細に分析すると、大規模な敵軍が迫った際、真木島氏は館に籠もって徹底抗戦するのではなく、館を放棄して近隣の山間部(白川別所など)へ退避する行動パターンが見られる 7 。これは、当時の「真木嶋館」が、籠城戦を想定した本格的な防御施設を備えていなかったことを示唆している。あくまで在地領主の私的な拠点という性格が強かったのである。
この「館」が本格的な「城」へと飛躍する転機は、明応8年(1499年)に訪れる。当時、管領として幕政の実権を握っていた細川政元が、対立する畠山尚順との合戦の末にこの地を占拠した 1 。政元は、大和・河内方面に勢力を持つ畠山氏を牽制するための戦略拠点として槙島の重要性に着目し、大規模な改修に着手したと考えられる 7 。この時期を境に、史料上の呼称が「真木嶋館」から「真木嶋城」へと明確に変化している点は極めて重要である 7 。さらに、政元が城の普請に用いる縄や竹、人夫などを東寺に催促した書状も残っており、防御施設が格段に強化されたことが裏付けられる 7 。
政元はこの城を大いに利用し、将軍・足利義澄を度々招いて宴会や鷹狩りを催している 1。これは、槙島城が単なる軍事拠点に留まらず、畿内中央政権の政治的な舞台としても機能し始めたことを示している。真木島氏の私的な「館」は、細川政権という公的な権力の下で、畿内の戦略を担う「城」へとその性格を大きく変貌させたのである。この変貌は、在地領主の拠点が中央の政治権力によって再編・強化されていくという、戦国時代の城郭史における一つの典型的なパターンを示すものであった。
元亀年間(1570年-1573年)、織田信長の勢力拡大に対し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄といった各地の有力大名が蜂起し、一大包囲網が形成された。この反信長勢力の動きを背後で画策し、煽動していたのが、室町幕府第15代将軍・足利義昭であった 18 。当初、信長に擁立される形で将軍職に就いた義昭であったが、信長が将軍の権威を形骸化させ、自らの権力を確立しようとする動きを強めるにつれ、両者の関係は修復不可能な対立へと発展していった 5 。義昭にとって、信長の排除は将軍権威の回復、すなわち室町幕府の再興に不可欠な手段であった。
元亀4年(1573年)2月、義昭はついに反信長の旗幟を鮮明にし、挙兵に踏み切る 5 。当初は京都の二条御所を拠点としていたが、同年7月、信長の大軍が京に迫ると、義昭は最終決戦の地として槙島城を選び、そこへ移った 20 。この選択には、明確な理由があった。
第一に、城主である真木島昭光との個人的な信頼関係である。昭光は、将軍・義昭の偏諱(名前の一字)である「昭」の字を与えられた側近中の側近であり、幕府奉公衆として将軍に絶対の忠誠を誓う人物であった 16。
第二に、槙島城の地理的・軍事的価値である。前述の通り、宇治川と巨椋池に囲まれたこの城は、天然の水上要塞であった。『信長公記』によれば、義昭自身もこの城の堅固さを見て「是れに過ぎたる御構へこれなし」(これ以上の防御施設はない)と感心したと記されており、難攻不落の要害であると高く評価していた 7。義昭は、この城に籠城し、反信長勢力の援軍を待つという、中世的な籠城戦術に勝機を見出していたのである。
義昭が槙島城に立て籠もったことで、信長との直接対決は避けられないものとなった。この戦いの経過は、信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』に詳述されている。
義昭挙兵の報を受けた信長の対応は、迅速かつ圧倒的であった。7月上旬、信長は畿内の諸将を動員して京へ進軍。まず義昭方の残る二条御所を包囲し、これを短期間で制圧した 19 。その後、全軍の矛先を義昭の籠る宇治・槙島城へと向けた。その軍勢は総勢7万にも及んだと伝えられる 5 。
7月18日、信長軍は槙島城の対岸、五ケ庄のあたりに布陣した 7 。眼前に広がるのは、水かさを増した宇治川の激流であった。諸将が渡河を躊躇する中、信長は自ら馬を乗り入れ、先陣を切って渡ろうとしたと伝えられる 8 。この圧倒的な統率力と決断力が、全軍の士気を奮い立たせた。信長は軍を二手に分け、平等院門前と五ケ庄の二方面から一斉に渡河作戦を開始した 5 。
織田軍の猛攻は、槙島城の防御線をいとも簡単に打ち破った。城の防御の要であった「外構(がいこう)」、すなわち城の外周を囲む防御施設は、織田軍の攻撃によって突破され、火が放たれた 7 。外構の建物群が炎上する中、城兵は本城へと退却を余儀なくされた。義昭が難攻不落と信じた堅城は、信長が動員した圧倒的な兵力と、それを最大限に活用する近世的な戦術の前に、わずか一日でその機能を失ったのである 5 。
本城も危うくなるに及び、義昭は完全に戦意を喪失した。織田軍の猛攻に恐怖した義昭は、信長に講和を申し入れた 20 。信長は義昭の生命を保証する代わりに、その子・義尋を人質として差し出させ、事実上の無条件降伏を受け入れた 20 。ここに、槙島城の戦いは終結した。この戦いは、単なる一つの戦闘の帰趨を決しただけではなかった。それは、中世的な「城に籠もって耐える」という受動的な戦争観が、信長が提示した「圧倒的な戦力で敵の拠点を短期間に殲滅する」という能動的かつ近世的な戦争観に完膚なきまでに打ち破られた、軍事史上のパラダイムシフトを象徴する戦いであった。義昭の敗北は、旧時代の戦術思想そのものの敗北でもあったのである。
降伏後、義昭は槙島城を退去し、京から追放された。当初は河内の若江城などへ移り、その後も備後の鞆(とも)を拠点に「鞆幕府」として将軍の権威を主張し続けるものの、もはやその支配力は畿内には及ばなかった 1 。この義昭の京都追放をもって、足利尊氏以来約240年間続いた室町幕府は、その実態を完全に失い、事実上滅亡したと見なされている 5 。
槙島城の戦いが終結した直後の7月28日、信長の主導により、朝廷は元号を「元亀」から「天正」へと改めた 20 。これは、単なる暦の変更ではない。将軍・義昭の権威を完全に否定し、信長こそが天下を平定し、新たな時代を切り開く支配者であることを天下に宣言する、極めて象徴的な政治的行為であった。槙島城の戦いは、室町という一つの時代に終止符を打ち、天正という新たな時代の幕開けを告げる、歴史の分水嶺となったのである。
表1:1573年 槙島城の戦い 主要関係者一覧
陣営 |
役職・立場 |
主要人物 |
動向 |
籠城側 |
総大将 |
足利 義昭 |
二条御所から槙島城へ移り籠城するも、織田軍の猛攻の前に降伏。京より追放される。 |
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城主 |
真木島 昭光 |
将軍義昭を自らの居城に迎え入れ、共に籠城。義昭の側近として最後まで運命を共にする。 |
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幕臣 |
三淵 藤英、伊勢 貞興など |
一部は二条御所に残り防戦するも制圧される。多くは義昭に従い槙島城へ入る。 |
攻城側 |
総大将 |
織田 信長 |
電撃的に京へ進軍。二条御所を制圧後、槙島城を総攻撃し、一日で義昭を降伏に追い込む。 |
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部将 |
柴田 勝家、佐久間 信盛、丹羽 長秀、蜂屋 頼隆 |
織田軍の中核として宇治川を渡河し、槙島城の外構を突破する主力部隊を担う 5 。 |
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部将 |
明智 光秀 |
攻城戦に参加。後の信長の畿内統治において重要な役割を果たす。 |
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元幕臣 |
細川 藤孝(幽斎) |
当初は義昭の側近であったが、情勢を判断し信長方へ加わる。信長を京で出迎え、忠誠を誓う 5 。 |
足利義昭の追放後、歴史の表舞台であった槙島城は、織田信長の畿内統治における一拠点として新たな役割を担うことになった。戦後処理として、城は一時的に細川藤孝の子である細川昭元に預けられた 20 。その後、信長の重臣である塙(ばんば)直政が山城国南半国の守護に任じられ、槙島城に入城した 7 。これにより、槙島城は単なる軍事拠点から、南山城地域を統治するための行政拠点としての性格を帯びるようになった。
塙直政の統治下において、信長は槙島城を中心とした新たな経済圏の構築を構想していた可能性が指摘されている。天正2年(1574年)の書状によると、信長は宇治の有力茶師である上林氏に対し、「宇治・真木嶋」における商人や物資の往来、宿場の支配を命じている 7 。これは、伝統的な宇治の町と、新たに統治拠点となった槙島を一体化させ、商業・流通の拠点として整備しようという意図があったことを示唆している 7 。もしこの構想が実現していれば、槙島城の周辺には新たな城下町が形成され、地域の中心として発展した可能性があった。
しかし、槙島城が南山城の拠点として栄光を維持した期間は短かった。本能寺の変で信長が倒れ、天下統一事業を継承した豊臣秀吉が、京都南郊の伏見に巨大な城郭(伏見城)の築城を開始すると、槙島城の運命は大きく変わる 7 。政治・軍事の中心が伏見へと移ったことで、槙島城の戦略的価値は急速に低下していった。
槙島城の存在意義に決定的な終止符を打ったのは、伏見城の築城と城下町建設に伴って行われた大規模な土木工事であった。秀吉は、宇治川の流路を伏見城下に引き込むために「太閤堤」と呼ばれる長大な堤防を築き、河川の流れを大きく変更した 7 。この結果、槙島城の生命線であった宇治川と巨椋池による「水上要塞」としての地理的優位性は完全に失われた。かつて島のように浮かんでいた城は、ただの平地の城となり、その軍事的価値は無に帰したのである。
こうしてその役割を終えた槙島城は、文禄3年(1594年)頃に廃城となったと伝えられている 2 。関ヶ原の戦いの際に再利用する話も持ち上がったとされるが、実現には至らなかった 8 。歴史の舞台から姿を消した城跡は、やがて茶畑となり、近代以降は宅地化や工場建設の波にのまれ、その遺構のほとんどが地上から失われてしまった 8 。
遺構がほとんど現存しない槙島城の構造を復元するには、文献史料とわずかな考古学的知見に頼るほかない。まず、宇治川の中州に築かれた平城であったことは、各種史料から明らかである 1 。規模については、江戸時代の地誌『山城名勝誌』に「方二町」(一辺が約218メートル)であったとの記述があり、中心となる郭(くるわ)が約200メートル四方の正方形に近い形をしていたと推定される 8 。
槙島城の構造を考える上で最も重要な手がかりは、『信長公記』に記された「外構」の存在である 7 。これは、中心郭の外周に、さらなる防御ライン、すなわち惣構(そうがまえ)が設けられていたことを示唆している。このことから、槙島城は単一の郭からなる単純な館ではなく、本丸、二の丸といった複数の郭が計画的に配置された、複合的な城郭であった可能性が高い。平城の縄張(設計)としては、中心郭の周囲を同心円状に郭が囲む「輪郭式」や、中心郭の二方または三方を別の郭が囲む「梯郭式」などが想定されるが、具体的な配置を特定するまでには至っていない 24 。
槙島城の姿を具体的に探るため、1996年(平成8年)に宅地開発に先立って、城跡の一部で発掘調査が実施された 8 。調査範囲は限定的であったものの、この城に関する貴重な物証が得られている。
この調査では、室町時代の土師器(はじき)、瓦器(がき)、国内外の陶磁器、そして瓦などが出土した 23 。これらの遺物は、文献史料が示す通り、室町時代から安土桃山時代にかけてこの地が城として、また人々の生活の場として機能していたことを考古学的に裏付けるものである。
一方で、堀跡や建物の礎石といった、城郭の構造を直接的に示す明確な遺構の検出には至らなかった 8 。これは、後世の茶畑への転用や、近年の工場建設、宅地化によって、地表面近くの遺構が著しく削平・破壊されてしまったためと考えられる 8 。しかし、限定的ながらも学術的な調査が行われ、城の存在が物証によって確認されたことの意義は大きい。
現在、槙島城の歴史を今に伝えるのは、現地に設置された二つの石碑である。一つは、城の中心部であったと推定される住宅地内の小公園に建てられたもので、「此の附近 槇島城跡」と刻まれた石碑と、由緒を記した説明板が設置されている 1 。もう一つは、そこから北へ約200メートル離れた槇島公園内に存在する、より大きな記念碑である 1 。ただし、この槇島公園の場所は、本来の城域の外であった可能性が高いと指摘されている 1 。この二つの碑の位置関係は、城の正確な範囲の特定が困難であることを示すと同時に、地域の中で歴史がどのように記憶され、伝えられてきたかを物語っている。
完全に市街地化した城跡であるが、注意深く観察すると、ごくわずかにその名残を見出すことができる。一部の道路の区画(地割)に、かつての城郭の区画が反映されている可能性が指摘されている 8 。また、「薗場(そのば)」といった地名が、城に関連する何らかの施設(庭園など)に由来する可能性も考えられる 2 。これらは決定的な証拠ではないものの、失われた城の姿を想像するための貴重な手がかりである。
表2:槙島城 関連年表
西暦 |
和暦 |
出来事 |
関連人物・典拠 |
1221年 |
承久3年 |
承久の乱において、幕府軍が宇治川渡河の際に中州の「真木島」を利用。『吾妻鏡』に記録が残る。 |
北条泰時など |
1221年 |
承久3年 |
長瀬左衛門による築城伝承が存在する 1 。 |
長瀬左衛門 |
15世紀後半 |
応仁・文明年間 |
在地領主・真木島氏の拠点「真木嶋館」として、応仁の乱や畠山氏の内訌の舞台となる 7 。 |
真木島氏、畠山氏 |
1499年 |
明応8年 |
細川政元が畠山氏との合戦に勝利し、槙島を占拠。呼称が「館」から「城」へと変化し始める 7 。 |
細川政元、畠山尚順 |
1501年 |
文亀元年 |
細川政元が将軍・足利義澄を「真木嶋城」に招き、宴を催す 7 。 |
細川政元、足利義澄 |
1573年 |
元亀4年 7月 |
槙島城の戦い 。足利義昭が織田信長に反して籠城するも、一日で降伏。事実上の室町幕府滅亡。 |
足利義昭、織田信長、真木島昭光 |
1573年以降 |
天正年間 |
塙直政が城主となり、南山城の統治拠点となる。城下町整備の構想も存在した 7 。 |
塙直政、織田信長 |
1594年頃 |
文禄3年頃 |
豊臣秀吉の伏見城築城と宇治川改修に伴い、戦略的価値を喪失し、廃城となる 6 。 |
豊臣秀吉 |
1996年 |
平成8年 |
宅地開発に伴う発掘調査が実施され、室町時代の遺物が出土する 23 。 |
宇治市教育委員会 |
槙島城の歴史を辿ることは、中世から近世へと移行する日本の社会変動を凝縮した形で追体験する作業である。その歴史は、宇治川と巨椋池が織りなす特異な地理的環境を母体として始まった。当初は在地領主・真木島氏の私的な拠点「館」であったが、畿内の覇権を争う中央権力者・細川政元の手に渡ることで、公的な戦略拠点「城」へと変貌を遂げた。そして、その頂点において、室町幕府の終焉という日本史の決定的な転換点の舞台となった。しかし、その栄光は長くは続かなかった。新たな天下人・豊臣秀吉による、より壮大な都市計画と治水事業の前に、その存在基盤であった地理的優位性を根底から覆され、歴史の舞台から静かに姿を消していったのである。
今日、槙島城は遺構なき城跡として、我々に一つの問いを投げかけている。それは、目に見える形を失った歴史的遺産を、我々はいかにして理解し、その記憶を後世に継承していくべきか、という問いである。その答えは、一つの方法論に集約されるものではない。本報告書で試みたように、断片的な文献史料を丹念に読み解き、限定的な考古学調査の成果を分析し、そして地域に残る石碑や地名といったわずかな痕跡を丁寧に拾い上げ、それらを統合的に解釈していく地道な作業の中にこそ、失われた城の姿を未来へと語り継ぐ道筋が見出せる。槙島城の研究は、単なる過去の一城郭の解明に留まらず、歴史的記憶の継承という、現代に生きる我々に課せられた普遍的な課題への応答でもあるのだ。今後のさらなる研究、特に未調査区域における考古学的アプローチの進展が、この失われた水上要塞の新たな一面を照らし出すことを期待して、本報告書の結びとしたい。