権現堂城
権現堂城は奥州標葉郡の要衝。標葉氏が築くも、相馬氏の侵攻と一族の内応により落城。相馬氏の支城として南の守りを担うも、関ヶ原の戦いで廃城。その悲劇は今も地域の習俗に。
権現堂城の興亡:奥州標葉郡における戦国時代の力学
序章:権現堂城の歴史的座標
陸奥国、浜通り地方の中央部に位置する標葉郡(現在の福島県双葉郡北部)。この地をかつて支配した標葉氏の栄光と悲劇、そして後の支配者となった相馬氏の戦略を今に伝える城郭が、権現堂城である。福島県双葉郡浪江町、北緯37度29分55.246秒、東経140度59分47.767秒にその遺構を残すこの城は、請戸川の北岸に広がる丘陵の先端という、天然の要害に築かれた 1 。その立地は、太平洋へと注ぐ河川交通と、南北を結ぶ陸上交通路を扼する戦略的要衝であり、中世から戦国時代にかけて、この地の支配を巡る上で極めて重要な意味を持っていた。
権現堂城の歴史は、大きく二つの時代に区分することができる。一つは、室町時代中期に地域の独立勢力であった標葉氏が、その存亡を賭けて築いた「本城」としての時代。そしてもう一つは、明応元年(1492年)の落城後、北の戦国大名・相馬氏の支配体制に組み込まれ、その南進と防衛の拠点となった「支城」としての時代である 1 。この城の役割の変遷は、標葉氏という一地方豪族の滅亡の物語であると同時に、奥州の地における群雄割拠から、より広域を支配する戦国大名による領域支配へと権力構造が再編されていく、戦国時代のダイナミズムを象徴するものである。本報告書は、この権現堂城を多角的に分析することにより、奥州の一角で繰り広げられた権力闘争の実像を解き明かすことを目的とする。
第一部:標葉氏の城 ― 権現堂城の築城と構造
第一章:築城前夜 ― 標葉氏の台頭と葛藤
権現堂城の歴史を理解するためには、まずその築城主である標葉氏の出自と、彼らが置かれた戦国前夜の厳しい状況を把握する必要がある。
標葉氏の出自と勢力範囲
標葉氏(しねはし、しめはし)は、桓武平氏の流れを汲む海道平氏の一族とされ、陸奥国南東部で広大な勢力を誇った岩城氏とは同族の関係にあった 3 。その祖は平成衡の四男・隆行(隆義)と伝えられる 3 。彼らの支配領域は、古代の標葉郡、すなわち現在の福島県双葉郡に属する浪江町、双葉町、大熊町、葛尾村を中心とした一帯であった 5 。鎌倉時代には同族の岩城氏の強い影響下にあったと見られるが、時代が下るにつれて徐々に独立性を高め、鎌倉時代末期にはこの地における有力な国人領主としての地位を確立していた 3 。
しかし、室町時代に入ると、標葉氏を取り巻く環境は厳しさを増していく。北には同じく下総国から奥州に移住し、行方郡・宇多郡を拠点に勢力を拡大する相馬氏が、南には依然として強大な力を持つ同族の岩城氏が控え、標葉氏は二大勢力に挟まれた緩衝地帯に位置することとなった 6 。彼らは時に周辺勢力と同盟を結び(五郡一揆など)、巧みな外交によって独立を維持しようと試みたが 6 、南北からの軍事的圧力は常に彼らの存立を脅かし続けていた。
本拠地移転の戦略的必然性
このような緊迫した情勢の中、標葉氏にとって本拠地の防御能力の強化は、一族の存亡に関わる喫緊の課題であった。標葉氏は古くから、太平洋に面した請戸(うけど)の地に居館(請戸城)を構えていた 2 。しかし、請戸城は平地に築かれた城館であり、大規模な軍勢による包囲攻撃に対して脆弱であったことは想像に難くない。
この防御上の弱点を克服すべく、時の当主・標葉清隆は一大決断を下す。まず、室町時代中期の嘉吉年間(1441年~1444年)頃に、請戸から内陸に入った西台の地に本城館を築いて拠点を移した 2 。さらに、文安年間(1444年~1449年)には、その本城館に隣接する、より防御に適した丘陵の先端に、新たな城郭として権現堂城を築城し、再び居城を移したのである 9 。
この一連の本拠地移転は、単なる居城の刷新ではない。それは、相馬・岩城という二大勢力の圧迫が現実的な脅威となり、従来の沿岸部の平城では領国の維持が困難になったことを示す、標葉氏の守勢への転換を意味していた。天然の要害である丘陵地帯に拠点を移すという選択は、彼らが置かれた厳しい地政学的状況と、それに対する存亡をかけた戦略的決断の表れであった。権現堂城の築城は、標葉氏の力の誇示であると同時に、その基盤の脆弱性を映し出す鏡でもあったのである。
第二章:権現堂城の縄張と防御機能
標葉氏が最後の拠点として築いた権現堂城は、当時の城郭技術を駆使した堅固な要塞であった。その遺構からは、一族の存亡を託すに足る優れた防御機能と思想を読み取ることができる。
立地と構造
権現堂城は、請戸川とその支流が合流する地点に舌状に突き出た、標高約23メートル、比高差約15メートルの台地の先端部に築かれた平山城である 2 。川を天然の水堀とし、三方を崖に囲まれたこの地は、防御拠点として理想的な地形であった。城の名称は、城主であった標葉氏が篤く信仰し、城内に鎮守として祀った出羽権現(羽黒権現)に由来すると伝えられている 2 。
遺構から読み解く縄張
現存する遺構から権現堂城の縄張(城の設計)を分析すると、その巧みな防御思想が浮かび上がる。城の最大の特徴は、西側に続く台地を二条の巨大な空堀によって完全に分断し、独立した二つの主要な郭(曲輪)を形成している点にある 10 。
東端に位置する郭が本曲輪(主郭)と考えられており、現在は標葉氏が祀った出羽権現社の後身とされる雷神社が鎮座している 1 。この郭は約30メートル×40メートルの平坦地で 1 、西側の空堀に面して土塁が明瞭に残存しており、「権現堂城本曲輪跡」の案内板も設置されている 2 。
一方、本曲輪の西側に広がる郭は、本曲輪よりも広大であるが、現在は著しく藪化が進行しており、内部の詳細な構造を把握することは困難な状況にある 2 。
これらの郭を隔てる空堀こそが、権現堂城の防御の要であった。特に西側の郭をさらに西の台地から切り離す大堀切は圧巻の規模を誇る。その幅は約12メートル、深さは約10メートルに達し、堀に面してさらに高さ2メートルの土塁が築かれていたとされ、敵の侵入を容易に許さない強固な防御線を形成していた 1 。また、本曲輪と西曲輪の間の空堀が直線的に南北に伸びるのに対し、この西端の大堀切は途中で一度西側に屈折する「横矢掛かり」の構造を持ち、堀に侵入した敵兵に対して側面から攻撃を加えることができる、より実践的な設計となっている 10 。
周辺城郭網との連携
権現堂城の防御体制は、単体の城で完結するものではなかった。その西約1キロメートルの同じく請戸川に臨む台地上には、泉田館(泉田城)が存在した 2 。権現堂城に比べれば小規模ながら、周囲は切岸加工が施され、独立した防御拠点としての機能を有していたこの館は、権現堂城を守る上で極めて重要な支城であったと見なされている 2 。
権現堂城と泉田館は、本城と支城が一体となって敵の侵攻を阻む、一種の防御ネットワークを形成していたと考えられる。しかし、皮肉なことに、この堅固であるはずの城郭網を内側から崩壊させることになるのが、まさにこの泉田館の城主であった。後に詳述するが、泉田館主・泉田隆直の相馬方への内応は、物理的な城郭構造の堅固さがいかに人的な結束の脆弱性の前には無力であるかを物語っている。権現堂城の防御体制の崩壊は、外部からの強攻ではなく、信頼すべき味方であったはずの内部からの裏切りによってもたらされたのである。
第二部:明応元年の攻防 ― 標葉宗家の滅亡
室町時代中期に築かれ、標葉氏の権威の象徴となった権現堂城であったが、その命運は長くは続かなかった。戦国時代の幕開けを告げる明応元年(1492年)、北の相馬氏による大規模な侵攻を受け、標葉宗家と共に壮絶な最期を遂げることになる。
年代 |
主な出来事 |
典拠 |
嘉吉2年(1442年) |
標葉氏の一族・標葉隆重が当主・清隆の家臣を殺害し、清隆に攻められ岩城氏のもとへ逃亡。標葉氏内部に混乱が生じる。 |
6 |
文安年間(1444-49年) |
標葉清隆が、防御力に優れた権現堂城を築城し、本拠を移す。 |
9 |
明応元年(1492年)6月頃 |
相馬高胤が権現堂城を攻撃するも、渋井(または藤橋)の陣中にて急死。相馬軍は一時撤退する。 |
2 |
明応元年(1492年)12月 |
高胤の子・相馬盛胤が再び権現堂城へ侵攻。標葉一族の泉田隆直らが内応し、権現堂城は落城。城主・標葉清隆と嫡子・隆成は自刃し、標葉宗家は滅亡する。 |
1 |
慶長7年(1602年) |
関ヶ原の戦いの結果、相馬氏が一時改易された際に、権現堂城は他の支城と共に廃城となったと推定される。 |
1 |
第三章:相馬氏の侵攻と最初の攻防
相馬氏と標葉氏の間には、標葉郡の領有権を巡り、長年にわたる根深い対立が存在した 7 。応仁の乱を経て世が乱れ始めると、相馬氏の標葉郡への野心は露わとなり、軍事的な緊張は極度に高まっていた。
ついに明応元年(1492年)、相馬氏第13代当主・相馬高胤は、標葉氏を滅ぼしその所領を併呑すべく、大軍を率いて南下を開始した 2 。標葉氏の防衛線は次々と破られ、相馬軍は本拠地である権現堂城へと迫った。しかし、この第一次攻防戦は、誰もが予期せぬ形で幕切れを迎える。権現堂城攻略の最中、総大将である相馬高胤が、渋井(あるいは行方郡藤橋村)の陣中にて病により急死してしまったのである 2 。
指導者を失った相馬軍は、高胤の死を敵に悟られぬよう厳重に秘匿し、全軍を小高城へと撤退させた 2 。この偶然の出来事により、標葉氏は滅亡の淵から一時的に救われた。だが、それは破局の先延ばしに過ぎなかった。
第四章:落城 ― 内応と宗家の最期
父・高胤の急死により、その跡を継いだのは若き嫡男・盛胤であった(当時13歳あるいは18歳と伝わる) 14 。盛胤は父の無念を晴らすべく、家督相続後間もない同年12月、再び権現堂城攻略の兵を挙げた 1 。冬の厳しい寒さの中、相馬軍は権現堂城を包囲し、標葉氏の命運を賭けた最後の戦いの火蓋が切られた。
この第二次攻防戦において、勝敗を決定づけたのは軍事力の優劣ではなかった。標葉氏一族の内部からの裏切り、すなわち「内応」であった。籠城する標葉清隆を裏切ったのは、一門の筆頭格であり、権現堂城の重要な支城である泉田城の主・泉田隠岐守隆直、そして同じく一族の藤橋出羽守隆豊らであった 1 。彼らは密かに相馬方に通じ、堅固な権現堂城を内側から崩壊させたのである。
勢力 |
主要人物 |
役職・立場 |
行動 |
標葉方(籠城側) |
標葉 左京大夫 清隆 |
標葉氏当主、権現堂城主 |
籠城し防戦するも、内応により敗れ自刃。 |
|
標葉 左馬助 隆成 |
清隆の嫡子 |
父と共に自刃。 |
相馬方(攻撃側) |
相馬 出羽守 高胤 |
相馬氏第13代当主 |
第一次攻撃を指揮するも陣中で急死。 |
|
相馬 大膳大夫 盛胤 |
相馬氏第14代当主、高胤の子 |
第二次攻撃を指揮し、権現堂城を攻略。 |
内応者 |
泉田 隠岐守 隆直 |
標葉一門、泉田城主 |
相馬方に内応し、落城を主導。 |
|
藤橋 出羽守 隆豊 |
標葉一門 |
泉田隆直と共に相馬方に内応。 |
相馬藩の記録によれば、内応の経緯は極めて具体的である。泉田隆直の甥にあたる武士が権現堂城に籠城していたが、叔父が相馬方についたことを知り、自らも忠義を尽くそうと決意。城の大門の鍵の形を雪の上に描き写し、その絵図を密かに相馬の陣営へ送ったという 17 。この情報を得た盛胤は、直ちに合鍵を作らせて城内に送り込み、示し合わせた夜、内応者がその鍵で門を開け、相馬軍を城内へと引き入れた。四方から火の手が上がり、折からの北西の強風に煽られて城は炎に包まれた 17 。万策尽きた城主・標葉清隆とその嫡子・隆成は、燃え盛る城を枕に自刃し、ここに標葉宗家は滅亡した 1 。
この明応元年12月8日の悲劇は、権現堂城の歴史に終止符を打っただけでなく、地域社会の記憶に深く刻み込まれた。浪江町権現堂地区には、この落城の日を悼み、「師走八日(12月8日)には餅をつかない」という風習が、近代に至るまで伝えられてきた 15 。この習俗は、権現堂城の落城が単なる領主の交代劇ではなく、地域の根幹を揺るがすほどの衝撃的な出来事であったことを示す生きた証拠である。武士の興亡という歴史上の事件が、地域の禁忌として人々の生活文化の中に昇華され、500年以上の時を超えて受け継がれてきた事実は、この城が持つ歴史の重みを雄弁に物語っている。
第三部:相馬氏の支城 ― 戦国末期の役割と終焉
第五章:相馬氏支配下の権現堂城
標葉宗家の滅亡により、権現堂城とその所領である標葉郡は完全に相馬氏の支配下に入った。これにより、権現堂城の役割は根本的な変質を遂げることになる。
城代・岡田氏の入城と統治
標葉郡を平定した相馬盛胤は、この地の統治と南方の防衛を固めるため、権現堂城に一門の重鎮を配置した。城代として入城したのは、相馬氏譜代の重臣である岡田義胤(将監)であった 1 。記録によれば、義胤は嫡男に岡田氏の家督を譲り、自らは次男の胤連を伴って権現堂城に移り住んだとされ、以降その系統が城主を継承していった 9 。これにより、権現堂城は相馬氏の支配体制に組み込まれ、戦国末期までその支城として機能し続けることとなる。
相馬氏の南の拠点としての戦略的役割
支配者が標葉氏から相馬氏に変わったことで、権現堂城の戦略的価値も再定義された。標葉氏にとって権現堂城が「領国全体を守る最後の砦(本城)」であったのに対し、本拠を小高城や中村城に置く相馬氏にとっては、「南の国境線を守り、さらなる勢力拡大を窺うための前方拠点(支城)」へとその性格を変えたのである 1 。
この役割の変化は、地域の権力中心が北の相馬領へと移動し、標葉郡が相馬領の南の辺境へと位置づけられたことを意味する。権現堂城は、南に勢力を張る岩城氏や、後に奥州の覇権を巡って激しく争うことになる伊達氏の勢力圏に対する、相馬氏の最前線基地となった。城の機能の変遷は、この地域が小規模な国人領主の割拠する時代から、より広域を支配する戦国大名がしのぎを削る時代へと移行していく過程を、如実に反映しているのである。
第六章:廃城とその後
相馬氏の支城として約100年間、南の守りを担った権現堂城であったが、その歴史にもやがて終焉の時が訪れる。その引き金となったのは、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。
関ヶ原の戦いと相馬氏の改易
戦国時代の末期、相馬氏当主・相馬義胤は、奥州の覇者たらんとする伊達政宗と長年にわたり熾烈な抗争を繰り広げた 13 。一時は滅亡の危機に瀕しながらも、豊臣秀吉による小田原征伐への参陣と、その後の奥州仕置によって所領を安堵され、近世大名への道を歩み始めていた 13 。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、相馬氏は明確に徳川家康方の東軍につかず、西軍に与したと見なされた(あるいは日和見的な態度を取った)。戦後、天下の覇権を握った家康は、その態度を咎め、慶長7年(1602年)、相馬氏に対して一時的に所領没収、すなわち改易の処分を下したのである 1 。
廃城とその時期
この相馬氏の改易に伴い、領内の城郭は破却されることとなった。権現堂城も例外ではなく、この時に他の支城と共に廃城になったと考えられている 1 。これにより、文安年間の築城から約150年にわたって続いた城としての歴史は、完全に幕を閉じた。
城跡の変遷と現代
城としての役目を終えた後、権現堂城の周辺は江戸時代には「高野宿」と呼ばれる宿場町として賑わいを見せた 12 。
現在、城跡には往時を偲ばせる土塁や空堀といった遺構が良好に残存しているものの、特に西側の郭は藪に覆われ、探索は容易ではない 1 。かつての本曲輪跡には雷神社が静かに佇み、その傍らには「権現堂城本曲輪跡」の案内板が設置され、ここが標葉氏最後の地であったことを伝えている 1 。
城跡そのものは国や県の文化財指定を受けてはいないが 1 、城跡の雷神社を参拝し折り返す伝統行事「裸参り」は、浪江町の指定無形民俗文化財として今に受け継がれている 1 。また、近年の研究では、浪江町内の毛萱館跡など他の城館跡との比較から、権現堂城の構造が双葉郡地域に共通する城館の特徴を有していることが指摘されており、学術的な価値も見直されつつある 22 。
終章:権現堂城が物語る奥州の戦国
権現堂城の築城から廃城に至るまでの約150年の歴史は、奥州の一角で繰り広げられた戦国時代の縮図である。その城跡は、単なる土木構造物ではなく、この地を生きた人々の栄光と挫折、そして時代の大きなうねりを雄弁に物語る歴史の証人と言えよう。
権現堂城の運命は、標葉氏という一つの独立した地域権力が、より強大な領域支配を目指す戦国大名・相馬氏に吸収されていく、戦国時代の弱肉強食の力学を鮮やかに体現している。特に、その落城の決定的な要因が、堅固な縄張りを誇る城郭の物理的な防御力を上回る、一族内部からの「内応」であったという事実は、戦国時代の合戦が単なる軍事力の衝突だけでなく、調略や情報戦を含む高度な政治的・心理的な駆け引きの場であったことを我々に教えてくれる。
相馬氏の支配下では、城の役割は防衛拠点から前方基地へと変貌を遂げた。これは、地域の権力構造の変化が、城という軍事施設の機能をも再定義することを示す好例である。そして最後は、中央の政権(徳川氏)の意向によってその歴史に幕を閉じる。この一連の変遷は、地方の論理が中央の論理に飲み込まれていく、戦国時代の終焉と近世の幕開けを象徴している。
今日、権現堂城跡は、標葉氏の歴史と文化を伝える貴重な遺産として、浪江の地に静かに眠っている。その悲劇的な最期が地域の習俗として昇華され、今なお語り継がれていることは、この城が地域の人々の心の中に生き続けている証左に他ならない。遺構の保存と活用という課題は残るものの、権現堂城が持つ歴史的・文化的な価値を正しく理解し、後世に継承していくことは、現代に生きる我々の責務であると言えるだろう。
引用文献
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- 権現堂城 小丸館 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/hukusima/namiemati.htm
- 標葉氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E8%91%89%E6%B0%8F
- 武家家伝_標葉氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sineha.html
- 浜 通 り 北 部 - BIGLOBE http://www5d.biglobe.ne.jp/~hisaya/hamahokubu.htm
- 標葉氏統治時代とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%A8%99%E8%91%89%E6%B0%8F%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3
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- 陸奥 請戸城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/ukedo-jyo/
- 権現堂城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.gongendoh.htm
- 陸奥 権現堂城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/gongendo-jyo/
- 権現堂城の見所と写真・全国の城好き達による評価(福島県浪江町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/3352/
- 西徹雄・末永福男 - 浪江町 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/5987.pdf
- 武家家伝_相馬氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/souma_k.html
- 相馬盛胤 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/soryo312.htm
- 調査日誌(勉強中)92日目 -「御家給人根元記」に見る権現堂城の戦い https://ameblo.jp/namie-gongendo/entry-12680076825.html
- 相馬氏 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/souma.htm
- 執筆日誌343日目 -「第二章中世の権現堂」権現堂城落城(26)- | 浪江町大字誌編纂調査日誌 https://ameblo.jp/namie-gongendo/entry-12804357563.html
- 岡田義胤 - 相馬氏 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/okada20.htm
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- #079 海道国衆の「技巧」と「不屈」 富岡町毛萱館跡(けがやたてあと) 佐藤 俊 | 研究調査コラム | 遺跡調査部 - 公益財団法人福島県文化振興財団 https://www.fcp.or.jp/iseki/column/1288