浦戸城
土佐の要衝、浦戸城は本山氏が築き、長宗我部元親が四国統一と朝鮮出兵を見据え整備した。天守を備え近世城郭の過渡期を示すが、関ヶ原後に山内氏に接収され、浦戸一揆の舞台となる。高知城築城の資材となり廃城となった。
土佐の要衝・浦戸城 ― 戦国終焉の舞台となった海の城郭
序章:浦戸という地の戦略的重要性
浦戸城の歴史を紐解くことは、単に一つの城郭の盛衰を追うことに留まらない。それは、土佐国、ひいては戦国時代末期の日本の権力構造が、いかにして内陸を基盤とするものから海洋を志向するものへと変容していったかを物語る、象徴的な事例を検証することに他ならない。浦戸という地が持つ地政学的な価値は、戦国時代に突如として現れたものではなく、古代から連綿と続く歴史の中に深く根差している。
浦戸湾は、古くは『土佐国風土記』逸文にその名が見られるように、古代より海上交通の要衝として認識されていた 1 。太平洋という外洋に直接面しながらも、湾内は比較的穏やかであり、天然の良港としての条件を備えていた。この地理的特性は、平時においては交易の拠点として、有事においては水軍の出撃基地として、時代を超えて支配者たちに重要視される素地となった。その価値は戦乱の時代において一層顕著となり、建武3年(1336年)には南北朝の勢力がこの地を巡って激しく争った記録が残されていることからも、古くから軍事的な要衝であったことが窺える 2 。
戦国時代に入り、長宗我部氏が土佐国内の統一を進め、やがて四国制覇という大きな目標を掲げるに至り、この浦戸の戦略的価値は決定的な意味を持つようになる。長宗我部氏の初期の拠点は、香長平野の奥まった位置にある内陸の山城、岡豊城であった 4 。これは、在地領主として農業生産力を基盤とし、領国内の地盤を固めるという内向きの統治を主眼とした拠点選択であった。しかし、長宗我部元親がその勢力を四国全土に広げ、さらには豊臣秀吉の天下統一事業に組み込まれる一大名となる過程で、その活動領域は土佐一国に留まらなくなった。特に、秀吉が企図した朝鮮出兵という国家的な軍事行動は、西国の大名たちに海上輸送能力と水軍力の保有を強烈に意識させることとなった 2 。
このような歴史的背景の中で、元親が内陸の岡豊城から沿岸の浦戸へと拠点を移したことは、単なる居城の移転以上の意味を持つ。それは、長宗我部氏の権力基盤が、土地と米を主軸とする旧来の内陸型経済から、交易と水軍力を重視する海洋型経済・軍事体制へと大きく舵を切ったことの物理的な表明であった。浦戸城は、その新時代の司令塔として構想され、土佐の歴史における権力構造の転換点を象徴する存在となったのである。
第一部:長宗我部元親の野望と浦戸城
第一章:本山氏の築城から元親の掌握まで
浦戸城が歴史の表舞台に明確な形で登場するのは16世紀、戦国時代の土佐において「土佐七雄」と称された有力国人たちが覇を競っていた時代である。城の創始者は、その七雄の一角であり、土佐中央部に広大な勢力圏を築いていた本山氏であった。本山氏の当主、本山茂宗(清茂)は、天文年間(1532年~1554年)に、本拠である朝倉城の支城として浦戸の地に城を築いた 5 。
この築城は、本山氏の明確な戦略的意図に基づいていた。当時、勢力の絶頂期にあった本山氏は、その支配領域を南へと拡大し、土佐中央部の穀倉地帯から、海上交通の玄関口である浦戸湾までを完全に掌握しようと目論んでいた。浦戸城は、その海洋への出口を確保し、支配を盤石にするための重要な拠点として位置づけられていたのである。
しかし、その本山氏の勢威にも陰りが見え始める。東方から急速に台頭してきたのが、長宗我部国親とその子、元親であった。永禄3年(1560年)、長宗我部氏は本山氏への本格的な攻勢を開始し、浦戸城もその戦火に巻き込まれた 8 。この一連の戦いの中でも、元親の初陣として名高い戸ノ本の戦いは、長宗我部氏の運命を大きく左右する戦いであった 4 。それまで「姫若子」と揶揄されるほど穏やかな若者と見られていた元親は、この戦いで目覚ましい武功を挙げ、周囲の評価を覆して「土佐の出来人」としての名声を確立した 4 。
この勢いに乗り、長宗我部軍は浦戸城を攻略する。この勝利は、単に一つの城を手に入れたという以上の意味を持っていた。本山氏にとっては海洋への出口を完全に塞がれ、その勢力基盤に致命的な打撃を受けたことを意味した。一方で長宗我部氏にとっては、浦戸湾という土佐随一の港湾を手中に収め、経済力と軍事力の飛躍的な増強を可能にするものであった。浦戸城の奪取は、土佐国内の勢力図を決定的に塗り替え、長宗我部氏による土佐統一への道を大きく切り拓く、重要な一歩となったのである。
第二章:岡豊城から浦戸城へ ― 拠点移転の真相
長宗我部元親による浦戸城への本拠移転は、彼の治世における最も重要な政策決定の一つであり、その背景には複数の要因が複雑に絡み合っていた。この拠点移転の理由を解明することは、元親の戦略思想と、彼が置かれていた政治的状況を理解する上で不可欠である。
旧本拠・岡豊城の特性と限界
長宗我部氏が代々居城としてきた岡豊城は、標高約97メートルの丘陵上に築かれた、連郭式の典型的な中世山城であった 11 。最高所に「詰」と呼ばれる本丸を置き、そこから尾根筋に沿って二ノ段、三ノ段といった曲輪を階段状に配置し、堀切や土塁によって堅固に防御された構造は、領国を防衛するという点においては非常に優れていた 14 。
しかし、元親が土佐を統一し、さらに四国の覇者として中央政権とも渡り合うようになると、この山城の限界が露呈し始める。防戦に特化した構造は、領国全体を統治する政庁としては手狭であり、大規模な城下町を発展させる余地も乏しかった。また、内陸に位置するため、全国規模での政治・軍事活動に不可欠な水運の利用にも不便であった。
大高坂城計画の頓挫(治水失敗説)
こうした岡豊城の限界を認識した元親は、四国平定後、豊臣政権下の一大名となった天正16年(1588年)頃、新たな拠点として平野部の中心地である大高坂山(現在の高知城の地)を選定した 4 。ここに大規模な城郭と城下町を建設し、名実ともども四国の中心たるべき拠点としようとしたのである。
しかし、この壮大な計画は予期せぬ困難に直面する。大高坂山は鏡川と江ノ口川という二つの河川に挟まれたデルタ地帯に位置しており、古くから洪水が頻発する土地であった 4 。元親は治水工事に取り組んだものの、当時の土木技術では水害を克服することができず、城下町の建設は難航した 2 。この治水事業の失敗により、元親はわずか数年で大高坂山の利用を断念し、浦戸への再移転を余儀なくされたというのが、拠点移転に関する従来の定説であった。
豊臣政権下の戦略拠点(朝鮮出兵準備説)
しかし近年、この「治水失敗説」に加えて、より積極的な戦略目的を指摘する見方が有力となっている。それは、浦戸への移転が豊臣秀吉による朝鮮出兵計画と密接に関連していたとする「朝鮮出兵準備説」である 2 。
元親が浦戸城へ正式に本拠を移したのは、天正19年(1591年)頃とされている 5 。これは、秀吉が文禄の役(1592年)を開始するまさに直前の時期であり、偶然の一致とは考え難い。当時、豊臣政権下の大名であった元親には、この国家的な大事業への協力が厳命されていた。特に水軍力に定評のあった長宗我部氏には、兵員や兵糧、武具といった物資を朝鮮半島へ輸送する上で重要な役割が期待されていた。この任務を遂行するためには、外洋に直結し、大規模な船団が停泊・補給できる軍港機能を持つ拠点が不可欠であった 2 。浦戸は、その条件を完全に満たす、土佐随一の戦略拠点であった。元親が秀吉に巨大な鯨を生きたまま献上したという逸話は、彼が浦戸湾を拠点として高度な海上活動能力を既に有していたことを示唆している 19 。
この二つの説は、必ずしも相互に排他的なものではない。大高坂での治水問題は、否定しがたい技術的な困難として現実に存在したであろう 4 。しかし、もはや一地方の国人でなく、豊臣政権という巨大な政治体制の一部であった元親にとって、最優先すべきは中央政権の要求に応えることであった。朝鮮出兵という未曽有の国策を前に、大高坂の治水失敗は、計画の頓挫であると同時に、より時勢に適した戦略拠点、すなわち浦戸へと計画を「転換」するための格好の口実となった可能性も考えられる。元親は、失敗を逆手にとり、秀吉への忠誠と自家の軍事的能力を誇示するための最適な拠点構築へと、極めて高度な政治判断をもって舵を切ったのである。
第三章:近世への扉を開いた城郭
長宗我部元親によって本格的に整備された浦戸城は、その構造において、日本城郭史が中世から近世へと移行する過渡期の様相を色濃く映し出している。それは、単なる防御施設としての山城から、権威の象徴と広域支配の拠点を兼ね備えた近世城郭へと変貌を遂げる、まさにその途上にあった城であった。
構造的特徴 ― 中世から近世への過渡期
浦戸城の構造における最大の特徴は、城の中枢部である「詰ノ段」の北東隅に、壮麗な「天守」が築かれていた点である 5 。これは、長宗我部氏の旧本拠である岡豊城には見られなかった全く新しい要素であり、織田信長や豊臣秀吉によって発展した、いわゆる織豊系城郭の強い影響を受けたものである。天守は、戦闘時の最終拠点であると同時に、領民や他の大名に対して支配者の権威を視覚的に示す「見せる城」の象徴であった。この天守の存在こそが、浦戸城を旧来の中世山城から一線を画すものとしている 8 。
『浦戸城古城略図』や『吾川郡浦戸古城蹟図』といった古図によれば、天守は「五間四方」(約9メートル四方)の規模を持つ天守台の上に建てられ、三層構造であったと推定されている 5 。一方で、城の全体的な縄張りは、詰ノ段(約95メートル四方)を中心に、三方に伸びる尾根上に曲輪を配置し、それらを堀切(特に西方の尾根に残る三重堀切は顕著な遺構である)で分断するという、中世山城の伝統的な防御手法も色濃く残していた 20 。このように、最新の築城技術である天守と、伝統的な山城の防御構造が融合している点に、浦戸城の過渡期としての性格が最も明確に表れている。
発掘調査から見る実像
近年の国民宿舎改築などに伴う発掘調査は、文献史料だけでは知り得なかった浦戸城の実像を明らかにしつつある。調査では、自然の石を巧みに積み上げた「野面積み」の石垣や石塁が検出されており、これらは長宗我部氏による本格的な改修が、大規模な土木工事を伴うものであったことを物語る貴重な物証である 5 。
さらに、出土した瓦の胎土を科学的に分析した結果、大阪・堺で生産された瓦が含まれている可能性が指摘されている 22 。これは、当時の長宗我部氏が、豊臣政権との密接な関係を通じて、中央の最新技術や物資を導入していたことを裏付けるものであり、浦戸城が単に土佐一国に閉じた城ではなく、全国的な政治・経済ネットワークの中に位置づけられていたことを示している。また、城跡には現在も井戸跡が残されており 18 、籠城戦にも備えた、実戦的な設計思想が貫かれていたことが窺える。
【表1:岡豊城と浦戸城の比較】
項目 |
岡豊城 |
浦戸城 |
立地 |
内陸丘陵 |
沿岸岬(海城) |
縄張り形式 |
連郭式山城 |
梯郭式に近い山城 |
主要防御施設 |
堀切、土塁、切岸 |
堀切、石垣、土塁 |
天守の有無 |
無し |
有り(三層と推定) |
政治的・軍事的役割 |
領国統治、地域防衛 |
領国経営、対外軍事拠点(軍港) |
この比較表は、長宗我部元親の政治的立場の変化が、その拠点とする城郭の性格にいかに劇的な影響を与えたかを明確に示している。土佐一国の覇者であった時代の岡豊城は、内向きで「閉じた防御」を重視した城であった。それに対し、豊臣政権下の一大名として全国、さらには海外へと視野を広げた時代の浦戸城は、権威を象徴する天守を備え、「開かれた軍事展開能力」を追求した城であった。城郭構造の変遷は、城主の統治理念と時代の要求を雄弁に物語っているのである。
第二部:時代の奔流と城の終焉
第一章:関ヶ原の戦いと長宗我部氏の改易
浦戸城を拠点に新たな領国経営を目指した長宗我部氏であったが、その栄華は長くは続かなかった。慶長4年(1599年)、四国の覇者・長宗我部元親が死去すると、家督は四男の盛親が継承した 6 。しかし、そのわずか1年後、日本の歴史を二分する天下分け目の戦いが勃発する。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、盛親は石田三成率いる西軍に与した。しかし、戦場での立ち回りに遅れをとり、東軍と積極的に交戦することなく、西軍は敗北を喫した 6 。この結果は長宗我部家にとって致命的であった。戦後、徳川家康によって長宗我部氏は改易、すなわち領地没収の処分を受け、土佐24万石の支配権を失ったのである 25 。
この決定により、土佐国は新たな領主を迎えることになった。関ヶ原での戦功を認められた遠州掛川城主・山内一豊が、家康から土佐一国を与えられたのである 8 。これにより、浦戸城は長宗我部氏の栄光の象徴から、新旧支配者が交代する、血塗られた歴史の舞台へとその性格を急変させることとなる。
第二章:浦戸一揆 ― 一領具足、最後の抵抗
山内氏の土佐入国は、決して平穏無事には進まなかった。長宗我部氏の改易に激しく反発した旧臣たちが、浦戸城を舞台に最後の抵抗を試みたのである。この「浦戸一揆」の中心となったのが、「一領具足」と呼ばれる長宗我部氏独自の兵士たちであった。
「一領具足」という存在
一領具足とは、長宗我部氏の躍進を根底から支えた半農半兵の兵士組織である 25 。彼らは平時には田畑を耕す農民として生活しているが、ひとたび動員の合図があれば、一領(ひとそろい)の具足を身につけ、直ちに戦場へ駆けつけることを義務づけられていた 30 。農作業の傍らに常に武具を置くというその様からこの名がついたとされる。兵農未分離の典型であり、非常に精強で主家への忠誠心も厚く、『土佐物語』には「死生知らずの野武士なり」と記されている 25 。この一領具足の存在こそが、長宗我部軍の強さの源泉であった 31 。
しかし、この制度は、織田・豊臣・徳川といった中央政権が進めていた、武士と農民の身分を明確に分離する「兵農分離」という国策とは全く逆行する、中世的な社会システムであった 25 。
一揆の勃発と経緯
主家の改易と、縁もゆかりもない山内氏の入国に対し、長宗我部旧臣、特に一領具足たちは激しく反発した。彼らは新領主への浦戸城明け渡しを断固として拒否し、城に立てこもったのである 2 。彼らは、旧主・盛親に対してせめて土佐半国でも安堵されるべきだと要求した 4 。山内氏に先立って入国した徳川方の上使は、旧臣たちの抵抗に遭い、宿所としていた雪蹊寺を1万7千人ともいわれる一揆勢に包囲されるという異常事態に陥った 26 。
この抵抗は、単なる主家への忠誠心の発露に留まるものではなかった。それは、兵農分離という近世社会への移行期に発生した、自らの武士身分の存亡をかけた階級闘争としての側面を強く持っていた。一領具足にとって、長宗我部氏の統治は、農民でありながら武士としての身分と誇りを保証される体制であった 25 。対して、中央政権の価値観を体現する山内氏の入国は、厳格な兵農分離の導入を意味した。これにより、彼らは「武士」の身分を剥奪され、土地に縛られた単なる「農民」へと転落させられる運命にあった 26 。彼らの抵抗は、主君を失う悲しみ以上に、自らのアイデンティティと生活基盤が根こそぎ覆されることへの恐怖と怒りに根差していたのである。浦戸城での籠城は、中世的な社会構造が、近世的な社会の奔流に飲み込まれる際の、最後の、そして絶望的な抵抗の象'徴的事件であった。
悲劇的結末
50日にも及んだとされる籠城戦は 2 、悲劇的な結末を迎える。山内側は謀略を用い、一揆の指導者層を城外へとおびき出して討ち取った 2 。指導者を失った一揆勢は瓦解し、組織的な抵抗は終焉した。
『土佐物語』によれば、この一揆で討ち取られた旧臣の首は273にのぼると記録されている 26 。首は新領主の権威を示すため大坂へ送られ、胴体は「石丸」の地にまとめて埋葬された 4 。この浦戸一揆は、長宗我部氏の時代の完全な終焉と、山内氏による新たな支配の始まりを、鮮血で染め上げた悲劇として土佐の歴史に深く刻まれることとなった。
第三章:山内氏の入城と高知城への移行
壮絶な浦戸一揆を鎮圧した後、慶長6年(1601年)、新領主・山内一豊はついに浦戸城へと入城を果たした 8 。これにより、名実ともに土佐国は山内氏の支配下に入った。しかし、一豊にとってこの浦戸城は、あくまで一時的な拠点に過ぎなかった。
浦戸城の限界と高知城築城
一豊が新たな城の建設を決断した背景には、浦戸城が抱えるいくつかの根本的な限界があった。第一に、浦戸城が位置する岬は地形的に狭隘であり、24万石の大名の居城として、大規模な城下町を形成し、領国経営の中心とするには土地が絶対的に不足していた 16 。新しい藩政を軌道に乗せるためには、政治・経済の中心地として機能する広大な平地が必要であった。
第二に、浦戸城は長宗我部氏の栄光と、その終焉に伴う旧臣たちの怨念が深く染みついた場所であった 27 。新領主が旧領主の居城をそのまま使用することは、前代の権威を引きずることになり、人心を一新して新たな統治体制を築く上で大きな障害となり得た。
これらの理由から、一豊はかつて長宗我部元親が治水に失敗して断念した、平野の中心地・大高坂山にこそ、新時代の土佐の中心を築くべきだと判断した 2 。浦戸の狭隘さを克服し、新しい時代の土佐の中心地を創造するという明確な都市計画のもと、一豊は「河中山城(こうちやまじょう)」、後の高知城の築城という一大事業に着手したのである 2 。
廃城と資材転用
慶長8年(1603年)、高知城がある程度完成し、一豊が居を移すと、浦戸城はその歴史的役割を完全に終え、廃城となった 2 。そして、その最期は、新城建設のための資材供給源となるというものであった。高知城の巨大な石垣や櫓、門などを建設するにあたり、浦戸城の天守をはじめとする建造物は解体され、石垣の石も数多くが運び出されて転用されたと伝えられている 32 。これが、長宗我部元親が心血を注いで築いた近世城郭の面影が、現在ではほとんど失われてしまった直接的な原因である。浦戸城は、文字通り自らの体を削って、新たな時代の礎となったのである。
終章:歴史の証人として
山内一豊が高知城へ移ったことにより、浦戸城は城郭としての生命を絶たれた。壮麗な天守も堅固な石垣も、その多くが新たな城の資材として失われ、城跡は再び静かな丘陵へと還っていった。
しかし、この地が持つ戦略的な重要性が完全に忘れ去られたわけではなかった。時代は下り、幕末期、黒船の来航によって日本中が騒然となると、浦戸の地理的重要性が再び脚光を浴びることになる。太平洋に直接面したこの地は、外国船の侵入に対する国防の最前線と見なされ、かつての曲輪跡には砲台が築かれたのである 7 。これは、浦戸という土地が、時代を超えて国防上の要衝であり続けたことを示す興味深い事実である。
現代において、浦戸城の跡地には国民宿舎「桂浜荘」や「高知県立坂本龍馬記念館」といった施設が建ち並び、往時の城郭の姿を想像することは容易ではない 5 。しかし、注意深く観察すれば、歴史の痕跡は今なお確かに残されている。二ノ丸付近の尾根筋には3条の堀切が明瞭な形で現存し 6 、発掘調査で確認された石垣の一部も保存されている 24 。そして、かつて天守が聳えていたとされる天守台跡には、現在、大山祇神社と城八幡の小さな祠が静かに祀られている 7 。
これらの断片的な遺構は、訪れる者に雄弁に語りかける。長宗我部元親が夢見た、海を制する者のための近世城郭の姿。そして、時代の大きな転換点において、旧時代の終焉と新時代の幕開けの舞台となった激動の歴史を。浦戸城は、一人の戦国大名の栄枯盛衰の物語であると同時に、日本の社会が中世から近世へと大きく変容する時代のダイナミズムと、それに伴う人々の希望、そして悲劇を凝縮した場所である。長宗我部元親の野心、一領具足の悲壮な抵抗、そして山内一豊の新時代への展望。この城をめぐる物語は、戦国という時代の終焉を多角的に理解するための、またとない歴史的遺産であり、高知県の史跡として 5 、その価値を未来へと伝え続けている。
【表2:浦戸城関連年表】
年代 |
主な出来事 |
関連人物 |
南北朝期 |
1336年(延元元/建武3)、浦戸周辺で南北朝勢力が合戦 2 |
― |
天文年間 (1532-54) |
本山茂宗が浦戸城を支城として築城 6 |
本山茂宗 |
永禄3年 (1560) |
長宗我部国親・元親が本山氏を破り、浦戸城を攻略 8 |
長宗我部国親、元親 |
天正16年 (1588) |
元親、本拠を岡豊城から大高坂山へ移し、新城の築城を開始 4 |
長宗我部元親 |
天正19年 (1591) |
元親、大高坂城を断念し、浦戸城へ本拠を移転。天守を含む大規模改修を行う 5 |
長宗我部元親 |
慶長4年 (1599) |
長宗我部元親、死去 |
長宗我部元親 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦いで西軍敗北。長宗我部氏改易。旧臣らによる「浦戸一揆」勃発 6 |
長宗我部盛親 |
慶長6年 (1601) |
一揆鎮圧後、山内一豊が浦戸城に入城 8 |
山内一豊 |
慶長8年 (1603) |
高知城完成に伴い、一豊が移る。浦戸城は廃城となる 2 |
山内一豊 |
幕末期 |
外国船への備えとして、城跡の一部に浦戸砲台が設置される 7 |
― |
現代 |
城跡が県の史跡に指定される。坂本龍馬記念館などが建設される 5 |
― |
引用文献
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