最終更新日 2025-08-22

浪岡御所

浪岡御所は津軽に栄えた北畠氏の拠点。南北朝時代の名門公家を祖とし、その権威と北方交易で繁栄。城は複数の郭を持つ城塞都市。しかし、川原御所の乱で内訌が激化し弱体化。大浦為信の調略により落城、滅亡した。

北の御所、浪岡北畠氏の栄光と終焉 ― 戦国期津軽における権力の実像

序章:奥州に輝いたもう一つの公家武士団

日本の戦国時代史を語る上で、津軽の地に存在した「浪岡御所」は、特異な光彩を放つ存在である。中央の戦乱から遠く離れた奥州の辺境に、なぜ「御所」と尊称される権力が存在し得たのか。この問いは、戦国期日本の多様な権力構造を理解する上で、極めて重要な視座を提供する。浪岡御所を本拠とした浪岡北畠氏は、南北朝時代の動乱期に奥州へ下向した名門公家、北畠親房・顕家父子の血を引くとされ、その貴種としての権威を背景に、津軽の地に独自の政治・経済・文化圏を築き上げた。

本報告書は、この浪岡御所と浪岡北畠氏を主題とし、その出自の謎から、津軽における勢力確立の過程、城郭都市としての構造、交易に支えられた繁栄、そして内部抗争と戦国の梟雄・大浦為信の台頭による滅亡、さらにはその後の歴史的遺産に至るまでを、文献史学と考古学の双方の知見を統合して、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。浪岡御所の歴史は、単なる一地方豪族の興亡史に留まらない。それは、中央の権威が地方でいかに受容・変容し、在地社会の力学と結びついて独自の権力を形成したかを示す、日本中世史の縮図である。公家文化と武家社会が融合した特異な政治文化の中心地であった「北の御所」の実像に迫ることで、戦国という時代の重層的な姿を浮き彫りにする。

第一章:浪岡北畠氏の出自と津軽入部 ― 権威の源流を探る

浪岡北畠氏が津軽の地で「御所」と称されるほどの権威を確立できた根源は、その出自にある。しかし、その系譜は複雑であり、彼らが津軽に至った経緯もまた、奥州の地政学的な力学の中に位置づけられる。

第一節:錯綜する系譜 ― 顕家か、顕信か

浪岡北畠氏の系譜は、複数の伝承が入り乱れ、その祖が誰であるかについては諸説が存在する 1 。この系譜の混乱自体が、同氏の権威のあり方を考察する上で重要な手がかりとなる。

最も広く知られているのは、南北朝時代に南朝方の中心として活躍し、「花将軍」と謳われた北畠顕家を祖とする説である 1 。顕家は後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国府に着任し、若くして壮烈な戦死を遂げた悲劇の英雄として、後世に強いカリスマ性を有していた 2 。地元の伝承には、顕家が浪岡の在地領主の娘(萩乃局)との間に顕成という子を儲け、この顕成が浪岡北畠氏の祖となったとするものがある 1 。多くの系図が、この顕家の子孫とする系統を採用していることは、顕家の持つ権威が、浪岡北畠氏の正統性を担保する上でいかに魅力的であったかを物語っている。

一方で、顕家の弟である北畠顕信を祖とする説も有力である。顕信もまた兄の跡を継いで鎮守府将軍として奥州で活動しており、その子孫が浪岡に入ったとするものである 2 。特に、江戸時代に編纂された『大日本史』がこの説を採用している点は注目に値する 1 。さらに、顕家から四代目の顕義の代に浪岡に定住し「御所」を称したとする記録や、この時期に顕信の系統も浪岡に入ったとする記述も存在する 1

表1:浪岡北畠氏の主要な伝承系図比較

史料名/伝承

始祖とされる人物

主な系譜

備考

『応仁武鑑』附載『浪岡某記』

北畠顕家

顕家 - 顕成

顕成は顕家の側室(浪岡氏の娘)の子とされる 1

『津軽紀譚』所載『波岡氏系図』

北畠顕家

顕家 - 顕季

1

『霊山記略』所載『波岡氏系譜』

北畠顕家

顕家 - 顕通

1

『大日本史』

北畠顕信

顕信 - 守親 - 親能

顕信の孫・親能の子孫が浪岡御所の系統とされる 1

このように複数の系譜が乱立している状況は、単なる記録の散逸や混乱として片付けるべきではない。むしろ、浪岡北畠氏自身、あるいは滅亡後に各地の藩に仕官したその子孫たちが、自らの家格と正統性をより高めるために、より名高い北畠顕家との結びつきを意図的に強調し、系図を「修飾」した可能性が極めて高い。血統が権威の源泉であった時代において、系譜を操作することは政治的営為そのものであった。したがって、この系譜の「錯綜」こそが、浪岡北畠氏が置かれた政治的環境と、その中で権威を創出し維持しようとした彼らの能動的な姿を物語る、貴重な史料群と見なすことができるのである。

第二節:津軽への道程 ― 戦略的緩衝地帯への配置

浪岡北畠氏が津軽の地に根を下ろすに至った背景には、南北朝の動乱が終息した後の、奥州における勢力図の変化が大きく関わっている。

南朝の勢力が衰退すると、北畠氏の一族は、かつて南朝方として行動を共にした糠部(ぬかのぶ)の南部氏によって庇護された 4 。しかし、やがて南部氏が室町幕府の体制下に組み込まれると、南朝の貴種である北畠氏を公然と領内に置き続けることは政治的な 부담 となった 4 。そこで南部氏は、北畠氏一族を津軽の浪岡の地へ移すという策を講じたと考えられる。

当時の津軽地方は、東の南部氏と、西の安東(安藤)氏という二大勢力が覇を競う、緊張関係の最前線であった 5 。浪岡は、まさにその両者の勢力が衝突する境界領域に位置していた。南部氏にとって、この戦略的に重要な緩衝地帯に、南北朝以来の権威を持つ北畠氏を配置することは、安東氏に対する防波堤とすると同時に、津軽への影響力を間接的に確保するための極めて有効な地政学的戦略であった 5

一方、北畠氏側にも、この地を受け入れる素地があった。一説には、北畠顕家の娘が安東氏の当主・安東貞季に嫁いでいたとされ、安東氏とも縁戚関係にあった 1 。二大勢力に挟まれる状況は危険を伴う一方で、両者の力関係の均衡の上に立つことで、どちらにも完全には従属しない独自の地位を築く好機ともなり得た。

こうして14世紀末から15世紀初頭にかけて津軽に入った北畠氏は、当初、東山根にある源常館(げんじょうだて)などを居館としていた 3 。そして、応仁年間(1467年~1469年)頃、北畠顕義の代に、浪岡川と正平津川の合流点に臨む段丘上に浪岡城を築城し、本格的な本拠地とした 8 。南部氏の戦略的な「駒」として配置されたはずの浪岡北畠氏は、その生来の権威と巧みな立ち回りによって在地社会に深く根を張り、やがて津軽を三分する独立した権力へと成長を遂げていくのである。

第二章:城塞都市「浪岡御所」の実像 ― 発掘調査が語る構造と生活

浪岡御所は、単なる軍事拠点としての城ではない。昭和15年(1940年)に青森県で初めて国の史跡に指定されて以降、継続的に行われてきた発掘調査によって、その構造は浪岡北畠氏の社会体制や文化を色濃く反映した、一種の「城塞都市」であったことが明らかになっている 8

第一節:縄張りと防御思想 ― 平地に築かれた複合城館

浪岡城は、浪岡川と正平津川を天然の堀として利用した、段丘上の平城である 6 。その縄張り(城の設計)は、内館(うちだて)、北館(きただて)、東館、猿楽館、検校館など、複数の郭(くるわ)が有機的に配置された複合的な構造を特徴とする 12 。これらの郭群は、幅約20メートル、深さ約5メートルにも及ぶ大規模な二重の堀と、高くそびえる土塁によって厳重に守られていた 2

城の出入り口である虎口(こぐち)には、敵の直進を阻み、側面からの攻撃を可能にする「喰い違い虎口」といった、当時の築城技術の粋を集めた防御施設が設けられていたことが確認されている 14 。これらの堅固な防御設備は、戦国乱世における浪岡御所の軍事拠点としての性格を明確に示している。

しかし、その構造は単なる防御機能の追求に留まらない。城内には城主の居館だけでなく、家臣団の屋敷、さらには武具や生活用品を生産する職人、交易を担う商人なども居住していたことが、出土遺物から判明している 15 。これは、浪岡御所が地域の政治・経済・生産の中心機能をすべて内包した「城塞都市」であったことを示唆している。領主と領民が一体となって籠城する「惣構え(そうがまえ)」の思想にも通じるこの構造は、奥羽地方の中世城郭に見られる先進的な特徴であり、浪岡御所が自己完結した都市としての機能を有していたことを物語っている。

第二節:ブロック型社会構造の物理的顕現

浪岡御所の郭の配置、特に内館と北館の構造は、浪岡北畠氏の特異な社会構造を物理的に示している点で極めて興味深い。

全域の発掘調査が完了した内館は、礎石を用いた大規模な建物跡が発見され、その中には「九間(ここのま)」と呼ばれる格式の高い部屋が存在したことが確認されている 13 。これは、内館が城主の私的な居住空間であると同時に、政務や重要な接客が行われる公的な執務の場であったことを強く示唆している。

一方、内館の北に位置する北館は、全く異なる様相を呈している。規則的に区画された屋敷地が整然と並び、武家屋敷群であったと推定されている 12 。特筆すべきは、各屋敷が共有ではなく独立した木枠の井戸をそれぞれ有していた点である 13 。これは、北館に住む家臣団が、それぞれ高い独立性を保った生活空間を構えていたことを意味する。

この内館と北館の明確な機能分化と、北館に見られる家臣団の独立性は、浪岡北畠氏の政治体制が、強力な当主を頂点とする中央集権的なピラミッド型ではなく、宗家と有力な同族・家臣団がそれぞれ独立したブロックとして併立し、連合することで成り立っていた「ブロック型社会構造」であったことを如実に物語っている 4 。家臣団は単なる従者ではなく、一定の自律性を持つパートナーに近い存在であった。この連合的な統治体制は、一族の結束が固い時には安定した力を発揮するが、一度内部に対立が生じると、容易に分裂・崩壊する構造的な脆弱性を内包していた。後に浪岡北畠氏の命運を左右することになる内訌の種は、この城の構造そのものに既に内包されていたのである。

第三節:城内の暮らしと文化 ― 北の地に花開いた京文化

発掘調査で出土した5万点を超える遺物は、浪岡御所での生活が、辺境の地というイメージとはかけ離れた、洗練された文化的なものであったことを明らかにしている 11

出土品の中でも特に目を引くのが、多種多様な陶磁器である。中国産の青磁や白磁、染付といった輸入品から、日本の瀬戸・美濃、さらには九州の唐津焼に至るまで、当時の高級品が大量に出土している 15 。これらの陶磁器は、浪岡北畠氏の広範な交易ネットワークを証明すると同時に、日常的に高い文化水準の生活が営まれていたことを示している。

さらに、化粧道具や、茶の湯・香道で用いられる道具、硯なども発見されており、彼らが京都の公家文化を積極的に取り入れ、実践していたことがうかがえる 2 。武士としての側面を示す鎧や太刀、鉄砲といった武具と共に、こうした文化的な遺物が出土することは、浪岡北畠氏が公家と武家の両方の側面を併せ持つ、独特の支配者であったことを象徴している。

一方で、浪岡御所の文化は、単なる京文化の模倣に留まらなかった。アイヌとの交流をうかがわせる骨角器や、祭祀に用いられたと考えられる木製品なども出土しており 4 、和人社会の北端に位置する支配者として、北方世界の文化とも密接に関わっていたことがわかる。浪岡北畠氏は、辺境の地にあって中央の先進文化を戦略的に取り入れることで自らの権威を高めると同時に、在地の多様な文化と共存する、フロンティアの支配者としての顔も併せ持っていたのである。

第三章:北の都 ― 権威、経済、そして文化

浪岡北畠氏の勢力は、単なる軍事力によって支えられていたわけではない。その根幹には、貴種としての「権威」と、交易によってもたらされる「経済力」という二つの柱が存在した。

第一節:「御所」の称号と中央政権との繋がり

浪岡北畠氏は、在地の人々から「御所」という特別な敬称で呼ばれていた 6 。これは、皇族や将軍、あるいはそれに準ずる高貴な身分の人物に対して用いられる言葉であり、地方の武士がこのように呼ばれることは極めて異例であった。この称号は、彼らが単なる在地領主ではなく、南北朝の英雄・北畠氏の血を引く特別な存在であるという認識が、広く共有されていたことを示している。

その権威は、単なる自称や伝承に留まらなかった。特に、16世紀前半の第七代当主・具永(ともなが)の時代に浪岡北畠氏は最盛期を迎え、京都の中央政権とも直接的な繋がりを持っていた 3 。京都の公家である山科言継(やましなときつぐ)の日記には、具永が朝廷から官位を授けられた記録が残されており、遠く離れた津軽の地から中央への政治工作を行っていたことがわかる 2

当時の浪岡氏の勢力を示す史料として、天文年間(1532年~1554年)に作成された『津軽郡中名字』がある。そこには、「都遐流(つがる)の大名は、…(中略)…田舎郡・奥法郡には伊勢国司浪岡御所源具永卿なり」と記されている 7 。これは、浪岡北畠氏が津軽の広範囲を支配する公的な大名として、自他ともに認められていたことの証左である。中央の権力が直接及ばない辺境の地であるからこそ、朝廷から授与される官位や「御所」という称号は、他の在地勢力に対する圧倒的な差別化要因となり、紛争の調停や外交を主導する上で絶大な政治的価値を持ったのである。

第二節:交易が支えた繁栄 ― 環日本海交易の拠点

浪岡北畠氏の権威と文化的な生活を経済的に支えていたのが、交易による莫大な利益であった。浪岡城跡から出土した約1万1000枚にも及ぶ大量の銭貨は、その繁栄を雄弁に物語っている 15 。これらの銭貨には、7世紀の唐で鋳造された開元通宝から15世紀の明の永楽通宝までが含まれており、長期間にわたって貨幣経済が浸透した高度な市場が、浪岡を中心に形成されていたことを示している 15

浪岡の地は、内陸の津軽平野から、日本海と蝦夷地(えぞち、現在の北海道)へと繋がる外ヶ浜(そとがはま、現在の陸奥湾沿岸)に至る、交通の結節点に位置していた 15 。この地理的優位性を活かし、浪岡北畠氏は北方交易のハブを支配していたと考えられる。当時の蝦夷地は、毛皮や海産物などの貴重な産品の供給地であり、これらを本州の産物(鉄製品や陶磁器など)と交換する中継貿易は、大きな利益を生み出した 17

浪岡城跡から出土した中国産や九州産の陶磁器は、その交易網が日本海を介して西日本や大陸にまで及んでいたことを示している 15 。浪岡は、まさに「環日本海」という巨大な交易圏における、北の拠点都市であった。

このように、浪岡北畠氏の繁栄は、公家としての「権威」と、北方交易の支配者としての「経済力」が、相互に補強しあう形で成り立っていた。権威は交易路の安全と支配の正統性を保障し、交易によって得られた富は、京都への政治工作や、高度な文化活動を通じて権威をさらに高めるための資金となった。この権威と経済の好循環こそが、「北の都」と称されるほどの繁栄を浪岡の地にもたらした原動力であった。

第四章:内訌、そして衰亡への道程

栄華を極めた浪岡北畠氏であったが、その権力基盤には構造的な脆弱性が内包されていた。16世紀半ば、一族内部で発生した悲劇的な抗争は、その弱点を露呈させ、衰亡への道を決定づける転換点となった。

第一節:永禄五年の悲劇 ― 川原御所の乱

永禄5年(1562年)正月、浪岡城内で衝撃的な事件が発生する。分家である川原御所(かわはらごしょ)の当主・北畠具信(とものぶ)が、宗家の当主である八代・北畠具運(ともゆき)を白昼堂々殺害したのである 1 。この「川原御所の乱」と呼ばれるクーデターは、浪岡北畠氏の歴史における最大の悲劇であった。

事件の原因は、所領をめぐる対立であったとされる 1 。具運が実弟の顕範(あきのり)を分家させ、滝井館に所領を与えた際、その土地が川原御所の領地と隣接していたことから、境界を巡る深刻な争いが生じた 21 。この問題に対する宗家の裁定が、川原御所にとって不満の残るものであったことが、具信を凶行に走らせた直接の引き金となったと考えられる 22

具信は当主殺害という目的こそ達したものの、その直後に具運の弟・顕範らの反撃に遭い、子と共に討ち取られた。クーデターは失敗に終わり、川原御所もまた滅亡した 2 。しかし、この事件が浪岡北畠氏全体に与えた傷は計り知れないほど深かった。当主を失った宗家は、具運の子である北畠顕村(あきむら)がわずか5歳で家督を継ぐという異常事態に陥った 2

この内乱は、単なる一族の内輪揉めではなかった。それは、第二章で指摘した、独立性の高いブロックが連合する「ブロック型社会構造」が内包する脆弱性が、所領問題という現実的な利害対立によって顕在化し、システム全体を崩壊させた決定的事件であった。各ブロック間の利害を調整すべき宗家の権威が失墜し、当主暗殺という最悪の事態は、一族と家臣団の求心力を根底から破壊した。有能な家臣たちの中には、主家に見切りをつけて離反する者も現れたという 21 。この内乱によって浪岡北畠氏の力は内部から大きく削がれ、外部からの介入を容易にする状況を自ら作り出してしまった。滅亡への序曲は、この時に奏でられたのである。

第二節:津軽の風雲児、大浦為信の台頭

浪岡北畠氏が内部抗争によって弱体化していくのと時を同じくして、津軽の勢力図を根底から塗り替える人物が台頭していた。南部氏の一族でありながら、津軽の独立と統一という野望を抱いた大浦為信(後の津軽為信)である 2

為信は、巧みな戦略と武力をもって、津軽の既存勢力を次々と打ち破っていった。天正2年(1574年)には、浪岡北畠氏、大浦氏と並び津軽を三分していた大光寺氏の居城・大光寺城を攻略し、その勢力を大きく拡大していた 7

内部に深刻な亀裂を抱え、幼い当主を戴く浪岡北畠氏の苦境は、津軽統一を目指す為信にとって、まさに千載一遇の好機と映ったに違いない。津軽の旧秩序の象徴であった「御所」の権威は、実力主義を掲げる新たな時代の挑戦者の前に、風前の灯火となっていた。

第五章:天正六年の落日 ― 浪岡御所の滅亡

内乱によって弱体化した浪岡北畠氏の運命は、津軽統一を着々と進める大浦為信の前に、もはや風前の灯火であった。天正6年(1578年)、浪岡御所は為信の巧みな戦略の前に、為すすべもなく陥落する。

第一節:為信の調略 ― 内部からの切り崩し

大浦為信の浪岡城攻略は、単なる武力による攻撃ではなかった。彼は、戦いに先立って周到な調略を行い、城を内部から崩壊させることに成功した 2

為信が狙ったのは、川原御所の乱以降、浪岡北畠氏の家臣団が抱えていた宗家への不信感と、将来への不安という「心理的な弱点」であった。宗家の統率力が著しく低下し、幼い当主の下で先行きが見えない状況は、家臣たちに「このまま浪岡氏に仕え続けて良いのか」という深刻な疑念を抱かせていた 21

為信はこの機を逃さず、城内の重臣たちに接触し、好条件での内応を働きかけた。急速に台頭する為信が提示する新たな秩序は、滅びゆく旧主君への忠誠よりも、遥かに現実的で魅力的な選択肢に映ったであろう。記録によれば、為信の調略は功を奏し、重臣たちは次々と寝返りを約束したという 2

そして為信は、最後の当主・北畠顕村を補佐していた中心的な家臣・浪岡顕則(あきのり)が、所用で外ヶ浜へ出張するという絶好の機会を捉えた 2 。指導者を欠き、内部に裏切り者が潜む浪岡城は、もはや堅城ではなかった。為信の勝利は、戦う前からすでに決まっていたのである。彼の現実主義的な戦略は、浪岡北畠氏という古い権威が、戦国の実力主義という新しい時代の論理によって、いかにして内部から侵食され、崩壊していったかを象徴している。

第二節:最後の攻防と一族の離散

天正6年(1578年)7月、大浦為信は浪岡城へ総攻撃をかけた。内部からの内応もあり、城はほとんど抵抗らしい抵抗もできずに陥落。当主・北畠顕村は討ち取られ、ここに名門・浪岡北畠氏は滅亡した 7

最後の当主・顕村は、その最期に辞世の句を残したと伝えられている。

故郷を夢にいでこし道芝の霧よりもろき我が命かな 2

この歌には、北畠顕家という偉大な祖先の栄光を継ぎ、その故郷である京を夢見ながらも、それを再興することなく儚く命を終えることへの深い無念が滲んでいる。自らの運命を、道端の芝に降りた「霧」のようにもろいと詠む感性は、武士としての勇猛さよりも、血統と家名の断絶を嘆く、貴種ならではの悲哀を色濃く反映している。

落城後、浪岡北畠氏の一族は四散した 23 。ある者は南へ、ある者は西へ、新たな主君を求めて津軽の地を去っていった。こうして、約200年にわたり津軽に君臨した「北の御所」の歴史は、その幕を閉じたのである。

終章:浪岡北畠氏のその後と歴史的遺産

浪岡北畠氏という政治勢力は天正6年に滅亡したが、その歴史はそこで完全に途絶えたわけではない。離散した一族は各地でその血脈を伝え、本拠地であった浪岡城跡は、現代においてその歴史的価値を改めて問いかけている。

第一節:離散した一族の行方 ― 新たな主君を求めて

落城後、四散した一族は、それぞれの縁を頼って新たな道を歩んだ。

当主・顕村を補佐していた浪岡顕則は南部氏の下へ落ち延び、その一族は袰綿(ほろわた)の地で家名を保った 24 。また、顕則の弟・慶好は、かつて浪岡北畠氏と縁の深かった秋田の安東(秋田)氏を頼った。その子孫は陸奥三春藩秋田家の一門として重用され、家老などの重職を歴任したという 2

南部藩には、浪岡(波岡)姓を名乗り続けた複数の家系が仕官した記録が残っている 23 。さらに皮肉なことに、仇敵であった津軽為信の弘前藩に仕えた一族も存在した 23

これらの事実は、浪岡北畠氏という政治権力は滅び去ったものの、「北畠」という貴種の血筋が持つブランド価値は、戦国から江戸時代への移行期においてもなお有効であったことを示している。由緒ある家柄は、新たな支配体制の中でその権威を利用され、あるいは自ら活用することで、巧みに生き延びていったのである。

第二節:史跡としての浪岡御所 ― 現代に語りかけるもの

浪岡北畠氏が滅亡した後、その本拠地であった浪岡城跡は、約400年にわたり畑や水田として利用されてきた 12 。しかし、その歴史的重要性から、昭和15年(1940年)に青森県内で最初の国史跡に指定され、保護の対象となった 8

現在に至るまで継続的な発掘調査が進められており、その成果は目覚ましい。5万点を超える膨大な遺物が出土しているが、調査はまだ城跡全体の30パーセント程度しか完了しておらず、今後の発見に大きな期待が寄せられている 11 。出土した遺物は、隣接する「青森市中世の館」に収蔵・展示されており、文献史料だけでは窺い知ることのできない、当時の人々の生活や文化、社会構造を具体的に解明する上で、第一級の学術資料となっている 15 。また、旧浪岡町が編纂した『浪岡町史』をはじめとする郷土史研究も精力的に進められ、地域史における浪岡北畠氏の重要性が再評価されている 26

結論として、浪岡御所は、南北朝の動乱という時代の奔流から生まれ出でた貴種が、奥州の辺境の地で、中央の権威と在地社会の力学を巧みに利用して独自の文化と経済圏を築き上げ、そして戦国の荒波の中で消えていった、まさに「北の王朝」の跡である。その城跡と、大地から蘇った数多の遺物は、日本中世における地域社会の多様性とダイナミズムを、現代の我々に力強く語りかけている。浪岡御所の研究は、日本の歴史の画一的ではない、豊かで重層的な姿を理解するための、尽きることのない泉であり続けるだろう。

引用文献

  1. 昭和52年度 浪岡城跡発掘調査報告書 - concat https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/17/17274/13118_1_%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  2. 浪岡城跡〜北畠顕家の末裔・浪岡北畠氏が治めた北の御所 - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2017/07/06/091849
  3. 浪岡城|二宮篤志 - note https://note.com/odawara046/n/n0f00e5cfc8e7
  4. 浪岡氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E6%B0%8F
  5. 浪岡の北畠氏 : 津軽と江戸 https://kasatetu.exblog.jp/23301616/
  6. 浪岡城跡 - 青森県庁 https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/kinen_siseki_01.html
  7. 武家家伝_浪岡氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/namio_k.html
  8. 浪岡城跡 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ao0166/
  9. 浪岡城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/103
  10. 浪岡城の見所と写真・900人城主の評価(青森県青森市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/358/
  11. 歴史を感じる国史跡 浪岡城跡|*and trip. たびびと https://www.andtrip.jp/article/000524.html
  12. 第13話 浪岡城 - 青森県の歴史街道と史跡巡り http://aomori-kaido.com/rekishi-kaido/contents_tu/13.html
  13. 史跡 浪岡城跡の発掘調査や各館の概要 青森市 https://www.city.aomori.aomori.jp/bunka_sports_kankou/bunka_geijutsu/1005024/1005084/1005085/1005098/1005100.html
  14. 中世城館縄張り調査の意義と方法 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/508/files/kenkyuhokoku_035_05.pdf
  15. 中世の津軽で大勢力を誇った「浪岡北畠氏」の謎【謎解き歴史紀行 ... https://serai.jp/tour/37771
  16. 浪岡北畠氏 - 【弘前市立弘前図書館】詳細検索 https://adeac.jp/hirosaki-lib/detailed-search?mode=text&word=%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E5%8C%97%E7%95%A0%E6%B0%8F
  17. 北で輝きを放った湊まち・十三湊の - 大林組 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/062_IDEA.pdf
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  19. ︻ 浪 岡 北 畠 氏 ︼ - 青森県の歴史街道と史跡巡り http://aomori-kaido.com/page/01_aomori/page_namioka.pdf
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