信濃府中深志城は、小笠原氏の内訌に端を発し、武田信玄の信濃経略により平城へと変貌。天正壬午の乱では争奪の中心となり、石川氏により壮麗な天守を持つ松本城として完成。戦国の激動を映す名城なり。
戦国時代の幕開けと共に、日本各地で旧来の権威が揺らぎ、新たな権力構造が形成されつつあった。信濃国(現在の長野県)もその例外ではなく、守護という室町幕府から与えられた権威が名目化し、国内は群雄割拠の様相を呈していた。国宝・松本城の前身である深志城の誕生を理解するためには、まずこの城が築かれる以前の、信濃国が置かれていた複雑な政治状況と、その舞台となった「府中」の地の戦略的重要性を把握する必要がある。
信濃国の守護職は、古くは鎌倉時代から甲斐源氏の名門、小笠原氏が世襲してきた 1 。彼らは弓馬の道に通じた武家の名門として知られ、室町時代を通じて信濃にその権威を及ぼした 3 。しかし、15世紀半ば、応仁の乱に端を発する全国的な動乱の波は信濃国にも及び、小笠原氏の内部に深刻な亀裂を生じさせる。一族は、信濃国の政治的中心地である府中(現在の松本市周辺)を拠点とする宗家(府中小笠原家)と、南部の伊那地方を拠点とする分家(伊那・松尾小笠原家)とに分裂し、骨肉の争いを繰り広げるようになった 1 。
この長きにわたる内訌は、信濃守護としての小笠原氏の統治能力を著しく低下させた。一枚岩となって国内の統制を保つべき守護家が自ら争乱の火種となったことで、その権威は失墜し、村上氏、諏訪氏、木曽氏といった有力な国人領主が各地で自立を強める結果を招いた 4 。1504年に深志城が築かれた時点では、信濃国はもはや小笠原氏の安定した支配下にはなく、いつどこで戦端が開かれてもおかしくない、極めて不安定な状態にあったのである。
この文脈で深志城の築城を捉え直すと、それは小笠原氏の勢威拡大の象徴ではなく、むしろ権威が揺らぐ中で、本拠地周辺の防御を固めざるを得なくなったという、守勢の側面が強かったと考えられる。強大な権力者が支配地を広げるために新たな城を築いたのではなく、内憂外患に直面した府中小笠原家が、自らの足元を固めるための軍事的要請から築城に至ったという構図が浮かび上がる。
深志城が築かれた松本平は、古代より信濃国の中心地であった。平安時代初期に、信濃国の国府が小県郡(現上田市)から筑摩郡(現松本市)に移転して以来、この地は「府中」と呼ばれ、名実ともに信濃の政治・経済・文化の中心としての地位を確立した 4 。
地理的にも、松本平は四方を山々に囲まれた盆地でありながら、北は越後へ、南は甲斐・美濃へ、東は関東へと通じる交通の結節点であった 4 。特に、日本海側の越後と太平洋側の各地を結ぶ内陸交通路の要衝として、人々と物資が盛んに往来し、経済活動が活発であったことは想像に難くない。このような政治的・経済的中心性は、この地を支配することが信濃国全体を制する上で極めて重要であることを意味し、必然的に府中周辺は熾烈な権力闘争の舞台となったのである。深志城は、まさにこの戦略的要衝に、新たな時代の要請に応える形で誕生することになる。
表1:深志城・松本城 城主変遷と主要関連事項年表(1504年~1613年)
西暦(和暦) |
城主/主要関連人物 |
所属勢力 |
城に関する主要な出来事 |
1504(永正元) |
島立貞永(島立氏) |
小笠原氏 |
深志城を築城。小笠原氏本拠・林城の支城として機能 7 。 |
1550(天文19) |
武田晴信(信玄) |
武田氏 |
武田軍が侵攻。小笠原長時は林城・深志城を放棄し、武田氏が占領 9 。 |
1550-1582 |
(武田氏城代) |
武田氏 |
深志城を信濃支配の拠点として大規模改修。馬場信春らが城代を務める 10 。 |
1582(天正10)3月 |
木曽義昌 |
織田氏 |
武田氏滅亡後、織田信長より深志城を与えられる 9 。 |
1582(天正10)6月 |
小笠原洞雪 |
上杉氏 |
本能寺の変後、上杉景勝の支援を受け木曽義昌を追い、深志城を占拠 9 。 |
1582(天正10)7月 |
小笠原貞慶 |
徳川氏 |
徳川家康の支援を受け、叔父・洞雪を追放し深志城を奪還 14 。 |
1582(天正10) |
小笠原貞慶 |
徳川氏 |
深志城を「松本城」と改名。城郭と城下町の整備に着手 16 。 |
1590(天正18) |
石川数正 |
豊臣氏 |
小笠原氏が下総古河へ移封。石川数正が8万石で入封 8 。 |
1592(文禄元) |
石川康長 |
豊臣氏 |
父・数正の死後、家督を継承。天守の築造を本格化させる 15 。 |
1593-94頃 |
石川康長 |
豊臣氏 |
五重六階の天守(大天守・乾小天守・渡櫓)が完成したと推定される 8 。 |
1613(慶長18) |
(改易) |
徳川氏 |
大久保長安事件に連座し、石川康長が改易される 14 。 |
永正元年(1504年)、信濃府中の一角に、後に松本城としてその名を馳せることになる城が産声を上げた。この時点での名は「深志城」。その築城は、戦国乱世という時代の大きなうねりの中で、信濃守護・小笠原氏が直面していた内憂外患を色濃く反映したものであった。
深志城の築城に関する最も信頼性の高い記録とされる『信府統記』によれば、この城は永正元年に小笠原氏の一族である島立氏によって築かれたとされている 7 。具体的には島立右近貞永という人物の名が伝えられているが 8 、島立氏そのものの詳細な動向については史料が乏しく、不明な点が多い 21 。しかし、小笠原宗家が、一族の中でも特に信頼の厚い者にこの地の防衛を委ねたことは確かであろう。築城という重要任務を任されたことから、島立氏は府中小笠原家の家臣団の中で、軍事的に重要な役割を担う立場にあったと推察される。
深志城が築かれた場所は、松本盆地の中央部、東の筑摩山地から流れる薄川と女鳥羽川が形成した複合扇状地の末端にあたる 15 。この一帯は地下水位が高く、湧水も豊富な湿地帯であり、天然の堀が城の周囲を取り囲む形となっていた 15 。このような立地は、敵の侵攻を困難にする防御上有利な「要害の地」であり、平地にありながら高い防御能力を備えていた 22 。
この平城は、当時小笠原氏の本拠であった山城・林城の前面を固める支城として計画された 23 。林城が純粋な軍事拠点、すなわち「詰めの城」としての性格が強いのに対し、深志城は平野部に位置することで、府中の町や周辺の農村、そして交通路を直接管理・防衛する役割を担っていた。これは、城の機能が単なる軍事防御拠点から、政治・経済の拠点へとその重心を移しつつあった戦国時代の城郭機能の変遷を象徴する動きと見ることができる。小笠原氏自身は山城を本拠とし続けたが、その支城には、次代の戦略思想の萌芽が内包されていたのである。
築城当初の深志城は、それほど大規模なものではなかったと考えられている。一説には、もともとこの地にあった坂西氏という武将の居館を拡張し、二の曲輪などを整備したものであったとされる 10 。方形の館の周囲に堀を巡らせた、比較的簡素な構造だった可能性が高い。
しかし、小笠原氏時代の深志城が具体的にどのような縄張り(城の設計)を持ち、どの程度の規模であったかについては、残念ながら文献史料、発掘調査ともに決定的な証拠が不足しており、詳細は明らかになっていない 15 。後の武田氏による大改修や、石川氏による近世城郭への改造によって、築城当初の遺構の多くが失われたか、あるいは地下深くに埋もれているものと考えられる。深志城の原初の姿は、今後の考古学的調査の進展によって解明されることが期待される、謎に包まれた領域である。
16世紀半ば、甲斐国(現在の山梨県)の武田晴信(後の信玄)による信濃侵攻が本格化すると、深志城の運命は大きく転換する。小笠原氏の手から武田氏の手に渡ったこの城は、単なる一地方領主の支城から、戦国大名の領国経営と天下統一事業を支える広域戦略拠点へと、その性格を劇的に変貌させた。
天文17年(1548年)2月、武田晴信は北信濃の雄・村上義清との上田原の戦いで手痛い敗北を喫し、重臣の板垣信方らを失った 25 。この武田軍の敗退を好機と見た信濃守護・小笠原長時は、村上氏らと結び、反武田の兵を挙げて諏訪地方へ侵攻した 25 。当初は優勢に見えた小笠原軍であったが、同年7月、塩尻峠(勝弦峠)において武田軍の電撃的な奇襲攻撃を受ける。油断していた小笠原軍は武具を解いて休息している最中を突かれ、組織的な抵抗もできずに総崩れとなり、1000人もの死者を出して大敗した 25 。
この「塩尻峠の戦い」での壊滅的な敗北は、信濃守護・小笠原氏の権威と軍事力を完全に打ち砕いた。勢いを失った長時はもはや武田の侵攻を食い止めることができず、天文19年(1550年)7月、ついに戦うことなく本拠地の山城・林城を放棄。これに伴い、支城である深志城も武田方の手に落ち、長時は信濃からの逃亡を余儀なくされた 9 。
信濃府中を制圧した武田信玄は、ここで画期的な戦略的決断を下す。彼は、小笠原氏が最後まで拠点とした堅固な山城・林城を破却、あるいは放棄し、平地にある深志城を信濃支配の新たな拠点として選定したのである 10 。この選択の背景には、「交通の便のよさと物資の集散地としての地の利」があった 10 。
これは、城郭に対する戦略思想の根本的な転換を意味していた。戦時における防御と籠城を主目的とする山城から、平時における領国経営と、さらなる軍事行動のための兵站基地としての機能を重視する平城へ。信玄は、城が領国という広大な「面」を支配するためのネットワークの中心であるべきだと見抜いていた。深志城は、甲府からの補給路の終着点であり、北信濃の村上氏や越後の上杉謙信と対峙するための出撃拠点であり、周辺地域からの年貢や物資を集積する経済拠点でもあった。この多角的な機能を発揮させるには、山城ではなく平城こそが最適だったのである。
拠点と定めた深志城に対し、信玄は大規模な改修工事に着手した 9 。この武田氏による改修によって、後の松本城の骨格となる本丸、二の丸、三の丸といった基本的な縄張りが形成されたと推定されている 10 。武田氏の築城術の特徴とされる三日月堀を伴う「丸馬出し」が設けられたという説もあるが、近年の研究では、丸馬出しは江戸時代にも築造される例があることから、武田氏時代のものと断定することは慎重な姿勢が取られている 15 。
統治面においても、深志城は最重要拠点として位置づけられた。城代には、武田四天王にも数えられる猛将であり、築城や領内統治にも優れた手腕を発揮した馬場信春や、内藤昌秀といった重臣中の重臣が任命された 11 。これは、深志城が単なる前線基地ではなく、信濃統治における政治・軍事の中枢であったことを明確に示している。以後約30年間、深志城は武田氏の信濃経営を盤石にするための「システム」の中核として機能し、川中島の戦いをはじめとする数々の歴史の局面で重要な役割を果たした。
長らく信濃支配の拠点として機能した深志城であったが、天正10年(1582年)に主である武田氏が滅亡すると、その運命は再び激動の渦に巻き込まれる。織田信長の死によって生じた巨大な権力の空白は、信濃国を周辺大国の草刈り場へと変え、深志城はその争奪戦のまさに中心地となった。この年、「天正壬午の乱」と呼ばれる大動乱の中で、城主はわずか数ヶ月のうちに目まぐるしく入れ替わることになる。
天正10年(1582年)3月、織田信長・信忠親子による甲州征伐によって、名門・武田氏は滅亡した 9 。この際、武田家臣であった木曽義昌は信長に寝返り、その功績として安曇・筑摩両郡を与えられ、深志城に入城した 7 。しかし、木曽氏による新たな支配体制が固まる間もなく、同年6月2日、京都で本能寺の変が発生。織田信長が横死したことで、織田氏の統治は崩壊し、信濃国は再び主無き地となった 7 。
この千載一遇の好機を逃さず、越後の上杉景勝、相模の北条氏政、そして三河・遠江の徳川家康といった周辺の大名たちが、一斉に信濃への侵攻を開始した。こうして、信濃の旧武田領を巡る壮絶な争奪戦、すなわち「天正壬午の乱」の火蓋が切られたのである。
いち早く行動を起こしたのは、越後の上杉景勝であった。彼は、かつて信濃守護であった小笠原長時の弟で、長年上杉氏が庇護していた小笠原洞雪を担ぎ出し、信濃への進出を図った 9 。上杉軍の支援を受けた洞雪は、安曇郡の仁科氏遺臣などを糾合して深志城へ侵攻。織田信長という後ろ盾を失った木曽義昌はこれに抗しきれず、本領である木曽谷へと撤退を余儀なくされた 13 。こうして6月下旬、深志城は一時的に上杉方の勢力圏に入った 33 。
しかし、その支配も長くは続かなかった。甲斐国を制圧し、信濃への影響力を強めていた徳川家康が、対抗馬として小笠原長時の嫡男・貞慶を支援したからである 15 。父・長時が信濃を追われて以来、流浪の身であった貞慶にとって、これは旧領を回復する絶好の機会であった。家康の後ろ盾を得た貞慶は、父の代からの旧臣たちをまとめ上げ、7月には深志城を急襲。叔父である洞雪を追放し、ついに城の奪還に成功した 14 。
この一連の出来事は、深志城の戦略的価値がもはや一地方の問題ではなくなっていることを如実に示している。城主となった木曽義昌、小笠原洞雪、小笠原貞慶は、それぞれが織田、上杉、徳川という巨大勢力の意向を背負った代理人であった。深志城を巡る争いは、信濃中央部という地政学的な要衝を誰が押さえるかという、大国間のパワーゲームそのものであった。この城は、信濃、ひいては天下の覇権の行方を左右する、極めて重要な戦略拠点へと変貌を遂げていたのである。
天正10年(1582年)夏、小笠原貞慶による深志城奪還は、実に33年ぶりとなる小笠原氏の信濃府中への帰還を意味した。この歴史的な出来事を機に、城と町は新たな時代を迎える。貞慶は、単に旧領を回復した武将に留まらず、近世的な領国経営を目指す領主として、新たな城郭と城下町の構想を打ち立てた。その第一歩が、城の名を「松本城」と改めるという象徴的な行為であった。
故郷を回復した貞慶は、その喜びと新たな時代の到来を内外に示すため、深志城を「松本城」と改称した 14 。この改名には、過去との決別と未来への決意が込められていた。「深志」という名は、小笠原氏にとっては父・長時が敗れ、流浪の生活を始めることになった屈辱の記憶と結びついていた。一方で、武田氏にとっては信濃支配の輝かしい象徴であった。この名を捨てることは、武田氏による支配の歴史を否定し、小笠原氏こそがこの地の正統な支配者であることを宣言する、強力な政治的メッセージとなった。
「松本」という新たな地名の由来については諸説ある。一説には、塩尻峠で貞慶が挙兵した際に「待つこと久しくして、本懐を遂ぐ!」と叫んだことにちなみ、「待つ本懐」が転じて「松本」となったという、彼の感慨に由来する逸話が伝えられている 34 。また、この地が古くから「松本」と呼ばれていたとする説や、周辺の地名に由来するという説もある 6 。いずれにせよ、この改名は小笠原氏による新たな統治の始まりを告げる画期的な出来事であった。
貞慶の構想は、城の改名だけに留まらなかった。彼は城郭の整備を進めると同時に、城と町が一体となった近世的な都市空間を創出するための「町割り」、すなわち城下町の都市計画に着手した 15 。
具体的には、信濃の主要街道であった善光寺街道沿いに、本町・中町・東町といった町人町を計画的に配置し、商業の中心地を形成した 15 。そして、城の周囲には家臣団を住まわせる侍屋敷を構え、城の防衛と藩政の中枢を担わせた 36 。これは、それまで城の周辺に雑然と形成されていた市や町を、支配者の明確な意図のもとに再編成するものであり、後の松本城下町の基本的な骨格を築く事業であった。貞慶の時代、建物自体はまだ少なかったと見られるが 15 、彼が描いた都市計画の青写真は、後の石川氏による本格的な城下町建設へと引き継がれていくことになる。改名と都市計画は、貞慶が単なる復讐者ではなく、新しい時代の領国経営を担う近世大名へと脱皮しようとしていたことの証左と言えるだろう。
小笠原貞慶によって「松本城」と名付けられ、新たな歩みを始めた城であったが、その支配は長くは続かなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業が完成すると、日本の大名配置は大きく再編される。この大変革の中で、松本城は新たな城主を迎え、戦国の気風を色濃く残す壮麗な天守を持つ近世城郭へと、最後の飛躍を遂げることになる。
天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一した豊臣秀吉は、徳川家康をそれまでの本拠地であった東海地方から関東へ移封した。これに伴い、家康の家臣であった小笠原貞慶・秀政父子も徳川氏に従い、松本の地を去って下総国古河(現在の茨城県古河市)へと移された 14 。
そして、空いた松本城には、秀吉の命により石川数正が8万石(一説には10万石)の領主として入封した 8 。石川数正は、もともと徳川家康の宿老として重きをなした人物であったが、小牧・長久手の戦いの後に突如家康のもとを出奔し、秀吉に仕えたという異色の経歴の持ち主であった 40 。秀吉が、家康を知り尽くした数正を松本に配置したのには、明確な戦略的意図があった。それは、関東に入った家康を西から監視し、その動きを牽制するための「江戸包囲網」の構築である 41 。松本城は、甲府城や上田城などと共に、対徳川の最前線基地という新たな地政学的役割を担うことになったのである 20 。
この軍事的緊張感を背景に、石川数正と、その事業を継いだ息子の康長は、松本城の大規模な改修と、現在我々が目にすることができる五重六階の天守の築造に着手した 9 。天守の正確な建造年については諸説あるが 42 、松本市の公式見解では文禄2年(1593年)から3年(1594年)にかけて、大天守、乾小天守、そしてそれらを繋ぐ渡櫓が築造されたとされている 8 。
石川氏によって建てられた天守は、単に領主の権威を誇示するためのものではなかった。外壁は黒漆塗りの下見板張りで覆われ、来るべき戦いに備える武骨で引き締まった印象を与える。内部には、鉄砲戦を想定した多種多様な狭間(鉄砲狭間・矢狭間)が効果的に配置され、壁も厚く造られるなど、極めて実戦的な構造を持っていた 44 。これは、城が「見せる」ための権威の象徴であると同時に、実際に「戦う」ための堅固な要塞として設計されたことを物語っている。その黒い外観と戦闘的な構造は、天下統一が未だ盤石ではなく、豊臣と徳川という二大巨頭の間に漂う冷戦とも言うべき時代の緊張感を、今に伝えるものと言えるだろう。
数正・康長父子の時代には、天守のほかにも総堀の拡張、石垣の構築、黒門や太鼓門といった主要な門の整備も進められ、城郭はほぼ完成形に至った 9 。また、小笠原貞慶が始めた城下町の整備も引き継がれ、武家屋敷や町人地が拡充され、松本は名実ともに信濃中部における中心都市としての地位を不動のものとした 19 。
信濃国府中に誕生した深志城は、その誕生から約一世紀の間に、戦国乱世の激動を体現するかのように、その姿と役割を劇的に変化させた。その歴史は、単一の城の変遷に留まらず、戦国時代における城郭の機能、戦略思想、そして権力のあり方の変化そのものを映し出す鏡である。
本報告書で詳述したように、深志城の戦略的価値は、時代の要請に応じて段階的に進化を遂げた。
この変遷は、城の役割が「点」の防衛から「面」の支配へ、そして天下というより大きな枠組みの中での戦略的配置へと、そのスケールを拡大させていった過程を示している。
表2:時代別に見る深志城の戦略的役割比較表
時代区分 |
主目的 |
想定される敵/対象 |
主要機能 |
城郭の構造的特徴 |
小笠原氏時代 |
本拠・林城の防衛 |
小笠原氏の敵対勢力、国内国人衆 |
軍事防衛、府中地域の管理 |
堀と土塁で囲まれた方形館(推定) |
武田氏時代 |
信濃全域の支配と対上杉戦略 |
上杉謙信、北信濃の国人衆 |
兵站基地、行政拠点、出撃拠点 |
後の本丸・二の丸・三の丸の縄張りの基礎形成 |
天正壬午の乱期 |
信濃中部の支配権確保 |
上杉氏、徳川氏、北条氏 |
勢力圏の境界を定める軍事占拠 |
武田氏時代の縄張りを継承 |
小笠原貞慶時代 |
旧領回復と領国経営の基盤確立 |
上杉氏、木曽氏など周辺勢力 |
政治拠点、城下町計画の中心 |
城郭整備、城下町の原型となる町割りの開始 |
石川氏時代 |
関東の徳川家康の監視・牽制 |
徳川家康 |
豊臣政権の軍事拠点、権威の象徴 |
五重六階の天守創建、総堀・石垣など近世城郭の完成 |
現在の国宝・松本城は、決して一つの時代、一人の城主によって造られたものではない。武田氏が敷いた広大な縄張りを基礎とし、小笠原貞慶が近世的な城下町の青写真を描き、そして石川氏が戦国の気風を宿す天守を頂点とする近世城郭として完成させた。このように、各時代の支配者たちの構想と戦略が地層のように積み重なり、現在の松本城の比類なき歴史的価値を形成しているのである。
近年の松本市教育委員会による三の丸跡などの発掘調査では、深志城時代に遡る可能性のある遺構や、16世紀半ばから末にかけての陶磁器なども出土しており、文献史料だけでは窺い知ることのできない城の実像が徐々に明らかになりつつある 45 。これらの考古学的成果は、深志城から松本城へと至る重層的な歴史を、より具体的に解明する鍵となるであろう。
今日、城の名は「松本城」として広く知られているが、その輝かしい名の裏には、「深志城」として戦国の動乱を生き抜いた半世紀以上の苦難と変革の歴史が存在する。「深志」という名は、今なお松本市内の地名や、名門校である松本深志高校の名として生き続けている 35 。それは、この地が持つ豊かな歴史的背景を現代に伝え、国宝・松本城の礎となった戦国時代の記憶を静かに刻み込んでいる。深志城の物語は、松本城の歴史を語る上で不可欠な、原点にして最もダイナミックな一章なのである。