湊城は秋田の日本海交易を支配した安東氏の拠点。秋田実季が湊合戦で勝利し大改修するも、佐竹氏入部で廃城。しかし土崎湊は経済拠点として繁栄し、文化を育んだ。
出羽国秋田郡土崎湊、現在の秋田県秋田市に存在した湊城は、全国的に著名な城郭に比してその名を知る者は多くない。しかし、その歴史的役割は決して小さなものではなかった。中世から戦国時代にかけて日本海交易を掌握した海洋領主・安東氏の拠点として、また近世秋田藩成立の起点として、北日本の歴史において極めて重要な役割を果たした城郭である 1 。本報告書は、この湊城が持つ多面的な価値を再評価し、その歴史的実像を明らかにすることを目的とする。
利用者が既に把握している「湊安東家が築き、檜山安東家(後の秋田家)が継承、関ヶ原の戦い後に佐竹家が入城するも、久保田城築城に伴い廃城となる」という歴史の骨格は、確かに湊城の変遷を的確に捉えている。しかし、この単線的な理解に留まることなく、本報告書では各段階における政治的・経済的力学、特に城の存在基盤であった「土崎湊」の地政学的価値に着目し、その盛衰の背景を深く掘り下げていく。
本報告書は、湊城を単なる軍事施設としてではなく、その立地の源泉である「土崎湊」という経済的基盤と不可分の存在として捉える。城の歴史を、安東一族内部の権力構造の変化、周辺豪族との利害対立、そして中央政権の動向という三つの軸から立体的に分析する。これにより、湊城が北日本の歴史の転換点において、いかに重要な役割を演じたかを明らかにする。
湊城が築かれた土崎湊の歴史は、城自体の歴史よりも遥かに古く、その重要性は古代にまで遡る。飛鳥時代、斉明天皇4年(658年)の阿倍比羅夫による遠征において「齶田(あぎた)」の地名が見られ、これが後の秋田、そして土崎であったと考えられている 2 。奈良時代に入ると、天平5年(733年)には大和朝廷の北方経営の拠点である出羽柵(後の秋田城)が設置され、土崎湊はその外港として機能した 2 。
この地が単なる国内の物流拠点に留まらなかったことは、考古学的発見が雄弁に物語っている。神亀4年(727年)には渤海国からの使節団が来航した記録が残り 3 、秋田城跡の発掘調査では、当時の日本には存在しなかったとされる水洗トイレの遺構が発見された。さらに、その汚物からは豚を常食する文化圏に特有の寄生虫卵が見つかっており、これは渤海国使節の来訪を裏付ける強力な物証とされている 2 。また、後城遺跡など周辺からは唐銭・宋銭・明銭といった各時代の中国銭貨や、中国産の磁器が多数出土しており、古代から中世にかけて大陸との直接的かつ継続的な交易が行われていたことが証明されている 3 。
室町時代末期に成立した日本最古の海洋法規集ともいわれる『廻船式目』には、日本を代表する10の港湾「三津七湊」の一つとして「秋田湊」の名が挙げられている 5 。これは、湊城が歴史の表舞台に登場する頃には、既に土崎湊が全国的な海上交通網における中核的拠点として認知されていたことを示している。
このような経済的要衝を支配し、その価値を最大限に引き出したのが、海洋領主・安東氏であった。もともと津軽の十三湊を拠点とした安東氏は、日本海交易を家業とする海洋豪族であり、その一派が南下して土崎湊を掌握した 6 。彼らの権力基盤は、一般的な戦国大名のような土地からの年貢収入だけに依存するものではなかった。むしろ、港の支配を通じて得られる交易利潤、すなわち津料(関税)や交易そのものから上がる莫大な富が、その勢力を支える大きな柱であった 4 。
土崎湊は、秋田県最大の河川である雄物川の河口に位置するという地理的優位性も持っていた。これにより、米や秋田杉といった内陸部の豊富な物産が舟運によって湊に集積され、そこから北前船の前身となる廻船によって日本海航路を通じて全国各地、さらには大陸へと送り出された 2 。この物流の結節点を押さえることが、安東氏の経済力を確固たるものにしたのである。
その繁栄は、16世紀後半に来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスが「出羽国の大いなる町秋田」と記録し、アイヌの人々が交易のために訪れる北方交易の窓口でもあったと言及していることからも窺い知れる 3 。湊城は、まさにこの国際的な賑わいを見せる港湾都市を直接支配し、防衛するために築かれた司令塔であった。
この地の支配権を巡る争いが、単なる武士の名誉や家督を巡る争いに留まらなかったことは想像に難くない。後に詳述する安東氏の内紛、すなわち「湊騒動」や「湊合戦」は、この日本海随一の「富の源泉」たる土崎湊の支配権を巡る、極めて経済的な利害に基づいた闘争であった。港を制する者が安東一族の覇者となり、北出羽の支配者となる。湊城の存在意義は、この経済的文脈の中にこそ見出されるのである。
湊城の正確な築城年代については、複数の説が存在し、特定には至っていない 9 。後代の記録に基づくものではあるが、有力な説として二つが挙げられる。一つは、応永年間(1394年-1428年)、津軽の十三湊を本拠とする下国安藤(東)氏の一族である安藤鹿季がこの地に入部し、土崎湊を支配していた上国安東氏に代わって拠点とし、「湊氏」を称したのが始まりとする説である 7 。もう一つは、明治期の『秋田沿革史体制』に見られる、永享8年(1436年)に安倍(安東)康季が将軍野の北西に築いたとする説である 1 。
築城当初の城が現在の場所にあったかについても議論があり、旧雄物川に面した寺内後城が最初の居城であったという見方も存在する 10 。しかし、現在の湊城跡(土崎神明社境内)で行われた発掘調査では、城の中心部から15世紀末頃の遺物が出土している 15 。これは、少なくとも室町時代中期には、この地に城の中核機能が存在したことを示す考古学的な証左である。
室町時代を通じて、安東氏は土崎湊を拠点とする湊安東家(上国家)と、米代川流域の能代湊に近い檜山城を拠点とする檜山安東家(下国家)の二家に分裂し、北出羽の支配権を巡って相争う状態が続いていた 10 。この両家のパワーバランスを劇的に変化させる事件が、天文20年(1551年)に起こる。湊安東家の当主・安東堯季が、男子の後継者を定めないまま死去したのである 13 。
この好機を逃さなかったのが、檜山安東家の傑出した当主・安東愛季であった。彼は、自身の弟である茂季を、堯季の養子として湊安東家の家督を継がせるという策を講じた 10 。これは形式上は養子縁組であったが、実質的には檜山家による湊家の吸収合併であり、愛季の卓越した政治戦略であった。これにより、長年の懸案であった安東氏の統一が実現したかに見えた。
しかし、この強引な統合は、湊安東家に仕えてきた国人衆の強い反発を招いた。彼らにとって、檜山家の支配下に入ることは、土崎湊における交易の既得権益を脅かされることを意味したからである。この不満が火種となり、複数回にわたる「湊騒動」と呼ばれる内乱が勃発した 10 。愛季はこれを武力で鎮圧し、最終的に湊城を自らの直轄下に置くことで両家の統合を完了させたが、この時点では安東氏の政治的・軍事的本拠は依然として山城である檜山城に置かれていた 10 。
北出羽に覇を唱えた安東愛季であったが、天正15年(1587年)に急死する。家督を継いだ息子の実季は当時まだ若年であり、この権力の空白は再び一族に動乱をもたらした 22 。
天正17年(1589年)、かつて湊家に養子として送り込まれた安東茂季の子・通季(道季)が、「湊安東家の復権」を大義名分として挙兵した 1 。彼の蜂起は、単なる個人的な野心によるものではなかった。その旗の下には、檜山家の支配を快く思わない豊島氏などの旧湊方の国人衆が集結し、さらには角館の戸沢氏や仙北の小野寺氏といった周辺の有力大名も加勢した 1 。これにより、通季軍は実季の兵力を遥かに凌駕する大軍となり、その兵力差は10倍に及んだとも伝えられている 26 。
緒戦において、通季軍は湊城を急襲。防戦は不可能と判断した実季は、湊城を放棄し、父祖伝来の本拠地であり、堅固な山城である檜山城へと退却して籠城するという苦渋の決断を下した 14 。檜山城に籠もった実季は、わずか300挺と伝えられる鉄砲を効果的に用いて、圧倒的な兵力差の敵を相手に長期間の籠城戦を耐え抜いた 26 。
戦況が膠着する中、戦いの趨勢を決する転機が訪れる。由利地方の国人領主連合である由利十二頭の一角、赤尾津氏らが実季方として援軍に駆けつけたのである 7 。これにより背後を突かれる形となった通季軍は混乱に陥り、実季は好機を逃さず城から打って出た。攻守は逆転し、勢いに乗った実季軍は通季勢を撃破、敗走する敵を追撃し、最終的に湊城を奪還することに成功した。大将の通季は戸沢氏を頼って仙北へと落ち延びた 21 。
この「湊合戦」における劇的な勝利は、秋田実季の武将としての評価を決定づけただけでなく、安東氏の歴史における画期となった。実季は、この戦いを通じて反対勢力を一掃し、秋田郡から檜山郡、比内郡に至る広大な領域の支配権を完全に掌握した。彼はこれを機に、姓を安東から「秋田」へと改め、室町幕府以来の名跡である「秋田城介」を名乗り、名実ともに出羽国北部を代表する戦国大名としてその地位を確立したのである 20 。この合戦は、単なる家督争いではなく、檜山家による中央集権的な支配体制の確立に対する、湊の交易利権に依存する旧来の国人連合体制の最後の組織的抵抗であった。実季の勝利は、その旧体制を完全に打破し、秋田氏を近世大名へと脱皮させるための重要な一歩であった。
湊合戦に勝利し、領国支配を盤石なものとした秋田実季は、重大な決断を下す。籠城戦でその堅固さを示した山城の檜山城から、敵方の本拠地であり、経済の中心地でもある平城の湊城へと本拠を移したのである 10 。これは、旧勢力に対する完全な勝利宣言であると同時に、守りの時代から、経済と政治を一体的に運営する新たな統治の時代への移行を象徴するものであった。
さらに実季は、慶長4年(1599年)から翌年にかけて、湊城の大規模な改修工事に着手した 9 。記録によれば、この工事には多数の大工、鍛冶、壁塗りなどの職人が動員され 27 、二重の水堀を巡らせた本格的な近世的平城へと城を大改造するものであった 10 。発掘調査においても、この時期に行われた大規模な改修の痕跡が確認されており、文献史料の記述を裏付けている 10 。
この大改修は、戦国時代の終焉と、豊臣政権下における新たな大名としての生き残りをかけた戦略的判断であった。防御一辺倒の山城から、経済と政治の拠点となる平城への移行は、時代の潮流を的確に読んだ先進的な動きであり、実季の戦国大名としての非凡な器量を示すものであった。慶長6年(1601年)、壮麗な城郭が完成した 10 。しかし、皮肉なことに、実季がこの新たな本拠地で采配を振るうことができた期間は、極めて短いものに終わる。彼の壮大な構想は、完成直後に訪れた時代の大きなうねりによって、予期せぬ形で頓挫することになるのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。秋田実季は東軍に与して所領安堵を得たものの、戦後、出羽の覇権を争う最上義光から「西軍の小野寺氏と通じている」との讒言を受け、徳川家康の嫌疑を招くという窮地に立たされた 27 。実季は弁明によって嫌疑を晴らし、改易こそ免れたものの、この一件が彼の運命に影を落とすことになる。
慶長7年(1602年)、徳川家康は全国の大名の再配置を断行。その一環として、秋田実季は常陸国宍戸5万石への転封を命じられた 7 。これは、秋田の所領からの退去を意味する、事実上の減封であった。
実季と入れ替わる形で秋田の地に入ったのが、常陸水戸54万石の大大名であった佐竹義宣である。義宣は関ヶ原の戦いにおいて、石田三成との親交から態度を明確にせず、結果として家康の不興を買い、出羽秋田20万石への大幅な減転封を命じられたのであった 32 。同年9月17日、佐竹義宣は秋田氏が去った湊城に入城し、新たな領国統治を開始した 3 。
秋田実季が心血を注いで完成させたばかりの湊城であったが、新領主となった佐竹義宣は、入城後すぐにこの城を放棄し、新たな城を築くことを決定する。その理由は、城自体の欠陥というよりも、城主の「大名の格」の劇的な変化に起因する、極めて合理的な経営判断であった。
第一に、 規模の問題 が挙げられる。秋田氏の5万石程度の規模に合わせて設計された湊城では、20万石(旧領は54万石)の石高を持つ佐竹氏の巨大な家臣団を収容し、藩の政庁を置くにはあまりにも手狭であった 35 。秋田実季にとっての理想的な拠点城郭は、佐竹義宣という「近世大名の器」を収めるには小さすぎたのである。この物理的なスケールのミスマッチが、湊城の運命を決定づけた。
第二に、 防御上および統治上の問題 も指摘されている。雄物川河口の低地に位置する平城である湊城は、防衛拠点としては脆弱であると判断された 35 。さらに、佐竹氏の統治理念は、安東氏のような海洋交易を主軸とするものではなく、米穀経済を基盤とした内陸支配を重視するものであった。そのため、海に面した交易拠点よりも、領国全体を統治しやすい内陸の中心地が新たな本拠地として求められた。
これらの判断に基づき、慶長8年(1603年)5月、義宣は普請奉行に梶原政景と渋江政光を任命し、湊からやや内陸に入った神明山(現在の千秋公園)の地に、新たな城「久保田城」の築城を開始した 14 。そして翌慶長9年(1604年)、久保田城の主要部が完成すると、義宣は速やかに居城を移し、湊城は破却、すなわち廃城とされた 1 。これは、慶長20年(1615年)に幕府によって発令される一国一城令に先立つ措置であった 3 。湊城の廃城と久保田城の築城は、戦国時代の終焉と、徳川幕藩体制下における近世の始まりを秋田の地で告げる象徴的な出来事だったのである。
城郭としての役目を終えた湊城であったが、その広大な跡地は新たな形で地域の発展に寄与することになる。城跡は城下町「土崎湊」の町人地として再開発され、近世における土崎湊町の隆盛の基盤となった 11 。
佐竹氏の入部に伴い、土崎の有力商人らが新城下の久保田へ強制的に移住させられたため、土崎の町は一時的に閑散とした 2 。しかし、佐竹藩はすぐに土崎湊が持つ外港としての重要性を再認識し、年貢米などを保管・輸送するための蔵を設置するなど、港湾機能を復活・強化させた 2 。
江戸時代を通じて、土崎湊は久保田藩の経済を支える玄関口として、また日本海航路の要衝「北前船」の寄港地として、かつてないほどの繁栄を謳歌した。地理学者・古川古松軒がその著書『東遊雑記』の中で「久保田城下の大町筋より土崎湊の方が優れている」と記したように、その賑わいは藩都久保田を凌ぐほどであったと伝えられている 2 。
湊城は、旧雄物川河口の平地に築かれた平城であった 1 。現存する遺構は極めて乏しいが、元文年間(1736年-1740年)の古絵図や現在の地形から、その全体像をある程度推測することができる 9 。
城の規模は、土崎神明社を中心として東西約500メートル、南北約420メートルに及ぶ広大なものであったと推定されている 15 。城の中核である本丸は、現在の土崎神明社の境内地にあたると考えられている 14 。
最大の特徴は、秋田実季による大改修で設けられたとされる二重の水堀である 10 。雄物川河口の低湿地という立地を巧みに利用し、水堀を主要な防御施設としていた。近世城郭に見られるような高石垣は用いられず、堀と土塁を主とした「土の城」であったと考えられ、これは東北地方の城郭に共通する特徴でもある。防御と同時に、港湾施設との連携も考慮された縄張りであったと推測される。
近年の都市開発に伴い、湊城跡では複数回にわたる発掘調査が実施され、文献史料だけでは知り得なかった城の実態が徐々に明らかになってきている 10 。
特に平成17年(2005年)の土崎駅前線の道路拡張事業に伴って行われた大規模な調査では、多数の遺構や遺物が出土した 29 。確認された遺構には、近世の土崎湊に関連する溝跡4条、柱列5条、土坑17基などがあり、城が廃された後の町場の様子を窺わせる 38 。また、かつての内堀の一部であった水堀の痕跡も確認されている 14 。
考古学的調査における最も重要な成果は、秋田実季が慶長4年(1599年)から慶長6年(1601年)にかけて行った大改修の痕跡と考えられる遺構が実際に確認されたことである 10 。これは、『秋田家文書』などの文献史料の記述を物理的に証明するものであり、その歴史的信頼性を飛躍的に高めた。
さらに、出土遺物の中には15世紀末頃のものも含まれており 15 、湊城が文献に登場する以前の室町時代中期には、既にこの地で一定の政治的・軍事的機能が営まれていたことを示唆している。これらの考古学的調査は、湊城が単なる伝承上の存在ではなく、文献に記録された通りの変遷を辿った実在の大規模な城郭であったことを証明した。特に、実季による慶長期の大改修の痕跡は、彼の統一事業の総仕上げと、その直後に訪れる悲劇的な転封という、歴史の転換点を物理的に物語る貴重な証拠と言える。
現在、湊城の面影を直接的に伝える建造物は残っていない。城郭としての遺構は市街地化の波に呑まれ、わずかに土塁の痕跡が推測されるのみである 1 。しかし、その記憶は土地に深く刻まれ、形を変えて現代に継承されている。
城の中心であった場所には、廃城から16年後の元和6年(1620年)、土崎湊の総鎮守として土崎神明社が建立された 3 。この神社は、常陸から移住してきた佐竹氏の家臣・川口惣次郎が、自らの氏神を湊全体の鎮守として祀ったのが始まりである 39 。創建の経緯に安東氏との直接的な関係はないものの、城跡という特別な場所に社殿を構えたことで、結果的に城の記憶を土地に留める重要な役割を果たしてきた。
現在、城跡は土崎神明社の境内と、その東に隣接する土崎街区公園となっている 10 。公園内には、安東氏の事績を後世に伝えるために建てられた「湊安東氏顕彰碑」が静かに佇み、かつての城主の栄枯盛衰を偲ばせている 1 。
湊城の物理的な遺産は乏しい。しかし、この城が後世に遺した最大の遺産は、城が守り育てた「土崎湊」という港湾都市そのものであると言える。
城という「ハードウェア」は失われたが、その存在理由であった港湾都市という「ソフトウェア」は、佐竹氏の統治下で形を変えて継承され、近世土崎湊の空前の繁栄へと繋がった。城が廃された後も、土崎湊は秋田藩の経済を力強く支える玄関口として、その重要性を失うことはなかった 2 。
その経済力を背景に、土崎湊では独自の豊かな町人文化が花開いた。その象徴が、土崎神明社の例祭である「土崎港曳山まつり」である。豪華絢爛な武者人形などを飾った曳山が町を練り歩くこの祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定され、さらにユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」の構成資産の一つにも登録されている 2 。この祭りの熱気とエネルギーは、湊城の跡地に根ざし、近世の港町の経済力によって育まれた文化の結晶である。
また、近隣に開設された「土崎みなと歴史伝承館」では、湊合戦の場面を再現した曳山が展示されるなど、安東氏と湊城の歴史が地域文化の重要な一要素として、今なお大切に語り継がれている 1 。
湊城の物語は、城郭そのものの消失をもって終わるのではない。その本質的な機能であった「港の支配」という役割が継承され、秋田の経済と文化の基盤を形成した。湊城の歴史的評価は、この目に見えない無形の遺産と分かちがたく結びついているのである。
年代(西暦/和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
備考・意義 |
関連資料番号 |
1394-1428年頃(応永年間) |
安藤鹿季、秋田湊に入部し湊氏を称したとされる。 |
安藤鹿季 |
湊安東家の成立。築城の起源説の一つ。 |
7 |
1436年(永享8年) |
安倍(安東)康季が湊城を築いたとされる。 |
安倍康季 |
築城の起源説の一つ。 |
1 |
1551年(天文20年) |
湊安東家当主・安東堯季が後継者なく死去。 |
安東堯季 |
檜山安東家による両家統合の契機となる。 |
13 |
1551年以降 |
檜山家の安東茂季が湊家の家督を継承。 |
安東愛季、安東茂季 |
事実上の両家統合。湊騒動の遠因となる。 |
10 |
1587年(天正15年) |
安東愛季が急死。子の実季が家督を継ぐ。 |
安東愛季、安東実季 |
権力の空白が生じ、内乱の火種となる。 |
21 |
1589年(天正17年) |
安東通季(道季)が挙兵し「湊合戦」が勃発。 |
安東実季、安東通季 |
安東氏の領国統一を巡る最大の内乱。 |
1 |
1589年(天正17年) |
実季が勝利し、本拠を湊城へ移転。安東から秋田へ改姓。 |
秋田実季 |
秋田氏による領国支配が確立。戦国大名として飛躍。 |
10 |
1599年-1601年(慶長4-6年) |
秋田実季、湊城の大規模な改修工事を行う。 |
秋田実季 |
二重水堀を持つ近世的な平城へ改造。城郭機能の頂点。 |
9 |
1602年(慶長7年) |
秋田実季、常陸宍戸へ転封。佐竹義宣が出羽秋田へ入封。 |
秋田実季、佐竹義宣 |
関ヶ原の戦後の大名再配置。城主が交代。 |
7 |
1602年(慶長7年)9月 |
佐竹義宣、湊城に入城。 |
佐竹義宣 |
佐竹氏による秋田支配の開始。 |
3 |
1603年(慶長8年)5月 |
佐竹義宣、神明山に久保田城の築城を開始。 |
佐竹義宣 |
湊城が手狭かつ防御に不向きと判断されたため。 |
14 |
1604年(慶長9年) |
佐竹義宣が久保田城へ移り、湊城は破却(廃城)される。 |
佐竹義宣 |
城郭としての歴史の終焉。跡地は町人地へ。 |
1 |
1620年(元和6年) |
湊城跡に土崎神明社が創建される。 |
川口惣次郎 |
跡地の新たな役割の開始。土崎湊の総鎮守となる。 |
3 |