武蔵国滝山城は、大石氏が築き、北条氏照が関東支配の拠点として大改修。武田信玄の猛攻を退けた堅城だが、八王子城築城に伴い廃城。城下町は八王子宿へ移転。
武蔵国西部、現在の東京都八王子市にその痕跡を留める滝山城は、戦国時代の関東における戦略的要衝の一つであった。多摩川と南の谷地川(秋川水系)に挟まれた加住丘陵の、複雑な地形を巧みに利用して築かれたこの平山城は、天然の要塞としての地の利を最大限に活かした城郭である 1 。その歴史は、当初、武蔵守護代であった大石氏の居城として始まり、後に相模を本拠とする後北条氏三代当主・氏康の三男、北条氏照が城主となって関東支配の拠点として大きく発展を遂げた 4 。上杉氏や武田氏といった強敵の侵攻を幾度となく退けたこの城は、戦国中期の関東の政治・軍事史を語る上で欠かすことのできない存在である。本報告書は、滝山城の築城から廃城に至るまでの歴史的変遷、その卓越した城郭構造、そして戦国史における戦略的意義を、最新の研究成果を交えながら多角的に分析し、その全体像を明らかにすることを目的とする。
滝山城の研究は、単一の城郭の歴史を解明するに留まらない。それは、後北条氏が関東一円に支配を広げていく過程で展開した広域的な支城網戦略、戦国中期における築城技術の飛躍的な発展、そして最終的に豊臣秀吉の中央政権との対立に至る巨大な歴史的文脈を理解するための鍵となる 6 。特に、北条氏照が本拠を滝山城から八王子城へ移した理由を巡る学説の変遷は、歴史研究が個別の事象の分析から、より大局的な戦略思想の解明へと深化していく過程を象徴している。滝山城は、その構造、歴史、そして運命を通じて、戦国という時代の力学を我々に雄弁に物語る、極めて重要な歴史遺産なのである。
滝山城が築かれる以前から、現在の八王子市を含む多摩地域は、武士団の活動拠点として歴史の舞台に登場していた。平安時代末期から鎌倉時代にかけては、武蔵七党の一つである横山党がこの地を拠点とし、勢力を誇った 7 。彼ら在地武士団は、盛衰を繰り返しながらも、この地に城館を築き、集落や交通路を整備していった。やがて「八日市場」のような経済拠点が形成されるなど、後の城郭都市の発展の素地となる社会基盤が、この時期に徐々に形成されていったのである 7 。
滝山城の築城に関しては、複数の説が存在し、その黎明期は謎に包まれている。最も広く知られているのは、大永元年(1521年)に築城されたとする説である 3 。しかし、築城者については、関東管領山内上杉氏の重臣で武蔵守護代を務めた大石定重とする説 3 と、その子である定久の代に築かれたとする説 3 があり、明確に定まっていない。
さらに、『新編武蔵国風土記稿』は定久の築城と記しており、史料によって見解が分かれている 11 。これらに加え、そもそも大石氏の時代にはまだ城はなく、永禄年間(1558年~1570年)に後北条氏の北条氏照によって初めて築かれたとする異説も提唱されており、その起源を巡る議論は今なお続いている 4 。築城者や年代に関する諸説の存在は、単なる記録の欠如を意味するのではない。それは、関東管領上杉氏の権威が失墜し、新興勢力である後北条氏が台頭する、まさにその過渡期における武蔵国の政治的混乱と、権力移行の流動性を象徴する事象と捉えることができる。
築城者に関する議論とは別に、大石氏が滝山城の北東約1.5kmに位置する高月城から本拠を移したという点については、多くの史料や研究が一致して指摘している 2 。この拠点移転の理由として、従来は高月城の防備上の弱さが挙げられてきた 11 。しかし、両城の地形を比較すると、いずれも峰続きの南方が弱点である点に大差はなく、防備上の優劣だけでこの移転を説明するのは困難である 11 。
むしろ、より重要な要因は「経済上の利点」にあったと考えられる 11 。高月城が支流である秋川に面しているのに対し、滝山城は関東平野を貫流する大河・多摩川を眼下に掌握できる絶好の立地にある 11 。多摩川水運を支配することは、関銭の徴収、物資の安定輸送、広域からの情報集積など、領国経営において計り知れない利益をもたらす。この拠点移転は、単なる防御力強化という戦術的判断に留まらず、軍事と経済を一体として捉え、領域支配を強化しようとする、戦国大名としての新たな戦略思想への転換を示すものであった。守るだけの城から「支配する城」へ。この選択こそが、大石氏が戦国という新しい時代に適応しようとしていたことの証左と言えよう。
後年の北条氏照による大改修以前、大石氏が拠点とした時代の滝山城は、現在見られる広大な城郭とは異なり、本丸および中の丸を中心とした、比較的限定的な範囲の城であったと推定されている 11 。この時代の城郭は、丘陵の先端部分を利用した小規模なものであった可能性が高い。しかし、この大石氏時代の遺構の上に、後の北条氏の改修が重ねられている点こそが、滝山城の歴史的価値を一層高めている 9 。一つの城跡に、二つの時代の築城思想が重層的に残されていることは、城郭の発展過程を研究する上で極めて貴重な事例なのである。
天文十五年(1546年)、関東の勢力図を塗り替える歴史的な戦いが起こった。河越夜戦である。この戦いで、大石定久の主家であった関東管領・山内上杉氏は後北条氏三代当主・氏康に決定的な大敗を喫し、関東における旧来の権威は完全に失墜した 3 。この敗北を受け、大石定久は北条氏康に降伏。その際、氏康の三男であった氏照を、定久の娘・比佐の婿養子として迎え入れ、大石氏の名跡と家督を譲ることを余儀なくされた 3 。
この養子縁組は、単なる大石氏の臣従を意味するものではなかった。それは、後北条氏による西武蔵支配を盤石にするための、極めて戦略的な布石であった。当時の大石氏家臣団の中には、依然として上杉氏に通じ、北条氏に反旗を翻そうとする勢力が根強く存在していた 15 。この不安定な状況を打開し、戦略的要衝であるこの地を完全に掌握するため、北条氏は本家直系の氏照を送り込むという直接的な支配を選択したのである。これにより、滝山城は名実ともに関東の新興勢力・後北条氏の手に渡ることとなった。
北条氏照の入城により、滝山城の戦略的価値は飛躍的に高まった。それは、後北条氏が関東一円に張り巡らせた広域支城網の中で、最重要拠点の一つとして位置づけられたのである 6 。滝山城に与えられた役割は二重であった。一つは、西に国境を接する甲斐の武田氏の脅威に備えるための、西武蔵における防衛の要としての役割。もう一つは、上野国(現在の群馬県)など北関東へ勢力を拡大するための、侵攻拠点・前線基地としての役割である 1 。滝山城は、まさに守りと攻めの両面を担う、北条氏の関東戦略の心臓部となったのである。
この新たな戦略的役割を果たすため、氏照は永禄元年(1558年)頃から滝山城の大規模な改修に着手した 6 。この大拡張工事により、城は劇的な変貌を遂げる。城域は東西約900メートルに及び、二の丸、三の丸、さらには家臣団の屋敷が置かれた小宮曲輪などが新たに築かれ、平山城としては東日本最大級の規模を誇るまでになった 1 。
この拡張は、単なる増築ではなかった。それは、後述する「北条流」と呼ばれる先進的な築城技術の粋を集めた、極めて計画的なものであった 6 。この大改修は、後北条氏の領国経営が安定期に入り、その豊かな国力を背景として大規模な土木工事を遂行する能力があったことを物理的に証明している。滝山城の変貌は、北条氏が単なる一戦国大名から、関東に覇を唱える広域支配者へと成長したことの、動かぬ証左と言えるだろう。
滝山城の縄張り(城の設計)は、加住丘陵の複雑な地形を最大限に活用している点に最大の特徴がある。丘陵の細長い尾根筋に沿って、本丸、中の丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪(郭)を直線的に配置する「連郭式」を基本構造としている 6 。そして、城の北側を流れる多摩川の急峻な河岸段丘を天然の巨大な堀として利用し、容易に敵の接近を許さない鉄壁の防御線を構築している 3 。自然の要害と人工の防御施設を巧みに融合させたその設計思想は、戦国中期の城郭として極めて高い完成度を誇る。
滝山城の構造を分析する上で最も注目すべきは、二の丸周辺に防御機能が極めて集中的に配置されている点である 18 。これは、二の丸が単なる一つの曲輪ではなく、城主の居館があったとされる千畳敷や政庁機能があったと推定される中の丸といった、城の「心臓部」を直接防衛するための最前線であったことを示している。
二の丸へ至る三方向からの進入路には、そのすべてに「馬出」と呼ばれる小規模な曲輪が設けられている 16 。馬出は、城兵が出撃する際の拠点となると同時に、敵の攻撃を正面から受け止め、勢いを削ぐための防御施設である。特に、方形に整形された「角馬出」は、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃を加えることを意図したもので、後北条氏の城郭に特徴的な先進的な構造である 1 。滝山城では、これらの馬出が幾重にも連なり、「馬出に馬出がついている」と評されるほど複雑な連携防御システムを形成しており 3 、敵兵を袋小路に誘い込み、殲滅することを狙った設計者の高い戦術眼がうかがえる。
滝山城の防御思想を象徴するもう一つの遺構が、三の丸と千畳敷の間に設けられた「コの字型土橋」である 19 。これは、堀の一部を掘り残して造られた土の橋を、意図的にクランク状に屈折させたものである。敵兵はこの狭い土橋の上で、実に4度も進行方向を変えることを強いられる 19 。その間、周囲の土塁や櫓から集中攻撃(横矢掛かり)を浴びることになり、大軍であってもその勢いを完全に殺がれてしまう。この土橋は、敵の進軍速度を落とし、兵力を分散させ、予測不能な方向から攻撃を加えるという、極めて巧妙な防御思想の結晶である。
また、本丸や中の丸といった城の中枢部への入口(虎口)には、「枡形虎口」が採用されている 1 。これは、門の内外に四角い空間を設け、通路を直角に折り曲げることで、敵の突入を困難にし、空間内に閉じ込めた敵を三方から攻撃するための構造である。これらの防御施設は、個人の武勇に頼る戦いから、集団戦術と巧妙な防御施設を駆使する組織的な戦いへと戦闘形態が移行した、戦国時代中後期の現実を色濃く反映している。
滝山城の広大な城内は、機能に応じて複数の曲輪に分割されていた。
滝山城は、西国に見られるような石垣をほとんど用いず、土を掘り、盛り上げることで造成された土塁と空堀で構成される「土の城」である 5 。これは、関東平野に広く分布する「関東ローム層」と呼ばれる火山灰由来の粘土質の土壌が、城造りに極めて適していたことに起因する 28 。関東ローム層は、固く締まり崩れにくいため、高く急峻な土塁や切岸(斜面を削って造った崖)の造成を可能にし、また、一度雨などで濡れると非常に滑りやすくなるため、敵兵の侵攻を妨げる効果も高かった。
石材が乏しいという地理的条件に加え、この土壌の特性を最大限に活かし、高度な土木技術によって堅固な城を築き上げるのが「北条流築城術」の真骨頂であった。滝山城の壮大な空堀や土塁は、まさにその技術の集大成であり、静岡県の山中城に見られる畝堀(うねぼり)や障子堀(しょうじぼり)といった、より発展した土木技術へと繋がる重要な段階に位置づけられる 4 。滝山城は、関東の風土が生んだ「土の城の最高傑作」と評するにふさわしい城郭なのである。
永禄十一年(1568年)、甲斐の武田信玄が今川氏の領国である駿河へ侵攻したことにより、甲斐・相模・駿河の間で結ばれていた甲相駿三国同盟は完全に崩壊した 3 。これにより、これまで同盟関係にあった後北条氏と武田氏は、一転して敵対関係へと突入する。この関東の勢力図を揺るがす地政学的変動が、後に「滝山合戦」と呼ばれる激戦の直接的な背景となった。
翌永禄十二年(1569年)秋、武田信玄は2万と号する大軍を率いて、上信国境の碓氷峠を越え、関東平野へとなだれ込んだ 3 。その最終目標は北条氏の本拠地・小田原城であったが、その進軍経路上に位置していた滝山城もまた、武田軍の猛攻に晒されることとなる 6 。
信玄は、多摩川を挟んで滝山城の対岸にあたる拝島の地に本陣を構えた 6 。そして、嫡男である武田勝頼を大将とする主力部隊に、多摩川を渡河させ、滝山城への正面攻撃を開始させた 3 。これと同時に、信玄はもう一つの手を打っていた。小山田信茂が率いる別働隊に、当時、軍勢の通行は困難とされていた小仏峠を越えさせ、城の背後を突くという奇襲作戦を実行させたのである 6 。この意表を突いた二正面作戦により、滝山城は極めて厳しい状況に追い込まれた。
武田軍の猛攻は凄まじく、城の防衛線は次々と破られ、三の丸まで敵の侵入を許したと伝えられている 3 。城はまさに落城寸前の危機に瀕した。しかし、城主・北条氏照は自ら二の丸の櫓門に立ち、最前線で指揮を執り、城兵を鼓舞した 3 。また、師岡城主・師岡山城守らの奮戦もあり、城兵は二の丸で武田軍の進撃を辛うじて食い止めた 3 。寡兵よく大軍を防いだこの戦いは、わずか2千の兵で2万の軍勢から城を守り抜いたとされ、滝山城の防御力の高さを証明する戦いとして後世に語り継がれることとなった 1 。
しかし、この戦いの記録には注意深い分析が必要である。落城寸前まで追い込まれたという軍記物的な記述 3 がある一方で、氏照自身が戦後に上杉氏の重臣に宛てた書状の中では、城内での戦闘には触れず、「城下に兵を出して戦った」と記している 35 。この食い違いは、実際の戦闘が城外での迎撃戦が主であり、城内への大規模な侵入は限定的であった可能性を示唆している。
いずれにせよ、この滝山合戦は、北条氏照にとって大きな教訓を残した。特に、小山田隊による小仏峠越えの奇襲成功は、甲州口(甲斐との国境方面)の防御体制が手薄であったという弱点を白日の下に晒すものであった 32 。この戦いの経験が、後の八王子城築城において、小仏峠を直接監視できる戦略的な立地が選ばれる直接的な伏線となったのである。
滝山城の歴史における最大の論点の一つが、なぜ北条氏照は堅固なこの城を捨て、新たに八王子城を築いて本拠を移したのか、という問題である。この拠点移転の理由については、従来からの説と、近年の研究によって提唱された新説が存在し、活発な議論が交わされている。
古くから広く支持されてきたのが、滝山合戦での経験を移転の直接的な原因とする説である 6 。この説によれば、永禄十二年(1569年)の武田軍との戦いで落城寸前まで追い込まれた氏照は、滝山城の防御力に限界を感じ、より堅固な山城の必要性を痛感したとされる。特に、小仏峠を越えて背後を突かれた経験から、甲州口からの侵攻路に対する脆弱性が大きな問題として認識された 33 。実際に、新たに築かれた八王子城は、滝山城よりも標高が高く、より山深い天然の要害に位置しており、この説を地理的に裏付けている 16 。この見方は、城を個別の防御施設として捉え、その性能の限界が拠点の放棄に繋がったと解釈するものである。
しかし近年、この旧説に疑問を投げかける有力な新説が登場した。それは、拠点移転の主因を、滝山合戦という局地的な出来事ではなく、天正後期における豊臣秀吉との全国規模での対立に備えるための、後北条氏領国全体の戦略的再編の一環として捉える見方である 36 。
この新説の最大の論拠は、滝山合戦から10年以上が経過した天正九年から十年(1581年~1582年)にかけて、滝山城で大規模な改修工事が行われていたという史料上の事実である 26 。もし滝山城が合戦直後に「防御上の欠陥品」として見捨てられたのであれば、これほど大規模な投資を伴う改修が行われるはずがない。この事実は、旧説の根幹を揺るがすものである。
新説では、天正十四年(1586年)頃から北条氏と豊臣政権の関係が急速に悪化し、領国全体で臨戦態勢が敷かれる中で 36 、来るべき総力戦に備えた防衛網の再構築が図られたと考える。その中で、豊臣に従属する徳川家康が治める甲斐方面からの侵攻ルートを封鎖する最重要拠点として、八王子城が新たに選択され、築城されたと結論付けるのである 36 。この視点に立てば、滝山城が放棄されたのは「欠陥があったから」ではなく、戦略的状況の変化に応じて「八王子城の方がより重要になったから」と理解できる。これは、軍隊が戦略の変化に応じて基地を再編するのと全く同じ論理である 36 。
論点 |
旧説:滝山合戦起因説 |
新説:対豊臣シフト説 |
移転の直接的契機 |
永禄12年(1569年)の武田軍との滝山合戦での苦戦。 |
天正14年(1586年)頃からの豊臣政権との関係悪化と軍事的緊張。 |
滝山城の評価 |
防御上の弱点(特に甲州口)が露呈し、限界が見えた城。 |
堅城ではあるが、対豊臣戦略における最適地ではなかった城。 |
八王子城の戦略的価値 |
より堅固で防御力に優れた要害。 |
北条領国全体の防衛網の中で、甲州口からの侵攻に備える最重要拠点。 |
主な論拠 |
軍記物の記述、八王子城の地理的優位性 16 。 |
合戦後の滝山城改修の事実、天正後期の政治・軍事状況 26 。 |
滝山城と八王子城を比較すると、築城技術と思想の面でも明確な進化が見られる。八王子城では、滝山城ではほとんど見られなかった石垣が御主殿周りなどに導入されており 17 、より大規模かつ堅固な構造となっている。これは、対峙する敵が武田軍という戦国大名から、織田・豊臣連合軍という、より巨大で先進的な軍事力を持つ中央政権へと変化したことに対応した結果と解釈できる。城の構造そのものが、時代の変化と脅威の質的変化を物語っているのである。
北条氏照が八王子城へ正式に拠点を移したのは、天正十五年(1587年)頃と考えられている 26 。これにより、滝山城はその主要な役割を終えた。天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、八王子城が壮絶な落城を遂げた一方で、滝山城は直接戦場となることなく、歴史の表舞台から静かに姿を消し、廃城となった 3 。
戦国時代の城は、単独で存在する軍事施設ではなかった。その麓には、城に仕える武士、彼らの生活を支える商人や職人が集住する城下町が形成され、城と町は不可分の一体をなしていた。滝山城においても、その南東の麓、現在の滝山街道沿いに「横山」「八日市」「八幡」という三つの宿(町場)、いわゆる「三宿」が設けられ、活気ある城下町が形成されていた 7 。これらの宿は、城の防衛機能の一翼を担うと同時に、定期的に市が開かれるなど、地域の経済的中心地としての重要な役割も果たしていた。
この滝山城下の三宿は、領主である北条氏照の拠点移転に伴い、二度にわたる大規模な移転を経験するという、特異な歴史を辿ることになる。
一度目の移転は、天正十五年(1587年)頃、氏照が本拠を八王子城へ移した際に行われた。この時、三宿の町や商人、職人たちも、新たな城の麓(現在の元八王子地区)へと丸ごと移転したのである 7 。これは、城と城下町がいかに密接な運命共同体であったかを如実に示している。
しかし、そのわずか数年後の天正十八年(1590年)、八王子城は豊臣軍の攻撃により落城。後北条氏の滅亡後、関東の新たな支配者として徳川家康が江戸に入府すると、この地域の都市計画は再び大きく変更される。家康は、甲州街道の整備と甲斐方面への備えを重視し、新たな宿場町を造成することを決定。これにより、八王子城下にあった三宿は、現在の八王子市街地の場所へと二度目の移転を命じられた 6 。これが、江戸時代の宿場町「八王子宿」の誕生であり、現在の八王子市の直接的な原型となった。
滝山城から始まった城下町は、八王子城、そして八王子宿へと、政治状況の変化に応じて場所を変えながらも、その都市機能とコミュニティの連続性を保ち続けた。滝山城下で形成された「市」の機能、特に「八日市」の名は、現在の八王子市八日町にその名を留めている。北条氏照は、単に堅固な城を築いた武将であっただけでなく、その後の八王子の商業都市としてのDNAを育んだ、都市計画の創始者としての側面も持っていたと評価することができるだろう 7 。滝山城は、物理的には廃城となったが、その城下町という形で、その精神は現代の八王子市へと脈々と受け継がれているのである。
滝山城は、戦国時代中期の関東における中世城郭の一つの到達点であり、関東の風土と後北条氏の卓越した築城技術が生んだ「土の城の最高傑作」と評されている 1 。自然地形を巧みに利用した縄張り、二の丸を中心とする集中的な防御システム、そして馬出や枡形虎口といった先進的な防御施設の数々は、当時の築城技術の高さを雄弁に物語っている。また、その後の八王子城築城へと繋がる過渡期の城として、戦国時代の戦略思想と築城技術の進化を理解する上で、欠くことのできない極めて重要な歴史遺産である。
その歴史的価値の高さから、滝山城跡は昭和二十六年(1951年)6月9日、文化財保護法に基づき国の史跡に指定された 1 。この指定に先立ち、大正七年(1918年)には東京府によって保存すべき「史蹟」として標識が建てられるなど、古くからその価値が認識されていた 41 。
近年、八王子市教育委員会によって継続的な発掘調査が行われており、城内の具体的な生活の様子が徐々に明らかになりつつある。令和二年(2020年)の調査では、囲炉裏状の遺構を持つ礎石建物跡や敷石状の遺構が確認されたほか、明(中国)から輸入された磁器、国産の陶器、さらには鉄砲弾や銭貨といった遺物が出土している 42 。特に、1990年代から確認されている敷石遺構の発見は、これまで謎に包まれていた城主の居館や政庁施設の具体的な姿を解明する上で、大きな期待が寄せられている 43 。
現在、滝山城跡は都立滝山公園として整備され、良好に残る遺構を巡る歴史散策の場として、また市内有数の桜の名所として、多くの市民に親しまれている 5 。その保存と活用においては、市民ボランティアの力が大きな役割を果たしている。平成二十八年(2016年)に八王子市から認定を受けた「滝山城・ウジテラーズ」をはじめとする団体が、ガイド活動や、遺構の景観を維持するための草刈りなどの保存活動を精力的に行っている 44 。
「活用なくして保存なし」という理念の下 46 、地域住民が主体となって歴史遺産を守り、その価値を次世代に伝えていこうとする活動は、現代における文化財保護の一つの理想的な姿を示している。戦国の世を駆け抜けた滝山城は、四百数十年の時を経て、今なお地域社会と共に生き続けているのである。