犬居城
遠江犬居城は、国人領主天野氏の拠点であり、武田流築城術の精髄を示す山城。徳川家康の攻撃を退けた「犬居崩れ」で知られ、武田氏滅亡後も天野氏は生き残りを図った。現在は史跡として整備され、地域の歴史を伝える。
遠江犬居城総合研究報告書:国人領主・天野氏の興亡と武田流築城術の精髄
序章:北遠の要衝・犬居城
戦国時代の遠江国、特にその北部山間地域(北遠)は、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして三河から台頭する徳川氏という三大勢力の力が複雑に交錯する、地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。この地で、大名の狭間にあって自立を保ち、時にはその勢力均衡を左右するほどの存在感を示したのが、「国人」と称される在地領主たちである。本報告書が対象とする犬居城は、まさにこの北遠を代表する国人領主・天野氏の興亡の歴史そのものを体現する山城である。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、遠江国における今川氏の支配体制は急速に動揺し、徳川家康と武田信玄による熾烈な領土争奪の舞台と化した 1 。このような状況下で、天野氏をはじめとする国人領主たちは、一族の存続と所領の安堵という至上命題をかけて、従属と離反、同盟と敵対という危険な選択を絶えず迫られていた。
犬居城研究の意義は、単に一城郭の構造を解明することに留まらない。この城は、天野氏の歴史的決断が物理的な構造として刻まれた「生きた史料」である。特に、天野氏が武田氏への従属を決断した後に施されたとされる大規模な改修は、当時の最新軍事技術であった「武田流築城術」の精髄を今に伝える貴重な遺構群であり、彼らの政治的選択が軍事的脅威への具体的な備えとして、いかに城の姿を変貌させたかを示している 4 。したがって、犬居城は国人領主の生存戦略そのものが具現化した結晶体と見なすことができる。本報告書は、城郭の縄張り(構造)、戦略的重要性、そして城主・天野氏の歴史的背景を統合的に分析し、この北遠の要衝が持つ多層的な価値を明らかにすることを目的とする。
第一部:城主・天野氏の軌跡
第一章:鎌倉以来の名門、その起源と遠江への定着
犬居城主・天野氏の出自は、藤原南家工藤氏の流れを汲む、伊豆国田方郡天野郷(現在の静岡県伊豆の国市)を名字の地とする由緒ある武士団である 6 。その遠江における歴史は、鎌倉時代初期の承久の乱(1221年)に遡る。この乱において幕府方として戦功を挙げた天野政景が、恩賞として遠江国山香荘の地頭職を与えられたことが、天野氏が北遠地域に深く根を下ろす契機となった 10 。
鎌倉幕府滅亡後の南北朝の動乱期において、天野氏はその複雑な情勢を反映し、一族が南朝方と北朝方に分裂して相争うという苦難の時代を経験した 2 。この長期にわたる抗争を通じて、彼らは単なる代官を派遣する absentee landlord(不在地主)ではなく、在地に土着して強力な武士団を形成する国人領主へと変質を遂げていった 11 。犬居城の築城年代は定かではないが、こうした同族間の争いや周辺勢力との緊張が高まった南北朝時代に、軍事拠点としてその原型が築かれたと推測されている 5 。
第二章:戦国大名の狭間で
室町時代を通じて北遠地域に勢力を固めた天野氏は、戦国時代に入ると駿河国を本拠とする守護大名・今川氏の遠江進出に伴い、その支配体制下に組み込まれていった 4 。今川義元の時代には、その有力な被官として犬居城を本城とし、北遠に勢威を誇る存在となっていた 10 。
しかし、その内部は一枚岩ではなかった。戦国期の天野氏には、本来の惣領家である安芸守家と、天野藤秀が属する庶流の宮内右衛門尉家という二つの系統が存在し、両者は惣領の地位と所領の支配を巡って激しく対立していた 6 。藤秀は、父・虎景の死後、惣領職を安芸守家の天野景泰・元景父子に奪われるという逆境から出発する。しかし彼は、永禄6年(1563年)に景泰父子が今川氏から離反した際、一貫して今川方として行動し、主家の権威を背景に彼らを討伐した。この功績により、藤秀は今川氏真から正式に天野氏惣領職を安堵され、一族の権力を掌握することに成功したのである 6 。
この一族内の権力闘争の経験は、天野藤秀の政治家としての資質を大きく磨き上げたと考えられる。単なる武力だけでは解決できない内部抗争において、彼は上位権力者である今川氏の裁定を巧みに引き出し、敵対勢力を「今川家への反逆者」として討伐する大義名分を獲得した。この経験は、後に彼が徳川・武田というさらに強大な勢力を相手にする際に、自らの立場を正当化し、生き残りを図るための巧みな外交戦略の礎となった。
第三章:天野藤秀の生存戦略
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、遠江における今川氏の権威は失墜し、天野氏を取り巻く環境は激変する。藤秀は今川氏の衰退を好機と捉え、一時的に徳川家康に従属した 1 。
しかし、犬居城の地理的位置が、天野氏の運命をより複雑なものにした。北に信濃国との国境を控え、甲斐の武田信玄からの圧力をもろに受ける立地にあったため、徳川一方への完全な従属は危険な選択であった。史料によれば、藤秀は徳川に従う一方で、武田方とも密かに連携していた形跡が見られる。『三河物語』には、永禄11年(1568年)に武田方の将・秋山虎繁が北遠に侵攻した際、藤秀がその案内役を務めたと記されており、彼の巧みな二股、あるいは三股外交の実態が窺える 6 。
最終的な決断が下されたのは、元亀3年(1572年)の武田信玄による西上作戦の開始時であった。藤秀は徳川を見限り、武田方への完全な従属を決意する。その証として嫡男・景康を人質として甲府に送り、自らは信玄率いる大軍を信濃・遠江国境の青崩峠で出迎え、その先導役を務めた 4 。この政治的決断は、犬居城を徳川家康との最前線へと変貌させ、城そのものと天野一族の運命を決定づけることになったのである。
第二部:城郭の構造と戦略
第四章:犬居城の縄張り―その構造と変遷
犬居城は、現在の静岡県浜松市天竜区春野町に位置し、標高約255メートル(資料により290メートルとも)の行者山(別名、鐘打山)山頂一帯に築かれた典型的な山城である 9 。城の南側は気田川の断崖に面しており、天然の要害をなしている 14 。城の基本構造は、山の尾根筋に沿って複数の曲輪(郭)を直線的に配置する連郭式縄張りを採用している 20 。
城の主要な曲輪群は、それぞれが明確な機能を持って配置されている。
- 物見曲輪(主郭): 城内で最も標高が高い西端部に位置し、現在は展望台が設置されている。その名の通り、眼下の気田川流域や、後述する重要な交通路・秋葉街道の動向を監視する司令塔としての役割を担っていたと推定される 5 。
- 本曲輪・二の曲輪: 物見曲輪の東側に連なる、城の中核をなす郭である。兵士の駐屯や城主の居住空間として機能したと考えられるが、現地の案内板や各種縄張り図によって名称や区画の解釈に若干の相違が見られる点は、今後の研究課題である 11 。特筆すべきは、一般的な山城のように尾根の最高部を主軸とするのではなく、尾根筋から北側の緩やかな斜面に向けて、尾根と並行するように本曲輪を設けた珍しい構造である 5 。これは、防御上の弱点となりうる北側斜面を意識した設計思想の表れであろう。
- 東曲輪(三の曲輪/馬出曲輪): 城の大手口にあたる東端に位置し、登城路から迫る敵を最初に迎え撃つ最前線の防御拠点である。後述する武田氏による改修で、馬出としての機能を持つ極めて技巧的な構造へと変貌を遂げた 8 。
- 腰曲輪・井戸曲輪: 防御を多層的にするため、また籠城戦において生命線となる水を確保するため、主郭の北側斜面には階段状に複数の腰曲輪が造成されている。さらにその下には、現在も湧水が確認できる井戸曲輪が存在し、籠城への備えがなされていたことがわかる 9 。
山上の城郭部分に加え、南東麓の「熱田平」と呼ばれる平坦地には、天野氏の平時における居館が構えられていたと推定されている 11 。また、気田川の対岸にそびえる若身城山は、犬居城の死角を補完する物見砦として機能し、城郭群全体で一体的な防御ネットワークを形成していたと考えられる 4 。
第五章:武田信玄による大改修―甲州流築城術の適用
天野氏が武田氏に完全に従属した元亀年間(1570年~1573年)頃、犬居城は徳川家康の攻撃に備えるため、武田氏の指導のもとで大規模な改修が施されたとみられている 4 。この改修によって、犬居城は当時の最先端軍事技術であった「武田流(甲州流)築城術」の粋を集めた、小規模ながらも極めて堅固な要塞へと生まれ変わった。
その特徴は、城の正面口である東側に集中している。
- 馬出曲輪と枡形虎口の連携: 登城路の正面には、虎口(城門)を守るための独立した小郭である「馬出曲輪」が設けられた。敵はまずこの馬出曲輪を攻略しなければならず、さらにその奥の虎口は、通路を直角に二度折り曲げた「枡形虎口」となっている。これにより、侵入してきた敵兵は勢いを殺がれ、狭い空間に閉じ込められる。防御側は周囲の土塁上から、側面攻撃(横矢掛かり)を浴びせることが可能となる 21 。この馬出と枡形の組み合わせは、武田氏の城郭に共通して見られる典型的な防御システムである 25 。
- 横堀と竪堀による機動力の封殺: 馬出曲輪の前面には、防御兵が身を隠す土塁を伴ったU字型の「横堀」(空堀)が巡らされている。さらに、曲輪間を繋ぐ唯一の通路である土橋の両側面は、山の斜面を垂直に断ち切る長大な「竪堀」によって完全に遮断されている 5 。横堀が斜面を登ってくる敵の足を止め、竪堀が敵の横移動を妨げる。この二つの堀の連携により、攻撃側の機動力を徹底的に封殺し、防御側が意図したキルゾーンへと敵を誘導する構造となっている。
犬居城の縄張りは、南側の天然の断崖に防御を委ねる一方、比較的緩やかで攻撃を受けやすい東側の尾根筋に、これらの高度な防御施設を選択・集中させている点に、その設計思想の巧みさが見て取れる 23 。
この改修は、単に天野氏の要請によるものではなく、武田信玄の遠江支配戦略全体の一環として行われたと考えるべきである。犬居城に見られる技巧的な防御施設の組み合わせは、武田氏が遠江支配の拠点とした諏訪原城や、激しい争奪戦の舞台となった高天神城にも共通して認められる特徴である(下表参照)。これは、武田氏が従属させた国人領主の城を、自軍の防衛ネットワークに効果的に組み込むため、一定の規格に基づいた「拠点化マニュアル」とも言うべき築城思想を適用していたことを示唆している。すなわち、犬居城の改修は、武田軍の標準的な防衛思想を反映した「作品」であり、国人領主の城を対徳川の前線基地へと変貌させるという、より大きな戦略的目的のもとに行われたのである。
表1:武田氏関連城郭における防御施設比較表(犬居城・諏訪原城・高天神城)
城郭名 |
馬出 |
虎口 |
横堀 |
竪堀 |
備考 |
犬居城 |
形態:馬出曲輪 配置:東側大手口 |
構造:枡形虎口 |
形態:U字型横堀 配置:馬出曲輪前面 |
配置:土橋の両側面、斜面の分断 |
武田氏の指導による改修が濃厚とされる 5 。 |
諏訪原城 |
形態:大規模な丸馬出 配置:二の曲輪前面など複数 |
構造:枡形虎口 |
形態:三日月堀 配置:丸馬出前面 |
配置:斜面の防御 |
武田流築城術の典型例。徳川氏による改修の可能性も指摘されている 27 。 |
高天神城 |
形態:馬出状の小曲輪 配置:西峰など |
構造:喰違虎口 |
形態:長大な横堀 配置:西峰の防御線 |
配置:斜面の横移動阻止 |
武田氏による占領後、西峰を中心に大改修が行われ、防御力が大幅に強化された 31 。 |
第六章:戦略拠点としての犬居城
犬居城が戦国時代において重要な役割を果たした背景には、その卓越した構造だけでなく、地政学的な優位性があった。
第一に、犬居城は「塩の道」とも呼ばれた秋葉街道を直接的に支配する位置にあった 5 。この街道は、太平洋岸の相良湊(現在の牧之原市)で生産された塩を、塩の入手が困難な内陸の信濃国へと運ぶための最重要物流路であった 34 。塩は、人間の生命維持に不可欠であると同時に、武具の製造や食料の保存にも用いられる重要な戦略物資であった。この道を抑えることは、平時においては通行税などによる経済的利益をもたらし、戦時においては敵の兵站線を断ち、自軍の補給路を確保する上で決定的な意味を持っていた。
第二に、武田信玄の遠江侵攻における前線基地としての役割である。元亀3年(1572年)の西上作戦において、信玄率いる本隊は信濃から青崩峠を越えて遠江に入ると、まず天野藤秀が守る犬居城を最初の拠点とした 4 。これは、犬居城が信濃と遠江を結ぶ結節点に位置し、武田軍にとって信頼できる兵站基地として機能したことを明確に示している。ここから武田軍は二俣城へと進軍しており、犬居城は遠江攻略の橋頭堡であった 18 。
第三に、天竜川水系への影響力である。犬居城は天竜川の主要な支流である気田川の流域を支配下に置いていた。天竜川は戦国時代においても材木などを運ぶ重要な水運ルートであり 38 、その支流を抑えることは、間接的に天竜川本流の通航にも影響を及ぼす可能性があった。このように、犬居城は陸路と水路の双方に睨みを利かせる、北遠における戦略的要衝であった。
第三部:落日の攻防
第七章:天正二年の攻防―徳川家康の敗北「犬居崩れ」
武田信玄が西上作戦の途上で病没すると、遠江における武田氏の圧力は一時的に弱まった。この機を捉え、徳川家康は失地回復と、武田方に与した天野氏への報復を目的として、犬居城への侵攻を開始した 12 。天正二年(1574年)4月に開始されたこの戦いは、翌年の長篠の戦いの前哨戦とも位置づけられる重要な戦いであった。
家康は自ら兵を率いて犬居城に迫ったが、作戦は思わぬ障害に阻まれた。折からの長雨により、城の天然の堀である気田川が激しく増水し、渡河して城に攻撃を仕掛けることが不可能になったのである 42 。進軍を阻まれ、兵糧の補給も困難になった徳川軍は、城を攻め落とすことなく撤退を余儀なくされた。
軍事行動において最も危険とされる撤退の局面で、天野軍はその真価を発揮した。地の利を知り尽くした天野の兵たちは、山中の街道筋で徳川軍に激しい追撃戦を仕掛けた。大久保忠世といった徳川の重臣が殿(しんがり)を務めたものの、徳川軍は多大な損害を被り、敗走した 6 。この徳川軍の惨敗は「犬居崩れ」として後世に伝わり、天野軍の完勝に終わった 4 。
この「犬居崩れ」は、単なる局地的な勝利以上の意味を持つ。これは、武田流に改修された城郭の高度な防御能力と、自らの土地を知り尽くした国人領主の巧みな戦術が組み合わさることで、兵力で優る大名の正規軍をも打ち破り得ることを証明した戦例であった。家康の軍は、城の技巧的な防御施設を直接攻略する以前に、天候と地形という要素によって作戦目的の達成を阻まれた。そして、撤退時には天野軍のゲリラ的な追撃によって大きな打撃を受けた。この勝利は、武田氏による城郭改修が、敵の侵攻を遅滞させ、反撃の機会を生み出す上で極めて効果的であったことを実証したのである。
第八章:天正四年の落城と天野氏の終焉
天正三年(1575年)5月、長篠の戦いで武田勝頼軍が織田・徳川連合軍に歴史的な大敗を喫すると、両者の力関係は完全に逆転した。徳川家康は、遠江における武田方の最後の拠点の一つである犬居城の完全攻略に乗り出す。
前回の失敗に学んだ家康は、今回は周到な作戦をとった。犬居城本体へ直接攻撃を仕掛けるのではなく、まず時間をかけて周辺に点在する天野氏の支城や砦を一つずつ確実に攻略し、犬居城を完全に孤立させる「外堀を埋める」戦術を展開したのである 4 。
長篠の敗戦で大きな痛手を被った武田勝頼に、遠方の犬居城へ大規模な援軍を送る余力はもはやなかった。外部からの支援を断たれ、徳川軍の圧倒的な物量の前に、天野藤秀は籠城戦では勝ち目がないと判断。天正四年(1576年)、一族郎党を率いて犬居城を放棄し、武田勝頼を頼って甲斐国へと落ち延びた 4 。これにより、鎌倉時代から約350年にわたって北遠に君臨した名門・遠江天野氏はその本拠地を失い、国人領主としての歴史に終止符を打った 2 。
甲斐へ逃れた天野藤秀と嫡男・景康は、天正十年(1582年)に武田氏が滅亡すると、今度は関東の後北条氏に仕官し、武蔵八王子城主・北条氏照の配下となった 4 。景康は下野国小山城の防衛戦などで武功を挙げたとされるが、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、その後の天野一族の消息は歴史の表舞台から消え、定かではない 4 。
第四部:歴史的遺産として
第九章:史跡・犬居城跡の現状と価値
戦いの時代が終わり、江戸時代を通じて廃城となっていた犬居城跡は、戦国末期の山城の姿を良好に留める貴重な歴史遺産として、昭和60年(1985年)3月19日に静岡県の史跡に指定された 5 。指定範囲は東西約600メートル、南北約650メートルに及び、曲輪、土塁、堀切、横堀、竪堀といった遺構が現在でも明瞭に確認できる 12 。特に、武田流築城術の粋が凝縮された東曲輪周辺の防御施設群は、この城の最大の見どころである 20 。
現在、城跡の中心部を東海自然歩道が通過しており、ハイキングコースとして整備されているため、主郭部へのアクセスは比較的容易である 23 。しかし、歩道から外れた曲輪や堀の遺構は、季節によっては草木に覆われ、観察が困難な場合もあるとの報告がなされている 9 。また、物見曲輪に設置された展望台は、眺望は素晴らしいものの、老朽化が進んでいるという指摘もある 20 。
犬居城跡の歴史的価値をさらに高めるためには、今後の調査・研究が不可欠である。特に、これまで一度も本格的な学術的発掘調査が行われていない点は、大きな課題と言わざるを得ない。周辺の同時代の城郭、例えば諏訪原城や二俣城では発掘調査が実施され、徳川氏による改修の実態や、出土した瓦、陶磁器、鉄砲玉などから、城の具体的な構造や戦闘の激しさが科学的に裏付けられている 27 。
犬居城跡で発掘調査を行えば、現在、縄張りの形態的特徴から「武田流」と推定されている遺構が、実際にいつ、誰によって築かれたのかを土層の分析から科学的に特定できる可能性がある。また、堀底や曲輪から武具の破片や焦土層などが発見されれば、天正二年と四年の二度にわたる攻防戦の具体的な様相を復元する上で、これ以上ない第一級の史料となるであろう。このような調査が未実施である現状は、遠江における武田・徳川の城郭攻防史研究において、埋められるべき大きな空白であり、極めて重要な機会損失となっている。
第十章:地域に息づく記憶
犬居城は物理的な城郭としては廃されたが、その記憶は地域の文化や伝承の中に今なお生き続けている。
「犬居」という特徴的な地名の由来については諸説あるが、一説には、この山深い地が修験道とも関わりが深く、超人的な存在である「天狗」が守護する(居る)場所であったことに由来するという解釈がなされている 7 。
また、城下の犬居地区では、毎年5月5日に「犬居のつなん曳」という勇壮な祭礼が執り行われる。これは、かつて気田川の氾濫で村が危機に瀕した際、巨大な龍が現れて洪水を防いだという伝承に基づくもので、龍を模した巨大な「蛇体」を地域で引き回し、最後に川へ奉納するものである 49 。この祭礼は、城と共に川の恵みと脅威に晒されながら生きてきた地域住民の、治水への切実な願いと自然への畏敬の念が込められた、貴重な無形民俗文化財である。
さらに、犬居城の気田川対岸には、明応二年(1493年)に天野氏が開基となって建立された菩提寺・瑞雲院が現存する。境内には今も天野一族の墓所が静かに佇んでおり、城が歴史の中に消えた後も、この地を治めた一族の記憶を現代に伝え続けている 4 。
終章:犬居城が語る戦国時代
遠江犬居城は、全国的に見れば決して大規模な城郭ではない。しかし、その歴史と構造には、戦国という激動の時代を生きた国人領主の苦悩と栄光、そして当代随一と謳われた軍事技術の粋が、類い稀な密度で凝縮されている。
天野藤秀という一人の武将の生涯を軸にその歴史を追うとき、我々は、大名中心の歴史観では見過ごされがちな、国人領主の主体的かつ戦略的な生き様を目の当たりにする。彼らは決して大名の駒として受動的に動いていたのではなく、自らの才覚と情報網を駆使し、一族の存続をかけて能動的に未来を切り開こうとしたプレイヤーであった。犬居城は、その闘いの舞台であり、証人なのである。
城郭史の観点から見れば、犬居城は、武田信玄の先進的な築城術が、地方の国人領主の城にいかに適用され、その防衛能力を飛躍的に向上させたかを示す、極めて重要な実例である。馬出、枡形、横堀、竪堀を巧みに組み合わせたその技巧的な縄張りは、戦国末期の緊迫した軍事情勢が生み出した、機能美の一つの極致と言えよう。小規模ながらも時代の最先端技術を取り込み、大軍を一度は退けたこの山城は、戦国時代の多様性と奥深さを我々に教えてくれる、かけがえのない歴史遺産である。
引用文献
- どこにいた家康 Vol.20 犬居城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/11702
- 天野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F
- 駿河侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E4%BE%B5%E6%94%BB
- 犬居城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/hokuen/inui.j/inui.j.html
- 犬居城(静岡県浜松市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/s/4120
- 【大河ドラマ連動企画 第20話】どうする藤秀(天野藤秀)|さちうす - note https://note.com/satius1073/n/n44763aa3b07c
- 遥か昔に行った「天狗の居る城」? 犬居城 - daitakuji 大澤寺 墓場放浪記 https://www.daitakuji.jp/2017/04/26/%E9%81%A5%E3%81%8B%E6%98%94%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%A4%A9%E7%8B%97%E3%81%AE%E5%B1%85%E3%82%8B%E5%9F%8E-%E7%8A%AC%E5%B1%85%E5%9F%8E/
- 犬居城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/021shizuoka/126inui/inui.html
- 遠江 犬居城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/inui-jyo/
- 犬居城(静岡県浜松市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4120
- 静岡の城 犬居城 https://shiro200303.sakura.ne.jp/Inui-Jo.html
- 犬居城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/inui.htm
- 犬居城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.inui.htm
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- 犬居城跡 | 浜松情報BOOK http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4cfd9fedae0a7.html
- 【犬居城】の御城印や駐車場、東曲輪の空堀や土橋などの見どころを紹介! https://okaneosiroblog.com/sizuoka-inui-castle/
- 犬居城 笹ヶ嶺城 鶴ヶ城 光明城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/sizuoka/hamamatusitenryu.htm
- 犬居城の写真:縄張図[さとぴよさん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1252/photo/228114.html
- 犬居城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1482
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- お城の歴史 戦国時代④ 武田流築城術ー戦国最強軍団の城とは? - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/sengoku4/
- 「信玄は城を築かなかった」はウソ!武田信玄が城に仕掛けた難攻不落の工夫とは | サライ.jp https://serai.jp/hobby/176924
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- 【新コラム】「なにぶん歴史好きなもので」難攻不落の高天神城に隠されたミステリーとは!? - 静岡新聞 https://www.at-s.com/life/article/ats/1348313.html
- 犬居城の見所と写真・100人城主の評価(静岡県浜松市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1252/
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