最終更新日 2025-08-24

獅子ケ城

肥前国境の要衝、獅子ケ城は源平期に築かれ、戦国期には龍造寺氏の脅威に対抗する鶴田氏の拠点。豊臣政権下で寺沢広高が近世城郭に大改修するも、一国一城令で廃城。白米伝説が伝わるこの城は、中世から近世への築城技術の変遷を示す貴重な史跡。

肥前国境の要衝:獅子ケ城の興亡と戦国時代の記憶

序章:肥前国境の要衝、獅子ケ城

佐賀県唐津市厳木町にその遺構を残す獅子ケ城(ししがじょう)は、別名を鹿家城、獅子城、あるいは猪ヶ城とも呼ばれる中世から近世初期にかけての山城である 1 。標高228メートルの白山山頂に位置し、その周囲を急峻な崖に囲まれた天然の要害として知られる 3 。地理的には、有明海と玄界灘の分水界に近接するこの地は 3 、肥前国における諸勢力の境界線上にあり、その戦略的重要性から歴史の荒波に翻弄され続ける宿命を負っていた。

本報告書は、この獅子ケ城を単なる一介の城郭としてではなく、日本の歴史が大きく動いた約400年間の権力構造の変遷を映し出す「鏡」として捉え、その実像に迫ることを目的とする。平安時代末期、源平争乱の最中に松浦党の手によって「土の城」として産声を上げたこの城は、戦国時代の動乱の中で龍造寺氏の脅威に対する最前線基地として蘇り、最終的には豊臣政権下の新たな大名によって「石の城」へとその姿を大きく変貌させた。この一連の変遷は、在地領主の興亡、築城技術の進化、そして中央集権化の波という、日本の歴史における重要な転換点を凝縮して示している。

獅子ケ城の最大の特質は、特定の時代にのみ機能したのではなく、源平期、戦国期、江戸初期という三つの異なる時代において、その時々の戦略的要請に応じて構造と役割を変化させ続けた「積層的歴史遺構」である点にある。築城主である源氏、戦国期の城主である鶴田氏、そして近世の改修者である寺沢氏という三者の関与は、単なる城主の交代劇ではない 3 。それは、在地勢力同士の局地的な争いに対応するための中世山城から、織豊系大名の支城ネットワークの一翼を担う近世城郭へと、城の機能そのものが根本的に変質していく過程を物語っている。したがって、獅子ケ城に残された土塁、堀切、そして石垣といった遺構は、異なる時代の戦略思想が幾重にも重なった歴史の地層であり、これを丹念に読み解くことで、肥前国境で繰り広げられた権力闘争の実態と、それを支えた築城技術の変遷を明らかにすることができるのである。

本報告書の構成を理解するため、まず獅子ケ城に関わる主要な歴史的出来事を以下の年表に示す。


【表1:獅子ケ城 関連年表】

年代(西暦)

主な出来事

関連人物・勢力

城主

治承年間 (1177-1181)

源披により獅子ケ城が築城される 3

源披(松浦党)

源氏

治承-文治年間以降

源持の代に平戸へ移転し、長期間廃城となる 3

源持

(不在)

天文14年 (1545)

龍造寺氏の脅威に対抗するため、鶴田前が城を再興・改修する 2

鶴田前、波多氏、龍造寺隆信

鶴田氏

天文-天正年間 (1544-1592頃)

龍造寺氏による度重なる攻撃を受けるも、これを撃退。後に和睦する 2

鶴田前、鶴田賢、龍造寺隆信

鶴田氏

文禄2年 (1593)

主家である波多氏が豊臣秀吉により改易される 5

豊臣秀吉、波多親

鶴田氏

文禄2-3年頃 (1593-1594)

鶴田賢が城を退去し、再び廃城となる 2

鶴田賢

(不在)

慶長年間 (1596-1615)

唐津藩主となった寺沢広高が、城を石垣造りの近世城郭へと大規模改修する 5

寺沢広高

寺沢氏(家臣)

元和元年頃 (1615)

江戸幕府の一国一城令により廃城となる。麓に古城番が置かれる 5

徳川幕府

(廃城)

平成3年 (1991)

3月30日、「獅子城跡」として佐賀県の史跡に指定される 1

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第一部:源平争乱期における誕生と松浦党

第1章:築城主・源披と草創期の獅子ケ城

獅子ケ城の歴史を語る上で、その母体となった武士団「松浦党」の存在は不可欠である。松浦党は、長崎県北部から佐賀県北部のリアス式海岸が続く一帯を本拠とした、日本史上でも特異な性格を持つ「海の武士団」であった 10 。彼らは複雑な海岸線と無数の島々を巧みに利用し、漁業や日宋貿易など海を介した経済活動を基盤として勢力を形成した。その出自は嵯峨源氏の流れを汲むとされ、多くの庶流に分かれながらも緩やかな連合体を形成し、地域の支配を確立していった。

獅子ケ城が歴史の表舞台に登場するのは、源氏と平家が国の覇権を争った治承年間(1177年~1181年)、まさに源平争乱の渦中であった 3 。築城主は、松浦党の祖とされる源久の孫、峯五郎源披(みなもとのひらき)と伝えられている 5 。この時期の築城は、全国的な内乱の中で在地領主たちが自らの所領を防衛する必要に迫られた結果であり、獅子ケ城もまた、松浦党の勢力圏を守るための拠点として築かれたと考えられる。当時の城の姿を具体的に示す史料は残されていないが、戦国期のような石垣はなく、自然の地形を最大限に活用し、土塁や空堀、木柵などを組み合わせた簡素な砦であったと推察される 13

しかし、草創期の獅子ケ城が戦略拠点として恒久的に機能することはなかった。披の子である源持の代になると、一族は本拠をさらに西方の平戸へと移転する 3 。これにより、獅子ケ城は築城からさほど時を経ずして放棄され、その後数百年にわたって歴史からその名を消すこととなる。この事実は、平安末期の段階では、厳木周辺が松浦党にとって最重要拠点ではなく、あくまで広大な勢力圏内の一拠点に過ぎなかったことを示唆している。この城が再び歴史の最前線に躍り出るためには、戦国時代という新たな動乱の時代を待たねばならなかった。

第二部:戦国動乱と最前線基地への変貌

第2章:蘇る要塞 ― 鶴田氏の入城と龍造寺氏の脅威

数百年の眠りを経て獅子ケ城が再びその戦略的価値を見出されるのは、16世紀中盤、肥前国に「肥前の熊」と後に恐れられることになる龍造寺隆信が台頭したことに端を発する。龍造寺氏はもともと肥前東部の国衆の一人に過ぎなかったが、隆信の代に急速に勢力を拡大し、肥前統一、さらには九州北部へとその覇権を伸ばそうとしていた 14 。この龍造寺氏の膨張は、肥前北西部の上松浦地方を支配していた波多氏を盟主とする松浦党一統にとって、自らの存亡に関わる直接的な脅威となった 17 。龍造寺氏の勢力圏と松浦党の支配域が、まさに獅子ケ城の存在する厳木周辺で境を接することになり、この地は一気に軍事的緊張の最前線へと変貌したのである。

この切迫した状況下で、松浦党は龍造寺氏の侵攻を食い止めるための防衛拠点として、長年廃城となっていた獅子ケ城の地理的優位性を再認識する 5 。そして天文14年(1545年)、波多氏をはじめとする松浦党一統は、勇将として誉れ高かった鶴田兵庫介前(つるた さき/すすむ、後に越前守)を城主に任じ、獅子ケ城を再興・改修させた 2 。この時の改修は、土塁を高くし、堀切を深くするなど、龍造寺軍の攻撃に耐えうる本格的な戦闘拠点として城を蘇らせるものであったと考えられる。

ここで注目すべきは、城主に任じられた鶴田前が、鶴田一族の当主(嫡流)ではなく、分家(庶流)の人物であったという点である。佐賀県の重要文化財に指定されている「鶴田家文書」によれば、鶴田氏は伊万里市大河野の日在城を本拠とする嫡流(因幡守勝の系統)と、獅子ケ城を拠点とした庶流(越前守前の系統)に分かれていたことが確認できる 18 。鶴田前は、嫡流当主である鶴田因幡守勝の叔父にあたる人物であった 18 。獅子ケ城は、龍造寺氏との衝突が避けられない極めて危険な最前線である。このような場所に一族の跡継ぎである嫡流の当主を配置することは、一族全体の存続を危うくする大きなリスクを伴う。一方で、防衛線を維持するためには、武勇に優れた有能な指揮官が不可欠であった。このことから、松浦党の盟主・波多氏は、鶴田一族の中から武勇で名高い庶流の「前」を抜擢し、最前線の城を任せるという、極めて合理的かつ戦略的な人事を行ったと推察される。これは、嫡流の血筋を安全な後方で温存しつつ、能力の高い庶流家を防衛の最前線に配置することで、勢力圏全体の防衛力を最大化し、かつリスクを分散するという、松浦党という武士団連合の巧みな生存戦略を如実に示す事例と言えよう。

第3章:龍造寺軍との攻防

再興された獅子ケ城は、直ちにその真価を問われることとなる。城主となった鶴田前は、肥前統一を目指す龍造寺隆信の猛攻に幾度となく晒された。伝承によれば、天文13年(1544年)には龍造寺軍の攻撃があったが、これは失敗に終わったとされる 3 。翌天文14年(1545年)には一時的に城を5日間占領されるという危機に陥るも、鶴田勢はこれを奪回することに成功した 3 。さらに永禄年間(1558年~1570年)には、同じ松浦党でありながら時に敵対した波多氏による攻撃も撃退しており、獅子ケ城が鶴田前の指揮下で堅固な防衛拠点として機能していたことが窺える 3

しかし、圧倒的な兵力で迫る龍造寺氏との攻防は熾烈を極めた。激しい戦闘の末、両者は和睦へと至る 2 。この和睦は、鶴田氏が龍造寺氏の軍事力を認めざるを得なかった結果であると同時に、完全な従属ではなく、一定の自立性を保とうとする在地領主の粘り強い交渉の産物であった。この和平交渉の過程では、鶴田前の弟である鶴田勝が重要な役割を果たした可能性が示唆されている 20 。この時期の肥前国では、多くの国衆が龍造寺氏に対して起請文を提出し、その支配下に入っており 15 、鶴田氏の和睦もまた、巨大勢力の狭間で生き残りを図るための現実的な選択であった。

鶴田前の死後、家督は子の鶴田上総介賢(かたし)が継いだ 5 。賢の時代には、主家である波多氏が龍造寺隆信の勢いに屈し、事実上の従属関係に入ったため 17 、獅子ケ城と鶴田氏もまた、龍造寺氏の勢力圏に組み込まれていくこととなった。

第4章:豊臣政権と城の終焉

戦国時代の獅子ケ城に最後の転機をもたらしたのは、龍造寺氏との局地的な戦闘ではなく、日本全土を巻き込む中央政権の動向であった。天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われ、九州の諸大名はその支配下に組み込まれた。獅子ケ城主・鶴田氏の主家である波多親も、秀吉から所領を安堵され、豊臣大名の一員となった 17

しかし、文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)が、波多氏の運命を暗転させる。秀吉は肥前名護屋に巨大な城を築き、全国の大名を動員して朝鮮半島へ出兵させた。この際、波多氏は秀吉の命令に従わなかった、あるいは不手際があったとしてその怒りを買い、文禄2年(1593年)、所領没収の上、改易という厳しい処分を受けることとなった 5

主家の突然の改易は、その家臣であった鶴田氏の運命をも決定づけた。城主・鶴田賢は、主君を失ったことで獅子ケ城の領有権を失い、一族と共に城を退去せざるを得なくなった 5 。その後、賢は龍造寺一門の多久安順に仕え、東多久へと移り住んだとされる 2 。こうして、龍造寺軍の猛攻にも耐え抜いた「鉄壁の堅城」 7 は、一度の籠城戦を経ることもなく、中央権力者の一声によって、再び歴史の舞台から姿を消したのである。

この出来事は、一個の城の歴史に留まらない、より大きな時代の転換を象徴している。獅子ケ城の二度目の廃城は、地域の武力紛争によってその趨勢が決まる戦国時代が終わりを告げ、天下人である豊臣秀吉の政治的決定が地方の在地領主の運命を左右する、強力な中央集権体制が確立されたことを如実に示している。在地領主(国衆)が自立性を失い、近世的な大名領国制へと移行していく歴史の画期を、獅子ケ城の運命は静かに物語っているのである。

第三部:城郭構造の徹底解剖

第5章:天然の要害 ― 地形を活かした縄張り

獅子ケ城の堅固さは、その巧みな縄張り(城の設計・配置)に負うところが大きい。城が築かれた白山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた独立峰であり、山そのものが巨大な防御施設として機能している 4 。訪問者からは「巨石がゴロついたワイルドな構造」 22 と評されるように、人の手を加える以前から、敵の接近を容易に許さない天険の地であった。城の設計者は、この自然地形を最大限に活用し、防御効果を極限まで高めることを意図した。

城の主要部分は、山頂から尾根にかけて配置された複数の曲輪(平坦地)によって構成されている。現地の案内板に設置された縄張り図によれば 5 、城の中核を成すのは、西の山頂部に位置する

本丸 である。本丸の東側には、籠城の生命線である水を確保するための 井戸曲輪 が隣接し、さらにその東に 二の丸 が配されている。これらの主要な曲輪群を取り囲むように、南北に分かれた広大な 三の丸 が展開する。また、本丸の南下には 一の曲輪 二の曲輪 が階段状に設けられ、防御を固めている。さらに、主郭部から少し離れた東側の尾根には、前線基地としての役割を担った 出丸 も確認できる 2 。これらの曲輪は、それぞれが岩盤や急斜面によって巧みに区画され、独立した防御区画として機能しつつ、全体として有機的に連携する、緻密な防御体系を構築していた。

第6章:遺構から読み解く防御施設

獅子ケ城跡には、今なお往時の激しい攻防を偲ばせる多種多様な防御遺構が良好な状態で残されている。これらの遺構は、戦国時代の山城が持つ実践的な防御思想を雄弁に物語っている。

  • 堀切と竪堀: 獅子ケ城が中世山城としての性格を色濃く残していることを示すのが、堀切と竪堀の存在である。 堀切 は、尾根筋を人工的に深く掘り下げて分断し、尾根伝いに進んでくる敵の進軍を阻止するための施設である 1 。特に、二の丸と井戸曲輪の間に見られる堀切は、巨大な岩盤を削り取って造られたものであり、その構築に多大な労力を要したことが窺える 5 。かつてはこの堀切に橋が架けられ、両曲輪間の連絡路となっていたと考えられている 5 。また、城の斜面には、敵兵が横方向に移動するのを妨げるための溝状の遺構である
    竪堀 も確認でき 2 、立体的な防御網が築かれていたことがわかる。
  • 虎口(城門): 城の出入り口である虎口は、敵の攻撃が集中する最も重要な防御拠点である。獅子ケ城には、本丸や三の丸に石垣を伴う虎口の跡が明瞭に残っている 2 。特に、三の丸北側の虎口は、石垣で四角く囲み、進入した敵を三方から攻撃できるように設計された
    枡形虎口 の形式をとっており 9 、単なる通路ではなく、敵を誘い込んで殲滅するための高度な戦術思想が反映されている。
  • 井戸曲輪: 山城における籠城戦で最も重要な要素は、水の確保である。獅子ケ城には 井戸曲輪 と呼ばれる専用の区画が設けられ、そこには岩盤をくり抜いて作られた井戸が現存している 5 。この井戸の存在は、獅子ケ城が一時的な避難場所ではなく、長期間の籠城を想定した恒久的な軍事拠点として設計されていたことを示す決定的な証拠である。
  • 建築遺構: 城内の岩盤上には、かつて櫓や城兵の詰所といった建物が存在したことを示す痕跡が残されている。建物の土台となる礎石を置くために岩盤を削った溝や、柱を立てた穴(柱穴)などが各所で確認されており 12 、唐津市教育委員会による発掘調査でも、本丸や井戸曲輪からこれらの建築遺構が検出されている 24 。これらの痕跡は、今は失われた城の立体的な姿を復元する上で、極めて貴重な手がかりとなっている。

第四部:近世城郭への大改修と終焉

第7章:唐津藩主・寺沢広高による石垣の城への改造

文禄の役後、波多氏の改易に伴って廃城となっていた獅子ケ城に、三度目の、そして最後の大規模な変革が訪れる。新たにこの地を治めることになったのは、豊臣秀吉の家臣であり、唐津藩の初代藩主となった寺沢広高であった 5 。広高は、唐津湾に面した満島山に自身の居城として唐津城の築城を開始するが 26 、それと並行して、領内の要衝であった獅子ケ城を重要な支城と位置づけ、大規模な改修に着手した 3

この改修の最大の特徴は、城の主要部分を高く堅固な石垣で固め、中世的な「土の城」から近世的な「石の城」へと、その姿を根本的に変貌させた点にある。現在、獅子ケ城跡で目にすることができる壮麗な石垣群は、そのほとんどがこの寺沢氏の時代に築かれたものである 8 。石材には加工を施した切石が用いられ、高く、そして垂直に近い角度で積み上げるその技術は、鶴田氏時代の土塁中心の城とは一線を画す、まさしく近世城郭の技術であった 9

寺沢広高がこのような高度な築城技術を獅子ケ城に導入できた背景には、彼自身の経歴が深く関わっている。広高は、秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた巨大軍事要塞「肥前名護屋城」の普請奉行(建設責任者)を務めた人物であった 27 。名護屋城は、全国の大名を動員し、当時の最新技術を結集して短期間で築かれた、織豊系城郭の一つの頂点ともいえる城である 30 。広高はこの巨大プロジェクトを指揮する中で、最新の石垣技術や縄張り思想を直接学び、実践する機会を得た。獅子ケ城に見られる織豊系の築城技術 13 は、まさに広高が名護屋城の築城で得た知見と技術を、自らの領国経営に応用した結果に他ならない。唐津城の築城にあたって名護屋城の解体資材が転用されたという説があるように 27 、獅子ケ城の改修は、いわば「名護屋城プロジェクト」が生んだ技術的遺産のスピンオフであったと言える。これは、中央で培われた最新の軍事土木技術が、一地方の支城にまで移植されたことを示す重要な事例である。

興味深いことに、寺沢氏は波多氏のかつての本拠であった岸岳城も同様に石垣で改修し、支城として再利用している 31 。獅子ケ城と岸岳城に残る石垣の技術や曲輪の配置を比較分析することは、唐津藩の支城ネットワーク全体を貫く、寺沢氏の戦略思想や防衛構想を解明する上で重要な視点を提供するであろう。

第8章:一国一城令と廃城後の獅子ケ城

寺沢広高によって近世城郭として生まれ変わった獅子ケ城であったが、その新たな役割も長くは続かなかった。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川の世が盤石になると、江戸幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これにより、大名が複数の城を持つことで幕府に反抗する軍事力を蓄えることを防ごうとしたのである。

この法令に基づき、唐津藩の支城であった獅子ケ城もその歴史的役割を終え、破却・廃城となった 4 。これが獅子ケ城にとって三度目の、そして最終的な廃城であった。しかし、寺沢氏は城を完全に放棄したわけではなかった。城跡が反乱分子などの拠点として再利用されることを警戒し、麓の岩屋村に「古城番」と呼ばれる監視役の武士を常駐させたのである 5 。これは、廃城後もその軍事的潜在能力を幕府と藩が共に認識していたことを示しており、近世大名による周到な領内管理体制の一端を垣間見ることができる。

獅子ケ城の約400年にわたる変遷は、以下の表のようにまとめることができる。


【表2:獅子ケ城の時代別特徴比較】

時代区分

戦略的役割

城郭構造(主材料)

防御思想

源氏・草創期

在地領主(松浦党)の所領防衛拠点

土、木(土塁、柵)

自然地形への依存。局地的な防衛。

鶴田氏・戦国期

対龍造寺氏の最前線基地

土、木(土塁、堀切、竪堀)

尾根筋の分断と斜面の活用による、敵の進軍阻止を主眼とした実践的防御。

寺沢氏・近世改修期

唐津藩の支城ネットワークの一角

石(高石垣)、瓦

織豊系技術の導入。敵を迎え撃ち、殲滅するための積極的・立体的防御。


第五部:伝説と史跡としての現代的価値

第9章:籠城戦の奇計 ―「白米伝説」を巡る考察

獅子ケ城には、その歴史を彩る一つの興味深い伝説が語り継がれている。それは、鶴田氏が龍造寺軍に包囲され、籠城戦の最中に城内の井戸水が枯渇してしまった時のことである。絶体絶命の窮地に陥った城兵たちは、残された最後の白米を馬の背にかけ、あたかもそれが豊富な水であるかのように見せかけて馬を洗うふりをした。これを見た麓の龍造寺軍は、「あの城にはまだ水が潤沢にある」と判断し、攻略を諦めて包囲を解いた、というものである 8

この「白米城伝説」と呼ばれる物語は、獅子ケ城固有のものではなく、日本全国各地の城郭に類話が残る、籠城戦にまつわる典型的な伝説の一つである 34 。史実としてこの出来事があったことを証明することは困難であり、むしろ物語としての側面が強い。では、なぜこの伝説が獅子ケ城に結び付けられたのであろうか。

その背景には、史実を超えた地域の人々の記憶と誇りが存在すると考えられる。この伝説は、史実性の追求以上に、龍造寺氏という強大な敵の猛攻に屈することなく、知恵と勇気で立ち向かった郷土の英雄・鶴田氏の不屈の精神を象徴する物語として、地域社会の中で語り継がれてきた文化的記憶遺産と解釈することができる。実際に獅子ケ城が龍造寺軍の攻撃に何度も耐え抜いたという史実が、物語としてより劇的に、より英雄的に語られる過程で、「白米で馬を洗う」という印象的な奇計のモチーフが結びついたのであろう。この伝説は、単なる昔話として消費されるのではなく、郷土の先人たちが困難に立ち向かった証として、地域住民のアイデンティティを形成する一助となってきた可能性がある。したがって、この伝説を分析することは、城の物理的な歴史だけでなく、人々の心の中に生き続ける「精神的な歴史」を理解することにも繋がるのである。

第10章:現代に生きる獅子ケ城

幾多の歴史的変遷を経て、獅子ケ城はその軍事的役割を終えたが、歴史遺産としての価値を失ったわけではない。1991年(平成3年)3月30日、城跡は「獅子城跡」の名称で佐賀県の史跡に指定され、その歴史的重要性は公的に認められることとなった 1 。獅子ケ城跡の最大の価値は、中世山城の構造と、それが近世城郭へと改修されていく過程を、一つの場所で同時に観察できる点にある。土塁や堀切といった中世の遺構と、寺沢氏が導入した壮大な石垣群が共存する様は、日本の城郭史の転換点を体現する貴重な学術資料と言える。

現在、城跡は地域住民や行政によって大切に保存されている。麓から三の丸下の駐車場まで車道が通じており、そこからは見学者のための遊歩道が整備されているため、比較的容易に主郭部まで到達することが可能である 5 。また、城内の各所には縄張り図を含む詳細な解説板が設置されており、訪問者が遺構の役割や歴史的背景を深く理解するための助けとなっている 5

さらに、唐津市教育委員会による複数回にわたる発掘調査が実施されており、本丸や出丸、井戸曲輪などで建物の痕跡が確認されるなど、考古学的な側面からも城の実像解明が進められている 24 。これらの学術調査の成果は、文献史料だけでは知り得ない、城の具体的な利用状況や構造の変遷を明らかにし、獅子ケ城の歴史的価値をさらに高めている。

終章:獅子ケ城が物語る肥前国境の歴史

本報告書で詳述してきたように、佐賀県唐津市に佇む獅子ケ城は、単なる過去の遺物ではない。それは、源平争乱の時代に国境の砦として生まれ、戦国時代には地域の存亡をかけた最前線基地として蘇り、近世初頭には中央から もたらされた最新技術によってその姿を一変させ、そして時代の要請と共に静かにその役目を終えていった、まさに肥前国境の動乱史を体現する記念碑である。

この城の歴史は、日本の歴史における大きな転換点をその身に刻んでいる。源披による築城は、武士が台頭し、自らの所領を自らの力で守り始めた時代の幕開けを告げる。鶴田氏による再興と龍造寺氏との攻防は、下剋上が常であった戦国時代における在地領主の熾烈な生存競争を物語る。そして、豊臣政権による主家・波多氏の改易は、地方の論理が中央の政治力によって覆される時代の到来を、寺沢広高による石垣の城への大改修は、織豊政権下で確立された新たな築城技術が全国へと波及していく様を、そして一国一城令による廃城は、徳川幕府による盤石な支配体制が確立されたことを、それぞれ象徴している。

獅子ケ城の遺構は、過去の戦略思想や築城技術、そしてこの地で生きた人々の営みを、今なお雄弁に物語る。急峻な崖に築かれた曲輪、尾根を断ち切る深い堀切、そして天を突くようにそびえる石垣は、後世に生きる我々に対し、肥前国境で繰り広げられた歴史のダイナミズムを伝える、極めて貴重なメッセージなのである。

引用文献

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  2. 獅子ヶ城 - ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kyusyu/saga/sisi.html
  3. 獅子ケ城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%85%E5%AD%90%E3%82%B1%E5%9F%8E
  4. 肥前 獅子ヶ城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/shishiga-jyo/
  5. 獅子ヶ城/戦国の城を訪ねて http://oshiromeguri.net/shishigajo.html
  6. 獅子ケ城の見所と写真・100人城主の評価(佐賀県唐津市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/624/
  7. 肥前獅子ヶ城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/sisi.htm
  8. 獅子ヶ城跡 - 旅Karatsu 唐津観光協会 https://www.karatsu-kankou.jp/sp/spots/detail/204/
  9. 獅子ヶ城 久保館 相知氏館 梶山城 中山氏館 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/saga/karatusi02.htm
  10. 松浦党の紋と梶の葉がついた旗 (平戸松浦史料博物館蔵) - 源久を祀った遥拝墓 (伊万里市東山代町川内野) - 佐賀県 https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_7_201634151023.pdf
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  12. 獅子ヶ城 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kyusyu/shishiga/shishiga.html
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  17. 武家家伝_波多氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html
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  19. 武雄市の文化財-鶴田家文書 https://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/bunkazai/pages/bunkazai/bunkazai-329.htm
  20. 武家家伝_鶴田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wat_turu.html
  21. 著書『岸岳城盛衰記』より先生の思いをご紹介します - 洋々閣 http://www.yoyokaku.com/seisuiki.htm
  22. 【獅子城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_41383af2170019919/
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