北条早雲が築いた相模玉縄城は、関東の要衝として里見・上杉・武田の攻撃を退けた堅城。小田原征伐で無血開城、氏勝は家名を存続。廃城後も鎌倉の歴史を語る。
戦国時代、かつて武家政権の中心として栄華を極めた鎌倉は、その権威を失墜させ、荒廃の一途を辿っていた 1 。その地に、新たな時代の到来を告げるがごとく一つの城が築かれた。後北条氏の祖、北条早雲(伊勢宗瑞)が永正9年(1512年)に築城した玉縄城である。この城の建設は、単なる軍事拠点の構築に留まるものではなかった。それは、荒廃した古都・鎌倉の再興を誓い、自らが関東における新たな秩序の構築者であることを内外に宣言する、極めて象徴的な行為であった 1 。
早雲はこの年、鶴岡八幡宮に参拝し、その荒廃を嘆くとともに再興への強い意志を込めた一首の和歌を奉納している。
「枯るる木に 又花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ」 2
この歌は、物理的な鎌倉の復興のみならず、源頼朝以来の武家の都としての精神的権威を自らの手で甦らせようとする早雲の野心と政治的構想を雄弁に物語っている。彼の理想のもとに築かれた玉縄城は、やがて江戸城、川越城と並び「関東の三名城」と謳われるほどの堅城へと発展し 1 、『小田原記』においては「当国無双の名城」とまで称賛された 4 。本報告書は、この玉縄城がなぜかくも高く評価されたのか、その歴史的背景、戦略的重要性、城郭構造、そして城を巡る人々の動向を多角的に分析し、戦国史におけるその真の価値を解き明かすことを目的とする。
玉縄城の築城は、北条早雲による相模国平定事業の最終段階において、決定的な意味を持つ一手であった。永正9年(1512年)、早雲は長年の宿敵であった三浦道寸(義同)・義意父子を三浦半島先端の新井城へと追い詰めた。この protracted な攻囲戦を遂行するための恒久的な前線基地として、また敵方への援軍を遮断する戦略拠点として、玉縄の地に城が築かれたのである 2 。これに先立つ永正7年(1510年)、早雲は鎌倉に住吉城を築いたが、三浦氏の反撃により攻略されるという苦い経験をしていた 5 。この失敗が、より大規模で堅固な拠点たる玉縄城の築城計画を促した可能性は高い。
玉縄城が築かれた地は、鎌倉の防衛という戦術的役割と、後北条氏の関東支配という大戦略的役割を同時に満たす、絶妙な位置にあった。
第一に、鎌倉の西の玄関口に位置し、武家の古都の防衛拠点としての機能を有していた 7 。第二に、三浦半島の付け根を扼する(おさえる)ことで、半島全域への影響力を確保し、相模湾から江戸湾に至る海上交通路を監視する上で極めて有利な立地であった 8 。そして第三に、当時の主要幹線道路であった東海道と鎌倉を結ぶ交通の結節点でもあり、軍事的・経済的な要衝としての価値も高かった 9 。
玉縄城の戦略的価値をさらに高めていたのが、その水運機能である。城の東から南にかけて蛇行する柏尾川は、単に天然の外堀として防御に貢献しただけではなかった 4 。この川は舟運に利用可能であり、城から直接舟を繰り出して相模湾へ出ることができたとされている 7 。これにより、玉縄城は陸上の軍事拠点であると同時に、後北条氏が創設した水軍を統括する「内陸港」としての機能をも併せ持っていた 12 。
この陸海両用の機能は、特に房総半島を拠点とし、海上から頻繁に侵攻を試みてきた里見氏への対抗上、絶大な効果を発揮した。陸路の防衛と海からの迅速な出撃を一体的に運用できるこの先進的なハイブリッド戦略拠点としての性格こそが、玉縄城が約80年間にわたり、後北条氏の東部方面における最重要拠点であり続けた根源的な理由である。
また、玉縄城は小田原城を本拠とする後北条氏の広域防衛網においても中核をなす支城であった 13 。相模川以東の領国支配を安定させるため、後北条氏は三崎城(三浦郡)、津久井城(津久井郡)、小机城(武蔵国)といった支城を戦略的に配置したが、玉縄城はその中でも最大級の規模と重要性を誇る拠点として機能していたのである 14 。
玉縄城が「難攻不落」と称された理由は、その巧みな縄張(城の設計)にある。標高50メートルから80メートルの丘陵上に築かれた平山城であり、その城域は南北約1000メートル、東西約1200メートルにも及ぶ広大なものであった 4 。城の設計は、柏尾川の氾濫原に点在する丘陵と、深く切れ込んだ谷戸(やと)という複雑な自然地形を最大限に活用している点に最大の特徴がある 10 。その防御思想は、地形、縄張り、そして支城ネットワークという三層のシステムによって成り立っていた。
城の中心部である主郭(本丸)は、現在の清泉女学院のグラウンドおよび校舎が建つ場所に位置し、周囲を丘に囲まれた天然のすり鉢状地形の中心に置かれていた 10 。これにより、敵はどの方向から攻めても高所からの迎撃を受けることになる。
本丸の東に隣接する城内最高所には「諏訪壇」と呼ばれる方形の曲輪が存在した。ここには城の守護神として諏訪神社が祀られ、平時には精神的な支柱として、戦時には最高の見張り台として機能したと考えられている。天守を持たなかった玉縄城において、この諏訪壇が城の象徴的な空間であった可能性は高い 7 。
諏訪壇の北西には、出丸として機能した「けまりば(蹴鞠場)」、さらにその先には「月見堂」と称される曲輪が連なっていた。これらの曲輪群は、それぞれが幅の広い堀切によって厳重に分断されており、たとえ一つの曲輪が突破されても、連鎖的に中心部が陥落することを防ぐ設計となっていた 7 。
玉縄城への主要な登城路は、東側に設けられた「七曲坂」であった 20 。この坂道は大手口(正門)へと至る道であり、その名の通り何度も折れ曲がり、敵の進軍速度を削ぐと同時に、側面からの攻撃を容易にする構造となっていた。この七曲坂の防衛の要が、坂を登りきった高台に位置する「太鼓櫓」である。ここは合図の太鼓を打つ場所であると同時に、坂全体を見下ろす射撃陣地として機能し、敵にとっては最大の難関であった 7 。太鼓櫓の南側斜面下には、武器弾薬庫であったと推定される「焔硝蔵跡」も確認されている 19 。
一方、西側の防御線としては、急峻な「ふわん坂」が知られる。この坂は両側を高い尾根に挟まれた隘路(あいろ)となっており、坂道を進む敵を両翼から挟撃できる巧妙な構造であった 19 。
これらの防御施設を支える基礎として、城内各所には土塁が築かれていた。発掘調査では、築城当初に造られたとみられる幅8メートル、高さ1メートル規模の堅固な土塁も確認されており、城全体の防御力を高めていた 4 。
玉縄城の防御思想は、城郭本体に留まらない。その周囲には、龍宝寺城、岡本砦、長尾台砦(東方)、二伝寺砦、高谷砦(西方)といった複数の支城や砦が配置されていた 4 。これらの砦群は、玉縄城と一体となって広域的な防御ネットワークを形成し、敵が城本体に到達する前にこれを捕捉・迎撃する役割を担っていた。これは、城と城下町、さらには周辺の砦までを一体の防御圏と捉える「総構え」の概念であり、この重層的かつ有機的な防御システムこそが、上杉謙信や武田信玄といった当代の名将たちに正面攻撃を躊躇させた「堅城」たる所以であった。
玉縄城は、後北条氏一門の中でも特に重要な役割を担う者が城主を務める城であった。その城主一族は「玉縄北条氏」と称され、約80年間にわたり後北条氏の東部方面における軍事・政治の中核を担った 1 。その歴代城主の変遷は、後北条氏の巧みな一門支配戦略を映し出している。
初代城主には、北条早雲の次男である北条氏時が就いた 1 。彼の時代に、後述する里見氏の侵攻を撃退するなど、城の基礎が固められた。
氏時に実子がいなかったため、二代城主となったのが、後北条氏二代当主・氏綱の三男である北条為昌である 25 。為昌は宗家当主の実子として「御一家衆」という特別な地位にあり、宗家から絶大な信頼を寄せられていた。その権限は絶大で、玉縄領のみならず、三浦、小机、さらには武蔵国の河越領までも管轄し、後北条氏の東部方面軍司令官とも言うべき存在であった 25 。しかし、為昌は天文11年(1542年)に22歳の若さで早逝してしまう。
為昌の死後、玉縄城主を継いだのが、後北条氏随一の猛将として「地黄八幡(じきはちまん)」の異名をとった北条綱成である 1 。彼は常に「八幡大菩薩」と書かれた黄色の旗を背に戦ったことから、この名で呼ばれた 5 。
従来、綱成は為昌の養子とされてきたが、近年の研究ではこの説は否定され、綱成は氏綱の娘(大頂院殿)を妻とした娘婿、すなわち為昌の義兄であったとする説が有力となっている 25 。この関係性に基づけば、為昌の死後に彼が管轄していた広大な所領が分割され、綱成が玉縄領のみを継承したことは、不当な扱いではなく、宗家との血縁の濃淡に基づく合理的な措置であったと理解できる 25 。
綱成は北条一門の血を引かない外様でありながら、天文15年(1546年)の河越夜戦をはじめとする数々の合戦で卓越した武功を挙げた。その軍事的能力は宗家当主・氏康から深く信頼され、軍事のみならず外交においても重用されるなど、実力で「御一家衆」に準ずる地位を確立した稀有な武将であった 6 。
綱成の跡を継いだ四代城主・北条氏繁は、母が氏綱の娘、妻が氏康の娘(七曲殿)という二重の閨閥により、宗家において氏康の子息に準ずる高い地位にあった 25 。彼は鎌倉代官も兼任し、政治的手腕を発揮した一方で、「寝茶の湯」と呼ばれる、養生と楽しみを目的としたユニークな茶の湯を嗜む文化人としての一面も持っていた 26 。
氏繁の死後、家督は子の氏舜が継ぐが、彼もまた早世したとみられ、その弟である北条氏勝が六代城主となった 25 。この頃になると、玉縄北条氏の宗家における影響力は次第に低下していった。そして、氏勝の代に、玉縄城は最大の危機を迎えることになる。
表1:玉縄城 歴代城主一覧
代 |
城主名 |
在任期間(推定) |
宗家との関係 |
主要な事績 |
初代 |
北条 氏時(うじとき) |
1512年~1530年頃 |
北条早雲の次男 |
里見氏の鎌倉侵攻を撃退 |
二代 |
北条 為昌(ためまさ) |
1530年頃~1542年 |
北条氏綱の三男 |
御一家衆。玉縄・三浦・小机・河越を管轄 |
三代 |
北条 綱成(つなしげ) |
1542年~1571年頃 |
北条氏綱の娘婿(為昌の義兄) |
「地黄八幡」の猛将。河越夜戦で活躍。上杉謙信の攻撃を撃退 |
四代 |
北条 氏繁(うじしげ) |
1571年頃~1578年 |
綱成の嫡男、母は氏綱の娘、妻は氏康の娘 |
鎌倉代官を兼任。文化人としても知られる |
五代 |
北条 氏舜(うじきよ) |
1578年~1582年頃 |
氏繁の嫡男 |
早世したと推定される |
六代 |
北条 氏勝(うじかつ) |
1582年頃~1590年 |
氏繁の次男、氏舜の弟 |
豊臣秀吉の小田原征伐の際に無血開城 |
玉縄城の真価は、数々の実戦において証明された。その評価は、敵将たちの行動によって最も雄弁に物語られている。
玉縄城が築かれて間もない大永6年(1526年)、安房国の里見実堯(一説に義豊)が水軍を率いて鎌倉に侵攻した 27 。里見軍の勢いは凄まじく、鎌倉市街は大きな被害を受け、鶴岡八幡宮もこの時に兵火で焼失したと伝えられている 4 。しかし、里見軍は玉縄城を攻略するには至らなかった。城主・北条氏時は城から打って出て、戸部川(現在の柏尾川)付近で里見軍を迎え撃ち、激戦の末にこれを撃退することに成功した 29 。この戦いは、玉縄城が鎌倉防衛の最後の砦として有効に機能したことを示す最初の事例となった。この時の戦死者を弔うために築かれたのが、現在も残る「玉縄首塚」である 2 。
永禄4年(1561年)、越後の「軍神」上杉謙信が関東管領就任を大義名分とし、10万を超える大軍を率いて関東に出兵、後北条氏の本拠である小田原城を包囲した 32 。この未曾有の危機において、玉縄城も謙信の別動隊による攻撃に晒された。しかし、城主・北条綱成の巧みな指揮と、城そのものの堅固な防御力により、玉縄城は上杉軍の猛攻を完全に跳ね返した 5 。玉縄城をはじめ、滝山城、河越城といった後北条氏の支城ネットワークが一つも陥落することなく持ちこたえたことは、兵站に問題を抱えていた謙信を撤退に追い込む大きな要因となった 32 。当代最強と謳われた謙信の総攻撃に耐え抜いたこの一戦は、玉縄城の名を不動のものとした。
玉縄城の評価を決定づけたのが、甲斐の武田信玄の行動である。永禄12年(1569年)、信玄は駿河から相模に侵攻し、小田原城に迫った。その進軍経路上には玉縄城が存在したが、軍略の天才と称された信玄は、この堅城への攻撃を試みることなく、意図的に迂回して通過している 5 。これは、信玄が玉縄城の攻略には多大な時間と兵力の損耗を要し、戦略的に「割に合わない」と判断したことを意味する。敵将が戦うことすら避けたという事実は、玉縄城が単に物理的に堅固なだけでなく、戦局全体に影響を与えるほどの戦略的抑止力を持っていたことの何よりの証明であった。
数々の戦火を耐え抜いてきた難攻不落の玉縄城も、時代の大きなうねりには抗えなかった。天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉が20万ともいわれる大軍を率いて小田原征伐を開始した 5 。
当時、玉縄城主であった北条氏勝は、後北条氏の西の防衛線における最重要拠点、伊豆・山中城の守備を命じられていた。しかし、豊臣方の大軍の圧倒的な物量の前に、鉄壁を誇った山中城はわずか半日で落城するという衝撃的な敗北を喫する 5 。氏勝は責任を取り自刃しようとしたが、家臣に制止され、命からがら居城である玉縄城へと敗走した 33 。この山中城での惨敗は、氏勝に豊臣軍との戦力差が絶望的であることを痛感させ、後の決断に大きな影響を与えた。
玉縄城に戻り籠城の構えを見せた氏勝のもとに、豊臣軍の先鋒である徳川家康の軍勢が迫り、城を包囲した 4 。しかし、家康は力攻めを選択しなかった。彼は配下の猛将・本多忠勝に説得を命じ、忠勝は玉縄北条氏の菩提寺である龍寶寺の住職や、氏勝の叔父にあたる大応寺の良達和尚を仲介役として、氏勝に降伏を働きかけた 4 。武力による殲滅ではなく、宗教的権威を介した「説得」という手段は、氏勝に名誉を保った形での降伏の道筋を示すものであった。
圧倒的な戦力差を目の当たりにし、かつ名誉ある降伏の道を示された氏勝は、これ以上の抵抗は無益と判断。天正18年(1590年)4月21日、玉縄城の城門を開き、無血開城した 4 。
氏勝の決断は、単なる降伏に終わらなかった。彼はすぐさま徳川家康に仕え、豊臣方として、いまだ抵抗を続ける北条方の諸城(江戸城など)に使者として赴き、降伏を説いて回った 11 。これにより、関東各地での無用な流血が避けられ、小田原征伐の早期終結に貢献した。この功績が評価され、氏勝は戦後、家康から下総国岩富(現在の千葉県佐倉市)に1万石の所領を与えられ、近世大名として家名を存続させることに成功したのである 5 。滅びゆく主家に殉じるのではなく、現実的な判断で家名を未来に繋いだ氏勝の決断は、戦国武将の生存戦略の一つの典型例として評価できる。
後北条氏の滅亡と共に、玉縄城もまた新たな時代を迎える。その歴史は戦国時代の終わりと共に途絶えることなく、江戸時代、そして現代へと続いていく。
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は玉縄城を重視し、側近の本多正信、次いで水野忠守を城主として配置した 5 。しかし、徳川幕府の支配体制が確立する中で、慶長20年(1615年)に「一国一城令」が発布されると、玉縄城はその役割を終え、元和5年(1619年)に正式に廃城となった 3 。
城郭としての機能は失われたが、その後、城跡の南麓に徳川一門の松平正綱が陣屋を構え、玉縄藩が立藩された。しかし、この玉縄藩も三代藩主・松平正久が元禄16年(1703年)に上総国大多喜へ転封となったことで廃藩となり、玉縄の地は天領となった 7 。寛政4年(1792年)には、老中・松平定信が海岸防備のために玉縄城の再興を計画したが、彼の失脚により実現することはなかった 4 。
江戸時代を通じて比較的その姿を留めていた城跡も、近代以降、大きくその姿を変えることになる。特に、1950年代以降の急速な宅地開発は、城の遺構に深刻なダメージを与えた。決定打となったのは、昭和38年(1963年)の本丸跡への清泉女学院中学高等学校の建設であり、これにより城の中心部の地形は大きく改変され、多くの遺構が永遠に失われた 7 。
しかし、今なお城の面影を伝える遺構は各所に点在している。主要な登城路であった「七曲坂」や、その防衛拠点「太鼓櫓」、城の象徴であった「諏訪壇」に残る土塁、そして各曲輪を分断していた「堀切」などが、往時の姿を偲ばせている 7 。ただし、城跡の大部分が学校敷地や住宅地などの私有地となっているため、その見学は厳しく制限されているのが現状である 7 。
失われた城郭の姿を現代に蘇らせているのが、断続的に行われている発掘調査である。鎌倉市教育委員会などによる調査では、文献史料だけでは知り得ない貴重な情報が次々と明らかにされている 4 。
物理的な城郭の大半は失われたが、残された遺構と地中に眠る遺物、すなわち考古学的データは、玉縄城の新たな歴史像を我々に提示し続けている。それは、科学的な手法によって「見えなくなった城」を「再び見えるようにする」知的な挑戦である。
玉縄城主は、単なる一城の守将ではなかった。彼らは戦国時代における鎌倉の事実上の支配者であり、後北条氏の東部方面における領国経営の責任者であった 1 。その統治は、軍事力という「ハードパワー」と、宗教的権威や民心掌握という「ソフトパワー」を巧みに融合させたものであった。
玉縄城主は、「玉縄衆」と呼ばれる強力な家臣団を率いていた 4 。永禄2年(1559年)に作成された後北条氏の家臣団の知行役を記した『小田原衆所領役帳』にも、「玉縄衆」は小田原衆(本城直属)などと並ぶ独立した軍団として記載されており、その重要性がうかがえる 40 。玉縄衆は、玉縄城を拠点に相模東部から武蔵南部の防衛を担う、後北条氏の精鋭部隊であった。
玉縄北条氏による鎌倉統治の巧みさは、寺社の復興と保護政策に顕著に表れている。特に、二代当主・氏綱が主導し、玉縄城主も深く関与した鶴岡八幡宮の再建事業は、その象徴である 2 。これは単なる信仰心の発露ではなく、妻の実家を通じて奈良・興福寺の番匠を招聘するなど、国家的な一大プロジェクトとして遂行された 30 。この事業を通じて、後北条氏は自らが源頼朝以来の鎌倉の正統な支配者であることを内外に誇示し、その権威を確立しようとしたのである。
また、円覚寺や建長寺といった鎌倉五山の主要寺院に対しても、所領の寄進や朱印状の発給による寺内秩序の保証などを通じて関係を深め、その宗教的権威を領国支配の安定に利用した 30 。
後北条氏は、武威のみならず、民生の安定にも心を配った大名として知られる。その象徴が「四公六民」(収穫の4割を年貢とし、6割を農民の取り分とする)と称される比較的低い年貢率であり、民衆の負担を軽減する善政として評価されている 1 。玉縄城主たちもこの方針を受け継ぎ、鎌倉の町の整備や民心の安定に努めたと伝えられている 1 。さらに、後北条氏の領国では、河川の治水事業 44 や、飢饉などで逃亡した百姓が村に帰還した際に借財を免除する法令 45 など、領民の生活基盤を守るための先進的な政策が実施されていた。
このように、玉縄城を中核とする軍事力で地域を物理的に掌握しつつ、寺社復興を通じて精神的な求心力を高め、善政によって民衆の支持を獲得するという硬軟両様の統治術こそが、後北条氏が約80年もの長きにわたり、複雑な歴史を持つ鎌倉とその周辺地域を安定的に支配できた要因であった。
相模国玉縄城は、戦国時代という激動の時代において、単なる一軍事拠点を遥かに超える多層的な意義を持つ城であった。
第一に、後北条氏の関東支配、特に相模東部から三浦半島、そして武蔵国への勢力拡大において、約80年間にわたり軍事・政治・経済(水運)の中核を担った戦略拠点であった。その巧みな縄張と支城ネットワークは、上杉謙信、武田信玄という当代最強の武将たちの侵攻を許さず、「当国無双の名城」という評価を不動のものとした。
第二に、玉縄城は武家の古都・鎌倉を背景に、新たな支配者たる後北条氏の正当性を構築するための「象徴」であった。荒廃した鶴岡八幡宮の再建を主導し、鎌倉の秩序を回復させることで、後北条氏は自らを源氏以来の関東の支配者の後継者として位置づけた。玉縄城は、その権威と善政を領内に及ぼすための司令塔であった。
第三に、玉縄城を巡る人々の物語は、戦国時代の多様な武将像を映し出している。血縁によらず実力で成り上がった猛将・北条綱成の武功は、後北条氏の躍進を支え、最後の城主・北条氏勝が下した無血開城という現実主義的な決断は、一族を近世大名として存続させる道を開いた。
現代において、その物理的な城郭の多くは開発の波にのまれて失われた。しかし、断片的に残る遺構と、発掘調査によって地中から見出される数多の知見は、今なお我々に玉縄城の新たな歴史を語りかけている。玉縄城は、後北条氏の興亡、そして関東戦国史のダイナミズムを理解する上で不可欠な、歴史の証人であり続けている。