石見益田城は、戦国の世を生き抜いた益田氏の拠点。平時の館と戦時の城が一体となり、交易と文化を礎に栄えた。忠義を貫いた元祥の決断により、その歴史に幕を閉じた。
日本の戦国時代を語る上で、石見国(現在の島根県西部)にその名を刻んだ益田城は、単一の城郭を指す言葉ではない。その実態は、益田川を挟んで対峙する、戦時の要塞である山城「七尾城(ななおじょう)」と、平時の政治・生活の拠点であった居館「三宅御土居(みやけおどい)」から構成される、複合的な防衛・統治システムであった 1 。この二つの施設は一体不可分であり、現在では国の史跡「益田氏城館跡」として指定されている 1 。
この城館を拠点とした益田氏は、平安時代末期に石見国に土着して以来、鎌倉、室町、そして戦国時代を経て江戸時代に至るまで、約400年以上にわたり石見国西部に君臨した最大の国人領主である 2 。彼らは西国に覇を唱えた大内氏や毛利氏といった大勢力と巧みに渡り合い、時にはその勢力図を左右するほどの重要な役割を担った 5 。
本報告書は、「益田城」をこの「城館複合体」という本質的な視点から捉え直し、その構造と機能、城主であった益田氏の歴史的変遷、そして彼らの権力を支えた経済的・文化的背景を深く掘り下げるものである。平時の「館」と戦時の「城」を使い分けるという益田氏の洗練された統治システムを解明することは、戦国時代の地方領主の実像を理解する上で極めて重要な鍵となる。
益田氏の出自は、平安時代後期の永久2年(1114年)に石見国司として赴任した藤原国兼に遡るとされる 6 。当初は浜田の御神本(みかもと)を拠点とし、「御神本氏」を称していた 6 。その勢力が大きく飛躍するのは鎌倉時代、4代兼高の代である。建久年間(1190-1199年)に本拠を益田の地に移し、これ以降「益田氏」を名乗るようになった 1 。この時期に、詰城としての七尾城も築かれたと伝えられている 8 。
南北朝時代には、益田氏惣領家は北朝(足利尊氏)方に属し、周防国の守護大名・大内氏と連携することで石見国内での対抗勢力を排し、その支配領域を大きく広げた 5 。室町時代を通じて、益田氏は石見国人の筆頭として大内氏の傘下でその地位を磐石なものとし、当主・宗兼は大内義興に従って上洛を果たすなど、大内氏の重臣として中央の政治にも関与した 6 。
しかし、戦国時代の到来はこの安定を揺るがす。天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢によって討たれる「大寧寺の変」が勃発すると、19代当主・益田藤兼は陶氏との姻戚関係から晴賢方に与した 6 。この選択が、益田氏の運命を大きく左右することになる。弘治元年(1555年)、「厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就に討ち取られると、後ろ盾を失った益田氏は石見国で孤立し、存亡の危機に立たされた 11 。
翌弘治2年(1556年)、毛利元就は吉見正頼と共に益田領へ侵攻する。これに対し藤兼は、七尾城を大規模に改修して籠城の構えを見せた 12 。しかし、毛利軍の猛攻と、元就の次男・吉川元春による粘り強い和平交渉の結果、藤兼は徹底抗戦の道を選ばず、弘治3年(1557年)に毛利氏に降伏した 1 。これは単なる軍事的な敗北ではなく、毛利氏の台頭という新たな時代の潮流を冷静に見極め、一族の存続を最優先した、極めて戦略的な政治判断であった。この決断があったからこそ、益田氏は滅亡を免れ、毛利氏の家臣として新たな歴史を歩むことが可能となったのである。
益田氏の権力の中枢であった「益田氏城館跡」は、平時と戦時でその役割を明確に分けた二元構造を特徴とする。平野部に位置する政庁・居館「三宅御土居」と、背後の山に築かれた要塞「七尾城」は、互いに補完し合うことで、益田氏の長期にわたる安定した領国支配を可能にした。
三宅御土居は、益田川右岸の微高地に築かれた、益田氏の平時の拠点である 2 。その規模は堀の内側だけでも東西約190メートル、南北約110メートル、面積にして2ヘクタール以上に及ぶ広大なものであった 15 。
防御施設も巧みに設計されており、周囲は幅10メートルを超える堀で囲まれ、南側は益田川の支流をそのまま天然の外堀として利用していた 3 。現在も残る東西の土塁は高さ約5メートルに達し、平地にありながらも堅固な防御力を有していたことがうかがえる 15 。
発掘調査の結果、内部からは16世紀の礎石を用いた建物跡や石組みの井戸、さらには鍛冶場跡などが検出されている 15 。これらの発見は、三宅御土居が単なる領主の住居に留まらず、政務、武具や農具の生産、そして家臣団の生活の全てを内包した、多機能な「都市」であったことを示している 18 。築造は南北朝時代の益田兼見によるとの説があり、12世紀から16世紀に至る各時代の陶磁器が出土していることから、長期間にわたり益田氏の権力の中枢として機能し続けたことが考古学的にも証明されている 3 。
三宅御土居が「政」の拠点であるならば、七尾城は「軍」の拠点であった。その基本情報を以下に示す。
項目 |
詳細 |
名称 |
七尾城(ななおじょう) |
別名 |
益田城(ますだじょう) |
所在地 |
島根県益田市七尾町 |
城郭形式 |
山城 |
標高/比高 |
約120メートル / 約110メートル 1 |
築城年 |
鎌倉時代(建久年間) 1 |
築城者 |
益田兼高 または 益田兼時(伝) 8 |
主な改修者 |
益田藤兼(弘治2年/1556年) 12 |
廃城年 |
慶長5年(1600年) 1 |
歴代主要城主 |
益田氏歴代 |
主な遺構 |
曲輪群、土塁、堀切、畝状竪堀群、井戸跡 1 |
文化財指定 |
国の史跡「益田氏城館跡」 1 |
三宅御土居の対岸にそびえる七尾山に築かれたこの山城は、山頂から益田平野と日本海を一望できる、領国支配の要衝として絶好の立地を誇る 1 。城の縄張りは、Y字状に広がる尾根全体を巧みに利用し、東西約400メートル、南北約600メートルという広大な範囲に、大小40以上の曲輪(くるわ)と呼ばれる平坦地が階段状に配置された、大規模かつ堅固な要塞であった 1 。
特に注目すべき遺構として、本丸南東側と北東の出丸に配された「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」が挙げられる 8 。これは山の斜面を垂直に何本も掘り下げた空堀群であり、攻め寄せる敵兵の横移動を効果的に妨害する、戦国時代特有の先進的な防御施設である。この存在は、益田氏が毛利氏のような強大な敵との戦闘を想定し、当時の最新軍事技術を積極的に導入していたことを示している。また、城の正面玄関であった壮麗な大手門は、現在、市内の医光寺(いこうじ)の総門として移築現存しており、往時の威容を今に伝えている 9 。
発掘調査では、戦国時代後期の礎石建物跡や生活関連の遺物が多く出土している 1 。これは、益田藤兼が毛利氏との対決に際して城を大改修し、家臣団と共に「居住」したという史料の記述を裏付けるものである 12 。この事実は、七尾城が単なる臨時の避難場所という従来の「詰城」のイメージを超え、有事には政治・生活の中心機能ごと移転する「戦時首都」とも言うべき役割を担っていたことを示唆している。益田氏の城館は、戦国の緊張が高まるにつれて、「館」と「城」の機能が一体化していく、まさにその過渡期の姿を今に伝える貴重な事例と言えるだろう。
益田氏が400年以上にわたり石見国に君臨できた理由は、その軍事力や城郭の堅固さだけではなかった。彼らの権力を根底から支えていたのは、日本海交易によってもたらされた強大な経済力と、当代随一の文化人を招聘するほどの高い文化的素養であった。
中世の益田平野は、益田川と高津川の河口が砂州によって塞がれ、広大な潟湖(ラグーン)を形成しており、これが天然の良港となっていた 23 。この潟湖に面して営まれていたのが、大規模な港湾都市の遺跡である「中須東原遺跡(なかすひがしはらいせき)」である。
近年の発掘調査により、この遺跡からは舟着場跡や鍛冶炉跡といった港湾施設と共に、日本各地の陶磁器はもとより、中国、朝鮮半島、さらにはベトナムやタイといった東南アジア諸国からもたらされた貿易陶磁器が豊富に出土した 22 。これは、益田氏の交易ネットワークが日本海沿岸に留まらず、東アジア全域にまで及んでいた可能性を示すものである。
益田氏に伝わる古文書群『益田家文書』にも、彼らがこの湊を拠点とした水運・交易に深く関与していた記録が残されており、益田氏が単なる陸の領主ではなく、海を支配する「海洋領主」としての側面を強く持っていたことが裏付けられている 25 。毛利氏に降った後、当主の益田元祥が毛利元就に虎の皮を贈ったという逸話があるが、虎皮は大陸との交易を通じてしか入手困難な希少品であり、これを外交の切り札として利用できるほど、益田氏が莫大な富を蓄積していたことを象徴している 11 。この経済力こそが、大規模な城館の維持・改修や、強力な家臣団の結束を可能にした源泉であった。
益田氏の特筆すべき点は、その経済力を背景とした高い文化性にある。15代当主・益田兼堯は、室町時代を代表する水墨画の巨匠であり、禅僧でもあった雪舟等楊を益田の地に招いた 21 。
雪舟は益田滞在中に、益田氏の菩提寺である萬福寺(まんぷくじ)と医光寺(当時は崇観寺)に、今日まで雪舟の代表作として名高い庭園を作庭したと伝えられている 5 。これらの庭園は、いずれも国の史跡及び名勝に指定されており、四季折々の美しさを見せている。
雪舟のような当代随一の文化人を招聘し、その創作活動を支援できたという事実は、益田氏が単なる武辺一辺倒の地方領主ではなく、中央の文化動向にも通じた洗練された教養と、それを可能にする財力を兼ね備えていたことを雄弁に物語っている 11 。これは単なる趣味ではなく、領主としての権威と格を内外に示すための戦略的な文化政策であったとも考えられる。武力という「ハードパワー」だけでなく、経済と文化という「ソフトパワー」を巧みに活用したことこそ、益田氏が戦国の乱世を生き抜き、長期にわたって繁栄できた本質的な理由であろう。
益田氏の400年にわたる益田の地での支配は、20代当主・益田元祥(もとなが)の代に大きな転換点を迎える。彼の決断によって、益田城はその歴史的役割を終えることとなる。
元祥は、父・藤兼が毛利氏に降伏した後の永禄元年(1558年)に生まれた 30 。永禄11年(1568年)の元服に際しては、毛利元就が烏帽子親を務め、その名から「元」の一字を与えられるなど、毛利氏から格別の扱いを受けた 11 。さらに、吉川元春の娘を正室に迎えたことで、毛利一門に準ずる地位を確立した 7 。
家督を継いだ元祥は、毛利氏の重臣として豊臣秀吉の天下統一事業に従軍し、四国攻め、九州征伐、小田原征伐、そして文禄・慶長の役といった主要な合戦で数々の武功を挙げ、その武名を知らしめた 25 。
しかし、慶長5年(1600年)、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発する。毛利氏は西軍の総大将として担がれたが、元祥は義兄の吉川広家と行動を共にし、本戦では戦闘に参加しなかった 25 。戦いは東軍の勝利に終わり、戦後、毛利氏は大幅に領地を削減され、周防・長門の二カ国(現在の山口県)へと減封された。これにより、益田氏が代々支配してきた石見国も没収されることとなった 1 。
この時、東軍を率いた徳川家康は、元祥の武将としての器量を高く評価し、「石見国の旧領を安堵するから徳川の家臣になれ」と、独立した大名として取り立てるという破格の条件で勧誘を行った 5 。これは、先祖代々の土地を守り、一国一城の主となる、武士としてこれ以上ない名誉な申し出であった。
しかし、元祥はこの家康の誘いを「主君・輝元公から受けた恩義は忘れられない」として、断固として拒絶した 11 。彼は実利よりも主君への忠義を選び、豊かな故郷を捨てて毛利輝元に従い、新たな所領となった長門国須佐(現在の山口県萩市須佐)へと移住したのである 1 。
この元祥の決断により、主を失った七尾城と三宅御土居は、慶長5年(1600年)をもってその役目を終え、廃城となった 1 。益田城の終焉は、単に城が放棄されたという物理的な出来事ではない。それは、中世以来の独立領主としての「国人・益田氏」が終わりを告げ、近世大名である毛利氏の家臣団の一員として生きる道を選んだ、益田氏の歴史的な転換点を象徴する出来事であった。その後、元祥は長州藩の永代家老として藩政を支え、財政再建などでその手腕を大いに発揮した 4 。
石見国・益田城の歴史を詳細に調査した結果、それは単なる軍事施設ではなく、戦国時代を生き抜いた地方領主・益田氏の複合的な実像を映し出す、極めて重要な歴史遺産であることが明らかとなった。
第一に、益田城は、平時の政庁・居館「三宅御土居」と、戦時の要塞「七尾城」が一体となって機能する、高度な「城館複合体」であった。この二元構造は、平時と戦時で拠点を使い分ける、中世武士団の洗練された統治システムを物語っている。
第二に、益田氏の権力基盤は、軍事力のみに依存するものではなかった。日本海交易を掌握することで得た莫大な「経済力」が、大規模な城館の維持と強力な家臣団の結束を支え、画聖・雪舟を招聘するほどの高い「文化力」が、領主としての権威と正統性を内外に示した。この武力、経済力、文化力の三位一体こそが、益田氏が400年以上にわたり繁栄を続けた力の源泉であった。
そして最後に、最後の城主・益田元祥が示した、実利よりも主君への「忠義」を重んじる生き方は、戦国武士の精神性を象徴するものである。彼の決断によって益田城は廃城となったが、それは中世的な独立領主の時代の終わりと、近世的な主従関係の時代の始まりを告げる、歴史的な転換点であった。
現在、七尾城跡と三宅御土居跡は、国の史跡「益田氏城館跡」として整備・保存され、その歴史を静かに後世に伝えている 1 。これらの史跡は、中世から戦国、そして近世へと至る時代の大きなうねりの中で、一地方武士団がどのようにして自らのアイデンティティを保ち、生き抜いていったのか、そのダイナミックな実像を立体的に理解するための、第一級の歴史資料であると言えるだろう。
参考資料:益田氏と益田城に関連する年表
年代 |
主な出来事 |
永久2年(1114) |
藤原国兼が石見国司として赴任(益田氏の祖) 6 |
建久年間(1190-1199) |
益田兼高が本拠を益田に移す。七尾城築城(伝) 1 |
応安年間(1368-1375) |
益田兼見が三宅御土居を築造(伝) 5 |
文明年間(1469-1487) |
益田兼堯が雪舟を招聘 21 |
天文20年(1551) |
大寧寺の変。益田藤兼、陶晴賢方に与す 6 |
弘治元年(1555) |
厳島の戦い。陶晴賢、毛利元就に敗死 11 |
弘治2年(1556) |
毛利軍が益田に侵攻。藤兼、七尾城を改修し籠城準備 11 |
弘治3年(1557) |
藤兼、毛利氏に降伏 6 |
永禄元年(1558) |
益田元祥、誕生 30 |
永禄11年(1568) |
元祥、元服。毛利元就より「元」の字を賜う 11 |
天正10年(1582) |
元祥、家督を相続 30 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い。戦後、元祥は毛利氏に従い長門国須佐へ移封。七尾城・三宅御土居は廃城となる 1 |
寛永17年(1640) |
益田元祥、死去 7 |