下野国(現在の栃木県)の歴史を語る上で、宇都宮氏の存在は揺るぎない中心をなす。しかし、その広大な領国支配は、宇都宮氏一門の力のみによって成し遂げられたものではない。その傍らには常に、主家の軍事を支え、時にはその政治をも左右する強大な家臣団が存在した。その筆頭格こそ、真岡城を拠点とした芳賀氏である。
真岡城は、通説では宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城として知られている 1 。しかし、その歴史を深く掘り下げると、単なる「支城」という言葉では到底捉えきれない、下野国におけるもう一つの権力中枢としての側面が浮かび上がってくる。芳賀氏は主家である宇都宮氏と複雑な関係を紡ぎ、従属と自立、忠誠と反逆の間を揺れ動きながら、戦国の世を生き抜いた。真岡城の歴史は、すなわち芳賀氏一族の栄光と苦悩の歴史そのものである。
本報告書は、真岡城を単なる建築物としてではなく、城主であった芳賀氏の視点から、その築城、発展、そして廃城に至るまでの全貌を、戦国時代という激動の時代背景の中に位置づけることを目的とする。城の構造的特徴、城主・芳賀氏の実像、そして北関東の地政学の中で果たした役割を多角的に分析し、真岡城の真の歴史的価値を明らかにすることを目指す。
真岡城には、いくつかの別称が伝えられている。最も知られているのが「芳賀城」であり、これは城主であった芳賀氏の名を直接冠したもので、城の本質を的確に表している 1 。
もう一つの別称として「舞か丘城(まいがおかじょう)」が挙げられる 2 。この雅やかな名称の直接的な由来を記した史料は現存しないが、いくつかの可能性が考えられる。一つは、城が築かれた台地の地形や景観に由来する美称としての説である。春には桜が舞い、あるいは風が塵を舞い上げる丘の姿から名付けられたのかもしれない。また、古代において神事としての「舞」が奉納された神聖な場所であったという地名由来の可能性も推測される 6 。明確な証拠はないものの、「舞か丘」という呼称は、この地が単なる軍事拠点ではなく、地域の人々にとって特別な意味を持つ場所であったことを示唆している。
芳賀氏の出自は、天武天皇の皇子・舎人親王を始祖とする名門、清原氏に遡るとされる 5 。伝承によれば、平安時代中期の寛和元年(985年)、清原高重が花山天皇の勅勘を被り、下野国芳賀郡に配流されたことが、一族の土着の始まりであったという 8 。中央の貴人が地方に流され、そこで勢力を築くという「流罪伝承」は各地に見られるが、これは芳賀氏が自らの出自の正統性と権威を主張する上で、重要な物語として機能したと考えられる。
鎌倉時代に入ると、芳賀氏は地域の有力武士として頭角を現す。芳賀高親の代、源頼朝による奥州合戦が勃発すると、高親は下野国の雄・宇都宮朝綱の麾下として従軍した 5 。この時、同じく宇都宮氏の配下にあった紀氏を祖とする益子正重と共に目覚ましい活躍を見せたことから、芳賀氏(清原氏)と益子氏(紀氏)は「紀清両党(きせいりょうとう)」と並び称されるようになった 5 。
紀清両党の武勇は天下に轟き、後の『太平記』においては、名将・楠木正成が「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりで、その両翼たる芳賀氏、益子氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを塵芥(ごみくず)よりもなお軽くす」と評したと記されるほどであった 5 。彼らは文字通り宇都宮氏の両翼として、その武威を支える不可欠な軍事力の中核を形成していったのである。
芳賀氏が単なる武勇の家臣団にとどまらない、政治的な影響力を持つ存在であることを天下に知らしめたのが、南北朝時代の当主・芳賀高名(法名:禅可)であった 7 。当時、主君であった宇都宮公綱は、建武政権崩壊後も南朝方として行動していた。しかし、高名はこれに反発し、公綱を事実上排除すると、その嫡子・氏綱を新たな当主として擁立し、宇都宮氏全体を北朝方へと転向させるという大胆な策を断行した 7 。これは、一介の家臣が主家の政治的進路を決定づけるという、通常の主従関係を完全に逸脱した行動であり、芳賀氏が宇都宮家中においていかに強大な権力基盤を築いていたかを物語っている。
足利尊氏と弟・直義が対立した観応の擾乱において、芳賀高名は一貫して尊氏方として活躍した 9 。薩埵峠の戦いでの勝利に大きく貢献した功績により、主君・宇都宮氏綱は下野守護職に加えて上野・越後両国の守護職を与えられ、未曾有の勢力圏を獲得する 7 。そして、芳賀高名の養子・高貞と実子・高家は越後守護代に任じられ、芳賀一族の権勢は頂点に達した 9 。この時期、芳賀氏は宇都宮氏の威光を背景に、自らの影響力を北関東から越後まで広げることに成功したのである。
室町時代から戦国時代にかけて、芳賀氏は宇都宮氏の家督相続や家政に深く介入し、その権力は時に主家を凌駕するほどであった。両者の間に内包された緊張関係が爆発したのが、永正9年(1512年)に発生した内乱「宇都宮錯乱」である 18 。
当時、宇都宮家の実権は当主・宇都宮成綱ではなく、筆頭重臣の芳賀高勝が掌握していた 19 。古河公方を巡る対立において、成綱が高基方を支持したのに対し、高勝は政氏方を支持し、家中は分裂状態に陥る 18 。この状況を打開すべく、成綱は高勝を誅殺するという強硬手段に出た。これをきっかけに芳賀一族が大規模な反乱を起こし、宇都宮氏は深刻な内紛状態に突入したのである 18 。
この一連の出来事は、芳賀氏が単なる「家臣」ではなく、宇都宮氏と対等の、あるいはそれ以上の力を持つ独立した権力主体であったことを明確に示している。宇都宮氏と芳賀氏の関係は、主従という単純な枠組みでは捉えきれない。それは、相互依存と権力闘争が常に内在する、極めて不安定な二重権力構造であった。この後も、当主の暗殺や権力闘争が繰り返され、宇都宮氏の国力は次第に疲弊していくことになる 18 。真岡城の歴史を理解するためには、この宇都宮城と真岡城という二つの権力中枢が並立していたという、下野国特有の政治力学を念頭に置くことが不可欠である。
真岡城の築城年代については、複数の説が存在する。
現在、これらの説を統合し、「貞治元年(1362年)に芳賀高貞が御前城から拠点を移して築城し、戦国末期の天正五年(1577年)に芳賀高継が後北条氏の侵攻に備えて堅固な城郭へと大規模な改築を行った」とする見解が最も有力視されている 1 。これは、真岡城が一度に完成したのではなく、時代の軍事的要請に応じて段階的に発展・強化されていったことを示唆している。
芳賀氏が、古くからの拠点であった芳賀御前城(現在の真岡市田町、真岡東中学校敷地)から真岡城へと本拠を移したことは、一族の戦略における重要な転換点であった 10 。御前城に比べ、真岡城の立地する台地はより広大で防御に適しており、五行川と行屋川を天然の要害とすることもできる。この移転は、芳賀氏の勢力が拡大し、より大規模な軍事力と領民を統治する必要性が生じたこと、そして南北朝の動乱の中で、より戦略的かつ防御的な拠点が必要とされたことを物語っている。
真岡城は、真岡市街中心部の台地上に位置する、平城に近い性格を持つ「連郭式平山城」に分類される 1 。城郭の設計において特筆すべきは、自然地形を巧みに利用している点である。城の東側を流れる五行川と、西から南にかけて蛇行する行屋川を天然の外堀として活用し、広大な防御線を形成していた 2 。さらに、これらの河川から水を引き込み、城の周囲に広範な水堀を巡らせていたと伝わっており、容易な接近を許さない堅固な構えであったことが窺える 1 。
城の主要部分は、南北に伸びる台地上に、北から本丸、二の丸、三の丸、四の丸と、主要な曲輪を直線的に配置した連郭式の縄張りであった 1 。現在の地割では、本丸、二の丸、三の丸が真岡市立真岡小学校の敷地に、そして四の丸が南接する城山公園一帯に相当する 2 。城の正面玄関である大手門は最南端の四の丸南側に、裏口にあたる搦手門は本丸と二の丸の間に設けられていたと推定されている 1 。
城郭の防御施設は、戦国時代の緊張を色濃く反映している。各曲輪は当初、深い空堀によって厳重に仕切られていたが、後世の開発によりその多くは埋め立てられ、現在は土塁のみが残る箇所が多い 1 。しかし、真岡小学校の敷地北側から西側にかけては、往時の姿を比較的良好に留めており、台地の中腹を巡る横堀や高く聳える土塁を確認することができる 5 。
特に注目すべきは、本丸北西部の空堀跡に見られる「横矢掛かり」の構造である 10 。これは、城壁や土塁を意図的に屈曲させることで、堀に侵入した敵兵に対して側面から矢や鉄砲による十字砲火を浴びせるための工夫であり、戦国時代後期に発達した高度な築城技術が用いられていたことを示している。また、各曲輪の周囲には帯状の平坦地である腰曲輪が設けられており、防御に厚みを持たせるとともに、兵士の移動通路としても機能したと考えられる 1 。これらの遺構は、真岡城が単なる居館ではなく、明確な軍事思想に基づいて設計された戦闘要塞であったことを雄弁に物語っている。
項目 |
詳細 |
典拠・備考 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
平城に近い丘陵地形を利用 1 |
別称 |
芳賀城、舞か丘城 |
城主・芳賀氏に由来 1 |
立地 |
栃木県真岡市台町 |
五行川、行屋川を天然の堀として活用 1 |
主要曲輪 |
本丸、二の丸、三の丸、四の丸 |
南から北へ直線的に配置 1 |
防御施設 |
土塁、空堀、水堀、腰曲輪、虎口、横矢掛かり |
戦国後期の技術が見られる 5 |
主要な門 |
大手門(最南端)、搦手門(本丸・二の丸間) |
推定配置 1 |
規模(推定) |
総周り十四町十二間(約1.5km) |
書物によれば五角形の城であったとされる 25 |
戦国末期、真岡城主として北関東の激動に立ち向かったのが芳賀高継である 27 。彼の生涯は波乱に満ちていた。父・高経は主君・宇都宮尚綱との対立の末に討たれ、高継自身は敵対関係にあった益子氏のもとで庇護されるという複雑な少年期を過ごした 8 。その後、宇都宮氏の重臣・芳賀高定の養子となり家督を継ぐと、主家を巧みに補佐し、西から勢力を拡大する後北条氏の脅威に立ち向かった 27 。
天正五年(1577年)、高継は真岡城の大規模な改修に着手する 1 。この改修は、単なる城の修繕ではなく、明確な戦略的意図に基づいた軍事行動であった。この時期の北関東の情勢を鑑みると、その意図は明らかである。前年の天正四年(1576年)に主君・宇都宮広綱が死去し、幼い国綱が家督を継いだことで、宇都宮氏は一時的に弱体化していた 8 。さらに翌年の天正六年(1578年)には、後北条氏にとって最大の障壁であった越後の上杉謙信が急死する 8 。
芳賀高継は、この二つの大きな政治的変動が、後北条氏に北関東への本格的な侵攻の好機を与えることを見抜いていた。謙信という重石が取れれば、北条氏がその軍事力を宇都宮領に集中させることは火を見るより明らかであった 29 。高継は、脅威が現実化する前に先手を打ち、自らの本拠地であり、宇都宮領東方の最大の防御拠点である真岡城を、対北条氏を想定した一大要塞へと変貌させたのである。横矢掛かりのような最新の防御技術が導入されたのも、この時であった可能性が高い。この改築は、高継の優れた戦略眼と、芳賀氏が宇都宮領防衛の事実上の主役であったことを示す、象徴的な出来事であった。
高継の予測通り、後北条氏は北関東への圧力を強め、天正十三年(1585年)には当主・北条氏直が自ら大軍を率いて下野国に侵攻した 3 。この時、高継の跡を継いだ養子・高武(宇都宮国綱の実弟)は、宇都宮方の多功城が攻撃されると、主君の命を受けて救援に駆けつけるなど、対北条防衛戦の最前線で奮闘した 3 。
天正十七年(1589年)、芳賀氏は宇都宮国綱と共に、かねてより北条氏に内通していた同族の益子家宗を討伐し、宇都宮領内の結束を固めた 21 。しかし、その直後、芳賀高武は突如として北条方に寝返り、宇都宮方の多気山城を攻撃するという不可解な行動に出る 21 。この行動の真意は定かではないが、豊臣秀吉による小田原征伐が目前に迫る中、宇都宮氏と北条氏の間で揺れ動く情勢を前に、芳賀氏独自の生き残りをかけた、ぎりぎりの外交的駆け引きであった可能性が指摘されている。この一時的な離反は、芳賀氏が主家の意向とは別に、独自の判断で行動する自立性の高い存在であったことを改めて示している。
一時的に北条方についた芳賀高武であったが、豊臣秀吉による天下統一が確実となると、すぐさま宇都宮方に復帰した。天正十八年(1590年)の小田原征伐では、主君・宇都宮国綱の代理として芳賀勢を率いて豊臣軍に参陣し、戦功を立てた 3 。この功により、宇都宮氏は戦後の論功行賞で所領を安堵され、下野国18万石の大名として豊臣政権下に組み込まれることになった 8 。
豊臣政権下で大名としての地位を確立し、安泰かに見えた宇都宮氏であったが、慶長二年(1597年)、突如として秀吉から改易を命じられる 24 。これにより、鎌倉時代から続いた下野の名門・宇都宮氏は大名としての歴史に幕を下ろし、それに伴い筆頭家臣であった芳賀氏も所領を没収され、その居城であった真岡城も廃城となった 1 。
宇都宮氏改易の表向きの理由は、検地における石高の過少申告(石高詐称)であったとされる 35 。しかし、その背景には、より複雑な政治的要因があったと考えられている。豊臣政権内部における浅野長政と石田三成の対立に巻き込まれたという説も有力である 35 。
一方で、複数の史料が、芳賀氏の存在そのものが改易の遠因になった可能性を示唆している 5 。戦国時代を生き抜く上で、芳賀氏という強力な軍事力と自立性を持った家臣団の存在は、宇都宮氏にとって不可欠な「強み」であった。しかし、中央集権体制の確立を目指す豊臣政権の視点から見れば、その構図は全く異なって映る。秀吉の政策の根幹は、検地や刀狩を通じて大名家の強力な家臣団を解体し、当主の権力を強化することで、中央の統制を全国に浸透させることにあった。
この点において、主家を凌駕しかねない力を持つ芳賀氏の存在は、豊臣政権の理想とする統治体制とは相容れないものであった。宇都宮氏の家中における芳賀氏の強大な影響力は、政権にとって潜在的な不安定要因、すなわち「リスク」と見なされたのである。したがって、宇都宮氏の改易は、石高詐称などを口実としながらも、その本質は、下野国における旧来の二重権力構造を解体し、豊臣の直接的な支配体制を確立するための、高度な政治的決断であったと解釈できる。宇都宮氏の「強み」が、時代の変化によって「弱み」へと転化してしまった皮肉な結末であった。真岡城の廃城は、戦国という一つの時代の終焉を象徴する出来事だったのである。
廃城後、真岡城跡は江戸幕府の直轄地(天領)となり、その一部は代官所として再利用されることになった 2 。これが「真岡陣屋」である。寛政九年(1797年)、幕府代官の竹垣三右衛門によって出張陣屋が設けられたのが始まりとされ、芳賀郡内の幕府領17ヵ村を管轄した 25 。
真岡陣屋の歴史を語る上で、農政家として名高い二宮尊徳(金次郎)の存在を欠かすことはできない。尊徳は桜町領(現在の真岡市南部)の復興で多大な実績を上げており、その手腕を見込まれて真岡代官所の支配領域の再建にも尽力した 22 。特に、嘉永四年(1851年)に火災で焼失した真岡陣屋が再建される際には、時の代官・山内総左衛門のもとで中心的な役割を果たしたと記録されている 1 。
慶応四年(1868年)、戊辰戦争の混乱の中で真岡陣屋は新政府軍によって焼き討ちに遭い、廃止された 39 。明治時代に入ると、城跡は新たな時代を担う人材育成の場として生まれ変わる。本丸、二の丸、三の丸があった中心部は真岡市立真岡小学校の敷地となり、南側の四の丸跡は城山公園として整備され、市民の憩いの場となった 1 。しかし、この公園化に際して、往時の地形はかなり改変され、城郭としての遺構の一部は失われたとの指摘もある 10 。
近年行われた埋蔵文化財の発掘調査では、戦国時代の真岡城に関連するとみられる竪穴建物跡や、江戸時代の真岡陣屋に関連する土塀跡などの遺構が確認されており、文献史料だけでは窺い知ることのできない城の実態が少しずつ明らかになりつつある 44 。
現在、城跡は真岡小学校の児童たちの学び舎として、また城山公園として市民に親しまれている。校門脇には城の歴史を伝える案内板が設置され 12 、公園内には土塁の痕跡や真岡陣屋跡の石碑が残る 24 。桜の名所としても知られ、多くの人々が訪れるこの場所は、芳賀氏の栄枯盛衰、江戸時代の代官支配、そして近代教育の黎明という、幾重にもわたる真岡の歴史を静かに今に伝えている。
真岡城の歴史は、単なる一つの城の沿革にとどまらない。それは、宇都宮氏の家臣という立場にありながら、主家と比肩するほどの権力を持ち、時にはその運命さえも左右した下野の名族・芳賀氏の、栄光と悲劇の物語そのものである。南北朝の動乱期に主家を動かし、戦国の世には北条氏の脅威に立ち向かうべく城を一大要塞へと変貌させた芳賀氏の姿は、真岡城の土塁や堀跡に今も刻まれている。この城は、芳賀氏の権力と自立性の物理的な象徴であった。
自然の河川を巧みに防御に取り入れ、時代の軍事的要請に応じて横矢掛かりなどの最新技術を導入し、段階的に進化を遂げた真岡城の姿は、戦国時代の北関東における在地領主の城郭の典型例として、高い歴史的価値を有している。城の構造そのものが、戦国末期の激しい生存競争と、それに対応しようとした武将たちの知恵を物語る貴重な史料なのである。
慶長二年の廃城から四百年以上の時を経て、城郭の多くは市街地化や近代化の波の中で姿を変えた。しかし、今なお残る遺構は、私たちに芳賀氏が駆け抜けた時代の息吹を伝えてくれる。真岡城は、地域の歴史を学び、郷土への理解を深めるための貴重な歴史遺産である。
今後は、さらなる考古学的調査や史料研究を通じて、これまで知られていなかった城の実像や、芳賀氏と宇都宮氏のより詳細な関係性が解明されることが期待される。史跡としての適切な保存と活用を進め、市民の歴史学習の場、そして地域の魅力を発信する観光資源として、その価値を次世代へと継承していくことが重要である。真岡城は、過去を語るだけでなく、未来の地域づくりにおいても重要な役割を担う可能性を秘めている。