最終更新日 2025-08-24

知覧城

知覧城はシラス台地に築かれし南九州の要害。島津氏一門佐多氏の拠点として栄え、国際交易の窓口でもあった。火災で廃城となるも、その機能は麓の武家屋敷群へ継承され、今も歴史を語り継ぐ。

知覧城 ―シラス台地に刻まれた南九州の要害―

序論:南九州の要害、知覧城の全貌

鹿児島県南九州市知覧町にその痕跡を留める知覧城は、単に過去の山城跡として存在するのではない。それは、南九州の特異な自然環境と、島津氏を中心とする戦国時代の激しい動乱が生み出した、他に類を見ない複合的な歴史遺産である。国の史跡に指定され 1 、さらに2017年には「続日本100名城」にも選定された 2 ことは、その歴史的・文化的価値が公に認められている証左に他ならない。

多くの人々が知覧と聞いて想起するのは、麓に広がる美しい武家屋敷群、あるいは第二次世界大戦末期の特攻基地という歴史であろう 3 。しかし、これらの歴史の源流を遡ると、必ずこの知覧城に行き着く。知覧城こそが、麓の武家屋敷群の直接的な母体であり 1 、中世から近世にかけてこの地を支配した佐多氏の拠点であった。

本報告書は、この知覧城について、戦国時代という時代を主軸に据えつつも、その枠に留まることなく、多角的な視点からその全貌を解明することを目的とする。第一章では、南九州特有のシラス台地という地質がいかにしてこの城の特異な構造を生み出したのかを構造的に分析する。続く第二章、第三章では、築城から廃城に至るまでの歴史的変遷を追い、特に島津氏一門である佐多氏の支配と、戦国動乱期におけるその役割を詳述する。第四章では、近年の発掘調査の成果に基づき、軍事要塞の内部で営まれていた人々の生活実態と、意外なほどの広域交易との繋がりを明らかにする。そして第五章では、城がその役目を終え、麓の武家屋敷群へとその機能が継承されていく過程を追うことで、中世から近世への時代の転換点を考察する。最後に、この地に残る神話伝承にも触れ、知覧城が持つ重層的な歴史的意義を結論付ける。


第一章:シラス台地が生んだ特異な城郭構造

知覧城の構造を理解するためには、まずその立地する大地、すなわち「シラス台地」の地質学的特性を理解することが不可欠である。この城の比類なき防御機構と縄張りは、人間の設計思想と南九州の特殊な自然環境が融合した結果生まれたものである。

1-1. 南九州型城郭の典型

知覧城は、鹿児島県や宮崎県南部に数多く見られる「南九州型城郭」の代表例として挙げられる 5 。これらの城郭に共通する最大の特徴は、古代の火砕流によって形成された火山灰土壌、通称「シラス」が堆積した台地を巧みに利用して築かれている点にある 6

シラスは地質学的に比較的柔らかく、人力による掘削が容易であるという特性を持つ 7 。しかし同時に、地下水位が低く乾燥しているため、垂直に近い角度で削り込んでも崩落しにくいという、築城において極めて有利な性質を併せ持っている 7 。知覧城の築城者たちは、このシラスの特性を最大限に活用した。彼らは、台地の縁に自然の雨水などによって長年かけて侵食された深い谷(ガリ地形)を、そのまま天然の巨大な空堀として取り込んだのである 5 。これは、自然地形を巧みに防御施設へと転化させる中世山城の築城術の中でも、特にシラス台地という環境がもたらした、南九州ならではの卓越した技術であった。

1-2. 縄張りの徹底解剖 ―群郭式の防衛思想―

知覧城の縄張り(城の設計)は、一般的な山城に見られるような、本丸を頂点として曲輪が階段状に連なる「連郭式」とは一線を画す。「群郭式」と呼ばれる、複数の独立した曲輪がほぼ同じ標高に林立する配置を特徴とする 5

城の中核を成すのは、本丸、蔵之城、今城、弓場城といった主要な曲輪群である 2 。これらの曲輪は、それぞれが一個の独立した砦とも言うべき堅固さを持ち、巨大な空堀によって完全に隔絶されている。さらに、これらの中心曲輪群の周囲を、東之栫、西之栫、南之栫、式部殿城、伊豆殿屋敷といった広大な外郭群が取り囲んでいる 2 。これにより、城全体の規模は南北約600メートル、東西約700メートルにも及び 11 、総面積は約41ヘクタールに達する南九州を代表する巨大城郭となっている 1

この特異な「群郭式」縄張りは、設計者の思想が先に存在したというよりも、シラス台地の地形そのものが規定した結果と見るべきである。平坦な台地を深く侵食する無数の谷(ガリ地形)を防御線として最大限に利用しようとした結果、谷によって隔てられた台地の、あたかも指のように突出した部分が、それぞれ独立した曲輪として要塞化されたのである。

1-3. 圧倒的な防御機構

知覧城の防御力を象徴するのが、各曲輪を隔てる巨大な空堀と、その側面をなす切岸である。

シラス台地を深く掘り込んで造成された空堀は、場所によっては深さが20メートルから30メートルにも達する 5 。その側面である切岸は、シラスの性質を活かしてほぼ垂直に削り込まれており、物理的に兵士がよじ登ることを不可能にしている 7 。この圧倒的な高低差と角度は、敵兵に絶望的なまでの威圧感を与えたであろう。

城内への侵入路である虎口(出入り口)にも、巧妙な工夫が凝らされている。主要な曲輪の入り口には、L字型やコの字型に折れ曲がった「枡形虎口」が採用されている 10 。これにより、侵入してきた敵兵は直線的に突入することができず、狭い空間で速度を落とし、方向転換を強いられる。その隙を、周囲の土塁や櫓台の上から防御側が矢や鉄砲で迎撃するという、極めて効果的な防御施設であった。

さらに、この城郭構造は敵兵に大きな心理的効果をもたらした。城に攻め寄せた兵は、まず深く薄暗い堀底道を進まされることになる。そのため、城全体の構造や本丸の位置を把握することが極めて困難であり、どこから攻撃を受けるか分からないという不安と閉塞感の中で進軍を強いられた 5

しかし、この堅固な防御思想は、ある種の戦略的弱点を内包していた。各曲輪が巨大な空堀によって隔絶されているため、曲輪同士の連携や兵力の迅速な移動が著しく困難だったのである 5 。これは、城全体で流動的な防衛戦を展開するのではなく、各曲輪が一個の独立した拠点として最後まで持ちこたえるという、籠城に特化した、ある意味で柔軟性を欠いた防衛思想を反映している。この思想は、後の薩摩藩に見られる頑強な軍事思想の源流の一つと考えることも可能かもしれない。


第二章:築城から佐多氏の支配確立まで

知覧城の歴史は、平安時代の末期にまで遡るとされるが、その支配体制が確固たるものとなるのは、室町時代に島津氏一門である佐多氏が入城してからである。しかし、その道のりは平坦ではなく、島津宗家の内訌に翻弄される時期も経験している。

2-1. 黎明期 ―知覧氏から佐多氏へ―

知覧の地に初めて城が構えられたのは、平安時代末期(12世紀末頃)、この地の郡司であった知覧忠信によるものと伝えられている 2 。しかし、これは伝承の域を出ず、確実な史料に乏しい。

歴史の記録として知覧城が明確に登場するのは、室町時代の南北朝期である。文和2年(1353年)、室町幕府を開いた足利尊氏の命により、島津氏4代当主・島津忠宗の三男であった佐多忠光が知覧の地の領主として安堵された 1 。忠光は、元々大隅国佐多村(現在の南大隅町)を領していたことから「佐多」の姓を名乗っており 13 、これが知覧を本拠とする佐多氏の始まりとなる。以降、知覧城は幕末に至るまで、幾度かの例外を除き、佐多氏の居城としてその歴史を刻んでいくことになる 14

2-2. 支配権の動揺と再確立

佐多氏による知覧支配は、常に安泰だったわけではない。15世紀初頭の応永年間、島津宗家内部で後継者争いを巡る内訌(伊集院頼久の乱)が発生した。この混乱に乗じ、知覧城は伊集院一族の配下である今給黎久俊によって押領され、佐多氏は一時的に知覧の地を追われるという苦難を経験する 2

この事態を収拾したのが、内訌を制して島津宗家8代当主となった島津久豊であった。応永27年(1420年)、久豊は今給黎久俊を攻めて降伏させ、知覧城を奪還した 2 。この時、久豊は知覧を自らの直轄地とすることも可能であったはずだが、彼は「佐多殿由緒の地なり」として、再び佐多氏にこの地を安堵したのである 13

この島津久豊の判断は、単なる温情によるものではない。むしろ、一門の結束を内外に示すための、極めて高度な政治的判断であったと考えられる。伊集院氏のような庶流の反乱を力で鎮圧した直後に、由緒ある土地を正当な持ち主である別の庶流(佐多氏)に戻すという行為は、宗家当主としての自身の権威と正統性を確立すると同時に、他の庶流に対して「宗家に忠実であれば、その権利は保障される」という明確なメッセージを送る効果があった。この一件は、佐多氏の知覧支配が、常に島津宗家の権力動向と密接に連動していたこと、そして島津一門としての強い結びつきによってその地位が保障されていたことを象徴する出来事であった。

表1:知覧城 関連年表

西暦(和暦)

知覧城・佐多氏の動向

島津氏宗家・南九州の動向

日本全体の主要な出来事

典拠

12世紀末頃

(伝)郡司・知覧忠信が築城

鎌倉幕府成立、島津氏が薩摩国地頭に

源平合戦

2

1353年(文和2)

佐多忠光(島津忠宗の三男)が足利尊氏より知覧を安堵される

南北朝の動乱

南北朝時代

1

1417年(応永24)

伊集院一族の今給黎久俊が知覧城を押領

島津宗家で内訌(伊集院頼久の乱)

室町幕府の安定期

13

1420年(応永27)

島津久豊が奪還し、再び佐多氏の居城となる

島津久豊が宗家家督を継承

2

1550年代

島津貴久が薩摩統一を進める

戦国時代の本格化

16

1570年代

島津義久が三州統一をほぼ達成

織田信長の台頭

17

1586-87年頃

10代当主・佐多氏久政が豊後国での戦いで討死

島津氏、九州制覇を目指し大友氏と激突(豊薩合戦)

豊臣秀吉の天下統一事業

13

1587年(天正15)

島津義久が豊臣秀吉に降伏

豊臣秀吉による九州平定

19

1588年(天正16)頃

原因不明の火災により焼失、実質的な廃城へ

九州国分、太閤検地の開始

刀狩令

2

1595年(文禄4)

一時的に種子島久時の所領となる

文禄・慶長の役

13

1610年(慶長15)

佐多氏が知覧領主に復帰。中心は麓へ移行

薩摩藩による琉球侵攻(1609年)

江戸幕府の成立

13

1615年(元和元)

(既に廃城)

薩摩藩の外城制度が確立していく

一国一城令、大坂夏の陣

12

1993年(平成5)

国の史跡に指定される

1

2017年(平成29)

続日本100名城(198番)に選定

2


第三章:戦国動乱と知覧城 ―島津氏の九州統一における役割―

戦国時代が激化する16世紀、知覧城と城主佐多氏は、島津宗家の勢力拡大という大きな歴史の潮流の中で、その軍事力を支える重要な一翼を担った。彼らは島津一門としての忠誠を示し、その九州統一事業に深く関与していく。

3-1. 島津氏の有力一門としての佐多氏

16世紀後半、島津貴久とその子・義久の時代になると、島津氏は薩摩・大隅・日向の三州統一、さらには九州制覇へと向けて本格的な軍事行動を開始する 16 。この過程において、知覧の佐多氏は、頴娃氏や川辺の平田氏といった他の有力な国人領主らと共に、島津宗家に従う中核的な戦力として活躍した 21 。彼らは島津一門の中でも特に有力な家臣である「一所持」として、その領地支配を安堵される代わりに、宗家の軍事動員に兵を率いて参陣する義務を負っていた。

佐多氏が島津軍の最前線で戦っていたことを示す悲劇的な出来事が、天正14年(1586年)から始まる豊薩合戦の最中に起きる。九州の覇権をかけて豊後の大友氏と激突したこの戦いにおいて、佐多氏10代当主・佐多氏久政は豊後国の田北城を攻める戦いの中で討死を遂げたのである 13 。当主の戦死という最大の犠牲は、佐多氏が島津一門として果たした忠誠の証であった。しかし同時に、それは島津宗家の栄光が、常に庶流の血と犠牲の上に成り立っていたという、戦国大名家における厳然たる事実を物語っている。このような犠牲を払うことによって、佐多氏は島津家内での地位を維持し、知覧という重要な地の領有を認められ続けてきた。これは、宗家と一門衆の間に存在する、相互依存と緊張関係を内包した複雑な主従関係の力学を如実に示している。

3-2. 豊臣秀吉の九州平定とその影響

破竹の勢いで九州統一を目前にしていた島津氏であったが、天正15年(1587年)、関白豊臣秀吉による圧倒的な軍事力の前に降伏を余儀なくされる 18 。これにより、九州における戦国時代の動乱は事実上の終焉を迎えた。

中央政権の介入は、知覧の佐多氏にも直接的な影響を及ぼした。九州平定後、秀吉の命により領国の再編(九州国分)と検地(太閤検地)が実施された。その過程で、文禄4年(1595年)、知覧は一時的に種子島久時の所領となり、佐多氏は所領を離れることとなった 13 。この領地替えは、戦国時代を通じて続いてきた佐多氏による知覧支配を、中央政権の意思が覆すことができるという事実を突きつけるものであった。

幸いにもこの措置は一時的なものであり、慶長15年(1610年)には、佐多氏は再び知覧の領主として復帰を果たす 13 。しかし、この一連の出来事は、戦国大名の領主とその家臣団の関係が、土地を媒介とした絶対的な主従関係から、石高によって規定される、より近世的な知行制へと移行していく時代の大きな転換点の中に、知覧佐多氏も位置していたことを示している。


第四章:発掘調査が語る城内の生活と交易

知覧城は、その峻険な地形と堅固な防御施設から、純然たる軍事要塞としてのイメージが強い。しかし、平成10年(1998年)から平成17年(2005年)にかけて実施された発掘調査 22 は、そのイメージを覆し、城内で営まれていた人々の豊かな生活と、意外なほどの広域交易との繋がりを明らかにした。

4-1. 城内施設の発見

発掘調査により、蔵之城などの主要な曲輪から、複数の掘立柱建物跡が発見された 4 。柱穴の配置から、これらは領主の居館や政務を執り行う政庁、あるいは兵士たちの詰所といった、比較的大規模で恒久的な施設であったと推定される。これは、知覧城が戦の時だけ使われる臨時の砦ではなく、平時においても地域の政治・経済の中心として機能していたことを示唆している。

また、城内に墓が築かれていたことも判明している 4 。これは、城が領主一族にとって、単なる生活や統治の場であるだけでなく、祖先を祀り、一族の永続を願う祭祀の中心地でもあったことを物語っている。

4-2. 出土遺物が示す豊かな暮らしと文化

城内からは、当時の生活を窺い知ることができる多種多様な遺物が出土している。料理に使われたと考えられる石鍋、建材であった鉄釘、女性が身につけたであろうかんざし、そして武士の教養には不可欠であった硯など、日常的な道具が多数発見された 4 。特に硯の出土は重要であり、城内で書簡のやり取りや記録の作成といった文書行政が行われていたことを示している。これは、知覧を治めた佐多氏とその家臣団が、武勇だけでなく、統治に必要な実務能力と一定の教養を兼ね備えていたことの証左である。もちろん、刀装具などの武具も発見されており、知覧城が軍事拠点であったという本来の性格も裏付けている 4

4-3. 南九州の山城と国際交易網

発掘調査における最も驚くべき発見は、海外からもたらされた舶来品の数々であった。15世紀から16世紀にかけての中国産陶磁器(青磁や白磁など)や、タイ、ベトナムといった東南アジアで生産された陶器が大量に出土したのである 2 。さらに、明代の中国で鋳造された「洪武通宝」などの渡来銭も発見されており 2 、城内で貨幣経済が浸透していたことを示している。

これらの舶来品は、孤立した山城である知覧城に空から降ってきたわけではない。その背景には、当時の薩摩半島が、琉球王国を介した東アジアの国際交易ネットワークの重要な窓口であったという歴史的状況がある。知覧の港は琉球貿易の拠点の一つであり 24 、そこから陸路で領主の拠点である知覧城へと、異国の珍しい品々が運び込まれたと考えられる。

この事実は、知覧城が単に南九州の一地方拠点であっただけでなく、国際交易網に接続された経済活動の結節点でもあったことを明確に示している。佐多氏のような地方領主にとって、軍事力や土地支配が権力の基盤であったことは言うまでもない。しかし、それだけではなかった。琉球を通じて入手できる希少な舶来品を独占的に所有し、それを家臣への恩賞として分配することは、自らの権威を内外に示し、家臣団を統制するための極めて有効な手段であった。つまり、彼らの権力の源泉は、軍事力に加えて、こうした広域交易へのアクセス権にもあったのである。その意味で、知覧城は、佐多氏の富と権威が集中し、それを「見せる」ための政治的な舞台でもあったと言えるだろう。


第五章:廃城と麓への移行 ―武家屋敷群の母体として―

戦国の世を生き抜いた知覧城であったが、時代の大きな変化とともにその役目を終える時が来る。しかし、その終焉は、新たな時代の始まりを告げるものでもあった。城の機能は麓へと継承され、現在我々が目にする美しい武家屋敷群の礎となったのである。

5-1. 原因不明の火災による終焉

知覧城の歴史に終止符を打ったのは、合戦による落城でも、幕府の命令による破却でもなかった。天正16年(1588年)頃 2 、あるいは慶長年間 13 ともされる時期に、原因不明の火災が発生し、城内の主要な建物が焼失したのである。

この火災の後、城が再建されることはなく、事実上の廃城となった 11 。ここで特筆すべきは、この廃城が、江戸幕府によって慶長20年(1615年)に発令された「一国一城令」よりも前であったという点である 2 。一国一城令によって廃城となった多くの城が、再利用を防ぐために石垣や堀を徹底的に破壊されたのに対し、知覧城は人為的な破却を免れた。その結果、石垣を持たない土の城であったことも幸いし、空堀や土塁といった壮大な土木構造物が、築城当時の姿を極めて良好な状態で今日まで残すことになったのである 3

5-2. 麓(ふもと)への中心機能移転

では、なぜ火災後に城は再建されなかったのか。その背景には、豊臣秀吉による天下統一(1590年)以降、日本全国で大規模な戦乱の時代が終わりを告げ、山城の軍事的価値そのものが相対的に低下していたという、時代の大きな変化がある。有事に備えるための、峻険で不便な山城を莫大な費用をかけて維持・再建するよりも、麓に平時の行政や生活に適した拠点を構える方が、領主にとって合理的となっていた。

知覧城が廃された後、この地の政治・行政の中心は、知覧城の支城であった亀甲城の山麓に形成された「知覧麓」へと完全に移った 3 。これは、薩摩藩が藩内113箇所に設けた地方支配の拠点「外城(とじょう)」の一つとして整備されたものである 24 。外城制度とは、藩主の居城である鹿児島城下に武士を集住させるのではなく、領内各所に武士団を分散配置することで、軍事的な防衛と地方行政を一体的に行うという、薩摩藩独自の統治システムであった 26

この知覧麓こそが、現在「薩摩の小京都」として名高い知覧武家屋敷群の直接の母体となったのである 1 。知覧城は、その歴史的役割を終えた後も、麓に住まう武士たちの精神的な拠り所、すなわち「母」なる存在として、その後の知覧の歴史を見守り続けたと言えよう 4

知覧城の火災は、一つの城の歴史の終わりを告げる出来事であったと同時に、「戦の時代」から「治の時代」への移行を象徴する出来事でもあった。この偶発的な火災が触媒となり、知覧は南九州の他の地域に先駆けて、中世的な山城中心の支配体制から、近世的な麓(外城)中心の支配体制へと円滑に移行することができた。その意味で、知覧城の廃城は、新しい時代の幕開けを告げる狼煙だったのである。


第六章:知覧の地に残る神話と伝承

知覧城とその周辺地域には、城郭という軍事施設の歴史とは別に、この土地に古くから根付く神話や伝承が息づいている。特に、海神の娘・豊玉姫の伝説は、知覧の文化的景観に深みを与えている。

6-1. 豊玉姫伝説

記紀神話にも登場する豊玉姫は、この知覧の地を治めたという伝説が色濃く残されている 15 。伝説によれば、妹の玉依姫と行き先を取り違えた豊玉姫は知覧へと向かい、城山(後の亀甲城)の麓に宮居を定めてこの地を宰領したと伝えられる 27

この伝説の舞台は、後の時代の歴史的中心地と見事に重なり合っている。豊玉姫が宮居を定めたとされる場所は、まさしく知覧城の支城である亀甲城の麓であり、近世に知覧麓として整備され、現在武家屋敷群が広がる一角であったとされている 27 。そして、その地には今も豊玉姫を祀る豊玉姫神社が鎮座し、地域の人々の信仰を集めている 15

6-2. 歴史と神話の交錯

このような神話の存在は、歴史を考察する上で興味深い視点を提供する。中世の武士たちがこの地を重要な拠点として選び、壮大な城郭を築いた背景には、単に地形が軍事的に優れていたという物理的な理由だけではなく、古代から続く神話によって聖化された「聖地」としての認識があった可能性も考えられる。

また、この地を治めることになった佐多氏のような領主にとって、地域に根付いた伝承を保護し、自らがその正当な後継者であることを示すことは、支配の正統性を補強する上で有効な手段であっただろう。慶長15年(1610年)、佐多忠充が現在の社地を寄進して豊玉姫神社を遷宮したという記録 15 は、領主が地域の信仰と深く結びついていたことを示唆している。知覧城の歴史は、武士たちの現実的な政治・軍事活動と、古代から続く神話的世界観が交錯する、重層的な文化的土壌の上に成り立っていたのである。


結論:中世南九州を象徴する山城の歴史的価値

知覧城は、その歴史的、構造的、文化的な側面において、中世南九州を理解するための鍵となる、極めて価値の高い史跡である。

第一に、その 構造的価値 は日本の城郭史の中でも特筆に値する。シラス台地という特異な地形を最大限に活用して築かれた「南九州型城郭」の典型例として、人の背丈を遥かに超える巨大な空堀と、あたかも絶壁のようにそそり立つ垂直な切岸は、他の地域の城郭では見られない圧倒的な迫力を持つ。それは、自然と人間の知恵が融合して生み出した、究極の防御施設の姿を今に伝えている。

第二に、その 歴史的価値 は、南九州の動乱の時代を映し出す鏡である。平安時代末期にその起源を持ち、室町時代には島津氏一門・佐多氏の拠点として確固たる地位を築いた。そして戦国時代には、島津氏の三州統一から九州制覇に至る軍事行動において重要な役割を果たした。その歴史は、島津宗家と一門衆との複雑な関係、そして豊臣政権という中央権力との対峙など、戦国時代から近世へと移行する時代の力学を凝縮している。

第三に、その 文化的価値 は、山城のイメージを大きく塗り替えるものである。発掘調査によって明らかになった中国や東南アジアからもたらされた多量の舶来品は、知覧城が孤立した軍事拠点ではなく、琉球を介した広域交易ネットワークに接続された、国際性豊かな経済・文化の拠点であったことを物語っている。さらに、火災による廃城後、その機能が麓の武家屋敷群へと継承され、薩摩藩独自の地方支配体制である外城制度の核となった事実は、中世から近世への社会システムの移行を具体的に示す貴重な事例である。

良好な保存状態を誇る知覧城跡は、今後もさらなる学術的な調査・研究によって、中世南九州の社会、経済、文化に関する新たな知見をもたらす可能性を秘めている。それは過去の遺物であるだけでなく、未来に向けて歴史を語り続ける、第一級の歴史遺産であると結論付けられる。

引用文献

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  2. 知覧城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A6%A7%E5%9F%8E
  3. 知覧城 | 見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kyusyu/chiran/chiran.html
  4. 知覧城跡 |日本遺産ポータルサイト - 文化庁 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/4698/
  5. 南九州型城郭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9E%8B%E5%9F%8E%E9%83%AD
  6. シラス台地 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%B9%E5%8F%B0%E5%9C%B0/
  7. 萩原さちこの城さんぽ〜日本100名城・続日本100名城編〜 第27回 志布志城 シラス台地が生み出した、圧巻の「空堀天国」 https://shirobito.jp/article/1007
  8. 志布志城 | 九州隠れ山城10選 | 九州の感動と物語をみつけようプロジェクト https://www.welcomekyushu.jp/project/yamashiro-tumulus/yamashiro/21
  9. シラス文化 - 鹿児島市 - かだいおうち Advanced Course https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/oyo/advanced/geology/shirasu.html
  10. 国史跡 知覧城跡 https://sirohoumon.secret.jp/chiranjo.html
  11. 【続日本100名城・知覧城編】火山地形を活用した南九州特有の中世城郭 - 城びと https://shirobito.jp/article/589
  12. 知覧城(Chiran-Castle) - 城絵巻 https://castle.toranoshoko.com/castle-chiran/
  13. 知覧城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kyushu/chiran.j/chiran.j.html
  14. 中世における島津氏の分家について、まとめてみた https://rekishikomugae.net/entry/2021/08/06/172958
  15. 知覧の亀甲城跡にのぼってみた、豊玉姫の伝説も残る - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/01/23/105219
  16. 島津貴久とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B2%B4%E4%B9%85
  17. 九州制覇の夢 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/chusei/kyushu/index.html
  18. 島津義久とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
  19. 島津義弘没後四百年 - 鹿児島県観光連盟 https://www.kagoshima-kankou.com/storage/files/shares/feature_pdf/1906_shimadu.pdf
  20. 知覧城 シラス土壌を利用した自然の要塞 - Harada Office Weblog https://haradaoffice.biz/chiran-castle/
  21. Untitled - 南九州市 https://www.city.minamikyushu.lg.jp/material/files/group/20/03.pdf
  22. 【国指定史跡】知覧城跡の発掘調査 - 南九州市 https://www.city.minamikyushu.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaika/bunkazai/4/2/2157.html
  23. 研 究 紀 要 https://saga-museum.jp/ceramic/docs/812cfd2ab65866e5576fc76b76cd7199.pdf
  24. 歴史と平和の尊さを語り継ぐまち、知覧 http://www.jutaku-sumai.jp/town/machinami/chiran.html
  25. 南九州市知覧伝統的建造物群保存地区 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/kg0194/
  26. 続日本100名城「知覧城」と ”薩摩の小京都” 知覧の武家屋敷 - オババのトラベルジャーナル https://obabajournal.hatenablog.com/entry/2024/04/27/080000
  27. 豊玉姫伝説の地を巡る https://toyotamahime-jinja.or.jp/densetsu.php