宮崎平野の西部に位置し、現在は宮崎市立生目小学校の敷地にその痕跡を留めるのみとなっている日向国「石塚城」 1 。一見すると、その歴史は時の流れの中に埋没してしまったかのように思われます。しかし、残された断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせるとき、この城が日向国における伊東氏の興亡、そして宿敵・島津氏との熾烈な覇権争いを映し出す、極めて重要な鏡であったことが浮かび上がってきます。本報告書は、考古学的知見と文献史学の双方から石塚城の実像に迫り、それが日向の戦国史において果たした歴史的役割を多角的に解明することを目的とします。
石塚城は、現在の宮崎県宮崎市大字浮田字城ノ下にその跡地が比定される山城です 1 。水田地帯に浮かぶ独立丘陵を利用して築かれ、主な遺構として曲輪や空堀(横堀)の存在が伝えられていますが、前述の通り小学校の建設や周辺の宅地化により、地表で往時の姿を明確に確認することは困難な状況にあります 1 。それでもなお、その歴史的重要性から宮崎市の市参考文化財に指定され、地域の歴史を物語る貴重な文化遺産として保護されています 1 。
本報告書の理解を助けるため、まず石塚城に関連する主要な出来事を時系列で整理した年表を以下に示します。この年表は、本城が経験した約250年間にわたる歴史の大きな流れを俯瞰するための道標となるでしょう。
表1:石塚城 関連年表
年代(西暦/和暦) |
主な出来事 |
関連人物・勢力 |
1336年(建武3) |
浮田庄の瓜生野八郎右衛門尉が石塚城の前身とされる城に拠り挙兵(南朝方)し、鎮圧される 5 。 |
瓜生野氏、土持宣栄、伊東祐持 |
1394-1428年(応永年間) |
伊東祐武(石塚殿)が石塚城を築城し、居城とする 1 。 |
伊東祐武 |
1401年(応永8) |
島津勢(島津久豊)が石塚城を攻撃。伊東祐武はこれを撃退する 2 。 |
伊東祐武、島津久豊 |
1447年(文安4) |
伊東祐堯の宮崎平野進出に伴い、石塚城は戦闘を経ずに開城し、伊東宗家の支配下に入る 2 。 |
伊東祐堯 |
1484年(文明16) |
石塚の兵が伊東宗家の当主・伊東祐邑に従い出兵する 2 。 |
伊東祐邑 |
1541年(天文10) |
長倉能登守の乱が発生。石塚城は長倉方に加担するも、乱は鎮圧される 2 。 |
長倉能登守祐省、伊東義祐 |
16世紀中頃 |
伊東氏の最盛期、「伊東四十八城」の一つに数えられ、城主として平賀刑部少輔の名が見える 2 。 |
伊東義祐、平賀刑部少輔 |
1577年(天正5) |
伊東氏が島津氏に敗れ日向国から一時退去。石塚城も島津氏の支配下に入ったと推定される 9 。 |
伊東義祐、島津義久 |
1615年(元和元) |
一国一城令により、日向国内の多くの支城と共に廃城となった可能性が高い 11 。 |
徳川幕府 |
1870年(明治3) |
『日向地誌』に、城跡に学校が作られたとの記録が残される 2 。 |
- |
現代 |
宮崎市立生目小学校の敷地となり、市参考文化財に指定される 1 。 |
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石塚城の歴史を理解するためには、まずその地理的環境と、城が築かれる以前の歴史的背景に目を向ける必要があります。城の立地は、単なる偶然ではなく、古代から続くこの地域の重要性を反映したものでした。
石塚城は、宮崎平野の西部、大淀川の右岸に広がる独立した丘陵上に築かれました 2 。この場所は、西部の山間地から平野部へ抜ける交通の結節点を押さえ、宮崎平野全体を広く見渡すことができる、極めて戦略的な価値の高い立地でした。
さらに注目すべきは、城の周辺一帯が古代から政治的な中心地であったという事実です。城のすぐ北東には、国指定史跡である生目古墳群が広がっています 13 。この古墳群は、特に4世紀代において、西都原古墳群をしのぐほどの大型前方後円墳を擁し、当時の南九州全域における盟主的な勢力の拠点であったと推測されています 14 。このことは、石塚城が築かれた土地が、単なる軍事的な要衝であるだけでなく、古代からの権威と歴史が幾重にも積み重なった場所であったことを示唆しています。
一般的に石塚城の歴史は、応永年間の伊東祐武による築城から語られ始めます 6 。しかし、文献を深く読み解くと、その半世紀以上も前に、この地が既に軍事拠点として利用されていたことがわかります。建武3年(1336年)、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、全国が南北朝の動乱に巻き込まれる中、南朝方であった浮田庄の預所・瓜生野八郎右衛門尉が、この丘陵に拠点を構えて挙兵したという記録が残されています 5 。
この反乱は、足利尊氏に味方する北朝方の土持宣栄や、日向に下向してきた伊東氏の祖・伊東祐持らによって速やかに鎮圧されました 5 。しかし、この出来事は極めて重要な意味を持ちます。それは、伊東祐武が石塚城を「創造」したのではなく、南北朝の動乱の中で既にその軍事的地勢的価値が「発見」され、実証されていた場所に、より恒久的な城郭を整備した可能性が高いことを示しているからです。石塚城の歴史的評価は、単に「応永年間に築かれた城」という静的なものではなく、「南北朝時代から続く戦略的要衝」という動的な文脈で捉え直すべきなのです。
城が位置する生目地域は、中世を通じて豊前国の宇佐八幡宮を本所とする荘園「浮田庄」として開発が進められました 13 。地域の鎮守である生目神社は、古くは生目八幡宮と称され、この荘園鎮守として勧請されたと考えられています 13 。鎌倉時代の末期には、荘園内に「生目方」や「跡江方」といった地名が見られることから、この頃には安定した地域社会が形成されていたことが窺えます 13 。
このように、石塚城は、古代の政治的中心(古墳群)、中世の宗教的・経済的中心(荘園)、そして南北朝時代の軍事的拠点という、幾層もの歴史の上に築かれました。この城の存在は、時代ごとの権力の源泉がこの土地に重層的に投影されてきた歴史の、一つの到達点と見なすことができるでしょう。
応永年間(1394年〜1428年)、石塚城は伊東祐武という一人の武将によって本格的な城郭として整備され、日向の歴史の表舞台に登場します。この時代は、日向における伊東氏と島津氏の覇権争いが本格化する前夜であり、石塚城はその最前線に位置することになりました。
石塚城を築いた伊東祐武は、日向伊東氏の宗家(都於郡伊東氏)の当主ではなく、その庶流である門川伊東氏の出身でした 7 。彼は「石塚殿」と称され、この城を拠点として半ば独立した勢力を築いていたと考えられています 7 。通称は肥後守孫次郎と伝わっており 7 、一説にはこの城を本拠としたことから石塚姓を名乗るようになったとも言われます 7 。
祐武が伊東宗家から独立した存在であったという点は、石塚城の歴史を考える上で極めて重要です。この時期の伊東氏は、強力な当主が全てを統制する一枚岩の組織ではなく、宗家と有力な庶流がそれぞれ自立的な勢力圏を持つ、一種の武士団連合体のような性格を帯びていました。したがって、石塚城の築城は、伊東宗家の計画的な領土拡大政策というよりも、祐武という野心的な庶流の当主が、島津氏との勢力争いの最前線で自らの実力をもって領地を切り拓き、その支配を確立するための拠点として築いたと解釈するのが、より実態に近いと言えるでしょう。この独立性は、後の時代に伊東宗家との間に緊張関係を生む伏線となります。
祐武が石塚城を拠点として勢力を固める一方、南の薩摩・大隅では島津氏が日向への進出を虎視眈々と狙っていました。軍記物である『日向記』によれば、応永8年(1401年)、伊東祐武は石塚城に入り、侵攻してきた島津勢を迎え撃ち、これを一掃したとされています 2 。
この時、島津軍を率いていたのは、後に島津宗家の8代当主となり、分裂していた一族の統一を成し遂げることになる英主・島津久豊であった可能性が濃厚です 7 。久豊は当時、伊東氏を牽制する目的で日向国の要衝・穆佐城に派遣されており、兄である当主・元久の補佐役を務めていました 17 。この戦いに際し、島津方は石塚城の南東約700メートルの丘陵に高蝉城を築いて対抗したという記録も残っており 5 、石塚城周辺が両勢力の文字通り最前線として、激しい攻防の舞台となったことが窺えます。
この戦いは、単なる国境紛争以上の意味を持っていました。それは、日向、大隅、薩摩の未来を左右することになる両氏族の重要人物、伊東氏の実力者・祐武と、島津氏の次代を担う久豊が、そのキャリアの初期において直接雌雄を決した、象徴的な出来事だったからです。石塚城の堅固さと祐武の頑強な抵抗は、若き日の久豊にとって手痛い経験となったことでしょう。事実、久豊はこの後、伊東氏との間に和睦の道を探り、伊東祐安の娘を娶るという融和策に転じています 17 。石塚城での敗北が、島津氏の対伊東氏戦略に再考を促す一因となった可能性も否定できません。
伊東祐武によって築かれ、島津氏の侵攻を食い止めた石塚城は、15世紀半ばに大きな転換点を迎えます。日向国内における伊東宗家の支配力が強まる中で、その支城網の一つへと組み込まれていくのです。独立した領主の城から、巨大な領国を支える歯車へ。その役割の変化は、伊東氏の内部で繰り広げられた権力闘争の歴史と密接に結びついていました。
15世紀半ば、伊東宗家の当主となった伊東祐堯は、日向における領国統一事業を本格化させます。文安3年(1446年)、祐堯は宮崎平野の中心であった宮崎城や細江城を相次いで攻略し、この地域の支配権を確立しました 2 。
この伊東宗家による圧倒的な力の奔流に対し、これまで独立性を保ってきた石塚城も無関係ではいられませんでした。祐堯による宮崎平野制圧の翌年、文安4年(1447年)、石塚城は祐堯に対して「開城」したと『日向記』は伝えています 2 。注目すべきは、これが武力による「攻略」ではなく、交渉の末の「開城」であった点です。これは、祐堯が石塚殿の勢力を完全に殲滅するのではなく、その力を認めつつ宗家の権威下に組み込むという、現実的な選択をしたことを意味します。在地勢力の一定の自立性を認めざるを得なかった証左とも言えるでしょう。
この開城により、石塚城の性格は大きく変わりました。伊東氏庶流の独立拠点から、伊東宗家の広大な領国支配を支える支城網の重要な一角へと、その役割を転換させたのです。開城後、石塚城は宗家の直接的な管理下に置かれ、文明16年(1484年)には、時の当主・伊東祐邑に従って石塚の兵が出兵するなど、宗家の軍事行動に動員される存在となっていきました 2 。
伊東宗家の支配下に組み込まれた石塚城でしたが、その服属は必ずしも安泰なものではありませんでした。開城から約100年後、伊東氏の家中で勃発した内乱は、石塚城が抱えていた宗家への複雑な感情を白日の下に晒すことになります。
天文10年(1541年)、伊東氏の家中で大規模な内乱が勃発します。時の当主・伊東義祐との関係が悪化していた一族の重臣・長倉能登守祐省が、穆佐城、長嶺城、田野城、そして石塚城の四城を率いて反旗を翻したのです(長倉能登守の乱) 8 。祐省は、伊東氏と長年対立していた南の日向の雄、飫肥の島津豊州家からの援軍も得ており、この反乱は伊東氏の支配体制を根底から揺るがす深刻なものでした 8 。
この乱において、石塚城は明確に反乱軍である長倉方に加わりました 2 。これは、当時の石塚城主、あるいは城を中心とする地域の国人層が、伊東宗家による支配強化に対して強い不満を抱えていたことを示唆しています。かつて独立領主であった「石塚殿」の記憶が、宗家への反発心として燻り続けていたのかもしれません。戦闘は石塚城の南東に位置する高蝉や長嶺で繰り広げられ、結果的に伊東義祐が率いる宗家方が勝利し、長倉祐省は討ち死にしました 2 。
興味深いことに、宗家に反旗を翻したにもかかわらず、石塚城はこの後も取り潰されることなく、伊東氏の領地として安定していたと記録されています 2 。これは、伊東義祐が反乱の首謀者のみを厳しく処罰する一方で、それに加担した諸城の在地勢力に対しては、支配体制の動揺を避けるために懐柔策を取った可能性を示しています。
伊東祐堯による「開城」と、長倉の乱における「反乱」、そしてその後の「存続」。これら一連の出来事は、伊東氏の領国支配が、当主による絶対的なトップダウン支配ではなく、在地勢力との絶え間ない緊張と妥協の上に成り立つ、極めて繊細なバランスの上に成り立っていたことを物語っています。石塚城の歴史は、その力学を象徴的に示す格好の事例と言えるでしょう。
長倉能登守の乱という内憂を乗り越えた伊東氏は、16世紀後半、伊東義祐のもとでその勢力を最大化させ、日向国の覇者として君臨します。この最盛期において、石塚城は伊東氏の支配を支える重要な軍事拠点として、再びその価値を高めることになりました。
伊東義祐は、島津氏や土持氏との長年の抗争の末、日向国の大半をその勢力下に収めました 20 。この広大で複雑な地形を持つ領国を実効支配するために、義祐は領内の要衝に「伊東四十八城」と称される支城網を張り巡らせました 21 。これは、単なる防御拠点としてだけでなく、兵站の集積地、情報伝達の中継点、そして在地勢力を監視・統制する拠点として機能する、高度な領国経営システムでした。石塚城もまた、この壮大な支城網の重要な一角を占めていたのです 2 。
『日向記』には、伊東四十八城の一つとしての石塚城主として、平賀刑部少輔(ひらが ぎょうぶのしょうゆう)という人物の名が記されています 1 。平賀氏は伊東氏の庶流であり、特に初代城主・伊東祐武と同じ門川伊東氏に属する一族でした 22 。長倉の乱で反乱側についた石塚城の城主に、あえて初代城主と縁の深い一族を任命したことは、注目に値します。これは、伊東義祐が、乱に加担した在地勢力を力で押さえつけるのではなく、彼らと縁戚関係にある、かつ宗家に忠実な一族を城主として送り込むことで、地域の融和を図りつつ城の直接支配を強化するという、非常に巧みな人事政策を行った可能性を示唆しています。
城の構造については、水田地帯に浮かぶ丘を利用した山城で、本丸と二の丸に分かれていたと伝えられています 23 。具体的な縄張り(設計図)は不明ですが、遺構として曲輪や横堀(空堀)の存在が確認されていることから 1 、切岸や土塁などを備えた、典型的な中世山城の姿をしていたと考えられます。伊東四十八城の一つとして、周辺地域の兵員や兵糧を管理し、南の島津領に対する監視と防御の任を担っていたことでしょう。
栄華を極めた伊東氏でしたが、その支配は永くは続きませんでした。宿敵・島津氏の台頭により、日向の勢力図は劇的に塗り替えられます。伊東氏の没落と共に、その支配を支えた石塚城もまた、歴史の表舞台から静かに姿を消していくことになります。
天正5年(1577年)、伊東氏は高原城をめぐる戦い(木崎原の戦いでの敗北が大きな転機となる)で島津氏に大敗して以降、その猛攻に抗しきれなくなります。ついに本拠地である都於郡城を放棄し、当主・伊東義祐は多くの家臣を率いて豊後国の大友宗麟を頼って落ち延びるという、屈辱的な敗走を喫しました 9 。
この「伊東崩れ」と呼ばれる歴史的事件により、石塚城を含む伊東四十八城の支城網は一挙に崩壊しました。城主が逃亡した城は放棄され、あるいは抵抗した城も次々と島津氏の手に落ちていきました 10 。この時期の石塚城に関する具体的な記録は乏しいものの、他の多くの支城と同様に、島津氏の支配下に入ったか、あるいは戦略的価値を失い放棄されたと考えられます。
伊東氏が日向を失い、島津氏による統一支配が確立されると、国内に多数の支城を維持する必要性は薄れます。かつては国境の最前線であった石塚城も、もはやその重要性を失いました。その後の耳川の戦い 25 や豊臣秀吉の九州平定 26 といった歴史の大きな転換点において、石塚城が何らかの役割を果たしたという記録は見当たりません。城を必要とした「時代」そのものが終わりを告げたのです。
豊臣秀吉による九州平定後、日向国は細分化され、関ヶ原の戦いを経て江戸時代に入ると、その支配体制はさらに再編されます 27 。そして、元和元年(1615年)、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じます(一国一城令) 12 。この法令により、日向国内でも飫肥城や佐土原城といった藩庁が置かれた城を除く、数多くの支城が廃城となりました 11 。石塚城も、この時に正式にその歴史の幕を閉じた可能性が極めて高いと考えられます。
戦国の世の終わりと共にその役割を終えた石塚城は、長い年月を経てその姿を大きく変えました。しかし、形は変われども、その土地は地域の歴史を静かに語り継いでいます。
かつての城跡は、現在、宮崎市立生目小学校の敷地およびその西側に隣接する丘陵地となっています 1 。古い地誌である『日向地誌』には、明治3年(1870年)に城の跡地に学校が作られたと記されており、これが現在の生目小学校の前身にあたると考えられています 2 。学校の建設やグラウンドの造成、そして周辺の宅地化によって、残念ながら城の遺構の多くは失われ、往時の姿を具体的に偲ぶことは困難な状況です 4 。
近年に宮崎西バイパスの建設工事に伴い、小学校西側の丘陵部で発掘調査が実施されました 2 。この調査では、丘陵の頂上部にあたるA区から、摩滅した土師器の破片が数十点まとまって出土しました。しかし、堀や建物の跡といった明確な城の遺構は確認されませんでした。また、中腹の平坦地であったB区では、遺構・遺物ともに発見されませんでした 2 。この調査結果は、城の中枢部が現在の小学校敷地内に存在し、開発によって失われた可能性が高いことを示唆する一方で、現存する地形から考古学的に城の全容を解明することの難しさも示しています。
遺構が乏しい中でも、石塚城跡はその歴史的背景の重要性から、宮崎市の市参考文化財に指定されています 1 。それは、この城が日向伊東氏の興亡史、特にその領国形成の過程を解き明かす上で欠かせないピースであることを示しています。
中世において、城は単なる軍事施設ではなく、地域の政治・経済の中心であり、そこに住む人々を守り、育む拠点でした。石塚城もまた、生目地域の人々の生活と深く結びついていたはずです。その城跡に、近代以降、未来を担う子供たちを教育する「学校」が建てられたことは、一つの象徴的な出来事と捉えることができます。物理的な防御拠点としての「城」から、知性と人間性を育む拠点としての「学校」への転換は、時代は変われども、その土地が地域社会にとって重要な場所であり続けていることを示しています。遺構の喪失は惜しまれるべきですが、その土地が持つ「地域の中核」としての役割が、形を変えて現代に受け継がれていると解釈することもできるでしょう。
日向国石塚城の歴史は、南北朝の動乱期にその軍事的価値を見出されたことに始まり、応永年間には伊東氏庶流の伊東祐武による独立拠点として誕生しました。やがて伊東宗家の台頭と共にその支配下に組み込まれ、時には宗家に反旗を翻しながらも、最盛期には伊東四十八城の一つとして日向の覇権を支える重要な役割を担いました。
この城の歴史は、日向伊東氏の支配体制が、宗家と在地領主である庶流との間の、緊張と協力が織りなす絶妙なバランスの上に成り立っていたことを示す、格好の事例と言えます。伊東祐武の自立、伊東祐堯への無血開城、長倉能登守の乱への加担、そして平賀氏による統治という一連の変遷は、伊東氏の領国形成史そのものの縮図であり、戦国大名の領国経営の複雑な実態を私たちに教えてくれます。
伊東氏の没落と共に歴史の舞台から静かに姿を消し、現代ではその面影をほとんど留めていない石塚城。しかし、その丘に刻まれた記憶は、戦国という激動の時代を日向国で生きた武士たちの野心、葛藤、そして栄光と挫折の物語を、今なお静かに、そして雄弁に伝えているのです。