石部城
近江の要衝、石部城は甲賀武士団と六角氏の連携拠点。六角氏が二度籠城し、織田信長に落とされたことで、中世的支配の終焉と近世への転換を象徴する。現在は善隆寺境内となり、地名にその記憶を残す。
石部城の興亡:近江守護六角氏と甲賀武士団の結節点
序章:戦国期南近江における石部城の地理的・戦略的位置づけ
日本の戦国時代史において、近江国は「天下の十字路」と称され、その地政学的な重要性から常に覇権争いの中心にあった 1 。畿内と東国・北国を結ぶ交通網が集中するこの地を制することは、天下を制する上での絶対条件であった。特に、守護大名・六角氏が本拠を構えた南近江は、織田信長の上洛ルートの核心部にあたり、その支配権の帰趨は戦国末期の歴史を大きく左右した 2 。
滋賀県湖南市にその跡を残す石部城は、こうした激動の時代において、小規模ながらも極めて重要な役割を果たした城郭である。その立地は、第一に交通の結節点としての性格を持つ。城の麓を中世の東海道が走り、石部は京都を発って最初の宿泊地となる「京立ち石部泊まり」として知られる宿場町であった 1 。この大動脈を見下ろす丘陵上に城を構えることは、物流と情報の掌握、そして軍事的な通行の管制において大きな意味を持っていた 4 。
さらに重要なのは、石部城が「甲賀口」としての機能を有していた点である 6 。城の南方に広がる甲賀郡は、戦国期において「甲賀郡中惣」と呼ばれる武士と農民による強力な自治的連合体を形成し、ゲリラ戦術に長けた独立性の高い地域として知られていた 1 。石部は、野洲川沿いに甲賀の山中へと至る隘路の入り口に位置しており、この特異な地域への玄関口を扼する戦略拠点であった 5 。
しかし、石部城の真価は、単なる堅固な要塞としてではなく、その背後に広がる甲賀武士団との連携を前提とした「戦略的緩衝地帯」としての役割にあった。史料によれば、石部城は戦闘に特化した堅牢な城郭ではなかったとされている 5 。にもかかわらず、主君である六角氏が二度にわたって政治的・軍事的な窮地からこの城へ避難している事実は、城自体の防御力以上に、その立地がもたらす戦略的価値の高さを物語っている 1 。すなわち、石部城の機能とは、敵の大軍を一時的に足止めし、その間に本隊がより安全な甲賀の山中へと撤退し、地の利を活かしたゲリラ戦の態勢を整えるための時間稼ぎを行う前線基地であった。それは、単なる避難場所ではなく、計算された戦略的後退戦術の起点だったのである。
本報告書では、この石部城を主軸に据え、その築城から落城、そして現代に至るまでの軌跡を、関連する人物や勢力の動向と絡めながら多層的に解き明かしていく。
表1:石部城関連年表
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠資料 |
1469-1487年(文明年間) |
三雲氏により石部城が築城される。 |
三雲氏 |
1 |
1487年(長享元年) |
鈎の陣。六角高頼が将軍・足利義尚に追われ、石部城に籠城する。 |
六角高頼、足利義尚 |
2 |
1528-1532年(享禄年間) |
石部氏(青木氏)が石部城に入城する。 |
石部氏、青木氏 |
4 |
1560年(永禄3年) |
青木四家が山中大和守から金銭を借用する。 |
青木四家、山中俊好 |
10 |
1568年(永禄11年) |
織田信長の上洛。六角承禎・義治父子が観音寺城を追われ、石部城に籠城する。 |
六角承禎、六角義治、織田信長 |
2 |
1570年(元亀元年) |
野洲河原の戦い。六角氏が織田軍に大敗する。 |
六角承禎、柴田勝家、佐久間信盛 |
7 |
1573年(天正元年) |
石部家清が善隆寺を再興する(当初は城跡外)。 |
石部家清 |
13 |
1574年(天正2年) |
佐久間信盛の攻撃により石部城が落城、廃城となる。 |
佐久間信盛、六角承禎 |
2 |
1684年(貞享元年) |
善隆寺が石部城跡の現在地に移転される。 |
|
4 |
第一章:築城と初期の城主—三雲氏の時代
石部城の歴史は、室町時代中期の文明年間(1469-87年)に、近江国甲賀郡の有力国人であった三雲氏によって築かれたことに始まる 1 。三雲氏は、甲賀五十三家、あるいはより中核的な二十一家に数えられる名族であり、主君である近江守護・六角氏のもとで「六宿老」の一角を占めるほどの重臣であった 14 。彼らの本拠地は、石部城の南方、現在の湖南市吉永に位置する三雲城であり、石部城はその支城として機能していたと考えられる 5 。
石部城が築かれた時代背景には、室町幕府と守護大名との間の緊張関係が深く関わっている。特に、近江守護・六角高頼と9代将軍・足利義尚の対立が頂点に達した「鈎の陣」(長享・延徳の乱)は、築城の直接的な動機を理解する上で欠かせない 2 。長享元年(1487年)、将軍義尚は自ら大軍を率いて六角氏討伐のために近江へ出陣した。圧倒的な幕府軍の前に、六角高頼は本拠地である観音寺城を放棄し、甲賀の山中へと逃れて徹底抗戦の構えを見せた。この時、高頼を匿い、抵抗の拠点となったのが、三雲実乃が築いた三雲城であった 14 。
石部城の築城時期(文明年間)と、六角高頼が実際に甲賀へ逃げ込んだ「鈎の陣」(長享元年)が時間的に近接していることは、単なる偶然ではない。三雲氏が主君の命を受けて三雲城を拠点として整備したという事実に鑑みれば、その支城であり、甲賀への入り口に位置する石部城の築城もまた、六角氏の対幕府防衛戦略の一環であった可能性が極めて高い。これは、単に三雲氏が自らの領地を固めるという個別的な目的を超え、幕府軍の侵攻を具体的に想定し、主君である六角氏が甲賀の地へ安全に撤退するためのルートを確保し、その前線を固めるという、より広範な戦略的目的のもとに行われたと推察される。石部城の誕生は、六角氏と甲賀武士団の間に結ばれた、単なる主従関係を超えた強固な軍事的一体性を象徴する出来事だったのである。
第二章:甲賀武士団の拠点—石部氏・青木氏の入城
三雲氏の時代を経て、享禄年間(1528-32年)になると、石部城の城主は石部氏へと交代する 4 。この石部氏は、甲賀五十三家の一角を占める青木氏の一族であり、公式な場では青木氏を名乗っていたことが記録から確認できる 4 。城主としては、青木筑後守秀正と、その子である石部右馬允家長の名が伝えられている 2 。
この時期の石部地域の支配構造は、一人の強力な領主による単独支配ではなく、同族連合による集団指導体制であったことが史料から明らかになっている。『山本順蔵氏所蔵文書』に含まれる永禄元年(1558年)付の文書によれば、石部地域(石部三郷)は、青木石部家、青木岩崎家、青木上田家、青木南家の「青木四家」によって共同で統治されていた 10 。彼らは地域の用水争論などにおいて、共同で利害調整にあたる代表者として機能していた。後に織田信長と対峙した際の石部城主・石部右馬允平家清も、この青木石部家の当主であった 3 。
甲賀武士団は、「郡中惣」という連合組織を通じて強い結束を誇っていたが、その内実には在地領主としての厳しい経済的現実も存在した。永禄三年(1560年)付の「同氏連署借用状」(『山中文書』)は、その一端を垣間見せる貴重な史料である 10 。この文書には、青木四家の当主たちが連名で、同じ甲賀の有力武士である山中大和守(俊好)から銭三十貫文を借用した事実が記されている。文書中で山中氏は「御蔵本」と記されており、高利貸として活動していたことがわかる。返済が滞った場合には、「相当のしち(質)物」、すなわち土地を担保として差し押さえるという厳しい契約であった 10 。
この事実は、甲賀武士団が軍事的な共同体であると同時に、その内部では経済的な貸借関係に基づく複雑な力学が働いていたことを示している。彼らは単なる戦闘集団ではなく、土地経営や資金繰りに日常的に直面する在地領主であった。石部城主であった青木・石部氏もまた、主君六角氏への忠誠という軍事・政治的側面だけでなく、こうした経済的基盤の維持という課題を常に抱えていた。この現実は、彼らが戦国乱世を生き抜く上で下した様々な決断の背景を理解する上で、極めて重要な視点を提供する。
第三章:六角氏の避難城—二度の籠城とその戦略的意義
石部城が日本の戦国史においてその名を刻むのは、近江守護・六角氏が二度にわたり、その存亡を賭けてこの城に避難したことによる。本拠地である観音寺城を失った六角氏が、なぜ決まって石部城を目指したのか。その理由は、城郭の物理的な防御力以上に、その背後に控える甲賀武士団との強固な信頼関係と、石部城が持つ戦略的価値にあった。
一度目の籠城は、長享元年(1487年)の「鈎の陣」である。室町幕府9代将軍・足利義尚の討伐軍に攻められた六角高頼は、巨大な本城である観音寺城を捨て、石部城へと逃げ込んだ 2 。これは、第一章で述べた六角氏と三雲氏による対幕府防衛戦略が実際に発動された事例であり、石部城が甲賀への避難ルートを確保するための最重要拠点として、計画通りに機能したことを証明している。
そして約80年後の永禄十一年(1568年)、石部城は再び歴史の表舞台に登場する。足利義昭を奉じて天下布武の旗を掲げ上洛する織田信長の大軍の前に、六角承禎(義賢)・義治父子はなすすべもなく観音寺城を追われた。この時、彼らが落ち延びた先もまた石部城であった 2 。信長はこの時点では六角氏の追撃よりも迅速な上洛を優先したため、石部城への本格的な攻撃は行われず、六角父子は一時的に危機を脱することができた 5 。その後、彼らは甲賀の有力者である望月氏らの支援を得て、さらに山深い伊賀国へと身を隠している 5 。
これらの歴史的事実は、石部城が六角氏にとって単なる「城」ではなく、最も信頼できる同盟勢力である「甲賀武士団」へのアクセスポイントであったことを明確に示している。観音寺城のような巨大な本拠を失った大名が頼れるのは、物理的な城壁以上に、人的な支援ネットワークである。六角氏にとって、その最大の、そして最後の頼みの綱が甲賀武士団であった 1 。石部城は、その甲賀武士団の中核をなす青木・石部氏が押さえる「甲賀の玄関口」に他ならない。したがって、六角氏が石部城を目指した行動は、単に要害に籠もるという戦術的判断ではなく、「甲賀武士団の支援を確実に得る」という極めて重要な戦略的判断であった。城そのものの価値よりも、城主およびその背後に広がる勢力との強固な関係性こそが、この城を六角氏にとって最後の避難場所たらしめていたのである。
第四章:織田信長による近江平定と石部城の落城
永禄十一年(1568年)に一度は織田信長の追撃を免れた石部城と六角氏であったが、それは束の間の延命に過ぎなかった。信長が足利義昭を追放し、浅井・朝倉氏を滅ぼして(1573年)信長包囲網が崩壊すると、南近江に残る反織田勢力の掃討は、信長にとって喫緊の課題となった 7 。石部城を拠点にゲリラ的な抵抗を続ける六角氏の存在は、もはや見過ごすことのできない脅威だったのである。
六角氏は甲賀の地を拠点に再起を図り、信長への抵抗を続けた。しかし、元亀元年(1570年)6月、織田軍の柴田勝家・佐久間信盛らと野洲河原で激突し、六角軍は決定的な大敗を喫する(野洲河原の戦い) 7 。この敗戦により六角氏の勢力は大きく後退し、南近江における織田方の優位は動かしがたいものとなった。
そして天正二年(1574年)、信長は南近江の完全平定に向け、最後の総仕上げに取り掛かる。信長の重臣・佐久間信盛が率いる大軍が、六角氏最後の拠点である石部城に押し寄せた 2 。この時、城主の石部氏をはじめとする甲賀武士団は最後まで六角氏と共に戦ったが、織田軍の圧倒的な物量の前に城の命運は尽きた。六角承禎・義治父子は辛くも城から脱出することに成功するが、石部城はついに落城し、廃城となった 2 。信長がこの攻撃の後に発した書状からは、この一戦が単に六角氏を駆逐するだけでなく、甲賀郡内の在地領主たちを完全に織田政権に服属させるための示威的意味合いを持っていたことが窺える 7 。
落城後、石部郷は佐久間信盛の所領となり、石部城には信盛の代官として尾張出身の寺西治兵衛秀則が入ったと伝えられている 5 。
石部城の落城は、単なる一つの城の陥落以上の意味を持つ、画期的な出来事であった。この城は、六角氏が甲賀武士団という強力な支援勢力と結びつくための、最後の結節点であった。その拠点が織田方の手に落ちたことは、六角氏が近江における組織的な抵抗を続けるための物理的・人的基盤を完全に喪失したことを意味し、事実上、守護大名・六角氏の政治的生命の終焉を告げるものであった。同時に、これまで六角氏という後ろ盾のもとで半独立的な地位を保ってきた甲賀武士団もまた、織田政権という新たな中央集権的権力に直接向き合わざるを得なくなった。1574年の落城は、南近江における中世的な支配体制(守護大名と国人連合)が終わりを告げ、織豊政権による近世的な一元支配体制へと移行する、歴史の大きな転換点を象徴する出来事だったのである。
第五章:城郭の構造と遺構—失われた城の姿を求めて
戦国時代の舞台から姿を消した石部城は、現在、その面影をわずかに留めるのみである。城郭としての物理的な姿を、残された地形や記録から復元的に考察する。
石部城は、石部集落の南西、阿星山から北へ派生した丘陵の先端部に築かれた平山城であった 4 。標高は約131メートルで 2 、東海道と甲賀への入り口を見下ろす絶好の立地を占めていた。城の主要な範囲は、現在、浄土宗の寺院である善隆寺の境内地と、その東側に広がる墓地であったと推定されている 4 。
現在、城跡で確認できる遺構は限定的である。しかし、注意深く観察すると、善隆寺の境内を取り巻く地形そのものに城郭の痕跡を見出すことができる。特に、寺の北側と西側に残る急峻な斜面は、敵の侵入を防ぐための切岸の跡である可能性が高い 2 。また、境内の一部には土塁の痕跡と思われる高まりも確認でき 1 、空堀や石垣が存在したとの記録もあるが、その多くは後世の改変により失われている 4 。石部城跡としての公式な発掘調査の記録は確認できないが、滋賀県内の中世城郭の発掘調査では、大規模な土木工事の跡や建物の痕跡、井戸などが検出される例があり 20 、石部城にも同様の施設があったと想像される。
城の遺構が明瞭でない最大の理由は、江戸時代における善隆寺の移転にある。善隆寺は、もともと石部城主であった石部右馬允平家清が、天正元年(1573年)に父母の菩提を弔うために再興した、石部氏の菩提寺であった 3 。当初は城跡とは別の場所に建立されたが、江戸時代に入った貞享元年(1684年)、火災を避けるために人家から離れた場所へ移転することになり、その移転先に選ばれたのが、廃城となっていた旧居城・石部城の跡地だったのである 3 。この移転に伴う境内地の造成が、城郭の遺構を大きく損なう原因となったと考えられている 3 。
しかし、この歴史的変遷は、単なる「遺構の破壊」としてのみ捉えるべきではない。むしろ、城主一族による「記憶の継承」という意図的な行為の結果として理解することができる。城としての軍事機能が失われた後、その土地を一族の菩提寺とすることで、武士としての誇りや先祖の記憶を後世に伝えるための精神的な中心地、いわば「聖地」へと転換させたのである。物理的な城は失われたが、その場所が持つ象徴的な意味は、形を変えて受け継がれた。
さらに、この一帯が地元で今なお「殿城(とのしろ)」という地名で呼ばれているという事実は、この土地の記憶が地域社会に深く根付いていることを示している 3 。物理的な遺構が失われてもなお、地名という無形の文化財として城の存在が語り継がれているのである。これは、城跡の歴史的価値が、目に見える遺構の有無だけに依存するものではないことを示す好例と言えよう。
終章:石部城が戦国史に刻んだもの
石部城は、その規模こそ大きくはないものの、戦国時代の近江国、ひいては日本史の転換点において、特異かつ重要な役割を果たした城郭であった。その歴史的意義は、以下の三点に集約することができる。
第一に、石部城は甲賀武士団という、戦国期において他に類を見ない自治的・半独立的な在地勢力の拠点として機能した。城主であった青木・石部氏は、甲賀郡中惣の中核を担う一族であり、その居城は甲賀の自立性を外部に示す象徴であった。城の存在は、単なる軍事拠点に留まらず、地域の政治的アイデンティティを支える役割をも担っていた。
第二に、石部城の歴史は、近江守護・六角氏の命運と分かちがたく結びついていた。二度にわたる六角氏当主の籠城は、この城が単なる属城ではなく、主君が最後の望みを託すほどの信頼を得た戦略拠点であったことを物語っている。特に、織田信長に追われた六角承禎・義治父子の最後の抵抗の舞台となったことで、石部城は、鎌倉時代から続いた名門守護大名・六角氏の栄光と終焉を象徴する場所として、歴史にその名を刻んだ。
第三に、そして最も重要な点として、石部城の落城は、南近江における中世的支配体制の終わりと、織田信長による新たな統一権力の到来を告げる画期的な出来事であった。六角氏と甲賀武士団の連携を断ち切ったこの一戦は、在地領主のゆるやかな連合体に基づく支配構造が、中央集権的な権力によって一元化されていく、戦国時代から近世へと至る大きな歴史的潮流を明確に示している。
軍事拠点としての役割を終えた後、城跡は城主一族の菩提寺・善隆寺の境内地となり、その記憶は信仰の対象として形を変えて継承された。さらに「殿城」という地名は、物理的な遺構が失われた今もなお、かつてこの地に領主の城があったことを静かに語り継いでいる。石部城は、戦国乱世の力学の中で翻弄されながらも、地域の歴史と人々の記憶の中に、確かな足跡を残したのである。
引用文献
- 甲賀の山城Ⅰ 石部城・土山城・黒川氏城 - 丹波霧の里 https://tanbakiri.web.fc2.com/SIGAtuchiyama-siro-docu.htm
- 石部城の見所と写真・100人城主の評価(滋賀県湖南市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2627/
- かつての石部城跡に建つお寺「善隆寺」 https://kokadai1-25.com/archives/report/374
- 石部城 http://yamajirooumi3.g2.xrea.com/2536101.html
- 南近江平定戦-六角氏最後の戦い http://tenkafubu.fc2web.com/rokaku/htm/last02.htm
- 石部城 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/401010100.html
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- 山中氏(やまなかうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%B0%8F-1212805
- 石部城(甲賀城)(滋賀県湖南市) https://masakishibata.wordpress.com/2016/02/07/ishibe/
- 湖南市-湖南市デジタルアーカイブ:新修石部町史 通史篇 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht030470
- 近江にあった石部(いしべ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000098257
- 甲賀の焼き討ちは無かった - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kiyou-21_kido.pdf
- 善隆寺 (滋賀県湖南市石部) 石部城跡 - お寺の風景と陶芸 - Seesaa https://tempsera.seesaa.net/article/493595084.html
- 三雲城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.mikumo.htm
- 近江 三雲城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/mikumo-jyo/
- 近江石部城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/isibe.htm
- 信長公記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98
- 七三)年には石部城・鯰江城も陥落 - 甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/secure/5949/vol7mihon_furoku.pdf
- マップ紹介 - 三雲学区まちづくり協議会 公式ホームページ https://mikumo-gakku.jp/smarts/index/21/
- 紀 要 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kiyou-22_kido.pdf
- 信長の城と戦国近江 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/4035617.pdf
- あの遺跡は今! Part14 報告会資料 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-pdf-anoiseki_14.pdf