最終更新日 2025-08-24

祇園城

祇園城は下野の名族小山氏の拠点。戦国期には北条氏照が改修し、その堅固さを増した。関ヶ原の戦い後、本多正純が城主となるも廃城。現在は史跡公園として、その歴史を今に伝える。

下野の名族・小山氏の拠点 祇園城の総合的研究 ― 戦国期を中心に据えた城郭の変遷と歴史的意義 ―

序章:祇園城 ― 関東平野における戦略的要衝

下野国(現在の栃木県)南部に位置する祇園城は、関東平野の広大な沃野を流れる思川の東岸、比高約20メートルの河岸段丘上に築かれた中世の平山城である 1 。現在は城山公園として整備され、往時の姿を偲ばせる土塁や空堀が残り、市民の憩いの場となっている 3 。公式には「小山城」とも呼ばれるが、地元では古くから「祇園城」の名で親しまれてきた 5 。この通称は、城の守護神として京都の祇園社(現在の八坂神社)を勧請したことに由来し、この城が単なる軍事拠点に留まらない、地域の精神的支柱でもあったことを物語っている 7

祇園城の歴史は、平安時代末期にまで遡り、戦国時代の動乱を経て、江戸時代初期にその役目を終えるまで、約500年にわたり関東の歴史の舞台であり続けた。特に、鎌倉時代以来、下野国守護職を務めた名門武士団・小山氏の興亡と深く結びついており、その盛衰を象徴する存在である。今日、祇園城跡は、近隣の鷲城跡、中久喜城跡と共に「小山氏城跡」として国の史跡に指定され、その歴史的価値は高く評価されている 9

これまでの祇園城に関する研究は、主に小山氏の通史や、国史跡としての保存・整備の文脈で語られることが多かった。しかし、本報告書は、特に「戦国時代」という視点を中心に据え、城郭の構造的変遷を、小山氏から後北条氏、そして徳川氏家臣へと至る権力構造の変動と密接に連動させて解明することを目的とする。さらに、祇園城を単体で捉えるのではなく、鷲城や中久喜城といった周辺城郭群との連携という「面的」な視点から、その戦略的価値を再評価する。

城の呼称が持つ二重性は、この城郭の本質を理解する上で重要な示唆を与える。「小山城」という名は、小山氏という武家の政治的・軍事的拠点としての性格を端的に示す。一方で、「祇園城」という通称は、祇園信仰に根差した地域の精神的中心としての役割を象徴している 5 。城主である小山氏が、武力による支配だけでなく、神仏の加護という宗教的権威を領地経営の正当性に取り込もうとした意図がうかがえる。戦国期において、宗教的権威が支配の重要な要素であったことを鑑みれば、「祇園城」という呼称は、この城が単なる軍事施設ではなく、地域の信仰をも束ねる複合的な拠点であったことを示唆しているのである。

表1:祇園城 年表

時代区分

西暦(和暦)

主な出来事

関連城主

城の状況・改修

平安末期

1148年(久安4)

小山政光による築城伝承 8

小山政光

草創期の居館

鎌倉時代

1180年(治承4)

源頼朝の挙兵に小山氏が参陣 11

小山朝政

関東御家人の中核として勢力拡大

南北朝時代

1380年(康暦2)

小山義政の乱が勃発。鷲城が主戦場となる 12

小山義政

支城の一つとして機能

1382年(永徳2)

義政が敗死し、小山氏嫡流が一時断絶 8

室町時代

14世紀末

結城氏から泰朝が養子に入り小山氏再興 8

結城泰朝

乱後、鷲城に代わり小山氏の中心城郭となる 12

戦国時代

1562年(永禄5)

上杉謙信の攻撃を受け降伏 11

小山高朝

支城網の整備が進む

1576年(天正4)

北条氏照の攻撃により落城。小山秀綱は退去 7

小山秀綱

中世城郭としての形態

安土桃山時代

1576年以降

北条氏照が城代となり、大規模な改修を行う 6

北条氏照

北条流築城術による大改修(馬出し・空堀強化)

1582年(天正10)

織田信長の仲介で秀綱が復帰(北条氏傘下) 6

小山秀綱

北関東支配の拠点として機能

1590年(天正18)

小田原征伐により後北条氏滅亡。小山氏も改易 7

結城晴朝が旧小山領を与えられる 7

結城晴朝

1590年以降

晴朝の養子・結城秀康の所領となる 15

結城秀康

結城氏の支配下に入る

1600年(慶長5)

徳川家康が「小山評定」を開く 2

江戸時代初期

1608年(慶長13)

本多正純が3万3千石で城主となる 11

本多正純

近世城郭への最終整備。城域が最大規模に 2

1619年(元和5)

正純が宇都宮へ転封。祇園城は廃城となる 8

廃城

1622年(元和8)

跡地の一部に「小山御殿」が造営される 18

将軍の日光社参用施設として利用


第一章:祇園城の黎明期と小山氏の台頭

第一節:築城伝説と小山氏の起源

祇園城の正確な築城年代は不明であるが、複数の伝承がその起源を平安時代末期に求めている 2 。最も広く知られているのは、藤原秀郷の子孫を称する小山政光が久安4年(1148年)に築いたという説である 5 。小山氏は、もともと武蔵国に本領を有した太田氏の出自で、政光が下野国小山荘に移住して小山氏を名乗ったことに始まるとされる 5

小山氏は、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、一族を挙げてその麾下に馳せ参じ、鎌倉幕府の創設に大きく貢献した 11 。その功績により、下野国の守護職に任じられ、関東における有力御家人の一人として確固たる地位を築いた 12 。このように、祇園城は、鎌倉幕府の成立と共に台頭した関東有数の名門武士団・小山氏の揺籃の地であり、その後の発展の礎となったのである。ただし、これらの築城に関する記述は後世の記録や伝承に基づくものであり、考古学的な裏付けや同時代の史料で確認できるのは、14世紀後半以降のこととなる 6

第二節:「小山義政の乱」と鷲城・祇園城の役割転換

南北朝時代の動乱期、小山氏は関東の政治情勢において重要な役割を果たしたが、それは同時に一族の運命を揺るがす危機をもたらした。11代当主・小山義政は、下野守護職や所領を巡って宇都宮氏と対立し、ついには鎌倉公方・足利氏満に反旗を翻すに至る 6 。これが康暦2年(1380年)から永徳2年(1382年)にかけて繰り広げられた「小山義政の乱」であり、東国における最大の内乱と称される 12

この乱において、小山氏の軍事活動の中心となったのは、祇園城の南約2キロメートルに位置する鷲城であった 12 。鷲城は、思川に面した堅固な城郭であり、義政の乱では主戦場として、鎌倉府の大軍を相手に激しい攻防が繰り広げられた 10 。祇園城もまた戦場の一つではあったが、この時点での小山氏の本城機能は鷲城が担っていたと考えられている 6

しかし、乱は小山氏の敗北に終わり、義政は自刃、その子・若犬丸も抵抗を続けた末に敗死し、小山氏の嫡流はここに一度断絶するという悲劇的な結末を迎えた 8 。その後、幕府の配慮により、同族の結城氏から泰朝が養子として迎えられ、小山氏の名跡は再興される 8

この当主交代を機に、小山氏の拠点戦略に大きな転換が訪れる。多くの研究が指摘するように、小山義政の乱の後、中心城郭は鷲城から祇園城へと移されたのである 12 。この本城機能の移転は、単なる物理的な拠点の変更以上の意味を持っていた。一族にとって壊滅的な敗北を喫した「負の記憶」が色濃く残る鷲城を主城とすることを避け、新たな体制で再出発するという、新当主・泰朝の強い政治的意志が込められていたと解釈できる。外部から迎えられた新当主にとって、前代の失敗と直結する鷲城を使い続けることは、家臣団の掌握や領内の安定において障害となり得た。したがって、拠点を祇園城に移すことは、過去との決別を内外に示し、自らの指導力の下で小山氏を再建するという象徴的な行為だったのである。この時から、祇園城は名実ともに小山氏の本城として、戦国時代の荒波に臨むこととなる。


第二章:戦国期の動乱と祇園城

第一節:享徳の乱から戦国前期

小山義政の乱による断絶の危機を乗り越え、結城氏の血統によって再興された小山氏は、室町時代後期から戦国時代にかけて、関東の複雑な政治情勢の中で巧みに立ち回り、その勢力を維持・拡大していった。この時期、関東では鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立が激化し、享徳の乱(1455年~)に代表される長期の内乱状態に突入する。小山氏は、主に関東の覇権を争う古河公方と連携し、下野国における有力国人領主として確固たる地位を保った 1

この比較的安定した時期に、本城となった祇園城は段階的に拡張・整備されたと考えられる。さらに、祇園城を中核として、南方の鷲城、東方の中久喜城、そして長福城といった支城群が有機的に結びつけられ、小山氏の領国全体を防衛する広域的な城郭ネットワークが形成されていった 1 。これにより、祇園城は単なる居城に留まらず、小山領の政治・軍事・経済の中枢として、その機能を強化していったのである。

第二節:後北条氏の関東進出と祇園城の変貌

16世紀中頃になると、関東の勢力図は一変する。相模国を拠点とする後北条氏が急速に勢力を拡大し、関東全域にその影響力を及ぼし始めたのである。一方で、越後国からは上杉謙信が関東管領の権威を掲げて頻繁に関東へ出兵し、北関東は後北条氏と上杉氏の草刈り場と化した 21

下野国の小山氏は、この二大勢力の狭間で、存亡を賭けた厳しい選択を迫られることになる。当初、当主の小山高朝・秀綱親子は上杉謙信と同盟を結び、後北条氏に対抗する姿勢を見せていた 11 。しかし、両者の関係は次第に悪化し、小山氏は同盟を離脱。この戦略的判断の誤りが、結果的に後北条氏の侵攻を招くこととなった。

天正3年(1575年)、後北条氏当主・氏政の弟であり、同家の北関東方面軍司令官であった北条氏照が、大軍を率いて小山領に侵攻した 7 。小山方は一度はこれを撃退したものの、翌天正4年(1576年)、氏照の再度の攻撃によって祇園城はついに陥落。城主・小山秀綱は、同盟関係にあった常陸国の佐竹氏を頼って、一時城を明け渡すことを余儀なくされた 7

祇園城を占拠した北条氏照は、この城を対佐竹氏・宇都宮氏の最前線拠点とすべく、大規模な改修に着手する。この改修によって、祇園城は大きくその姿を変えた。後北条氏の得意とする先進的な築城術が導入され、虎口(出入口)の防御を固め、城外への出撃拠点ともなる「馬出し」や、より深く幅の広い空堀が新たに構築されたのである 14 。これにより、祇園城はそれまでの中世的な城郭から、より実践的で防御力の高い、戦国時代末期の最新鋭の要塞へと生まれ変わった。

その後、天正10年(1582年)、天下統一を進める織田信長の介入(惣無事令)により、小山秀綱は祇園城への復帰を許される 6 。しかし、それは後北条氏の支配下に入ることを条件とした、名目上の城主への復帰に過ぎなかった。祇園城は事実上、後北条氏の北関東支配を支える支城の一つとして、その支配体制に組み込まれていったのである。

第三節:豊臣政権下の変転と小山氏の終焉

天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて後北条氏の本拠地・小田原城を包囲した(小田原征伐)。後北条氏に与していた小山秀綱も、小田原城に籠城して豊臣方と戦ったとされる。しかし、圧倒的な物量の前に後北条氏は降伏し、滅亡。これに伴い、秀綱も所領を没収され、ここに400年以上にわたって関東に君臨した名門・小山氏は、大名としての歴史に幕を閉じた 6

小田原征伐後、旧小山領は、豊臣方に味方した同族の結城晴朝に与えられた 7 。晴朝には嗣子がおらず、豊臣政権の有力者であった徳川家康の次男・於義丸(後の結城秀康)を養子として迎えることで、家の安泰を図った 16 。これにより、祇園城を含む旧小山領は、結城秀康の所領の一部となった。家督を秀康に譲った晴朝は、祇園城の支城であり、結城城との連絡拠点でもあった中久喜城に隠居したと伝えられている 1

祇園城の歴史を振り返ると、その構造自体が、支配者の交代を物語る「歴史の地層」となっていることがわかる。小山氏が築いた中世城郭の骨格の上に、後北条氏が戦国末期の最新軍事技術を導入して防御機能を飛躍的に向上させ、さらに江戸時代初期に本多氏が近世城郭として最終的な仕上げを施した。特に、北条氏照による大改修は、この城の軍事的性格を根本的に変えた画期的な出来事であった。現存する土塁や堀を観察する際、どの部分がどの時代の権力者によって築かれたのかを意識することで、関東の覇権争いの歴史が城郭構造そのものに刻み込まれていることを、より深く理解することができる。祇園城は、まさに生きた歴史の証人なのである。


第三章:城郭の構造(縄張り)に見る機能と変遷

第一節:立地と地勢

祇園城の縄張り(城の設計)を理解する上で、まずその卓越した立地条件に注目する必要がある。城は、西側を思川が流れる河岸段丘の突端に位置している 1 。長年の川の浸食作用によって、城の西側面は切り立った断崖絶壁となっており、これが天然の、そして突破不可能な防御線として機能していた 6

さらに、城の麓を流れる思川そのものが、広大な天然の外堀の役割を果たしていた 2 。これにより、西側からの攻撃は事実上不可能であり、城主は防御の重点を東側と南北に集中させることができた。このように、祇園城は自然地形を最大限に活用した、極めて堅固な要害であったと言える。

第二節:中世城郭としての基本構造

祇園城の基本的な縄張りは、思川の段丘に沿って、複数の曲輪(郭)を南北に直線的に配置した「連郭式」と呼ばれる形式である 2 。これは中世城郭によく見られる配置であり、敵が城内に侵入しても、一つ一つの曲輪で段階的に抵抗し、敵の消耗を強いることを目的としている。

各曲輪は、巨大な土塁と深く掘られた空堀(堀切)によって厳重に区画されていた。現存する遺構からも、堀の規模は幅10メートル、深さ6メートルにも達する箇所があり、当時の土木技術の高さを物語っている 1 。特筆すべきは、曲輪間の連絡手段である。祇園城では、防御上の弱点となりやすい土橋を設けず、必要に応じて取り外しが可能な木製の架け橋や引き橋が用いられていた可能性が指摘されている 21 。これにより、敵が次の曲輪へ容易に侵攻することを防ぎ、城全体の防御力を格段に高めていたと考えられる。

第三節:戦国期における防御思想の進化

戦国時代の緊迫した軍事情勢は、祇園城の構造にも大きな変化をもたらした。特に、天正4年(1576年)以降に城を支配した北条氏照による改修は、この城の防御思想を根底から変えるものであった。

その最も顕著な痕跡が、小山氏累代の菩提寺である天翁院の裏手に残る「馬出し」と呼ばれる遺構である 24 。馬出しとは、城の虎口(出入口)の前面に設けられた半独立の小曲輪で、城外へ打って出る部隊の一時的な待機場所となると同時に、虎口へ殺到する敵に対して側面から攻撃(横矢掛かり)を加えるための重要な防御施設である。この馬出しの存在は、祇園城が単に敵の攻撃を耐え忍ぶ「受け身」の籠城拠点から、城外の敵を積極的に攻撃する「能動的」な戦闘拠点へと性格を変えたことを明確に示している。これは、対佐竹・宇都宮氏の最前線基地として、極めて実践的な戦闘を想定していた北条氏照の軍事的思想の表れに他ならない。

江戸時代に入り、城主となった本多正純は、祇園城に最後の仕上げを施した。彼の時代に城の縄張りは最終的な完成を迎え、城域は東西約400~500メートル、南北約700~1200メートルに及ぶ広大なものとなった 2 。この拡張は、主に防御が手薄であった東側で行われたと考えられ、現在市街地化している南久保郭などの一帯が、この時期に城域に取り込まれた可能性が高い 24 。これにより、祇園城は中世から戦国、そして近世へと至る城郭建築技術の変遷を体現する、複合的な構造を持つに至ったのである。

なお、城跡の解釈においては、現地に設置されている案内板の縄張り図などを参照することが多いが、それらが必ずしも正確とは限らない点に留意が必要である 27 。後世に描かれた図面や伝承に基づく情報も含まれるため、現存する土塁や堀の形状といった物理的な遺構と照らし合わせながら、批判的に分析する視点が、城郭の真の姿を理解する上で不可欠である。


第四章:小山氏城跡群における祇園城の役割

祇園城の戦略的価値を正しく評価するためには、城単体の機能だけでなく、近隣の鷲城、中久喜城と一体となった「小山氏城跡群」という広域的な視点からの分析が不可欠である 10 。これら三つの城は、思川東岸の河岸段丘上に、南北に連なる形で戦略的に配置されており、それぞれが異なる役割を担いながら、有機的に連携する一つの巨大な防衛システムを形成していた 13

  • 祇園城(本城): 小山義政の乱以降、小山氏の政治・経済の中心であり、領国経営の中枢を担う「本城」であった 12 。平時における政庁としての機能と、有事における最終的な司令塔としての役割を兼ね備えていた。
  • 鷲城(南方の要害): 祇園城の南方に位置し、義政の乱では本城として機能した、大規模な土塁と堀を持つ極めて堅固な城郭である 12 。祇園城が本城となった後も、小山領の南の玄関口を守る重要な支城としての役割を果たした。また、万が一祇園城が危機に瀕した際には、城主らが退避し、最後の抵抗を試みる「詰の城」(最終防衛拠点)としての機能も想定されていたと考えられる。
  • 中久喜城(東方の連絡拠点): 祇園城の東方に位置し、同族であり重要な同盟相手であった結城氏の居城・結城城へと至る街道を押さえる、戦略的に極めて重要な「つなぎの城」であった 9 。結城氏からの援軍ルートを確保し、また東方からの敵の侵攻を警戒・阻止する役割を担っていた。小田原征伐後に結城晴朝が隠居城としたことからも、その重要性がうかがえる 1
  • 長福城(出城): 祇園城の近隣に位置し、鷲城と共に直接的な防御網の一翼を担う「出城」であった 1 。本城に接近する敵を食い止め、情報伝達を行う前線基地としての機能を持っていた。

このように、小山氏の城郭群は、単一の拠点にすべての機能を集中させるのではなく、政庁(祇園城)、要害(鷲城)、連絡路確保(中久喜城)といった異なる役割を持つ複数の城を連携させる「分散型防衛システム」を構築していた。これは、広大な領地を効率的に支配し、多方面からの脅威に対して柔軟かつ縦深的に対応するための、中世武士団の高度な領国経営戦略の表れである。城を個別に評価するのではなく、この城郭群全体の関係性からその戦略的意図を読み解くことで、小山氏の卓越した軍事・統治能力をより高く評価することができる。


第五章:近世への移行と廃城

第一節:関ヶ原の戦いと「小山評定」

戦国時代の終焉を告げ、徳川の世の幕開けを決定づけた関ヶ原の戦い。その直前、日本の歴史を大きく動かす決断が、祇園城のある小山の地で下された。慶長5年(1600年)7月、会津の上杉景勝討伐のため、徳川家康は江戸を発ち、諸大名を率いて下野国小山に進駐した 14

家康が小山に本陣を置いている最中、上方で石田三成らが挙兵したとの急報がもたらされる 2 。この国家存亡の危機に際し、家康は直ちに小山に在陣していた福島正則、山内一豊ら豊臣恩顧の諸将を集めて軍議を開いた。この軍議で、上杉討伐を中止して軍を西に反転させ、三成らを討つという方針が満場一致で決定された。この歴史的な決断は「小山評定」として知られ、徳川家康の天下取りの大きな分岐点となった 2

評定が開かれた具体的な場所については、祇園城内ではなく、城の南に隣接し、後に将軍家の宿泊施設である小山御殿が建てられることになる一画(現在の小山市役所周辺)であった可能性が高いとされている 2 。いずれにせよ、この地が徳川幕府創設の原点とも言える重要な舞台であったことは間違いない。

第二節:城主・本多正純の時代と宇都宮への転封

関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれると、祇園城は新たな主を迎える。徳川家康の側近中の側近であり、幕政の中枢を担った本多正信の子・正純である。慶長13年(1608年)、本多正純は3万3千石を与えられ、祇園城主となった 11

正純は、城の最終的な拡張・整備を行い、その規模を最大のものとした 2 。しかし、その治世は長くは続かなかった。元和5年(1619年)、正純は15万5千石へと大幅に加増された上で、下野国の中心である宇都宮城へと転封を命じられたのである 8

第三節:廃城の理由とその後

本多正純の宇都宮への転封に伴い、祇園城はその歴史的役割を終え、廃城となった 8 。一見すると唐突な廃城であるが、その背景には、徳川幕府による新たな全国支配体制の構築という、より大きな戦略的意図が存在した。

第一に、元和元年(1615年)に発令された「一国一城令」の影響が挙げられる 30 。これは、西国大名の謀反を防ぐ目的で、各藩が保持できる城を原則として一つに制限する法令であり、この政策が全国的に適用される中で、不要と見なされた多くの支城が破却された。

第二に、下野国における宇都宮城の戦略的重要性の高まりである。宇都宮城は、江戸から日光東照宮へと至る日光街道と、東北地方へ向かう奥州街道の分岐点に位置する交通の要衝であった 31 。さらに、伊達氏や上杉氏といった有力な外様大名が割拠する東北地方への「抑え」という、極めて重要な軍事的役割を担っていた 31 。徳川将軍家が日光社参を行う際の宿城となることも定められており、その政治的重要性は祇園城の比ではなかった 33

これらの状況を鑑みれば、祇園城の廃城は、城そのものの価値が失われた「衰退」の結果ではない。むしろ、徳川幕府による全国的な支配体制の再構築、すなわち「江戸を中心とした戦略的ネットワーク」への再編の中で、その地域拠点としての役割を宇都宮城に集約・継承させる形で、戦略的に「引退」したと解釈すべきである。譜代大名の重鎮である本多正純を、より重要な宇都宮城に配置することは、幕府の支配体制を強化する上で極めて合理的な判断であった。祇園城の廃城は、戦国時代の地域防衛拠点としての役割が終わり、泰平の世における新たな統治システムの中でその役目を終えたことを示す、象徴的な出来事だったのである。

廃城後、城跡の一角には、徳川将軍家の日光社参時の休憩・宿泊施設として「小山御殿」が設けられた 18 。しかし、これも4代将軍家綱以降、日光社参が途絶えたことなどから、天和2年(1682年)には解体された 18 。その後、城跡は静かに時を重ね、明治時代には一時、政治家・星亨の別邸が建てられたこともあったが 5 、やがて公園として整備され、現在に至っている。


第六章:祇園城にまつわる伝説と文化財

第一節:「実なしイチョウ」と姫の悲劇

祇園城跡、その最も奥まった曲輪の一角に、天を突くようにそびえ立つ一本の大イチョウがある。樹齢900年ともいわれ、小山市の天然記念物にも指定されているこの古木には、城の歴史と人々の思いが込められた、いくつかの伝説が語り継がれている 9

最も有名なのが、「実なしイチョウ」の悲話である 3 。いつの時代の落城かは定かではないが、城が敵の手に落ちようとしたその時、城主の姫がこれ以上の辱めを受けまいと、城内の古井戸にその身を投じた。それを哀れんだ家臣が、姫の亡骸のそばに供養のため一本のイチョウの小枝を差したところ、それがやがて根付き、大木へと成長した。しかし、姫の無念の思いが宿っているためか、このイチョウは決して実を結ぶことがないという 7 。この哀切な物語は、戦乱に生きた人々の悲しみを今に伝えている。

このほかにも、小山氏の祖・政光の妻であり、鎌倉幕府の成立にも貢献した賢夫人・寒川尼が使っていた杖を逆さに地に突き立てたものが根付いたという「逆さいちょう」の伝説や 36 、学芸員の解説で語られる「七夕伝説」など、城跡には様々な物語が息づいている 12 。これらの伝説は、城が単なる石と土の構造物ではなく、地域の人々の記憶と文化を育んできた場であったことを示している。

第二節:発掘調査で見る城内の生活

市街地に位置するため、城跡の多くは開発によって失われているが、公園として保存されている区域では、複数回にわたる発掘調査が実施され、祇園城の歴史を解明する上で貴重な知見が得られている 37

平成7年(1995年)から翌年にかけて行われた調査では、陶磁器や鎧の部品(小札)などが大量に出土した 37 。これらの遺物は、城内で武士たちが日常的な生活を営むと同時に、常に戦闘への備えを怠らなかった、緊張感に満ちた暮らしぶりをうかがわせる。また、別の調査では、城の東側を区画していたと考えられる幅約8メートル、深さ2.5メートル以上にも及ぶ巨大な溝跡が発見され、15世紀後半頃の内耳土器が出土している 38 。これは、文献史料だけでは不明な、中世期における城の具体的な規模や構造を明らかにする上で重要な発見であった。

特に注目されるのが、貿易陶磁器の出土である。ある研究報告によれば、祇園城跡からは15世紀中頃のものとみられる青磁の香炉や茶入が出土している 39 。当時、これら中国産の高級陶磁器は「唐物」として非常に珍重され、所有者の社会的地位や経済力を示す「威信材」であった。下野国という内陸の地でこうした品々が出土するという事実は、城主であった小山氏が、単なる地方の武士団に留まらず、京都の中央政権や博多などの貿易港と結ばれた広域的な交易ネットワークにアクセス可能な、高い経済力と洗練された文化的背景を持っていたことを示す動かぬ物証である。これらの考古学的成果は、文献史料の記述を補い、当時の城内の生活や城主の権勢をより具体的に復元するための、かけがえのない手がかりを提供している。

第三節:国史跡としての保存と現代における価値

戦乱の時代が終わり、廃城となってから長い年月を経た祇園城跡は、昭和26年(1951年)に都市計画公園として指定され、市民の憩いの場としての新たな歩みを始めた 7 。そして、その歴史的価値の高さが認められ、平成3年(1991年)3月12日、鷲城跡と共に国の史跡に指定された。その後、平成13年(2001年)には中久喜城跡が追加指定され、「小山氏城跡」として一体的に保存・活用が図られることとなった 7

現在、城跡は「城山公園」として美しく整備され、春にはソメイヨシノや小山市の花であるオモイガワザクラが咲き誇り、秋には伝説の大イチョウやモミジが鮮やかに色づく、四季折々の景観が楽しめる名所となっている 4 。高台からは市街地と、その中央を流れる思川の雄大な景色を一望でき、冬の晴れた日には遠く富士山を望むこともできることから、「関東の富士見百景」にも選定されている 41

また、祇園城跡は、歴史教育の生きた教材としても重要な役割を担っている。小山市立博物館では、学芸員の解説付きで城跡を巡る現地学習プログラムを実施しており、子供たちが地域の歴史に触れる貴重な機会を提供している 12 。さらに、城山公園から市立博物館までを結ぶ全長約12キロメートルの散策路「歴史の道」の起点ともなっており、点在する史跡を巡りながら、小山の豊かな歴史と文化、自然を感じることができる 42 。このように、祇園城は過去の遺産であるだけでなく、現代に生きる私たちに多くの学びと安らぎを与え、未来へと歴史を語り継ぐ、かけがえのない地域の宝なのである。


終章:祇園城が歴史に刻んだもの

祇園城の約500年にわたる歴史は、関東平野という広大な舞台で繰り広げられた、中世から近世にかけての権力闘争と社会変動の軌跡そのものである。本報告書では、戦国時代を中心に据え、この城が果たした多岐にわたる役割とその歴史的意義を、構造、戦略、文化の各側面から多角的に考察してきた。

第一に、祇園城は関東中世武士団の栄枯盛衰を体現する象徴的な存在である。平安末期に藤原秀郷流の名門・小山氏の拠点として誕生し、鎌倉、南北朝、室町時代を通じてその勢力を支えた。しかし、戦国時代の荒波は小山氏をも飲み込み、城は後北条氏、結城氏、そして徳川氏家臣の本多氏へと、目まぐるしくその主を変えた。この城主の変遷は、関東における勢力図の変遷と完全に一致しており、祇園城はまさにその歴史の縮図と言える。

第二に、城郭史上において、祇園城は異なる時代の築城思想が重層的に蓄積された「ハイブリッド城郭」として、極めて重要な研究対象である。小山氏が築いた中世的な連郭式の縄張りを基礎としながら、戦国時代末期には後北条氏によって馬出しなどの先進的な防御施設が付加され、戦闘拠点としての機能が飛躍的に向上した。そして、江戸時代初期には本多氏によって近世城郭としての最終的な整備が施された。一つの城跡にこれほど明確に時代の異なる築城技術の痕跡が残されている例は稀であり、城郭構造の変遷を研究する上で、祇園城は比類なき価値を持つ。

第三に、祇園城は単独の軍事施設ではなく、鷲城、中久喜城といった支城群と連携する広域防衛システムの中核であった。この「小山氏城跡群」という面的・ネットワーク的な視点は、中世武士団の高度な領国経営戦略を理解する上で不可欠である。

最後に、発掘調査によって出土した貿易陶磁器などの遺物は、文献史料だけではうかがい知れない、当時の城主の経済力や広域的な人的・物的交流の実態を明らかにした。祇園城は、武力と権威の象徴であると同時に、文化と経済の結節点でもあったのである。

市街地化によって失われた城域も多く、その全貌解明には未だ多くの課題が残されている。今後、失われた東側・南側城域に関する更なる考古学的調査や、出土品の包括的な分析を通じて、城内の生活や城下町の構造をより詳細に復元する研究が期待される。祇園城は、過去の物語を秘めた静かな丘であると同時に、未来の研究に向けて開かれた、尽きせぬ魅力を秘めた歴史の宝庫なのである。

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