神西城は出雲西部の要衝。神西氏が約350年支配し、尼子十旗として西方防衛を担う。城主元通は故郷を奪われ尼子再興に殉じた。戦国期の緊迫した状況を伝える史跡。
日本の戦国時代史において、出雲国を支配した尼子氏の本拠・月山富田城を守る支城群「尼子十旗」は、その広域防衛網の象徴として知られている 1 。その一角、第七の旗として数えられる神西城(じんざいじょう)は、多くの場合、その名をもって語られるに留まり、その内実が深く掘り下げられることは稀であった。しかし、この城は単なる防衛網の一点に非ず、鎌倉時代の地頭入部から戦国時代の終焉に至るまで、約350年もの長きにわたり出雲西部の歴史の渦中にあり続けた、動的な存在であった 2 。
本報告書は、島根県出雲市に現存する神西城跡を対象とし、その歴史を多角的に再構築することを目的とする。具体的には、城郭そのものが持つ物理的な構造、城主としてこの地を治めた神西一族の系譜、そして時代の激流に翻弄された一人の武将・神西元通の生涯という三つの軸を交差させ、神西城の重層的な実像に迫るものである。軍記物語の記述、郷土史の伝承、近年の城郭調査や考古学的知見を統合し、忘れられた西出雲の要衝が持つ真の歴史的価値を明らかにしていく。
神西城が築かれたのは、現在の島根県出雲市東神西町に位置する高倉山である 2 。標高約101メートルのこの山からは、眼下に汽水湖である神西湖が広がり、その向こうには出雲平野、そして日本海を遠望することができる 4 。この卓越した眺望は、軍事的な監視拠点としての価値はもちろんのこと、この地域一帯の支配を象徴する景観であったと想像に難くない。
この地は、日本の黎明期を物語る神話の舞台でもある。神西湖は、『出雲国風土記』において「神門水海(かむどのみずうみ)」と記され、古代出雲文化発祥の地として伝承されてきた 6 。特に、大国主命の后である須世理姫命(すせりひめのみこと)が生誕し、産湯を使ったとされる史跡「岩坪」が近隣に存在することからも、その神聖さが窺える 7 。そもそも「神西」という地名は、出雲大社(神)の西に位置することに由来するという説があり 9 、古代よりこの土地が神域と深く結びついていたことを示している。
このような神話的権威に満ちた土地に、後に外部から武士団が入り、支配を確立することになる。彼らが自らの支配を正統化する上で、この土地の持つ神聖性を巧みに利用したことは、想像に難くない。関東から来た新参の支配者が、出雲の神話的世界観に自らを組み込み、在地社会における支配の正統性を確立するための手段として、この地の名を名乗るという行為は、極めて高度な政治的・文化的戦略であった。この神話との結びつきこそが、彼らの長期にわたる支配の精神的な基盤を形成した一因と考えられるのである。
神西城を代々の居城とした神西氏は、その出自を関東の有力武士団である武蔵七党の一つ、小野氏に求めることができる 10 。彼らが出雲の地を踏んだのは、鎌倉時代中期のことであった。
記録によれば、承久の乱(1221年)後の論功行賞の一環として、貞応二年(1223年)、小野高通という人物が鎌倉幕府から地頭職に任じられ、相模国鎌倉より出雲国神門郡神西庄へと下向した 3 。これが神西氏の始まりとされる。彼らは神西庄の波賀佐村、久村、清松村などを領有し 10 、在地領主としての経営基盤を固めていった。やがて彼らは、治める土地の名を自らの名字とし、「神西」を名乗るようになる。伝承では、神西氏はこの地を十二代にわたって治めたとされ 2 、在地に深く根を下ろした国人領主としての長い歴史を物語っている。
室町時代後期、出雲国に戦国大名として台頭した尼子氏は、その本拠を月山富田城に置いた。この城は標高190メートルの峻険な地形を利用した天然の要害であり、難攻不落を誇った 15 。しかし、その堅牢さゆえに、一度完全に包囲されれば兵糧攻めに弱いという構造的な弱点を内包していた 17 。
この弱点を補い、広域的な防衛体制を構築するために、尼子氏は出雲国内の有力な国人領主たちを組織化し、月山富田城を中心とする一大支城ネットワークを形成した。これが世に言う「尼子十旗」である 1 。これは単なる支城の集合体ではなく、敵の侵攻ルートを予測し、情報伝達、兵站維持、そして段階的な迎撃を行うための、有機的に連携する防衛システムであった。軍記物である『雲陽軍実記』には、「惣じて尼子旗下にて禄の第一は白鹿、第二は三沢、…第七は神西、…」と記されており、神西城がこの防衛網の中で確固たる地位を占めていたことがわかる 1 。
尼子十旗の配置を見ると、神西城は月山富田城から見て西部に位置し、石見国との国境地帯を睨む戦略的要衝であったことがわかる 19 。西の周防国を本拠とする大内氏や、後に安芸国から台頭する毛利氏の侵攻を想定した場合、神西城は出雲国を防衛する最初の防衛線の一つとして、極めて重要な役割を担うことが期待されていた。
その重要性は、敵味方双方の認識に表れている。『陰徳太平記』や『雲陽軍実記』によれば、天文十年(1541年)に大内義隆が出雲侵攻を計画した際の軍議では、赤穴城と並んで神西城が主要な攻撃目標として挙げられている 22 。また、永禄元年(1558年)に毛利元就の侵攻が現実味を帯びた際、尼子方が月山富田城で開いた軍議においても、石見銀山方面の守りとして神西三郎左衛門(元通)に城を固く守らせるべきとの意見が出されている 22 。
興味深いのは、神西城に「竹生城(たけのおじょう)」「龍王山城」といった別名が伝わっている点である 2 。郷土史研究によれば、これらの名称は尼子氏の出自である近江国(現在の滋賀県)、特に琵琶湖周辺の地名(竹生島など)に由来する可能性が指摘されている 24 。これが事実であれば、尼子氏が在地国人である神西氏の城に、自らの故郷を想起させる名を付与したことになる。これは、神西城が単なる同盟者の城ではなく、尼子氏の支配体制に完全に組み込まれた拠点であることを内外に宣言する、一種の「文化的マーキング」であったと解釈できる。在地勢力の城を、大名の広域戦略の中に象徴的に取り込むという、戦国大名ならではの巧みな手法が垣間見える。
神西城は、高倉山の地形を巧みに利用して築かれた山城である。その縄張り(城の設計)は、山頂に主郭(本丸)を置き、そこから北西と北東に伸びる二つの尾根筋に沿って、複数の郭(曲輪)を階段状に配置する連郭式を基本としている 3 。これにより、敵は尾根伝いに一つ一つの郭を攻略しながら進軍せざるを得ず、防御側は高所から有利に攻撃を加えることができた。
項目 |
内容 |
備考 |
城名 |
神西城(じんざいじょう) |
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別名 |
竹生城、高倉城、龍王山竹生城 |
資料により複数の呼称が確認される 2 |
所在地 |
島根県出雲市東神西町 高倉山 |
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城郭構造 |
山城 |
標高101.3m、比高約90m 2 |
築城主 |
神西氏(伝:小野高通) |
鎌倉時代の貞応2年(1223年)頃かとされる 3 |
主な城主 |
神西氏(十二代) |
特に戦国期の神西元通が著名 2 |
主な遺構 |
郭(曲輪)、堀切、土塁、櫓台跡 |
公園として整備されているが遺構は良好に残る 2 |
戦略的位置 |
尼子十旗(第七の旗) |
月山富田城の西方防衛拠点 1 |
現在でも城跡には、当時の防御施設が良好な状態で残されている。尾根を人工的に深く掘り込んで敵の進軍を妨げる「堀切」は各所に見られ、特に北側の尾根には二重に設けられた「二重堀切」が確認でき、城内で最も明瞭な遺構となっている 3 。また、郭の縁を盛り上げて防御壁とした「土塁」や、物見櫓が建てられていたと考えられる「櫓台」の跡も認められる 2 。麓からの登城路は、菩提寺である十楽寺側、光成公園側、そして南麓の那売佐神社側からの三つが知られており、それぞれが防衛上の役割を担っていたと考えられる 3 。
一方で、神西城の遺構を調査した複数の報告は、ある共通した特徴を指摘している。それは、「大半の郭の加工が不十分」「郭内部は削平が不十分」という点である 19 。尼子十旗という重要拠点でありながら、なぜ普請が「未完成」に見えるのか。これは単なる技術不足や怠慢に起因するものではない。むしろ、この「不十分さ」こそが、戦国時代の城郭が置かれた状況を最も雄弁に物語る物証と言える。
戦国期の城郭普請は、常に時間と資源との戦いであった。特に毛利氏の脅威が現実のものとなる永禄年間、尼子氏は領国全体の防衛網を緊急に強化する必要に迫られた。その緊迫した状況下では、郭の内部を丁寧に削平して居住性を高めるといった作業よりも、敵の進攻を直接的に、そして効果的に阻止する堀切や切岸(きりぎし、斜面を削って急崖にする加工)の造成が最優先されたはずである。つまり、神西城に見られる普請の痕跡は、平時の居館としてのものではなく、差し迫った軍事的脅威に対応するための、実用本位かつ即物的な改修の結果なのである。この「未完成」の姿は、戦国の緊迫した情勢を今に伝える、極めて貴重な歴史の記録と言えよう。
戦国時代の城主の生活空間は、山上の城郭内だけに限定されるものではなかった。政務や日常の居住は、防御に優れた山上よりも、利便性の高い麓の居館で行われることが多かった。神西城においても、麓に何らかの居館施設が存在した可能性が高い。
その手がかりの一つが、北西麓にある菩提寺・十楽寺の存在である 2 。寺は領主一族の信仰の拠り所であると同時に、その歴史を弔い、後世に伝える重要な場であった。十楽寺に神西氏十二代の合祀塔が残されているという事実は、彼らが一過性の支配者ではなく、長きにわたりこの地に根を下ろした領主であったことの何よりの証左である 3 。
さらに、近年の考古学調査は新たな可能性を示唆している。城の東を流れる九景川流域の遺跡(九景川遺跡)で行われた発掘調査では、中世期に造成されたとみられる盛土遺構が確認された 26 。この遺構が神西城と直接関連があるかは断定できないものの、城の築城や維持に関わる作業場、あるいは城下集落の前身であった可能性も考えられ、今後の研究の進展が期待される。
神西氏の歴代城主の中で、その名が最も広く知られているのは、戦国時代末期に活躍した神西三郎左衛門元通(もとみち)であろう 2 。彼は、戦国大名の軍事力の中核となりつつあった足軽部隊を率いる「足軽大将」として尼子氏に仕え、その武勇を馳せた 10 。
『雲陽軍実記』によれば、天文九年(1540年)、尼子晴久が毛利元就の本拠・吉田郡山城を攻めた際、毛利方の側面攻撃に対し、元通は牛尾氏らと共にこれを防ぎ、奮戦したと記録されている 22 。この時、彼はまだ若年であったと推測されるが、尼子軍の主力を担う武将として、早くからその頭角を現していたことが窺える。
しかし、尼子氏の勢力に翳りが見え始めると、元通の運命も大きく揺らぎ始める。永禄六年(1563年)、毛利元就による本格的な出雲侵攻が開始されると、多くの国人領主たちが尼子氏を見限り、毛利氏へと下っていった。神西元通もまた、この流れの中で毛利氏に降伏するという苦渋の決断を下す 12 。これは、一族の存続を第一に考えた、当時の国人領主としては現実的な選択であった。
注目すべきは、降伏後の元通に対する毛利氏の処遇である。彼は、先祖代々受け継いできた神西の所領を安堵されることなく、国境を越えた伯耆国末石城の城主(あるいは城の在番)に任じられた 2 。これは単なる配置転換ではなかった。神西氏にとって「神西」の地は、単なる領地ではなく、一族の姓の由来であり、神話の時代にまで遡るアイデンティティの源泉そのものであった。毛利氏によるこの所領替えは、神西元通から土地と一体化した武士としての根源を奪う行為に等しかったのである。この故郷からの強制的な引き剥がしが、彼の心中に深い葛藤を生み、後の行動への強い動機となったことは想像に難くない。彼の生涯を理解する上で、この「土地との絆の断絶」は決定的に重要な意味を持つ。
永禄九年(1566年)、月山富田城は落城し、大名としての尼子氏は滅亡する。しかし、その残光は消えていなかった。永禄十二年(1569年)、山中幸盛(鹿介)ら尼子氏の旧臣たちが、尼子一族の遺児・尼子勝久を奉じ、尼子家再興の兵を挙げたのである 11 。
伯耆国にいた元通のもとへも、幸盛からの密書が届けられた。毛利氏への忠誠と旧主への恩義との間で、元通の心は激しく揺れたであろう。伝承によれば、元通は返書として、古歌「石の上(いはのうへ) ふるからをのの 本柏(もとがしは) もとの心は わすられなくに」(古今和歌集)の一節を白扇に記して送ったという 28 。これは、小野氏の末裔である自分が、旧主尼子氏への忠誠心を忘れてはいない、という決意表明であった。この返信を受け取った幸盛らは、元通の参加を確信した。元通は毛利方から付けられていた目付役の中原就久を討ち果たし、劇的に尼子再興軍へと合流した 12 。それは、失われた故郷と誇りを取り戻すための、彼の新たな戦いの始まりであった。
神西元通が尼子再興軍に参加した後、主を失った神西城は、間もなく毛利方の猛将・吉川元春によって占拠された 28 。これにより、鎌倉時代から続いた神西氏による神西城の支配は事実上終わりを告げ、城は尼子方の拠点としての歴史に幕を閉じた。
一方、元通が参加した尼子再興軍の戦いは熾烈を極めた。元亀元年(1570年)、毛利輝元率いる本隊と激突した布部山の戦いで再興軍は敗北を喫し、元通は山中幸盛らと共に京都へと逃れた 11 。しかし、彼らの闘志は衰えず、その後も出雲国内に潜入してはゲリラ的な戦闘を繰り返し、毛利軍を苦しめたという記録も残っている 28 。
再興軍の最後の希望は、西から毛利氏を圧迫し始めた織田信長であった。天正五年(1577年)、尼子勝久と山中幸盛、そして神西元通ら尼子再興軍は、織田軍の中国方面司令官である羽柴秀吉の配下に入り、播磨国の上月城を拠点として与えられた 12 。
しかし、これは彼らにとって悲劇の序章であった。翌天正六年(1578年)、毛利氏は輝元自らが率いる六万ともいわれる大軍を動員し、上月城を完全に包囲する。籠城する尼子軍は数千に過ぎず、絶体絶命の危機に陥った。援軍を要請された秀吉は、しかし、別所長治が籠る三木城の攻略を優先し、上月城を見捨てるという非情な戦略的判断を下した 12 。援軍の望みを絶たれた尼子再興軍の運命は、ここに決した。城兵の助命を毛利方に嘆願し、その条件として、尼子勝久をはじめとする一族主従が自刃することになったのである。
天正六年(1578年)七月、神西元通は、主君・尼子勝久と共に上月城で自刃し、その生涯を閉じた 12 。彼の死は、七難八苦を乗り越えて戦い続けた尼子再興の夢が、完全に潰えたことを象徴する出来事であった。その最期は、主君と運命を共にするという、戦国武士の生き様を貫いたものであった。現在も、兵庫県佐用町の上月城跡には、尼子勝久らと共に元通の供養塔が建てられ、その忠義を今に伝えている 12 。
戦国乱世の複雑さを物語るのは、その後のことである。元通の子と推測される神西景通は、敵方であった毛利氏の重臣・小早川隆景に仕え、その死後は毛利本家に仕官して家名を存続させた 12 。滅びの美学を貫いた父と、現実の中で家を存続させた子。その対照的な生き様は、この時代の厳しさと多様性を我々に示している。
神西城の歴史は、鎌倉時代の地頭の城館に始まり、戦国大名尼子氏の広域防衛網の一翼を担う軍事要塞へと変貌し、最後は城主一族の悲劇的な運命と共に歴史の舞台から静かに退場した、日本の数多の中世城郭の典型的な軌跡を辿っている。
しかし、その歴史は同時に、この城ならではの固有の物語を我々に語りかける。神西城は、尼子と毛利という二大勢力の狭間で翻弄された、出雲国人領主の城の縮図である。城跡に残る「不完全」な普請の痕跡は、書物には記され得ない、戦国の緊迫した軍事的リアリズムを伝える貴重な物証と言える。そして、城主・神西元通の生涯は、武士の忠義とは何か、武士にとって土地とは何か、そして家の存続とは何かという、時代を超えた普遍的な問いを我々に投げかける。
現在、神西城跡は公園として整備され、静かな佇まいを見せている 5 。山頂に立ち、眼下に広がる神西湖と出雲平野を眺める時、我々はその穏やかな風景の背後に、神話の時代から続く悠久の歴史と、この地で生きた鎌倉武士の誇り、そして戦国乱世に散った武将の激しい生き様と悲壮な滅びの物語を想起することができる。城跡に立つ一つの石碑と、大地に残る土塁や堀切は、そのすべてを記憶し、静かに後世へと語り継いでいるのである。