最終更新日 2025-08-24

秋月城

秋月城は、戦国の要塞「古処山城」と江戸の藩庁「秋月陣屋」の二つの顔を持つ。秋月氏の興亡と黒田氏の統治を経て、その歴史は黒門や長屋門に刻まれる。高麗鐘の出土は、この地の深い歴史を物語る。

秋月城の興亡:戦国の要塞「古処山城」から泰平の藩庁「秋月陣屋」へ

序章:二つの「秋月城」―戦国の要塞から泰平の藩庁へ

福岡県朝倉市に静かに佇む「秋月城跡」。この名は、多くの人々に江戸時代の黒田氏による平穏な藩庁「秋月陣屋」の姿を想起させる。しかし、その礎となった土地には、戦国時代の激しい攻防の記憶が深く刻まれている。一般に「秋月城」として知られる史跡は、江戸時代に築かれた陣屋の跡地であるが、その歴史を戦国という視点から紐解くとき、全く異なるもう一つの城の姿が浮かび上がる。それは、秋月の地を400年近くにわたり支配した秋月氏の本拠地、背後の山々に聳える天然の要害「古処山城」である 1

したがって、「秋月城」の歴史を理解するためには、これら二つの城郭―すなわち、戦乱の世における山上の軍事要塞と、泰平の世における山麓の政治拠点―の関係性を解き明かすことが不可欠となる 3 。両者の存在は、単なる時代の違いによる建築様式の変化に留まらない。それは、一族の存亡を賭けた軍事防衛が最優先された「戦の世」から、幕藩体制下での安定した統治と行政機能が重視された「治の世」へという、日本史全体の大きな構造転換を象徴するものである。古処山城の廃城と秋月陣屋の築城は、武力による領土拡大の時代の終わりと、法と秩序に基づく統治の時代の始まりを、この秋月の地に物理的な形で刻み込んだ歴史の画期であった。

本稿は、この重層的な歴史を解き明かすため、三部構成を採る。第一部では、戦国の雄として九州北部に覇を唱えようとした秋月氏と、その興亡の舞台となった要塞・古処山城の実像に迫る。第二部では、時代が移り、黒田氏の治世下で秋月陣屋が築かれ、近世の秋月藩が成立していく過程を詳述する。そして第三部では、現代に遺された史跡としての秋月城が、我々に何を語りかけてくるのかを考察する。これにより、一つの土地に積層された歴史の深淵へと読者を誘うことを目的とする。

第一部:戦国の雄・秋月氏と要塞・古処山城

第一章:秋月氏の黎明と古処山城の築城

秋月氏の歴史は、鎌倉時代初期にまで遡る。その本姓は、後漢の霊帝の末裔を称する渡来系の氏族、大蔵氏であった 5 。大蔵氏は、平安時代に藤原純友の乱で功績を挙げた大蔵春実を祖とし、九州の地に根を張った名族である 5 。当初、一族は原田氏を名乗っていたが、建仁三年(1203年)、原田種雄が鎌倉幕府より筑前国秋月荘を賜り、地名をとって秋月氏を称したのがその始まりとされる 1

初代当主となった秋月種雄は、この地を本拠と定めるにあたり、標高約860メートルに達する険しい古処山に城を築いた 3 。この古処山城は、四方を峻険な山々に囲まれた天然の要害であり、秋月氏の存続を支える軍事的な礎となった 10 。一方で、平時の政務や生活の拠点として、山麓に「杉本城」とも呼ばれる居館を構えた 9 。この山上の「詰城(つめのしろ)」と山麓の「居館」を併用する二元的な体制は、中世から戦国期にかけての武士団が拠点とする城郭の典型的な姿であった。この山麓の居館があった場所こそが、後の時代に黒田氏によって秋月陣屋が築かれる土地となるのである 2

秋月氏は、この古処山城を拠点に、南北朝時代の動乱を生き抜いた。多々良浜の戦いでは宮方(南朝)として足利尊氏と戦い敗れるなど、九州の複雑な政治情勢の中で、時に苦難を経験しながらも勢力を維持した 7 。室町時代に入り、応仁の乱など戦乱の気運が全国的に高まると、秋月氏も古処山城や領内の砦を修復・増築し、来るべき戦国時代に備えていった 12

秋月氏が約400年にわたりこの地で存続し得た背景には、二つの重要な要素があった。一つは、「大蔵氏」という権威ある血統である。これは、周辺の国人領主たちとの関係において、単なる武力だけではない一種の正統性として機能し、一族の結束と地位を保つ上で有利に働いたと考えられる。そしてもう一つが、古処山という絶好の「地の利」を得たことである。堅固な山城を本拠地としたことで、後に強大な勢力となる大友氏からの侵攻にも耐えうる強固な防御力を確保することができた。中央政権の権威に服従することで所領を安堵されつつも、在地領主として自らの存続をかけて主体的に行動する。この「権威への従属」と「自立性の追求」という二面性こそが、中世から戦国にかけての秋月氏の行動原理を理解する鍵となる。

第二章:古処山城の構造と防御思想

古処山城は、戦国時代の山城が持つ防御思想を色濃く反映した、極めて実践的な要塞であった。その縄張(城郭の設計)は、自然の地形を最大限に活用し、最小限の人工的な改変で最大の防御効果を得ることを目的としていた 10 。城郭の主要部分は、古処山の山頂から西と南に伸びる二つの尾根筋に沿って、複数の曲輪(城内の平坦な区画)が配置される形で構成されている 10

山頂付近は岩山で狭く、城の中核となる主郭は、南西尾根を少し下った場所に設けられた城内で最も広い平坦地であったと推測される 10 。西尾根には、帯状に連なる複数の小さな曲輪が階段状に配置されていた 10 。これらの曲輪群は、敵の侵攻を段階的に食い止めるための防御ラインとして機能した。

古処山城の防御施設の中でも、特に注目すべきは「堀切(ほりきり)」と「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」である。堀切は、敵が侵攻してくるであろう尾根筋を人工的に深く掘り込んで断ち切ることで、その進軍を物理的に阻止する施設であり、西尾根には二箇所の堀切が確認されている 10

そして、古処山城の防御思想を最も象徴するのが、城の斜面に無数に掘られた畝状竪堀群である 10 。これは、山の斜面に対して垂直に、まるで畑の畝のように多数の竪堀を並行して掘削した防御施設である。この構造により、斜面を登ってくる敵兵は横方向への移動を著しく制限され、兵力を一点に集中させることが困難になる。結果として、敵の攻撃力は分散され、城方は少人数でも効率的に防戦することが可能となる。

このような畝状竪堀群が多用されている事実は、秋月氏が常にどのような敵を想定していたかを雄弁に物語っている。この施設は、個々の兵の武勇よりも、数に任せて力攻めを仕掛けてくる大軍に対して特に有効である。つまり、古処山城の構造そのものが、秋月氏の置かれていた戦略的状況、すなわち、大友氏のような兵力で圧倒的に勝る敵に対し、地の利を活かして徹底的な持久戦に持ち込むという「弱者の戦略」を前提として設計されていたことを示唆している。古処山城は、戦国中後期における九州北部の城郭技術の発展を示す好例であり、その構造は、秋月氏が大友氏との絶え間ない緊張関係の中で、いかにして生き残りを図ったかの戦術的回答そのものであった。

第三章:動乱の時代―秋月文種の悲劇と一族の凋落

16世紀半ば、秋月氏第15代当主・秋月文種(別名:種方)の時代、九州の勢力図は大きく揺れ動いていた 14 。中国地方では毛利元就が厳島の戦いで勝利して勢力を拡大し、九州では豊後の大友宗麟(義鎮)がその支配域を急速に広げていた。当初、秋月氏は北九州の伝統的な覇者であった大内氏に従属していたが、その大内氏が家臣の謀反によって滅亡すると、時流に従い大友氏の傘下に入っていた 11

しかし、大友氏の支配が強化されるにつれ、国人領主としての独立性を維持したいと願う文種の心には、次第に反大友の気運が高まっていく。その折、北九州への影響力拡大を狙う毛利元就からの調略が届く。文種は、同じく大友氏の支配に不満を抱いていた筑紫惟門らと呼応し、毛利方について大友氏に反旗を翻すという大きな賭けに出た 6

この動きを察知した大友宗麟は、弘治三年(1557年)、重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)らを総大将とする2万もの大軍を秋月討伐に差し向けた 6 。圧倒的な兵力差の前に、文種は麓の居館を焼き払い、一族郎党と共に古処山城に籠城して徹底抗戦の構えを見せた 3 。堅固な山城を頼みとした籠城戦はしばらく続いたが、衆寡敵せず、さらには家臣の一人である小野(古野)四郎右衛門の裏切りによって城は内外から攻め立てられ、ついに落城する 14 。もはやこれまでと覚悟を決めた文種は、嫡男の晴種と共に城中で自刃し、ここに秋月氏は一時的に滅亡するという悲劇的な結末を迎えた 9

文種の決断は、単なる無謀な反乱ではなかった。それは、大友と毛利という二大勢力の狭間で、国人領主としての自立性を守るために存亡を賭けた選択であった。結果的にその選択は一族を破滅に導いたが、この敗北と当主の死は、次代の秋月種実にとって強烈な原体験となる。この時、文種の次男であった黒帽子丸(後の種実)は、わずかな家臣に守られながら九死に一生を得て城を脱出。父の仇敵・大友氏への復讐を胸に、毛利元就を頼って周防国へと落ち延びていったのである 17 。この悲劇は、単なる終焉ではなく、後に秋月氏が最大の栄華を築くことになる、より苛烈な物語の序章に過ぎなかった。

第四章:秋月種実の時代―一族の再興、絶頂、そして転落

父と兄を失い、故国を追われた秋月種実の青年期は、復讐の念と共にあった。周防に逃れた種実は、毛利元就・隆元親子の庇護の下で成長する。特に毛利隆元は種実を厚遇し、兄弟の誓いを結んだと伝えられている 6 。雌伏の時を経て、永禄二年(1559年)頃、種実は毛利氏から兵三千と軍資金という強力な支援を受け、故国・秋月へ帰還。大友方が守る古処山城を電光石火の勢いで攻め落とし、見事に旧領を回復して秋月家の再興を果たした 6

再興後も種実の反大友の意志は揺るがなかった。永禄十年(1567年)、大友氏の重臣・高橋鑑種の離反に呼応して再び兵を挙げると、大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)を総大将とする2万の大軍を差し向けた 18 。緒戦では大友軍が優勢であったが、戦況は思わぬ形で転機を迎える。大友陣中に「毛利の大軍が援軍として接近中」との噂が広まり、動揺した大友軍が撤退を開始したのである 20 。種実はこの好機を逃さなかった。9月3日から4日にかけての風雨の夜半、精鋭2,000の兵を率いて休松(現在の朝倉市柿原付近)に布陣する臼杵鑑速・吉弘鑑理の部隊に決死の夜襲を敢行した 18 。不意を突かれた大友軍は大混乱に陥り、同士討ちを始める始末で、死者400名以上を出すという壊滅的な打撃を受けて敗走した 22 。この「休松の戦い」における劇的な勝利により、当時まだ23歳であった青年武将・秋月種実の名声は、九州全土に轟くこととなった 19

その後、種実は巧みな外交戦略を展開する。天正六年(1578年)に日向国で起こった「耳川の戦い」で大友氏が薩摩の島津氏に歴史的な大敗を喫すると、種実はすぐさま九州の新たな覇者となりつつあった島津氏に接近し、同盟関係を結んだ 17 。島津氏という強力な後ろ盾を得た種実は、弱体化した大友氏の領地を次々と侵食。筑前、筑後、豊前の一部にまたがる11郡、石高にして三十六万石にも及ぶ広大な版図を築き上げ、秋月氏の歴史における最盛期を現出した 18 。天正十四年(1586年)には、島津軍の一翼として大友方の岩屋城攻めにも参加し、城主・高橋紹運の壮絶な玉砕戦を目の当たりにしている 18

しかし、その栄華は長くは続かなかった。天正十五年(1587年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、島津討伐を名目に20万を超える空前の大軍を率いて九州に上陸した 12 。種実は島津氏との盟約を重んじ、秀吉軍との抗戦を決断する。この時、秀吉軍の圧倒的な国力を熟知していた重臣・恵利内蔵助暢尭は、和平交渉を進言したが聞き入れられず、主君の非を悟らせるために妻子を手にかけ自ら腹を切るという悲劇が起こった 8

いざ秀吉軍と対峙した種実は、その軍勢の規模と、一夜にして城を修復したかのように見せかけた「一夜城」の計略に度肝を抜かれ、完全に戦意を喪失する 15 。もはやこれまでと覚悟した種実は、剃髪して墨染の衣をまとい、嫡男・種長と共に秀吉の前に降伏。この際、天下三名物の一つとされた茶入「楢柴肩衝」と名刀「国俊」を献上したことで、かろうじて死罪を免れた 17

九州平定後、秀吉による領地再編(国割)が行われ、種実が一代で築き上げた三十六万石の領地は全て没収。代わりに日向国高鍋に三万石を与えられ、大幅な減知の上での移封を命じられた 5 。先祖代々の地である秋月を去るにあたり、種実は「知行は十石でもよいから、この秋月に留まりたかった」と嘆いたと伝えられている 1 。彼の成功は、九州内のパワーバランスを巧みに利用した軍事・外交の才にあったが、その視野は九州という地域に限定されていた。秀吉という「天下」規模の新たな権力の奔流の巨大さを見誤ったことが、彼の転落の直接的な原因であった。失意のうちに家督を種長に譲った種実は、慶長元年(1596年)にその波乱の生涯を閉じた 17

西暦(和暦)

出来事

関連人物

概要・意義

1557年(弘治3)

古処山城落城

秋月文種、戸次鑑連(大友方)

大友軍の猛攻により父・文種が自刃。種実は毛利元就の下へ亡命し、秋月氏は一時滅亡する。

1559年頃(永禄2)

古処山城奪還

秋月種実、毛利元就

毛利氏の支援を受け、種実が故国に復帰。秋月家を再興する。

1567年(永禄10)

休松の戦い

秋月種実、戸次鑑連(大友方)

種実が撤退する大友軍に夜襲を仕掛け大勝。青年武将としての名声を確立する。

1578年(天正6)

耳川の戦い

大友宗麟、島津義久

大友氏が島津氏に大敗。九州の勢力図が激変し、種実は島津氏に接近する。

1586年(天正14)

岩屋城の戦い

秋月種実、島津義久、高橋紹運

島津軍の一員として参陣。大友方の高橋紹運の壮絶な玉砕戦を目の当たりにする。

1587年(天正15)

豊臣秀吉の九州平定

秋月種実、豊臣秀吉

秀吉の圧倒的な軍事力の前に降伏。名物「楢柴肩衝」を献上し、日向高鍋三万石へ移封される。

1596年(慶長元)

秋月種実、死去

秋月種実

故郷を追われた失意の中、52歳で生涯を閉じる。

第二部:黒田氏の治世と秋月陣屋の成立

第五章:秋月藩の立藩と黒田長興

秋月氏が日向へ去った後、秋月の地は新たな支配者を迎える。関ヶ原の戦いでの功績により、豊前中津から筑前一国五十二万三千石の太守として黒田長政が入府し、福岡藩が成立した 1 。その際、秋月の地は長政の叔父であり、智将・黒田官兵衛(如水)の実弟にあたる黒田直之に一万二千石として与えられた 1 。直之は兄と同じく熱心なキリシタンであり、彼が秋月氏の旧居館跡に構えた屋敷の周辺には天主堂(教会)も建てられ、一時は九州におけるキリスト教伝道の拠点として栄えたという 1

秋月の歴史が再び大きく動くのは、元和九年(1623年)のことである。福岡藩初代藩主・黒田長政が死去に際し、三男の長興に五万石を分与して新たな藩を立てるよう遺言した 36 。これに基づき、寛永元年(1624年)、長興は秋月に入封し、叔父・直之が構えた後、十数年放置されていた古い屋敷を修復・拡張して自らの居城とした 37 。これが、江戸時代の秋月を象徴する「秋月城(秋月陣屋)」の始まりであり、福岡藩の支藩・秋月藩の誕生であった。

しかし、初代藩主となった黒田長興の前途は多難であった。分家による本藩の石高減少を快く思わない福岡本藩の一部家臣から、藩主として幕府の公認を得るために不可欠な江戸への参府を妨害されるなど、深刻な圧力を受けた 37 。長興はこの苦境を、三代将軍・徳川家光への直接の奉公に励むことで乗り越え、寛永十一年(1634年)、ついに幕府から秋月五万石の領主として正式に認められた 32 。この一連の出来事は、もはや個々の武将の武力ではなく、幕府という中央権力との関係性こそが大名の地位を保証する時代になったことを明確に示している。

藩主としての地位を確立した長興は、藩政の基礎固めに邁進する。城下町の計画的な整備に着手し、藩の行政組織を編成した 37 。その過程で、家臣団の集団脱藩という内紛も経験したが、19歳という若さながら冷静に対処し、藩内の混乱を収拾して家臣領民の信望を集めた 37 。寛永十四年(1637年)に島原の乱が勃発すると、二千五百余の兵を率いて出陣し、原城攻めで武功を挙げる 7 。戦後の論功行賞が極めて公正であったことから、家臣団との間に絶対的な信頼関係を築き上げた。また、新田開発や治水工事、街道整備といった民政にも力を注ぎ、42年間の長きにわたる在位期間を通じて、質実剛健な秋月藩の礎を築き上げたのである 37 。長興の死後、その功績を称え、垂裕神社に祭神として祀られた 36

ここに、歴史の興味深い綾が見られる。時代が下り、8代藩主・黒田長舒の代になると、藩主の血筋が途絶えかけたため、なんと日向高鍋藩、すなわち旧領主であった秋月氏から養子を迎えることになったのである 32 。これは、高鍋藩主・秋月種茂の母が秋月藩主・黒田長貞の娘であったという縁によるものであったが、結果として、豊臣秀吉によって故地を追われた秋月氏の血筋が、約200年の時を経て、その故地を治める藩主として帰還するという数奇な運命を辿ることになった。戦国時代の「断絶」が、江戸時代の武家の論理、すなわち家名の存続と血統の維持という複雑な縁組によって、奇妙な形で「継承」されたのである。

第六章:秋月陣屋の構造と城下町の整備

黒田長興によって築かれた秋月城は、戦国時代の古処山城とはその性格を全く異にする城郭であった。幕府からは城を持つことを許された「城主格」の大名として遇されたため「秋月城」と呼称されるが、天守閣は持たず、防御施設を簡略化した「陣屋」形式で築かれている 1 。その機能の中心は、もはや軍事拠点ではなく、藩の政務を執り行う「藩庁」であり、公的な空間である「表御殿」と、藩主の私的な生活空間である「奥御殿」に分かれていた 39

陣屋の縄張は、泰平の世における城郭の二重の性格を巧みに反映している。街道から見える南西側には、一筋の水堀と苔むした石垣が巡らされ、その上には二重櫓や平櫓が5基、威風堂々と建ち並んでいたと伝えられる 1 。これは、五万石の城主格大名としての威厳と格式を対外的に「見せる」ための意匠であった。一方で、全体としては大規模な防御施設を欠いており、これは幕府への恭順の意を示すとともに、もはや大規模な籠城戦を想定していない時代の産物であった。古処山城が純粋に「戦うための城」であったのに対し、秋月陣屋は「見せるための城」であり「治めるための拠点」だったのである。現在、陣屋の中心部であった場所には秋月中学校が、奥御殿の跡地は公園として整備されている 2

藩庁の建設と並行して、黒田長興は計画的な城下町の整備にも着手した 37 。秋月城跡へと真っ直ぐに続く「杉の馬場」通りを中心に武家屋敷が配置され、その周辺に町人地が形成された。この時に作られた町割りが、今日「筑前の小京都」と称される美しい町並みの原型となっている 45

城下町の発展は、文化や産業の振興にも繋がった。藩の奨励策により、清らかな水を利用した秋月和紙や、葛の根を原料とする秋月葛が特産品として知られるようになった 46 。また、8代藩主・黒田長舒の時代には、長崎警備の任に就いた経験から、当時の最先端技術であった石造りのアーチ橋「目鏡橋」を城下に架けるなど、インフラ整備も積極的に行われた 32 。これらの事実は、藩の関心が領土の防衛から、領内の経済振興と民生の安定へと大きく移行したことの証左である。秋月城下町は、江戸時代の地方都市が、政治的安定を背景にどのようにして独自の文化と経済を育んでいったかを示す、生きた歴史遺産と言えるだろう。

第三部:史跡としての中の秋月城

第七章:現存する遺構とその歴史的価値

明治維新後の廃城令により、秋月城の建造物の多くは失われたが、今日でもいくつかの貴重な遺構が残り、往時の姿を偲ばせている 45 。これらの遺構は、秋月の地に積層された歴史を現代に伝える、かけがえのない語り部である。

黒門(秋月城本門)

垂裕神社の参道入口に荘厳な姿で建つ黒門は、秋月城跡を象徴する建造物である 49 。この門には、秋月の重層的な歴史を物語る興味深い伝承が残されている。もともとは中世秋月氏の本城であった古処山城の搦手門(裏門)であったものを、江戸時代に黒田氏が秋月城を築く際に大手門(表門)として移築し、さらに明治十三年(1880年)、初代藩主・黒田長興を祀る垂裕神社が創建されるにあたり、その神門として現在地へ三度目の移築がなされた、というものである 1

建築様式としては、二本の本柱とその背後の二本の控え柱で屋根を支える「薬医門」と呼ばれる形式で、切妻造、本瓦葺である 49 。薬医門は武家の門としては櫓門に次ぐ高い格式を持つとされ、黒田氏の権威を示すにふさわしいものであった 53 。全体が黒塗りであることから「黒門」の通称で親しまれている 49 。この伝承が事実であれば、黒門は中世(秋月氏)、近世(黒田氏)、近代(神社)という三つの時代を生き抜き、その役割を変えながら存続してきた、まさに秋月の歴史そのものを体現する建造物と言える。

長屋門

黒門が移築されたものであるのに対し、長屋門は秋月城の遺構の中で唯一、創建当初の原位置を留める建造物として極めて高い価値を持つ 49 。この門は、藩主の私的な空間であった奥御殿へ至る通用門(内馬場裏御門)として機能し、その名の通り、門の両側には門番などが詰めるための長屋が付属していた 50 。昭和六十二年(1987年)からの解体修理工事の際に、嘉永三年(1850年)に建てられたことが判明している 50 。大手門である黒門がその象徴性から神社の門として「再利用」されたのに対し、裏門であった長屋門は移築の対象とならず、結果として取り壊しを免れ原位置に留まったと考えられる。この歴史の偶然が、今日の我々にとって、城の元の姿を正確に知るための唯一の手がかりを残してくれたのである。

その他の遺構と出土遺物

城跡の西側から南側にかけては、苔むした石垣と水堀が良好な状態で現存しており、江戸時代の陣屋の規模と雰囲気を今に伝えている 35 。また、大手門へと至る坂道には、瓦を縦に敷き詰めて滑り止めとした珍しい構造の「瓦坂」が残る 32

さらに、これらの目に見える遺構に加え、城跡からはその歴史の深さを示す重要な考古遺物も発見されている。昭和六十三年(1988年)、城内から一体の梵鐘が出土した。調査の結果、この鐘は11世紀前半頃に朝鮮半島で製作された高麗鐘であることが判明した 56 。さらに鐘の胴部には、「永和三年(1377年)」という日本の南北朝時代の年号と「筑前國下座郡」という地名が追刻されていた 56 。この時代は倭寇の活動が活発であった時期と重なることから、この鐘も倭寇による将来品(略奪品)である可能性が指摘されている 56 。この高麗鐘の存在は、現在の秋月城跡が単なる「黒田氏の陣屋跡」ではなく、その土地が黒田氏の時代より遥か以前から、大陸との何らかの関わりを持つ歴史的な場所であったことを雄弁に物語っている。

結論:秋月の地に積層する歴史

福岡県朝倉市の「秋月城」とは、単一の城郭を指す言葉ではない。それは、戦国時代に秋月氏が築き、その栄枯盛衰の舞台となった山上の要塞「古処山城」の記憶と、江戸時代に黒田氏が泰平の世の藩庁として築いた山麓の「秋月陣屋」の歴史が重なり合った、重層的な歴史空間の総称である。

古処山城の険しい山容と、その斜面を覆う畝状竪堀群は、秋月種実に象徴される地方勢力が、大国の狭間でいかにして生き残りを図ったか、その苛烈な生存競争の記憶を今に伝える。それは、武力こそが全てを決定づけた「戦の世」の論理そのものである。

一方、秋月陣屋跡に残る黒門や長屋門、そして「筑前の小京都」と称えられる美しい城下町の町並みは、黒田長興によって築かれた、政治と文化の中心としての秋月の姿を映し出す。それは、幕藩体制という安定した秩序の中で、統治と経済が社会の中心となった「治の世」の情景である。

この二つの「秋月城」の物語は、秋月氏の移封と黒田氏の入府によって一度は断絶したかに見える。しかし、古処山城の門が秋月城の門として再利用されたという伝承や、約200年の時を経て秋月氏の血筋が藩主として故地に帰還したという数奇な史実を通じて、複雑に絡み合いながら現代に続いている。

史跡「秋月城跡」を訪れることは、単に過去の建造物や石垣を眺めることではない。それは、この地に刻まれた戦国と江戸、二つの時代の精神に触れ、日本の歴史が経験した大きな転換点を一つの場所で体感することに他ならない。秋月の地は、これからも静かに、しかし雄弁に、その積層する歴史を我々に語りかけてくれるだろう。

引用文献

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  53. 【お城の基礎講座】35.薬医門(やくいもん) - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/08/14/180000
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