房総半島南部に位置する安房国(現在の千葉県館山市周辺)に、戦国時代の歴史を静かに物語る一つの城跡が存在する。稲村城である。この城は、単なる中世の山城の一つとして片付けることのできない、極めて重要な歴史的意義を内包している。本報告書は、稲村城を、房総の戦国大名・里見氏の権力構造、統治戦略、そしてその歴史的転換点を象徴する「画期となる城郭」として位置づけ、その多角的な分析を試みるものである。里見氏一族の歴史は、この城を主たる舞台として繰り広げられた骨肉の争い、「天文の内訌」を境として、前期と後期に明確に区分される 1 。稲村城の興亡は、まさに前期里見氏の栄華と没落の物語そのものである。
本研究を進めるにあたり、単一の視点に固執することなく、学際的なアプローチを採用する。第一に、城郭考古学の観点から、残された土塁や堀切、曲輪配置といった物理的遺構を徹底的に分析し、その構造と機能、そして当時の築城技術の水準を明らかにする。第二に、文献史料を丹念に読み解き、築城から廃城に至るまでの歴史的文脈を再構築する。特に、里見氏の権力闘争のクライマックスである「天文の内訌」については、従来の伝承と近年の研究成果を比較検討し、その真相に迫る。第三に、地域に根差した伝承や地名の解釈も視野に入れ、歴史の表舞台からはこぼれ落ちた人々の記憶を拾い上げる。これらのアプローチを統合することで、城という物理的空間(モノ)と、それに関わった人々の営みや権力闘争(コト)を立体的に浮かび上がらせることを目指す。
なお、本報告書の対象を明確にするため、一点注意を喚起しておきたい。広島県三原市には、田坂氏によって築かれた同名の「稲村山城」が存在するが、これは本稿で扱う城とは全く別のものである 4 。本報告書が対象とするのは、あくまで千葉県館山市に所在した里見氏の稲村城であり、混同を避けるため、文脈に応じて「安房稲村城」と呼称する場合がある。
城郭の価値を理解する上で、その立地選定の意図を読み解くことは不可欠である。稲村城は、安房国における里見氏の戦略を物理的に体現した存在であり、その地勢には軍事的、政治的、そして経済的な計算が凝縮されている。
稲村城は、館山平野の中央部南辺に位置し、鏡ヶ浦(現在の館山湾)を一望できる標高約64メートルの丘陵の先端部に築かれている 1 。この高さは、圧倒的な威容を誇るものではないが、その戦略的価値は極めて高い。城からは、眼下に広がる安房国で最も豊かな穀倉地帯と、東京湾(江戸湾)の入り口に連なる海上交通の動脈を同時に監視・支配することが可能であった。さらに、城の北側を流れる滝川は、天然の堀としての機能を果たし、防御の一翼を担っていた 7 。この立地は、領国内の経済基盤である農耕地と、交易・軍事の生命線である海上交通路という、戦国大名にとって最も重要な二つの要素を掌握するための、まさに最適な場所であったと言える。
稲村城の立地が持つ意味は、単なる軍事的な優位性にとどまらない。城の北東約2キロメートルの地点には、古代安房国の政治的中心であった国府が置かれていたと推定されている 7 。外部から安房に入り、在地勢力を制圧して新たな支配者となった里見氏にとって、旧来の権威の中心地の至近に壮大な本拠地を構えることは、極めて強力な政治的メッセージとなった。それは、自らが古代以来の安房国の正統な支配者であり、新たな秩序の創出者であることを、視覚的かつ心理的に領民や周辺勢力に宣言する行為であった。里見氏が安房国を「制覇」する段階から、安定的に「統治」する段階へと移行したことを象徴する戦略的な選択が、この稲村城の立地選定に表れているのである。
稲村城跡に残る遺構は、16世紀前半における房総の築城技術の高さを如実に示している。その規模と構造の複雑さは、単なる臨時の砦ではなく、一国の統治を担う本拠地として設計されたことを物語る。
稲村城の城域は、東西約500メートル、南北約500メートル 2 、あるいは東西約600メートル、南北約300メートル 10 にも及ぶ広大なものであった。これは、同時期の房総半島の城郭の中でも抜きんでた規模を誇る 11 。城の基本構造は、丘陵の最高所に主郭(本丸)を置き、そこから南に延びる尾根筋に沿って中郭や腰郭群を配置する「連郭式山城」である 7 。城の全体像、すなわち縄張りは、丘陵の地形を最大限に活用し、複数の郭を巧みに連携させることで、重層的な防御ラインを構築している 12 。
城の中枢である主郭は、里見氏の権威と防衛思想が最も色濃く反映された空間である。
稲村城には、主郭以外にも注目すべき遺構が数多く残されている。
昭和58年(1983年)度以降、千葉県教育委員会や館山市教育委員会によって複数回にわたる測量調査および発掘調査が実施されている 3 。これらの調査により、これまで述べた遺構が、極めて高度な城普請(築城工事)によって計画的に造成されたものであることが学術的に裏付けられた。また、城跡の中郭部からは縄文土器や、弥生時代末期から古墳時代中期にかけての竪穴住居跡も発見されており、この丘陵が古代から人々の生活の場であったことも判明している 9 。
戦国大名里見氏の権力基盤を理解する上で、彼らが有した海上戦力、すなわち「里見水軍」の存在を無視することはできない。その勃興期から、里見氏は東京湾の制海権を巡って対岸の北条氏と激しい抗争を繰り広げており、彼らの経済的・軍事的基盤にとって港湾の確保は死活問題であった 17 。
稲村城に関しては、複数の資料が「斜面下から海に向かって広がる曲輪は港としての機能を持っていたと推定されている」と記述している 10 。この機能について具体的に考察すると、稲村城が直接外洋に面しているわけではないことから、その形態は特殊であったと考えられる。ある研究では、稲村城が「平久里川河口につながり」、陸上交通と海上交通の接点にあったと指摘されている 21 。これは、城が鏡ヶ浦(館山湾)に注ぐ滝川(平久里川水系)を介して、海と結ばれていたことを示唆する。つまり、稲村城が有していたのは、外洋船が直接乗り入れる大規模な湊ではなく、小型船が往来し、物資の荷揚げや船の管理を行う「河川港」であった可能性が高い。
この河川港としての機能は、里見氏の拠点戦略の変遷を考える上で重要な意味を持つ。稲村城が本拠地であった15世紀末から16世紀前半にかけて、里見氏の戦略的関心は主として安房国内の平定と統治に向けられていた。この段階では、国府に近い内陸の河川港でも、領国経営に必要な兵站・物流機能を十分に果たすことができた。
しかし、北条氏との対立が本格化し、東京湾全域の制海権が争点となると、状況は一変する。より大規模で、外洋での活動にも即応できる水軍基地の必要性が高まったのである。その結果、天文の内訌を経て権力を掌握した里見義堯以降の後期里見氏は、より直接的に海に面し、大規模な湊を擁する岡本城や館山城へと拠点を移していく 21 。
したがって、稲村城の「港湾機能」は、里見氏の戦略が時代と共に、内陸支配を主眼とした「河川港」の段階から、広域交易と大規模な水軍運用を睨んだ「外洋港」へと進化していく過程を示す、重要な一里塚として位置づけることができる。この拠点移動は、里見氏の戦略的関心が「領国経営」から「広域覇権争い」へと移行したことを物語っているのである。
稲村城は、物理的な構造物であると同時に、前期里見氏の栄光と悲劇が刻まれた歴史の舞台でもある。その築城から廃城に至る約半世紀の間に、この城は安房国の中心として、そして一族の運命を決する場所として、重要な役割を果たした。
里見氏の出自は、上野国(現在の群馬県)に拠った新田氏の庶流とされ、初代・里見義実が室町時代中期の関東の動乱(享徳の乱)を機に安房へ入国したと伝えられる 15 。義実は在地勢力を次々と駆逐し、房総における里見氏の礎を築いた。
稲村城の正確な築城年代は不明であるが、伝承では文明18年(1486年)に里見義実が築城を開始し、その子とされる成義(実在は未確認)の代に完成したとされる 6 。里見氏は当初、安房南端の白浜城を拠点としていたが、やがて長田城を経て、国の中心部である稲村の地へ本拠を移した 7 。この権力中枢の移動は、単なる引っ越しではなく、明確な戦略的意図に基づいていた。それは、安房の南端部という辺境から、国府にも近い国の中心へと拠点を移すことで、名実ともに安房一国の支配者としての地位を確立しようとするものであった。稲村城の築城は、里見氏が安房制覇を成し遂げ、さらに上総国への進出を窺う新たな段階に入ったことを象徴する出来事だったのである 7 。
表1:稲村城 関連年表
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
典拠 |
1486年 |
文明18年 |
里見義実が稲村城を築城したと伝わる。 |
14 |
1491年 |
延徳3年 |
稲村城が完成したと伝わる。 |
6 |
1508年 |
永正5年 |
城主・里見義通が鶴谷八幡宮を造営する。 |
2 |
1518年頃 |
永正15年頃 |
里見義通が没し、子の義豊が家督を継ぐ。 |
18 |
1526年 |
大永6年 |
里見義豊、北条氏と対立し品川を攻撃。 |
2 |
1533年 |
天文2年 |
天文の内訌(稲村の変)勃発。 義豊が叔父・実堯と正木通綱を稲村城で殺害。 |
25 |
1534年 |
天文3年 |
犬掛の戦い。 実堯の子・義堯が北条氏の支援を得て義豊を破り、義豊は自害。 |
1 |
1534年 |
天文3年 |
天文の内訌終結後、稲村城は廃城となる。 |
1 |
2012年 |
平成24年 |
岡本城跡と共に「里見氏城跡」として国の史跡に指定される。 |
11 |
稲村城がその機能を最も発揮したのは、前期里見氏の3代目・義通と4代目・義豊の時代であった。この時期、里見氏は安房国内の支配を盤石なものとし、関東の広域的な政治・軍事動乱に本格的に関与し始める。
義実の子である里見義通の時代には、里見氏は単なる一豪族から「安房の国主」と目される存在へと成長していた 2 。稲村城は、この確立された権力の中心地として機能した。義通は、関東の最高権威であった古河公方・足利政氏に仕える一方、永正5年(1508年)には安房国一宮である鶴谷八幡宮の大規模な修復を行うなど、領国の統治者として活発な政治・文化的活動を展開した 2 。これは、里見氏の支配が安定期に入ったことを示すものである。
義通の子・義豊が家督を継いだ16世紀前半、関東の情勢は激動の時代を迎えていた。主家である古河公方家は父子の対立で分裂し、西からは相模の北条氏が急速に台頭して、関東の旧来の勢力図を塗り替えようとしていた 2 。このような緊迫した情勢の中、里見氏も北条氏との対立を深め、大永6年(1526年)には東京湾の制海権を巡って江戸城下の港湾都市・品川に攻撃を仕掛けるなど、積極的な軍事行動を展開した 2 。
一方で、義豊は武辺一辺倒の人物ではなかった。鎌倉五山の禅僧である玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)と深く交流し、「長義」という法名と「高巌」という雅号を授かるなど、高い文化的教養を身につけていた 2 。彼が開基と伝わる玉龍院の存在も、その文化人としての一面を物語っている 9 。
この義通・義豊の時代は、里見氏が安房国内の支配を固め、関東の覇権を争う主要プレイヤーの一角へと躍り出た、まさに過渡期であった。しかし、この内外における権力の伸張と情勢の緊迫化は、皮肉にも一族内に深刻な亀裂を生じさせる土壌となり、次章で詳述する悲劇的な内乱の遠因となっていくのである。
天文2年(1533年)から翌3年にかけて、稲村城を主舞台に繰り広げられた里見氏一族の内紛、すなわち「天文の内訌(てんぶんのないこう)」または「稲村の変」は、里見氏の歴史における最大の転換点であった。この事件により、里見氏の嫡流は断絶し、その権力構造と対外戦略は根底から覆されることになる。
内乱の直接的な対立軸は、里見氏当主である4代目・里見義豊と、その叔父にあたる実力者・里見実堯との間にあった 18 。実堯は兄・義通の次将として活躍し、上総国の金谷城を拠点に独自の勢力を形成していた 18 。特に、里見氏の力の源泉である水軍に対して大きな影響力を持っていたとされ、その存在は当主である義豊にとって無視できないものとなっていた 18 。
さらに、実堯の側近であった正木通綱も、里見氏の筆頭重臣として、特に水軍の掌握において重要な役割を担っていた 26 。義豊の目には、この実堯と通綱の強力な連携が、自らの当主としての権力を脅かす危険な勢力と映った可能性は極めて高い。
この内乱の原因については、長らく一つの伝承が語られてきた。それは、若年の義豊の後見人(陣代)となった実堯が、成人した義豊に家督を返還せず、実子・義堯を次期当主に据えようと簒奪を企てたため、義豊がやむなくこれを誅殺した、という物語である 25 。
しかし、近年の研究では、この伝承は内乱に勝利した義堯側が、自らの下剋上という行為を「父の仇討ち」として正当化するために創作したものであるという見方が有力となっている 15 。史実として考えられるのは、むしろ逆の構図である。すなわち、正統な当主である義豊が、自らの権威を凌駕するまでに勢力を拡大した叔父・実堯とその一派を、権力基盤の安定化のために計画的に粛清しようとした「政変」であった、というのが真相に近いと考えられる。
表2:天文の内訌 主要人物関係図
コード スニペット
graph TD
A[里見義実<br>(初代)] --> B[里見義通<br>(3代)];
A --> C[里見実堯];
B --> D[里見義豊<br>(4代・当主)];
C --> E[里見義堯<br>(後の5代)];
F[正木通綱<br>(重臣)] -.-> C;
G[北条氏綱<br>(小田原北条氏)] -.-> E;
H[小弓公方<br>足利義明] -.-> D;
subgraph "義豊派(当主・嫡流)"
D
H
end
subgraph "実堯・義堯派(反当主・庶流)"
C
E
F
G
end
style D fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style E fill:#ccf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style C fill:#ccf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style F fill:#ccf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style G fill:#ccf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
(注:図中の点線は連携・支援関係を示す)
内乱の火蓋は、天文2年(1533年)7月27日に切られた。この日、里見義豊は叔父・実堯と重臣・正木通綱を居城である稲村城に呼び出し、問答無用で殺害したのである 26 。この「稲村の変」と呼ばれる粛清事件が、里見一族を血で血を洗う内乱へと突き落とした 25 。
義豊の動機は、前述の通り、自らの権力基盤を強化するための先制攻撃であったと考えられる。当時、義豊が鶴岡八幡宮を焼いたことで求心力が低下し、実堯らが不満を漏らしているとの噂も流れており、義豊は深刻な危機感を抱いていた可能性がある 34 。また、義豊がこの挙に及ぶにあたり、主筋にあたる小弓公方・足利義明の承認を得ていたという説もあり、単なる個人的な憎悪によるものではなく、周到に計画された政変であったことがうかがえる 29 。
父・実堯を稲村城で謀殺された里見義堯は、ただちに報復の兵を挙げる。彼は正木通綱の子である時茂・時忠兄弟らと合流し、義豊への反撃を開始した 25 。
この時、義堯は驚くべき外交策に打って出る。里見氏の長年の宿敵であった小田原の北条氏綱に、援軍を要請したのである 15 。北条氏にとって、敵である里見氏の内紛は、房総半島への影響力を拡大する絶好の機会であった。氏綱はこの要請に応じ、援軍を派遣。これにより、里見氏の内乱は、関東の二大勢力である北条氏と小弓公方の代理戦争の様相を呈し、大規模な紛争へと発展した。
緒戦は天文2年8月、金谷・妙本寺周辺を舞台に海陸にわたって繰り広げられた。この戦いでは、北条水軍の支援を受けた義堯方が優勢であったことが記録からうかがえる 32 。
内乱の雌雄を決する最終決戦は、翌天文3年(1534年)4月6日、犬掛(現在の南房総市富山町犬掛)の地で行われた 26 。上総へ逃れていた義豊が態勢を立て直して安房へ侵攻してきたところを、義堯・北条連合軍が待ち伏せ、両軍が激突したのである 26 。
この「犬掛の戦い」で義豊軍は総崩れとなり、義豊自身も深手を負って敗走。もはやこれまでと覚悟を決め、自害して果てたと伝えられる 1 。享年21歳の若さであった 27 。
この義豊の悲劇的な最期については、地域にいくつかの伝承が残されている。忠臣・鎌田孫六が義豊の首を敵に渡すまいとこの地に埋めたとされる「水神の森」や、その首を洗ったという「首洗い井戸」(圃場整備により現存せず)などがそれであり、敗者の無念を今に伝えている 9 。
犬掛の戦いにおける義豊の死によって、天文の内訌は終結した。この内乱が里見氏の歴史に残した影響は計り知れない。
第一に、里見氏の家督は、義実-義通-義豊と続いた嫡流から、実堯の子・義堯を祖とする庶流へと、武力によって完全に移動した 1 。これにより、里見氏は義堯を初代とする「後期里見氏」の時代へと移行し、その性格を大きく変えることになる。
第二に、勝利者となった義堯は、自らの下剋上を正当化するための「歴史の書き換え」を行った形跡が見られる。例えば、後に義堯が再建した石堂寺多宝塔の銘文には、義堯の先代当主として父・実堯ではなく伯父・義通の名が記され、義豊は単に義通の子としか記されていない 26 。これは、義豊の存在を意図的に軽視し、自らが正統な後継者であることを示そうとする政治的意図の表れと考えられる。
天文の内訌は、単なる一族内のお家騒動ではなかった。それは、里見氏の権力構造と対外戦略を根底から変えた「クーデター」であり、その後の房総半島の勢力図を決定づける分水嶺となったのである。そして特筆すべきは、義堯が権力掌握のために宿敵・北条氏の力を借りたという事実である。これは、戦国時代の武将たちが、血縁や旧来の敵対関係といった情念よりも、目の前の実利と権力掌握を優先する、冷徹なリアリズムで動いていたことを示す典型例と言える。しかし、この一時的な同盟は、義堯が家督を掌握するとすぐに破綻し、むしろ約40年間にわたる、より深刻な房総・相模間の抗争(房相一和)の序章となった 18 。内乱の解決が、結果としてより大きな対外戦争の火種を生み出したことは、戦国の世の非情さを示している。
天文の内訌の終結と共に、前期里見氏の本拠地として栄華を誇った稲村城は、その歴史的役割を終え、打ち捨てられる運命を辿った。しかし、その存在が歴史から完全に消え去ったわけではない。廃城という事実そのものが、後期里見氏の新たな戦略を物語っており、現代においては貴重な史跡として新たな価値を見出されている。
天文3年(1534年)の内乱終結後、稲村城は廃城となった 1 。一時は改修が試みられたものの、途中で放棄されたという見方もあるが 13 、いずれにせよ、里見氏の本拠地として再び用いられることはなかった。新当主となった里見義堯が、この重要な城を放棄した背景には、複数の戦略的・政治的な理由が考えられる。
稲村城の廃城は、単なる拠点の変更ではない。それは、後期里見氏の「国家戦略」が、内向きの領国経営から、外向きの広域覇権争いへと全面的に転換(パラダイムシフト)したことを物語る、物理的な証拠なのである。義堯が稲村城を「捨てる」という決断を下したことは、彼が過去の里見氏と決別し、新たな時代の戦国大名として飛躍するための、合理的かつ必然的な選択であったと言えよう。
廃城後、歴史の表舞台から姿を消した稲村城であったが、その丘陵には戦国時代の遺構が奇跡的に良好な状態で残された。そして現代において、その歴史的価値が再評価され、貴重な文化遺産として新たな生命を吹き込まれている。
稲村城跡は、その卓越した保存状態と、里見氏の歴史における重要性が高く評価され、平成24年(2012年)1月24日、南房総市に所在する岡本城跡と共に「里見氏城跡」として国史跡に指定された 1 。これは、稲村城跡が、房総半島における中世山城の構造や変遷、そしてこの地域の社会・政治情勢を知る上で、学術的に極めて重要な史跡であると国が認定したことを意味する 11 。
現在、稲村城跡は、地元の方々や「稲村城跡を保存する会」などの尽力により、見学路の整備や草刈りといった保存活動が続けられている 1 。城跡の多くは私有地であるため、見学者は指定されたルートを守るなど、マナーへの配慮が求められる 28 。また、館山市教育委員会によって詳細な発掘調査報告書も刊行されており、学術的研究の対象として、また地域の歴史を学ぶための教育の場として、その価値はますます高まっている 3 。
稲村城跡は、戦国時代の歴史を五感で感じることができる貴重な文化遺産であると同時に、地域の歴史と文化を象徴し、人々のアイデンティティを形成する重要な核となっているのである。
安房国・稲村城の総合的な研究を通じて、この城が日本の戦国時代史において持つ重層的な意義が明らかになった。
第一に、考古学的価値の観点から、稲村城は戦国時代前期の東国における山城築城技術の一つの到達点を示す、一級の考古資料である。館山平野と東京湾口を同時に押さえる絶妙な立地選定、丘陵の地形を最大限に活かした大規模かつ複雑な縄張り、そして高さ3メートルに及ぶ土塁や大規模な切岸といった高度な防御施設の数々は、当時の土木技術の水準の高さを証明している。
第二に、歴史的重要性として、稲村城は房総の戦国大名・里見氏の歴史における決定的な転換点を象徴する存在である。それは、前期里見氏が安房一国の支配を確立した栄光の拠点であったと同時に、その嫡流が断絶し、後期里見氏が誕生するという、一族の歴史における最大のドラマが演じられた悲劇の舞台でもあった。天文の内訌という事件は、この城の名を里見氏の歴史に永遠に刻み込むことになった。
最終的に、稲村城の興亡史は、単なる一つの城郭の盛衰物語にとどまらない。それは、戦国大名の権力闘争の非情さ、時代の変化に伴う戦略思想の変遷、そして何よりも、勝者によって歴史がどのように形作られ、語り継がれていくかという、普遍的なテーマを我々に突きつけている。物理的な遺構(モノ)と、そこに刻まれた人々の営みや争いの記憶(コト)が分かちがたく結びついた稲村城は、日本の戦国時代を深く理解する上で欠かすことのできない、かけがえのない歴史遺産であると結論付けることができる。