籾井城
丹波国境の要害、籾井城は京街道と摂津街道の結節点に位置し、波多野氏の東方防衛の要を担った。明智光秀の丹波攻略で落城し、最後の城主・籾井綱利は討死。伝説の「丹波の青鬼」は史実と伝承が交錯する。
丹波国境の要害 籾井城 ― 籾井一族の興亡と明智光秀の丹波攻略戦
序章:丹波の入り口に佇む城
籾井城の地理的・戦略的重要性
戦国時代の丹波国、その東端に位置する兵庫県丹波篠山市福住に、籾井城(もみいじょう)の城跡は静かに横たわっている。別名を安田城、福住城、あるいは福住古城とも呼ばれるこの山城は 1 、単なる一地方の城郭ではなかった。その立地こそが、籾井城に比類なき戦略的価値を与えていたのである。
城が築かれたのは、標高390メートルの白尾山(はくびさん)山頂 1 。眼下には、京の都から山陰地方へと抜ける京街道(旧山陰道)と、経済の中心地であった摂津国(現在の大阪府北部・兵庫県南東部)へと通じる摂津街道が交差する、交通の結節点が広がっていた 2 。この地は、京都側から見れば丹波国への入り口そのものであり、丹波に割拠する国人領主たちにとっては、畿内からの侵攻に対する最初の防衛線となる、まさに国境の要害であった。山頂からは東・西・南の三方向を見渡すことができ、街道を往来する軍勢の動きをいち早く察知することが可能であった 2 。この地理的優位性こそが、籾井城を戦国時代の丹波において、極めて重要な戦略拠点たらしめた根源であった。
戦国期丹波の勢力図
当時の丹波国は、特定の強力な戦国大名による統一支配が及んでおらず、多くの国人領主が群雄割拠する複雑な情勢下にあった。その中で盟主的な存在として君臨していたのが、多紀郡(現在の丹波篠山市周辺)を本拠とする八上城(やかみじょう)の波多野氏であった 2 。また、氷上郡(現在の丹波市)には、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井(荻野)直正が黒井城に拠点を構え、波多野氏と並び立つ勢力を誇っていた。
このような勢力図の中で、籾井城を本拠とする籾井氏は、丹波東部における有力な国人領主として、盟主である波多野氏の被官(家臣)という立場にあった 2 。彼らは単なる一配下ではなく、波多野氏の勢力圏の東端、すなわち畿内勢力との最前線を守るという極めて重要な役割を担っていた。籾井城の堅固さは、そのまま波多野氏の支配の安定に直結していたのである。
この城の重要性は、単に国境を守る砦というだけに留まらない。むしろ、波多野氏が構築した東方防衛網全体の要石、すなわち「リンチピン」としての役割を担っていたと分析できる。その理由は、第一に、城が京と摂津からの主要街道が合流する地点を完全に押さえていることにある 2 。第二に、籾井氏が波多野氏の主要な家臣であり、その本拠である八上城はより丹波の中央部に位置していたことである 2 。この二点から、籾井城は孤立した防衛拠点ではなく、波多野氏の勢力圏全体を守るための第一関門として機能していたことがわかる。したがって、後に丹波攻略に乗り出す明智光秀にとって、籾井城の無力化は、波多野氏の本拠・八上城を包囲するための絶対的な前提条件であった。この城を落とすことは、単なる局地的な勝利ではなく、丹波の他の国人衆の士気を砕き、波多野氏の防衛網を内側から崩壊させるための、決定的な一歩となるはずであった 7 。
第一章:籾井氏の台頭と丹波の勢力図
籾井氏の出自と系譜の謎
籾井城の主であった籾井一族。その出自は複数の伝承に彩られ、今なお判然としない部分が多い 9 。最も広く知られている説は、彼らが宇多源氏佐々木氏の流れを汲む一族であるとするものである 6 。この説によれば、籾井氏は代々足利将軍家に仕え、本拠地である福住十五ヶ村を支配した国人であったとされる 10 。
一方で、一族の歴史を記したとされる『籾井家日記』には、異なる系譜が記されている。そこでは、籾井氏は清和源氏摂津守頼光の後胤であり、同じ丹波の有力国人である赤井氏らと同族であると主張されている 6 。戦国時代の国人領主が、自らの家格と支配の正当性を高めるために、名高い武家の系譜に自らを連ねることは珍しくなかった。籾井氏に関するこれらの異なる伝承もまた、そうした当時の社会状況を反映している可能性がある。
さらに、歴史の記録を紐解くと、室町時代には京都を中心に活動した「京都籾井氏」と呼ばれる一族の存在が確認できる。彼らは室町幕府の奉公衆や、丹波守護であった細川氏のもとで守護代を務めるなど、中央政権と深い関わりを持っていた 11 。丹波に根を下ろした籾井氏と、この京都籾井氏との間に直接的な関係があったかは不明であるが、同族である可能性も指摘されており、一族のルーツの複雑さを物語っている。
在地領主としての確立
籾井氏が福住の地で確固たる地位を築くまでの道のりは、平坦ではなかった。室町時代、この地域を支配していたのは、南北朝時代に丹波守護を務めた仁木氏の一族であった。仁木氏は福住の中心部南方にそびえる桂山に仁木城を構え、勢力を誇っていた 6 。
これに対し、籾井氏は仁木城の北方に位置する白尾山に城を築き、仁木氏と対峙する形でこの地に根を下ろした。両者の力は拮抗していたが、やがて中央政界の変動とともに仁木氏の勢力は衰退し、四国へ移住したと伝えられる 6 。この権力の空白を突く形で、籾井氏は福住一円、すなわち福住十五ヶ村の支配権を完全に掌握し、この地における在地領主としての地位を確立したのである 6 。
丹波の盟主・波多野氏との関係
戦国時代に入ると、丹波国内の勢力図は大きく塗り変わる。多紀郡において八上城を拠点とする波多野氏が急速に台頭し、周辺の国人領主を束ねる盟主的存在へと成長していった。この新たな時代の潮流の中で、籾井氏は波多野氏の傘下に入るという戦略的決断を下す 2 。
この関係を決定的なものにしたのが、婚姻政策であった。籾井城の築城者とされる籾井照綱の子、籾井右近太夫綱重は、波多野氏の当主である波多野秀治の妹を妻として迎えた 6 。この姻戚関係により、籾井氏は単なる波多野氏の配下から、一族の中でも特に重きをなす中核的な存在へとその地位を高めた。彼らは波多野連合の東方、すなわち京・摂津方面に対する防衛の要を担うこととなり、その軍事的重要性はますます高まっていった。籾井氏は、丹波の国境線を守る盾として、波多野氏の支配体制に不可欠なピースとなったのである。
第二章:要害・籾井城 ― 縄張りと防御機能の徹底分析
立地と城郭構造
籾井城は、戦国時代に築かれた山城(やまじろ)の典型的な特徴を色濃く残している。城は、標高390メートル、麓からの比高が約140メートルから150メートルに及ぶ白尾山の険しい地形を巧みに利用して構築されている 2 。その構造は、山の尾根筋に沿って複数の曲輪(くるわ、城内の平坦地)を直線的に配置する「連郭式山城」に分類される 2 。
この城の最大の強みは、その卓越した眺望にあった。山頂からは東の京方面、西の丹波中央部、そして南の摂津方面という、三つの重要な方角を一望できた 2 。これにより、街道を進軍してくる敵の動きを遠方からでも早期に察知し、迎撃の準備を整えることが可能であった。まさに、情報を制するための「監視要塞」としての機能も備えていたのである。
主郭を中心とした放射状の曲輪配置
籾井城の縄張り(城の設計)は、山頂に設けられた主郭(しゅかく、本丸)を核として、そこから放射状に伸びる四方の尾根筋(北、南、東、西)に曲輪群を配置するという、極めて機能的な構造を持つ 2 。
南東尾根(大手筋)
城の正面玄関にあたる大手道(おおてみち)は、現在の登山道にもなっている南東の尾根筋であったと推定されている 10 。麓の禅昌寺脇から始まるこの登城路は、一直線に主郭へとは至らない。尾根上には複数の段状の曲輪(腰曲輪)が連続して設けられており、攻め寄せる敵兵は、これらの曲輪を一つひとつ攻略しながら、急峻な坂を登らなければならなかった 2 。この構造は、敵の進軍速度を遅らせ、兵力を徐々に削ぎ、上方の曲輪からの迎撃を容易にするための、計算され尽くした防御設計であった。
北尾根(搦手筋)
城の裏口にあたる搦手(からめて)は、主郭の北側に伸びる尾根筋にあったと考えられている 10 。主郭のすぐ北には一段低い腰曲輪があり、その先には細長い曲輪が続いている。そして、この曲輪群の先端は、大規模な堀切(ほりきり)によって完全に遮断されている 2 。搦手は城の弱点となりやすいため、正面の大手以上に厳重な防御が施されており、籾井城の防御意識の高さを物語っている。
西尾根・東尾根
主郭から東西に伸びる尾根も、決して無防備ではなかった。これらの尾根にも、曲輪と堀切が交互に配置され、階段状に城の領域を広げている 2 。特に西側の尾根は、谷筋からの敵の侵入を警戒し、複数の堀切によって尾根筋を分断することで、側面からの攻撃に備えていた 2 。これにより、敵はどの方向から攻めても、必ず城の防御施設に阻まれることになった。
防御遺構の機能分析
籾井城の防御力を支えていたのは、地形を最大限に活用した土木施設であった。
- 堀切(ほりきり): 尾根を人工的に深く掘り込んで断ち切ることで、敵の直線的な突撃を阻止する最も基本的な防御施設。籾井城では、各尾根の要所に効果的に配置されている 2 。特に注目すべきは、堀切の両端が竪堀(たてぼり)として谷底まで急角度で落ち込んでいる箇所である 2 。これは、堀切を迂回しようとする敵兵が、この竪堀によって滑り落ちることを狙ったもので、側面防御への強い意識がうかがえる。
- 土橋(どばし): 堀切の一部を掘り残して橋のようにした通路。これにより、城兵は堀切で分断された曲輪間を迅速に移動し、兵力の再配置や反撃を行うことができた 2 。一方で、敵にとっては狭く防御された一本道となり、格好の攻撃目標となった。
- 土塁(どるい): 曲輪の縁を土で高く盛り上げた土製の壁。北側の曲輪群の先端などで確認されており、敵が放つ矢や鉄砲の弾から身を守ると同時に、ここを拠点として応戦するための防御壁として機能した 10 。
これらの遺構の配置は、籾井城の防御思想が単に籠城して敵の攻撃を耐え忍ぶ「受動的防御」ではなく、城兵が城内を自在に移動し、反撃や組織的な後退を行うことを想定した「能動的・柔軟な防御」であったことを示唆している。特に、堀切と土橋の組み合わせは、この思想を象徴するものである。単なる深い堀は受動的な障害物に過ぎないが、土橋を備えた堀切は、城兵に反撃や退却の選択肢を与えつつ、敵には進軍のボトルネックを強いる。南東大手筋の段状の曲輪群も、敵を消耗させ、上からの攻撃に晒し続けることで、土橋を経由して移動してきた城兵による側面からの反撃を成功させるための布石であったと考えられる。この洗練された設計は、籾井氏が経験豊かな武士団であり、この城が持つ戦略的重要性を深く認識していたことの証左と言えるだろう。
支城・安口城との連携 ― 「籾井両城」体制
籾井城の防御網は、この城単体で完結するものではなかった。城主であった籾井綱重は、晩年、嫡男の綱利に籾井城を譲り、自らは東方約1.4キロメートルの地点に安口城(はだかすじょう)を築いて、次男の綱正と共に隠居した 10 。
この安口城は、単なる隠居城ではなかった。後に丹波を攻める明智光秀が残した書状の中に、「籾井両城を攻め落とした」という一節が見られる 15 。この「両城」とは、まさしく籾井城と安口城を指すと考えられている。これは、二つの城が密接に連携し、一体となって機能する相互補完的な防衛ネットワークを形成していたことを物語っている。籾井城が主城として敵主力を引きつけ、安口城が側面支援や兵站拠点、あるいは最後の砦として機能するなど、複合的な防御体制が敷かれていた可能性が高い。
表:籾井城の主要遺構と戦略的機能
区画 |
主要遺構 |
特徴と分析 |
想定される戦略的機能 |
主郭 |
曲輪、石碑 |
標高390メートルの山頂に位置する、城の中枢部。南北約35m、東西約30mの広さを持つ 2 。後世の記念碑が立つ。 |
最終防衛拠点。城全体の指揮所であり、城主の居住空間でもあったと考えられる。 |
南東尾根(大手筋) |
段状曲輪、堀切 |
麓から主郭に至る主登城路。複数の小規模な曲輪が階段状に連続し、敵の進軍を段階的に阻害する構造 2 。 |
敵主力を正面から迎え撃ち、消耗させるための主戦場。上段からの攻撃で敵に継続的な損害を与える。 |
北尾根(搦手筋) |
曲輪、大規模堀切、土橋、土塁 |
主郭背後の防御線。細長い曲輪の先に大規模な堀切と土橋を配置。北端には土塁も確認される 2 。 |
裏手からの奇襲を阻止する厳重な防御施設。土橋は城兵の連絡路を確保し、土塁は迎撃拠点として機能する。 |
西尾根・東尾根 |
曲輪、堀切、竪堀 |
主郭から左右に伸びる尾根筋の防御。堀切で尾根を分断し、側面からの侵入に備える。堀切の端は竪堀として谷へ落ちる 2 。 |
側面からの迂回攻撃を警戒・阻止する。竪堀は、敵兵の移動を物理的に困難にし、谷筋への警戒を示す。 |
第三章:城主たちの実像 ― 籾井一族と「丹波の青鬼」伝説
史料に見る籾井一族の系譜
籾井城の歴史は、そこに生きた城主たちの歴史でもある。史料を基に、戦国末期の籾井一族の動向を追うと、三代にわたる城主の姿が浮かび上がる。
- 籾井照綱(もみい てるつな): 永正年間(1504~1521年)に籾井城を築いたとされる初代城主 2 。彼の時代に、籾井氏は在地領主としての基盤を固めたと考えられる。
- 籾井綱重(もみい つなしげ): 照綱の跡を継いだ二代目。波多野秀治の妹を娶り、波多野一族との関係を強化した 9 。彼は後に嫡男に家督を譲り、支城である安口城へ移った 10 。
- 籾井綱利(もみい つなとし): 綱重の嫡男であり、明智光秀の侵攻時に籾井城を守った最後の城主。天正5年(1577年)の落城の際、25歳という若さで城と運命を共にし、自刃したと記録されている 9 。
この籾井綱利こそが、史料的に確認できる最後の城主であり、彼の悲劇的な死とともに、丹波の国人領主としての籾井宗家は事実上滅亡したのである。
伝説の武将・籾井教業と「丹波の青鬼」
しかし、籾井城の歴史を語る上で、もう一人、決して無視できない人物が存在する。それが、数々の軍記物や地域の伝承にその名を轟かせる猛将、**籾井越中守教業(もみい えっちゅうのかみ のりなり)**である 1 。
教業は、黒井城の赤井直正がその勇猛さから「丹波の赤鬼」と恐れられたのに対し、それに並び立つ武将として「 丹波の青鬼 」と称されたという 1 。伝承によれば、彼は明智光秀の大軍を一度ならず撃退し、その名を丹波内外に知らしめたとされる 2 。赤鬼と青鬼、二人の鬼神のごとき武将が、織田信長の天下統一の前に立ちはだかったという構図は、非常に劇的であり、後世の人々の想像力を掻き立ててきた。
史実と伝承の狭間 ― 『籾井家日記』の批判的検討
この「青鬼」籾井教業の伝説は、どこから生まれたのか。その最大の典拠となっているのが、『 籾井家日記 』という文献である 1 。この日記は、主家である波多野氏が滅亡した後、その家臣であった籾井五郎右衛門という人物らが、一族の歴史を後世に伝えるために高野山に隠れ住んで書き残したものと伝えられている 20 。
しかし、近年の歴史研究において、この『籾井家日記』の史料的価値には大きな疑問符が付けられている。内容には事実と異なる記述や、明らかに創作と思われる逸話が多く含まれており、歴史的事実を記した記録文書というよりは、一族の活躍を劇的に描いた「読み物(軍記物語)」としての性格が強いと評価されているのである 16 。例えば、明智光秀が波多野氏を降伏させるために自らの母を人質として八上城に送り、後に信長が波多野兄弟を処刑したため、城兵が光秀の母を磔にしたという有名な逸話があるが、これもこの『籾井家日記』などを典拠とする後世の創作であることが、現在では定説となっている 22 。
このような史料的背景から、籾井教業という人物の実在性そのものが、研究者の間で疑問視されている 10 。むしろ、最後の城主は教業という伝説上の人物ではなく、他の史料でその存在が確認できる
籾井綱利 であったとする説が、現在では最も有力視されている。
ではなぜ、「青鬼」という英雄像が創り出されたのか。それは、敗者の側から紡がれた、一種の「心理的な対抗物語」であったと解釈することができる。歴史の現実は、籾井一族が織田・明智連合軍の圧倒的な物量の前に敗れ去り、若き当主・綱利が非業の死を遂げるという、残酷な結末であった 9 。この悲劇的な敗北に直面した生き残りや旧臣たちが、失われた名誉を回復し、一族の記憶を後世に伝えるために、理想的な英雄像を創造したのではないか。実在した「赤鬼」赤井直正と対をなす「青鬼」という存在を創り出すことで、籾井氏の抵抗を、より名高い赤井氏の奮戦と同等のレベルにまで引き上げようとしたのである 10 。この伝説は、籠城戦の事実そのものよりも、戦後の丹波武士たちの誇りや記憶がどのように形成されていったかを物語る、貴重な歴史的産物と言えるだろう 25 。
第四章:落城 ― 明智光秀の丹波平定と籾井城の終焉
丹波攻略戦の勃発
天正3年(1575年)、天下統一を目前にする織田信長は、その総仕上げの一つとして、重臣・明智光秀に丹波国の平定を命じた 2 。当初、波多野秀治をはじめとする丹波の国人衆は、信長の圧倒的な軍事力を前に恭順の意を示していた。しかし、信長と室町幕府最後の将軍・足利義昭との対立が決定的なものとなると、古くから足利将軍家と繋がりの深かった丹波の武士たちは、次々と信長に反旗を翻した 2 。これにより、丹波国は織田政権に対する一大抵抗拠点と化し、光秀による大規模な攻略戦の火蓋が切られることとなった。
二度にわたる攻防戦
京と丹波の国境に位置する籾井城は、光秀の侵攻において最初の標的の一つとなった。
第一次攻防戦(天正4年/1576年)
光秀は丹波への侵攻を開始するが、この年の攻撃は、籾井城の堅固な守りの前に阻まれたと伝えられている 2 。この戦いの詳細は不明な点が多いが、織田軍の攻撃を一度は退けたという事実、あるいは伝承が、「丹波の青鬼」伝説をより強固なものにする一因となったことは想像に難くない。この時、光秀は丹波のもう一つの雄、赤井直正が籠る黒井城の攻略にも失敗しており、丹波の国人衆の結束力の前に苦戦を強いられていた。
第二次攻防戦と落城(天正5年/1577年)
翌天正5年(1577年)、光秀は態勢を立て直し、丹波攻略を再開する。同年10月から11月にかけて、彼は丹波東部の国境地帯に位置する諸城への攻撃を本格化させた 7 。この第二次侵攻において、国境の要である籾井城は、再び織田軍の猛攻に晒されることとなる 2 。この時、光秀は籾井城だけでなく、その支城である安口城も同時に攻撃対象としており、「籾井両城」を一体の敵として攻略する作戦をとっていた 15 。
本明谷川の激戦と一族の末路
伝承によれば、天正5年11月、城下の本明谷川付近において、明智軍と籾井勢との間で雌雄を決する激戦が繰り広げられた。この時、明智軍の先鋒を務めたのは、後に築城の名手として、また伊勢津藩の藩主として名を馳せる藤堂高虎であったという 1 。
数に勝る明智軍の前に、籾井勢は奮戦むなしく敗北。城の命運は尽きた。城主であった籾井綱利は、もはやこれまでと覚悟を決め、城内にて自刃して果てた。享年25であった 9 。父・綱重と弟・綱正は、綱利が遺した幼い子を抱き、燃え盛る城から辛くも落ち延びたと伝えられている 9 。
こうして、永正年間の築城以来、半世紀以上にわたって丹波の東門を守り続けた籾井城は、歴史の舞台からその姿を消した。
落城後、生き残った一族は、武士としての道を断たれることはなかった。彼らは、かつての所領の古い地名である「福泉(ふくずみ)」を新たな姓とし、福泉氏を名乗った 6 。そして、驚くべきことに、彼らは後に、自らの一族を滅ぼした敵将の一人、藤堂高虎に仕官し、その家臣として新たな人生を歩み始めたのである 9 。主家の仇であったはずの武将に仕えるというこの選択は、敵味方が目まぐるしく入れ替わる戦国時代の武士の現実的な処世術と、武勇ある者を敵であっても評価し登用するという当時の価値観を示す、極めて興味深い事例と言えるだろう。
終章:歴史の証人として ― 史跡・籾井城跡の現在
廃城後の歴史と現在の姿
天正5年(1577年)の落城をもって、籾井城はその軍事拠点としての役割を終え、廃城となった。丹波を平定した明智光秀は、より大規模で近代的な亀山城や福知山城を新たな支配拠点とし、籾井城のような中世的な山城は顧みられることがなくなった。江戸時代を通じて、かつての戦場は静かな山へと還り、人々の記憶の中にのみ、その存在を留めることとなった。
現在、城跡は「籾井城跡公園」として地元の人々によって大切に保存・整備されている 5 。麓にある禅昌寺の脇から主郭へと続く登山道が設けられており、訪れる者は約30分から40分ほどで山頂に立つことができる 12 。山中には、今なお曲輪の平坦面、尾根を断ち切る鋭い堀切、そして土塁といった遺構が、400年以上の時を超えて良好な状態で残されている 2 。これらの遺構は、戦国時代の山城が持つ、地形を最大限に利用した機能美と、生々しい緊張感を現代に伝えている。
城跡に残る後代の痕跡
山城としての役割を終えた後も、白尾山は地域の人々にとって特別な場所であり続けた。そのことを示す痕跡が、城跡の各所に見られる。
主郭には、大正13年(1924年)に当時の皇太子(後の昭和天皇)の御成婚を記念して建立された「東宮御成婚記念」の大きな石碑が建っている 10 。また、登山道の途中には、昭和3年(1928年)に日清・日露戦争の戦没者を慰霊するために建てられた忠魂碑と、実際に使われたと思われる大砲の砲身が設置されている 27 。これらの近代以降の記念碑は、戦国の城跡という歴史的空間に、新たな時代の記憶を重ね書きしている。
総括:籾井城が語るもの
籾井城は、単なる土と石の遺構ではない。それは、京と地方を結ぶ交通の要衝を巡る、戦国武将たちの戦略が凝縮された空間である。丹波の地に深く根を下ろした一国人領主・籾井氏が、いかにして台頭し、そして時代の大きなうねりの中で滅びていったかという、栄光と悲劇の物語の舞台でもある。
さらにこの城は、史実と伝説が交錯する場所でもある。若くして散った最後の城主・籾井綱利という史実と、敗者がその無念の中から紡ぎ出した「丹波の青鬼」という英雄的な伝説。この二つの物語が重なり合うことで、歴史の多層性と、記憶の継承という複雑な営みを我々に示してくれる。
本報告書で詳述したその歴史、構造、そして物語を通じて、籾井城は戦国という時代の厳しさ、そこに生きた人々の誇りと哀しみ、そして歴史のうねりに翻弄された一族の運命を、静かに、しかし雄弁に語りかけてくる。それは、後世に守り伝えていくべき、貴重な文化遺産としての価値を再確認させる、歴史の証人なのである。
引用文献
- 77.籾井城跡 (41) - 丹波篠山市 https://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/bunkazai_hubutu_huzoku/tabasasayamakankoupoint/tanbasasayamagojusantugi/13980.html
- 籾井城(兵庫県丹波篠山市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6067
- 籾井城跡 - なんとなく城跡巡り - FC2 https://siroatomeguri.blog.fc2.com/blog-entry-265.html?sp
- 籾井城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2016
- 籾井城の見所と写真・100人城主の評価(兵庫県丹波篠山市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/371/
- 武家家伝_籾井氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_momi.html
- 天空の戦国夢ロマン丹波篠山国衆の山城を訪ねて https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/75/sengokuransenomichi.pdf
- 丹波攻略についてまとめてみた【明智光秀】 - 明智茶屋 Akechichaya https://akechichaya.com/tanba-capture/
- 籾井城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.momii.htm
- 丹波 籾井城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/momii-jyo/
- 籾井氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%BE%E4%BA%95%E6%B0%8F
- 籾井城 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kansai/tanba/momii.html
- 篠山、籾井城址を再攻略する - 播磨屋 備忘録 http://usakuma21c.sblo.jp/article/26527148.html
- 安口城の見所と写真・全国の城好き達による評価(兵庫県丹波篠山市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/372/
- 籾井城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%BE%E4%BA%95%E5%9F%8E
- 籾井教業 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%BE%E4%BA%95%E6%95%99%E6%A5%AD
- 籾井城 http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20momii.htm
- 籾井教業 | 武将のり - Ameba Ownd https://bushonori.amebaownd.com/posts/45602149/
- 第255回:籾井城(丹波の青鬼伝説が残る城) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-274.html
- 古 文 書 https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/36/0098.pdf
- 武家家伝_須知氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_shiuti.htm
- 光秀の母に迫る(上) 「はりつけは創作」根拠は? ”フェイク”信じた可能性 - 丹波新聞 https://tanba.jp/2019/08/%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AE%E6%AF%8D%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89%E3%80%80%E3%80%8C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%AF%E5%89%B5%E4%BD%9C%E3%80%8D%E6%A0%B9%E6%8B%A0/
- 籾井教業- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%B1%BE%E4%BA%95%E6%95%99%E6%A5%AD
- 第209話籾井教業・宇津頼重 - 魔法武士・種子島時堯(克全) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054892330192/episodes/1177354054899692730
- 丹波 籾井城 「丹波の青鬼」伝説に包まれた要衝 | 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-294.html
- 丹波平定 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/SengokuTanbaHeitei.html
- 御城印集めの旅 205 籾井城 (兵庫県) | Canon Boy のブログ https://plaza.rakuten.co.jp/canonboy2012/diary/202310140002/
- 観光モデルコース - ぐるり!丹波篠山 https://tourism.sasayama.jp/modelcourse/
- 街の史跡 城跡探索 兵庫県のお城 籾井城 https://tansaku.sakura.ne.jp/sp/tansaku_siro/sirodata/siro_hyougo/momii01.html
- 山中に置かれた大砲 日露で使用の閉塞石 丹波篠山と日露・日清 連載「坂の上の雲」の跡 https://tanba.jp/2025/01/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E3%81%AB%E7%BD%AE%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%A4%A7%E7%A0%B2%E3%80%80%E6%97%A5%E9%9C%B2%E3%81%A7%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%AE%E9%96%89%E5%A1%9E%E7%9F%B3%E3%80%80%E4%B8%B9%E6%B3%A2/